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間桐桜とライダーが何処に潜伏しているか。
結界の基点にいる可能性がもっとも高いが、だからこそこちらの意図を外してくる可能性がある。
あるいはこの戦いの始まりにおいて、凛と桜が最初に出会った場所。センタービルの屋上も考えたが、そんな目立つ場所であれば他の者達に見つかる可能性が極めて高く、これも却下。
全く理由のない、それこそ港にある倉庫街のような人気のない場所も選択肢の一つに入れてはいたが、この結界の起動が桜が凛を誘き出す為のものであるのなら、虱潰しは効率が悪すぎる。
故に結論は、桜と凛の両者にとって縁のある場所。凛が想定しうる、桜が想定しうる共通項。交わらぬ道を行く二人が、いつも肩を並べていた場所は、この街にはたった一つしかない。
ざっ、と乾いた砂を踏む。草臥れた校門。慣れ親しんだグラウンド。毎日のように通った校舎。
この戦いが始まってからは一度も足を踏み入れなかった穂群原学園────そこには確かに、桜とライダーの姿があった。
凛は校庭の中心に立つ二人を閉ざされていた校門の外側から見咎め、ポケットから取り出した信号弾を打ち上げた。これでガウェインにこちらが敵と接触した事は伝わり、あの誠実な騎士ならば横槍を入れてくる事もない。
閉じられた門を飛び越え、そして両者は対峙する。
「待っていました、遠坂先輩。貴女ならきっと、私を見つけてくれると思ってました」
「単刀直入に言うわ。間桐さん、この結界を今すぐ解除しなさい」
桜の柔らかな声を無視し、凛は毅然とした声で告げた。
「貴女の目論見が何であろうと、これは少しやりすぎよ。こんな結界が発動したらどうなるか、まさか分からないわけじゃないでしょう?」
「勿論分かっています。街の人たちはみんな消える。だけどそれが何だって言うんですか? ……全部消えてしまえばいい。何もかも。なくなってしまえばいい」
垂れた前髪の奥の瞳は見通せない。けれど、放たれた声に宿る憎しみを、実際の痛みのように肌で感じ取る。
「貴女が憎いのは私達『遠坂』でしょう。無関係な人達を巻き込むのは止めなさい。仮にも魔術師を名乗るのなら、その程度の節度は弁えて欲しいわね」
「無関係……? いいえ、無関係なんかじゃありません。この街の住人がみんな消えてしまえば、当然この街の管理を預かる誰かさんは責任を追及されますよね。
そんな事になれば管理者の責を解かれ家名は没落。道行きは不透明で未来は暗闇の中。長く続いた遠坂の歴史も、貴女の代で終わるかもしれませんね」
「桜……アンタ……」
「……全部、失ってしまえばいい。何もかも、一つ残らず。
私は全部失いましたよ。肉親も、居場所も、生きる意味さえも。だから姉さん──貴女も私と同じところまで堕ちてくるべきでしょう……!!」
「アーチャーッ……!!」
赤い風が砂塵を巻き上げ走る。その手には既に一対の夫婦剣。同時に、中空に二本の剣が顕現し、ライダー目掛けて襲い掛かる。
同時に凛も走り出す。時臣の形見であるステッキから一工程で炎を生み出し、一直線に桜目掛けて撃ち出した。
ライダーは手にした釘剣で射出された二本の剣を打ち払い、直後迫ったアーチャーからの斬撃を二本の釘剣を繋ぐ鎖を盾として迎撃する。
そのままアーチャーは踏み込み連撃を見舞い、再度空中に具現化した剣を避けるようにライダーは後退し、アーチャーはその後を追う。
桜は撃ち出された火球を地よりせり上がった三枚の影の盾で勢いを殺し、その隙に校舎へと逃げ込んでいく。凛は当然その後を追うしかない。隙を見せれば、時間を与えれば、本当に桜は令呪を使い結界を発動しかねない危うさがあったからだ。
駆け出す足に力を込める。最早交渉の余地はない。間桐桜は魔術師としての禁を破り、無関係な人々を巻き込もうとする害悪。
遠坂の名を継ぐ者として、この地の管理を預かる者として、これ以上は見過ごせない。
「────」
パチン、と脳の奥でスイッチが切り替わる。胸に刃が突き立てられたような感覚。同時に視界はより鮮明に、手足は無駄を排除した動きで意思に付随する。情などかける気は最初から微塵もなかったが、これで容赦の必要性も完全に消えた。
玄関口を潜り校舎の中へ。当然電灯などついてる筈もなく、頼りになるのは薄暗い空から差し込む僅かな星明りだけ。それも魔術的に強化された視力を以ってすれば、暗視スコープなどなくとも充分な視界が確保出来る。
桜の姿を再度捉えたのは下駄箱を越えた先。左右に伸びる一階廊下の右側。玄関と二階へと続く階段のその中ほど。
「ノロマな姉さん。そんなに愚鈍だと、本当に令呪を使っちゃいますよ?」
「安い挑発ね。切り札は使わないからこそ切り札に成り得る。確かに結界を発動させれば私を破滅させるくらいは出来るでしょうけど、当然アンタ自身もタダで済むとは思っちゃいないでしょうね?」
「そうですね。きっと私は姉さんの手でズタボロにされるんでしょうね。けど、さっきも言ったように、私にはもう生きている意味もないんですよ。自分の命と引き換えに、姉さんを同じところまで引き摺り下ろせるならそれもいいかなって思います」
「…………」
そう言いながら桜はまだ令呪を使っていない。この距離ならば凛が追いつくよりも早くライダーに命令を下す事は可能な筈なのに。無論、使えばそちらに気を取られた桜に凛は接敵し、一撃の下にその意識を刈り取るだろう。
桜が形振り構わないのであれば、とっくの昔に結界は作動し街の住人は全て血液に変えられている筈。
それが今もまだ行われていないのは、凛がうろたえる様を愉しんでいるからなのか、あるいは。
凛の頬を一筋の汗が伝う。
いずれにせよ、下手を打つ事は出来ない。使わないからこそ切り札に価値はあると凛自身が言ったように、街の住人の命が桜の手の中に在るのは事実なのだ。
凛は冷酷な魔術師だが、魔術師であるが故に許容出来ないものもある。全てを犠牲にする覚悟はあっても、その倫理観を裏切る事は出来ない。
「さあ姉さん、遊びましょう? 昔みたいに鬼ごっこをしましょう。もし姉さんが私を捕まえられたら、令呪は使いません。というか多分使わせて貰えませんし。もし捕まえられなければ、全部台無しにしてあげます」
そんな桜の口上を凛は鼻で笑い飛ばす。
「……本当、馬鹿な子。私が憎くて仕方がないなら、そんな口上を垂れる前に令呪を使ってしまえばいいのに。命が惜しくないんでしょう? 何も失うものがないんでしょう? だったら早く使いなさいよ。それが貴女の覚悟なの?」
「クスクス……やっぱり姉さんは姉さんですね。強がって、ハッタリばかりで。決して相手に弱みを見せようとしない。内心びくびくしてる癖に、よくそんな事が言えますね」
桜の声から色が消える。底冷えのする、冷たさだけが残る。
「でも私は、そんな姉さんに憧れていました。でもそれもお終いです。私の憧れていた人はもう、いない」
「…………」
「姉さんを地に這い蹲らせて、泣いて乞わせて、その上で全部を奪ってあげる。貴女が守りたいと思うものその全て……私が台無しにしてあげますッ!」
翳された腕。奔る暗闇の槍。桜自身の影が四つに分裂し、左右の壁と天井と床を伝い渦を巻くように凛へと迫る。
「────Anfang(セット)」
凛は手にしたステッキを腰に差し、ポケットから掴み取った四つの宝石を放ち影の槍を相殺する。
「いいわ桜。鬼ごっこ、付き合ってあげようじゃないの。でも忘れたの? 貴女、私に一度でも勝った事があったかしらね」
