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「はぁ──!」
「──らぁ!」
裂帛の気迫と共に振るわれる白銀の剣。夜の闇をも照り返す意匠深き剣は、血よりも濃い朱で彩られた槍の旋回に阻まれる。
未遠川沿いにある海浜公園。その一角で、手を取り合った筈の二人の騎士は、互いの首を刎ね落とさんと、容赦のない剣戟を繰り返していた。
キャスターによってバゼットとの契約を破壊され、魔女の手に落ちたランサーと。
脱落者となった女魔術師に肩入れし、女の相棒だった男と切り結ぶモードレッド。
空から降り注ぐ天然の光源はなく、彼らの舞台を彩るのは街灯の明かりだけ。薄暗い闇の中、幾度となく繰り返される剣と槍の応酬が無数の火花を生んでは弾け、死地にありながら口元に笑みを浮かべる彼らの顔を照らし上げる。
一撃交える度に溢れる脳内物質。視界は明滅し太刀筋のみが目に焼き付く。時間を置き去りにし、高速の剣と槍は当事者以外の認識を超えていく。
剣を執り、戦乱の世を駆け抜けた英傑。強者との鬩ぎ合いは彼らの本質にも等しく、互いの目的を度外視し、今目の前にある心躍る狂騒に溺れ続ける。
「────っ、と!」
かに思えたが、歴戦の古強者たる彼らが戦に狂い、目的を見失う無様は有り得ない。本来剣を交える事の叶わない筈の相手と競い合える宴の場だ、その心の高揚は大きくとも、今宵の一戦は彼等の為の戦いではない。引き際を誤っては魔女に足元を掬われてしまう。
モードレッドは手にした剣をくるりと回転させ、神速の打突を放つランサーをいなし、一足跳びに距離を離す。
全身を鎧で覆っているとは思えないほどの身軽さで間合いを離したモードレッドは、兜の奥でくつくつと笑いながら言った。
「流石は名高きアイルランドの光の御子。噂に違わぬ槍捌きだ。忌々しい同輩連中と比しても引けを取らないばかりか上回るかもな。
ああ、味方の内は頼もしかったが、敵には回したくない類の輩だよアンタは」
「ハッ、抜かせ。飄々とオレの槍を捌き切った輩が何をほざく。奇妙な剣を使いやがってやりにくい事この上ない。
だがまあ、そっちの評価と同じものをこっちも返すぜ。ここまで人を小馬鹿にした剣を振るう奴はテメェが初めてだよ」
足を止め、神速の槍を振るうランサーと、身軽なステップと型に嵌らない剣筋を以ってその槍をいなし続けたモードレッド。
肩を並べていた間は気付かなかったものが、こうして刃を交える事で見えてくる。
「酷い言われようだが、オレは別に誰も馬鹿になんかしちゃいない。型に嵌められるってのが昔から気に入らなくてね、要は勝てばいいんだよ」
上段から振り下ろされると踏んだ剣が、奇怪にも一瞬にして横薙ぎに変わり、体勢の維持を無視した回転を用い裏を掻き、右手に握られていた筈の剣がいつの間にか左手に持ち替えられている。
そんな余りにも常識を逸脱した剣こそがモードレッドだけの剣術。型に嵌らない型、とでも呼ぶべきだろうか。
だが結局のところ、奇策は初見だからこそ有用に働く。槍術の基本にして奥義のような槍捌きを行うランサーを相手に、この遮蔽物のない場所で真正面から戦うのは正直なところモードレッドに旗色が悪い。
森での戦いでセイバーに押し切られたように、純粋な暴力の鬩ぎ合いでは彼女は真っ当な担い手に一歩劣るところがある。
彼女自身もそれは理解している。このまま剣と槍を単純に交え続ければ、いずれ対処され迎撃が間に合わなくなる。剣を交えたのが今夜が初とはいえ、何度か同じ戦場を駆け抜けた相手だ、その対応は他の連中よりも早いだろう。
だけど今は。
「どちらが上か決める事なんかに意味はないと思うが。せめて一太刀くらいは浴びて行けよ──!」
「フン、なら倍にして返してやらぁ……!」
再度地を蹴り、二人だけの戦場へと奔る青と赤の英霊達。激突は突風を巻き起こし、他者の介在を許さぬ嵐を生む。
そう……今この場で戦いを繰り広げているのはランサーとモードレッドのみ。
「…………」
モードレッドの後方、張り詰めた弦のように緊張を緩めないまま戦場の推移を見つめていたバゼットが空を振り仰ぐ。今は見えない星でも、暗く厚い雲を眺めようと思ったわけでもない。
戦闘が巻き起こるその前から滞空する紫紺の魔女。鈍色の空を背負い、鈴を鳴らす錫杖を手にしたキャスターは、表情の窺えないフードで顔を覆い隠したまま遥かな高みから戦場を俯瞰している。
……一体何を考えている?
