未遠川のほとりに三人はいた。桜の匂いをたどって川のほとりまで来たは良いものの、そこから先に進めずに居た。川の大量の水に匂いがかき消されて追跡が不能になったのだ。「……どうする。おい」 雁夜は、焦燥を押し殺し相棒に話しかける。「慌てるなマスター」 そうつぶやくバーサーカーは、なにかを待っているかのように佇んでいた。 全神経を集中させ、体毛を逆立てて。「凛ちゃん。その魔力針は?」「ダメです。そのサーヴァントにしか反応しません」 どうやら、最も近くにある強い魔力にのみ反応する仕組みであるらしい。 となると八方ふさがりだ。 向こう岸にわたり、河口から汲まなく匂いを探せば再度追跡することが可能かもしれないが、そんなことをしていたら時間がいくらあっても足りはしないだろう。「『慌てるな』って、何か探すあてがあるのか?」「あのガキが正気なら、多分な」 そうつぶやくと、バケモノは押し黙った。 なにかを待っているかのように。 腐敗した血臭のなか、雨生龍之介はただ一人佇んでいた。 屈辱と敗北感まみれながら。 自分は生と死の調律師のはずだ。 人間の人生を操り、弄び、愛し、そして深淵を覗き込むのが雨生龍之介のはずだ。 苦痛と悲鳴を上げる人間オルガン。それはこの自分の最高傑作になるはずだったのだ。 だというのに、この少女はただの一言も悲鳴をもらしてくれない。 生と死の悲劇を歌い上げる楽器のはずなのに、この少女は悲鳴をあげない。 苦痛のかさが足りないのではないかと、龍之介の知る限りありとあらゆる試行錯誤を繰り返したが、この少女は悲鳴をあげてくれないのだ。 とり出された腸管に貼りつけられたワイヤーが震えただけで、人間ならば失神は免れないほどの苦痛を感じるはずだ。 悲鳴を上げるどころか、眉一つ動かさない少女。最高傑作どころか、人間パラソルに続いての大失態である。苦悶の声を上げさせることによって、この少女は芸術作品になるはずだったのだ。 いや、それ以前の問題だ。 悲鳴とは、苦痛の開放だ。それさえできないのならば、この自分は死と生を司る司祭として落第だ。 しかし、これ以上あの少女を追い詰める方法を、雨生龍之介は知らなかった。 いや、それ以前に龍之介はこの少女と賭けをしていた。この少女をオルガンにすることが出来なかった以上、他の子どもたちは開放しなくてなならない。 捕らえた獲物を解放するなど、今までただの一度もなかった。豹が獲物を取り逃がすなど、沽券に関わる。 この少女を更に追い込むのは、自分では無理だ。 しかし待てよ? と思い当たる。たしかに龍之介ではダメだったが、青髭の旦那ならばどうだろうか。 この龍之介でも思いつきもしなかった、犯し方、殺し方をいくつも知っている。あの旦那ならば、桜という少女の悲鳴を引き出せるかも知れない。 闇色の空気が大きく揺らぐ。この工房の主の帰還を知らせていた。 燭台の横にゆっくりと照らしだされた矮躯の魔術師。「あ、おかえり。旦那、ちょっと相談があるんだけど……」 出迎える龍之介に、キャスターはすがりついた。刎頚の友にするように。「おおおお、龍之介っ。この世にはなんと痛ましいことがあるのでしょう! 麗しの聖処女は! あらゆる尊厳を奪われて、あらゆる陵辱を加えられ! それでもなお悲鳴を上げてくれない! わが聖処女が、なぜ私めを頼ってくれないのですかっ!」「旦那?」 カメレオンのような瞳から、大量の涙を溢れさせキャスターは嘆く。「死した後も、あの聖処女は、まだあのような辱めを…………オオオオオ、生前の過去を忘れ去り、ただ自分のことをセイバーと。あのような忌まわしい呪いを、ぜひとも解放して差し上げねばならない……。龍之介、それには貴方の協力が必要です! 力を貸していただけますか?」