「何度負けても、這い蹲っても、たった一度だけ勝てばそれで充分。この戦いに勝てば、私は姉さんを越えた私として、死ねるんだからッ!」
夜の校舎を舞台に姉妹の戦いの幕が上がる。
全ての因縁に清算を。
鎖のように強固で、糸のように絡み合う因縁の決算が今、始まった。
+++
ライダーがアーチャーに追われるがままに逃げ込んだのは弓道場の裏手にある雑木林だった。
速力で勝るライダーとはいえ、剣の射出からの面制圧能力の高いアーチャーを相手に、遮蔽物の何もないグラウンドで戦りあうのは上手くないという判断からだった。
事実、雑木林に入ってからはアーチャーはライダーへの追撃の手を緩め、迎撃に重きを置いている。
蛇のようにするすると木々の合間を抜け、四方八方からの攻撃を可能とするライダー相手に同じ土俵で戦う必要はない、という判断だろう。
「ライダー、君は何の為に戦っている」
不意に、アーチャーはそう問いかけた。手には双剣。弧を描いて襲い来る釘剣を払った直後の事だった。
「無論、サクラを守る為です」
声はすれども姿は見えない。響くのは地を駆け抜ける蛇の足音と、舞い上がる枯れ葉の音だけ。舞う枯れ葉からも位置が特定出来ないよう、ライダーはそれこそ縦横無尽にアーチャーの周囲を駆け回っている。
「主を守る為に剣を執る……実に職務に忠実なサーヴァントだ」
「……貴方は違うとでも言うのですか?」
交わる剣戟。直後、風が逆巻いたかのようにライダーの姿が掻き消える。夜の闇も味方して、鷹の目を以ってすらその視認は難しい。
「いいや? 私も君と同じだよ。従僕の役目などそれ以外にはあるまい」
「ならば何故このような無意味な問いを──」
「君が本当に、主を守っているようには見えないからだ」
響いていた枯れ葉の擦れる音が消える。無音の静寂。ライダーは姿を隠し息を潜め、決定的な瞬間を窺っている。
アーチャーはそんなライダーの狙いを看破しながら、素知らぬ顔で言葉を続けた。
「街一つを人質に取るような真似をし、魔術師としての禁を犯そうとしている君のマスターを、ならばその従僕は嗜めるべきではないだろうか」
その果てに幸福など存在しない。行く先は断崖絶壁。エンジンをフルスロットルのままブレーキも踏まないチキンレース。辿り着く先は深い闇。奈落へと転ずる底なしの闇だ。
「主の未来に破滅しかないと分かっていながら、今この刹那だけを見つめて守る事に一体何の意義がある。
私を斃し、凛を斃し、それで君のマスターが幸福になれるとでも? 街の住人全てを犠牲にして手に入れた幸福の上に胡坐をかけるような図太い神経の持ち主には、君の主は見えんがな」
ライダーからの反応はない。アーチャーは嘆息を一つ吐き出し、結論を告げる。
「分からんか。このままではおまえのマスターは死ぬと言っているのだ」
父に拒絶され、姉に疎まれ、生きる意義を失くした少女。こんな余りにも無謀な暴挙に出たのは投げやり以外の何物でもない。
遠坂凛に対する為の布石とも考えられるが、その果てには何もない。体良く凛に勝利しえても、桜にはもう目的意識が欠如している。
「おまえは何を以って主を守ると口にするのだライダー。主の意に沿い破滅の道を共にする事が、おまえにとって主を守る事だとそう言うのか」
「全てはサクラの命に優先する……それだけの事です」
「命さえ無事なら他の全てを擲っても良いと? 父だけでなく姉すらもその手に掛けた自責の念を抱き、街の住人を皆殺しにした十字架を背負い、それでも彼女に生きていけと、おまえはそう強いるのか」
そんなものは無理だ。今の桜にそんな重荷は背負えない。今彼女を衝き動かしているのは凛に対する深い憎しみだけ。全てが終わり我に返った後、彼女は己の手を濡らす返り血を見つめ──恐らくは、その命を絶つだろう。
縋る希望がなければ何処までも強固だった心の鎧も、一度夢見た希望にその手を払いのけられた今となっては罅割れ、ガラスよりも脆い、剥き出しの心と変わらない。
間桐桜を今なお衝き動かしているのは遠坂凛に対する深い憎悪だけ。その憎悪がなくなれば、憎悪を向ける対象が消えてしまえば、桜自身からも動力が失われるのは当然だ。
「間桐桜を生き永らえさせたいのなら、凛を殺してはいけない。凛への憎しみを失った間桐桜は自壊する。それほどに、おまえの主は今危うい天秤の上にいる」
「……何が言いたいのですアーチャー。そも貴方が私のマスターを気にかける理由はないでしょう。貴方は一体、私に何を求めようと言うのです」
「決まっている。手を退けライダー。おまえがいては、間桐桜は救われない」
「…………」
「おまえ自身分かっているだろう? この街を包む結界も令呪によるもの。であればおまえの意思では解除は出来ん。この結界が在り続ける限り、間桐桜は自滅のスイッチを手にしているも同然だ」
自らのこめかみに銃口を突きつけながら、その引き鉄は自分自身には何ら害を為さないと錯覚している。
たとえ撃ち出された銃弾が間桐桜自身に傷をつける事がなくとも、引き鉄を引いたという事実が、取り返しのつかない事態を生む。
「マスターの意思を尊重するのは構わんがな、行く先が破滅と分かっていながら止めない事を尽くすとは言わん。ライダー、此処が分水嶺だ。引き際を誤れば、後は坂道を転げ落ちるしかなくなるぞ」
闇の奥に棚引く紫紺の髪を見る。梢から姿を現したライダーは、何をも見通せない眼帯の奥から突き刺さるほどの殺意を放つ。
「どのような言葉を並べようと無意味です。そもサクラをあそこまで追い詰めたのは遠坂の人間でしょう。そこに組する貴方が耳障りの良い言葉を並べ立てたところで、信用などされると思っているのですか」
「……耳に痛いな。だがそれでどうするライダー。凛を殺し、間桐桜を衝き動かす憎悪が消えた後に、あの少女が一人で歩いていけるだけのものがあるというのか」
「────聖杯」
静かな、けれど良く通る声で女は言った。
「聖杯の奇跡を以ってすれば、不可能などないでしょう。たとえ此処でトオサカリンを殺しても、サクラは止まりません。いえ、だからこそ聖杯を手に入れなければならなくなる」
「…………」
「幸いにして聖杯の器は我らの手にあります。此処で貴方とそのマスターを斃した後、残る全サーヴァントを斃せばそれで済む話。
聖杯の奇跡を用い、サクラが生きるに足るものを手に入れる。必要とあらば、この命をすら差し出しましょう」
自己犠牲を厭わぬ他者の救済。ライダーが何を想いそれほど間桐桜に入れ込むのかはアーチャーの埒外。けれど、その答えは鼻で笑うに値するものだ。
「……皮算用もいいところだな。この戦いがそんなに都合良く動かせられるようなものであれば、此処まで混迷を極める事もなかっただろうに」
そしてライダーには決して見通せぬ落とし穴がある。この戦いの結末に用意された、最悪のシナリオ。流した血と涙の全てを無為に帰す、極上の絶望が。
「良く分かった。これ以上は水掛け論にしかならんか。まあ、それも当然か。遠坂と間桐の因縁の前に、我らは殺し合う事を前提とされたサーヴァント。私とおまえが手を取り合うような事は有り得なかったのだから」
「…………何を」
「────I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)」
アーチャーが呪文を唱えたその瞬間、周囲の空気が変質する。冬の夜気が満ちる雑木林の中に、一瞬だけ不可解な熱を感じ取った。
「終わりにしよう、ライダー。全力で来るがいい。私もまた、全霊で以って君の意地に応えよう」
