むき出しのコンクリートの床にへばりついた血が、ヘドロのように酸腐な臭気を放つようになって、もうどれほど経つのだろうか? 蝋燭のオレンジの灯りが、ぼんやりと周囲の惨状を照らしている。 この小さな暗い世界には二人の絶対的な支配者しか居ない。 あの龍之介という、優美な男の指が、この貯水槽に集められた子どもたちの臓物を抉り出すというだけの簡単なルール。あのカメレオンのような眼で水晶玉を眺め歓喜の声を上げて抜け出した男には、誰も逆らうことが出来ないという簡単な決まりだ。 そんな薄暗い闇の中、蛇が溜息を漏らすような呼吸音が、シュルシュルと子どもたちを取り囲んでいる。「…………ひぃっ…………うぃっく……」 消え入りそうなすすり泣き。 泣きつかれて眠っている者。疲れ果てて声を上げることさえあきらめている者。 そんな子ども達の中で、まだ泣き声をあげているのは、コトネだけだった。 なんと愚かな少女なのだろうかと桜は歯噛みする。 鈴の音を転がすような、柔らかい声。その手の趣味の男ならばいても立ってもいられなくなるだろう。 以前に比べては小さな声だが、それでもあの男に、目をつけられるには十分だった。「ねえ、君。とっても可愛い声だねぇ? 名前なんていうの?」 一昔前の映画にでも出てきそうな軟派男のように軽薄な口ぶりで、龍之介はコトネに話しかける。「ひぃっ」 龍之介の慈悲に満ちた笑顔に、コトネは弱々しい悲鳴で応えた。 いわぬことではない。 なぜ泣くのだろうか? 涙を流しても無駄なのに。 ただ、声を殺し自分の番が来るまで待っていれば、その間だけは安全なのだ。 それだけの話だというのに、なぜ、この子はそのことに気がつかないのだろうか。 思えば、あの物分りの悪い人もそうだ。わざわざ自分を助けるためでもなく、ただ一緒に苦しむためだけに戻ってきた。 なぜ、こんなにもこの人たちは、愚かなのだろう?「ねえ、名前教えてよ。なんていうの?」 爬虫類のような視線を向けて、龍之介は続ける。「コトネちゃん? へえ。可愛い名前だねえ。うん、君に似合ってる。ところでさあ、コトネちゃん。キミ、オルガンになってみない?」「お、オルガン?」 その龍之介の言葉と同時に、周囲の物体が軋みを上げた。 椅子が、机が、絵画が、一斉に鳴り出した。 それら全てが怨嗟に満ちた悲鳴を、新たな犠牲者を嘲笑う嘲笑を響かせる。「もう止めてくれ」「これいじょうの犠牲者を出さないでくれ」「お前たちもすぐにこうなるんだ」「もっと苦しめばいい」「殺してくれ」 小さな、それでいて怨嗟に満ちた声だ。あの男が作り出した、犠牲者たちが上げる悲鳴。早く殺してくれ、苦痛から開放してくれという哀願。 それらがもはや言葉にならず、呻きの不協和音となって貯水層を満たしていた。 次に訪れる犠牲者に、早く殺してくれと、あの男たちの目を盗んで、自分たちに安息を与えてくれと。 コトネは理解した。周囲にあった物体が、もともとは自分たちと同じ人間で、今もって生きている、否、無理やり生かされているということを。 その事実がコトネの精神の精神の許容量を超えた。 龍之介の手から逃れようとして、血まみれの床にのたうちまわる。 それだけならば、桜は押し黙っていただろう。 しかし、どうしても桜にとって許容しがたい名前を、コトネは呼んだ。「いや……りんちゃん……りんちゃん」 耳障りな名前だった。その名前を呼んだところで、その人は絶対に助けに来ない。来たのは、あの物分りの悪い人だけだった。 本当に苦しいときに援軍など来ない。わかりきった事だ。「大丈夫、キミはオルガンになるんだよ。死ぬのがこわいんだったら大丈夫。むしろ死ねないってところが肝心だったりするんだけれど」 そうして龍之介の顔にサディズム的な表情が宿る。「まず、君のお腹にねナイフを当てて、腸を取り出すんだ。