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No.36131の一覧
[0] 【完結】第四次聖杯戦争が十年ずれ込んだら 8/3 完結[朔夜](2013/08/03 01:00)
[8] scene.01 - 1 月下にて[朔夜](2013/01/10 20:28)
[9] scene.01 - 2 間桐家の事情[朔夜](2013/01/10 20:29)
[10] scene.01 - 3 正義の味方とその味方[朔夜](2013/01/10 20:29)
[11] scene.02 開戦[朔夜](2013/01/02 19:33)
[12] scene.03 夜の太陽[朔夜](2013/01/02 19:34)
[13] scene.04 巡る思惑[朔夜](2013/04/23 01:54)
[14] scene.05 魔術師殺しのやり方[朔夜](2013/01/10 20:58)
[15] scene.06 十年遅れの第四次聖杯戦争[朔夜](2013/03/08 19:51)
[16] scene.07 動き出した歯車[朔夜](2013/04/23 01:55)
[17] scene.08 魔女の森[朔夜](2013/03/08 19:53)
[18] scene.09 同盟[朔夜](2013/04/16 19:46)
[19] scene.10 Versus[朔夜](2013/03/08 19:38)
[20] scene.11 night knight nightmare[朔夜](2013/05/11 23:58)
[21] scene.12 天と地のズヴェズダ[朔夜](2013/06/02 02:12)
[22] scene.13 遠い背中[朔夜](2013/05/16 00:32)
[23] scene.14 聖杯の眼前にて、汝を待つ[朔夜](2013/05/28 01:03)
[24] scene.15 Last Count[朔夜](2013/06/02 20:46)
[25] scene.16 姉妹の行方[朔夜](2013/07/24 10:22)
[26] scene.17 誰が為に[朔夜](2013/07/04 20:19)
[27] scene.18 想いの果て[朔夜](2013/08/03 00:51)
[28] scene.19 カムランの丘[朔夜](2013/08/03 20:34)
[29] scene.20 Epilogue[朔夜](2013/08/03 20:41)
[30] scene.21 Answer[朔夜](2013/08/03 00:59)
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[36131] scene.14 聖杯の眼前にて、汝を待つ
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/05/28 01:03
/31


「────……ぁ」

 深い、微睡の底から意識が浮上する。重い瞼を開き、霞んだ瞳は茫洋とした風景を映している。手足は鉛のように鈍重で動かない。覚醒と共に徐々に鮮明となっていく視界で、首だけを動かし状況を確認する。

 薄暗い部屋。差し込むのは月明かり。人工の明かりはなく、窓から降り注ぐ月光だけが室内を照らす光源。
 見覚えのある天井と壁。此処はバゼット達が拠点とした森の奥の洋館だ。どうやら、自分はソファーで眠っていたらしい、とバゼットは自己分析した。

「ようやくお目覚めかい、眠り姫」

 そんな軽口に、バゼットは手足を縛る見えない鎖を引き千切るように跳ね起きた。視界の先、言葉の主はいつかのように窓辺で腰掛け、淡い光の中からこちらに翠緑の瞳を向けていた。

「モー……ド、レッド……ですか」

「一体誰と勘違いしたんだバゼット」

 右腕を掻き抱くようにして視線を下げたバゼット。先の軽口は、彼女の良く知る男のそれに似ていた。完全に意識の戻っていなかった頭には、まるであの男の言葉のように響いたのだ。

 だが今はもう、バゼットも理解していた。左手で触れる右手の甲には、刻まれていた筈の聖痕がない。マスターの証であり、サーヴァントと繋がる令呪が、夢か幻のように消え失せていた。

「……わざと私をからかうような事をするとは、貴女も大概底意地が悪い」

「そりゃ悪かった。だがまあ、そんな軽口を返せるんなら、怪我はもう大丈夫のようだな」

 その言葉にバゼットは自分自身を走査する。

「ああ、上着は脱がせてやったから感謝しろよ。あんなスーツ着込んでちゃ寝にくいだろ」

「ええ……それは感謝します」

 シャツの中心には黒い大きな斑点。それはバゼットの心臓部より吐き出された彼女自身の血液。襟を開き胸元を覗き込めば、赤黒く凝固した血液が傷口を塞ぎ、死に至る可能性の極めて高かったイリヤスフィールに穿たれた穴はどうにか閉じられたようだった。

「身体の調子はどうだ」

「はい、多少の鈍痛はありますが問題はないかと」

 拳を握ったり指を曲げ伸ばしして感触を確かめる。腰を上げ、全身の動きに異常がないかも確かめたが、特に問題らしき問題は見当たらなかった。

「ですが、完治には程遠い」

 治癒のルーンを用い、それがたとえ特級のルーン使いであるバゼットの代物であったとしても、一昼夜で完全に回復するような傷ではない。
 怪我を弁えた上での戦闘は可能だろう。だが戦力が拮抗し、勝敗を分ける死線を潜らなければならなくなった時、このダメージは重くバゼットに圧し掛かるだろう。

「そうか。じゃあ、オレの役目も此処までだな」

「えっ……?」

 バゼットの驚きを他所に、モードレッドは窓辺を離れる。その足の向く先は、部屋の出口だ。

「……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「…………ッ!!」

 言葉にされ、明確に突きつけられ、ようやくバゼットも実感した。令呪を喪失したマスターは、サーヴァントを失ったマスターはただの魔術師。

 戦いに敗れた脱落者だ。

 バゼットの意気込みや想いなど関係ない。それは明確で厳然たる事実。既に覆しようのない、真実だ。

「戦いに敗れたとはいえ、アンタは死ななかったんだ。さっさと街を離れるといい。サーヴァントを失ったマスターは教会に駆け込むのが通例らしいが、あの神父は何を考えているのか分からん。自由に動く身体があるのなら、そのまま街を出る方が懸命だと思うぜ」

 室内を横切り、モードレッドは窓際の椅子に掛けてあった赤いジャケットを掴み出口へと向かう。

「ま、待って下さいモードレッド……! 私はまだ……!」

「まだ、何だ? サーヴァントもいない、令呪もない、そんなただの魔術師を相手に、オレが一体何を待てと言うんだ?」

「…………っ」

「間違えるなよバゼット。オレとアンタらの関係は利害の一致があったればこそ。二騎のサーヴァントを擁する他陣営に対抗する為の謂わばギブアンドテイク。
 そっちから差し出されるものが急になくなったんだ、ならこっちからだけ一方的に差し出す義理が、オレにあるか?」

 部屋の出口である扉を前に振り返るモードレッド。翠の瞳は何をも映さず、冷たい色を湛えている。
 投げつけられた言葉もまた冷酷なもの。互いを対等のパートナーと認めているからこその言葉とも取れるが、そこに同情や憐憫は一欠けらも存在しない。

 誰に落ち度があったわけでもない。ただ、敵がこちらの予測の上をいっただけの話。一度目の敗走では事なきを得たものも、二度目の敗走ではそれが許されなかったというだけの話だ。

 天秤の両皿が釣り合っていたからこその共闘関係。片皿から釣り合いの取れるものがなくなったのなら、この結末は当然のもの。
 モードレッドが冷酷なのではない。最初からそうと決められていた関係性だ、今更縋ろうとするバゼットの方が筋違いも甚だしい。

 この拠点に戻るまでの記憶は曖昧だが、モードレッドが随伴してくれていた事は覚えている。ランサーとの契約が消滅したのなら、わざわざバゼットを此処まで連れ帰る理由などモードレッドにはない。

 それを承知でわざわざ森からの脱出、安全地点までの誘導をしてくれた彼女に感謝こそすれ糾弾紛いの論争など行えるものか。

 自らの不始末を己を対等として見てくれていたモードレッドに擦り付けるわけにはいかない。此処まで明確な拒絶を示したのも彼女なりの優しさなのかもしれない。バゼットは二の句が継げなかった。