刹那の内に中空に浮かび上がった剣群は十を越え、なおその数を増していく。ライダーは静かに眼帯へと指をかけた。封じられた宝石の瞳が今再び、開かれる。
「貴方は彫像にしても飽き足らない。その欠片まで粉微塵に変えて、貴方のマスターの前へと連れて行きましょう」
「────っ!」
石化の魔眼。その瞳が見たものの悉くを石へと変える現代では失われた大魔術。蛇の眼光に射竦められた瞬間、周囲に立ち並ぶ木々諸共、アーチャーの足は即座に石像のように凝固する。
アーチャーの魔力ランクではレジスト出来る確率は五割ほど。以前成功した事を思えば今回の失敗は当然のもの。自らの運のなさを嘆きな悲しむ余裕はない。
「Unknown to Death.(ただの一度も敗走はなく、) Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)」
紡がれる詠唱。繰り出される横薙ぎの剣の雨。
周囲の木々と同様、ライダーに見つめられた剣群は空間に停止したかのようにその疾走を阻まれ、地へと落下し砕け散る。
しかし次の瞬間にはまたも無数の剣が生まれている。間断なく降り頻る雨粒のように、際限なく隙間なく剣が生まれ凝固し砕け散る。
ライダーが地を蹴る。石の森と化した雑木林の中をアーチャーへ肉薄せんと疾走する。地に突き立った石の剣と木を避け、足元から襲い来る石化の侵攻に苦悶に顔を歪めるアーチャーへと。
それを阻むは剣の壁。十重二十重と連なる剣群は、石と化しても地に突き立ち、ライダーの進路を妨害する。
「チィ……!」
ライダーが苛立ちと共に釘剣を払う。伸びた鎖が石の剣群を破砕し道を拓くも、次の瞬間彼女の目に映ったのは、頭上を埋め尽くす鋼の雨。
かつてアインツベルンの森で雑兵を薙ぎ払った多重投影。ライダーの足を止める為に、鋼の檻となって降り注ぐ。
漆黒の騎兵が後退する。剣を石に変えるのは容易であっても、殺傷能力が完全に失われていない石の剣の直撃を被るわけにはいかなかったからだ。
アーチャーは間合いを維持する事に終始している。その証拠に、一定以上の距離を置けば深追いをして来ない。弓兵の目的は詠唱の完遂。それを阻害するライダーの行動を邪魔立てしても、剣の乱舞で討ち取ろうとは考えていない。
とはいえ、朗々と紡がれる呪文の完成を、座して待つ事など出来る筈もなく──ライダーは、手にした刃で自らの首を掻き切った。
大動脈から溢れ零れる膨大な血。それは意思を持つかのように蠢き、形を成し、主の眼前に魔法陣を構築する。
瞳のような、蜘蛛のような、神代の怪物の血で描かれた召喚陣。刹那の後に、発光、空間を裂き割るように現われたのは白き翼持つ天馬。
顕現した天馬へと跨り、白き極光となって道行きを阻む全てを蹂躙する。
石となった木々も、石となった剣群も彼女らの疾走を止められる筈もなく、繰り出される剣群も石となる前に天馬によって蹴散らされていく。
最早その疾走を阻むものはない。後はただ、標的を轢殺し主の下へと帰るのみ。
数秒も待たず現実となる筈だったそれに意を唱えるように、アーチャーが口の端を吊り上げる。
「■■■―――unlimited blade works(その体はきっと剣で)」
林を駆ける白き極光の暴力的な破壊音に紛れるように、静かに謳い上げられた最終節。直後、暗闇に奔る二重の炎。アーチャーを中心に円を描く炎は、まさにライダーの光がアーチャーを飲み込むその直前に完成し────
────世界は裏返る。
赤茶けた土。
煤の匂い。
鉄錆の風。
炎のように燃える紅蓮の空。
中空に浮かぶ巨大な歯車。
奏でるのは、まるで鉄を打つ残響。
そして足元に突き立つのは無数の剣。剣。剣。
地平の彼方までをも埋め尽くす鋼の森。
それこそまるで、銘なき墓標。
担い手のいない剣は静かに並び立つ。
「…………これは」
ライダーが感嘆と共に呟く。
天馬の突進がアーチャーを飲み込みかけた瞬間、世界卵はその表と裏を入れ替え、同時に互いの立ち位置さえをも入れ替えた。
ライダーの一撃はアーチャーを飲み込む事なく何もない空間を蹂躙し、眼下、この赤い世界の中心に立つ男を天馬の背から見下ろしている。
固有結界。
心象風景の具現。
魔術における一つの到達点。
およそ弓兵が持ち得る能力ではない。
全ての疑問を飲み込み、ライダーはただこの煤けた世界を俯瞰した。
生き物の息遣いは彼らをおいて他になく、鉄と炎と剣だけが存在する無機質な世界。
これがアーチャーの心象風景であるというのなら、彼の心はまさに荒涼であり寂寞。
唯一人──この赤い世界の中心で、孤独に剣を握る。
この世界には何もない。
だが不思議と、その寂寞を哀しいとは思わなかった。
それはこちらを見上げている男の瞳に宿る力強さゆえのものか。自身の心に何一つ存在しない世界を抱えながら、それを当然と受け入れている。あるいは、彼にとってこの世界にこそ、彼が望んだ全てがあるとでも言うのか……。
「固有結界……確かに驚きに値するものですが、これで私に勝てると思っているのですか」
世界を空中から見つめるライダーの瞳は、既にこの世界自体に亀裂を刻み始めている。見たもの全てを石へと変える魔眼。最高位の魔眼は、大地を石に変え、突き立つ剣を石へと変え、そして世界そのものを石へと変えて破壊する。
アーチャー自身の身体もまた、石化は解除されず腰ほどにまで侵攻している。如何に世界を塗り替えたところでアーチャーはその場から一歩すら動けない。如何に強力な能力であろうと、動きを封じられては為す術もあるまい。
「ああ──勝てる。勝つ為に、こうして世界を塗り替えたのだからな」
だがアーチャーは断言した。最早動く必要もないと。この世界を構築し終えた時点で、勝利は確約されたも同然だと。
「…………」
確かに、この世界はアーチャーの切り札なのだろう。
構築に呪文の詠唱を必要とし、時間が掛かる為にこれまで機会の逸していたとしても、この局面で切った札ならば相応の自信も頷ける。
けれどライダーは口元を僅かに綻ばせた。アーチャーが切り札を秘して来たように、ライダーもまた、最後の一枚を残している。
「──いいでしょう。ならば此処で決着を。私は貴方を斃し、サクラの下へと戻り、そして聖杯を掴み取る」
「────」
アーチャーは答えず、空を見上げる瞳を更に鋭く尖らせる。ライダーが手を打った瞬間に反応が出来るように。
そしてライダーは最後の札を曝け出す。血の要塞、石化の魔眼、天馬──そして、天馬を繰る手綱を。
天馬はライダーの宝具ではない。幻想種としては破格の年月を生き、格を一つ繰り上げてはいてもその性質は天馬に準じる。天馬とは本来心優しき生き物だ。今も数々の本の中で描かれるように、気性の大人しい幻想種である。
ゆえにその力は常にセーブされている。そのリミッターを外し、防御能力を数倍にまで高める手綱──それこそがライダーの秘して来た最後の宝具。
ライダーは静かに我が子の鬣を撫でる。心優しきこの子を強制的に支配し、敵を薙ぎ払う兵器へと変貌させる事はライダーも望むところではない。
だが、全ては桜の命に優先される。
それが彼女の誓い。守ると誓ったマスターの為、心を鬼神へと変え手綱を繰り、行く手を塞ぐ全ての敵を駆逐する。
手綱を引けば、力強き嘶きと共に天馬は旋回し、形なき無空を踏み締め空の彼方へと昇っていく。
手綱で能力を引き上げられた上に更に重力による落下の速度を加え、まさに地に堕ちる流星とならんと空を駆け上がる。
