――またいつもの夢だった。 いつまで続くとも知れないかりそめの平和だった。 所詮は小国である。 自分がいかに強いとはいえ、 大国の一撫でで蹂躙されてしまうことを知っていた。 自分がいかに強いとはいえ、 それだけでは戦に勝てないということを知っていた。 明日には崩れ去るやも知れない束の間の平穏だった。 そんな中、自分を恐れていない姉弟と共に過ごす時間が増えた。 なぜ、この姉弟と共に居るのかは解らない。 確たる理由などないのだろう。 ただ一つだけ解る事がある。 この姉弟と共にいると、右肩が疼かない。 誰にでも疼くはずの右肩が疼かない。 そんな日々の出来事だった。 芋の入った粗末な汁を振る舞われた。 美味くはなかった。 ただ温かいだけで、決して美味くはなかった。 黙って汁を食う自分を見て、 黙って器を空にする自分を見て、 姉弟が安心するように笑っていた。 芋と野菜を煮ただけの、顔が映るほど薄い汁に 自分によく似た顔の男が映っていた。 口元の端が持ちあがった、自分によく似た顔の男が映っていた。 自分は決してこんな顔をしないのだ。出来る筈が無いのだ。 汁に映った男の顔は、 微かに笑っていたのだから。 まるで、地を這う芋虫だった。 使い魔からの映像を受信するというだけで、全身の刻印虫が励起し雁夜のなけなしの体力を食い荒した。ただそれだけで、朝日が昇るまで満足に動くことが出来なかった。 いまだに下腹部から胸部にかけて極度の不快感と吐き気が澱のようにたゆたっている。 自嘲の笑みが浮かんでくる。 こんな体たらくであの誰よりも魔術師らしい男の前に立つのは、自殺行為以外の何物でもない。 いや考えてみるならば、自分は一年前のあの日から緩やかな自殺という選択をしたのだろう。 全身を覆う黒装束から察するに、文字通り消滅したのは恐らくは山の翁、アサシンのクラスであろう。 いかに戦闘能力ではキャスターと並ぶ最弱のクラスとはいえ、世界に記録されている英雄が、一矢報いることもなく抵抗する意思さえ見せることなく文字通り消失したのだ。 遠坂のサーヴァントの恐るべき攻撃を、使い魔の数百の複眼はその全てを正確に主へと伝えた。一片の幻想や楽観も雁夜に抱かせることを許さないかのように。 飛来する無数の刃。まるで有象無象の様に使い捨てられるその全てが、サーヴァントにとっては虎の子である宝具級の破壊力を持ち、覇を競うようにアサシンへと殺到したのだ。 使い魔の虫が捉えたのはそれだけではない。 金色のサーヴァントの神々しい威容をも余すことなく伝えた。 絢爛たる黄金の甲冑。魔性を思わせるほどに整った美貌。そして、万物を威圧する爛々とした紅眼。 完璧という名を冠するにふさわしい魔術師が召喚した、完璧のサーヴァント。 雁夜は吐き気の正体に気がついた。 自分と黒い影、アサシンを無意識のうちに重ねていたのだ。 胸のうちに滾るものが無かった訳ではない。夢の中での自分のように、疼くような甘い憎しみが、胃袋の辺りから溢れ出すのを雁夜は感じていた。 しかし、それ以上に狼狽が勝った。 己が偶然召喚した規格外のバーサーカーをもってしても、あの金色には及ばないのではないかという疑念がふつふつと湧いてくる。 もしも、仮にあのサーヴァントと相対したとして、いったいどんな戦術が有効だというのだろうか。ひょっとしたら、一瞬であの黒い影のように処刑されてしまうのではないか。雁夜の理解を遥かに超越したバケモノと、一体どうやって刃を交えれば良いというのだろうか? 煩悶と思い悩む主人を余所に、「おーおー、あさしんがくたばったか。これで辛気くせー屋敷ともおさらばだ」 などと、雁夜のサーヴァントはのたまっていた。 今すぐ外へと打って出ようとする気満々である。 雁夜が時臣のサーヴァントの脅威を解説しても、「けぇ、数が多いだけのほうぐがワシに効くかよっ。ワシを滅ぼしたかったら、あのクソ槍よりも強力なほうぐ持って来いってんだ。ぐわはははははははははははははははは」 などと訳のわからないこと絶叫し、大笑いしながら、いつものようにTVの前に陣取って、もちゃもちゃとハンバーガーを食い漁っている。 ポイ捨てされている包装紙で、よく家が占拠されないものだと雁夜は不思議に感じていたのだが、兄の鶴野が泣きながら黒いごみ袋にせっせと喰いカスともども放り込んでいる光景をみて疑問は氷解した。 バーサーカーを召喚してから、鶴野は、胃袋の辺りをしきりに押さえている。聖杯戦争が終結する頃には、胃壁が破れ穿孔しているかもしれない。 数日前までは臓硯の走狗として働いていた男である。