バゼットの予測では、キャスターは彼女に仕掛けてくると踏んでいた。空を飛べないバゼットでは戦いの相性は最悪で、唯一サーヴァントを屠り得る切り札もまた魔女にだけは通用しない。
この冬木の戦場において、マスターとしては破格の戦闘力を誇るバゼットがもっとも戦いたくない相手がこの神代の魔女であり、そんな思考を容易く見透かすキャスターならば当然にして弱者から始末をつけるものと思っていた。
如何なモードレッドといえどランサーを相手に、手負いのバゼットを守りながらキャスターの相手をも務めるなど不可能に近い。
それでも覚悟を以って戦場に臨んだバゼットを嘲笑うかのように静観を決め込む魔女に不信感を抱くのは当然と言えよう。
「────」
バゼットの視線に気付いたのか、キャスターがこちらを見る。即座に戦闘態勢に入ったバゼットだったが、キャスターは微かに窺える口元を妖しく歪めるだけで攻撃は仕掛けて来なかった。
森での戦いほど自由に魔術を扱えずとも、現代の魔術師など赤子の首を捻じ切るよりも容易く手を下せる筈の魔女が何も仕掛けて来ない。
不信は疑惑に変わり、やがて警戒を強める結果となる。それでも、魔女は動かない。神代の指先は、中空に何を描く事もなく静かに握り締められている。
……魔女の思惑は分かりませんが、こちらにしても好都合。何かを狙っているのだとしても、やるべき事は変わらない。
敵にサーヴァントを奪う手段があると知った今、モードレッドもただでその罠を踏む真似はすまい。ならば後は覚悟一つ。命よりも尊いと信じたものを取り戻す為、この身を捧げ剣と為そう。
「モードレッドッ……!」
バゼットの怒号が飛ぶ。それに呼応し死地で切り結んでいた鎧の少女は、片手で担っていた剣を両手に持ち替え、赤き一閃を渾身の力で弾き飛ばす。
「よぉ……こうして遊んでるのは楽しいが、時間も惜しい。そろそろ本気でやろうぜ」
「…………」
モードレッドの軽口に、ランサーは答えず槍の穂先を沈める。
ランサーにとっての全力とは、相手を殺すか自分が死ぬかの二択となる。そして槍に付与された呪いにも等しい魔力は、確実に敵対者の命を奪うもの。
それをバゼットもモードレッドも知っている。なのに、その上で全力で掛かって来いとは何を考えている。
「それは……オレの宝具の能力を知った上での発言か」
「ああ。来いよランサー、オレがおまえの全霊を受け止めてやる」
「…………」
ランサーの視線がモードレッドを越え、その後ろに佇む女を見る。険しくも、真っ直ぐな瞳。覚悟を宿したかつてのマスターの力強き瞳を見て、ランサーは吐息と共に小さな笑みを零す。
「ハッ、いいだろう。死んでから文句言うんじゃねぇぞ」
「オレがこんなところで死ぬもんか。オレにはまだ為さなきゃならない事があるんでな。おまえ達の為に死んでやるつもりなんか毛ほどもない……!」
顔を覆い隠す兜が割れ、その素顔が白日の下に曝け出される。モードレッドの握る白銀の剣──クラレントが血を浴びたかのように真紅に染まる。
邪悪に満ち、憎悪に焦がれ、異形の邪剣へと変貌していく。彼女の立つ足元から、血の川が流れ出るように大地をも赤く染め上げていく。
対する青き槍兵は地を擦る程に穂先を沈め、蠕動し拍動する槍は貪欲に周囲の魔力を貪っていく。
凶悪に魔力を食らうその様は、周囲の熱をも奪い去り、凍るように冷たい夜気が満ち満ちていく。
「────」
カラン、と海浜公園のタイルの上を転がる鉄筒。モードレッドの後方、バゼットもまた肩に下げていたラックから一つの球体を取り出し、構えに入る。
