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間桐臓硯がアインツベルンの森に姿を現したのは、昨日バゼット一行が撤退したその少し後の事だった。
たった一人で魔女の森に踏み込みながら、その姿は悠々としたもので、気負いも緊張も感じられない様のまま、結界を越えた辺りで周囲を睥睨し喉を鳴らした。
『聴こえておるのだろうアインツベルン。こちらに敵意はない。古き盟友と少々話をさせて貰いにわざわざ足を運んだのだ、まさか無碍にはすまい?』
間桐の大老。五百年を生きる老獪なる妖怪。間桐臓硯の良からぬ噂を少なからず耳にしていた切嗣にしてみれば、水晶球の向こうに見える老骨は斬って捨てて当然の存在。話を聞くことすら不要だ。
ただ、現在の状況がそれを許さない。バゼット一行を撃退し、遠坂凛のサーヴァント──アーチャーによる予想外とも言えた狙撃によって少なからずキャスターはダメージを負っている。この森が彼女の工房である以上、数時間も休めば回復する程度のものだが、逆を言えば数時間分の猶予を稼がれた。
その為にバゼット達を取り逃がし、遠坂との接触を許してしまった。勝利を勝ち取る上で最上の舞台に敵を引き入れてなお逃した不始末は、今もって尾を引いている。
間桐臓硯がわざわざこのタイミングで、間隙とも言うべき瞬間を狙いアインツベルンに接触を図ったのも偶然ではない。偶然である筈がない。
マスター権を所持していない部外者。御三家に連なる者であろうとも、輪の外にいる筈の翁。けれどこの老獪は虎視眈々と聖杯を狙っている。自らが送り出した二人のマスターを手繰り、他の参加者全てを轢殺し聖杯を掴もうという意思が透けて見える。
今まで裏に潜んでいたこの男が表舞台に姿を見せたのは、それだけの理由があるに違いない。間桐雁夜や間桐桜では叶わぬ一手を楔として打ち込む為に、こんな僻地へと足を運んだのだ。
事実、ここで臓硯を無碍にしては先の展開がある一つの結末へと収束する。つまり──アインツベルンを除いた三勢力による結託。森の結界を有し現在優位にある切嗣らに対して包囲網を敷かれてしまう可能性が極めて高い。
如何にセイバーの能力と魔女の結界があろうと、サーヴァント六騎を相手に回して勝ちを拾えるなどとは驕れない。セイバーと同等以上の力を有するガウェインやランスロット、未だ正体すら不明なサーヴァントもいる。これだけの敵を相手にしては、単純な物量、力で押し切られてしまうだろう。
遠坂とバゼットの同盟が考えられる以上、残る一勢力である間桐はその身の振り方を如何様にも変える事が出来る。静観も、何処かに組するも胸先三寸。現状はどう足掻いてもこの翁の掌の上。バゼット達を逃がしてしまった以上避けられなかった展開だ。
間桐臓硯の用件は恐らく、切嗣の想像の通りのものに違いはあるまい。何を画策しアインツベルンの手を取ろうというのか、その真意までは流石に見通せないが、相手の掌の上で踊るなんて真っ平だ。
これまで戦端を率先して開き、主導権を握り続けてきたのはそれが最も効率的に戦いを優位に運べると計算してのもの。であるのなら、此処で他人に、ましてや切嗣に数倍する年月を生きた化生といえど、体良く利用されるなんてのは御免被る。
……いいだろう間桐臓硯。おまえの掌の上で僕が踊っていると、思っていれば良い。踊らされているのが自身だと、気付かぬままに。僕は僕の思惑を成し遂げる為、おまえを利用させて貰う。
斯くして。
遠坂とマクレミッツの同盟に対抗するアインツベルンと間桐の協定が交わされた。
四つに分かれた陣営は手を取り合い二つとなり、四人と四人のマスター、四騎と四騎のサーヴァントに分かれ、人の立ち入らぬ仄暗い森の中で、広大な森の闘技場にて、今まさに雌雄を決さんと激突していた。
+++
森を疾走する一つの影。夜霧が閉ざす森の中を、鋭敏化した感覚と研ぎ澄まされた集中力でノンストップのままにバゼットは駆け抜ける。
追っ手はない。妨害もない。彼女の道行きを邪魔立てする全てのものは後ろに残してきた者達が引き受けてくれた。
森の突破とはすなわち城の陥落。城主であるキャスターのマスターを討てば、それでこの一戦は終わりを告げる。
未だ姿を見せぬ魔術師殺しが気には掛かるが、より強大な敵を引き受けてくれた皆の為にも、単独で城を攻め落とすとバゼットは森の中心へと急ぐ。
やがて遠く霞む夜の向こうに黒以外の色を見る。木々の天蓋よりも高い白の尖塔。そのままラストスパートとばかりに地を蹴り上げ、駆け抜けた先、開けた空間に屹立する古城を捉えた。
古めかしい白の城壁。天を衝く異様。御伽の世界に紛れ込んだと錯覚するかのような、中世に実在した本物の城をバゼットは見上げる。
その威容はアインツベルンの権力の誇示だ。手を取り合いながらも決定的に敵同士であった遠坂や間桐と己達は違うのだと、聖杯を手に入れるべきなのは自分達なのだと見せ付ける為だけにこの城は移築された。
「……プライドも、ここまで見栄を張ればある種の畏敬を覚えてしまいますね」
ふぅ、と僅かに乱れた呼吸を正し、バゼットは革手袋をきつく絞る。今まさに目の前に聳え立つものこそが敵の本拠地。立っている場所は敵の膝元。いつ何処からどんな手段で不意を打たれるか分かったものではない。
張り詰めらせていた緊張の糸をなお引き絞り、覚悟を抱いて一歩を踏み出す。
見渡す限り、特に異常と思えるものは何もない。霧も薄く掛かってはいるが、後方の戦場ほど濃くはない。
城への侵入経路も幾つか考えられるが、バゼットは迷う事無く城門、巨大な正門へと足を向けた。
どうせ此処まで足を踏み込んだ事は知られている。変に機転を利かせても恐らく意味はない。であれば、堂々と真正面から踏み込み城の主を討つ。それが最も手っ取り早いと確信しバゼットはいよいよ門を開いた。
重く軋む扉を押し開けた先、目に飛び込んできたのは広大にして絢爛なエントランスホールだった。
白磁で統一された内装。華美(いやみ)にならない程度に設置された装飾品。足元から伸びるレッドカーペットはホール中心を貫き、その先にある大階段へと届いており──
「ようこそ、アインツベルン(わたし)の城へ。歓迎するわ、協会の魔術師さん」
その最上段に二人の侍従を侍らせた、赤い目をした年端もいかぬ少女の姿を見咎めた。
「貴女がキャスターのマスターですね」
ふわりとスカートの裾を摘み、恭しく歓迎の挨拶を述べた少女に対し、バゼットはホールの中ほどまで歩みを進めながら、簡潔にして無機質な声音で問い質した。
少女は己の挨拶を無視されてなお柔和な笑みを崩さず、城主としての厳かな声を響かせ名乗りを上げた。
「ええ。アインツベルンのマスターが一人──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。どうぞお見知りおきを」
「私の所属を知っているのなら当然素性も調べてあるのでしょうが、名乗られたからには名乗り返させて貰いましょう。バゼット・フラガ・マクレミッツです。貴女の命を頂きに参上した」
「ふふ──正直なのね貴女」
「ええ。回りくどいやり取りは好みではありません。無駄話に興じる趣味もない。早速で申し訳ありませんが、その命──刈り取らせて貰う」
胸元の高さに硬化のルーンを刻んだ拳を構える。ボクシングスタイルのような構えと共に戦闘態勢に入ったバゼットに呼応してか、イリヤスフィールの傍に控えていた二人の侍従の内の一人が、無言のまま主を庇い立つように踏み出した。
その手には巨大な金属の塊。斧と槍の特性を併せ持つ斧槍(ハルバード)。
旧時代の武装だが、身の丈を超える鉄塊を軽々と持ち上げ振るう能面の侍従は、易い相手ではないとバゼットは直感する。
庇われた格好の主──イリヤスフィールは明確な敵意に晒されてなお赤い瞳と口元に無邪気な笑みを絶やさない。まるで獲物を嬲る猫のようだ。
「正直なところ、私の戦闘能力じゃきっと貴女には敵わない。だからリズ(これ)を卑怯だとは言わないでくれると助かるわ」
「元より尋常な決闘など期待していませんので。これは命を賭けた戦い、戦争だ。勝つ為に手段を選ばないのはむしろ当然の行い。敵の優位が確立している場所に踏み込んだのはこちらだ、劣勢は承知の上」
その上でなお勝ちを奪い取る。その為に此処まで来たのだ。
「そう……じゃあ少し遊んであげなさい、リズ」
「ん」
短い返事とコクリと頷き、ハルバードを携えたリズと呼ばれた侍従が跳んだ。二階ほどの高さから、エントランスホール中心に立つバゼット目掛けて襲い掛かる。
頭上に揺れるシャンデリアに届かんとする程の大跳躍と、全身を弓なりに絞ってからの全霊での振り下ろし。バゼットの脳天をかち割るばかりか頭の天辺から股下までを一刀両断にせんとする無慈悲な一撃。
それを、
「ふっ────!」
軽やかなステップ。見え見えの敵の攻撃を容易く回避する。大理石の床へと叩きつけられた鉄塊は易々とそれを砕き、破片を周囲に撒き散らしながら下手人は着地する。
