――間桐雁夜は夢を見ていた。 灼熱の炎の海で、雁夜はこぼれ落ちたナニカを必死に掻き集めていた。 岩のようにごつごつとした大きな手のひらで、 金貨の入った袋をばら撒いた商人が、一心不乱に掻き集めるように。 世話人が、貴人の肌に触れるときのように繊細に。 大声で悲鳴を上げていた。 痛みに耐えきれぬ子供のように泣いていた。 憎かった。 憎み切れるものではなかった。 苦しかった。 背中に突き刺さった無数の矢よりも、 白い獣に抉り取られた右肩よりもずっと苦しかった。 許せるものではなかった。 許されるはずもなかった。 ――すべてが灰燼と帰していた。 あの魔人、間桐臓硯が作り出した蟲毒の壺が、である。 間桐雁夜は、幾度この蟲蔵の闇で悶絶し、生死をさまよったか解らない。悲鳴を上げた回数など数えるのも馬鹿馬鹿しいほどだ。 そして、この瞬間も、眼の前のナニカを呼び出すのに使用した魔力のせいで、死に瀕している。 雁夜にとって蟲蔵は、臓硯の恐ろしさ、苦痛、近いうちに訪れる自身の死の象徴であった。 その間桐の魔の象徴が、燃え盛る間も無く自身の召還したナニカに、灰にされたのだ。 そのナニカは召喚されたとほぼ同時に、蟲蔵に凄まじい破壊をもたらした。数十万の虫たちの這いずりまわる音も、忌わしいキィキィとした鳴き声も、間桐に染みついた腐肉の耐えがたい臭気も、今は存在しない。いま、この地下室にいるのは、はいつくばった雁夜と、召喚を見物していた臓硯、召喚されたナニカの三つだけである。 体長は四mほどであろうか、全身は炎のような金色の体毛におおわれ、頭からはひときわ長い毛が、女性の頭髪のように熱気に揺れている。顔には黒い縁取りがある。猫科の猛獣を連想させる筋肉を、稲妻の光が覆う。 それは英霊などではなく、間違いなくただのバケモノだ。 その燃え盛る金色がかったバケモノは、倒れ伏す雁夜をひょいと持ち上げ、人語を口にした。「人間か?」 雁夜の乾ききった喉から出るのは、肯定でも否定なく、ただかすれた呼吸音だった。「いちおう聞いておいてやる。おめえが、わしのますたーか?」 問われた雁夜の右の眼球には、意識の光りはなかった。 召喚に消費した魔力があまりに膨大であったため、全身の刻印虫がなけなしの生命力を食い荒らしている真っ最中なのだ。「答えねぇと喰うぞ、コラ。この虫食いやろう」 そういってバケモノは、気絶した雁夜の頭をぶんぶんと振り回す。 気絶している雁夜と金色のバケモノを尻目に、臓硯は興奮に震える自分に気がついた。自分の工房を完全に破壊したバケモノに見覚えがあったからだ。いや、見覚えがあるどころの話ではない。“雁夜の奴め。出来損ないの分際で、とんでもない当りを引きおったっ” 臓硯にとって、今回の聖杯戦争は単なる余興であった。刻印虫の魔力生成の苦痛にのたうつ雁夜を見物し、どこぞのマスターかサーヴァントに殺される雁夜を見物し、間桐桜を救えぬことに絶望する雁夜を見物するだけの余興だ。 雁夜が聖杯戦争を勝ち抜く可能性など、万が一にもない――はずであった。 雁夜のサーヴァントの召喚など、次の聖杯戦争のために用意した英霊召喚の触媒の性能を確かめる実験にすぎなかった。 触媒に使ったのは、最強の霊槍に巻きつけられた赤い布の切れ端である。中国のとある機関から、臓硯が手練手管をもちいて入手したものだ。 さまざまな使い手を渡ってきた伝説の槍。その使い手の中で、雁夜ごときが引き当てられるのは、槍の使い手でも大した事のない小物のはずであった。 しかし、雁夜が引き当てたサーヴァントは望外の切り札であった。 この日本という国で、しかも数年前に、妖怪と人間を束ねて日本という国を救った英雄の片割れである。実戦派の仏門の資料には、二千年以上の寿命を誇る大妖怪と記されている。神話の世界、伝説より数多の国々を滅ぼした、あの大妖を滅殺した霊槍の使い手の相棒である。テレビ放送や新聞の紙面といった近代のメディアにさえその姿が上がった。秘匿されるべき神秘の具現でありながら、現代の世において多くの人間がその姿を目撃しているのである。受けられる地形効果は莫大なものとなるはずだ。まぎれもなく千載一遇のチャンスであった。“とてもではないが、雁夜のような愚物に任せておいてよいサーヴァントではないわ” 臓硯にとって、蟲蔵のひとつやふたつ破壊されたことなど大したことではなくなっていた。それほどまでに、雁夜が呼び出したサーヴァントが強力であったことに狂喜していたのだ。“桜に所有権を移し、遅まきながら外来のマスターを招聘して偽臣の書を使用するか!?いや、それより、儂が自ら打って出ても良いやもしれぬ” いずれにせよ、余興と制裁の茶番劇に明け暮れている場合ではない。雁夜を殺して所有権を奪い、聖杯戦争に本腰を入れねばならない。 臓硯は、浮かれていたのだ。数十年ぶり、否、この冬木の街で聖杯戦争が始まって以来初めて浮かれていた。その興奮が、腐りきった精神から重要なことを失念させた。 