雁夜自身、殺してやりたいと感じたことが無いわけではないが、この体たらくを眺めていると、憎しみを向けることがなぜだか哀れに感じられる。 いや、兄弟ともども、くたばりかかって半死半生の有様ゆえに、妙な親近感が湧いてくる。「……」 鶴野は憔悴しきった顔で雁夜のほうを向いていたが、助けを求めないのは兄として生まれ落ちた最後のプライドなのだろう。 鶴野を半死人へと追い込んだバケモノは、ここ数日の間の鬱憤を晴らそうと今にも飛び出しそうな勢いである。昨日は苛立つ自分をなだめていたが、やはり膠着状態などこのサーヴァントには似合わない。 呆れかえった声が喉から漏れる。「……バーサーカー。おまえはやる気無かったんじゃないのか?」 バケモノは“フン”と大きく鼻を鳴らし、「こんな蟲くさい所にいたら、せっかくの食欲が失せちまうわっ。外の空気吸ってせーはい戦争にでも参加してた方がなんぼかましだ」 などと、このバケモノのことを知っている人間が聞いたら、つい反射的に。――嘘つけっこの野郎!! と叫んでしまうだろうことをほざいている。特にもちゃもちゃとハンバーガーを食い漁っている今の有様を見せつけられては、何一つ説得力が無い。 雁夜がそう絶叫しなかったのは、忍耐の賜物でも声を出せないほどに呆れかえってしまったわけでもなく、ただ単に、叫ぼうとした瞬間に気管に唾液がダイレクトに混入し、盛大にむせてしまったからである。「ぐげぐほがはっ、ぐはぁごほっげぼつっごはっ……」「ますたー……。おめぇ、ホントに大丈夫かよ……」 げほげほと咳き込みながらも、「うっ、ごほ、うるさ……い。俺の心配よりも……げほっ……じぶん……の……」 なんとか精一杯の虚勢を張る。 雁夜にとっても打って出ることに異論はない。 最初に脱落してくれたのがアサシンであったのはこれ以上ないというほどの僥倖である。 この強力なバーサーカーのアキレス腱は、業腹ではあるが紛れもなく自分なのだ。 このバケモノの驚異的なステータスを“視た”マスターならば、正攻法での戦いを挑んでくることはないだろう。サーヴァントではなく、雁夜を標的にしてくるのは当然の策である。 気配遮断スキルによる暗殺こそ、最弱のマスターたる雁夜が最も警戒する要素であった。 それが無くなった以上、穴だらけの本拠地で籠城を決め込むのは臆病が過ぎるだろう。 恐怖はある。なにがなんでも聖杯を獲得しなくてはならないというのならば、待ちの一手も確かに有効だろう。 しかし最悪の場合、雁夜ではなく時臣が脱落する可能性さえあるのだ。そうなれば、永久にあの男と決着をつける機会を失ってしまう。思慕にも似た想いが脳髄を駆け巡る。あの男の咽喉元を食いちぎるのはこの自分なのだ。他の誰にも、あの男の首をくれてやるつもりなどなかった。 居間のブラウン管は、相も変わらず冬木の物騒な有様を報道している。 猟奇殺人の次は、連続児童失踪事件である。 営利目的と判断された誘拐事件の場合、報道協定が敷かれ犯人逮捕、あるいは公開捜査になるまでその存在は一般に秘匿されるはずである。 それが、24時間以内に起きた失踪事件までTVのニュースとして放送されていることが、この事件の異様な事態を裏付けていた。現在冬木で起きているのは10人単位の誘拐事件、しかも身代金の要求などは一切ない。誘拐場所は新都、深山町を問わず冬木市全域。 その報道を見るたびに、ぐつぐつと煮えたぎるものが溢れてくる。 寝息を立てている桜を起こして簡単な別れを言おうとしたが、雁夜はすんでのところで思いとどまった。『ちょっと出かけてくる。すぐに戻ってくるからね』 そんな他愛もない約束さえ、口にすることがはばかられた。 臓硯が生きていた頃ならばいざ知らず、今の自分がそんなことをしたら心の内にある決意から闘志まで全てが木端微塵に吹き飛んでしまいそうな予感がした。 この命は桜と葵のために使い捨てる覚悟があった。だというのに、臓硯の居ない数日を経験しただけで、その鋼鉄よりも硬いはずの意志は信じられないほどに柔らかく、揺らぎ始めていた。 できることならば、桜の未来を見てみたい。全身を巣食う蟲どもを引きずり出して、いかなる手段を用いても生き永らえたい。 そばに居られなくてもいい。一年前までのように、時々遠くから、幸せそうな家族を眺めているだけでもいい。最悪の想像ではあるが、その中にあの男がいたとしてもいいかもしれない。葵を、凛を、桜を幸せにしてくれるというのならば、ギリギリ許容の範囲内に引っ掛かる。 未練である。 希望であり、願望でもあり、欲望でもあるものだ。 しかし、現在ではもう実現不可能な絵空事だ。 