/35
今夜はいつものように空に煌く星が見えない。どんよりとした分厚い灰色の雲が遥か彼方からゆっくりと迫り、果てまで続く夜空を覆い尽くしていく。
遠坂邸の屋根の上。
哨戒を任ぜられたアーチャーは一人、呆とそんな空を見上げていた。
彼の心に渦巻く想いは如何なるものか。自分の知る世界とは余りにかけ離れてしまった世界。何が原因かも分からないこの世界。唯一変わらないと信じた少女の心は見通す事すら叶わず、ならばこの手に握る剣は一体何の為に振るうべきか。
生前、迷う事なく果てを目指し走り続けた。たとえその先に破滅しか待っていないと理解しても、それでもがむしゃらに走り続けた。
果ての先にあったのは無念と悔恨。自らの愚直さを呪い、胸に刻まれた呪いを恨み、渦巻く憎悪だけを糧として一縷の望みに全てを賭けた。
ああ、それはもういい。此処が己の望みの叶わない世界ならば、いつまでも引き摺り続けるような無様はあってはならない。
永遠を延々と繰り返せばきっと、己が願った世界へと至る事は可能だから。万に一つで足りないのなら、億に一度の奇跡に賭ける。
この心がどれだけ磨り減り擦り切れようとも、その願いは今でもまだ心に残っている。
だからそれはもういい。すっぱりと諦め、切り替える。今彼の心にあるのは一人の少女の面影だけ。冷徹な魔女として振舞い続ける、遠坂凛の幻影だけだ。
「アーチャー」
不意に、横合いからかかる凛とした声。振り向けば、そこにはガウェインの姿があった。
「何を呆けているのですアーチャー。それでは哨戒の意味などないでしょう」
「ああ、耳に痛いな……」
先日まではガウェインが哨戒についている時に色々とちょっかいを出してきたアーチャーだ、今自分が逆の立場に置かれて、そしてこの距離までガウェインの接近に気付かなかった迂闊さは、弓兵にあるまじき失態だ。
「それで、何用かなガウェイン卿。まさか私に喚起を促す為にわざわざ屋根の上に登ったわけではあるまい?」
「それも一つの理由ですが。ええ、アーチャー。先日の続きを……いえ、答えを貴方に告げる為にこうして参じた次第です」
アインツベルンの森での決戦前夜、二人は今と同じく屋根の上で問答を繰り広げていた。
アーチャーは言った。ガウェインの剣には意思がないと。彼の在り方を指し、自らの意思でその太陽の剣を振るっていないのだと。
ガウェインは森での戦いでその意味を思い知った。理性を消失し狂える獣に成り果てたかつての盟友。そんな男が振るった意思持つ一閃。
それは太陽の加護を得たガウェインの最大の一撃を斬り裂いた。生前ですら叶わなかった奇跡を、幸運を、意思の力で成し遂げた。
ただ王の為──その一念が太陽の輝きを上回った。唯々諾々と主の命に従うだけだった白騎士の剣を凌駕したのだ。
「なるほど……その答えは、是非聞かせて貰いたいな」
ガウェインが一度この屋敷を離れた事は承知している。恐らく、本当のマスターである言峰綺礼の下へと向かったという事も。
であればこの白騎士はそこで答えを得たのだろう。あの神父がどんな言葉を囁いたのかは知らないが、ガウェインの顔を見れば分かる。
「いや、やはり止めておこう。その答えは君のものだガウェイン卿。私が聞いて良い資格などない」
「何故ですアーチャー。貴方が幾度となく私に問いを投げ掛けてくれていなければ、この答えを得る事も叶わなかったでしょう。資格がない、などという事は有り得ない」
「では告白させて貰うが、私が卿を焚き付けていたのは君を思ってのものではない。ただの八つ当たりだよ」
永遠の王。
少年王。
いつか蘇る王。
今なお呼び声高き彼のアーサー王を知る一人として、この現世で巡り会った王に仕えし騎士に苦言を呈していたに過ぎない。
「彼の王の高潔さを知っている。気高さを知っている。だからこそ許せなかった。王の心を解さず、彼女の心にあんな祈りを抱かせた君達円卓の騎士が」
王は人の心が分からない、とは誰が言った言葉だったか。
だが同時に、王に仕えた騎士達もまた王の心の内を理解しようとは思わなかった。王の迷いなき裁断や揺ぎ無き統制を身を持って味わい、王と自分達は根本的に違う生き物なのだと畏怖を抱いた。
人の身では有り得ない無情。
一切の手心なき断罪。
私を殺し公の為に手を汚す王。
人は理解の及ばないものに恐怖する。騎士達にとってまさに王は恐怖の象徴。海の彼方から襲い来る異民族達と何ら変わらない異物に見えていた事だろう。
それでも王は結果を示し、戦果を示し、騎士の不安を抑え付けた。
たとえ理解の及ばない怪物であったとしても、事実として国を守る為の役に立つのなら致し方ない、と。
けれど頭ではそうと理解が出来ても心まではそうもいかない。自分の上に立つ存在がそんな人間離れした存在だという事を心底認められる者などそう多くはない。心から忠誠を誓える騎士は一握りにも満たない。
だからこそ叛乱は起きた。
だからこそ祖国は滅びた。
人の心の分からぬ王に忠誠など誓えるものか、と。
いつかその心無き刃は自分達へと向けられるのではないか、と。
だがそれは逆に言えば騎士達も同様に王の心を理解しようとしなかったという事。
無慈悲に見える決断の裏にあった軋るような痛みを誰も知らない。
情なき裁断の裏にあった苦渋の思いを誰も知らない。
王が王であり続ける為に封殺した少女の心を──誰一人理解しようとはしなかったから。
「たった一人でもいい。あの時、あの時代。彼女の心を理解する者がたった一人でもいてくれていたのなら、彼女はこんな戦いに臨む事はなかった。
血染めの丘の上で咽び泣くように零した、あんな悲痛な願いなど、宿す事はなかった筈なのだから」
「アーチャー……貴方は……」
まるで見てきたかのように語るアーチャーにガウェインは驚きを隠せない。少なくともガウェインの記憶にアーチャーと合致する風体の騎士は見覚えがなかった。
だというのにこの赤い騎士は知り過ぎている。当時の円卓の面々は勿論、この戦いの中で知るまで思いも至らなかった情報を知っている。
その正体についての猜疑が再び鎌首をもたげる。誰も名を知らぬ英霊。円卓の騎士でさえ知り得なかった王の心を解す者。共通項なき不明さが、なおその疑念に拍車をかける。
しかしガウェインは『いや……』と心の中で首を振った。
今更この弓兵の正体を論じる必要はない。たとえ問いかけたところで不都合ならば答えないだろうし、それを知りたいと思うのは欲深いというもの。