「じゃあなバゼット。アンタ達と過ごした数日間、悪くなかったぜ」

 そんな別れの言葉を残し、モードレッドは洋館を去った。

 後に残されたのは傷付いた魔術師だけ。マスターとしての資格を剥奪された、最初の脱落者であるバゼットだけだった。

 急に脱力したかのように、バゼットはその身を落とし背凭れに預けた。手足はだらりと下げられ、まるで糸の切れた人形のよう。

「そう……彼女の言葉は正しい……」

 バゼットに聖杯に捧げるほど渇望する願いなどない。協会からの指令を受け、御三家の闘争に割り込んだ部外者だ。
 覚悟はあった。自信もあった。けれど、バゼットのそんな想いでは届かぬほどの祈りを胸に秘め、他の参加者は鎬を削っている。

 連綿と続く血の系譜。その誇りを穢さぬ為、積み上げた歴史の正しさを証明する為、彼らは命を賭している。

 家に背き、故郷で埋もれるように死んでいく事を恐れ外の世界に飛び出した己に、逃げ出した己にはなかったものを彼らはきっと持っている。
 目を背けず向き合った先、たとえそれが地獄のようなところだったとしても、なお祈り叶えよと叫ぶだけの強さがあった。

 どんな言い訳を並べたところで、敗北した事実は変わらない。任務の失敗はバゼットにこの依頼をした上層部からどのような叱責を被る事になるか分からないが、後は結末を見届け協会に報告書を提出すればそれでいい。

 数多くこなす依頼の内の一つを失敗しただけ。何食わぬ顔をしてロンドンに戻り、次の依頼を手配して貰えばすぐさま任務に忙殺されるようになる。
 何も考えずひたすらに任務をこなせばいい。その内、この一件も記憶の奥底に沈み、いつか思い返した時にそんな事もあったな、と思えるようになるだろう。

「だけど……っ、私は────!」

『──よう、アンタが、オレのマスターかい?』

 その言葉を、覚えている。

『バゼットね。りょーかい。んじゃバゼット、これからよろしく頼むぜ?』

 あの笑顔を、覚えている。

 遠い昔、幼少の頃に夢見た英雄。
 本の中で見た、祖国に今なお語り継がれる英雄譚。

 何にも関心を抱けなかった己が唯一没頭できたもの。本を読んでいる間だけは、時間を忘れる事が出来た。幾度となく読み返し、諳んじる事の出来るくらい、この胸に刻まれた誰かの記述。

 憧れの英雄。決して出逢う事の叶わない、遠い存在。その出逢いを叶えたのはこの地の聖杯、聖杯戦争だ。
 聖杯戦争の事情を知った時の高揚を、今も忘れる事など出来ない。任務だという事を忘れるくらい胸を高鳴らせ、この地を踏んだ。

 出逢った本物は知れば知るほど本の中の英雄とは違っていて、自分の理想ともかけ離れた男だったが、傍にいて安心出来たのは確かだった。
 今この胸にぽっかりと空いた穴。イリヤスフィールに穿たれた肉体の穴よりも、心に空いた空洞の方が胸に痛い。

 己が不甲斐無いばかりに、こんな結末を迎えてしまった。彼の力を活かす事が出来ずにリタイアするはめになってしまった。
 心の穴を擦り抜ける寂寞。埋める事の出来ない哀惜。不本意な別れに、自分はこんなにも────

「…………?」

 そこでふと、モードレッドとの会話を思い出す。彼女は何か、妙な言い回しをしなかったか。

『……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ』

 そう、ランサーは消滅したのではなく──奪われたのだと。

「…………ッ!」

 わざわざモードレッドがそんな嘘を吐く筈がない。理由がない。ならばそれは事実で、ランサーは戦いに敗れ消滅したのではなく、何者かに奪われたのだ。

 であればランサーは生きている。どのような姿であれ、まだ、この世界にいる。

「…………」

 バゼットは静かに立ち上がった。血の凝固したシャツを脱ぎ捨て、ジェラルミンケースから替えの下着とシャツ、スーツを取り出し着替えていく。
 姿見の前でネクタイを締める。頼りない月明かりが照らす己の姿に、先程までの弱さはない。淡い輝きを受けて、耳を飾るルーンのピアスが煌いた。

 気が動転していながらも、どうにか森から持ち出していたラックを背負い、バゼットは拠点を後にする。

 鬱蒼と生い茂る森。見上げた空には星が瞬く。夜を渡る風は、バゼットの心に灯った熱を奪い去る事は出来ない。

「──こんな時間に何処に行こうってんだ、怪我人」

 街へと繋がる森の途中。
 闇の中から響く聞き慣れた声。

「決まっています、ランサーの下へ」

「行って何をする? 令呪のないアンタじゃたとえランサーを取り戻したところで再契約なんて無理だろうさ。
 何よりそんな身体で、己が身一つで、サーヴァント共がいる戦場に挑むつもりか」

「はい。無謀など承知の上。死など元より覚悟の上。それでも私には──取り戻さなければならないものがある」

 ざっ、と木々を揺らす風が吹く。バゼットは顔にかかる髪を気にする事もなく、ただ前だけを見据えている。

「命を賭けてまで取り戻したいもの……それはなんだ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「彼の誇りを────私が不甲斐無いばかりに穢してしまった彼の誇りを、取り戻しに行きます」

 静寂を取り戻した森の中に、一つの溜息が生まれた。次いで、闇に閉ざされた梢の先から金髪碧眼、赤いジャケットの少女が姿を見せた。

「……ったく。頑固な女だなぁ、おい」

「モードレッド……」

 現われた少女はそっぽを向き、ガリガリと髪を掻きながら、

「まぁ……なんだ……オレも勝てるだとか何だとか、でかい事言っておいて、このザマだしな……それに……服を買って貰った恩もあるか……」

 言い訳めいた事を口にするモードレッドが可笑しくなり、ついバゼットは笑いを零してしまう。

「あ、おい! 何がおかしいッ!」

「ふふ……いえ、すみません。それでモードレッド、貴女はどうしてこんな場所にいるのですか?」

「今更それ、聞くのかよ……」

 見栄を張って別れを演出した手前、どうにも落ち着かずモードレッドは僅かに頬を紅潮させている。夜の闇の中、その赤みが良く見て取れた。モードレッドは一つ嘆息した後、言葉を続けた。

「生憎とオレは死にに行く人間に付き合うつもりはない。死に急ぐ輩にもな。けどアンタがまだ戦う事を諦めてないってんなら、付き合ってやっても良い」

「ええ。私一人では困難を極める。貴女が手を貸してくれるのなら、それより心強いものもない」

 いつかのように、バゼットは掌を差し出す。

「一応言っとくが、勘違いするなよ。アンタがただの魔術師だったなら本当に此処までだった。けど、アンタの切り札は有用だ。そこに利用価値があるから、今回だけは付き合ってやるんだからな」

 おずおずと、モードレッドはもまた掌を差し出した。

「なるほど……これが様式美、というものですか」

「何の話だッ!」

「いえ、こちらの話です」

 誓いの握手を終え、モードレッドは切り出す。

「けど、本当に間違えるなよ。ランサーを取り戻す事は出来ない。サーヴァントを奪われた時点で、アンタの聖杯戦争は既に終わっている。此処から先は、バゼット──おまえ個人の戦いだ」

「承知しています」

 令呪を失ったマスターは極稀に聖杯より令呪の再分配が行われる場合がある。だがそれに賭けるには余りにも望みが薄い。
 何より、そんな甘えた事を言ってサーヴァントを御するマスター達からランサーの誇りを奪い返すなど至難を極めよう。

 だから、彼女達がこれから臨むのはランサーを取り戻す為の戦いではない。ランサーの誇りを、彼の魂を取り戻す為の戦いだ。

「じゃあとりあえず、拠点に戻ろうぜ」

「は……? 今からランサーのところへ行くのではないのですか?」

「莫迦を言え。ランサーを奪ったのはキャスターだぞ? ガウェイン達と共闘しても森の結界は崩せなかったんだ、オレ達だけで森に挑むのはただの無謀だ」

 ランサーという戦力が減じているばかりか、キャスターに使役され敵対する可能性が極めて高い。最悪三対一を強いられる事になる。そんな無謀には流石のモードレッドも付き合えない。