肩ほどの高さに掲げた拳の上に球体は浮かび、短剣の刃のようなものが顕現し、バチバチと迸る電気じみた魔力を纏い始める。
それこそがバゼットが有する切り札。神代より現代にまで受け継がれ続けてきた正真正銘の現存する宝具。サーヴァントをも一撃の下に屠り得る、究極の迎撃礼装。
本来ならば彼女自身が純粋な戦闘能力で相手から切り札を引き出さなければ真価を発揮し得ない礼装だが、今回は前衛にモードレッドがいる。
彼女の言葉と、今大地を満たす憎悪の血に塗れた破滅の一撃に対するには、ランサーもまた全霊で以って迎え撃たばなければ勝機はない。
サーヴァント戦の極地。行き着く先は結局のところ互いの担う宝具による一撃滅殺。矛を交え機先を読み合う事など所詮は児戯。共に宝具発動の隙を窺うだけの前哨戦。
今この瞬間こそが──戦いの極点。全てを決す刻限だ。
唯一の懸念は、キャスターの動向。三者が全て臨戦態勢に入った今もまだ、魔女は指先一つを動かさない。不可解を通り越した奇妙に過ぎる静寂。
思惑の読めない敵が頭上を専有している状況で、明確な隙を生む宝具による激突を行って良いのかと一瞬頭を掠めたが、
「覚悟を決めたんだろバゼット。今更引き返したいだなんて口にするのなら、オレはアンタを軽蔑する」
「…………」
そうだ。魔女にどのような狙いがあれ、踏み越えて先を目指すと誓ったのだ。激突の先にある一瞬、暗闇の荒野の先にある光を目指し、命を賭して魂を捧げると。
全ては──彼の誇りを取り戻す為に。
「モードレッド。貴方に全てを託します」
少女は傾けた視線だけで頷きを示し、今や獰猛な獣の如き殺意を撒き散らす朱の魔槍を担う男を見つめる。
もはや言葉は不要。
後は互いが信頼を置く一撃に全てを賭けるのみ。
「“刺し穿つ(ゲイ)────”」
「“我が麗しき(クラレント)────”」
「“後より出でて先に断つもの(アンサラー)────”」
三つの詠唱。
重なる言葉。
「“────死棘の槍(ボルク)……!”」
されど真名を解き放たれたのはその一刺しのみ。
対峙するモードレッドは詠唱を止め、横薙ぎに構えていた異形と化した剣を引き戻し両の手で握り直す。
ランサーの真名解放に遅れる事一拍。
究極のカウンター礼装がその牙を露にする。
「“────斬り抉る戦神の剣(フラガラック)”」
ただ撃ち放つだけでは低威力しか発揮し得ないこの剣は、敵の切り札に反応し発動する事でその真価を見せる。
敵が攻撃を放った直後に発動し、敵の攻撃が着弾する前に敵を撃ち貫く戦神の剣。
故にその名は後より出でて先に断つもの。後出しでありながら強制的に先手を奪う時を逆行する魔剣。
神速で以って放たれた朱の魔槍。それに遅れる形で発動した時の魔剣は運命を逆行し、後出しという結果を捻じ曲げ先に発動したという因果に書き換え、何よりも先んじて敵に着弾したものとして時間を改竄する。
収斂された針のような一撃。もっとも凶悪な暴力は余計な破壊を撒き散らすものではないとでも言いたげに、フラガラックは神速の魔槍に先んじて、ランサーの心臓を正確に撃ち貫く。
「────」
使用者が倒れれば宝具は発動しない。故にフラガラックが発動し着弾した時、相手の攻撃はなかったものとしてキャンセルされる。
それはこの青の槍兵をしても同様。宝具を発動する前にまで遡って敵を撃ち貫く魔剣に対する手段は、そも宝具が発動してしまった時点で対処する術はない。
が、彼の手にする魔槍だけはその例外。