着地の隙、一瞬の硬直による隙間を縫うように、後退したバゼットは即座に踏み込む足に力を込め、敵の懐へと潜り込む、
「……ッ!!」
つもりであったが、敵の常識外の行動──深々と大地を抉った筈のハルバードを無理矢理に引き抜きながらの薙ぎ払いを見咎め、間一髪で踏みとどまった。
自らが生み出した破片と土煙を薙ぎ払い、白の侍従は無機質な瞳を敵手に向けた。
「…………やはり、ホムンクルス」
人の身では叶わない、無理な駆動を可能とする体構造。サーヴァントにも匹敵する人外の膂力。色のない瞳。感情の欠落した表情。
恐らく戦闘用に調整された弊害か、イリヤスフィールの傍に立つもう一人の侍従には見える生気(いろ)がこの敵からは感じられない。
無機質な、ただ主の命を遂行するだけの人形。主の生命を守護する為に鋳造された人工生命。より深く接すればまた違うのかもしれないが、現状そう捉える他にない程度には目の前の敵は機械めいていた。
アインツベルンは錬金術の大家。その産物であるホムンクルスとは一度、かつて戦った事がある。廃棄予定だったホムンクルスに、当時未熟だったバゼットの腕を差し引いても苦戦を強いられた。
目の前のホムンクルスは以前のそれとはレベルが違う。
戦闘を行う事を前提として造られたこのホムンクルスは恐らく、以前対峙したものより数段強力であると予測が出来る。
更には背後にもう一人と、キャスターを従え、この森の結界を維持構築させるだけの供給力を持つマスター。その実力は未知数だが、侮っていいものではあるまい。
味方の援護は期待出来ない。此処までの道を開いてくれただけでも充分すぎる働きを彼らは見せてくれた。であれば、目の前に如何なる困難があろうとも、打ち破り勝利を持ち帰るのが己の務め。
「ホムンクルス。貴女に恨みはありませんが、邪魔をするというのなら壊させて貰う」
肩に掛けたままだったラックを放り、身軽となった身体で再度構えを取る。巻き上げられた土煙の晴れた視界の先、片腕でハルバードを操る人形が、言葉を発する。
「させない。イリヤは、わたしが守るから」
言葉少なに、されどその言葉に宿る言霊は本物。人の身ではない人を模しただけの人形であれど、彼女にもまた意思というものがある。
聖杯戦争とは他者の願いを、他者の祈りを踏み躙り、礎に変えて天に輝く杯へと手を伸ばすもの。マスターではなくとも、立ち塞がる敵を打ち砕く事に戸惑いを抱くなどあってはならない。
何よりスイッチの入ったバゼットもリーゼリット同様の戦闘機構。目の前の敵を粉砕するだけの機械となる。
そこに同情の余地はなく。それでも主を守るという意思(ねつ)を宿す彼女に敬意を評し、全霊で以ってこの障害を突破する。
森の最奥にて行われる最後の戦い。
その火蓋が今、切って落とされた。
+++
振るわれる刃は旋風。触れる全てを断つ鉄の檻。長大なハルバードを軽々と振るい、エントランスホール中心でリーゼリットは踊る。
対するバゼットは足を使って周囲を駆け回り、懐に潜り込む隙を窺っている。
二メートル近くもあるハルバードとただの拳。二人のリーチには決定的に差がある。遠隔からの攻撃手段を持たないバゼットは、どうにかしてハルバードの間合いに踏み込まなければ勝機はない。
得物が長く大きい分、一回の攻撃に掛かる時間と引き戻しに必要な時間は増す。その為攻撃後の隙を衝いて接近を試みるバゼットであったが、幾度目かの失敗を経て、少しばかり距離を取った。
人外の膂力で鉄塊を振るうリーゼリットには、本来ある筈の硬直がない。いや、僅かではあれ硬直はあるのだろうが、バゼットをして付け入る隙が見出せない程にリーゼリットの動きに余分が見られない。
ホムンクルスとしての長所──人と似た構造でありながら、決定的に違う形ゆえの、人には限られる動作の制限を撤廃されている。痛みを伴う捻転も痛覚を排せば意味を為さず、反射をすら凌駕する機能を以って肉体は駆動する。
封印指定の執行者として人の域を逸脱した魔術師を幾人も相手にしてきたバゼットだが、純粋に人を上回る性能を有する敵と拳を交えた数はそう多くない。その手の役目は執行者よりも教会の代行者の専門だ。
……やりにくい相手ではありますが、全く勝機が見えないわけではない。
例えるのなら、リーゼリットは擬似的なサーヴァント。人の創造の域に収められた劣化サーヴァントだ。
神域に立つ英雄(かれら)は余りに遠い存在だが、目の前の存在はその模倣。幾つもの機能を制限した上で獲得した超常性。付け入る隙は必ずある。
唯一懸念があるとすれば、未だ沈黙を保つ階上の二人。三人掛かりで仕掛けられてはさしものバゼットも危ういが、何を思ってか彼女達は階下の戦闘を見守るばかりで何も仕掛けて来ない。
侍従の方は冷徹な視線で階下を眇めており、少女の方はにこやかな笑みを崩していない。
「あら、どうしたの? もう抵抗はやめたのかしら。それとも、私達が気になって集中出来ない?」
バゼットの思惑を見透かしクスクスと笑う無邪気な少女。此処が戦場でなければそれは微笑ましい光景なのだろうが、今に限ればその無邪気さは、何処か空恐ろしささえ感じる場違いなものだ。
「安心していいわバゼット。貴女がリズを突破しない限り、こちらからは手を出さない。せっかく足を運んでくださったお客さまだもの、簡単に壊(つぶ)しちゃったら、もったいないじゃない?」
邪気のない笑い声がホールに響く。無邪気ゆえの無垢さが、酷く心を逆撫で爪弾く。
「…………」
意図の見えないイリヤスフィールの言葉。城に踏み込んだ者は圧殺して余りだけの罠を仕掛けていると思っていたバゼットにとって見れば、少女の言葉も現状も拍子抜けもいいところだ。
何が狙いかは分からないが、イリヤスフィールは遊んでいる。バゼットを侮っている。あるいは、リーゼリットに篤い信頼を寄せているのか。
いずれにせよ好機には違いない。敵の言葉を鵜呑みにするつもりはないが、それでも一対一の状況で負けるようであればどの道先はないのだ。何としてもリーゼリットを突破し、イリヤスフィールに王手を掛けなければならない。
「状況は再確認しました。ではイリヤスフィール、一つ宣言をしましょう。次の攻防で私はリーゼリット(かのじょ)を突破します。畏れるのであれば、三人掛かりで仕掛けて来ても一向に構いませんが?」
「────」
少女は沈黙し赤い瞳を細めた。戦闘が始まってまだ数分。互いに様子を窺う程度の接触しか果たしていない。
それだと言うのにバゼットは憚った。もう攻略の糸口は見つけたと。リーゼリットを退けイリヤスフィールにこの拳を叩き込むのは、何も難しいものではないのだと。
「へえ──言うじゃない」
無邪気だった視線に明確な敵意が滲む。
遊んでいるのはこちらのつもりだったというのに、遊ばれていたとも取れる挑発を差し向けられて少女は酷く苛立ちを露にした。
「いいわ、その安い挑発に乗ってあげる。リズ、手加減は不要よ! そいつの頭をかち割りなさい……!」
「了解」
突風の如き踏み込みからの大上段。大きく振りかぶったハルバードは力任せに大地へと叩きつけられる。
触れれれば命を丸ごと刈り取るだろう凶刃を跳躍によって躱し、先と同じように硬直すらなく再度薙ぎ払われるハルバードを、
「っあぁ……!!」
身を低くしてからの、伸び上がりと共に繰り出されるアッパーカット。硬化と強化の相乗が重ね掛けされたバゼットの拳が捉えたのは、斧槍の斧の部分。唯一表面積の広い斧の側面を、下から叩き上げるように撃ち貫いた。
「…………ッ!?」
ハルバードの重心は先端にあり、遠心力で薙ぎ払いを放ったリーゼリットはバゼットの渾身の一撃によりその体幹、重心をずらされた。
本来回避されてもそのまま手元に戻ってくる筈の刃は堰き止められ、足は俄かに浮き足立つ。
その一瞬、外せば首が飛ぶ覚悟を以って敵の得物を弾き飛ばしたバゼットは、重心が崩れ踏鞴を踏むリーゼリットの懐へと──己の間合いへと踏み込み、
「ふっ────!」
人体の急所の一つ、鳩尾を正確に撃ち抜いた。
「っ、ぁ……!」
声にならない音を発しリーゼリットが舞う。
人と違う構造をしていようと、無防備に胸の中心を高速の鉄塊で強打されたも同然のバゼットの拳に打たれては抗う術はない。
壁面を叩きつけられたリーゼリットを尻目にバゼットは一直線に大階段へと向かう。
元よりバゼットの目的はリーゼリットを斃す事ではない。あくまでも本命はイリヤスフィール。キャスターの支配を封じる為にマスターを討つ事に他ならない。
渾身の一撃を受けてなお絶命していないであろうホムンクルスを相手にしていては限りがない。イリヤスフィールにはリーゼリットほどの頑強さはない筈だ。であれば、その首を落とすのは鶏の首を刎ねるよりも容易い事。
文字通り斃すのではなく突破したバゼットと、リーゼリットが攻略されるとは思ってもいなかったイリヤスフィール。両者の違いは明確で、階段に足を掛けたバゼットの行く手を遮るものはなく──
「私を忘れて貰っては困りますね」