「森での戦いからこっち、バゼットはずっと眠りっぱなしで碌に情報交換も出来なかったからな。オレの知る情報とアンタの知る情報を突き合せて策を練るべきだろう」

「そうですね……」

「それに森での戦いからまだ一日も経ってない。何処かの陣営に動きがあるとするならもう少し後だろう。来るべき時の為、身体は休めておけ」

「ええ。貴女もですよ、モードレッド。彼の円卓の王と最強と謳われた騎士を相手に立ち回ったのです、疲労もそれなりにあるでしょう?」

「宝具を使ったわけでもなし、そこまでの疲労はないが……まあ、言われるまでもなく休むさ」

 後に控える大一番の為、無駄な力の消耗は避けておきたい。

 バゼットに組するのは感情論だけではない。今や戦いの天秤のバランスは崩れている。このまま事を進められてしまえばアインツベルンの優位性は揺るがない。
 ならば残った陣営は使える札は全て使い、彼の一角を崩すべきだ。その為に、バゼットの有する切り札は有用だ。

「ところでモードレッド。前から気になってはいたのですが……」

 拠点へと戻る道すがら、バゼットは不意に問いかけた。

「なんだ?」

「いえ、ただの好奇心ですので別に答えて貰わなくてもいいのですが」

「だから何だって。もったいぶるなよ」

「……モードレッド。貴女はマスターもなしにどうやって現界しているのですか?」

 それは根源的な問い。いる筈のない八人目。いてはならない八人目。それがモードレッドだ。

 サーヴァントがマスターと契約するのは現界の楔とする為だ。マスターを現世に繋ぎ止める依り代として機能させ、その維持はマスター自身からの魔力供給、そして聖杯からの供給によって賄われている。

 だからこその不可解。マスターもなく、単独で行動し、宝具の使用をすら可能とするモードレッドの異常。アーチャーが有するクラススキル『単独行動』であっても、ここまで自由な活動は不可能だ。

 十年分の余剰魔力。たとえそれが八人目の召喚を可能とし、事実モードレッドを現界させ続けているのだとしても、マスターのいない彼女は現世に留まる為の楔が欠けている。どれだけ魔力があったところで、留め置く楔がなければ現界は叶わない筈。

「ああ……なんだそんなことか」

 何でもない事のように、

「オレを現世に繋ぎ止めているのはオレ自身の祈りであり、あの王であり──そして、聖杯だ」

 そんな、語られぬ真実を口にした。


/32


『そうか……師は、身罷られたか』

 アインツベルンの森から帰還したその夜。

 戦場であった森はキャスターの魔術により昼を夜に偽装されていたが、凛達が遠坂邸へと戻ったのは夕刻頃。それから実に六時間ほど後の今現在。
 凛は宝石仕掛けの通信機を通し、言峰綺礼へと森の戦いの顛末を説明した。

 重く沈黙が降る。

 凛にとっては実の父を喪失し、綺礼にしても十年以上の間、師と仰いだ男がこの世を去ったのだ、思うところが何もないわけではないだろう。

「お父さまの最期の言葉は……貴方も聞いていたでしょう?」

 時臣の耳を常に飾っていた紅玉のピアス。それは音声送信専用の宝石細工であり、その仕掛けを通じて綺礼はある程度の戦場の状況を常に把握して来た。
 流石に音だけで一部始終の全てを把握するのは難しく、凛は森での戦いの一連の流れを綺礼に説明していた。

「お父さまは最期にこう仰られたわ。遠坂に、聖杯を──と」

 その最期まで、遠坂時臣という男は魔術師として生き、そして死んだ。たとえ一パーセントだろうとあった筈の己が命を救う可能性を捨て、凛の手の中に、勝利し得る可能性を遺した。

 凛が首から提げている赤い色の宝石。凛が虎の子する宝石達と同等か、それ以上の魔力を貯蔵された切り札。凛の手腕とこの宝石があれば、死の淵に瀕する者であろうと救えるだけの可能性を持つ。

 時臣はそれを自身の救命に使う事を拒絶し、これより熾烈化する戦いへと赴く事になる凛に託した。それがどういう意味か、今更論じるまでもない。

「私は聖杯を手に入れるわ、綺礼」

 手の中のペンダントを握り締める。

 これまで、目の前の戦いにおいて勝利を得る事だけを見てきた凛。聖杯は勝利に付随するオマケ程度にしか見ていなかった。
 手に入れてしまえば使い道を色々と考慮しただろうが、手に入れる前から皮算用をするほど凛は酔狂ではない。

 ただそれが僅かに変化した。勝利を掴む大原則は変わらずとも、聖杯を得る事──そして遠坂の悲願を達成する事が、凛の中で明文化された。
 これまで漠然としていた勝利への道筋が確固たる意思となった。微々たる変化ではあっても、確かにそれは、この世を去った五代当主の跡を継ぐ、六代当主の宣誓だった。

『そうか……凛、おまえの成長を師も御喜びになられている事だろう。とはいえ導師とて命を奪われるほどの闘争だ、今後更に激化する事を思えば想い一つで容易く乗り越えられるものではあるまい』

「そうね。でも、こっちの戦力的な痛手はそう大きくないのが幸いよ」

『ああ、ガウェインを律する令呪は未だ三画。導師という戦力以外に、アインツベルンの森で遠坂が失ったものは何もない』

 ガウェインのマスターは初めから綺礼だった。中立を謳う教会の人間、ましてや監督役が一参加者であるという情報を公にするメリットは何処にもない。
 その為、綺礼の代わりに時臣はガウェインの仮初めのマスターとして戦場に立ち続けてきた。彼自身の提案によるものとはいえ、時臣はあくまで、偽装の為の代理マスターに過ぎない。

 時臣が使用したように見せかけていた令呪も偽装工作によるもの。真実は彼の耳を飾るピアスを通して、綺礼が遠く教会から令呪を発動していたのだ。

 更に、綺礼は監督役という特性上、過去三度に渡り持ち越された未使用令呪をその腕に宿している。前任者である父──言峰璃正より譲り受けたその令呪は、任意によって他者に譲り渡す事を可能とした。

 綺礼はこれを使い、時臣が使用した三度の令呪を補填している。つまり、ガウェインを律する為の令呪に欠損はない。栄えある太陽の騎士の頭上には、いつでも、何度でも太陽が輝くだろう。

『それで、どうするつもりだ凛。ガウェインはその消滅を免れたとはいえ、マスターと認識されていた導師は死んだ。これをおまえはどう扱う?』

「どうも何も、今まで通りよ。まさか綺礼、アンタが前線に出張るわけには行かないでしょう?」

 中立者にあるまじき一陣営への肩入れ、マスターである事を隠蔽した事実、そして職権の乱用による令呪の補填。
 一つ一つが重罪であり重なれば言わずもがな。公になれば監督役の地位を剥奪されるばかりか綺礼自身が相応の罰則を与えられるだろう。知りながら加担した、むしろ推奨した遠坂もただでは済まない。

『ふむ……では私の存在を隠し通したまま、ガウェインとアーチャーを運用すると?』

「ええ。聖杯のバックアップがある状態なら、私なら二騎のサーヴァントを従える事も不可能じゃない。幸い宝石のストックは山ほどあるし、魔力枯渇の心配もない。私のスペックを知っている魔術師なら、疑問に思っても納得するしかない」

 一拍の後続ける。

「たとえ偽装がばれても、アンタに辿り着ける奴が何人いるかしらね。アンタにしたってバレないように細工はしているんでしょう?」

 綺礼の令呪は右腕にびっしりと刻まれた余剰令呪に紛れるように現われている。僧衣の袖が令呪群を覆い隠しているし、たとえ見られてもどれが本物なのか分かるわけもない。何故ならその全てが、本物なのだから。

 ばれたところで知らぬ存ぜぬを貫き通せば良い。証拠もなく監督役に矛を向ければ、それこそこちらの思う壺だ。

「だからこれまで通りアーチャーとガウェインを使うわ。ガウェインの令呪の使用タイミングはこれから私が報せる。アンタも今まで通り監督役面してそこで踏ん反り返ってればいいわ」

