/epilogue I
「なるほど……これが今回の聖杯戦争の顛末か」
魔術協会から依頼という形で聖杯戦争へと参戦したバゼット・フラガ・マクレミッツには当然にして報告の義務がある。
聖杯を持ち帰る、という依頼を未遂で終えた事は居た堪れなくはあっても、提出した報告書に記された内容を読めばそれが最善であったと判断される彼女は踏んでいた。
事実、彼女に依頼を持ち掛けた時計塔のロードの執務室で、報告書の内容に目を通した彼の顔には怒りの色は見られなかった。
十年遅れの第四次聖杯戦争の結末は、未曾有の大災害によってその幕を閉じた。死者、建物の倒壊数は前代未聞の数字を記録し、教会スタッフの隠蔽工作もままらない内に世に公表される結果となった。
教会スタッフを統べていた監督役が火災に“巻き込まれ”、死亡した事も後手に回らざるを得なくなった事の要因の一つだ。
とはいえ、魔術協会、聖堂教会の両組織が懸念とする神秘の漏洩は、考えられる限り最小限に留められた。街を焼き尽くした炎はありとあらゆる痕跡をも消し去り、遠方から現場を目撃した人間には聖杯の正体を窺い知る術などなかったからだ。
バゼットが提出した報告書も、冬木の地を預かる遠坂家との協議によって作成されたものであり、彼女自身には非はない、と明確に記されている。それが責任逃れでない事は、バゼットもまた了承している。
「あくまで今回の聖杯戦争における器が破壊されただけであり、その大元がある限り、再び聖杯戦争は起こる……ね。君はこれをどう思う?」
水を向けられたバゼットは、淡々と答えた。
「聖杯が本来持ち得る万能の力を汚染され、破壊によってしか願いを叶えられないというのは事実のようです」
遠坂家と協議の間に、一つの情報が何者かによってリークされた。それが聖杯の汚染。皆が血眼になって求める奇跡は、紛い物にも劣る代物でしかなかったのだと。
そのリーク者が誰であるか、情報の真偽は確かめてはいない。けれど遠坂の当主もバゼットもまた、あの火災を己が目で見届けている。これが戦いを生き残った勝者からのリークであるのなら、疑いの余地などない、と。
「であるのなら、そんなものは破壊してしまうのが良いのではないかと」
「過激だな……とはいえ、聖杯戦争そのものをぶち壊すとなれば、潰えたマキリ、遠坂はともかく、アインツベルンは黙っていないだろう」
彼らの千年にも及ぶ妄執は今度の戦いでも現実とはならなかった。ならば幾度でもあの狂信者どもは繰り返すだろうし、取り壊しを正式に発表すればどんな手に打って出るか分かったものではない。
「他にも、たとえ破壊によってしか願いを叶えられないとはいえ、その使い道は有用だと判断する者もいるだろう。とりわけ根源を目指す魔術師にとっては、世界がどうなろうと知ったことではないだろうよ」
「…………」
「とはいえ」
ロードは書類をテーブルに投げ出し、視線をバゼットへと向ける。
「私も君の意見には賛成だ。こんな代物、人どころか魔術師の手にだって余る。たった一人の根源到達者を出す為に、世に存在する他の魔術師全員が犠牲となるようなやり方は容認出来ない」
魔術師の中……とりわけ貴族連中の中でもまともな倫理観を有するこのロードのその言葉に、バゼットは安堵の溜息を零す。これならば、自分があの戦いに赴いた意味もあったのだろう、と。
「かと言ってこれほどの大事となれば私一人の独断では動けない。相応の人員も用意する必要があるだろうし、まずはケイネス先生に話してみるか……」
ぶつぶつと今後の段取りについての思索を巡らせ始めたロードを他所に、バゼットは立ち上がる。
「それでは私はこれで。また何か依頼があれば、その時は」
軽く一礼し、バゼットは執務室の出口へと向かう。
報告は終わり、戦後処理については信頼に足る人物に託す事も出来た。これでバゼットの戦いは本当に全てが終わった。後は────
「──マクレミッツ」
その背へとかかる、温和な声。振り向けば、小さく笑みを浮かべる男の姿。
「以前、君にこの依頼を持ちかけた時と、今、こうして報告を受けている時の君とでは顔つきが違うようにも思える。何か、良い出逢いでもあったのかな?」