雲を下に見る遥か高空で停止し、羽ばたきは一度だけ。後はそう──引力に引かれるままにアーチャーの下へと墜落するのみ。
「……お願い」
桜を守る為に、力を貸して欲しい。
その想いを汲み取ったかのように、自らを戒める手綱を受け入れ、天馬は空を蹴って、墜落を開始した。
その遥か下方、世界の中心に立つアーチャーは静かに時を待つ。視界より姿を消したライダーであっても、鷹の目と耳は即座に反応を感知する。
雲を突き抜け落下する白き極光。綺羅星の如き輝きを身に纏い、天馬と一体化したライダーは流星となって落ちてくる。
その速度は測るのも馬鹿らしく、天馬の強大な防御能力も合わさって、まるで巨大な壁が超高速で落下してくるようなもの。
しかもアーチャーは足を封じられ逃げ場はない。固有結界を解除すれば互いの位置をある程度自由に出来る事から、この一撃を躱す事は可能だろう。
けれどこの弓兵はそれを望まないし行う気もなかった。ライダーが全ての札を切って勝負を賭けように、アーチャーにとっても此処が天王山。
真っ向からの勝負など、本来全力で戦う場合は避けるべきもの。固有結界という規格外の能力を持っていても、アーチャーは本人が認めずともあくまでも搦め手と不意打ちを得手とする男だ。
真っ当な英霊が持つ究極の一を持たないがゆえの汎用性の高さと器用さを活かして立ち回り、隙を突いて勝ちを拾う。
仮に円卓の面々と正面からやり合う事態になっていれば、固有結界の展開すら許されず袈裟に斬られていたかもしれない。
だからといってライダーが弱いわけではない。あくまでも戦いの相性や戦場の状況も相まって、上手く歯車が噛み合ったに過ぎない。
ただ、この敵だけは真っ向から迎え撃つ。
でなければその勝利を誇れないと確信出来る。
自らの胸に宿った想いを成し遂げる為には、ライダーは越えねばならない大きな壁だ。
雲を割り襲い来る白き巨星。轟音は世界に残響する鉄を打つ音をすら掻き消し、この世界そのものを破壊せんとばかりに一切速度を緩める事なく落下してくる。
確かに固有結界内ならば周囲への被害を考慮する必要はない。だが何もそれは、ライダーだけの特権ではないのだ。
左手を静かに前に突き出す。
この世界が完成した時点で、自らに語りかける呪文の詠唱は不要。
此処には全てを構築する要素がある。
ならば後は、想い一つで紡ぎ上げる事など造作もない。
その上で、高らかに謳い上げよう。
アーチャーが心の残滓から掬い上げるその盾の名は────
「“────熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)……!!”」
二つの光が衝突し、弾ける。
中空に咲く七枚羽の盾。まるで花弁を髣髴とさせる薄桃色の盾は、ありとあらゆる投擲宝具を防ぐアイアスの盾。アーチャーの誇る最硬の守り。
けれどライダーと天馬は止まらない。白き巨星は七つの城壁にも例えられるアイアスの盾を前に僅かにその速度を落としただけで、微塵の揺らぎも有り得ない。
恐るべきはその突進能力。
攻撃性を持たない天馬が持つ強大な防御能力に物言わせた力押し。強力無比な盾を超高速でぶつければ何者も行く手を阻む事の出来ないという猛進。勇猛を通り越したごり押しであれ、事実アイアスは順にその花弁散らしていく。
如何に投擲宝具が相手ではないとはいえ、その防御能力は折り紙付き。こうも容易く破られるのは、魔眼によるステータスダウンが効果を発揮している所以だろう。
石化の魔眼は対象を石に変えるだけでなく、レジストを行った相手にも能力のワンランクダウンを押し付ける。
中途半端にレジストしているアーチャーは石化の侵攻を遅らせてはいるものの、そのランクダウンもまた同時に食らう羽目になっている。
天馬を繰る手綱と石化の魔眼。
その両方に対処するには、アイアスの盾だけで不十分。
ゆえにアーチャーは最後の札を切る。
元より此処までの展開は想定内。
ライダーのような敵を圧殺する盾を持たないアーチャーは、敵を斬り伏せる為の剣がなければ勝利しえないのだから。
「────切り札は、最後までとっておくものだ、ライダー」
言葉と共に世界(こころ)から掬い上げたのは、黄金の剣。
居並ぶ剣群とは一線を画す、煌く刀身を誇る一振りの剣だ。
盾が一枚砕け散る度に激痛が身を襲う。
左腕の筋繊維は断裂し、血が噴き出している。
アイアスの維持に魔力を回し、その上でもう一つ──自身の破滅を招きかねない黄金を手に掴んだ代償は、
「はっ────、がぁ……!」
身体の内側で弾ける痛みの刃。
刃先で肉を一枚一枚削がれるような激痛。
万にも上る剣にその身を貫かれたと錯覚とする苦悶。
この身が英霊に引き上げられてからは感じる事のなかった痛み。身体の内側で刃と刃が擦れ合う懐かしい残響を聴く。
永遠にも思える痛みの檻は、真実刹那の内の出来事。花弁が一枚消されたかどうかというほどの一瞬。
血に塗れながら、黄金の剣を振りかぶる。足が固定されているのは、むしろ都合が良かった。下手をすれば、崩れ落ちてしまいかねない痛みと眩暈。ぎちりと石と化した足に力を込め、純白の光と桃色の光の衝突点を見据える。
振り上げた手に握られた黄金は、この世で最も尊い光。
世に遍く人々の想いを織り込み造り上げられた祈りの結晶。
あの日──暗闇の中で踊る月の雫よりも美しく、尊いと信じたもの。
今なおこの心に焼き付いた、忘れる事の出来ない運命の夜。
遠い日に見た赫耀に、心奪われた少年が紡ぐ模造の奇跡。
この聖剣が敗れる事など有り得ない。
たとえそれが偽物であろうと、模造であろうと、型落ちであろうとも、あの尊き黄金の名を冠した剣に、敗北は許されない。
ゆえに全霊を。
魂の一片をすら込め、この一撃に全てを賭ける。
その真名を解き放った先に待つのは分かりきった結末。
身に余る奇跡の代償はいつも一つ。
ライダーは『未来』を語った。
けれどアーチャーは『現在』に賭けた。
血の一滴をすら絞り上げ、目の前の敵の撃破に全霊を傾けた者と。
目の前の敵をただの通過点と捉え、全力ではあっても先を惜しんだ者と。
これはきっと、それだけの違いで。
「“────永久に遥か黄金の剣(エクスカリバー・イマージュ)”」
静かな声と共に。
遥かなる王の剣が、振り下ろされた。
+++
夜を走る七色の光。黒髪を左右に結った少女の手から放たれる宝石の数々は、闇を味方につける影の刃の悉くを駆逐する。
四角い廊下を縦横無尽に走る影。床、壁面、天井と、森での戦いでは為しえなかった三次元空間を用いたラッシュ。
左右同時に襲い掛かった二本の槍はルビーの炎に焼き尽くされ、地よりせり上がった無数の棘はエメラルドの風によって切り払われ、天井から落下した影の洪水も、サファイアの輝きが生んだ氷の乱舞に防がれる。
「っ──、本当、節操がないですね姉さん! お金に飽かせた物量での強制的な正面突破だなんて……!」
「はっ、宝石魔術師ってのはね、宝石の質と量がものを言うのよ。勿論技量があればある程度は補えるけど、行き着く先は結局そこ。要は金持ちの方が強いのよ──!」
逃げ惑いながら影を繰り出し姉の首を取らんとする妹へと、全力で駆けながら襲い来る全ての攻撃を相殺し続ける凛。
森での戦いで証明された通り、純粋な魔術戦では桜は凛に及ばない。地形的有利があっても、それを全て吹き飛ばすだけの戦力が凛にはあるのだ。
桜が間断なく攻撃を続けているのは凛に反撃の隙を与えない為。今の凛は重戦車だ。生半可な攻撃は全て往なされ、攻撃の手を緩めれば大砲が飛んでくる。