 これより激化を辿る事になるだろう戦いにおいて、有用な戦力であるガウェインを隠し持つ意味などない。ランサーがキャスターに奪われた事でより隠匿する必要性が薄れた。アーチャー単独でアインツベルン相手に立ち回るのは分が悪すぎる。

『それがおまえの結論であるのなら、そうするがいい。私から異論はない』

「とは言っても、どうしたものかしらね。アインツベルンに仕掛けるのは現状自殺行為。かといって、他に手を出してアインツベルンに漁夫の利を持ってかれるのも気に食わないのよね」

 戦力バランスの拮抗が崩れた現状、優位にあるのはアインツベルン。ましてや森の大結界に再び挑む事は無謀に等しい。
 どうにかしてアインツベルンを森から引き摺り出さなければ、打つ手のなくなった他陣営が玉砕紛いの特攻をしかけ順次狩られるはめになりかねない。

 あるいは先の凛の言葉のように、他陣営同士が争い漁夫の利を掻っ攫われるか。どの道にせよ上手くない。何かきっかけがあれば良いのだが……。

「あ、そうだ綺礼」

 未だ途切れていない通信装置の向こうにいる綺礼に、凛は思い出したように問いかける。

「アンタ、夕方頃いなかったの? 一度連絡したけど反応なかったんだけど」

『ああ、所用で少し外していた』

「所用って何よ」

 アインツベルンの森で戦闘が行われたのだから、先の戦いのような大規模な隠蔽工作は必要ない。となれば、当然綺礼の出番もない。戦いがほぼ終息していたとはいえ、無断で綺礼が通信機の前を離れるほどの何かがあったのか、とそう凛は問うた。

 それに綺礼は無機質な声で答えた。普段と変わらぬ、何にも関心を抱かぬ声で。

『何、小五月蝿いハエを払っただけだ』



+++


 凛との通信を終え、綺礼は自室へと戻りソファーへと身を預ける。

 頼りなく揺れる蝋燭の明かりが照らすのは、テーブルの上にばら撒かれた数枚の紙。衛宮切嗣の経歴を記した書類だ。

 監督役という立場上、綺礼は表立って動けない。中立を謳う者として、一個人として戦場に立つ事は許されていない。

 特に衛宮切嗣ならば、既に綺礼がガウェインのマスターである事にほぼ確実に感付いているだろう。それでも手を下せずにいるのは、綺礼の立場があるからだ。
 監督役に矛を向ける事、敵対する意味。その後に下される罰則。そういう計算もあるだろうが、何より綺礼が切嗣の思惑を見抜いている事を、切嗣は恐らく理解している。

 互いに下手に動けばその失策を利用する腹だ。故に両者は無関心を装い、かたや一参加者として、かたや監督役として、闘争の渦の只中に居続けている。

 綺礼の思惑が叶う時。
 切嗣の眼前にこの狂える男が向き合うのは──

 ──恐らく、全てが叶うその直前。

 誰の横槍もなく。
 全ての祈りを踏み躙った先。
 黄金の杯が天に輝くその時こそが、約束の刻限。

 いずれ来るその瞬間を心待ちとし、神父は闇の中で静かに微笑む。

 そう──既に賽は投げられたのだから。

「マスター」

 不意に、虚空より響く凛とした声音。闇の中に涼やかな風が吹き込んだかのように錯覚する。

「ガウェインか」

 扉の方を振り仰ぐ綺礼。そこには白の甲冑を纏いし、遠坂時臣のサーヴァントとしてこれまで戦場に身を置き続けてきた、綺礼のサーヴァントの姿があった。

「何用だガウェイン。私はおまえを呼んだ覚えはないが」

 綺礼は召喚からこっち、ガウェインとほとんど会話をしていない。召喚直後はそれなりに言葉も交わしたが、あくまでそれはマスターとサーヴァントとしてのもの。互いにその境界線を割り切っていたからこそ、何の問題も生じなかった。

 綺礼は遠坂に組するマスターとしてガウェインを派遣し、ガウェインは己がマスターの剣である事を頑なに守り、主の命を遂行してきた。
 最初に命じた『遠坂時臣をマスターとし、その命令を第一とせよ』という綺礼の言葉の通りに。

 だが今、この場にガウェインがいるのは綺礼の命令ではない。時臣が命を落とし、新たなる命令を授かりに訪れたとも取れるが、これまでの綺礼の行動を鑑みれば、そのまま凛の指揮下に入るのが正しい選択だと気付けないほど、この白の騎士は愚かではあるまい。

 だからこその問い。

 誰が相手であろうと見下す事もしないが、仰ぎ見る事もない綺礼だからこそ、不可解な動きを見せた己が従者に問うのはある種当然と言えよう。

「マスター。貴方に一つだけ問わせて頂きたく、こうして参上した次第です」

「…………」

 不可思議だ、と綺礼は思った。

 まるで木偶のように、オウムのように、下した命令に全てイエスと答え続けてきた騎士が問うと言う。
 この白騎士にとっての忠義とは、主の命令を疑わず、過たず遂行する事にあると綺礼は見ていた。だからこそ何の苦労も背負う事はなかったが、ならば何故此処に来てそんな言葉を口にするのか。

「ほう……? 珍しい事もあるものだ、太陽の騎士。己をただ一振りの剣と断じておきながら口を開くと、そう君は言うのかな」

「…………」

 押し黙るガウェイン。彼もまたそれが、この場にいること自体が正しいのかどうか、判断を下せずにいるように思える。

「まあいい。問いがあるというのなら答えよう。無論、私に返せるものであれば……の話だがな」

 白騎士の心変わり。鉄の忠誠心を揺らがせたものが何であるか、綺礼は知らない。ただその変化を面白いと思う。死の淵で無念と悔恨に涙を流すほどの想いを束ね、己を剣であると誓いを立てた男に生まれたその変化。

 その正体を見てみたい、と。

「マスター、貴方にとって私は如何なる存在ですか」

「…………」

 幾つかの問いを予想していた綺礼だったが、それは嘆息に値するものだった。

「愚問だなガウェイン。私はマスターであり、おまえはサーヴァントだ。それ以上でもそれ以下でもあるまい?」

 二人の間に信頼と呼べるほど強固な関係性などある筈もない。遠坂を勝者とする為にサーヴァントを求めた綺礼と、ただ己の心の中にある理想の主に忠義を尽くすガウェイン。両者に歩み寄る余地はない。

「正直なところ、おまえがいようがいまいが私にとって差異はない。監督役という立場もあり、表立って動けぬ人間にサーヴァントは過ぎたるものだ」

 そして何より、と綺礼は続け、

「私は聖杯に希うものなど何もない身だ。命を賭け、死力を尽くし合い争う他のマスター達とは毛色が違う。
 私が求めているものは唯一つ────」

 この救いなき身に答えを齎せる者との邂逅のみ。

 誰が聖杯を手にしようが、勝ち残ろうが、己がサーヴァントが消え去ろうが、その大目的が達成されるのであれば他はいらない。
 そして綺礼の中には一つの絵図が見えている。たとえこの未来予想が外れたとしても、ならばあの男はそれまでの男だったという事。

 やはり己は何かの間違いで生れ落ちた屑なのだと、再確認するだけの事だ。

 綺礼は何も求めない。
 既に世界を達観している。

 善行よりも悪行を尊び。
 正道よりも外道に組し。
 美しきものより、醜いものにこそ恋焦がれる。

 そんなあるべき倫理観から外れた男に、その在り方に諦念を覚えてしまった男に、何かを期待すること自体が間違っている。

「私におまえが理想とする王の姿を重ねようとするのなら、やめておけ。私に王の素質などあるわけもなく、たとえあったとしてもそう振舞うつもりなど毛頭ない。王の影を私に着せ取り繕おうとしても無駄だ、すぐにボロが出る」