知る必要があるのはこのガウェインではない。そしてそんな余分を気にかけていられるほどの余裕があるわけでもないのだから。
「これで分かっただろう? 私は利己的な憤りで君を唆した。あの王の傍らにありながら何をも為さなかった君達円卓の騎士を言外に糾弾したも同然だ。
その苦悩を知ろうともせず、ただ悪戯に戦火を肥大化させ、あの血の結末を齎した不甲斐無い騎士へとな」
皮肉めいた口調と共に口元を吊り上げるアーチャー。挑発と受け取られかねないその物言いは、けれど王の心を慮ったものだ。
当時の騎士達の誰もが省みなかった王の心。それを理解するが故の。
「今更貴方が敵役を演じる必要などないでしょうアーチャー。貴方の言葉は全て真実、当時の我々が王の下一つになっていれば、あんな結末は有り得なかった。
王の理想を砕き、地に貶めたのは他でもない我ら円卓の騎士だ。特にこの私が己が私情にて剣を握らなければ、救えたものもあった筈です」
だからこそ死の淵で願ったのだ。
今度こそは、と。
叶わなかったものを叶える機会があるのなら。
踏み躙ったものに報いる機会があるのなら。
今度こそは間違えないように──と。
「私はまた同じ過ちを犯そうとしていた。それを糺してくれたのは他ならぬ貴方ではないですかアーチャー。
己の罪を清算する為に、今一度見える事の叶った王を蔑ろにしかけた我が心に光明を齎したのは貴方だ」
「……押し付けがましい救済を人は独善と呼ぶ。私のそれはもっとたちが悪い。先にも言ったが私のそれはただの八つ当たりだ」
「独善であろうと、八つ当たりであろうと、それでも私はそこに答えを見た。であればそれは、間違ってなどいないでしょう」
「────」
はっとしてアーチャーはガウェインを見た。普段と変わらない柔和な笑み。そこにはかつてない意思が窺える。
なにものにも揺るがぬ鋼の心。たとえアーチャーの言の全てが憤懣から来るものであったとしても、己一人では得られなかった答えを得られたのだから、それは何も間違ってなどいないのだと。
「貴方の想いの発端がどのようなものであれ、結果である私の意志にもう揺らぎはない。だから貴方に感謝を、アーチャー。
ええ、私の意志を聞く気がなくとも、この想いだけは受け取って欲しい」
「……頑固な事だ」
はぁ、と弓兵は嘆息を零す。
「それは貴方もでしょう、アーチャー。お互いままならないからこその今でもある」
「違いない」
そして二人は小さく笑った。未だ戦火に満ちるこの戦場の中で、心からの笑みを浮かべあった。
「では次はこちらの番だアーチャー。貴方の顔に見て取れた曇り、その心を晴らす手助けをさせて欲しい」
「いや、その必要はない。私の迷いも今のやり取りで晴れた。卿の手をこれ以上煩わせる必要もない」
自分自身が口にした言葉は、ガウェインという鏡に反射され己の心を突き刺した。押し付けがましい救済も、独善も、今に始まったものではない。
アーチャーは初めから『そう』であった筈だ。小器用に立ち回る術を覚えてからはなりを潜めていたが、本来この男はそんな機微に疎い愚鈍な男であったのだから。
他人の理由など知ったことか。救いを求めようと求めなかろうと、瀕した相手が視界にいれば助けるのがこの男の在り方。自己犠牲を厭わぬ偽善の塊。それをよしとして道の果てへと駆け抜けたのではなかったか。
ならば、上っ面を飾る仮面など脱ぎ捨てよう。この心に正直に、為すべき事を成し遂げよう。でなければきっと、あの分厚い仮面で心を覆い隠した少女に、この想いは伝わらないから。
前へ。ひたすらに前へ進む。己の願望など叶わぬ変わり果てた世界の中で、それでも守りたいと願ったものがあるのなら。
そう二人がようやく、己の心と向き合ったその時────
ずん、と目には見えない重さが肩に圧し掛かるような衝撃と、夜の黒を塗り替える赤が世界を覆った。
「なん──」
「これはっ──!?」
夜空を覆う赤い天蓋。アーチャーやガウェインの目がおかしくなったのではなく、文字通りこの街全体が何か得体の知れないものに覆い尽くされている。
「アーチャー! ガウェイン!」
異常を察知したのか、邸内から凛が躍り出てくる。二人の騎士は庭へと降り立ち、少女と向き合った。
「何が起きたの、二人とも」
「いえ、我々にもそれは分かりません、レディ・リン。哨戒をしていた折、突如世界が赤く染まったのです」
「…………ライダーの仕業だな」
困惑を滲ませる凛とガウェインを他所にアーチャーは冷静にそう告げた。
「森から帰還した際に告げた通り、間桐の擁するライダーは神代の怪異メドューサだ。これは彼女が持つ石化の魔眼、天馬を繰る手綱に次ぐもう一つの宝具──」
────他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)
結界内に存在する者を溶解、魔力へと変換し吸収する鮮血の神殿。生きたままその血を飲み干す吸血種の持つ特性、その具現。
「少なくともこの街に鮮血神殿を形成し得る基点は一つも見つかっていなかった。であればこれは、令呪による強制発動だろう」
長い時間を掛けなければ組む事すら叶わない高位魔術式。その規模ゆえに基点を構築すれば魔術師ならば容易に発見する事が出来る。
その解呪が熟練の魔術師を以ってしても容易ならざる難易度だとしても、これまで誰の目にも留まる事なく構築し終えていた……などという事は有り得ない。
構築過程を短縮しうる唯一にして無二のもの──それが令呪だ。
「ライダー……つまり桜の仕業ね。どういうこと? あの子、まさかこの街の人間全員を消し去ろうとでも言うの?」
「いいや、それもどうだろうな。本当にそのつもりなら既に我らの身にもその重圧が襲っている筈。先に感じた結界発動による魔力の波動以外は感知出来ていない、魔力はまだ奪われ始めていない」
「ではアーチャー。ライダーの目的は魔力を奪う事ではないと?」
「最終的にはどうか分からん。今のところはまだ、という話だ」
「いいえアーチャー。良く分かったわ。悪いけど、屋根の上まで運んでくれる?」
アーチャーは頷き、凛をその腕に抱え壁面を蹴り上げ屋上へと戻る。ガウェインも随伴する。
魔術的に強化した瞳が映すのは見渡す限りの赤い世界。空も地上も、一面の赤。常軌を逸する規模の結界展開。まさしく冬木市全体をこの結界は覆っている。
「やっぱりね。この結界、完全じゃないわ」