真名解放のその前に、既に『心臓を貫いている』という結果を作り出した後に放たれる彼の槍は、逆行する時の剣を以ってしても、その発動を押し留める事は叶わない。
使用者が倒れようと、真名の解放を妨げられようと、既に生まれている結果を覆す事は何者にも許されない。
故に──心臓を貫くという因果を背負った槍は、使用者の手を離れても、その結果を導き出す為に直走る。
「────はっ」
標的は無論にしてモードレッド。彼女が真名の解放を留め置いたのは、この結果が予見出来ていたからだ、両者相打つ命運を斬り抉る逆光剣は、因果を繰る魔槍までをも斬り抉る事は出来ない。
心臓を貫く槍を相手に赤雷を放つ魔剣を繰り出したところで意味がない。ランサーはバゼットの一撃で致命傷を負い、その後にクラレントが消し炭に変えたところで朱の魔槍は止まらない。
モードレッドの役目とは、最初からその因果に打ち克つ事。
必滅の朱槍の、王者を貫く王の槍の運命を打破する事。
自らの目的の為。この先にある願いの為。こんなくそったれな殺し合いに臨んだ意味と答えを見出すまでは、死んでたまるものか……!
「お、お、あああああああああああああああ……!!」
地の底に沈んだかと思いきや、即座に跳ね上がり、通常では有り得ない軌道で襲い来る槍を相手に、心臓を狙ったその槍を両の手に担った剣で以って鎬を削り火花を散らす。
本来この槍と鎬を削る事など不可能だ。因果を定めた後に放たれる槍は回避も防御も不可能。活路は槍の運命を上回る幸運を引き寄せるか、槍の間合いから逃れるか、そも発動させないかの三点に尽きる。
モードレッドにはそれほどの幸運値はなく、既に槍は放たれ間合いの中。それでも彼女が直撃を避けられたのは、彼女が背負う運命によるもの。
定められた運命に抗い続けた者だけが持つ強さ。
避けられぬ死に叛旗を翻す者の力。
自らの望むものを、たとえ世界の全てを裏切ってでも手にするという叛逆者の呪い。
己はこんなところで死すべき運命にはないと心の底から信ずるからこその異常性。
運命を打ち破るのは、いつだってそれに抗う者の一念だ。
理想の王の治世を、王の理想を打ち破りし稀代の叛逆者。
彼女は今再び──覆せぬ筈の運命を、己が力だけを頼りに切り拓く……!
火花を散らし、心臓を射抜く事なく過ぎ去った筈の槍は、反射でもしたかの如くその軌跡を折り曲げ、長柄の特徴を完全に無視したまま、標的の心臓を背後から再び襲う。
避ける事は叶わない──たとえ避けても何度でも槍は襲う。
迎撃は間に合わない──たとえ間に合っても同じ繰り返し。
槍の呪いを、運命を、乗り越えなければ避けえぬ死。
だったら──
「オレはッ! こんなところで死ねないんだ……ッ!!」
その運命を越えて行こう。
覆せぬ終わりを覆そう。
その為だけに、その為にこそ、この身はこの戦いに身を投じたのだから。
そして────
「がっ──はっ……っ!」
遂に槍はその進行を止めた。
心臓を穿つ魔槍は、
「越えてやったぞ……運命を……!」
標的の心臓を抉る事なく、モードレッドの右胸に着弾した。
モードレッドは槍の運命を上回った。
幸運に頼るでもなく、間合いから逃れるでもなく、第四の手段によって。
運命に抗う力と、その身に刻まれた“呪い”によって、運命に打ち克ったのだ。
「────」
槍を放った青き戦士は、その勇姿に笑みを零す。
収斂された一撃で心臓を破壊された彼の者は、消え行くのを待つだけの運命。
抗えぬ死。
覆せぬ終わり。
壊れた砂時計の器はもう二度と元には戻らない。
ああ、されど。
こんな姿を見せられて、黙って消えてしまって良いのか?