「…………っ」

「ガウェイン。何がおまえの心を変えたのかは知らないが、私から言える事は何もない。私におまえの行動を制限する気はない。名目上のマスターは私だが、実際に指揮を執るのは遠坂の人間だ。
 質問には答えた。もう用がなければ戻るが良い。万が一にも教会を出るところを見られるような無様はやめてくれ」

「…………」

 これ以上の会話は不毛の極地だ。どれだけの言葉を並べ連ねようと、綺礼の心には響かない。
 上辺を滑る耳障りの良い言葉が聞きたいのであれば幾らでも吐き出せる。だがガウェインはそれを求めていない。だから全ては綺礼の本心。

 この男は──心底からガウェインに興味がないのだ。

 ガウェインをサーヴァントとしたのも、夜が戦場となりやすい冬木において令呪の使用回数の制限が緩い綺礼だけの特性を利用しようとした時臣の進言によるもの。
 マスターとサーヴァントの相性を度外視した、縁の品による強制召喚。本来ならば軋轢の生まれやすいこの召喚形態でもこれまで何の問題も生じなかったのは、線引きの出来るガウェインの在り方があってのもの。

 剣としての在り方に疑問を覚えた己が従僕の心を導くだけの誠実さが綺礼にはない。この高潔たる騎士の心を暴き見たところで、綺礼が悦楽を覚えるほどの濃い闇を覗き見る事は叶わないのだから。

 ソファーの背凭れに身を埋め瞳を閉じた綺礼。最早言葉を交わす必要もないという明確な意思表示。
 ガウェインは己がマスターへと目礼し、霊体化しようとしたその直前──

「私情にて剣を振るった事を悔い、主の命じるままの剣となると誓ったはずのおまえが、今一度私情にて剣を執ろう言うのなら──」

 ガウェインが振り返る。綺礼は瞳を閉じたまま、何をも見つめず最後の言葉を告げた。

「そこに悔いを残したままでは、同じ過ちを繰り返すだけだ。それそのものが過ちであると気付かなければ、何度でもな」

「…………」

 ガウェインは僅かに目を見開き、口元に笑みを浮かべた。言葉は必要ない。礼などこの男は求めてはいない。だから先と同じく、静かに目を伏せ、現われた時と同じように、白の騎士は闇の中に溶けていった。

「……全く」

 綺礼だけが残された室内で、彼もまた笑った。

「らしくもない事をする。ああ……それほどに、この心は高揚しているのか」

 何にも関心を抱けなかった心に熱が灯っている。

 誰に知られても蔑みの目を向けられる在り方を隠し通してきた長き日々。悟られる事もなく過ぎし追憶。その終焉はもう間もなく。問い続けた日々の苦悩も、諦めに至った後の日々の無為も、ようやく報われる時が訪れる。

「────聖杯の眼前にて、汝を待つ」

 静かに。
 告げるように。
 言祝ぐように。

 神父は揺らめく闇の中、そう謳い上げたのだった。


/33


 時は遡り、夕暮れ時。

 一台の自動車が深山町の一角に構える武家屋敷の正門前で停車した。

 ハンドルを握っていたのは衛宮切嗣。助手席にはセイバーの姿がある。二人は言葉もなく降車し、仮初めの宿へと再び訪れた。

 アインツベルンの森での激戦の後、善後策を練った三人の結論は、拠点を森からこの屋敷へと移す事で合意された。

 鉄壁にも等しい森の大結界。事実二度の襲撃に耐え、撃退した結果がその城壁の高さを示している。ただやはり、憂慮されたのはイリヤスフィールの存在。
 間桐臓硯の手に落ちた彼女を捨て置き、来るかどうかも分からない敵を待つのは消極策に過ぎると言うもの。

 森の中で待ち構え続ければ、まず間違いなく勝利を掴めるだろう。アインツベルンを除く三つの陣営全てが結託でもしない限り、あの森は不落を貫くと想定される。ただ、その恐れるべき協定も、間桐と遠坂の因縁がある限り困難を極めるものとなろう。

 しかし篭城を続ければ、敵がどんな手に打って出るかは不明瞭。最悪、アインツベルンの手に聖杯が渡る事を忌避し、ならば誰にも渡らぬ方がまだマシだとイリヤスフィールを殺害する可能性さえも有り得る。

 故にこうして彼らは不落の城を無人のまま残し、前衛拠点へと移動した。最低限の警告結界しか敷設されていない、魔術師の工房にあるまじき四阿。此処を敵の襲撃に耐えられる強度に造り替える時間的余裕はない。

 魔術師にあるまじき開けた屋敷だからこそ敵の目を欺き、簡素な結界しかないからこそ敵の盲点にもなりうる。
 何もしない事も一つの防衛策。敵の襲来があったとしても、サーヴァント達がいる限りそう易々とは突破される事もあるまい。

「悪いけど、少し出掛けるわ」

 先に屋敷へと霊体となって移動していたキャスターが、庭先へと入った切嗣と目を合わせるなりそう言った。切嗣は続きを促す。

「結界もりの中だからこそ可能だった事も、此処そとじゃ簡単には出来ませんもの。特に転移は森のように自由自在にとは行かないわ。
 土蔵を帰還基点とした跳躍は可能なように細工をしたけれど、他にも幾つか仕掛けておきたいから」

「好きにするといい。ただ、敵への警戒は怠るな」

「言われなくとも分かっているわ。あーあ、誰かさんが余計な事をしなければこんな苦労も必要なかったのだけれど」

「…………」

 切嗣は答えず縁側から母屋へと入って行く。ふん、と鼻を鳴らし、キャスターはローブに包まれるようにして虚空へと掻き消えた。

 森での一件以降、二人の関係は目に見えて悪化している。元々二人ともが疑念を持って互いを見ていたところはあるが、他陣営への対処という名目の下、力を合わせていたのもまた事実。

 今もそう、表面上は悪態をついたり無視したり、以前にはなかった兆候が見られるが、足並みが崩れているかと言えばそうでもない。先の展開を優位なものとする為、目に見える協力はなくとも互いに最善を尽くしている……ようだ。

「…………」

 はぁ、とセイバーは嘆息する。

 板挟みになる身にもなって欲しい。先の城での会議という名の水面下での足の蹴りあいのような、針の筵に座らせられるような事は二度と御免被りたい。

 ただ、セイバーも思うところがないわけではない。

 キャスターの磐石を期した足場が崩された苛立ちも、切嗣の何を犠牲としてでも目的を成し遂げるという意思も、セイバーには理解が出来る。

 何が正しく、何が間違っているかを論じるだけの時間はない。場を諫める程度の事はしても、セイバーは己を剣と断じる者。個人の意思は二の次だ。全ては、結果によって優先される。

 切嗣の目論んだ策が結実するかどうか──ようはそこに全てが懸かっている。

 先に屋敷へと踏み入った主を追い、セイバーも敷居を跨ぐ。

 切嗣の姿は居間にあった。居間には何やら機械の類が幾つも置かれ、その配線が地を這っている。
 他には銃器の整備用品など、かつてはなかった筈のものが散見される。切嗣が持ち込んだものでなければ、彼がその助手である舞弥に用意させたものだろう。

 当の切嗣は立ったまま、携帯電話を耳に押し当てていた。

「…………」

 長く続くコール音。セイバーが居間へと踏み入るその前から鳴り続ける電子音。いつもなら取り決めの通りツーコールで出る筈の舞弥が、電話に出ない。

 ……まさか。

 切嗣の脳裏に良くない想像が過ぎる。衛宮切嗣の助手にしてこの男よりもなお機械めいた女。そんな舞弥が、切嗣からの連絡に出ない。それそのものが異常だ。

「…………」

 無言のまま電話を切る。足早に、切嗣は外へと歩き出す。

「マスター、外へ出るなら同行します」

 切嗣は振り返らず、一瞬だけ足を止め、直後無言の肯定を以って歩き出そうとした時──

「…………ッ!?」

 切嗣の左手の小指に激痛が奔る。

 それは“一つの結末”を告げる痛み。衛宮切嗣の小指には呪的処理を施された舞弥の頭髪が仕込まれている。
 髪の持ち主に命の危機に関わるような事態が起こった時、自動的に燃焼し相手へと伝える仕組みとなっている。