街一つを覆い尽くす程の規模の結界を令呪の一画で構築してしまえるとは思えない。令呪とて万能ではないのだ、限定空間内ならばまだしも、半径にして優に数十キロメートルを超える市全体をカバーするのは不可能だ。
令呪に出来るのはマスターとサーヴァントの魔力を合わせた範囲内に限られる。治癒能力がない者の傷は一瞬では癒せないし、次の攻撃は外すなと言われても必中能力のない攻撃は外れる可能性がある。
この結界はそれらとは違い、ライダーの能力を拡大したものだ。だから不可能ではなく実際に発動しているが、短期的命令ではなく長期に及ぶものほどその効果を減衰する。
結界の目的が極短期的な魔力の蒐集ならば可能でも、結界の維持がその目的であった場合は効果の減衰は否めない。
「令呪を使って桜が行使したのは結界の展開まで。その発動は注文に入っていない」
だからこそ今なお結界は維持されているし、魔力の搾取は行われていない。起動状態に入ったがゆえに魔的なもの見る目を持つ者には世界は赤く染められているが、現状では魔術師への被害は極軽微、一般の人間への被害も最小限と予測される。
「ねえアーチャー? 桜は何でこんな真似をしたと思う?」
「……体の良い人質、と言ったところか。街全体、全ての住人を人質に何かを行おうとしている」
「そ。で、ガウェイン。これは誰に対する人質だと思う?」
「無論それは聖杯戦争の参加者全員でしょう。しかしあえて特定人物に限定するのなら──レディ・リン、貴女しかいない」
「……でしょうね。正直、ここまでやるとは思わなかったけど」
起動状態に入った結界内の人間は、何もしなくともその体力を奪われ続けていく。防護手段のある魔術師には効かなくとも、何の対策も持たない一般人は気だるさを覚え、やがて昏睡に至るだろう。
溶解が起こるのはその後。起動から発動に切り替わった後。
「桜があと何画令呪を残してるかは知らないけど、最低一画は残っている筈よ。もし私が桜のところへ辿り着けないようであれば、きっと」
残った令呪を使い結界を発動する。そうなれば全てが終わりだ。街の住人は全て血液へ溶解され無人となり、聖杯戦争どころの話ではなくなる。明日の朝日を拝める冬木市住民は誰もいなくなる。
それにこれだけの規模の結界だ、霊脈にも著しい傷を残すと思われる。最悪今後の聖杯戦争を執り行えなく可能性さえもあり、そもそも街を無人にするような不始末を行えば凛は審問を受ける事間違いない。
六十年後の心配より、数日後の心配。数日後の心配よりも明日の心配。そして明日の心配をするくらいなら、今全てに決着を着けるべきだ。
「綺礼、聞こえているんでしょう? 令呪を使ってガウェインに太陽の加護をお願い」
耳を飾るピアスへと語りかける。この事態は教会も把握している筈。ならば凛の声はきっと届くだろう。
程なく、ガウェインの身体に光が宿る。夜にあって輝く太陽の祝福。白騎士の身体に力が篭る。
「ガウェイン、先行して頂戴。私は少し準備があるし、他の陣営がこの機に仕掛けて来ないとも限らないから、アーチャーには一緒に来て貰わないとならない」
「了解です」
「それと、これ持って行って。簡易な魔力信号弾よ。もし桜かライダーを見つけたらそれを打ち上げて。他の敵とかち合った場合は、対処は任せるから。
もう一つ。こちらが見つけた場合も同様に信号弾を上げるけど、援護は必要ないわ。こっちはこっちで始末をつけるから。貴方は他の陣営への警戒をお願い」
「承知しました。レディ・リン、アーチャー、武運を」
白騎士は目礼を残し闇へと飛び込む。屋根を伝い疾風の速度で消えて行った。
「アーチャー、下へお願い。準備と、一応綺礼にも連絡を入れておかないと」
「了解した。私は外で待っている」
凛を地上に降ろし終えたアーチャーは再度壁を登る。鷹の目を持つアーチャーであれば結界の基点の幾つかを発見出来る可能性もあるし、運良く桜かライダーを捉える事も出来るかもしれない。
とはいえ、そんなものは楽観だ。これが凛に対する挑発、脅しの類であればそう簡単に見つけられるようなところに潜んではいまい。
そもそも室内に潜まれていれば外からの目視は絶望的なのだから、あくまで凛が準備を整え終えるまでの猶予時間を無駄にしない為のものだ。
「アーチャー!」
階下から怒声を聞く。思ったよりも随分と早かった。それだけ、この結界の危険性を凛は把握しているという事だ。
「準備は終えたか」
地上へと降りる。
「ええ。本当は貴方にも先行して桜達を探して欲しいところだけど、他の連中の襲撃や桜の狙いが私とアーチャーの分断にある可能性が考えられる以上は、悪いけど一緒に行動して貰うわよ」
「ああ」
「それと、今回は邪魔をしないで」
「…………」
森での戦い。凛は桜を追い詰め、後一歩にまで迫っていた。それを押し留めたのがアーチャーであり、結果、桜は倒せず時臣は殺され、今の状況を作り上げた。
直接的ではなくとも間接的な要因として現状はアーチャーにも過失がある。あの時、桜を亡き者としていれば……などという回顧には意味などないが、また同じ事をされては敵わない。
「私達の因縁を貴方に邪魔立てされる謂れはないし、今回はそれ以上に一人の魔術師としてあの子は許してはならない」
「…………」
「魔術は秘匿されるべきものであり、悪戯な犠牲を拒むもの。結界はまだ発動していないけれど、実際に被害は出るだろうし見過ごせばより甚大なものとなる。
これは遠坂と間桐の問題以前の魔術師としての問題。この地の管理を預かる者としての責務の話よ。分かった?」
「承知している。要は犠牲者を出す前にライダーを斃せばいいだけの話だろう」
「ちょっと、ちゃんと話聞いてる? ライダーを斃すのは前提だけど、私と桜の邪魔をするなって言ってんの」
「知らんな。今回のオーダーはこの結界の解除が至上命令だろう? ならば最優先討伐目標はライダーであり、当然私もそれを優先とする。
しかしその後の事まで束縛されるのは気に入らない。どうしても私の行動を縛り付けたいのであればその令呪で戒めるがいい」
「そう──じゃあ命令するわ、私の邪魔をしないで」
思考の隙間もなく、冷徹に凛はその命令を令呪を用い下した。
「────ッ」
アーチャーの身体を奔る電流のような痛み。凛の意思に逆らう行動を取れば強制的にその身を戒めようと今のように痛みが奔る。
「フン……そのような命令の為に貴重な令呪を一画無駄撃ちするか」
「無駄ではないでしょう? 現に顔色、少し悪いわよ?」