幸いにして今は夜。閉鎖空間内であり、どんよりとした雲間から覗く僅かな月明かりによって影が生まれている。ゼロから影を生み出すのではなく、既にある影を利用し矢継ぎ早に攻撃を繰り出して凛の進行を僅かでも押し留める。
「っく……!」
とはいえ影の乱射にも限度がある。桜が影を使役し放つより、凛が宝石の輝きを生む方が徐々に速度で勝っていく。
後方に注意を払いながら前に進まなければならない桜と、ただひたすらに前へと突き進むだけの凛の差だ。
「手が遅れてるわよ──eins(一番)、zwei(二番)、drei(三番)……!!」
結局、桜は凛の繰り出す宝石乱射の前に詠唱を遮られ、転がるように真横にあった教室へと飛び込んだ。
「痛っ……」
居並ぶ机を薙ぎ倒しながら転がった桜が立ち上がった折、脛に鈍痛が走る。教室へ飛び込んだ際、凛の放った宝石の刃が桜の足を掠めていったのだ。
「此処で鬼ごっこも終わりかしらね。その足で、まさか私から逃げられるとは思っていないでしょう?」
教室前方の入り口に立つ凛。中ほどで中腰のままの桜を射竦めるように見下ろしている。
「どんな状況を用意しようと、手を尽くそうと、貴女じゃ私には勝てないって、まだ分からない?」
積んだ研鑽の量も、受けた教練の質も、凛は桜に遥かに勝る。水の合わない池で育った魚が、水の合った池で育った魚に勝てないように。
宝石魔術を扱う為に必要な素質の全てを持って生まれ、最適な師を持った凛と。自らの属性に適さない家門で、適性を持たない師を持った桜の、埋めがたい明確な溝。
唯一桜に出来る事は、彼女が行おうとした通り、自らの破滅と引き換えに姉にも同等の破滅を見舞ってやる事。
勝利出来ないのならせめて相打ちを。地を這いずるしかない星が天に輝く星を堕とそういうのなら、それくらいの代償がなければ難しい。
「…………」
そんな事、桜自身よく分かっている。だからこそこの街に結界を仕掛けた。桜が唯一凛を相手に対等な足場に立てるだけの、最悪な仕掛けを冷静な頭で指示したのだ。
決して、何もかもを失い自棄を起こしたのではない。間桐桜はまだ、壊れかけてはいても完全に壊れる事を良しとはしていない。
だって彼女は────……
「姉さんは……何故聖杯を求めるんですか」
不意に、桜は俯き加減にそう訊いた。
「……治癒の為の時間稼ぎなら他所でやって欲しいところだけれど。答えてあげるわ。お父さまを、見殺しにしたからよ」
「────……っ」
元より凛には聖杯への執着などほとんどなかった。目の前に戦いがあり、自分がその参加者に選ばれたからこそ参戦しただけ。戦う以上は勝利は当然。聖杯は勝利に付随する副賞のような扱いに過ぎなかった。
「弾痕から見ても、下手人である衛宮切嗣の狙撃によって瀕死の重傷を負ったお父さまだったけれど、その時点ではまだ私には救うだけの手立てがあった。
けれどお父さまは私の治療を拒否されたわ。お父さまの命を救う代償に、私が失うものを天秤にかけてね」
言って、凛が胸元から取り出したのはペンダント。鎖の先に輝くのは三角形の赤い色の宝石。見るものが見れば、その宝石に込められた魔力量に目を剥くだろう。
遠坂時臣がその生涯をかけて魔力を貯蔵したステッキに象眼されたルビーには些か劣るものの、十年、二十年単位の魔力がその宝石には込められている。
極大の魔力と凛の手腕、魔術刻印のサポートまでがあれば、死んでいない人間の、死に掛けている人間の命を繋ぎ止める事などそう難しいものではなかった。
けれど時臣は拒絶した。そんな事に使う為に、そのペンダントを託したのではないと。死を覚悟していた今まさに死に行く誰かを救う為ではなく、遠坂の悲願を成し遂げる為にこそそれを使えと、そう遺して。
「お父さまはその最期まで気高い魔術師であられたわ。そして私に聖杯を掴めと遺してこの世を去った。
五代遠坂家当主時臣の跡を継ぐ六代当主としての最初の務め──それが聖杯を手に入れること。私が自身に課した義務よ」
「…………」
根源へ至る事は魔術師の願いであり義務だ。けれど凛は聖杯の力を行使して世界の外側に至る事に正直に言えば疑問を持っていた。
確かにこの聖杯戦争は遠坂も一枚噛んだ大儀式だ。聖杯の所有権はあるだろうし、事実として手に入れたのなら誰かがそう願うのも否定しない。
だが凛にとっては、これはただ用意されたものに過ぎないのだ。自分の力が関与するのは全ての前提に介入する余地がない、一参加者としてのものだけ。二百年も前に敷かれたレールの上を走り、目的地に辿り着くようなもの。
ああ、これまで時臣の敷いたレールの上を走り続けた己が何を言うかと、誰かは嘲笑うかもしれない。
それでも、魔術師として生きると覚悟を決め、冷酷な魔女の仮面を被ると決心したその時から、せめてそれだけは自分自身の手で掴み取りたいと思っていた。
実際、聖杯を手に入れた後の事は凛にも分からない。目の前に万能の奇跡が降って沸いた時、その奇跡に縋らない保障は何処にもない。
遠い、余りにも遠い道の果て。その場所へとショートカット出来る手段が手の中に生まれた時、その誘惑に抗えるかどうかは定かではない。
いずれにせよ、聖杯を手に入れることは凛の中で決定事項だ。その後のことは後になってからまた考えればいい。
手の中にないものを空想し悦に浸る趣味もない。今はそう──目の前の敵を一人ずつ蹴散らし、勝利への歩みを進めるだけだ。
「そういう貴女はどうして聖杯を求めるの? いえ、全てを破滅させようって考えてる貴女だもの、今更そんなものに興味はないのかしら」
「……欲しいに、決まってるじゃないですか」
搾り出すように、桜はそう口にする。痛んだままの足を引き摺り、転がる机を支えに立ち上がる。
「ええ、聖杯を手に入れるのは私です。でないと、あの人を手に掛けた意味がない……!」
「…………」
桜の言うあの人、というのは無論時臣の事だろう。瀕死の重傷を負っており、捨て置いても死に行く命だったとはいえ、最期の一押しをくれたのは間違いなく間桐桜だ。
未だ逡巡の中にあった凛の思考を切り裂き、最期の力を振り絞り道を拓こうとした父の命を奪ったのは、他ならぬ彼女なのだから。
「……今更、救われたいとは思っていません。私の願った救いはもう、この世界の何処にもないんですから。
ええ、だから私も、姉さんと同じですよ。姉さんがあの人を見殺しにしたから聖杯を求めるように──私もあの人を殺したんだから、せめて聖杯くらい手に入れないとならないんです……!」
決別の言葉を言い渡されようと、落胆の顔を見せられようと、桜にとって時臣は間違いなく実の父親だった。
幼き日のことを覚えている。まだ陽だまりだけが世界の全てだと信じていた頃、その大きな背に強い憧れを抱いたことも鮮明に思い出せる。
間桐へと送られることになったあの日までの温かな記憶だけが、桜を今もこうして繋ぎ止めてくれているから。
捨てられたも同然とはいえ、時臣は時臣なりの考えによって桜の幸福を望んでいたのだろう。何の因果か送られた先が最悪の地獄だっただけの話で、時臣だけが元凶とは言い切れない。
実の父親をその手にかけ、育ての親すらも手に掛けた。あの悪鬼はまだ生きている可能性はあるが、今はそんな些細な事はどうでもいい。
間桐桜は自らの意思で二人を殺害したのだ。ならば重ねた罪の分だけ報いを受けなければならない筈で、もう止まる術を持たないブレーキの壊れた車は、落ちると分かっていても断崖絶壁に突き進むしかない。
「そして私は……これから姉さんもこの手に掛けるんですよ。ね、ほら、聖杯くらい貰わないと、割に合わないでしょう?」