その問い掛けに、バゼットは笑って答える。
「ええ、最高の出逢いが」
扉を閉め、歩き出しながら、二度とは逢えない男の背中を瞼の裏に追想する。
その背を追い掛ける事はもうない。
歩むべき道筋はまだ定まっていないが、歩き出せる足があるのだ、まずは一歩でも前に進もう。
「でも、その前に──」
一度、故郷へと戻り自分自身を見つめ直そう。
そして、あの男の生地へと赴こう。
感謝を込めた、花束を手に────
/epilogue II
「本当に良かったの?」
「はい。もう間桐の家には跡取りはいません。雁夜おじさんのお兄さんはいらっしゃるようですけど、今更あの家を継ぐとは思えませんし」
遠坂邸。そのリビングで二人の少女は向き合う。テーブルの上には温かな紅茶とサワークリームの添えられたスコーン。麗らかな午後のティータイム。
あの戦いの後、その戦後処理に追われた遠坂凛がひと段落つけたのは、数日も後の事だった。それというのも言峰綺礼が戦争の最中で死亡し、現場の指揮を取れる人間がいなかったからだ。
教会スタッフが一流の隠蔽技術を有しているとしても、頭のない手足では乱れのない統率が取れない。それも間際になってから頭の消失を知らされた手足の混乱具合は、想像に易いだろう。
その為、見かねた凛が一時的に権限を預かり、現場スタッフの指揮を取った。父や綺礼にはその辺りについても仕込まれていたのが幸いしたが、慣れないせいもあり、疲労は極地だった。
へとへとの体で家へと戻った凛に待ち構えていた第二の試練は、
『姉さん、家がなくなったので泊めてください』
という、何処から突っ込むべきか分からない、間桐桜の言葉だった。
「……私の知らない間に資産どころ土地と家まで売り払うとか、正気の沙汰じゃないわよねアンタ。ええ、今更だけど」
死に場所を探していた間桐桜を生き永らえさせたのは凛のサーヴァントであるアーチャーであり、それが罪であり罰だと言ったのは他ならぬ凛だ。
一度口にした言葉を引っ込めるのは彼女の流儀ではなく、今現在もこうして桜は遠坂の家に逗留している。
「生きろと言ったのは姉さんです。頼れと言ったのも姉さんです。ですから、ちゃんと責任とって下さいね?」
男が面と向かって言われれば一撃でノックアウトしそうな微笑みと言葉も、凛は白けた目で見やるばかり。
「蒸し返すようで悪いけど、お父さまが望んでいた貴女の幸せは、家門を継ぐに足る魔術師となることよ。
貴女はそれを捨てた。間桐の秘術は継承出来ずとも、家門自体を受け継ぐ事は出来たのにそれもしなかった」
間桐へと養子に出したのは時臣の最大の善意であり親の愛だった。それが間桐桜には理解の出来ないものであったとしても、父の教練を長く受けてきた凛にとっては当然の事として受け止められる。
魔術師としての幸福とは、秘めたる才を開花させ、魔の道を歩み続ける事それそのものである。桜はそれを拒絶した。その道の先には彼女が望む幸せはないのだと。
「私にとっての幸福は……家族で一緒にいられればそれで叶っていました。お父さんも、お母さんももういないけど……」
それは人としての当たり前の幸福であり、魔術師としての幸福ではない。魔の家門に生まれながら、桜には後者の幸福は前者に劣るものでしかなかったのだ。
「ま、その辺りはお父さまの失敗ね。魔術を覚えるよりも先に人の幸福を知ってしまった貴女を、無理矢理に、それも他人の家に送り出せば、拒絶するのも当然よね」
時臣が真に桜の幸福を願うのなら、凛だけでなく桜にも同等の教育を施し、魔の道こそが至高であると植えつけるべきだったのだ。
そう出来なかったのは、遠坂の色に染めてはただでさえ馴染みにくい他家の色に染まらなくなる事を恐れた時臣の判断であり、失態に他ならない。
「……で。最終確認をするけど。本当にいいのね?」
「はい。私は此処にいたいです。遠坂の秘術なんか入りません。魔術師としての幸福もいりません。姉さんと一緒にいられれば、私はほかに何もいりません」