画一的な命令でない分、その威力は押して知るべしだが、凛の魔術師としての能力の高さが災いしてか、アーチャーを縛り付けるコマンドは強力な枷となった。
「別に貴方の能力を信用していないわけじゃないわ。むしろ弓兵としてはその応用力の高さに驚いたほどよ。剣とか槍も出してたし。
真名もこれまでに明かしてないんだから言いたくないんでしょう? なら聞かないし興味もない。有用なその能力を私が聖杯を手に入れる為に使いなさい、そして私の邪魔をしないで。分かった?」
反抗の意思を示すだけで鋭い痛みが身体を襲い、ステータスにまで影響が出る。アーチャーは嘆息と共にせめてもの皮肉を口にした。
「……了解した。地獄に落ちるがいい、マスター」
「言われなくても分かってるわよ、私の行き先が地獄だって事くらい。でもね、地獄に行く前に片付けておかなきゃならない事が山積なの。だからその為に、力を貸しなさいアーチャー」
強化した脚力で地を蹴り上げ、向かいの民家の屋根へと登る。無駄な時間を浪費した。一刻も早くこの広い街から桜を探し出さなければならない。
悠長に地面を走っている暇はない。ショートカットして魔力の濃い地点を目指す。そこにこの結界を構築している基点がある筈だから。
魔女には地獄の底が似合いだろう。だがその前に果たすべき責務がある。やり遂げなければならないものがある。
赤い従者を従えて、冷徹な魔女の仮面を被った少女は進む。
父の形見である紅玉の杖をその手に、その手で実の妹に断罪を下す為に。
+++
同刻、深山町の一角に構える武家屋敷。
その庭には衛宮切嗣を筆頭にセイバー、キャスター、そしてランサーが集っていた。
この結界が誰の手によるものか、というのはアーチャーのように明確に断じられるだけの要素が彼らにはない。ただ、残る面子から考えればライダーであろう、という仮説は立てられた。
これだけの規模の結界を構築出来る可能性があるのはこの場にいるキャスターを除けばライダーしかいない、というのがその根拠だが、外れている可能性は極めて低いと誰もが認識していた。
「それで、どうするのかしら」
今後の動きについてをキャスターが問う。
「まだ結界は起動待機状態、構築されただけにも等しいけれど、いつ本格的な搾取が行われるか分からないわ。
本当、呆れるほど愚かな手ね、たとえこんな手段が可能であっても、実際に行えばどうなるかなんて分かるでしょうに」
キャスターも時間と資金が潤沢にあるのなら、同規模の結界を構築するのは不可能ではない。事実として、アインツベルンの森一帯を神殿化している。
ただキャスターならばこんな愚かな一手は打たない。街全体を人質に取るのは有用であっても、リスクに対してリターンが割に合わない。
魔力が欲しいのなら静かに、少しずつ街全体から搾取する。こんな一夜で全滅紛いの結界を張れば敵も当然にして動くし、四面楚歌へと追い込まれるのは明白だ。
こうしてアインツベルンが対策を練っているように、他の陣営も同様だろう。
幾ら街が広くともいずれ追い込まれる。追い込まれて人質を人質として使えず、結界を発動してしまえばそれで終わり。多大な魔力を得ても結果が死では意味がない。この結界を構築した時点でほぼ詰んだも同然だ。
ただ、警戒すべきなのは──敵の目的が勝利ではない場合、だ。
「キャスター、イリヤは今何処にいる?」
切嗣はイリヤスフィールの服に発信機を仕込んでいたが、間桐邸でロストしている。敵もそこまで無用心ではないとは思っていたので問題はない。イリヤスフィールとパスを繋いでいるキャスターであればほぼ正確な位置も把握出来る。
「きっちりとした位置までは分からないけれど、新都の中心付近ね」
「…………」
そこにあるのは住宅街と冬木市民会館が主な建造物。そして後者は今回の降霊の儀式の場だ。偶然にしては出来すぎている。
「イリヤの状態は確認出来るか?」
「異常は今のところない、という程度ね。後、私達の誰かがイリヤスフィールに接触しない限りあの子は目覚めないわよ。そういう風に『教えて』あるから」
切嗣の目を盗みイリヤスフィールに何かを吹き込んだという事か。だがそれはイリヤスフィールの安全を危惧してのものだろう。自らの手元を離れた場合の対処策。入念な事だ、と切嗣は思う。
「……僕達がすべき事はこの結界の解除──ライダーかそのマスターの排除と、イリヤの無事の確保だ」
「あら? 自分から手離しておいて今更心配?」
「状況が変わった。それだけの事だ」
流石に切嗣も間桐がいきなりこんな突飛な行動に出るとは予想出来なかった。間桐臓硯の入れ知恵か他の要因かまでは分からないが、打って出るだけの思惑、あるいは勝算があるのは間違いない。
敵の目的など切嗣は興味がない。自らの道を阻むのなら排除する……思考としてはそれで完結している。
「キャスター、おまえはランサーと共にライダーとそのマスターを探せ。こちらはイリヤを確保する」
「……一応訊いておくけれど、何故貴方達が確保なのかしら」
「イリヤがまだ間桐の手にあるのは間違いないが、そこにライダー達も一緒にいる保証はない。ならば索敵に長けたおまえと速力のあるランサーを、姿の見えない敵を探す為に使う方が効率的だ」
「…………」
「イリヤの方は確実に護衛がいる。恐らくはバーサーカー。最悪の場合そこにライダーもいる可能性があるが、セイバーならば単独でも後退するくらいは出来るだろう」
「はい。ライダーが持つという石化の魔眼(キュベレイ)も私なら抵抗(レジスト)出来ます。バーサーカーの方も手の内は分かっているので遅れを取る事はありません」
そしてバーサーカーはあの森での戦いの直前にセイバーに対し誓いを立てている。同盟が事実上破棄された現状、どう出るかは不明ながら、その辺りも状況を優位に動かせる可能性を有している。
「如何に従えているとはランサーに単独行動はさせたくない。キャスター自身も対魔力持ちとかち合う可能性を思えば同様だ。であればこの配役に文句などないと思うが?」
横目で魔女へと視線を向ける切嗣。その先には妖艶な口元。この結論を初めから分かっていてわざわざ説明させた事が窺える。
「そうね、異論はないわ」
言って、魔女はローブを翻す。
「念の為、霊脈を使って街全体に薄い催眠を掛けておくわ。結界の効果で直に衰弱するとしても、その間に問題は起きかねないし、完全に発動してしまえば全部お仕舞いだもの。上手くこの夜を無事に越えた場合の保険は必要でしょう?」