この身を誰かが裁くまで、間桐桜はひたすらに走り続けるしかない。奈落へと通じる坂道を、泣きそうな顔のまま、転げ落ちるしかない。
「本当に、救いようがないわね……桜」
「さっきも言ったじゃないですか。今更、救われたいだなんて思っていません」
救いを求める時間は終わった。天から垂らされる蜘蛛の糸にも興味がない。地を這う蟲が天を望めないというのなら、
────ああ、ならばその終わりまで、醜く足掻き続けるだけだ。
「私はッ! 姉さんを殺してッ! 聖杯を手に入れるんだからッ……!!」
桜がその懐から取り出したのは数枚の紙切れ。無論ただの紙切れなどである筈もなく。
「……っ、呪符……!?」
凛が宝石を放つのに先んじて、空を舞う呪符。それは森での敗戦を受け桜が用意した即席の簡易礼装。自らの髪を貼り付けただけの代物。
女の髪は強い魔力を宿すと言われている。魔術師のものなら尚の事。高位の女魔術師が長く髪を伸ばすのは、その方がより強い魔力を溜め込めるからだ。
髪は女の魔術師とって最後の切り札。埋めがたき溝が存在し、実力では埋められないのなら、埋められるだけのものを用意すればいい。
詠唱は簡略。一小節で事足りる。魔術刻印を持たないが故に必要だった詠唱の時間を短縮し威力を増幅する為の呪符だ、簡易ではあっても女の切り札を用いたのだから、その効力はお墨付きだ。
「くっ……!」
桜の放った影は四散し、呪符を貫き威力を増幅させて凛の前方で弾け飛ぶ。教室内の椅子と机を無造作に吹き飛ばし、噴煙を巻き起こし、その隙に桜は廊下へと躍り出る。
森での戦い以上の攻撃手段を持たないと侮った凛は一手遅れて廊下へと飛び出す。既に桜は遥か前方。コーナーを曲がり三階への階段へと足を掛けようとしている。
「逃がすかっての……!」
指を突きつけ放つはガンド。相手を指差し体調を崩させるという北欧の呪い。単純な呪いであり直接的なダメージは本来有り得ないが、凛ほどの術者が放てば文字通り質量を有し弾丸の如き威力を誇る。
夜の闇を切り裂く黒の弾丸はコーナーを前に若干速度を落としていた桜の足を狙い放たれた。凛が先に傷つけた脛のダメージは抜けていない。同じ箇所を狙い完全に足を止めようとするえげつない一撃は、
くすりと微笑んだ桜がはらりと舞い落とした呪符より生じた影の盾に阻まれ、何を貫くこともなく消滅する。
如何に現実の銃弾ほどの威力を誇るとはいえ、宝石を用いた一撃に比べれば遥かに格を落とす。曲がりなりにも宝石を相殺する影を操る桜を相手に詠唱すらも不要なガンドでは傷をつける事さえも叶わないの道理と言えよう。
幾ら教室で煙に巻かれたとはいえ、凛がその程度の事に頭が回らない筈がない。ガンドの利点は移動しながらの攻撃にも耐えること。詠唱が不要であり凛が持ち得る札の中で最速であること。
対して桜はコーナーを曲がる途中だった事もあり、一瞬だが足を止めた。わざわざ挑発めいた笑みさえ残したのだ、差は確実に縮まっている。
僅かに遅れて凛がコーナーを曲がる。その時、目に飛び込んできたのは、
「な、何をしている……!?」
「えっ……!?」
薄暗い廊下を照らす懐中電灯。その持ち主は桜ではなく、壮年の男性だった。
丁度階下から上ってきたのだろう。下から突如差し込んだ明かりに目を細める。光の向こうに微かに窺えるその身なりから想像出来るのは警備員か宿直の教師か、いずれにせよ聖杯戦争とは何の関係もない一般人。
桜が戦場と定めたこの場所で、血の要塞の基点にもっとも近いこの場所で、まさか未だ意識を保っている人間がいるとは想像だにしなかった凛の思考は、確かに一瞬だけ麻痺を起こし、
「──Auf Wiedersehen(さよなら)」
その隙を、間桐桜が見逃す筈もなく。
「このっ……!」
凛は半歩を一瞬にして警備員へと詰め寄り、容赦もなく階下へと蹴り飛ばした。
直後、一瞬前まで警備員がいた場所、つまり今現在凛がいる場所に、頭上より降るのは影の槍。階段をすり抜けるように降った影の雨は無造作に凛の身体を貫き、ようやく体勢を戻した凛が一歩を退いた時、既に跡形もなく消えていた。
「やって……くれるわね桜……!」
凛の身体に傷のついていない箇所はない。咄嗟に魔術刻印を回し防護の網を張ったが、警備員を蹴り飛ばした為に一手確実に遅れを取った。
赤い上着には血が滲み、裂かれた頬からは血が零れ落ちていく。足にも被弾し機動力を奪われた。
凛の魔術師としての在り方を理解し、どう行動に及ぶかを完璧に理解していたからこそ叶った奇襲。
あの警備員はわざと結界の影響が出ないよう細工を施されていたのだろう。此処でかち合ったのが偶然か桜の仕込みかまでは不明だが、一杯食わされたのは間違いない。
桜が全力で逃走を試みているのだとすれば、既に追いつけるような距離ではあるまい。凛は息を一つ吐き出し、階下へと向かい踊り場に転がる警備員の症状を確かめる。幸いにして気絶しているだけだ。打ち所も悪くはない。
「巻き込まれたのは不運だけど。串刺しにされなかっただけ有り難いと思って欲しいわ」
凛が咄嗟に蹴り飛ばさなければ脳天から串刺しで今頃はこんな安らかな寝息を立てていられなかった筈だ。桜は凛が必ず庇うと分かった上で容赦のない一撃を見舞ったのだ、彼が生きているのは偶然ではなく必然だ。
警備員を横たえ、歩みを再開する。予想だにしなかった手を打たれ、充分に距離を離され標的をさえ見失った。
このまま三階に上がったところで反対側の階段に逃げられてしまえばいたちごっこ。終わらない鬼ごっこを延々と続ける羽目になる。
「────Anfang(セット)」
まともに鬼ごっこをしているのなら、それに付き合うのも良いと思っていた。地力で勝る以上は相手の土俵で戦うのも悪くないと。しかし桜は一線を越えた。凛が庇うと想定していたとはいえ、一般人を直接戦いに巻き込んだ。
「先に形振り構わない手を打ったのはそっちよ桜。だったらこっちも容赦なんてしてあげないから」
手には父の形見のステッキを。象眼されたルビーが起動の呪文に呼応しその輝きを増していく。
「Triff einen Boden und ist Flamme(地を満たせ、炎よ)」
瞬間、リノリウムの廊下を奔るは炎の道。二階廊下の全てを炎で埋め尽くし、その火の粉は舞い上がり更なる延焼を続けていく。
踊り場に転がる警備員には火の手は及ばない。階段を境に結界を構築し遮断している。とはいえ、長く時間を置けば校舎自体が焼け落ち彼もその崩落に巻き込まれるだろうが、そこまで時間を掛けるつもりもない。
これで下へと至る道は封じた。警備員と凛がかち合った時、桜の声は頭上から響いた。なら間違いなく彼女は上の階層にいる筈で、彼女自身がこの校舎を鬼ごっこの舞台に指定した以上、窓から校庭へと飛び降りれば敗北だ。
桜にとって凛は負かさなければならない相手。決闘の場を用意しておきながら尻尾を巻いて逃げるような愚を犯しはしまい。凛に背を向ける事──それが今、桜がもっとも忌避する事の一つなのだから。
+++
三階を踏破し、その更に上、立て付けの悪い扉を越えて、凛は屋上へと踏み入った。
火の手は三階を延焼している最中であり、此処まで届くにはもう幾許かの猶予がある。そして屋上へと辿り着いた凛の目に入ったのは、その中心で空に手を伸ばす妹の姿。
「どれだけ手を伸ばしたって、アンタに星を掴む事なんて出来ないわ」
「知ってますよ、そんな事。姉さんにだって、出来ないでしょう?」