そして、それをピアノ線で鍵盤とつないでそれで完成。簡単でしょ? でもさあ、これだと、君みたいな女の子はすぐ、感染症とか、出血とかですぐ死んじゃうんだよね。だから、死なないように、治癒再生魔術が……って言っても判らないか。大丈夫。死ぬのはこわくないってこと」 恐らく龍之介の言っていることの半分も理解できていないだろうが、それでも、コトネは悲鳴を上げた。もう、声も枯れ果てたような、それでいて可愛らしい声で。「……りんちゃん……りんちゃん。こわい、やだ、いやだよ……」 この少女も、もう理解しているのだろう。 助けなど来ないことを。だから、泣く声がこんなにも儚くなるのだ。それでも泣くことを止めようとしない。神経に障る。一体なにが怖いというのだ?「でもさあ、最近はそれも悩みどころじゃない? ほら、ここ貯水槽だから、腐らないで生きてるうちに、蟲とかネズミとかがわらわら湧いてきちゃうんだ。でも大丈夫。ほらぁ、色々防虫グッズを買い込んできたから。キミは安心してオルガンになってよ」 なんのことはない。 底の割れた手品だ。 あれはただ、コトネを事が始まる前に脅かして喜んでいるだけだ。 心底くだらない。 この男はその程度だ。 あのトカゲのような眼をした怪物はともかく、この男はおじいさまとは比べ物にならない。 もう、ここが限界だった。堪えきれない。 あふれ出てくるものが止められない。「…………ふ…………ふ…………ふふ……ふふふふふふふ」 桜は笑った。 笑った。 おかしくて、おかしくて。 淫靡に、嘲笑を込めて。「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」 下品に。涎を垂らして、転げまわった。 もしも普通の人間がこの桜の狂態を見たら、拷問への恐怖でおかしくなったとの観想しか抱けなかったろう。「え? え? キミ、どうしたの?」 しかし、龍之介の見立ては違った。この少女はその程度の恐怖でおかしくなるような少女ではない。 しかし、桜は問いに答えず笑った。おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしくて、おかしくて。「えっと? もしかして、俺バカにされてる? なにかおかしいこと言ったかな?」 龍之介は困惑していた。正体を明かす前ならばいざ知らず、獲物にこんな風に嘲笑われたことは無い。 そんな龍之介を尻目に桜は呼吸を整えて言葉をつむぐ。「あなた、私の悲鳴が聞きたいですか?」 それは挑発だった。 なぜ、そんなことを言い出したのか桜にも判らなかった。 こんなことを口にしてもいいことなど一つもない。 むしろこの男の機嫌を損ねるだけだ。 だが止まらない。この口は一体どうしてしまったのだろうか? 龍之介は戸惑ったような声で、「え、と。キミ。名前はなんていうの?」「間桐桜」「あ、あ。桜ちゃんていうの。良い名前だね」「私の悲鳴が聞きたいですか?」 龍之介にとってもこれは初めての経験だった。獲物が豹である龍之介の前に立っておびえずに質問してくるなど、想定外だ。この獲物は極上品だとは思っていたが、このような対応をしてくるとは予想の範疇をあまりにも超えていた。「え、えと。どういう意味? よく分からないや」「聞きたくないのなら帰ります。さようなら」 そうして何事もなかったかのように、桜は踵を返し、貯水槽の出口へと向かう。 当然、キャスターの工房から、子どもが無傷で出ることなど出来る訳が無い。数えるのもバカらしいほどの大量の海魔が、出口までの通路をふさいでいるのだ。 もしもバカ正直に自分の足で帰ろうものならば、あの有象無象がこの少女を引き裂いて捕食してしまうだろう。 それはあまりにも惜しい。「へ、え? ちょっと待ってよ。そんなの無いよ。