『青髭』は龍之介は師弟であると同時に、世界に二人といない友であった。 なにがなにやらわからないが、返答は決まってる。「うん。旦那、できることなら何でもやるよ。そういえばオレも旦那に聞きたいことがあってさ……」「なんですか、龍之介?」「ちょっとこの娘を見てくれない?」 血みどろのワイヤーが括り付けられた少女と鍵盤。誰の目から見ても瀕死の少女と、ガラクタの束にしか見えないが、キャスターは創作者の意匠を正確に汲みとった。「おお、オルガンが完成したのですね!」 気不味そうに龍之介は頭を掻く。「いや、そのはずなんだけど、さあ……」 鍵盤を血に濡れた指で弾く。鍵盤に括り付けられたワイヤーが腸へ縫いとめられた金属片へと振動を伝え、オルガンの素材になった人間に耐えがたい苦痛を与えるはずなのだ。しかし、桜はピクリとも反応しない。「こんな具合でさあ、旦那なら、このオルガンを調律できるんじゃないかな~なんて思ったりしたんだけど……」 事情を聞いたキャスターはニンマリと破顔する。「なるほどなるほど。ならばこうしてはどうでしょう」 キャスターは蜘蛛のような掌で、犠牲者となった家具の頭を砕く。 頭蓋骨の割れる音。飛び散る脳漿。「聞いたところ、貴女はここの子どもたちの身代わりになったとのこと。気高いですねえ。愛しの聖処女を思い出しますねぇ」 そうして、ねじりとった残骸の首を桜の前につきつける。「貴女が叫び声を挙げないと、ここにいる子どもたちを皆殺しにます。いかがですか?」 唐突なルール変更。 もしも、この少女が慈愛の精神で身代わりになったのならば、悲鳴をあげずにはいられないはずだ。キャスターと龍之介はそうふんだ。「さあ。恐れることはありませんよ。慈悲の精神をお見せなさい。気高さを捨て涙を流し、あなたの内にある嘆きを解放するのです。窮地に助けの手が来ることなどない、辱めを与えたものに怒りの声を、気高さを哀願に、尊さを卑しさに、希望を絶望に歪ませるのです!」 熱を込めたキャスターの演説。 期待に満ちた誘導。 しかし、桜の口から溢れでたものは「ふ…………ふ…………ふ…………ふふ……ふふふふふふふ」という嘲笑だった。 息も絶え絶えの声。 誰を笑っているのかはわからない。 いや、本当は解っている。 あるのだ。助かる方法はあるのだ。 しかし、それをする勇気がない。 もしも、“アレ”をやって助けが来なければ、こんどこそ自分は壊れてしまうだろう。 いまならばまだ、今ならばまだ耐えられるのだ。 あのオバケと物分りの悪いあの人はきっと来てくれるんだろう。でも万が一こなかったら、今度こそ自分は終わりだ。 それに、もうあの金色の髪留めを引く勇気はない。 怖かったからだ。あの髪留めを思い切り引っ張って、それでなにも怒らなかったら、そのときは完全に壊れてしまうだろう。 相変わらず意気地なしの臆病者だ。 そんな自分が滑稽で、桜は笑った。 本当は泣くべきなのだろう。しかし、泣き方を忘れてしまった。 どうやれば涙を流せるのか? どうしたら悲鳴をあげられるのか? そんな桜の様子をまじまじと見つめて、キャスターは何かしらひらめいたようだ。「なるほど。なかなか強情なお嬢さんのようですね。では、まず、この子から生贄になっていただきましょうか?」 そうすると、キャスターは無造作に少年を一人掴み上げると何やら呪文をつぶやいた。 周囲から極太のロープのような触手が、少年に殺到する。そして、万力のような力を込める。「お嬢さん。これから私が一〇数える間に、貴女が悲鳴を上げればこの少年は助かります。よろしいですね」 桜はみじろぎひとつしなかった、いや、出来なかった。 自分が悲鳴を上げればあの少年は助かるのだ。