冷徹に場を俯瞰していたもう一人の侍女が、その行く手に立ちはだかる。
とはいえ、彼女もまたリーゼリットとは違う、人よりも長けた知識を有するが故に脆弱な肉しか持たない本来の仕様に近いホムンクルス。
如何に精緻で肌理細やかな魔術回路を有していても、それが魔術師と変わらぬものであればバゼットの土俵。
簡易な詠唱で放たれた、極大の風呪の魔術。叩きつけるような暴風と切り裂くような大嵐を、前面に立てた腕で防ぎながら休める事無く前へと踏み込む。
硬化されていた拳以外の腕の部分が切り裂かれ、スーツは愚か肌をすら蹂躙した風の刃を受けてなお、腕を血塗れしてなおバゼットは止まらない。一撃で命を奪い取る類のものでなければ気合と根性で耐え切れる。
「なっ……!」
まさかそんな力技で自らの魔術を捻じ伏せられると思ってもいなかった侍女は、容易くその間合いに踏み込んだバゼットによって意識を刈り取られ地に伏した。
「後は──」
視線の先、動揺から立ち直った少女を見据える。その時バゼット自身の後方、エントランスホールから瓦礫の崩れ落ちる音が聴こえた。
それは吹き飛ばされたリーゼリットが、今一度立ち上がった証拠。主の危機に本能的に察し、先に数倍する速度で迫り来る。
だが遅い。
イリヤスフィールはバゼットのすぐ目前。二歩も踏み込めば届く距離。対して広大なホールの壁面へと叩きつけられたリーゼリットは、数メートル以上の距離がある。どう足掻こうが、それこそ転移でもしない限り届かない。
「流石にやるわね」
バゼットが、己が命を刈り取ろうとする敵手を目前にしてなお、イリヤスフィールは揺るがない。柔らかな微笑みこそ消えたが、今の彼女の面貌に宿るのは冷ややかな色。口元だけが、僅かに吊り上っている。
「最後に一つ、教えてあげる」
未だ余裕を崩さないイリヤスフィールに疑念を覚えたが、既に状況はチェックメイト。何かを口にしようとする少女を無視したまま、後方より迫る刃が届かぬ事を理解した上で、バゼットは無慈悲に、その拳を振り下ろす──
「私は聖杯よ────私を殺せば、聖杯は手に入らない」
「…………っ!?」
──つもりだった凶手が、事実振り下ろした拳が、イリヤスフィールの末期の言葉に、鼻先数センチで止まった。
「がっ…………」
そして戦場に華が咲く。
血の色をした赤い華が。
それはバゼットがイリヤスフィールの頭蓋を砕き生んだものではなく。
イリヤスフィールがその手にした、何の変哲もない針金がバゼットの身体を貫き、その背に赤い薔薇を咲かせていた。
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「バーサーカーと話がしたい……?」
アインツベルンと間桐が同盟を締結させた夜の事。
朝日と共に森へと踏み込んで来ると予測されるもう一つの連盟──遠坂・マクレミッツの同盟を迎え撃つ為、間桐家のマスターである雁夜と桜はアインツベルン城に逗留し一夜を過ごす予定だった。
与えられた一室。客人用に設えられた、主の部屋にも見劣りしない豪奢な部屋で休息を取っていた雁夜の下に訪れたセイバーが唐突にそう告げた事に、彼が当惑を露にするのも無理からぬ話だ。
「冗談なら笑えない話だが……」
「いいえ、私はただ本当に彼と話をしたいのです」
椅子に座した雁夜を見つめる誠実な瞳。背筋を伸ばし屹立したその様は、一枚の絵画のよう。狂いなく迷いなく、彼女こそ最優の英霊に相応しき者。それを体現するかのように、微塵の害意もなく少女は敵であるマスターと向き合う。
本来ならば馬鹿げた話だと切って捨てるところだが、少女の揺るがぬ意思に気圧されたせいか、雁夜は嘆息と共に口を開いた。
「話になどならないと思うがな。アンタも知っての通り、俺のサーヴァントはバーサーカー──狂いの御座に招かれた英霊だ。
狂化のランクはそう高くないが、言葉を発する事は出来ないし、理性にも制限をかけられている」
隠蔽の宝具のお陰で雁夜以外誰もバーサーカーの詳細なステータスを窺い知る事は出来ないが、別にばれて困るものでもないと雁夜は一部の情報を開示した。
バーサーカーの狂化のランクは『C』相当。魔力消費と能力上昇が高ランクのそれと比べて抑えられる分、完全に理性は剥奪されないが、複雑な思考が困難となり言葉を発する事が出来なくなる。
通常、このランクでも並のサーヴァントならば雁夜のバーサーカーほど卓越した技を振るえなくなる。思考能力の低下は戦時の戦況判断能力の低下をも意味し、当然技の冴えを鈍らせる。
一瞬の判断ミスが命を脅かす戦場において、それは余りに致命的な欠点。それを補う為の能力値上昇でもあるのだが、雁夜のバーサーカーにはその低下が効果を為さず、それがかつてセイバーやガウェインを苦しめた御業の正体だ。
秘匿されたままのスキルの一つが、狂化されてなお彼の剣から冴えを奪わず、濁りさえも落とさない。理性を奪われてなお積み上げられた武錬に劣化などなく、生前最強を謳った騎士の剣技を完全に再現している。
とはいえ、あくまでそれは戦闘状態に限定されたスキルだ。剣に曇りがなくとも、理性が低下している事には違いはない。
「そも話をしたいと言うが、バーサーカーは喋れないんだ。会話になどならないだろう」
「それでも良いのです。彼から完全に理性が消えていないのなら、私の声は届く筈だ。彼からの応えはなくとも、私の声に耳を傾ける事は出来る筈」
「そいつもどうだかな……。確かに声を聞き、理解するくらいは出来るだろうさ。だが問題は、バーサーカーが耳を傾けるかどうか。
事実、今もアイツは狂い吼えている。目の前にアンタが現われて以来、まるで檻を引き千切らんばかりに暴れているんだ」
現界の為のパスをシャットアウトし何とか抑え込んではいるが、気を抜けば意識ごと持って行かれかねない狂いようだ。
それがバーサーカーの闇。畜生に落ちてでも果たしたかった復讐の想念の深さ。雁夜をして蒼褪める程の業。
「本当なら、今すぐ目の前から消えて欲しいくらいなんだセイバー。アンタが近くにいるだけで、こっちは酷く消耗を強いられる」
「ではなおの事話をしなければならない。そのような状態で明日、足並みを揃えて敵を迎え撃つ事など不可能でしょう」
「む……」
同盟を結んだ相手がよもや主の手綱を振り切って味方を襲うような事態になれば、何もかもが台無しだ。せっかくの同盟が無為になるばかりか、布陣が崩れてしまえば一気に押し潰されかねない。それは雁夜も避けたい展開だ。
「……話をすれば、コイツを宥められるって言うのか?」
相手にガウェインとモードレッドがいる以上、こちらも円卓の二人で迎え撃たなければ勝機はない。最悪令呪の使用で抑え付ける事も考えていた雁夜だが、使わなくても済むのならそれに越した事はない。
今の雁夜にとって令呪はまさに命綱だ。一つの無駄も避けて行かなければ、聖杯には辿り着けない。
「それは話してみなければ分からない。試すだけの価値はあると思いますが?」
「…………」
試した結果、駄目なら令呪の使用も考慮すればいい。セイバーが雁夜を罠に嵌めようとしていない限り、この交渉で雁夜が失うものはない。
「一つ、聞かせてくれ。これは、衛宮切嗣の発案か?」
「いいえ、私の個人的なものです。誰にも話していないし、誰の知恵も借りてはいません」
清濁併せ呑む強かさはあるものの、この戦いに招かれた英霊の中で一、二を争う高潔さを持つセイバーだ、まさかその言葉が虚言である筈もない。
これがあの外道や魔女の入れ知恵であるのならその思惑を勘繰り、裏を掻かれる憂慮を思い、切って捨てる事も辞さなかったが、本当に彼女個人の意思であるのなら乗るのもまた一興か。
「分かった。ただし、俺は責任を持てないぞ。現界を許した瞬間、アンタに襲い掛からないとも限らないんだからな」
「ええ、その程度は承知の上です。パスを繋いでくれさえすれば後はこちらでなんとかします」
「そうか……じゃあ好きにすると良い。ああ、流石に城の中は拙いだろう。やるなら外にしてくれ」
「了解しました、では先に向かいます。間桐雁夜──貴方に感謝を」
軽く会釈をしセイバーは雁夜の前から立ち去った。
雁夜自身もセイバーとバーサーカーとの間にあった……今なお残る因縁と確執をそれとなくは知っている。
「さて、どう転ぶか。バーサーカー……いやランスロット卿。おまえは一体、今何を想っている──?」
答えはない。
響くのは心に沁みる唸り声だけ。
間桐雁夜の言葉はバーサーカーには届かない。
同じ闇を共有しているだけの主と従ではその闇を晴らせない。
闇の底に落ちた者に救いの手を差し伸べられるのは輝く星の下に立つ者の掌だけだ。
ただ、それでも。
救いを求めぬ者の手は、どうやっても掴めない。
天に手を伸ばさぬ者の手は、誰にも捕まえられないのだ。
雁夜は自ら奈落に落ちる事を良しとした。
自身の救いを捨て、誰かの幸福を願った。
その果てに、尽きぬ憎悪に身を焼かれると知っても。
この想いは間違いではないと、今でもそう思っている。
では、あの黒騎士は……?