桜が望むのはもう、それだけ。生きる理由のない彼女にとって、縋る対象は姉以外にもうこの世には誰もいない。一人で生きるには過酷する世界の中、重すぎる罪を背負う彼女は支えなくして歩いてはいけないのだ。
「そう……でも、私の返答ももう分かってるわよね?」
「…………」
冷徹な魔女である凛は打算によって物事を判断する。そこに感情の機微は挟まない。桜が凛にとって有用かどうか。要は使えるか使えないかしか判断の基準はない。
「もう後始末も落ち着いたし、残りの雑務を終えたら近い内に私はロンドンへ向かうわ。時計塔への推薦状はもう貰ってるし、本格的に魔術の勉強に打ち込みたいから」
「…………」
「だからお荷物はいらないわ。足枷なんてもっといらない。私の邪魔をするような事があれば、すぐにでも追い出すから」
「………………え?」
その返答に違和感を覚える。家も土地も売り払い、背水の陣で望み凛の気を引こうと考えた桜の打算は見透かされ、明確な拒絶を突きつけられるものと思っていた。
一人でこの過酷な世界を生きていく事も覚悟していた。支えがなければ歩く事も出来ない脆弱な身でも、死ねないのだから生きるしかないのだと。
だからこそ、その言葉は不可思議だった。
「──桜、貴女の力は有用よ。間桐の色に染まりきっていないし、上手く使えば遠坂の色に染め直せるでしょう。当然、刻印を受け継いでる私には届かないでしょうけど、充分に高みを狙える素質がある」
姉の言葉がよく分からない。頭に入ってこない。
「生きる事に理由が必要なら、私の為に生きなさい。その力の全てを、私の為に役立てなさい。そうすれば、私はずっと貴女の傍にいてあげる」
「ねえ、さん……?」
それは明確な打算から生じる言葉。桜の力を自身が高みへと登りつめる為に体良く利用する腹としか思えない言葉だった。
それでも、その言葉は桜の心に酷く響いた。甘く、せつなく、最も欲しかった、その言葉が。
「貴女に、ついて来れるかしら?」
差し出された掌。
震える腕を伸ばし、その掌を握り締める。
────ああ、温かい。
間桐桜が……遠坂桜が求め続けた陽だまりは此処にあった。
苦難の果て。
地獄の底。
その先に。
死にたいと願い続けながらも生き抜いた彼女の手に、やっと、求めた光が降り注いだ。
────もう、二度と。この手を離さない。
そう固く心に誓い、少女は──櫻のような笑みを浮かべたのだった。
/epilogue III
未だキャスターが健在であった頃。
アインツベルンの森の陣地構築に勤しみ、切嗣とセイバーが表立って戦場に立っているその裏で、魔女はこの戦いそのものの解析をも並行して進めていた。
召喚直後に行われた会談でのマスターであるイリヤスフィールの発言。唯一人の勝者以外の願いをも、聖杯の力ならば叶えられると言ったその言葉を、彼女は鵜呑みには出来なかったのだ。
生前、様々なものに振り回され続けた彼女だからこそ、確信が欲しかった。マスターの言葉を心の底から信じられる確信が。
まず最初に彼女が目を付けたのは己がマスターそのものだった。
その矮躯とは不釣合いなど膨大な魔力量。規格外の全身に帯びる令呪。そして彼女の発言そのもの。眠る必要のないキャスターは、侍従の目を盗み、イリヤスフィールが眠っている時間を利用し解析を連日行い続けた。
結果として彼女は辺りを引いた。イリヤスフィールがこの戦いにおける小聖杯それそのものだと確信した後、聖杯戦争を引き起こしている基盤である大聖杯の在り処を特定し、そして──聖杯に潜むものの正体にまで行き着いた。
この真実は衛宮切嗣は勿論、イリヤスフィールにさえ知らされていなかった。情報にロックが掛けられていたのだ。
そんな事が出来るのはアインツベルンしか存在せず、そして恐らくは、聖杯の成就を前に謀反を起こされては困るから、という判断からの措置だろう。
けれど、キャスターはこの早期に辿り着いてしまった。神代に名を残す特級の魔術師である彼女の手腕と、マスターがイリヤスフィールであったという偶然が生んだ事の真相への理解。
この事実を白日の下に晒せば、どのような結果になるだろうか。誰しもが求める奇跡が誰もの望んだ形で叶わないとなれば、戦いそのものが破綻する。キャスターの望む、イリヤスフィールの無事を確保することが出来る。