 どれだけ待とうと繋がらないコール。瀕死の場合にのみ発動する呪的連絡。二つの事柄が指し示すのは、久宇舞弥の窮状に他ならない。

 切嗣が把握している舞弥の潜伏先までは、どれだけ急ごうと十分以上はかかる。いや、セイバーのみであれば彼女の下へ飛ばすのは不可能ではない。
 令呪の力を用いれば、もし仮にまだ舞弥が生存していれば助けられるし、襲撃者の正体も見当がつけられる可能性がある。

「マスターっ!?」

 突然顔を顰め指を押さえた切嗣の行動の理由を知らないセイバーは、ただならぬ事態が起こったとだけ認識するしかない。全ての決断は切嗣個人の裁量に委ねられている。

「…………」

 短く息を吐き、切嗣は外へと向かう。

 令呪は使わない。三度しか許されないブースターを、生きているか死んでいるか分からない相手を助ける為に使う愚行は犯せない。
 連絡が取れてその最中に起こったのならまだしも、既に毛髪が燃え尽きた以上、生存の目は少ない。

 助けられるかもしれない人間を見捨てる事に躊躇はない。たとえそれが長く連れ添った相手であったとしても、衛宮切嗣の心は揺るがない。
 既に娘の命すら理想を叶える為の生贄として差し出したのだ、今更人並の情で心の矛先を変える事など、どうして許されようか。

 だから衛宮切嗣は静かに、久宇舞弥の死を受け入れた。

 そしてその死を看取る為ではなく、少しでも情報を得る為に、車のハンドルを握り隠れ家の一つへと急いだ。



+++


 鼻を衝く血臭。
 噎せ返るような血の匂い。
 壁一面の赤。

 舞弥の潜伏先であった隠れ家の扉を開いた切嗣の目に飛び込んできたのは、壁を背に頽れた久宇舞弥の姿。

 だらりと下がった腕。
 投げ出された足。
 目は閉じられ、口からは一筋の血が垂れている。

 呼吸を確かめたり、脈を測り生死を確かめるまでもない。
 死因と思しき胴──心臓の傷口から零れたのであろう赤い血が、彼女の下に水溜りのように広がっている。

「これは……」

 遅れて室内へと踏み込んだセイバー。彼女の瞠目を他所に、切嗣は膝を折り舞弥だったモノの検分を始めた。

 下手人の姿など無論なく、死因は剣のような刀身の長い得物か。背を突き抜け、壁に痕跡を残すほどの膂力で以って舞弥は心臓を一突きにされたようだ。剣と思しき凶器が引き抜かれた際に崩れ落ち、今の格好となったと思われる。

 近くにコンバットナイフが一振り落ちている。それも抜き身の状態で。
 であれば、舞弥は無防備に殺害されたのではなく、抵抗したが及ばず息の根を止められたのだろう。

 そもこの街に切嗣以外に舞弥の知人はいない。セイバーとてこれが初面識。唯一可能性があるとすれば如何なる手段を用いてか、連絡を取ったらしいキャスターだが、彼女が襲撃者であれば舞弥が抵抗の意思を示すとは思えない。

 あの魔女の事だ、何らかの目的を持ち舞弥を殺害し、切嗣を欺く為の工作を行った可能性も考えられるが、今回に限ってはその線も薄い。

 舞弥の膝の上に、わざと目につくように置かれた一枚の紙。その紙の上にはこう記されていた。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 無機質な筆致。特徴の何もない文字の羅列。わざとそう書かれた襲撃者による切嗣宛てのメッセージ。

 ならば襲撃者は切嗣と舞弥の関係性を知る者。切嗣自身は無論有り得ず、セイバーにも不可能。キャスターでさえないのなら、可能性を持つ相手は、唯一人。

 ────言峰綺礼。

 唯一人、舞弥に辿り着けるとすれば奴しかいない。この街に潜伏する教会スタッフを手足のように使える監督役という立場。
 常に教会に監視の目を置かせていた事に気付いていたのなら、中立にして公平を謳う教会に猜疑を抱く輩がいると唆し、調査を行わせていても不思議ではない。

 ならばこれは切嗣の失策。

 有益な情報を何一つ引き出せず、警戒だけをし続けた代償。動きを封じる為の監視が逆にこちらに協力者がいる事を悟らせ、暴かれ、付け狙われた。

 久宇舞弥は、衛宮切嗣の愚かさ故にその命を失った。

「マスター、外を警戒します。まだ襲撃者が近くに潜伏している可能性もありますので」

 切嗣の肯定を待たず、セイバーは部屋を出て行く。

 襲撃者──言峰綺礼が近くにいる可能性など皆無だ。気を利かせたのかもしれないが、そんなものは余計なお世話だ。

 切嗣に悲しむ資格はない。詫びる資格などある筈もない。いつか切り捨てるまで、都合良く使い潰すつもりの女が予定よりも長く持った──そして今、ようやく終わった。ただ、それだけの事だ。

 そっと伸ばした掌。血に塗れ、何を掴む事も許されないと思い続けた掌を、死んだ女の頬に添える。
 まだ温かい。人の温かさがまだ、この身体には残っている。失われていく体温。やがてこの温かさも消え、文字通りの屍へと変わってしまう。

 それを止める手段はない。止める理由も見当たらない。そもそもとして、止められる筈などない。既に失われた命は、何をどうしようが還る事はないのだから。

「舞弥……ご苦労だった」

 悲しむ事も、詫びる事も許されぬのならば……せめてこれまでの働きを労うくらいは許されてもいいだろう。

 それが別れ。
 それが終わり。

 衛宮切嗣と久宇舞弥の別離は──こうしてその幕を閉じたのだった。



+++


 後始末を終え、手筈の全てを整え終えた切嗣は、セイバーと合流し深山町の拠点へと戻るべくハンドルを握る。

 死んだ人間の事をいつまでも引き摺るような切嗣ではない。今、真っ直ぐに前を見つめるこの男の脳裏には、襲撃者である言峰綺礼の事だけが浮かんでいた。

 言峰綺礼は何を想い、久宇舞弥を殺害したか。

 舞弥を殺したのは恐らく、ついでのようなもの。あの男の目的は切嗣のバックアップを奪う事でも、奪った事で動揺を誘う事でもない。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 このメッセージを切嗣に見せる事。ただそれだけが、目的だった。

 現場に自身の痕跡を何一つ残す事のなかった男が残した、唯一の証拠。わざと残していったメッセージであるのなら、他に理由は考えられない。

 未だ全サーヴァントが存命しているこの状況下で、既に終幕を見据えたメッセージを残した意味。このタイミングで舞弥を排除した綺礼の狙い。

 それが意図してのものか、そうでないのかは不明ながら、切嗣も此処に来てようやく現状を正しく把握した。

 この戦いはもう長くは続かない。

 拮抗していた天秤はバランスを崩し、これまで溜まりに溜まった目に見えない力が、坂道を転がるように終局に向けて落下している。この聖杯を巡る戦いに関わった全ての者を巻き込みながら。

 膠着は終わり、誰もが終わりを見据えて動いている。失ったもの、手に入れたもの。それぞれが手の中に残ったものを全て使い、己が目的を果たさんとして。

 ……ならば僕もまた、全てに決着を着けよう。

 窓の向こうに見える空は灰色。
 雨の到来を告げる鈍色だ。

 その果てから忍び寄るように迫る暗雲。
 それはまるで──彼らの行く末を暗示するかのように……。


/34


「これが……聖杯……?」

 アインツベルンの森での戦いを終えたその日の夜。間桐邸へと帰還した彼ら間桐の人間は薄暗いリビングに一同に介していた。

 森で臓硯を回収した折、彼の者が抱えていた少女の正体。キャスターのマスターを人質として攫ってきたものだと思っていた雁夜は、臓硯の言葉に唖然とした。

 だってそうだろう、目の前のソファーに横たわるのはただの女の子だ。雪のような白さの髪と、透けるような肌の白。身を飾る気品溢れる衣服も相まって高貴な雰囲気を纏っているが、どうみても年端もいかぬ少女そのもの。