「舐めないでくれる? こんな場所から手を伸ばしても掴めないけど、本当に星を掴みたいのならまず自分が星の高さに至ればいい。星を引き摺り下ろして掴みたいアンタには一生無理でも、私ならきっと出来るわ」
「それは強者の理論ですよ。誰も彼もが姉さんみたいな強さを持ってるわけじゃない。自分を星の高さに引き上げる強さを持ってなんかいない。
だから自分より高い場所で輝く星に嫉妬して、引き摺り下ろしたいと願うんですよ」
「弱さを盾に己の浅ましさを他人に押し付けないで欲しいわね。怠惰な者の手に望んだものは手に入らない。そんな事、誰だって分かってるでしょうに」
「ええ、分かっていますよ。それでも欲しいものは欲しいし、憎いものは憎い。人間ってそういうものでしょう?」
何を掴む事も出来なかった手を戻し、桜は凛と向き合った。
叶わぬ願いと知りながら、地を這う星は天へと手を伸ばし続ける。救いを求める為ではなく、この地の底に誰かを引き摺り下ろしたいが為に。
「今度こそ、鬼ごっこは終わりよ。此処が私たちの戦いの終着点。花はないけど、まあそれくらいは許してあげるわ」
天に輝く星に、地を這うしかない星の心は分からない。ただ、自らの行く手を阻むものを薙ぎ払い、願った先へと進むのみ。
そこから先は最早、死力を尽くした総力戦。
屋上に舞う七色の光。
風に舞う呪符を貫く影の乱舞。
所狭しと地を駆け、宝石の輝きを、影の槍を、実の姉妹に向けて殺意を乗せて繰り出すだけ。
語るべきを語り終えた二人の間に、問答はない。
掛ける言葉も、掛ける情けも存在しない。
ただ、目の前の敵を駆逐する──その為だけに、彼女たちは腕を振るう。
「あ、あああああああああ……!!」
呪符を五枚、並べで空中に固定。殴りかかる勢いで放った影の槍は一枚呪符を貫く度にその威力と速度を増し、五枚全てを貫き終えた槍は魔槍の如き異形の大きさとなって凛へと襲い掛かる。
「──Paradigm Cylinder(煌け、七色の光)」
空中に舞う七つの宝石。その輝きをカットによって七色に変化させる宝石の真骨頂。大師父によって残された課題──その末端も末端を紐解き編み上げた凛の奥の手。
この場所を戦いの終着点と定めた以上、出し惜しみはなしだ。秘蔵の七つを用い、完膚なきまでに間桐桜を捻じ伏せる。
先を思い、力を残して倒れることなどあってはならない。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすという。遠坂凛もそれは同じ。敵対者に対して、彼女が容赦した事など一度足りとてありはしない……!
七つの宝石は互いの力に干渉し増幅し合い、この世にはない色を発現させる。それはまるで、万華鏡のよう。あらゆる色を持ち、顔を変える宝石の極点。いずれ凛が至るべき高き峰の上に咲く一輪の花の如し。
鈍色の空を染め上げる極光。闇よりもなお黒々とした巨大な柱めいた槍は、僅かな鬩ぎ合いの後、全てを照らす万華鏡の輝きの前に霧散し──
「ああ……」
今自身が放ち得る最大の一撃を苦もなく消し去った七色の光を見つめ、桜は再び思い知らされた。
────やっぱり、姉さんは強いなぁ……。
間桐桜が持ち得なかった強さ。高い才覚を持ちながら、それに胡坐を掻くことなく修練を積み上げなければとてもではないが届き得ない高み。
地を這い、渋々と受け入れ続けてきた自分とは余りにもかけ離れたその強さは。
憧れを抱き、嫉妬し、憎悪し、恋焦がれたもの。
人が自分にはないものを他者に求める生き物であるのなら、桜にとっては凛こそがその象徴だった。
もっとも身近にいながら、もっとも遠くに感じていた存在。手をどれだけ伸ばそうと、決して掴み得ない遠い背中。
迫る光。
全てを溶かす万華鏡。
抗う術も、抗う意思も失った桜は、静かに瞳を閉じ、その終わりを受け入れた。
「死にたくもないくせに、死に場所を探す真似はもう止める事だな」
「────……え?」
抗える筈のない死の奔流を目前に、何処かで聴いた声を聴く。全てを呑みこむ筈の光の乱舞は、突如現われた赤い背中によって阻まれる。
「アー……チャー……?」
刹那にも満たない時間の中、見つめた背中は満身創痍。赤い外套はより濃い血によって覆われ、無手のまま、凛の放った万華鏡の輝きの前に立ちはだかる。
何故。
どうして。
遠坂凛のサーヴァントであるアーチャーが、間桐桜を庇う理由はない。空に手を伸ばしてた最中に消えた令呪から、ライダーの消滅は窺い知れたが、こんな展開は予想の外。敵のサーヴァントが敵である自分を主に逆らい守るなど、まるで意味が分からない。
いずれにせよ、桜を呑み込む筈だった光の奔流は赤い騎士の手によって阻まれた。極光が消え去った後に残ったのは、愕然と見つめる遠坂凛と、呆然と視線を彷徨わせる間桐桜。そして、瀕死でありながら、膝をつきながらなお存命し続ける弓兵の姿。
「アーチャー……!? 貴方、なんで……!」
「ふん……我ながら驚くほどに生き意地が汚いな。だがそれも限界か。流石にもう長くは保たん」
足の先から、指の先から光の粒になっていくアーチャーの姿。自らの消滅をかけた黄金の剣を振るい、サーヴァントにさえ通ずる凛の一撃を受け止めたのだ。生きているだけ奇跡であり、残されたのは僅かな時間。
零れ切らなかった砂が、ただ落ちていくのを待つだけの猶予。だがそれでも、まだ完全に消えていないのなら出来る事もあるだろう。
「凛、君の戦いは此処で終わりだ。もう聖杯を掴む事は叶わない。よもやサーヴァントを失った身で、戦い抜けると思い上がるほどには腑抜けてはいないだろう」
「なんで……令呪で命令したでしょうに。私の、邪魔をするなって……」
「死に掛けの人間は、どうやら想像以上に足掻けるものらしい。元よりそう強力ではない命令だ、面と向かってどけとでも言われなければ、拘束力も弱まるというものさ」
そもアーチャーは己の命を度外視していた。凛の命令が戒めとなって手足を縛ろうと、ステータスの低下を気に掛ける必要がないのなら命令に意味などない。それこそ、彼自身が言ったように目の前で直に命令を告げられない限りは。
「何故そこまでして私の邪魔をするの……? そんなにも、私が気に入らないかしら」
「いいや、私は君が思う以上に君を気に掛けて来たつもりだ。だからこそ何度も私は諫言を口にした。マスターが二度とは戻れぬ道に踏み込む事のないように、と」
「…………」
「妹をその手に掛け、父の為に聖杯を掴む……? 呆れるな、自分自身の行動の理由を他者に求めるとは君らしくもない。
そんな強迫観念めいたものに衝き動かされた結果に手に掴んだものに一体どれだけの意味がある。ふと振り返ってみればそこには何も残っていない。轍となった者の怨嗟だけが残るだけだ」
言ってアーチャーは自嘲する。どの口がそんな戯言を謳うのかと。強迫観念に衝き動かされ、遂には世界の外側へと至った大馬鹿者が一体何をほざくのかと。自分自身の全てを棚に上げ、弓兵は続ける。
「まあ……どれだけ説教を述べたところで、君の心に響かない事はもう分かっているさ。ただ、君が譲れぬものをその心に宿すように、オレもまた譲れないものがあったと、それだけの事だ」
「そんなにも、私が桜を殺す事が気に食わなかったの?」
「当然だ。姉妹が殺し合うなど救いがないにも程がある。手を取り合えとは言わないが、殺し合う理由がなくなれば君は手を引くしかない」
「…………」
ライダーは消滅し、街を覆う結界は解除された。アーチャーは深手を負い、もう幾許もない命。