「ああ、助かる」
気だるさの原因はただの疲労の蓄積と誤認し、昏睡者を目撃したとしてもその目撃者自体も直に昏睡するかキャスターの催眠に掛かり眠りに落ちる。
その辺りに間桐は頭が回っているのかいないのか、理解していてあえて無視しているのかは不明だが、これで結界の完全発動までは街の住人に混乱は起きにくくなる。
後はターゲットを始末し結界の解除を行うだけだ。
「じゃあ先に行かせて貰うわ。ランサー、付いて来なさい」
「あいよ」
気だるげに言ってランサーは浮遊するように塀の外へと向かった魔女に随伴する。庭に残ったのは切嗣とセイバーだけ。
白銀の少女が見上げた空は赤い色。
真夜中だというのに夕焼けよりも濃い血の赤だ。
この赤さが見えているのは彼らだけ。魔術を知らない一般人には何の変哲もない夜として映っているだろう。
知らない内に体力を奪われ、合図一つで身体を血の塊へと変えられる地獄にいるとは、夢にも思う事はなく。
「ではマスター、我々もイリヤスフィールの救出に向かいましょう」
武装したセイバーが振り仰ぐ。けれど切嗣は悠然と縁側に腰掛けた。
「マスター……?」
コートの懐から煙草を取り出し火を灯す。吐き出した紫煙は風に揺らめいた後、空に吸い込まれるように消えて行った。
「────イリヤは、助けない」
「は……?」
突然の切嗣の宣誓にセイバーは瞠目する。今、この男は何と言ったか。イリヤスフィールを助けないと、そう言ったのか。
「……説明を求めます」
先程の作戦説明を根本から覆す切嗣の言葉。であれば当然、その行動の理由を問うのは筋だろう。
「イリヤを助ける必要はない。放っておけばいい」
「何故です……! 先程貴方は助けるとそう言ったではないですか!」
「…………」
切嗣は答えない。元よりセイバーとの会話を極力避けているような節がある切嗣だ、無理に迫っても答えを引き出す事は無理だ。
だからセイバーは考えた。切嗣の言葉の意味を。これまでの発言から想定出来る、この男が一体何を目的としているのかを。
イリヤスフィールを間桐へと差し出したのは切嗣自身だ。けれど今現在の展開は予想外の筈。だからこそセイバーも先の作戦を了解した。
敵の懐に潜り込ませたトロイアの木馬も、こちらの思惑と違っては上手く機能しない。ゆえに一旦手元に戻してから次の機会を窺うものだと。
だが切嗣は必要ないと、そう言った。木馬は木馬のままでいいと。敵の手の中にあっても何ら問題などないのだと。
此処から推測される切嗣の狙いとは何だ。イリヤスフィールを使い何を目論んでいる?
「いや……」
そもそも本当に、切嗣はイリヤスフィールを何かしらの策略の為に利用するつもりがあるのか? 逆に手元にイリヤスフィールがいない事……それそのものが切嗣にとって都合が良いとすれば?
イリヤスフィールがいないからこそ可能な事とはなんだ。そもそもこの推測が正しいという確証は何もない。答えは切嗣以外は持ち合わせていない。
「マスター、貴方の思惑がどのようなものであれ、この事態は想定外の筈だ。その上で御息女を守ろうとしない理由が、私には分からない……」
「…………」
「ですがこの身は彼女の剣となる事をも誓った身。森の戦いの折は策の為というマスターの言葉を信頼し静観していましたが、これ以上は見過ごせない。
無為にイリヤスフィールを危機に晒しておく事は好むところではない。マスターが赴かずとも私が──」
「セイバー、許可なくその場を動くな──令呪を以って命ずる」
「なっ……!?」
セイバーの足を縛る目には見えない茨の鎖。まるで石膏か何かで塗り固められたかのように彼女の足は動かない。地に根を生やし、地下から見えない腕で掴まれているかのように令呪は彼女を大地に縛り付けた。
「マスターッ、貴方は……!!」
「囀るなセイバー。その口も令呪で縫い付けて欲しいか」
「くっ……!」
セイバーの対魔力の高さを警戒してか、切嗣は令呪発動直後から己が従者に回す魔力を最小限に制限している。
単一の命令であるがゆえにその効果は凄まじく、魔力さえも絞られては抗えない。本来逆らえるだけでも破格というもの。じりじりと足を動かしているセイバーの意志力と対魔力は異常に過ぎる。
とはいえ、どう足掻こうが切嗣の解除命令がなければこうしてミリメートル単位で動く事しか出来ない。抵抗が出来てもその抵抗自体が無意味では何の意味もない。
セイバーの動きは封じられたも同然。まさか本当に口を封じる為に令呪を使うとは思えないが、有り得ないとも言い切れない。思惑の読めない主の前で、無様にもがき続けるしかない。
……イリヤスフィールッ! キャスターッ!
セイバーの心の吼え声になど気付くわけもなく、切嗣はホルスターから抜いた愛銃に一発の弾丸を装填した。
煙草の先から燻る紫煙が、鈍色の空へと消えて行った。
/36
「で、何処かアテはあるのかいキャスター」
青い豹が夜を駆ける。既に戦闘態勢に移行したランサーは赤い槍を手に、屋根から屋根へと跳躍しながら前を行く魔女を追う。
強制的に契約を結ばされたとはいえ、それが与えられた任務であり仕事であるのなら、愚痴も言わずこなすだけの甲斐性を持っている。もっとも、その心の内が外面と同様であるかどうかは彼自身にしか分からないが。
「これだけの規模の結界ならば、最低でも支点が六つ以上、基点が一つある筈よ。解除を狙うのなら支点は全て無視して基点だけを狙うのが好ましいけれど」
基点とはその結界の中心部分。家屋で例えるのなら大黒柱だ。支柱が全て残っていても中心の大黒柱がなくなってしまえば脆くも瓦解するのは当然だ。
「でもどうせ解除は無駄ね。相手に令呪がある以上、下手に解除しようとすれば発動される恐れがあるし、解除出来る保障もない」
神代の怪異であるメドゥーサが組み上げた魔術結界。同じく神代を生きたキャスターならば解除のしようもあるかもしれないが、基点を発見後即座に解除とはいかない。
キャスターの持つ契約破りの短剣、魔を破却する短刀も、この結界が宝具によるものであれば通用しない。どれだけ低ランクであろうとも、ルールブレイカーでは宝具を初期化出来ないのだ。
「だからやっぱり狙うのならマスターとサーヴァントの方。まあ、基点を探すのは悪い事ではないわ。そこにライダー達がいる可能性が一番高いから」
「結局は虱潰しって事か」
「そうでもないわよ? 付近に幾つか点をすで見つけたわ。それが支点か基点かは偽装されていて行ってみないと分からないけど」