甘く柔らかく、そして埒の明かない妄想を振り払い、兄の鶴野に桜のことを重ねて頼み、雁夜は屋敷の外へ出る。 左半分の顔は、依然として麻痺したままだった。 しかし、もう半分は刃のような顔になっていた。 充血した恐い恐い眼をして、遥か向こうを睨んでいた。 街中の視線がその二人へと注がれていた。 奇異である二人の出で立ちを見咎めるというよりは、その二人の創り出した非日常と浮世離れに、寒ささえ忘れてしまったかのように、ぼうっと酔いしれている羨望の眼差しが大半ではあるが。 一人は輝く銀髪にカシミアのコート。赤い瞳と新雪のような肌。その女性の洗練された所作は貴婦人のようで、踊るような足取りは年端もいかない少女のようだった。現在はこの冬木の夜景を視界に収め、街の灯り以上にその瞳を輝かせている。 もう一人は、身長一五〇センチのダークスーツである。月を思わせる金髪に、凛とした緑翠の瞳。美少年とも美少女ともとれる中性的な顔立ちではあるが、スーツの上から表れているわずかな起伏や丸みが、女性であることを慎ましやかに告げていた。 周囲を抜かりなく警戒するような立ち振る舞いが、まるで護衛の責務を任された年若い騎士のようで、さらなる非日常の空気を演出していた。 貴婦人は、肘を預けている少女に全幅の信頼を預けていることが見て取れる。某国の姫君がお忍びで冬木に立ち寄り、年端のいかないボディガードが精一杯のお供をしていると説明されたのならば、さもありなんと納得してしまいそうな光景であった。 ひとしきり夜景を眺めて満足したのか、アイリスフィールが供周りの少女に声をかける。「……ねえセイバー、次は海を見に行かない?」 アイリスフィールの絹糸のような銀髪が、北側からの潮風に弄られ天の川のように巻き上がる。 海が好きかと問われて剣の英霊は、ほんの少しだけ言葉に詰まった。 セイバーの記憶では、海は敵の押し寄せてくる場であり羨望の場所ではない。 ただ、マスターの奥方が無邪気に喜んでいてくれるのを見ていると、そんなこと些事なように感じられた。 感じられたのだが。 セイバーが愛しているはずの夫のことに話題を変えると、弾んでいたはずの声色が不思議と沈んでいくのだ。 天真爛漫なアイリスフィールが夫のことを語るたびに、輝く表情が物憂げな色に染まる。――幸福であることに苦痛を感じる。 その言葉を反芻するようにセイバーは噛み締めた。「――己が幸福に値しない人間である、と、そう言う引け目を負っているのですか?」 否定してほしいと考えて放った一言だった。「――考えすぎよ、セイバー」 そうあっけらかんと否定して欲しかった。この奥方の伴侶がそんな矛盾を抱えた男であって欲しくはなかった。自分の有り様を、口を利かないという方法で否定する稚気を持っていたとしても。 しかし、遠い目のアイリスフィールの唇から放たれたのは、「そうかも知れない。あの人はいつも自分の中で自分自身を罰している」 聞きたくなかった肯定の声。 物憂げな表情をして夫に想いを馳せる姫君を、なんとか慰めようと言葉を紡ごうとするセイバーの背中が粟立つ。 異変を感じたアイリスフィールが声をかける。「……敵のサーヴァント?」「はい」 身構えるセイバーを落ち着いた眼差しで見つめ「前と同じ相手?」「いいえ、昼間の相手はこちらと事を構えるつもりは無いようでした。もっとも、サーヴァントは仕掛ける気満々でしたが」 セイバーの気配を意識しつつ誘うように移動している。 昼間の相手は、お互いが気配を察知した瞬間、凄まじい闘気を発散しこちらに近付いて来た。 白昼の街中で事を構えるなど魔術師の常識に照らせば言語道断であるが、仕掛けられた以上は応戦せねばならない。 そうセイバーが覚悟を決めた瞬間に、その気配が煙のように消えてしまったのだ。 それ以降はどんなに警戒しても、仕掛けられる予兆さえなかったので、肩透かしを感じながらも街中の散策を続けていたのだが……。 彼女は知る由もなかった。 セイバーの気配を察知したバケモノが、制止するマスターの声を無視し、挨拶がわりにケンカを吹っかけようとしたのだ。 姿を消したまま近づいている途中、急発進した自動車に跳ね飛ばされ、周囲の人間にその異形が暴かれてしまい、「なにやってんだっ。バーサーカーっ!! いいから姿消せっ!! 姿っ!!」 とマスターが半泣きで絶叫したことが、昼間の一件の顛末などと、彼女は知る由もなかった。後書き。大変申し訳ございません。遅れまくって、大変申し訳ございません。うう、わたしはウソツキデス。もう少し早く上げるようにしますので、平にご容赦ください。