凛も桜も、互いにサーヴァントを失った脱落者。姉妹の殺し合いの前提は聖杯を巡る争いにある。
ならばその戦いから脱落してしまえば、聖杯を賭けて争うという名分がなくなれば、姉が妹を手に掛ける理由はなくなるのだ。
ライダーを消滅させ、自分自身もまた消え去る。それがアーチャーが企てた目論見の正体であり、姉妹の争いを止める為だけに、画策された今である。
「私は……死ななきゃならないんですよ……」
アーチャーの背で、ぽつりと呟かれた桜の言葉。
「お父さんをこの手で殺め、お爺さまも殺したんです。私なんかが、生きていていい理由なんかないでしょう……!?」
「先にも言ったが。死にたくもないくせに、死に場所を求めるのはもう止せ、間桐桜。生きていく事に理由が必要なら、オレでも凛でも好きに恨めばいい。それが生きる糧になるのなら意味もあろう」
「────……っ」
「そんな泣きそうな顔で死に場所を探すくらいなら、俯いたままでも生きてみろ。それでも死にたいのなら、自分の喉元に刃でも突きつけてみるがいい。死を恐れる君が、自殺など出来るとは思えんがな」
俯き、眦に大粒の雫を溜めながら、吐き出すように桜は言った。
「ひどい……人ですね……」
それに弓兵は苦笑を返す。
「ああ……そうとも。オレはそういう人間だ。決して英霊などと崇め奉られるようなものではなく、ただの──」
多くを救い、少数を切り捨ててきた殺人者。
望むと望まないとに関わらず、死に瀕した名も知らぬ誰かを救い、この胸に宿る理想の為に走り続けただけの大馬鹿野郎。
ただ、正義の味方に憧れただけの、弱い人間だ。
それでもこのちっぽけな掌で救えるものがあると信じた。多くを救う為に、より多くを取り零していた男が末期の夢で願った小さな願い。
生前、取り零したものを掬えたかもしれないのなら、この変わり果てた世界に生きた意味もあるだろう。
「────凛」
消えかけの身体で、失われていく視界の中、愛しい人の名を呼んだ。
その最後まで冷酷な魔女の仮面を脱がせる事は叶わなかったが、その仮面の奥から時折覗くアーチャーの知る凛の顔を信じている。
森での戦いで桜を殺めなかった事も、この学園での戦いでも倒しきれなかった事も、全て彼女の良心が願った結果なのだと。
止められない強迫観念を、止めてくれる誰かを信じて、あの一撃を見舞ったのだと。
全ては憶測。アーチャーの願望だ。結局最後まで心の内を理解出来なかった主なのだ、全部分かっているなどとは口が裂けても言えないが、彼女ならば、もう間違える事はないだろう。
欠けた瞳で視線を遠く投げる。
冬木を分かつ未遠川のその向こう。
鈍色の空の下で輝きを強める黒き太陽。
この戦いが十年のずれを引き起こしていようとも、アレがアーチャーの知るものと同位なのであれば、起こり得る結末は想像が及ぶ。
真に正義の味方を標榜したかったのなら、あの輝きこそを止めるべきだったのだろう。この世の地獄が産み落とされる事こそを、止めるべきだったのだと。
いや、この戦いで接点こそ余りなかったが。
────オレは、信じている。
この心に理想を刻み付けた誰かと。
この心が尊くも美しいと信じた誰かを。
このちっぽけな掌で救えなかったものを、彼らならば救ってくれると心から信じて。
小さな笑みを浮かべ……
赤い外套を纏いし弓の英霊は──静かに、この世を去って行った。
+++
後に残されたのはサーヴァントを失ったマスター達。御三家のマスターであるが故に手の甲からは令呪こそ失われていないが、再契約には逸れサーヴァントが必要だ。この局面、街を覆う霊気からしても、そんな都合の良い物件が転がっている筈もない。
彼女達の戦いは終わった。
多くを失い、手に掴んだものは何もない。けれど、此処で歩みを止める事もまた許されない身の上ならば、全てを受け入れて前を向いて進むしかない。
「何処へ……行くんですか……」
背を向け、階下へと通じる扉へと歩み出した凛を止める桜の声。崩れ落ちた姿勢で、睨むように見据えている。
「何処って、後始末よ。アンタを追い詰める為に学園に火を放ったから、それをせめて始末しておかないとマズイもの」
「なんで……なんでですかっ!? さっきまで私をあんなに殺したがってたくせに、もうどうでもいいんですかっ!?」
「ええ。アーチャーが言ってたように、私にはもう貴女を殺すだけの理由はないわ。街の結界も解除されて未遂に終わった。お父さまの事は残念だけれど、参加者を参加者が殺したところで罪に問うのは筋違いだから」
「聖杯はっ……!」
「サーヴァントもなしに残る参加者を倒せるなんて思い上がっちゃいないし、都合良く逸れサーヴァントがいる保障もない。
分の悪い賭けは嫌いじゃないけど、負けの見えてる勝負にベットするほど狂ってもいないつもりだから。それに──」
この肌を刺すような感覚。街全体を包み込む、血の要塞とは毛色の違う悪寒。どうにも何やらきな臭い。
アーチャーが最期に見つめていた場所。遠く新都中心付近には何か黒い穴のようなものが望めている。あれが聖杯と関わりのあるものならば、凛でさえも知らない何かが起ころうとしているのは間違いない。
「私は結末を見届けるわ。貴女はどうするの、間桐さん? 此処で這い蹲って、涙を流したままでおしまい?」
「────……っ」
「死にたいのならお好きにどうぞ。止めはしないし邪魔もしない。でもね、貴女が罪を負うべきだと思っているのなら、生きなさい」
「──────」
「死は救いにも罰にもならないから。生きること──それがきっと、貴女に課せられた罰だと思うわ」
そして凛もまた同じ罪を背負う。父を見殺しにし、その遺志を果たせなかった罪は、彼女が生きて己の力で果てへと辿り着く事で清算する。
泣いて乞う真似も懺悔も必要ない。過ぎ去ったものと踏み越えたものに胸を張って、少女は道の彼方を目指していく。
「……生きていく理由のない人に生きろだなんて……誰も彼も、辛辣ですね……」
「当然よ。この世界は残酷だから。ただ生きているだけで苦しいし、呼吸を刻むのは辛いもの。でもそれが、生きるってことでしょう?」
救いなんてのはあったとしても一握り。大半は苦痛と悲嘆に彩られている。それでも、死ねないのなら生きるしかない。どれだけ苦しくとも、理由などなくとも、その心臓が鼓動を刻み続ける限り、その足で歩き続けなければならない。
「────桜」
階下へと通じる扉の前で、振り返る。今までにない、柔らかな声音で凛が呼ぶ。崩れ落ちて、声を上げる事もなく屋上の床を見つめるだけの妹の名を。
「どうしようもなくなったら私のところへ来なさい。私は貴女を救うつもりなんてこれっぽっちもないけれど、悪いようにはしないから」
「……ねえ、さん……?」
それだけを残し、姉は去って行った。
その言葉の真意は分からない。けれど、背を向けるその刹那に見えたのは、口元に湛えられた柔らかな笑み。
あの遠い日、陽だまりの中で見続けてきた背中が後を追う少女へと振り返り、差し出された手を掴む時に見た笑みと同じもの。
「ねえ……さん……」
まだ失われていないものがこの世界にはあった。
温かな記憶の在り処は、変わらずずっとその場所にあったのだ。
「うぁ……」
それが彼女にとっての救いとなるかは分からない。
明確なのは、絶望の底にいた少女はこの時、生まれて初めて声を上げて泣いた事。
薄暗い闇の淵で、声を押し殺して泣く事しか出来なかった少女が、誰に憚る事もなく幼子のように大きな声で泣いた。
それはまるで──産声のように。
今は見えない、遠く輝く天の星へと、届けとばかりに。