「はっ、仕事が早いねぇ。だったらこっちもちょいと気張るとするか」
キャスターの示す方角へとランサーは勢い良く屋根瓦を蹴り上げる。先導していた魔女を追い越し、小高い木々が立ち並ぶ林道を跳躍で以って飛び越え、着地目標は未遠川沿いに広がる海浜公園。
その一角へと着地しようとしたランサーへと、
「────っ!?」
横合いから、高速で回転する剣が迫り──
「はぁ……!」
それをランサーは目視よりも早く認識し、手にした朱槍で一閃の下に薙ぎ払った。
「矢避けの加護を持ってるオレに投擲なんざ通用しねぇって事くらい分かってるだろう。なぁ、モードレッドさんよ」
着地したランサーの前方。弾き飛ばした剣が地に突き立った地点。そこには全身をフルプレートで固めた少女の姿があった。
「…………」
そして、その傍らにはスーツの女。バツが悪そうに、ランサーはそっぽを向く。
「あら、誰かと思えばサーヴァントにサーヴァントを奪われた愚かなマスターじゃない」
「っ、キャスター……」
遅れて到着した魔女がふわりと着地する。挑発めいた軽口に反応し、バゼットはその視線に怒気を込めた。だがそれも数秒。頭に血を上らせたままで立ち回れる相手ではない事など痛いほど理解している。
「わざわざ私達を待ち伏せていたの……?」
「いや? 此処で逢ったのは偶然だぜ。アンタらと同じように結界の基点を探してたらばったり、ってなだけだ。まあ、こっちが基点を探してた理由とそっちが探してた理由が同じとは限らんがな」
言って、モードレッドは剣を引き抜く。夜の中にあって何処までも白く銀色を輝かせる剣を。
「……今がどういう状況か、勿論分かっての発言よね?」
「ええ。この結界がどのような効果を持ち、実際に発動した場合の被害もまた理解しています。だが、その解除は私達の役目ではない」
結界を張った誰かの意図。釣り糸を垂らし、釣り上げようとしている獲物が一体誰であるのか。そこに理解が及んでいるからこその発言。下手に結界の主を刺激し、発動を許すような事になっては目も当てられない。
少なくとも即時発動しなかったのだから獲物が掛かるまでの猶予はある。そして、その獲物にはこんな愚かな暴挙に出た魔術師に裁断を下す義務がある。ならば、部外の魔術師が首を突っ込む必要はない。
これは彼女達の戦いであり、その決着の為の舞台。
そしてバゼット達にとっての決着の舞台が、此処である。
「なあキャスター。オレにはおまえがそんな魔術師としての当たり前の義務や正義感からこの結界の解除を行うような輩には到底見えん。一体何を企んでいる」
モードレッドの不躾な問い。それに魔女は妖しげな笑みを口元に浮かべるだけで、何も答えない。
「まぁいいさ。そっちの理由なぞ知らん。オレ達にはオレ達の目的があるんでな」
「キャスター、ランサーは返して貰う」
モードレッドは剣を、バゼットは拳を構える。既に二人は臨戦態勢。街の置かれている状況など知った事かと、私情にて武器を執る。
「……で、どうするよ」
最低限の警戒を行ったまま、ガリガリと髪を掻きながらランサーは指示を仰ぐ。今の彼のマスターはキャスターだ。令呪の束縛もあって私的な行動は許可されていない。
「…………」
一度こうして見えた以上、逃げを打とうと何処までも追い縋って来るだろう。サーヴァントを失いただの魔術師となりながら、それでも死地に赴いたのだ、生半可な覚悟である筈がない。
そして当然、キャスター自身にも思惑がある。結界の解除が本当の目的ではない、というのは事実。人々に魔女と蔑まれた女に正義を求めるのは酷というものだ。
死するその時まで民衆の望む魔女として振舞い続けた彼女は、死んだ後もそう振舞い続けるしかない。
「……いいわ、遊んであげなさいランサー。貴方もしがらみを抱えたままでは私の傀儡にはなりきれないでしょう?
だからその手でかつてのマスターを──愛しき女を殺しなさい。これは命令よ」
「…………」
魔女が空に舞う。戦士は槍を構える。
「……悪いが。加減は出来ん」
「そんなものがいるか。殺す気で来いよランサー。でなきゃオレの剣がおまえの首を刎ね飛ばす」
モードレッドがバゼットを庇うように前に出る。
バゼットが如何に優秀な魔術師であっても、怪我もあって真っ向からランサーと戦うのは分が悪すぎる。
この決戦における前衛はモードレッドでありランサー。その背後には人の身に余る切り札を持つ女魔術師と神代の魔女が並ぶ。
「──バゼット」
「はい、モードレッド。約束は、忘れていません」
この戦いの意味。
その向こう側にあるもの。
失くしたものは戻らない。
零れた砂は戻らない。
それでもきっと、取り戻せるものがある。
取り戻さなければならないものがある。
だから────
「はぁ……!!」
この戦いに命を賭す。
命よりも尊いと思うものを、取り戻す為に────
+++
薄暗い空間。最低限の照明だけが広大なコンサートホールの一部と舞台の上を照らしている。
間桐雁夜は冬木市民会館にいた。桜に言われた通り今回の降霊の地であるこの場所へと無事、聖杯の器たるイリヤスフィールを届けたのだ。
彼女は今、舞台の中心に横たえられていた。これまでの道程でも同様だったが、起きる気配が微塵もない。ここまで来れば自然な睡眠状態ではなく、故意に眠り続けているものと思われる。
いずれにせよ、騒がしくなくていい。下手に起きて動かれては雁夜も対処せざるを得なくなる。だが今の彼に、そんな余裕は何処にもなかった。
雁夜は舞台横に据えつけられたホールへと降りる階段の上に座っていた。薄暗い照明は彼を照らさず、暗闇の中で沈黙を保ち続けている。
今この街が置かれている状況、桜が行った事も全て雁夜は知っていた。無論、それは桜自身が一度この場所を訪れ説明をして行ったからだ。
今はもう桜はいない。彼女は自身の戦いへと赴いた。その先にある破滅を厭う事なく、全てに決着を着ける為に。
「…………くそ」
止められなかった。
何も出来なかった。
絶望に染まった昏い目をしたあの子に、手を差し伸べる事さえ出来なかった。
人形であった桜の心に芽吹いた意思。自らの言葉で話す彼女に希望を見た雁夜の夢は、夜明けを待つ事なく瓦解した。
間桐臓硯というストッパーを失い、自らに味方する強大なサーヴァントを得た事で、桜は止まる術を失った。
雁夜の言葉など届かない。どれだけ嗜めようと意味などなかった。行く先が望む場所ではなく奈落だと知っても、あの子は自らその先へと踏み込んだ。