 この少女が聖杯を隠し持っている、という話ではない。この少女自身が、聖杯の器それそのものなのだ。

「錬金術に長けたアインツベルン製のホムンクルス。彼の者らは聖杯の守り手としての役を担い以前の闘争にも随伴しておった。だが三度目の争いの際、聖杯の器はその完成を待たず破壊されてしまった。
 その反省を活かした自己防衛能力を有する生ける聖杯。ホムンクルスに聖杯を宿すのではなく聖杯に手足を付随するとは、あやつの発想には儂も舌を巻くわい」

 カカ、と嗤う臓硯。しかし雁夜はこの少女を仕組んだ誰かにも、その仕組みを知ってなお泰然としている目の前の悪鬼にも、吐き気を覚えるほどの邪悪を見た。

 まともな倫理観でこんな事が出来るものか。容認出来てたまるものか。幾ら造られた命とはいえ、それを弄び、己が目的の為の玩具とする事を、肯定出来る訳がない。

 ただ、雁夜は安堵もした。自分はこんな腐りきった魔術師とは違うと。命を玩弄する輩にまだ怒りを覚えられる人間なのだと、そう安堵した。

 ──その醜さを、浅ましさを、知る事もなく。

「で、この子をどうするんだ」

「どうもせん。というよりもどうにも出来ぬ」

 じくじくと、臓硯の足元より数匹の蟲が這い出した。蟲はソファーを這い登り、イリヤスフィールに取り付こうとした瞬間、

『ギィ……!』

 気味の悪い断末魔を残し、一匹残らず消滅した。

「魔術的干渉を行おうとするとそれに反応して迎撃を行うよう設定されておるらしい。この小娘自身の判断か魔女の入れ知恵かは知らぬが、賢しい真似をしてくれたものよ」

 魔術による干渉が不可能であれば、正直なところ臓硯にはイリヤスフィールをどうこうする事も出来ない。自分の都合の良いように操る事もその詳しい生体についての調査も出来ない。

 せめて令呪を剥奪し、キャスターを消滅させられればとも思ったが、これではそれも至難を極める。

 物理的な干渉は此処まで運べた事からも可能だと思われるが、下手に肉体に損傷を与えて聖杯の機能に不具合を起こされてはたまったものではない。
 その身は機械より精緻でガラスよりも脆い芸術品。扱い方を間違え、これまでの苦労の全てを水の泡とするような愚かな真似は出来ない。

 臓硯自身、正直なところイリヤスフィールの存在を既に持て余し始めている。聖杯の器を手中にしているという事実は今後の局面を優位に運べる好材料となりうるが、同時に器に傷をつける事が許されないのであれば人質としての意味を為さない。

 逆に言えば、衛宮切嗣によって押し付けられた可能性をすら考え始めている。

 最終的に手元に戻ってくるのならばそれで問題ないと。一時的に敵の手に預けたのは、逆にイリヤスフィールをこちらのネックとする為の策なのではないかと。

 幸いにしてイリヤスフィールが目を覚ます様子はない。自分自身を人質に暴れ回られるような事態になられては面倒極まるが、自己防衛を優先する為の眠りに落ちていると見るべきだろう。

 とはいえ、衛宮切嗣の手によって間桐臓硯へと贈られたトロイアの木馬。それがこのイリヤスフィールになりかねないは事実。

「お爺さま」

 その時、これまで沈黙を保っていた桜がその口を開いた。以前と変わらぬ幽鬼のような立ち姿。長い前髪の向こうの瞳は、微かにしか窺えない。

「なんじゃ、桜よ」

「お爺さま。もしお爺さまが“それ”をいらないって言うのなら──私に下さい」

「桜ちゃんっ!?」

 雁夜は無論、臓硯にしても桜の嘆願には驚きを隠せない。間桐の家へと迎えられてからこっち、彼女自身が何かを求めた事など一つもなかった。
 身の丈に合わぬものを望めば、鋭い鞭が飛んでくるとでも言うかのように。桜はただ、臓硯の言いなりになるばかりの人形だった。

 人形が願いを口にした。動かぬ筈の口を動かし言葉を発した。脅えて肯定の意を返すのではなく。自ら、望むものを手に入れようと。

「ほぅ……? 珍しい事もあるものだ。して、桜よ。仮に儂がイリヤスフィールを貴様に譲り渡したとして、どう扱うつもりだ?」

「決まっています。彼女が聖杯の器であるのなら、その器に魂(みず)を注ぎ、捧げるだけです」

 この街に集う今回の聖杯戦争における生贄──聖杯の器にくべられるべき英霊の魂の数は八。本来は七つで満ちる杯に、十年の遅延が生んだ余分が一つ。
 されどその器には未だ一滴の水も注がれていない。全てのサーヴァントは存命し、戦いの行く末は未知数。

 この段階で聖杯を聖杯として機能させる術はない。桜の言葉は、戦いの行方を見守るのと何ら変わらないもの。それではわざわざ臓硯が桜に聖杯を託す理由はない。

「いいえ。抱え続けても満ちるその時まで邪魔になるものであるのなら、いっそ最初から捧げてしまえばいいんです。
 聖杯の器を欲しがるのは、何も私達だけじゃないんですから」

「ほう……? つまり桜よ、貴様はイリヤスフィールを他の連中を戦場へと誘う餌にしようと?」

「はい。今回の降霊の地が既に判明しているのであれば、そこに導くだけでいいんです。勝ち残らなければ意味がないのなら、わざわざ危険を冒して聖杯の器を持ち続ける理由もないと思います」

 聖杯の器を手に入れたとするのなら、誰もがその死守に全霊を傾けるだろう。いずれ訪れる終焉の刻限、その時に聖杯が手の内にある優位性は語るまでもない。

 しかし、臓硯の分析が正しいのなら、扱いに困る聖杯の器を未だ脱落者のないこの段階で持ち続けるだけの理由は少ない。
 衛宮切嗣がわざと臓硯にイリヤスフィールを引き渡したのだとすればなおの事。彼奴の策を崩す意味でも効果的だ。

 聖杯の器が既に降霊の地にあると聞けば、こぞってその確保を目論む連中が押しかけるだろう。
 その状況を作り上げるという事は、これまで常に先手を奪い続けてきたアインツベルンの思惑の裏を掻く事にも繋がる。戦場の優位性を確保する事が出来る。

 森に引き篭もっていれば勝利はほぼ確定的なアインツベルンも、これでは戦場に出てくるしかない。

 衛宮切嗣とてイリヤスフィールの無事は確保しておきたいだろう。自らの与り知らぬところで戦いが行われ、そして聖杯の器が誰の手に渡るのか、どのような状態かも分からないような状況は避けたい筈で、ならば出張ってくるしか他にない。

 守り抜こうとすればするほど弱点を露呈させる聖杯の器も、扱い方次第で幾らでも状況を動かせる駒になる。

 この発想は桜だからこそのものだろう。物欲がなく、執着もない彼女ならではの策。聖杯に、自らの祈りの成就に、並々ならぬ執着を持つ臓硯ではこんな使い捨てるような策略に思い至らないのも不思議ではない。

「ふむ……悪くはない。カカ、孫が初めて爺に物をねだったのだ、くれてやるのも良いかもな」

 時を置けば衛宮切嗣が何かを仕掛けてくる公算は高い。その前に、動くのなら早いに越した事はない。

「良いぞ桜よ。イリヤスフィールはお主の好きにせい。だがくれぐれも丁重に扱えよ? もし聖杯が機能不全を起こすような事があれば──」

「大丈夫です、お爺さま。私にだって、聖杯を手に入れなければならない理由はあるんですから」

 糸に操られるだけだった人形を動かす理由。それが成長と呼ばれる類のものであったとしても、臓硯には微塵の興味も惹かれない。孫の成長を喜べるほど、この翁は人としての情を既に残してなどいないのだから。