その答えは────
+++
月と星だけが照らす森の中心。深い闇に囚われた荒野で、白銀の少女と黒の騎士が対峙する。
吹き荒ぶ風は肌を裂くように冷たく。少女は消えない炎をその瞳に宿し、闇よりも濃い黒を見据えている。
現界を許されて後、黒騎士は赤い瞳を輝かせて低く唸り続ける。手足に込められた力は傍から見ても分かりやすく、まるで号砲を待つスプリンター。きっかけが一つあれば、即座にセイバーに襲い掛かるのは明白だ。
対する少女は改めて黒く染まってしまったかつての同輩を見やり、その柳眉を顰めた。輝かしき栄光を手にした誉ある騎士の余りに変わり果てた、痛々しいまでの姿。人の心の分からぬ王と謗られた彼女であっても、その悲痛は理解が出来た。
何せ彼が、ランスロットがあんな姿になってしまった原因は己自身にあるのだから。彼を苦しめ、悩ませ、追い詰めたのは、他ならぬ自分であるのだから。
「ランスロット卿」
心を鎮め、胸に手を置き静かに風に言葉を乗せる。
「どうか、私の声に耳を貸して欲しい」
「Arrrrrrrrrrrrrrr……!」
そうセイバーが口にした瞬間、黒騎士は大地を蹴り上げ一気に間合いを詰め、手にした漆黒に染まった剣を少女へと叩き付けた。
「ぐっ……!」
セイバーは不可視の剣を呼び出す事なく、クロスさせた手甲で斬撃を受け止めた。黒騎士の一撃は非凡なるもの。たとえそれが彼だけに許された剣でなくとも、セイバーの防御の上から数歩分をも後退させるくらいの威力を伴っていた。
それは言葉を発せぬ黒騎士からの返答。貴様の声に耳を貸すつもりなどないという、明確なまでの拒絶の意思。それでもセイバーは、めげる事なく声を上げる。
「今更許しを請うつもりはありません。膝を屈し頭を垂れ、その剣に貫かれれば貴方の積年の恨みが晴れるのだとしても、私は此処で斃れるわけにはいかない」
止む事なく繰り出される刃の雨。一太刀一太刀に込められた憎悪はセイバーの芯を崩さんとばかりに無慈悲なまでに叩きつけられる。
それでも少女は剣を手にし応戦しようとはしなかった。されるがままに剣を受け、身を固め防御に徹し変わらぬ声音を吐き続ける。
「私にはまだ為すべき事がある。恥も外聞も金繰り捨て、今にも頽れてしまいそうな膝を叱咤し、無様にこうして貴方の剣を受けているのには、理由があるのです」
尽きる事のない斬撃に白銀の手甲が軋みを上げ、悲鳴を上げ、こそげ落ちていく。破壊された端から魔力を回し修復し、繰り返される暴挙に耐え続ける。
聖剣を手にすれば避けられる魔力消費の無駄を厭わず、自らに戦意はないのだと証明するかのように、ただただ少女は耐え続ける。
「Ar……thur……!」
黒騎士の喉奥から搾り出した声。己の名を忘れ、矜持を忘れ、ただ復讐を果たす為だけに駆動する獣と成り果てても、彼にはまだ僅かに残る理性がある。
意味を為さない文字の羅列。本能が叫んだその名こそが、彼に灯る理性の火の証明に他ならない。
だがそれも一瞬の事。目の前の誰かが己が想いの矛先だと過たず認識する為のものでしかなく。事実振るう腕に込められた力には一切の容赦はなく、繰り出す斬撃には躊躇というものが見られない。
かつて仕えた聖君、理想の王に抱いた畏敬も礼賛もなく。朋友と呼んでくれた彼女への信頼も誇りもないままに。ただ身を焦がす憎悪に任せ、目の前の敵を切り倒さんと黒騎士は剣を振るい────
「ランスロット──どうか貴方に聞いて欲しい。私が聖杯を求める理由を。この胸に抱いた祈りを」
「……っ!」
────止む筈のない剣の雨が、その言葉によって堰き止められた。
「Arrrrrrrrr……!」
次の瞬間には、暴威はより強大に吹き荒れ蹂躙を再開する。
一瞬とは言え止まった斬撃。それが何に起因するのかはセイバーには分からない。分かるのは、バーサーカーに己の言葉は届いているという事。獣と化した彼の心に、まだ響くだけの想いがある。
ならば謳おう、誰にも理解を求めないと誓った、この胸の祈りを。
ならば告げよう、己に課した王としての最後の責務、黒騎士の心の迷いをすら晴らす願いを。
そして求めよう。
贖罪は遠く、罰は道の果てに。
聖杯の頂に至り全てを叶える為、あの惨劇の丘の上で夢見た、唯一つの救いを。
鎧は砕かれ、手甲は削がれ、肉体に傷がついてない箇所はない。最強の暴威を相手に防御に徹したとはいえ、晒され続けたその代償は余りある傷を彼女に刻み付けた。
流れ落ちる血を構わず、切り裂かれていく肉体を厭わず、遂には胸板を守る板金をすら粉砕されてなお、一秒後の死を認識してなお、少女は剣を執る事はなく。
「──────」
ただ──少女は語る。
胸に抱いた荒唐無稽な祈りを。
歪な形をした願いを。
高潔にして公正な王が、その今際のきわに願ってしまった、全てを裏切るにも等しい救済の夢を。
いつしか剣戟の音は止み、夜の森を渡る冷たい風の音だけが木霊する。軋む木々の音は誰も耳朶にも届く事はなく、少女はただ訥々と胸の内を語り、騎士は蒸発した理性で末期の祈りを聞き届けた。
「ァ……ァァア……!」
狂える獣が戦慄いた。無防備に胸を晒す怨敵を前に振り下ろす事が叶わぬばかりか、手にした剣は滑り落ち、大地へと打ち付けられて、からん、と乾いた音が響いた。
黒く染まった剣はバーサーカーの手を離れた事で憎悪の黒と血走った赤は消え失せ、本来の色合いを取り戻し、ただの剣へと立ち返る。
しかしそんな余分を誰も気にしてなどいない。少女は目の前の黒く覆われた闇の向こうで揺れる赤い眼を直視し続け、剣を取り落とした黒騎士は搾り出すような声を呻きに変え、直後、森を揺るがす慟哭をあげた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」
最早言葉にさえもならぬただの振動。喉を震わせ意味を持たない音を、バーサーカーは天を割かんとばかりに張り上げた。
誰が知ろう、彼の身を襲った衝撃の規模を。僅かに灯った理性が消えかけるほどの本能の雄叫び。心の底から沸き上がる感情を言葉に出来ないからこその慟哭。今ほど彼は、己の不甲斐無さを呪った事はない。
理想と謳われた王。民の為に身を粉にし、国の為に私を殺した王の中の王。時に残虐と謗られた執政も、全ては理由あってのもの。先を見通せない愚か者共は異議を唱えたが、戦果によって己の正しさを証明し続けた聖君。
正しさの奴隷、王という名の機構、理想を体現する人ならざる畏怖の対象。ああ、そうだろう。事実彼女はそういうものだった。そうでなければ国を守れないほどに、あの時の祖国は疲弊していた。
幾度となく海を渡り襲い来る異民族を撃退し、決して広くはなく肥沃でもない土地を拓き国を豊かに変えるには、そういうモノでなければ立ち行かなかった。
優しいだけの王では国を守れず、暴虐に塗れた王では民に疲弊を強いるだけ。彼女は決して、誤った道を選んでなどいなかった。
ああ、だというのに。ならばその祈りは何なのか。王の口より零れ落ちた願いは、時代に生きた全ての者を否定するもの。余りに間違った願いだった。
完全にして公正にして高潔なる王。その王が最期に夢見たものが、そんなものであっただなんて、どうして信じられようか。
「…………、…………ッ!!」