バーサーカーとして呼びだしたはずのサーヴァントが、人語を解していることに。唯一サーヴァントを御せる雁夜の意識が、漆黒の水面に落ちていることに。「ちっ!?気絶してやがる。だから、よわっちくてきれーなんだよ。人間なんてっ」 呼び出されたバケモノは、さらに激しく雁夜の全身を振り回した。「カカカカッ、そうじゃのう。その程度の出来損ないでは、貴君のようなサーヴァントを御することは出来まいのう」 老魔術師は、皺だらけの顔に喜色をうかべ興奮を隠そうともせず、話しかける。「誰だァ!?てめぇ」「案ずるな、字伏のサーヴァントよ。そこの、くたばりぞこないの小童の身内じゃ」「わしをそんな名前で呼ぶんじゃねえ。虫酸がはしらぁ」 呼び出された妖怪は、不機嫌そうに魔術師に背を向けた。 おお、これは失礼と言いつつも、肉が落ち骸骨のような顔の窪んだまなざしには野望の光が宿る。「なんの用だ、ジジイ」 キチキチとした忍び笑いをたてて臓硯は口を開いた。かつて目を通した資料では、その性は凶悪、京の都を震え上がらせた天魔とある。ならばこの提案も確実に通る。「なに、先行きの危うい息子の身の上を案じてな。その愚息では此度の戦は勝ち抜けまい。御身にも多大な迷惑を変えることは必定よ」「なに――」「息子の無様な末路を見届けるよりは、いっそこの手で介錯をしてやるというのも親心というもの。どれ、こちらに渡してはくれんかのぉ。御身のように強力なサーヴァントのマスターは、儂のような老練の魔術師こそがふさわしい。間に合わせの雁夜がマスターでは、充分な力も出せぬであろうて」 目の前のバケモノは凶悪な笑顔で、真赤な舌を出しながらこちらを振り返ってくれるものと臓硯は信じ込んでいた。「けっ。バカバカしい」 よもや拒絶の言葉が返ってくるとは予想だにしなかった。「なにっ。儂のような老骨では不服とおっしゃるか?」「わしぁ、くたばりぞこないのよわっちい人間はきらいだが、人間やめた虫けらはもっときれーだ」 老魔術師の皺だらけの肌に戦慄が走った。あらゆる魔術的偽装を凝らしたこの身の本質を言い当てるとは、いかなる固有スキルを備えたサーヴァントであろうか。益々もって見逃せない。「儂と、御身が手を組めば、此度の聖杯戦争は必ず勝てる。どんな願いでも叶うのじゃぞ。それこそ不老不死でもなんでもな」 老魔術師の目には、サーヴァントの凄まじいとしか言いようのないステータスが映っていた。雁夜程度がマスターでこのステータスなのだ。もしも、正規の魔術師がマスターならば、いかなるサーヴァントも敵ではない。勝利は必定である。 つい先刻まで、此度の戦争では傍観を決め込む腹積もりであった。 しかし、眼前の珠玉にも似た怪物を捨て置くのは、あまりにも惜しい。「わしはバケモノだぜぇ。不老不死だぁ?興味ねえなぁ」 老魔術師の文字通り生涯をかけた悲願を、まるで路傍の石と断じる。しかし、いまは腹を立てているような状況ではない。「ならば人間を何人でも喰わせてやるぞ。なに、儂もこの姿を保つため何千何万人食ったか解らぬ。御身も遠慮することはないぞ。飽きて満ち足りるほど、喰い明かそうではないか」 間桐臓硯は、知らぬうちに踏み越えてはならない間合いを踏み越えた。しかし、今もってその不運に気づいていない。否、眼前の凶悪なるバケモノに、そんな人間じみた正義感が存在するなど夢にも思わなかった。「さて、どうする?儂と組んだほうが御身の……」「言いたいことはよくわかったぜ、虫ジジイ」 臓硯の言葉を途中で遮るように答え、金色の妖怪は振り返った。 語るもおぞましい冥府魔道の業により、綴命を重ねてきた不死身の魔人。間桐臓硯をして震え上がらせる、とてつもない凶悪な笑顔であった。「てめーが自殺しろ」 視界を覆い尽くす紅蓮の炎、過去、数多の妖怪を葬り去った字伏の豪炎、それが間桐臓硯の見た最後の景色であった。ただの一節の詠唱も、うめき声すらもあげることを赦されず間桐の当主、人外の魔術師は灰となった。 肉体を蝕まれる苦痛により遠のいた間桐雁夜の意識を覚醒させたのは、さらなる激痛であった。紙のように薄くなった皮下脂肪を、枯れ枝のように萎縮した筋繊維を、蟲共の猛毒に侵されぬいた五臓六腑を貪り喰われる激痛が、皮肉にも雁夜の意識を呼び覚ました。 全身を包む柔らかい感触が、いつのまにか自室の寝床に運ばれてることを悟らせる。「……あぅ……ッ」 視力の残っている右眼に光が入る。雁夜の視界に飛び込んできたものは、巨大な金色の魔獣とその右腕に吊り下げられている桜であった。「目が覚めたか、ますたー」――なにが……起きた? 呆気にとられる、それ以外、雁夜にいったいどんな選択肢があっただろうか。「おい、ますたー。わしにこの小娘を食われたくなかったら、てろやきばっが百個買って来い」「――カリヤおじさん」 手足をぱたぱたと振り回しながら、どこか怯えた表情の桜がこちらを見ていた。「はやくしねーと食うぞ、こら」 あまりの光景に、またしても雁夜の意識は闇へと墜ちて行った。