いいわけがない。
許される筈がない。
ああ、彼女達はランサーを縛り付けていた魔女の呪縛から解き放った。その身を戒めていた凶悪な呪いは、死に行く者には作用しない。
この身の不甲斐無さが生んだ結末を、この命の終わりと引き換えに、失われた誇りを取り戻してくれたのだ。
──ああ、だったら、ちゃんと礼をしなきゃならねぇ。
力を失くしていく手足に力を込める。倒れそうになる足に踏ん張りを利かせ、たった一つの言葉を謳い上げよう。
「“突き穿つ(ゲイ)────”」
引き戻した槍に今一度力を込める。その拍子に足元が崩れた感覚が襲い体勢を崩す。だがもう体勢を維持する必要はない。地に倒れ伏そうとするその中、気合だけでその身を捻って天を仰ぐ。
そこには空に座す魔女の姿。
獣の如き赤き眼光が、間違いなく“標的”を見据える。
「…………っ」
魔女がこちらの狙いに感付く。だがもう遅い。森の結界がないこの場所では、一瞬での転移も不可能。そのタイムラグは、刹那にも満たない一瞬は、永遠にも等しくランサーの味方をする。
────借りを返すぜ、魔女さんよ。
「“────死翔の槍(ボルク)”」
静かな言葉と共に。
倒れ行く戦士の手を離れ、朱の魔槍は投げ放たれた。
同時に。
魔女は身に纏うローブに包まれるようにしてその姿を掻き消す。
既に槍の呪いは発動している。
投擲された槍は標的を追い、何処かへと消え去った。
だん、とランサーの背が地を叩く。
「ランサー……!」
駆け寄るバゼットと、ゆっくりと歩みを進めるモードレッド。
かつての主に消え行く身体を抱え起こされた槍兵は、視線をモードレッドへと投げた。
「悪ぃ……手間掛けさせた」
「ふん、まったくだ。だがまあいいさ。こっちにも収穫はあったからな」
モードレッドはあの槍の呪いに打ち勝ったのだ。であればやはり、この身はあの王と雌雄を決するべき命運にあるのだと確信する。
彼女の運命の終着点はあの場所だ。全ての終わりの地。全ての始まりの丘。果たせなかった願いを果たす為、彼女は孤独に最後の戦いへと臨む。
「モードレッド……ありがとうございました」
己の役目はこれで果たしたと、鎧の少女は背を向ける。その背に投げ掛けられたバゼットの感謝の言葉に、少女は手を振って応えた。
しみったれた別れには興味はない。たかだか一協力者に過ぎなかった者を相手にして、その腕の中の男を蔑ろにするのは本末転倒だとでも言うように。
血に塗れた剣を担い、茨の道を歩む少女は、惜しむ別れもなく、一つの戦場を去って行った。
去り行く背中を目で追う事もなく、彼女が残してくれた僅かな逢瀬を悼むように、バゼットは腕の中の男を掻き抱いた。
砂が零れるように光となって消えていくランサー。手足は既になく、身体は何処もかしこも透け始めている。
「……すみません。私は、不甲斐無いマスターだった」
詫びるようなその言葉に、もしまだ腕が残っていたらランサーは拳骨の一つも見舞っていただろう。
不甲斐無さで言えばランサーも同様。主の火急に焦りを滲ませ、事を急いたせいでキャスターに足元を掬われた。
それでもこうして誇りを取り戻してくれた主を、どうして責め立てる事など出来ようか。
英雄の末路は非業なものと相場が決まっている。
国を背負い、たった一人で抗い続けた男は、誓いを破らされ自らの手にした槍で腹を貫き絶命した。
それでもこの男には後悔はなかった。二度目の生になど興味はなく、ただ一人の戦士として全力で腕を競い合えればそれで満足だった。
その願いは結局、果たされたのだろうか。自らの槍の運命を凌駕したあの小娘との戦いも悪くはなかったが、その発端を思えば満足のいくものでもない。