搾り出す声に意味はない。どれだけ残った理性を掻き集めようと、喉を衝くのは形を得ない音だけだ。
それは駄目だと諫めたくとも言葉には出来ず。それは間違っていると正したくとも想いは形にはならない。
自らの憎悪を晴らす為に狂える獣に成り果てた今、彼の言葉は誰にも届く事はない。そも言葉は言葉として認識される事はないのだ。
それが狂乱の檻に囚われるという事。身に宿した復讐の想念を剣に込め、ただ暴れ回るだけの暴虐の化身に、そんな余分は必要ないのだから。
そもこうして思考を可能としている事こそが奇跡にして異常。低ランクの狂化とはいえ複雑な思考を不可能とする狂気に犯されてなお思考が出来ているのは、彼にとって彼女の言葉が余りにも衝撃的だったからだ。
誰に、どんなに蔑まれ、虐げられても忘れなかった王への畏敬。騎士としての己を捨てられず、獣に堕したこの己がようやく忘却できた筈の想いを、再度想起させるほどの響きを伴い、王の願いを聞いてしまった。
王がただ我欲で聖杯を欲していてくれればどんなに良かった事か。それならば己もまた自らの狂気に殉じる事が出来たのに。
ああ、そんな願いを宿せないと、誰よりも知っていた筈だ。
個人としてのアルトリアを殺し、王としてのアーサーとして生きると覚悟していた少女は──王は王のまま死に、理想に殉じるのだろうと。己にはなかったもの、果たせなかった強さを持っていたから。
だから聞きたくなんかなかった。
聞くべきではなかった。
王がその最期に夢見てしまった、祈りの正体など。
その余りにも痛ましい願いを、聞くべきではなかったのだ。
だって────
「Ar……thur……」
悲しいまでに無垢な願い。
たとえその果てに自分自身の存在の全てが、これまで歩んだ軌跡が一片たりとも残っていなくとも。
構わない────それで、救えるものがあるのなら。
王は最期まで王だった。
騎士が傍らに仕えた時と変わらぬ王のままだった。
この時の果てですら、彼女には迷いはなく。
それに比べてこの己はどうだ。
復讐の憎悪に自らを明け渡し、ただ刃を打ち付けるだけの獣と成り果てた。
その根底にあるのは彼の愛した女に対する深い想い。
愛した女に永劫の涙を流させてしまった男の、全てを金繰り捨ててでも果たしたかった想いだ。
いや、それもただの言い訳だ。女が流した涙は王への贖罪と騎士への懺悔の形。彼女はきっと王への復讐など望んでいない。
彼女もまた弱かった人の一人。王の高潔な理想を担いきれなかった自責が、王の后でありながら騎士を愛し、二人を分かつ亀裂を刻んでしまった。
愛した女の涙を理由に、王への憎悪を盾に、自らの弱さを正当化しようとしたこの己こそが最悪の罪人。全てを手に入れようとして、掌から零してしまった愚か者。
ああ、なんて罪深き咎人。
王は、こんな己が手に掛けていい人ではない。
刃を突き立てられるべきなのはこの己であり。
裁かれるべきなのはこのランスロットだ。
もしあの時──声高にそう叫べていたら。
そんな詮無い思索に意味はなく。
過去をやり直すなんて夢を、この己は抱けない。
だから──
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」
今一度森を轟かす慟哭。獣の咆哮じみた魂切る絶叫。曇りを晴らす金切り音。セイバーは深き憎悪の闇に霞む赤い瞳に光を見た。零れ落ちる、一筋の光を。
そして黒き騎士は決断する。
王を打ち倒す為だけに呼び声に応えた獣が、騎士へと立ち返る。
騎士としての生き方しか出来なかった、余りにも弱い男。それゆえに王を裏切り女を裏切った男が、畜生に堕ちる事で生前果たせなかった想いを果たそうとした男が、狂いながらに一つの克己を形にする。
この身に王を討つ資格などない。
悲痛な願いを宿しながら、それでも自らの信じた道を歩む者を、虐げる事は出来ない。
狂える己に諫めの言葉は紡げない。
騎士としての諫言も、朋友としての助言も、誇りを捨てた獣の声では届かない。
狂乱の御座に身を置いた己では、王を救う事など叶わない。
ならば共に行こう。
たとえその果てが断崖絶壁であろうとも。
奈落へと転ずる道であろうとも。
共に転がり落ちていく事こそが贖罪であるとでも謳うかのように。
その身を復讐の想念に焦がされてなお。
理性を消し飛ばす狂気に犯されてなお。
ただ、この剣は────王の為に。
想いを言葉に出来ない狂戦士は、己が身一つで以って、心に誓った決意を形にした。
輝かしき王の御前にて、恭しく膝を折る。
宮殿で、叙勲を受ける騎士のように。
夜の闇の中、二人のいる場所だけはまるでステンドグラスから降り注ぐ淡い陽光に満たされたかのように、光の雫が舞い散った。
「────ありがとう」
王の言葉。
それ唯一つで報酬は充分。他に何もいらない。
狂気の奥底、自らが願った本当の祈りを思い出した理想の騎士。
黒き狂気に犯された騎士は、手に掴んだただ一粒の光だけを頼りに、無間地獄の底を征くと覚悟を決めた。
/25
「Arrrrrrrrr……!」
夜霧を切り裂く黒の斬撃。触れる全てを両断する必死の刃が戦場となった深き森、その最前線にて無尽に舞う。
狂気に染まってなお手にした一粒の光。生前果たせなかった夢、その最期まで王と共にあるという誇りを手にした獣が、王の道に立ち塞がる敵を討たんと、容赦も呵責もなくかつての戦友へと剣を叩きつける。
「ふっ……、はぁ──!」
受ける白刃は太陽の熱を纏う清純の剣。夜の闇が支配する森の中で、彼だけを照らす中天の煌きがある限り、その剣に曇りが生まれる事など有り得ない。
裂帛の気迫を放ち、鎬を削る白と黒。共にアーサー王の片腕と呼ばれ、円卓を代表する騎士として称えられた英傑。
闇の中に裂く火花は刹那に散華する仇の華。かたや最強と謳われた理想の騎士。かたや太陽を背負いし王の影。両者は一歩をも譲る事なく剣戟を交わす。
恐るべきはやはり、バーサーカー──ランスロットだろう。太陽の加護を得て三倍の能力値を獲得したガウェインを相手に、狂化しているとはいえ自分自身の能力だけで拮抗に持っていけるのは、並み居る英霊の中でも彼くらいのものだろう。
ガウェインをしてそれは驚愕に値するものだった。
生前の決闘、死の要因を受けるに至ったランスロットとの決闘は、己の心に乱れがあったからこその敗北だと思っていた。
私憤に塗れ、王の為に剣を担う騎士にあるまじき執着からの敗着。三時間もの間粘り切られ、焦りが生んだ手痛い失態の隙を衝かれる事で敗北したのだと。
だと言うのに実際はどうだ。今のガウェインの心に曇りはない。騎士の誇りを重んじ剣としての生き方を得た事で、心には一滴の穢れさえも有り得ない。
黒く染まってしまったかつての盟友に思うところがないわけではないが、それとこれとは話が別だ。心は澄み渡る水面もように清らかで、かつて激情に駆られた時のような憎しみは一切ないと断言出来る。
だと言うのに攻め切れない。
だと言うのに振り切れない。
私情にて王を裏切り、あまつさえ狂える獣に堕した男をすら討ち取れない。そんな無様を許せるだろうか。令呪の加護をも得、時臣に後を託されたというのに、そんな無様をこれ以上晒す事は許されない……!