「……思えば、時臣が死んだ時に全てが決まっていたんだろう」
実の父からの明確な否定。落胆。
実の姉からの容赦のない蔑み。殺意。
唯一希望と残されていた陽だまりに、彼女の居場所などなかった。誰もあの子を迎え入れてはくれなかった。
絶望の色が濃ければ濃いほど、希望に縋った後の絶望はより鮮明となる。桜の痛みや苦しみを雁夜は理解してやれない。身体を鞭打つ過酷では負けていなくとも、心が折れるほどの軋みを味わった事のない雁夜には、桜の気持ちが分からない。
どんな気持ちであの子は、この戦いに臨んだのだろう。
どんな気持ちであの子は、父と姉の前に立ったのだろう。
どんな気持ちであの子は、父をその手にかけたのだろう。
どんな気持ちであの子は、破滅への道を進んで行ったのだろうか。
「葵さん……貴女が、生きていてくれさえすれば……」
時臣の伴侶。
凛と桜の母。
今は亡き、かつて恋心を抱いた人。
報われぬ恋をした思い人。
彼女が生きていてくれさえすれば、こんな結末はなかった筈だ。
桜を間桐へと養子に出した時だって、彼女ならば涙を流してくれたに違いない。凛を今のような冷徹な魔女へと変えた時臣の教育に異を唱えてくれたに違いない。実の姉と妹が殺し合う様を、きっと止めてくれたに違いない。
「……ははっ」
乾いた笑いが零れる。
だって全ては推測。所詮雁夜の願望に過ぎない。
人並の幸福を捨て、魔術師の妻となる事を選んだ女の心など、振られた男には分かるわけがない。
「ああ……本当に。俺は何も知らなかった……」
好きだった女の心も。
救いたいと願った少女の心も。
何も分かっちゃいない事を理解したのが、こんな時だというのも皮肉なものだ。いや、こんな時だからこそ、なのだろうか。
その時、雁夜の眼前に不意にバーサーカーが実体化する。
「バーサーカー……」
雁夜の周囲に監視の蟲を放つ程度はしているが、より強力なセンサーはサーヴァントそのもの。パスを遮断せずにおいたのは、バーサーカーに敵の襲来の感知を報せて貰うつもりだったからだ。
とはいえ、二人の間に明確な意思の疎通が出来ているわけではない。ただ単に、バーサーカーにとっても退けぬ戦いがあり、その敵手が接近した場合は実体化するだろう、と踏んでいただけだ。
闇よりも濃い黒の具足が鋼の音色を打ち鳴らす。
「行くのか、バーサーカー……いや、ランスロット卿」
雁夜の声に、狂戦士は答えない。答える声を彼の騎士は持っていない。
「その身を汚辱で染めながら、それでも己が心と向き合ったおまえのように、俺も、覚悟を決めなければならないか……」
揺らめくように立ち上がる雁夜。
虚空へと差し出した右手に宿るのは残る二画の令呪。
「餞別だ。俺からの供給では足りないだろう魔力を、好きな時に好きなだけこの令呪から持って行け」
令呪のバックアップさえあれば、アロンダイト使用を視野に入れたバーサーカーの全力での戦闘時間は飛躍的に延びる。この戦いに招かれたどのサーヴァントを相手に回しても対等以上の戦いが出来るだろう。
「じゃあな理想の騎士。ロクに話も出来なかったが、おまえが俺のサーヴァントで良かったと思う」
ゆっくりとコンサートホールの出口へと向かっていた黒騎士の足が止まる。そして彼は低く唸るような声で、
「MA……s、……r……」
そんな、言葉にもならぬ音の羅列を発した。
「ああ……」
頭ではなく、心にこそその音は響いた。意味のない言葉も、理由のない言葉も、けれど意思が篭っているのなら、誰かの心に届く事もあるだろう。
そして黒騎士は去り、己が戦場へと赴いた。
だからこそ雁夜も、己が敵と向き合う決意をした。
「そこにいるんだろう、間桐臓硯。アンタがそのくらいじゃ死なないって事くらい、誰よりも知ってるぜ」
『カカ……』と耳障りな嗤い声を闇に聴く。
何度となく蟲蔵の底で聞いた声。もがき苦しむ雁夜を十年間、嘲笑い続けた声だ。
声はすれど、姿はない。
いいや、居場所など分かっている。いかに臓硯が不死身に近い化生といえど、その身体の大部分を構成する蟲のほとんどを奪われては復活は容易ではない。
桜も伊達で十年もの間、間桐の屋敷で暮らしていたわけではない。彼女の奇襲は確実にあの悪鬼から不死身性を奪い去った。
誤算があったとすればその生き意地の汚さ。
生にしがみつく怨念めいた執着の深さへの理解だ。
その業をもっとも理解出来るのは同じ間桐の血の流れた者だけだ。
雁夜が間桐の血統の中でも比較的まともな方だとしても、その根底に流れているのはあの化け物と同じ血だ。
だからこそよく分かる。もし自分が臓硯であった場合、どのように対処をするか。恐怖で組み敷いた者達からの叛逆に遭った場合の再起の手段。
聖杯という奇跡を前に、長きに渡り悲願とした永遠を前に、指を咥えて見守るような無様は許されない。
再生は最短にして最速を。
間桐の腐肉がもっとも良く馴染むのは、当然にして同じ血の流れる間桐の身体。
ならば────
「──アンタは俺の心臓に巣食っている。そうだろう、間桐臓硯ッ!!」
『カカッ! 腐っても間桐の後継者よ! だが気付いてなんとする? 貴様が何かをする前に、その身体──全て儂が貰ってやろうッ!!』
間桐の因縁。
その清算。
間桐雁夜にとっての救いを賭けた戦いが、聖杯の眼前にて始まった。
+++
夜を走る白。
凛より先行を託されたガウェインは既に新都へと進入していた。
道中、幾つか結界の支点と思しきものを発見はしていたが、ガウェインにはどうする事も出来なかった。
多少の心得があった程度でどうこう出来るレベルの術式ではなかったからだ。
だから白騎士はすっぱりと支点の破壊を諦め、ライダーとそのマスターの捜索を続けていた。
けれど、今以って彼女達の姿形どころか影すらも掴めていない。それは当然といえば当然で、何故ならガウェインには全くアテがなかった。
だからやっている事は虱潰し。せめて高所から地上を俯瞰し、凝らした目で索敵を続けるが、効果のほどは今一つだった。
しかしガウェインも分かっているのだ、凛の意図が。
彼女がガウェインに先行を任じたのは、本当に彼に桜とライダーを見つけさせる為ではない。結界の主達を追う者の排除、自らが決着を着ける為、横槍を入れさせない為の先行索敵なのだと。
それでも律儀に周囲への警戒と索敵を続けているのは、これがこの騎士の性分だからだ。
今更簡単には生き方を変えられない。