報われぬこの身。
救いなど元より求めた覚えはないが、それでも惜しむ気持ちは僅かにはある。
ああ、それでも。
この終わりを、気に入った女の腕の中で逝けるのならば、そう悪いものでもない。
消え行く身体にはもう力が残されていない。言葉は泡のように消え、上手く発する事が出来ない。
「……達者でな、バゼット」
それでもどうにか、その言葉だけを口にした。
告げたかった多くの想い。
万感の想いを、上手く笑えたか分からない笑みとその言葉に乗せて。
────静かに。
一人の戦士が、女の腕の中でその息を引き取った。
「──貴方も。英霊の御座にそのような概念があるかは分かりませんが、どうか健やかに」
女は憧れた英雄に別れを告げる。
元より叶う事のなかった筈の逢瀬。
一時の夢、白昼夢を見たの同じだ。
それでもこの腕は、確かな温かさを覚えている。
傍らにあった心地良さを、確かに覚えているから。
「さよなら、クー・フーリン──貴方は、私にとって最高の相棒(えいゆう)でした」
だからこそちゃんと別れを告げる。
これより続く彼女の歩み。
前へと進む為に。
その胸の内に蟠っていた澱を、拭い去ってくれた彼へと向けて。
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静謐に包まれた住宅街に、一発の乾いた音が木霊した。
衛宮切嗣が拠点と定めた武家屋敷。
闇の降りた庭園。
その片隅に佇む土蔵。
開け放たれた扉。
土蔵の中を染め上げる極光。
それは転移の証。
キャスターが基点と定めたこの場所へと、逃げ帰るように跳んだその先で。
「──────ぁ……」
胸の中心を貫く重い感触。
破れた臓腑より湧き出し、口元より零れる赤い血液。
魔女が視線を傾けた先、開け放たれた扉の向こうには、黒鉄の銃身をこちらへと向ける下手人の姿。
夜の中で良く目立つ、白い硝煙が、その銃口から立ち昇っており、
「……マスターっ!?」
セイバーの当惑を孕んだ叫びも意味を為さず。
キャスターは、衛宮切嗣の手によって放たれた銃弾が、自身の胸を撃ち貫いたのだと理解した。
+++
トンプソン・コンテンダーに装填されていた銃弾は、切嗣がキャスターに依頼して作らせた対サーヴァント用の弾丸だ。
アインツベルンが長い年月を掛けて掻き集めた礼装、聖遺物の中でも選りすぐりの高位の神秘を宿すものをキャスターの手腕によって魔術的に弾頭に加工した代物。
本来ならばサーヴァントを相手にしては何の役にも立たない筈の機械の産物、人類の叡智は、魔女の手によって神秘を纏う怪物をすら貫く銀の魔弾へと変貌した。
皮肉なのは──加工した張本人が、その弾丸の標的にされた事だろうか。
切嗣は素早くリロードを行う。秒を切る速度で再装填された銀の弾丸が、確実に魔女を屠り去ろうと引き鉄を絞られるその直前。
甲高き金切り音と共に、夜の彼方より飛来した赤き稲妻が、土蔵の天井を貫き魔女の心臓へと突き刺さる。
「が、ぁ……ぁあああ……!」
その身に帯びた呪いを完遂する為ならば、地の果てまでも追い回す赤き魔槍。主の手を離れてなお、その牙は消えた標的を追い、その心臓を喰らい、体内に千の棘を撒き散らし、この場所でその役目を果たし終えた。
「…………」
さしもの切嗣もこの展開は予想していなかったが、手間が省けた。が、念押しに、再装填された銀の魔弾を未だ残る魔女の顔面へと向け、
「────……」
石榴のように弾け飛んだ魔女の頭を始まりに、その身体は、身を貫いた槍と共に夜に溶けるように消えて行った。
+++
静寂が戻る武家屋敷。