しかし、どうしたら、悲鳴を挙げられる? どうやれば、涙をながすことが出来るのだ? わからない。 こんな時にどうして自分は笑うことしかできないのだろうか? すすり泣きが聞こえた。「……りんちゃん、いやだよぉ。助けてよぉ……」 耳障りな声だった。 その声を聞くと、心の中に黒々とした汚泥が溜まっていくかのようだ。 暗い地下室の中で、桜の髪留めが金色に輝いていた。「苦しいときには誰も助けになんてこない」 そうつぶやく桜にバケモノが、「もし、なにかあったらそれを思い切り引っぱれ」 と、ぶっきらぼうにと桜に寄越したものだ。「他の弱っちい奴とワシは違うのよ。ワシは誰よりも強いからな」 そう誇らしげに言った。 あのオバケは、あの金色の糸を引っ張れば、ここに駆けつけるのだろう。物分りの悪いあの人も一緒に。 助けに来なかったあの人達とは違って、きっと来てくれるのだろう。 しかし、もしかしたらこないかも知れない。99.99999……%いや、もしかしたらそれ以上の可能性で助けに来てくれるのだろう。しかし、こない可能性が0ではない。だから桜は金色の紐を引くことが出来なかった。 もし、もう一度助けを呼んで、あの物分りの悪いおじさんと金色のオバケがこなかったら、自分はこんどこそ壊れてしまうだろう。 それだけではない。あのコトネという少女は、桜が壊れたら凛の名前を呼ぶだろう。 嫌だ。あの人の名前をよばれるのは嫌だ。 そう思うと、桜の中に衝動が生まれた。 胃の中に、心臓の中に、精神の奥底に沈殿していた 異変はそれだけではない。 ゆっくりと、しかし間違いなく、桜は変貌していった。艷やかだった黒髪が、灰色から純白へ、純白の肌は昏く闇色に。まるで、漆黒のドレスを纏ったかのような。「……旦那ぁ? これって」 それは異変だった。生贄だと感じていた生き物が、突然危険な毒液をまき散らしたかのような。 だれが知るであろうか。間桐桜の希少な架空元素という属性が、苦痛により発現したなど。 ゆっくりとしかし確実にこの貯水槽に、影が広がり、すべてを覆い尽くそうとしていたなど誰が知り得ようか。 闇色の影がゆっくりと広がり、龍之介の創りだした、家具、衣類、楽器、食器、絵画を飲み込む。「……ああ、なんだよぉ、これは!? ヒデエッ……ッ! なんなんだよこれェっ!」 心血を注いだ“アート”が、桜から広がった沼に引きこまれて、同情を誘うような悲鳴を上げる。 広がる影の中心。 その中心で、桜は酸素の足りない水槽で口を動かす金魚のように何かしらつぶやいていた。 誰にも聞き取れない声で。「…………」 本当はただ、一言「助けて」とつぶやけば良いはずなのに。 金色の髪留めが、影に触れて燃え尽きる。まるで、紙切れが炎に触れたかのように。 体毛を逆立てていたバケモノが、ビクリっと反応した。「……くっ」 喉の奥から閊えているものを押し出すような声だ。「………くっ……くっ……く………………くっ……く……」 バーサーカーは向こう岸の一点を注視していた。 貯水槽のから注ぎ出された排水口。「くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく」 バーサーカーの体毛が雁夜と凛に巻き付く。しっかりと、離さないように。「おいっ! バーサーカー! 桜ちゃんが、どこにいるのか判ったのか?」 下僕は言葉ではなく行動で応えた。「くぁははははははははははははははははははははははは」 有無も言わさずに、バケモノの躰が浮く。 雷をまき散らしながら、最高速で、一直線で、ただひたすらに。 橋を飛び越え、向こう岸へと一瞬で渡り、下水管の中にひしめく水性の怪魔を、蹴散らし、焼き尽くし、引きちぎり、殺しつくしながら。 あの少女の元へと一瞬でも早く辿り着くために。