「それで、お爺さま。今回の降霊の地は何処でしょうか」

「ああ……本来三つある霊地が順繰りに廻り、今回は一番初めの地点……柳洞寺だと推測されていたが状況が変わっておる。今回は新たに生まれた四つ目の霊地──新都の中心にある冬木市民会館が降霊の地じゃ」

 聖杯戦争を行う上で手を加えられた霊脈は、此処に来て異常を来たし、本来霊地ではない場所に最大級の力の瘤を形成するに至ってしまった。

 霊地としての格は当然ほかの三つに劣るが、六十年周期で満ちる筈のものに十年を上乗せされた結果、第四位の地点が他の霊地をも上回る魔力量を蓄えている以上、降霊の場所は変える事が出来ない。

「冬木市民会館……? 本当に新都のど真ん中じゃないか! あそこは周囲も住宅街で密集している。そんな場所で降霊を行うのか!?」

「何を危惧する雁夜よ。今更になって巻き込まれるかもしれぬ無辜の人間共の心配か? だとすれば遅すぎるな。
 この戦いの初めからこの街に住む者の命は危険と隣り合わせよ。これまで省みる事のなかった貴様にそんな世迷言を吐く資格などあるまい」

「くっ……!」

「だが安心せい。冬木市民会館はセンタービルと並ぶこの市の恩恵を授かった建築物よ。敷地面積は広大を誇っておる。よほどの事がなければ問題などあるまいよ」

 その『よほど』が起こり得る聖杯戦争だからの危惧。対城レベルの宝具を有する英霊が激突すれば、その被害は甚大に及ぶだろう。

 ただ、雁夜がしたような危惧を他の連中もしないわけではあるまい。特に正規の英霊達ならば、周囲への被害を慮るくらいの高潔さは持ち合わせている筈だ。

 逆を言えば、そのお陰で市民会館付近での広域殲滅型の宝具はその使用を封じる事が出来る。
 対人戦特化のバーサーカーにとっては優位な戦場を形成できる可能性もあるだろう。

 まあそれも希望的観測を含んだもの。聖杯を掴む為、祈りを叶える為と、他の全てを犠牲に出来る輩がいないわけがないのだから。

「じゃあ、雁夜おじさん。聖杯の器を運んで貰えますか」

 話はそれで終わったと、桜は行動に移る。

「本当に……やるのか?」

「はい。やるなら早い方がいいです。でないと、アインツベルンが何かを仕掛けて来ないとも限らないので」

 雁夜はまだ戸惑っていた。桜の余りの変わりように。

 森の戦い以前と、その後ではまるで別人だ。何が彼女を此処まで駆り立てるのか、雁夜には皆目見当もつかない。

「……分かった」

 それでも、彼女が自分の意思を口にしてくれるのは嬉しかった。人形のように唯々諾々と命令に従うだけの彼女は見るに耐えなかったのだ。
 たとえそれが聖杯を掴む為の策であろうと、彼女自身の意思で彼女が動いている事が、雁夜には嬉しかった。

 ……ああ、きっと俺達は勝てる。勝って、この地獄から抜け出して。

 その先に、幸福があるように──

 そんな、遠い夢の向こうを想う。
 今目の前にある、足元にある現実から目を背けるように。

 自らを騙る、欺瞞から目を逸らして。



+++


 そして雁夜はイリヤスフィールをその腕に抱き、間桐邸を去った。

 まだ誰の手も入っていない降霊の地へと。誰もがその確保を最優先とする筈がないこの時期だ、雁夜の道行きを阻むものは何もない。

 桜は残り、臓硯と今後について話し合う手筈となっていた。桜の策を了承したが、臓硯にとって桜は全てを託すにはまだまだ未熟。アインツベルンや遠坂に足元を掬われぬよう手解きをしてやろうと思った矢先──

「ライダー、『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を強制展開──令呪を以って命じます」

「ッ!?」

 瞬間、世界は血の色で覆われる。本来十日ほどの時間を掛けなければ構築出来ない魔法にも等しい大結界。それを令呪の強制力で、桜は強引に間桐邸内に展開した。

「──何を考えておる、桜っ! 血迷いおったかっ!?」

「いいえ、お爺さま。これが正しい選択です。この家に棲まう蟲のその悉く、一滴の魔力も残さず吸い尽くしてあげます」

 鮮血神殿はその内側に存在する魔力を有する存在を溶解し吸収する。並の人間ならば数分も保たず意識を失い、やがて全てを血液の形へと分解され吸収されてしまう。
 魔術師ならば自身に無意識に防護を行い、即座に分解されるような事はないが、結界内に居続ければ同じ道筋を辿る事になるだろう。

 臓硯自身が耐えられても、この家に蠢く無尽にして無数の蟲はそうもいかない。間桐臓硯の子飼いの蟲はそれ自体が魔力の塊。使い魔としてはサイズも小さい。
 人間大のものを溶解するには数分の時間が必要でも、蟲を溶かし切るのには数秒と時間は掛からない。

『ギィィィィィィ…………アァァ、ァァッッ!!!!』

 地の底から響く断末魔。腹の底へと響く雄叫び。自らの甲殻を溶かす血の霧に咽び、奪われていく魔力に身を捻じ切る。
 今頃間桐の修練場である蟲蔵は文字通りの血の海と化しているだろう。数万、数億にも及ぶ蟲が溶解した赤い海。純粋な魔力で満たされた、地獄の底に生まれた原初の世界。

「ォ、ォ、ォ、ォォ、ォォォ……!」

 蟲の絶命に伴い臓硯の表情が変わる。五百年を生きる化生も、まさか全ての蟲を一瞬で無に帰されるような事態は想定していまい。

「さ、くら……! 貴様ァ……!」

「うるさいですよ、お爺さま。そんなに叫ぶと、ほら──」

 桜の最後から臓硯目掛けて飛ぶ刃。ジャラジャラと鎖を打ち鳴らしながら、ライダーの得物である釘剣は臓硯の首へと巻きつき、引き戻す反動でその皺枯れた首を捻り切り落とされた。

 ごろり、と臓硯だったものの頭が床に転がる。それを見下すように桜は眇め、首を落とされてなお睨む瞳に鋭き眼光を宿す祖父の頭蓋を──

 ──その足の底で、踏み砕いた。

 じくじくと溶ける臓硯の身体と頭。蛆が沸いたように這い出す無数の蟲は、地下の仲間達と同じように鮮血の神殿に溶かされ、悲鳴を残して消え去った。

「最初から……こうしておけば良かった。そうすれば……」

 全てが終わった場所で桜は呟く。後に続く言葉は、誰の耳にも届かない。

「サクラ……」

「うん……大丈夫だよライダー」

 間桐臓硯がこれで確実に死んだという保障はない。

 常人に数倍する長い年月を生き、人の身体を捨ててでも延命を図った蟲なのだ、桜や雁夜の叛旗を予想していなかったとは思えない。
 それでも、この家に棲まう蟲の全てを消し去ったのは事実、間桐臓硯の力を削いだのは事実だ。

 たとえ生きていたとしても、何も出来まい。かつてと同じ力を取り戻すには相応の時間が必要だろう。たとえ対策を打っていたとしても、今すぐに復活出来るような手緩い奇襲をかけたつもりはない。

 臓硯が生きているのなら、その力を取り戻す前に決着を着ける。

 間桐桜はその覚悟で──あの悪鬼に初めての叛逆を行ったのだから。

「行こう、ライダー。全部、終わらせてしまおう」

「はい、サクラ。私は常に貴方と共に」

 臓硯の魔手から逃れない限りは桜に幸福な未来はない。だからライダーはこの奇襲に加担した。

 懸念すべきは、その血に濡れた掌で、幸福を掴めるのだろうか。先の見えない暗闇の向こうに、主の望む未来が待っているのか……。

 それはライダーには分からない。

 それでも、今出来る最善を。
 マスターの望む道を征く。

 それが彼女の在り方。
 この身が地獄に落ちようと、望みが叶うのならばそれでいい……。

 悪鬼の手から逃れた主従が夜を進む。
 誰もが予期し得なかった先陣を切り、聖杯の向こう側へと、辿り着く為に。


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