衛宮切嗣は土蔵から背を向け、コンテンダーから薬莢を取り出した。さも、何でもないかのように。
「マスター……貴方は、最初からこれを目論んでいたのですか」
未だ動きを封じられたままのセイバーは、己がマスターの非道を詰るように怒気を孕んだ視線を向ける。
「キャスターにその弾丸を作らせたのも、初めから彼女を撃つ為に使うつもりだったのですか。己が聖杯を掴む上でいずれ邪魔となる者を、自らの手で排除する為に」
「…………」
衛宮切嗣は答えない。
が、セイバーの推論は遠からずも近からず、といったところか。
確かに自らの手でキャスターを屠る展開は切嗣も想定はしていたが、そう上手くいくものではないとも思っていた。
キャスターはイリヤスフィールを守る為の存在。戦場から遠ざけておく為に切嗣が用意した駒だ。
だがキャスターが切嗣の思惑を読めば、いずれ敵対する事もまた想定していた。切嗣は自らの性質を良く理解している。
それゆえに、似た性質を持つキャスターのクラスをイリヤスフィールのサーヴァントにしたのは、その結末を予期してのものだった。
誤算があったとすれば、キャスターの力量が切嗣の想定を上回っていた事。森に敷設された神殿は幾度となく侵入者の歩みを阻み、あまつさえランサーをすらその手駒に変えて見せた。
要は、キャスターはやり過ぎたのだ。
切嗣の想定を凌駕した神代の指先。いずれ仇となるものをこれ以上は野放しにはしておけないと、今夜の策に乗り出した。
森の中では万が一にも勝ち目がない以上、街中へと引き摺り出す必要がある。間桐桜によって展開された血の要塞は好都合であり、その状況を体良く利用したに過ぎない。
キャスターが撤退を試みる状況になるのなら、必ず一度この場所に帰還しなければならない。土蔵に仕掛けられた魔法陣はアインツベルンの森との唯一の直通路。
街中に仕掛けた魔法陣は全て緊急退避かこの場所へと戻る為のものであり、一瞬で森に転移しようとするのならキャスターとてこの場所を通じなければ不可能だったのだ。
だから切嗣はこの場所で待った。
セイバーが随伴しては、万が一にもキャスターが撤退するような事態は起こり得る筈もなく、令呪を使ってまで押し留めたのはその為だ。
暗殺者にとって、もっとも必要なのは待つ事。たとえそれが無意味なものとなったとしても、根気強く待ち続ける事。
一瞬の隙を狙い撃つ為に、他の全てを犠牲にする事だ。
キャスターが敗走してくる可能性は決して高くはなかった。上手く敵サーヴァントを消し去って行ってくれるのなら、何食わぬ顔でまた別の機会を待つつもりでもあった。
だが結果は、キャスターは何がしかの理由により土蔵へと撤退し、切嗣によってその背を撃たれ、この世から消え去った。
後に残るのは結果のみ。過程などどんなものであろうと構わない。結果としてキャスターは消えたのだから、切嗣の思惑は此処に完遂を見た。
──ただ、気に掛かるものがあるとすれば。
二発目の銃弾でキャスターの頭蓋を吹き飛ばすその直前。
はだけ落ちたフードの奥、振り仰いだキャスターが苦悶を滲ませながらも浮かべていた笑み。
そして。
──わたしの、かちよ。
言葉にもならない唇だけの動きであったが、キャスターがそう口にしたような気がするのは単なる思い過ごしなのだろうか。
読唇術の心得もないではないが、明確な答えは分からない。間近に迫る死に震える口元がそう見えただけに過ぎない可能性の方が高い。
それでも。
笑みを浮かべていたのだけは間違いがなく。
そしてそんな益体のない思考を一笑に附し、
「そうだ。僕は初めからキャスターを使い潰すつもりでイリヤに召喚させた。で、それが何だ。
