少しだけ。ほんの少しだけ。
本来有りうるべき道筋がねじ曲がり。
正史から僅かに、しかし決定的に袂を分かつことになった。
ただそれだけの、あるお話。
■ 士郎とバーサーカー、プロローグ――1 ■
ある、月の綺麗な夜。
闇夜に響いた少女の声。見上げれば、煌々と輝く月明かりに照らされた、二つの人影。
風に流れる白銀の長髪。雪のように白い肌。あふれ出る気品。異国の少女。
掠れたような白い髪。煤けたような褐色の肌。滲み出る敵意。赤衣を纏った従者。
少女は告げる。早く呼び出さないと死んじゃうよ。
少女は続ける。残っているのはあと二席だけ。
少女は微笑む。剣か狂か、アタリかハズレか。
少女は与える。そんなお兄ちゃんにプレゼント。
少女は整える。お家のお庭に突き刺しておいたから。
少女は伝える。じゃあ、頑張って生きてね。
少女は笑った。私が、殺すまで。
――――私が、殺すまで
■
死の直前に見る映像を、走馬灯と言うらしい。
詳しいことは知らない。何でも、今までの自分の人生がコマ送りに脳内に流れるとかなんとか。数日前に、そんな感じのテレビ番組がやっていた記憶はある。
じゃあ、今一瞬脳内に見えた光景は?
垣間見えた僅か数日前の邂逅。
訳の分からぬままに家に戻れば、庭に突き刺さっていた珍妙なオブジェらしき物体。
姉貴分や妹分に騒がれないうちにと引き摺り隠した場所は、そういえばこの土蔵だったか。
「……は、ははっ……」
この期に及んで脳内をよぎったのが、ほぼ一方的な殺害宣言に珍妙な物体だというのだから救えない。
乾いた笑い声を漏らしながら、少年――衛宮士郎は身を起こした。
――――否。身を起こすことしかできなかった。
「……っ」
力の入らない足。這うことでしか移動できない体。もはや崩れた瓦礫を除ける力すら無かった。
何故自分はこんなことになっているのか。何時も通りの朝を迎え、何時も通りに学び舎で昼の時間を過ごし、何時も通りに帰ろうとした。ただ、それだけなのに。
弱弱しく、悪態を漏らす。
「……くそっ」
生徒会の備品を直したその帰りに、殺し合いの場を目撃した。
口封じに心臓を一突き。
目覚めたときには何故か傷は塞がっていたものの、何も考えずに帰宅した結果が現在の有様だ。
少し考えれば分かることだ。殺し損ねた獲物をどうするかなんて。
目線を上げれば――ほら。
悠然と歩む、蒼い死神が――――
「……くそっ!」
自らを叱咤するように地面を殴りつける。
このまま黙って運命を受け入れるのか?
どうしようもないと諦めるのか?
ただその瞬間を待つだけなのか?
――――否。否、否、否、否っ!
「……ふざけるなよ」
過ちでは無い、間違いでも無い。
人が空を飛べぬように。
死者が蘇らぬように。
過去には戻れぬように。
確定された終幕。厳然たる現実はすぐ目の前。
だがそれでも、
だからといってその現実を、
ただ黙って見ている道理は、
どこにも無い――――っ!
「おおぉぉおおおおおおおおおっ!!!」
まだ声は出せる。
声さえ出せれば力は出る。
力が出れば動く事が出来る。
動く事が出来れば――――まだ死なない。
「……まだ眼は死んでない、か」
呆れたように、でも愉しそうに。
死神は笑った。
「見せてみろよ。まだ諦めちゃいないんだろ?」
真紅の槍、その穂先が此方を向く。
向けられらたその先には――――心臓。
侮られている。だが、それがどうした。
そんなことは今更言うべくもなく、自身が一番分かっている。
彼我の実力差など、比べる事すらおこがましいであろう。
だが、それでも。誰がこの現状を黙って受け入れてやるものか。
「上等だああぁぁああああああっ!!!」
すぐ傍ら。ブルーシートに包んで隠したあのオブジェのようなもの。その取っ手らしき部分を両手で掴む。
削り取ったような刃先。
人間が扱うには規格外な質量。
破壊することに重きを置いた造り。
露わになったその形はオブジェと呼ぶには禍々しすぎて――――それが武器の類に分類される存在であることを、漸く士郎理解する。
「おいおい……随分な上物のようだが、お前に扱えんのか?」
「うっせ、糞野郎っ!」
普段の自分らしからぬ言動は、脳内から絶賛生産中のアドレナリンのせいか。
ブチブチッと左腕から嫌な音が鳴った気がしたが、火事場の馬鹿力よろしく持ち上げて構える。痛みは感じない。寧ろ最高に気持ち良くなっていた。
「……へぇ」
その姿を見て死神――ランサーは目を眇めた。
体を半身に、得物を背の後ろに隠すように構える。狙いは横凪一閃。闇雲に向かってくるのではなく待ちの一手を選択したのは、彼我の実力差を考慮したせめてもの策か。
諦めるわけではなく、自棄になるわけでもなく。