「はっ、あぁぁあ……!」
黒く血に染まった剣を今宵最大の一撃を以って打ち払う。僅かに空いた防御、黒く霞む憎悪の霧の向こうにある漆黒の鎧へと向けて峻厳たる一突きを繰り出す。
「Gaaaaaa……!」
しかして相手もさるもの。人外の膂力で打ち払われた右手の剣を引き戻す事なく、咄嗟の判断で左腕を前面に盾として差し出し、今や鉄をすら両断する灼熱を宿す太陽の剣を、軌道を逸らす事で見事にいなした。
武芸の極地。到達点。一つの時代において最強の名を欲しいままにした騎士の慧眼は理性を制限されてなお狂いなく。譲れぬ誇りを胸に抱きし白騎士を相手にしてなお一歩をすら譲らなかった。
「……解せませんね」
直撃こそ叶わなかったが、黒騎士の鎧の一部を剥ぎ落とした白騎士は一度距離を取った。
「海浜公園での戦い、オフィス街での戦い……二度、剣を交えて感じたのは獣の如き荒々しさ。狂化してなお失われない武錬であっても、生前の貴公にはなかった濁流のような奔流が感じられた」
生前の彼の剣は清流の如き静寂。風の凪いだ澄んだ湖の水面そのもの。打ち付ける剣の全ては軽くいなされ、緩やかに見える剣筋であっても、気が付けば喉元に突きつけられている──そんな剣であった。
事実、その剣は今も健在。愚直とも取れる太刀筋を能力の後押しで振るう太陽の剣は、その清流の剣によって阻まれている。
それでも以前の黒騎士には濁りがあった。狂化による凶暴さの増幅、全てを破壊する力強き剣、復讐を果たさんとする憎悪があった。
それが今はない。いや、薄れている。身を焦がす憎悪を果たす為だけに狂戦士になった筈の男から、何故その根源とも言うべき憎しみの心が失われているのか。
「一体どのような心境の変化があったというのです、ランスロット卿。王を討ち、害す為だけに騎士としての誇りを捨てた狂える獣よ。
先に聞いた彼の君の言葉──王の意を汲んだというのが、今の貴公とかつての貴公の差異の原因なのか」
「…………」
黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持っていない。月明かりの下で交わされた王と騎士の誓い。それを知るのは彼らだけ。誰にも理解を求めない、破滅が約束された無間地獄の最果てへと至る旅路。
「どのような理由であれ、かつての盟友の落ちぶれた姿を見るのは忍びなかった。貴公が失ったものを、捨て去ったものを取り戻したというのなら僥倖。これで、私も迷いなく本懐を果たす事が出来るというもの」
狂気に堕した獣を諫める必要はなくなった。ならば後は目の前の敵を、主の道行きを阻む敵を討ち倒す事だけに専心すればそれでいい。
これ以上語るべきものはない。後は剣が口に成り代わり、互いの主張を張り通す。
いざ、第二幕を開かんと地を蹴りかけたところで、
「ッ……、ちぃ……!」
広場の反対側で同じく剣を交えていたモードレッドが、弾き飛ばされたのか地を滑りながらガウェインの傍へと着地した。
「ハッ、流石は円卓を束ねし王。スペックが同等でも、真っ当な打ち合いじゃこっちの分が悪いか」
具足についた砂を払いモードレッドは立ち上がる。
モードレッドはアーサー王の息子、妖姫モルガンの姦計によって生み出されたホムンクルス。
言ってしまえば王のコピー品。素体となった王と同等のスペックを有する、王を打ち倒すその為だけに産み落とされた部品だ。
アーサー王と同様に、彼女の身体にも竜の血が流れ、その心臓は魔術師と一線を画す魔術炉心を備えている。少女の細腕で全盛期を誇る英雄達と切り結べるのは荒れ狂う魔力の猛りの賜物だ。
とはいえ、どれだけ基本の能力値が同じであっても、その後に積み上げられた研鑽、努力という名の修練は一人ひとり違うもの。
全く同じ才能を有する双子が全く同じ生育環境で育っても差異が生まれるように、王と背徳の騎士では地力に差が生じている。
どのような相手であれ真正面から打ち倒す事を誉れとする騎士の剣と、飄々と振る舞い相手の意の裏を掻く事に特化した変幻自在の剣。
どちらが優れているという話ではない。
単純に、然程広くもなく遮蔽物もないこの戦場においては、真っ当な打ち合いを得意とする王の剣の方が勝っているというだけの話だ。
ガチャリ、と白銀の具足が大地を踏む。遅れて現われたセイバーは涼やかな顔を崩す事なく、黒騎士の傍へと戻ってきた。
それぞれの敵を定め、二つに分かれていた戦場が再び一つへと収束する。
この後に待つのは四者入り乱れた乱戦か、再度二極化をするのか、誰もが場の推移を窺っていたその時、
「丁度良い、王に一つ問わせて頂きたい事があります」
モードレッドが、剣ではなく言葉で先の先を打った。
先ほどついた悪態とは打って変わった慇懃な物言い。王に叛逆の意を示し実行に移したとはいえ、彼女は王を王と認めていなかったわけではない。むしろ誰よりも王の在り方を崇敬していた。彼女が王を下に見る事はない。それゆえの、言葉遣い。
「…………」
セイバーがマスターから課された役目はモードレッドとガウェインの足止め。打ち倒せれば尚の事良いが、戦力は拮抗している。同スペックを有する王とその子、最強とそれに比肩する太陽。
千日手、とまでは言わないが、天秤の針を傾けようというのなら相応の犠牲を払わねばならなくなる。相手から時間を消耗してくれるのなら好都合。セイバーはモードレッドの話に乗る事にした。
「良いでしょう。私に答えられるものであれば答えましょう」
「なに、そう難しい問いではありません。王よ、貴女は何を願い聖杯を求めるのです」
それはサーヴァントに対する根源的な問い。何を求め主の召喚に応じたかという原初の問いだ。
その問いは、アーサー王が招かれたと知ったときからモードレッドが心に秘めてきた問いでもある。
「……答えるのは吝かではありません。が、であれば、まず貴女が己が願望を詳らかにすべきではないのですか」
「ご意見ごもっとも。ええ、我が願いは誰に憚るものでもない。ゆえに声高らかに謳わせて頂きましょう。
私の願いは、王よ──貴女が引き抜いたという選定の剣に、私もまた挑ませて欲しい、ただそれだけです」
「なっ…………」
それはセイバーをして予想外の祈りの形だった。
生前の叛乱を思い返しても、モードレッドが王位に、玉座に執着を持っていた事は窺い知れる。
ただその願いは、聖杯に賭けるにしては余りにも迂遠なもの。万物の願いを叶える奇跡であれば、彼女を王座に就かせる事など造作もあるまい。
だというのにモードレッドは自らを王にせよ、と願うのではなく、王を選定した剣に挑ませて欲しいと、謳い上げたのだ。
「結果だけを手に入れたところで意味などありません。聖杯の力で王の椅子を勝ち取ったところで納得など出来ない。
私が欲し求めるのは自らの力の証明。貴女が終ぞ認めなかったオレを、これ以上なく認めさせてやることだ────!」
元を正せば彼女の叛乱も、王の嫡子であるにも関わらず後継者と認められなかった事に端を発する。
疎まれ、忌み嫌われる出自であっても、公正にして高潔な王ならば色眼鏡で見る事なく己を見てくれるものと信じた。
末席とはいえ円卓に名を連ね、誰にでも誇れるだけの研鑽を積んできた自負があったモードレッドの心は、王の無慈悲な拒絶によって壊された。
「……モードレッド、貴女は私が最後に告げた言葉を、忘れたのですか」
カムランの丘。死屍累々にして剣の墓標が立ち並ぶアーサー王の終わりの地。その頂で行われた王と背徳の騎士の一騎打ち。
国崩しを成し遂げ、王に怨嗟の言葉を投げ掛けたモードレッドに対して、無表情に放たれた王の言葉。
『私は一度も貴公を憎んだ事はない。貴公に王位を譲らなかった理由は唯一つ。────貴公には、王の器がないからだ』
その最期まで王に何一つを肯定されないまま、失意の内に斃れた少女。聖槍に腹を貫かれながら、それでも王に致命の一撃を与えはしたが、そこまで。
何一つ欲したものを手に掴めぬまま、アーサー王の伝説に後ろ足で泥を掛けた稀代の叛逆者は戦場に散った。
それがモードレッドの終わり。
そして彼女の願いは死してなお揺らぐ事のないものだった。生前では叶わぬ願い。時の楔から解き放たれた今ならば叶えられる祈りを胸に、少女は今一度戦場に立ったのだ。
「ええ、王の末期の言葉……忘れもしませんとも。ですが私に王の器がない、というのは貴方の主観でしかない。王の証明が選定の剣を引き抜く事であるのなら、それに挑む事さえ許されなかった私の器を一体誰が量れるものか」
王の幕下にあっても、王の留守を託される程度には政を治めていた。剣の腕も、その能力も、王に何一つ見劣りしない己が、王に相応しくないなどという事は有り得ない。王に出来て己に出来ない筈がない、という想いが、彼女を駆り立てる動力だ。