お楽しみはこれからじゃない?」 細い青白い指が桜の手のひらを掴む。 この少女は間違いない。自分の最高傑作になるものだと龍之介は確信していた。 誰よりも愛情を込めて殺すはずだったのに。 こんな簡単に手放すつもりなど微塵も無かった。「なら、私の悲鳴が聞きたいんですか?」「うん、マジで聞きたい。超ーっ聞きたい!」 そう引き止める龍之介を、にべもなく桜は拒絶した。「無理です。貴方ではわたしに悲鳴を上げさせるのは」 桜は妖艶な微笑を浮かべて、答える。「ふぇ? え? どういうこと?」 わからない。龍之介には、この少女が何を言っているのかは理解できなかった。「本当のことを言ったまでです。この娘を泣かせることはできても、貴方はわたしの悲鳴を上げさせることはできません」 この少女は最高の素材だ。滅多なことで手に入る素材ではない。一期一会、もう二度と出会えないかもしれないほどの逸材だとはわかっていた。だからこそ龍之介は、この少女を“作品”にするのは最後と決めていた。 もしも、この桜という少女を作品にしてしまえば、他の子どもたちでは満足できなくなるかもしれない。それほどにこの少女は魅力的だった。ガラスのような感情の無い瞳が、苦痛の色をたたえるのを想像しただけで、この礼儀正しくて挑戦的な物言いが、悲鳴と哀願に染められるのを夢想しただけで、背筋が音を立てるほどの快感が走り抜ける。 何ゆえこの少女がこうも自分を挑発するのか? 龍之介は周囲を見回し、そして一つの結論を出した。「まさか……きみ? このコトネちゃんのことかばってるの?」 おびえるコトネという少女、その前に立ちはだかる桜。 自分が犠牲になれば、その分コトネの番が来るのは遅くなる。おびえる友人の代わりにその身を差し出そうとする行為。そんなものは陳腐な物語の中にしかないと思っていたのだが、それがまさかこんな形でお目にかかれるとは夢にも思っていなかった。 龍之介は、桜の返答が無いのを肯定と解釈した。「ズゲエ!! やっぱ、そうなんだ。スゲェ。スゲエよ。マジですげえ。惚れちゃいそうだ。旦那の聖処女ってのもこんな感じだったのかなっ!? うん、うん。わかってる。マジでわかってるよ。ああ、そうだよ。これだよ。今なら俺、人類愛だって信じられちゃうかもっ!!」 そう言うや否や龍之介は、背骨を仰け反らせると哄笑を上げた。 歓喜だ。自由自在に自分の思うままに、全てをぶつけていい素材を見つけたのだ。 我、見出したり!! この少女が苦痛に耐えかねて、悲鳴をあげ、かばおうとしていた少女に呪詛を撒き散らし、自分の足元にすがりつく光景を思い浮かべただけで至福の感情が止まらない。 だがそれには、もう一押し必要だ。「ねえ、桜ちゃん。俺と賭けをしないかい?」「賭け?」「そう、ギャンブル。キミのその心意気に免じて。俺がキミをオルガンに出来たら俺の勝ち。その子達はここで俺の作品になる。代わりに俺がキミをオルガンに出来なかったら俺の負け。その子達は家に帰してあげる。それでどう? この勝負受ける?」 勝負ですらない。 どんな精神力の人間であっても、この龍之介の手に掛かれば、うめき声や悲鳴を上げないで済むはずがない。 これは、桜の無表情を取り去るための儀式の第一段階だった。「そうしたいのなら、そうすればいいです」 しかし、龍之介の期待とは裏腹に、桜の表情は変わらない。 まるで、そんなことは心底どうでもいいかのように。 この時点で龍之介は間桐桜という少女の本質を、決定的に読み間違えていた。 黒い服を脱がされた桜の幼い肌に、龍之介の優美で白い指が触れる。恐ろしく決めの細やかな肌だ。その手の先にある小さな貝殻のような小指の爪をペンチで、無造作に引き剥がした。大人であっても、痛みに耐えかね悶絶してもおかしくないその行為に、桜は眉一つ動かさなかった。 