だからこそ愚直に、騎士としての本懐を果たそうとしている。
新都中心部と立ち入り、住宅街の屋根の上から遠景を眺めていた折、遠く、遥か彼方の空に咲く火の花を見咎めた。
それは恐らく凛が打ち上げた信号弾。色の意味や識別は分からなくとも、屋敷を出る前に彼女が提示した通りの行動だ。
ならば凛とアーチャーは標的を発見したのだろう。この血の要塞を仕掛けたライダーとそのマスターと接触を果たしたとみるべきだ。
後は任せておけばいい。此処から先は彼女達の領域だ。信号弾の打ち上げ地点は橋を挟んだ向こう側。この距離では援護に行ったところで戦いは恐らく終わっている。
であれば白騎士の取るべき行動は外敵の排除。彼女達の戦場に敵を近づけさせぬ事だ。
そして、ガウェインにもまた、越えなければならない壁がある。心に宿した誓いを果たす為に、乗り越えていかなければならない絶対の敵が。
特に理由があったわけではない。ただ、己の心の信ずるままに足を向けた。それは彼の幸運が呼んだ偶然か、あるいは定められた運命なのか。
辿り着いたのは新都の中心──冬木市民会館。
その前庭で、二人は向き合った。
「ランスロット卿……」
「…………」
広い空間。周囲には剪定された庭木が並び、左右に伸びる道路には木々が立つ。戦闘を行う上でそれらは邪魔にはならない。広さも充分。此処はまるで、誂えられたかのような決闘場だ。
「決着を着けましょう、ランスロット」
白騎士の手には太陽の輝きを宿す青の聖剣。
対する黒騎士は既に姿を歪め霞ませる霧を纏っておらず、その手には黒く染まった魔剣が握られている。
「我が太陽の輝きを払った貴公の一閃。あの一撃によって我が心は打ち砕かれた。迷いなどないと信じていた誓いに、迷いが生じた」
「…………」
「肩を並べていた騎士の言葉にも耳を貸さず、愚直に己を信じ続けたその果ての敗戦。覆しようのない敗北だった」
主の下す命に従うばかりの盲目の剣。意思なき剣は狂える獣の意思ある剣の前に敗れ去った。
「騎士の敗北とは即ち死。されど我が身は未だ生きている。ならば生き汚く足掻き、この心に宿りし『意思』を言葉にしよう」
灼熱を宿す剣を、白騎士は黒騎士に向けて突きつける。
「祖国救済を願う王……そしてその王の願いを肯定した御身の祈り。私はそれを──否定する」
「…………」
「高潔にして公正にして無欠の王が、その死の間際に夢見た悲痛な祈り。そんなものを抱かせた我ら円卓の騎士が何を言うかと、何処かの誰かは嘲笑うかもしれない。謗るかもしれない。
それでも私はこう言いましょう──王の願いは、間違っていると」
王として生き、王として死んだ彼女は、その誇りを抱いて眠るべきだ。国を救えなかった悔恨と無念が生んだ願いは、時代を生きた者達の否定だ。
王の目には、失われたものしか見えていない。彼女が救ったもの、守ったもの、誇るべきものが何一つ見えないくらいに曇っている。
それほどに失ったものが多すぎたのだろう。だからと言って、全てをなかった事にする事が許されるのか。王の為に身命を賭した騎士の勇敢を、王を崇敬していた民の心を、踏み躙る権利があるのだろうか。
「王の為の剣──そう己を律するのであれば、時には諫めの言葉も必要だと、私はようやく気が付いた。
王を絶対視し、王に全ての責任を押し付けていた事こそが我ら円卓の罪。なればこうして再び王に謁見を許された騎士の一人として、今一度王の御前にて膝を折り、この胸の内を詳らかにしましょう」
「…………」
「ランスロット……我が古き盟友よ。貴公は本当に、王の祈りが正しいと信じているのですか? 王が王であった事実を消し去り、あの時代の全てをなかった事にする事が、本当に正しいと信じているのですか?」
「…………」
「語る言葉を持たない貴公との問答が無用である事など百も承知。それでも訊いておきたかった。我らが手にする剣にて、雌雄を決するその前に」
ランスロットが何を想い、王に膝を折ったのかはガウェインには分からない。けれどきっと、心は同じだと信じている。全ては王を思ってのものだと。生前果たす事の出来なかった想いを、手に入れた二度目の戦いの中で果たす為に。
「私は卿を越え、その先で王に諫めの言葉を申し上げる。交わらぬ道ならば、後は剣にて雌雄を決するしかないと思いますが、如何に?」
ガウェインの言葉に、ランスロットが賛同する事など有り得ない。そんな事が罷り通れば黒騎士の誓いが嘘になる。王に嘘を吐いて膝を折った事になる。黒騎士もまた、全てを覚悟してその心に誓いを立てた筈。
王の為の剣として、王に組する道を選んだ黒の騎士。
王の為の剣として、王に仇名す道を選んだ白の騎士。
二つの道。
交わらぬ対極。
それが唯一交わる瞬間、それは剣を交える瞬間に他ならない。
「円卓の騎士──ガウェインとランスロットの名において、承認を請う!」
高らかに、ガウェインが謳い上げる。
「我らが望むは決闘の舞台! 尋常なる勝負を此処に! 在りし日の王城よ、今こそ顕現せよ──!」
瞬間、周囲を奔る炎の道。二人の騎士を中心に円を形取る炎の輪。やがてそれは空高く垂直に伸び、炎の決闘場を創り上げる。
炎の向こう、霞む陽炎に見えるのは絢爛たる王の居城。
今なお語り継がれる王と騎士達の物語の始まりの場所。
“聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)”
円卓の騎士二名の同意か、熟練の魔術師のサポートによって成立する決着術式(ファイナリティ)。
周囲に聳える炎の壁、王城の城壁はあらゆる外敵を寄せ付けず、如何なる者の進入をも拒む絶対防壁。決着が着くまで解除の許されない決闘術式。生きて炎の壁を、城門を越えられるのは、唯一人のみ。
「…………」
「…………」
この決闘が成立した今、もはや言葉は不要。
語るべきは剣で語り、己の正しさを信ずるのなら勝つしかない。
それはまさに伝説の再現。
円卓にて一、二を争う太陽と湖の決闘。
「行くぞ、ランスロット……!」
「Ga、aaaaaaaaaaaaaaaa……!」
互いに王の為の剣を担い、在りし日の王城にて雌雄を決す。
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最後のあれはCCCから。
こういう発動の仕方が出来るかどうかは不明です。多分出来ません。
勢いとノリで!
感想返しは後日に。
最後までお付き合いいただければと思います。