「モードレッド卿」
これまで沈黙を貫いていた白騎士ガウェインが少女を見る。普段と変わらぬ涼やかな面持ちもまた変わらず、純粋な疑問を投げ掛けた。
「貴公は選定の剣への挑戦を聖杯に望むといいましたが、その結果、引き抜けずとも納得出来るのですか」
並み居る騎士の誰もが引き抜けなかった岩の剣。アーサー王となる前のアルトリアだけが手にする事の出来た剣だ、ガウェインやランスロットでさえ確実に引き抜けるという保証はない。
そも剣を抜くのに王の器なるものが必要ならば、一騎士でしかない彼らには引き抜ける道理はない。
ガウェインの問いに、モードレッドは鼻で笑う。
「愚問だな太陽の騎士。このオレに、引き抜けない筈がないだろう……?」
圧倒的なまでの自負。滲み出る自信。自らの力を一切疑っていない証拠。事実として王位を簒奪するに至った歴史が、彼女にここまでの自尊を与えている。
「さて、私の願いは語り終えた。王よ、貴女の祈りを聞かせて頂きたい」
公正にして高潔にして完全なる王。誰よりも尊く理想に生きた、過ちを犯さなかった聖君が、死後に迷い出てでも欲する聖杯に託す祈り。その正体が今、かつて王と肩を並べた騎士達に向けて明かされる。
「私の願い……私の王としての最期の責務──それは私よりも王に相応しき者にあの時代を託す事。祖国の破滅を防ぎ、繁栄を齎せる者にこそ王位を明け渡す事。
そう──私が王でなければ、私が選定の剣を引き抜かなければ、あんな滅亡(おわり)になどならなかった筈だから」
『──────』
セイバーがその胸の内を語った後、痛いほどの沈黙が降り注いだ。森を渡る風は止み、遠くこの森の何処かで行われている別の戦いの余波も届かない。
無音の世界。音の消えた森。その静寂を引き裂いたのは、王に問いを投げた張本人であるモードレッドであった。
「私の聞き間違いでなければ……王よ、貴女は今、こう仰ったのですか。選定の剣を引き抜く直前まで時間を戻し、己ではなく他の誰かの手に王権を委ねると」
「ええ、その通り。私と同じくあの時代を駆け抜けた貴方達なら分かる筈だ。あんな終わりを認めてはいけない。あんな終わりなどあってはならない。誰一人救われる事なく幕を閉じた王の治世など、最初からあってはならなかったのだと」
円卓の崩壊、あるいは王妃の不義に端を発する王国の滅亡。その終わりは国を二つに分けての大戦。王とその子による王座を賭けた争い。何処にでも転がっている、ありきたりな物語で、ありきたりな結末。
勝者も敗者もないただの滅亡。二分された円卓の騎士達の大半は戦死し、最期の一騎打ちとなったアーサーとモードレッドもまた、後者は王の剣によって斃れ、前者は瀕死の重傷を負った。
その結末に救いはない。後に残ったものなど何もなかった。残ったのは、王の目に焼き付けられた死に行く大地の姿だけ。赤く染まった空と、血の河が流れる屍の丘。そんな悲惨な結末だけだ。
国の為に己が身を捧げ、剣を執った。海の彼方より襲い来る異民族を迎え撃ち、国を豊かに変える為に身命を賭した。
しかしその結果はどうだ。彼女に報酬として与えられたのは、目に映る赤い丘と、守りたかった国の崩壊、民の嘆き。掌で掬い上げようとした全ては、一滴残らず滑り落ち、何一つ残りはしなかった。
国を守る為に犠牲にした民がいた。
王の栄光の陰で涙した女がいた。
騎士としての誇りを貫けぬまま、死んでいった者がいた。
幾つもの犠牲を払い、残ったものがこんな光景では、あんまりだ。
何を以って許しを請えば良い。
何を償いとすればいい。
どうすれば、こんな終わりを誇れるものか……!
王は全ての終わりの地であるカムランの丘の上で、血に染まった祖国を眺め思ったのだ。
────ああ……ならば、私は間違えていたのだと。
国を守る為と犠牲にした多くの命。それを駄目だと咎めた騎士達の言い分こそが正しかった。だってそうだろう、犠牲にしたものに報いる事の出来なかったこの己に、王としての資格など、最初からなかったのだから。
だから心の底から求め欲し、そして願った。
血染めの丘の上で、頽れそうな身体を剣を支えにして、天を睨み付け、そして──
「私は、王になどなるべきではなかった。私よりも相応しい者がきっと、あの時代にいた筈だ。民を犠牲にする事なく戦果を勝ち取り、国を繁栄させ、騎士達の信頼をも得て、万人に称えられる王が」
アルトリアがその掌から零してしまった全てを掬い上げられる者が。いて欲しい。いなくてはならない。でなくては、余りに救いがない。
「これで分かったでしょう、モードレッド。私の言葉の意味が。私より生まれ、私の血を継いだ貴女に、王の器などある筈がない」
自分自身を、その終わりで省みたからこその言葉。国を崩壊へと誘った王の息子に、王としての素質などある筈がない。
特にモードレッドはアーサー王の模造品。全てを似せて造られたホムンクルス。たとえ王権を手にしたところで、その終わりは見えているも当然だ。
「は……はは………クハハハ……アーッハッハッハッ……!!」
不意に、天を衝く哄笑が森に轟く。産声のように高らかに響き渡る笑い声の主は、誰あろうモードレッドだった。
「何がそんなに可笑しいのです、モードレッド卿」
「何が……? ハッ、そんなもの、全てに決まっているだろう王よ! 高潔にして公正にして誇り高き王が、よもや自分は王に相応しくなかったなどと……!」
「その評価は間違っている。貴女を含めた多くの騎士が私を玉座から引き摺り下ろそうとしたように、私は皆に認められ、祝福されて王になったわけではない。
全ての不満を戦果によって抑え付けてきただけの事。勝ち星を挙げ続ける限り王座に居座る事を黙認されてきただけの王に過ぎない」
誰にも引き抜けなかった選定の剣を引き抜き、国一番の魔術師の後援を得る事で手にした玉座。
認められていたのは勝利だけ。王としての在り方も、年を取らぬその異様も、畏怖される事はあっても心の底から忠誠を誓った騎士はそう多くなかった。
王妃ギネヴィアを連れ王城を離れたランスロットに付き従った者、王座簒奪を目論んでいたモードレッドに組した者。アルトリアが真に王に相応しき者ならば、彼らの離反はなく国は安寧に包まれていた筈だから。
「私が王でなければランスロット卿の悲劇はなかった。ガウェイン卿は盟友と共に騎士の道に奉じる事が出来た。そして、貴女も──」
全ての悲劇はアルトリアが王権を手にした時から始まっていた。であれば、その始まりを覆す事で全てをなかった事に出来る。
王としてのアーサーの存在は歴史より抹消され、ただのアルトリアとしての生がそこにある。
しかし彼女は己の安寧など心の底から望んでいない。ただ全ては国の為、民の為。王に相応しくなかった己の代わりに国を治める者を求めて、聖杯を手にする為にこんな時の彼方での戦いに挑んでいる。
己に課した王としての最期の責務──国を救う未だ見ぬ誰かを求めて。
「……なあ、おいガウェイン卿。アンタはどう思うんだ忠義の騎士。今の王の言葉に思うところがあるのなら言ってもいいんだぜ」
水を向けられた白騎士の顔に、今はいつもの涼やかな笑みはない。宿るのは巌のように硬い表情。柳眉を寄せた真剣な眼差しで、王と背徳の騎士のやり取りを見守っていた男はこう告げた。
「騎士の口は王の代弁。王の不在に成り代わり、王の意思を示すもの。であれば、私から申す事は何も」
王の在り方を信じ疑わなかった騎士の中の騎士。
たとえ私情を殺し王としての生き方に殉じるのが年端もいかぬ小娘であっても、己の心を捧げた主に向ける言葉はない。騎士はただ王の命を信じ遂行するもの。そこに疑いを抱いては、立ち行かなくなる。
王の末期の願いがどのようなものであれ、口出しする事は出来ない。ただ一振りの剣である事を己に誓った忠義の騎士に、今更諫めの言葉など掛けられる筈もない。
「ええ、王に問うべきものは何もない。ですが、ランスロット卿──貴公には問い質さなければならない事がある」
王の傍らに控え、言葉を持たない獣でありながら、場を静観していた黒騎士へと白騎士が視線を向ける。茫洋と霞む漆黒の鎧。灯る赤い瞳。顔色も感情も一切が見通せない狂戦士に向けて、ガウェインは言い放つ。
「王への憎悪に狂っていた貴公が今そうして王の傍らに侍るのは、今の言葉を、王の願いを聞いたから。間違いはありませんか」
「…………」
黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持たない。しかしその姿が雄弁に物語っている。あれほど王への憎悪に狂い、執着していた男がその対象と肩を並べる理由など、他に考えられもしない。