脈絡の無い体の一部の欠損。しかし、この獲物はその程度の苦痛では悲鳴やうめき声を上げることはなかった。そうでなくてはいけない。 美酒の瓶の蓋が簡単に開いては興ざめというものだ。 龍之介はすぐに次の作業に取り掛かる。薬指、中指、人差し指、親指と予告なく爪を剥がしていく。 右手が済んだら左手、その次は左足、そして右足。 通常の人間ならば、泣き叫び、身悶えて気絶してもおかしくない。 すぐに泣き出すと高をくくっていていたわけではないが、ここまで我慢強い素材だとは龍之介は思いもよらなかった。 全ての手足の爪が龍之介によって剥がされても、桜は眉一つ動かさなかった。 肌にはじっとりと脂汗が浮かび、涙腺はもうすでに決壊し大量の涙を流しているというのに、肝心の悲鳴をあげてはくれない。 よく研磨された冷たいナイフが、桜の腸を傷つけないように滑り込んだときも、桜はうめき声を上げなかった。 人間の身体には限界がある。どんな対拷問訓練を受けている人間であったとしても、これほどの耐久性と精神力を持っていることなどありえない。しかも十歳にも届かない少女が自分の拷問にここまで耐えるなど、とてもではないが信じられるものではない。 しかし、それでこそ、この少女の精神の均衡が破れて、悲鳴をあげ、自分の足元にすがり付いて許しを請う様を想像するだけで文字通り心が躍る。 周囲の子どもの救い主が、汚泥にまみれ、落胆の眼差しに貶められるのを、想像しただけで、絶頂に導かれるかのようだ。 酒瓶の蓋が強固であればあるほどに、その中の美酒の味へと思いが募る。 どんな声でこの少女は泣くのだろうか? 甲高いガラスをこすり合わせたような声だろうか? それとも、しゅうしゅうと息を漏らすような鳴き声だろうか? そのときを夢見ながら龍之介は、腹の中から、ぬらりぬらりと光る腸管を抜き出し、机に金属片で縫いとめる。 青髭の魔術により、痛みを麻痺させる脳内物質は遮断されている。 この少女の強靭な精神力も遠からず陥落するはずなのだ。 ゆっくりとそのときを待てばよい。 だというのに、ピアノ線が内臓に括り付けられ鍵盤に縫いとめられても、 最後の最後、調律するために鍵盤を金属片ではじいても、少女は呪詛どころか悲鳴一つ上げなかった。「……なんだよ? これ?」 背中がじっとりと濡れている。 龍之介は自分が作品にした相手が何者なのか理解できなくなっていた。 間違いない。 この目の前にいる少女はただ、嬲られているだけだ。 だというのに、なぜ、自分が畏怖しなくてはならないのか? 自分の拷問に耐えるなど、あってはならないことなのだ。 解らない。 この少女は、龍之介の理解を超えていた。「ウソだろ?」 なぜ、この少女を壊せない? どんなに強固なものであったとしても、形が有る限りそれは壊れるのだ。 それが摂理であり、掟だ。 ましてや自分は、人間の精神の壊し方の専門家だ。 死の司祭。殺戮の芸術家なのだ。 だというのになぜ、この十に満たない少女を壊すことが出来ないのだ? 龍之介には理解できるはずなど無い。 この少女がもうすでに、誰かの作品として、龍之介が行う以上の責め苦に耐え抜いてきたことなど。 間桐桜という少女が何ゆえに、龍之介を挑発したのかなど解るはずがない。 この少女は、怯えていた。 自分が悲鳴を上げることで、あのコトネという少女が、あの人の名前を呼ぶことを。 憎んでいた。 自分の身さえも護れない弱虫たちを。 恨んでいた。 何度、助けを呼んで泣き叫んでも救出に来てくれなかった人々を。 しかし、それ以上に。本人も全く気づいていないが。 間桐桜は、ぐつぐつと煮えくり返るほどに、小さな体が黒く染まるほどに。理不尽な仕打ちと、この世界に、心の底から怒っていたのだから。 遅れてすみません。次回は来週中に上げます……たぶんorz