目の前の坊主は、自分の命を獲る気でいる。
「……坊主、これで三度目だ」
一度目は学校の中で。確かに心臓を突いた。
二度目はつい先ほど。不意打ちは、あえなく躱された。
そして、三度目。ランサーは構えを変えた。重心を低くし、左足に体重をかける。狙いは、今度こそ相手の心臓へ。
「真っ直ぐに向かってやる。せいぜい獲ってみろ」
わざわざ殺す相手の手に付きあう必要はない。そんなことをせずとも殺りようは幾らでもある。
にも関わらず、真正面から叩きつぶすことを選択したのは、ある意味で彼らしい決断だった。
浮かんだのは笑み。相手の獣のような獰猛な笑みを、同じように口角を釣り上げて士郎は返した。こんな非常事態だというのに、何故か楽しくて仕方が無い。
俺はついに壊れたのだろうか。まぁ、壊れたのならそれでいいや。もはや後のことなんてどうでもよかった。
両手に力を込める。呼応するようにオブジェ――斧剣が鳴った気がした。全力で振れるのは、おそらく一度だけ。だから、その一撃に全てを任せる。
「ふぅ……来いやああぁぁあああああああああ!!!」
自らを鼓舞するように、士郎は声を張り上げた。
彼我の距離は、大凡十メートル。この程度、あって無いようなものだ。
衛宮士郎では相手に敵わない。それは、一時間足らずの邂逅で身を持って思い知った。
衛宮士郎では相手を捉えられない。相手の槍捌きも体捌きも、見えはしても反応はできない。
衛宮士郎では相手を防げない。幾ら服の硬度を強化しても、大砲を紙で防ぐようなものだから。
そこまで考えて思考を打ち切る。考えるだけ無駄なのは、自身が一番良く分かっていた。
恐怖はない。不安もない。
ただ神経を細く鋭く研ぎ澄まし、その時を待つ。
――――背後で、瓦礫の崩れる音がした。
数秒か、数十秒か、或いは数分か。
音を音として認識するよりも速く、全くの同時に両者は動いていた。
地面を踏みしめ、歯を食いしばり、弧を描くように士郎は斧剣を凪いだ。強化しているにもかかわらず、現在進行形で腕からは嫌な音が鳴る。人体が壊れる音だった。
――――世界が遅くなる。
ランサーの姿を士郎の眼は捉えた。すぐ目の前だった。
驚きはない。彼我の実力差については今更であり、最初に姿を捉えられなかった時点で、ある程度の結末は予想できていた。
振り切ることだけを、ただ考える。
――――穴が開いたのが分かった。
視覚で捉えるよりも速く、痛みを感じるよりも速く。その場所は、確かに心臓のすぐ傍。
何もかもがスローモーションな世界の中で、ズプズプと肉を切り裂き刃先が侵入する音と感触だけは通常営業。
まだ斧剣は振りきれていない。このままでは振り切るまでに穿たれるのがオチだ。
「っそがぁぁ……っ!」
悪態は呻き声に近かった。
斧剣を振るよりも速く、切先が心臓に達するよりも速く、身体の回転速度を上げる。強化した身体ならではの芸当。負荷に身体の各所から悲鳴が上がり、両腕から致命的な音が響く。悲鳴を噛み殺す代わりに、奥歯が割れた。
――――切先が逸れる。
「ハッ――――」
こいつ、本当にただの魔術師かよ。呆れに近い感想を抱きながら、ランサーは踏み込んだ。
一部の狂いもなく心臓の個所を穿った筈だが、急な回転により目標は進路からずれた。このまま突けば、槍は心臓を掠めるだけに終わる。槍の名手を前にして、それは奇跡とも言える所業。ただの人間とは思えぬ反応速度は、今まさに一寸先の死を回避した。
――――そんなわけがない。
「舐めんな、坊主っ!!!」
相手が悪い。
幾ら士郎が超人的な反応を見せようとも、相対するは神代に生きた英雄。一学生が太刀打ち可能な相手ではない。
人外の腕力で、ランサーは無理矢理に突きから横凪へと繋げた。僅かに逸れた筈の切先は、暴力的な破壊をもって士郎の心臓を横一文字に切り裂き、骨を砕き、あまつさえ両腕にまで傷を広げた。
飛び散る肉片、噴き出る血飛沫。
決着は着いた。
「――――ッ」
だが、それでも。それでもそれでも。
なけなしの力を動員して、せめても一撃を与えようと斧剣を振るう。
伸びきった関節も。損傷激しい両腕も。切り裂かれた心臓も。全ては埒外へ。
死に瀕するには少し早い。
まだ動ける。
この一撃まで、動ける。
「誇れよ、坊主」
振り切るより早く、賞賛の声が士郎の耳朶を打った。
身体への衝撃。霞む視界。遠のく相手。
何が起きたのかは分からないが、相手の体勢を見るに蹴りでも入れられたのだろう。
視界の端に、ちらりと映る斧剣。
こんなものを後生大事に握りしめてもなぁ、なんて。そんな場違いなコトを考えながら。
自分が何も出来ずに負けた事を理解し。
士郎の身体は、斧剣と共に土蔵へと吸い込まれた。