聖杯を手に入れられるのは唯一組。ならば一時手を取り合った相手とはいえ、いずれ倒さなければならない敵には違いはない」
「イリヤスフィールは言っていました。私達皆に、聖杯の奇跡を分け与える事も出来るだろう、と。貴方もそれに同意していた筈ではないのですか」
「聖杯が触れ込み通りのものであればの話だ。未だかつて明確な勝者なきこの戦争、聖杯を実際に使用した者が一人としていない現状で、そんな不確定要素を鵜呑みする方が愚かというもの。
聖杯に託す祈りがあるのなら……何を犠牲としても叶えなければならない願いがあるのなら、確実を期すのは当然だろう」
一拍を置き、不動のまま立ち尽くす己が従者に無機質な瞳を向け切嗣は続ける。
「おまえの祈りは他者と分け合えるかもしれない、という程度の浅い祈りなのか? 是が非でも叶えたい願いではないのか?」
「…………っ」
切嗣の言葉は正論だ。類推を含むイリヤスフィールの言を信じるよりも、明確に唯一組の勝者となる方が祈りの実現性は高い。
後になって願いを分け合う事は出来ないなどと判明したら、それこそ血で血を洗う闘争に発展しかねないのだから。
相手が他者の裏を掻く事に特化した魔女だ、最後の最後で手痛い裏切りに遭う可能性もゼロではない。危険の芽は事前に摘んでおく。利用するだけ利用し必要がなくなったら使い捨てる切嗣の判断は、合理の極地でもある。
合理性を突き詰めるという事は、感情を排斥するという事。かつて王であった時代にセイバーがそうして来たように、切嗣もまた己が悲願の為に人として大切な何かを切り捨ててこの場に立っている。
甘い事を言っていたのはセイバーの方。余りにも酷いその非道は──まるで鏡を見ているかのような錯覚をし、徒に噛み付いた。
けれど目はもう覚めた。
どれだけ切嗣を問い質してもキャスターが消滅した事実は揺るがないし、マスターがなければ現界の叶わない身の上ではどう足掻こうとも意味がない。
何より──切嗣の言うように、セイバーの抱える祈りは尊きもの。他の全てを踏み躙ってでも叶えなければならないと信じるものだ。
己が聖杯に手を掛ける為に、轍に変えたものが一つ増えただけの話。今更、綺麗事で取り繕ったところで浅ましくも聖杯を欲するこの心は変えようがない。報いるのなら、せめて聖杯を掴み取らなければならない。
「言葉が過ぎました、マスター。ですが、イリヤスフィールについてはどうするつもりですか。彼女は未だ敵の手中。まだ救出の必要性はないと?」
「ああ……救い出す必要はない。が、僕達が向かうべき先にはイリヤがいる」
キャスターの消滅と同時にランサーの槍が消え去った事からも、少なくとも二騎のサーヴァントが今宵戦場を去った事になる。
そして立ち込める暗雲と、肌を刺す街全体を包む魔力の高鳴り。推測だが、既に過半数のサーヴァントが倒れていたとしておかしくはない。
舞弥がいればもう少しマシな状況を把握出来たのかもしれないが、ないものをねだったところで何も出ない。
現状を把握する為にも、一度イリヤスフィールの居場所──今回の降霊予定地である冬木市民会館を目指すのは必要な事だ。
────僕の勘が間違っていなければ。
今夜の内に全ての決着が着くだろう。
膠着状態は崩れ、事態は急速に終息へと向かっている。
ならば後は、残る敵手を撃滅し、聖杯の頂に手を掛けるのみ。
「────行くぞ」
「はい────」
令呪の戒めを解かれたセイバーを従え、衛宮切嗣は戦地へと赴く。
これまで積み上げて来た骸に報いる為に。
轍と変えたものの全てに、意味があったと証明する為に。
その胸に宿した、余りにも尊い祈りを叶える為に──