聖杯にかける願いのない彼女にとってはその真実はさほど重要ではなかった。この真実を知り、最も被害を被るのは誰か。
それを良く知るキャスターは、誰にも胸の内を語る事はなかった。
+++
「そうか……僕は、キャスターの掌で踊らされていたのか」
夜。
月を望む縁側に、一組の親子の姿がある。
戦いの後、正式に買い取り改修した深山町に構える武家屋敷の一角で、切嗣とイリヤスフィールは静かに空に輝く月を見上げていた。
切嗣の独白は、風に解けて消えていった。
イリヤスフィールが語ったキャスターの真意。聖杯となり、その内側に魂を納める事で知った真実。
キャスターが死の間際に口にしたように感じた、勝利宣言めいた言葉がずっと気に掛かっていた切嗣は、ようやくその回答を得る事が出来た。
キャスターが狙ったのはイリヤスフィールの生存と、その傍らに切嗣の存在がある事。
イリヤスフィールの生存だけを願うのなら、早い段階で聖杯の真実を露見させていれば未然に防ぐ事も叶っただろう。
キャスターの言葉を信じる信じないを別にしても、イリヤスフィールに施されたロックを外してしまえば彼女自身の口から答えは語られる。そうなればさしもの切嗣も信じるしかなくなる。
けれどそれでは、衛宮切嗣という男は止まらない。この地の聖杯が願いを叶えない代物だと事前に知ってしまえば、別の奇跡を求めて世界を彷徨い歩き続けただろう。愛娘を、冬の城に残して。
だからキャスターは真実を語らなかった。彼女は切嗣が勝ち残る事を確信し、切嗣の狙いを看破した上でそれを利用し、自分自身をすら犠牲としてまで、衛宮切嗣に絶望を突きつけた。
──全てはイリヤスフィールの為に。
国を離れ、大切な人達と引き裂かれ、二度と逢う事すら叶わなかった少女の願い。裏切りの魔女と蔑まれた、そんな女の心に残った少女の献身が、願いが──今この状況を作り上げたのだ。
その為に犠牲となったものも少なくはない。街を焼いた大火は今なおその爪痕を残し、生き残った人々の心にも深い傷を負ったまま。
キャスターがこの状況を完全に承知していたのかどうかまでは、分からない。
切嗣とセイバーならば未然に防ぐだろうと思っていたのかもしれないし、言峰綺礼というイレギュラーと接触する事のなかった彼女では、あの男の行動を読み切れなかったとしても不思議ではない。
「うん……本当は、私はキャスターに怒らなきゃダメなんだろうけど、感謝してるの」
この戦いの後に潰える筈だった命。願いが叶えば門の内側へと消え、叶えられずとも彼女の寿命は戦いの終わりに最初から定められている。
今こうしてイリヤスフィールが父の傍に寄り添えているのも、キャスターの仕業に違いない。
イリヤスフィールを救うのがキャスターの目的であったのなら、寿命とはいえ不本意な終わりで父と娘が引き裂かれては何一つ救いなど残らないのだから。
衛宮切嗣の掌に残った小さな希望は、キャスターによって仕組まれたもの。最初から掴み取る事を想定されていたものだ。それでも、男は心の中で感謝を述べた。あの地獄の中、救い出せたものがあったのだから。
愛娘を犠牲とし、願いを叶える事はなくなったのだから。
「ねえ……キリツグは、どうするの?」
「……生きるよ……イリヤと、一緒に」
死んで償えるものなんか何もない。
踏みつけたものに報いられる筈がない。
ならば、醜くても、無様でも、滑稽でも、生き続けていかなければならない。
理想の歯車は砕け散り、それでも残されたものがある。
自分の為に生きる資格などない身であっても、ならば彼女の為に生き続けよう。
それを願ってくれた誰かがいるから。
こんな愚かな男の掌でも、掴めるものがきっとあるから。
傍らの娘の頭をそっと抱き締める。
温かな感触。
求め続けたもの。
「へへ……あったかいね」
「ああ……あったかいよ」
──青白い月の輝く夜の下。
理想に破れた男は、胸の中に人の温かさを感じて生きている。
これからもきっと、その愚かさに後悔を抱きながら、それでも生きていくのだ。