無言こそがその肯定。語る口は持たずとも、その在り方が全てを示している。
「貴公は王の願いを聞き、それを叶えるべきものと見定めて付き従うのですか。理性の大半を剥奪されたその身で、それでも王の祈りを肯定し味方すると」
王を裏切り、王の治世に消えない亀裂を刻んだ黒の騎士。彼の後悔は推測する事しか出来ない。己の不実をもなかった事に出来る王の願いに賛同したのか、自らの憎悪を掻き消される程の何かを感じ取ったのか。
それはガウェインには分からない。言葉を紡ぐ事の出来ない、出来なくなっても良いと覚悟して狂気に身を堕としたかつての盟友の心の内など、想像する以外に知る術などあろう筈もない。
ならば────
「──ランスロット卿。やはり貴公とは相容れない。貴公の闇を、この太陽の聖剣の輝きで以って晴らして見せましょう」
横薙ぎに構えられる青の聖剣。灼熱を宿す太陽の剣は、何処までも高くその熱を高めていく。
「ッ、おい! おまえまさか──!」
「モードレッド卿、私の聖剣の威力は貴女もまた知るところ。巻き添えを食らいたくなければ早急にこの場を離れる事を勧めます」
涼やかな声とは裏腹に、高まり行く炎に際限はなく。白騎士の顔に宿る表情もまた無機質なもの。何が彼の心の琴線に触れたのかは定かではないが、既に紐解かれた聖剣を止める手立てなどなく。
「くっ……!」
ガウェインの言葉を聞き終わる前に後方へと撤退したモードレッド。対峙する二人の王と騎士には同じ選択は出来ない。
白騎士の聖剣の威力は絶大だ。解き放たれれば周囲一帯を焼き尽くすだろう。そしてそんな破壊が森の中で起これば、当然張られた結界にも異常を来たす。
結界の性能低下、ないし消失はキャスターの戦力ダウン、ひいては防衛側の大幅なダメージとなる。
今も何処かで繰り広げられてる戦い。その最中にそんな異常が襲い掛かっては、さしもキャスターも対応し切れず一気に押し切られる可能性がある。
ゆえに此処は迎撃の一手。太陽の聖剣を相殺しなければ、それだけで大勢が決してしまいかねない。
でなくとも、セイバーに命じられたのは此処での足止め。敵の凶手を止める手段があるにも関わらず。むざむざと背を向けるわけにはいかない。
最高位に位置する聖剣を迎え撃つには、当然同等の威力を有するものが必要になる。であれば此処は、セイバーが手にする星の聖剣を今一度解き放つ以外に方法は──
「ッ……ランスロット卿……!?」
今まさに風の封印を紐解かんとしていたセイバーの前に、漆黒の鎧が歩み出る。今や大気をも焦がし、息苦しささえ覚える空間へと変貌した広場。地上に燃え盛る太陽の前に、湖の光輝が立ちはだかる。
「いけない、貴方の剣では彼の聖剣に対抗出来る筈がない……!」
ランスロットの手にする稀代の剣は、王の剣や白騎士の剣のような周囲へと向ける能力を有していない。対軍、対城と呼ばれる宝具群ではなく、自分自身を高める対人宝具。圧倒的な威力の前に、その輝きは陰りを見せる。
広範囲への攻撃手段を有する相手に対してランスロットの取り得る最善手は、そも使わせない事に尽きる。どれだけの威力を有する業物であろうと、その真価を発揮出来ないのであればただの名剣と違いはない。
並の使い手ではそんな所業は困難を極めるだろうが、彼こそは当代最高の騎士と謳われた傑物。太陽の輝きを背負った白騎士を三時間に渡り封殺し勝利した男。この男にとっては常人には不可能なものであっても可能なものでしかない。
しかし今は状況は違う。既に太陽の輝きは紐解かれた。数秒の後に具現化するのは、文字通り地上に落下する太陽の如き灼熱。
ありとあらゆるものを消し炭さえも残さず燃やし尽くす、エクスカリバーと対を為すもう一振りの星の聖剣。
黒騎士の技量が如何ほどのものであれ、解き放たれた聖剣の前に為す術はない。今更、どうしようとその結末は揺るがない。
「────」
揺るがぬ敗北を前に、それでも黒騎士は王をその背に庇い立つ。
彼の周囲に漂っていた黒き霞が霧散する。正体を隠蔽していた宝具が解除され、在りし日の騎士の姿が露になる。
霧の向こうから現われたのは華美に走らず、無骨に堕ちず、それは機能美と豪奢さを紙一重のバランスで両立させた完璧な全身鎧(フルプレート)。
彼にだけ許された剣と同じく、彼のみが装着を許された荒々しくも流麗な、匠の粋を集めて造られた戦装束。無数に刻まれた傷さえも、彼の武勲を物語る勇猛の華。王の傍らに常にあった騎士の姿。
霧散した霧は黒騎士の手の中に再度集まり、一つの形を具現化する。
遂に明かされる黒の宝剣。エクスカリバーと起源を同じくする神造兵装。湖の貴婦人より賜れし、当代最高の騎士のみが手にする栄誉を許された稀代の名剣が、日の下にその姿を現した。
その剣に在りし日の清純さはない。狂気に堕した担い手と同じく、同輩の騎士の血を吸い魔剣と化したその剣は、生前のそれと似て非なるもの。
されどその刀身に曇りはなく。切れ味には微塵の衰えもない。決して毀れる事のない剣と謳われた、その剣の名こそ──
────無毀なる湖光(アロンダイト)
理想の騎士ランスロットのみが手にする最高の光輝。
超新星の爆発のように今にも決壊しそうな太陽の前に、ただ一振りの剣を担い王の騎士は立ちはだかる。
ガウェインの静かな怒りの対象が己であるのなら、王の手を煩わせるのは筋違いだとでも言うように。
「観念した……というわけでもなさそうですが、我が太陽の輝きの前に立つ意味、ならばその身を以って知るがいい──!」
生前の黒騎士ですら恐れ、決闘の際にはその使用を封じるべく立ち回った男が、燃え盛る太陽の前に立ち剣を構える。
彼の心の内は読み取れない。何を考えこんな無謀に挑むのかは理解が出来ない。
それでも。
王の祈りを聞き、その膝を折った騎士に全幅の信頼を預け、セイバーは静かに事の推移を見守ると決意した。
彼女の知る彼の騎士が、勝算もなく戦場に立つ筈がないと。勝利と栄光を欲しいままにした理想の騎士に、敗北などある筈もないと。
今やその背に宿る、かつての輝きを信じて。
「“────転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)……!”」
「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」
太陽の写し身と化した青の聖剣が抜き放たれる。アーサー王のエクスカリバーが指向性のある光の波濤であるのなら、ガラティーンは周囲一帯の全てを地獄の釜へと変貌させる炎熱の具現。
周辺被害を考慮しない、平地限定での使用を前提とされた殲滅兵器。下手を打てば味方すら巻き込む炎と熱の波濤。
触れる全てを消滅させる太陽の輝きを前に、アロンダイトを手にした黒騎士は高らかな吼え声と共に駆け出し、死地の中で一閃を振り抜いた。
+++
夜を覆う霧の魔術は、地上に現われた太陽の熱によって全てが溶かし尽くされた。地に走る炎。燻る煙。
周囲に突き立っていた木々の姿はない。遠く霞む煙の向こうに、聖剣の薙ぎ払いを免れた森が広がっている。ガラティーンの射程内に存在した樹木は全て燃え落ちた。消し炭すら残す事なく。
これが最高位の聖剣の威力。王の聖剣、エクスカリバーと同等の出力を有する太陽の聖剣の威力だ。
「馬鹿な……」
だから、その存在こそが予想外。
全てを薙ぎ払った筈の荒野に立つ、一人の騎士の姿。
手にした剣を振り抜いた姿勢のまま、その背に背負った王と森をすら守り抜き、黒騎士は依然健在。
鎧を焦がした炎もやがて消え、傷一つない魔剣は湖の光輝を湛えている。ランスロットは太陽の聖剣の真名解放を耐えたのではない。
「ガラティーンの灼熱を、まさか切り裂くとは……」
生前の黒騎士にすら不可能であった御業。回避だけならばまだしも、迎撃という至難を果たせたのは強運と彼の積み上げた修練の賜物だ。
十年の猶予を得た雁夜からの魔力供給で生前の能力値を取り戻し、狂化により更に数値を強化させた。元より高い幸運に加え、王を護るという名分を得る事により精霊の加護によって更なる幸運を引き寄せ、アロンダイトの能力上昇、判定強化の達成を以って完成された至玉の一閃。
襲い来る炎の波を一刀の下に斬り伏せ、その背に頂く王と森を守護して見せた黒の騎士。
ガラティーンの輝きは森を半円状に斬り裂いたに留まった。驚異的な威力であったのは間違いはないが、太陽の剣はその目的を果たせなかった。ランスロットに、この戦いの軍配は上がったのだ。
「…………」
絶対の一撃を見事に凌ぎ切られたガウェインに、告げられる言葉はない。胸に去来したのは感服と賞賛。狂気に堕した男は、確かにかつての輝きを取り戻した。王の為に剣を振るう──その一念の前に、白騎士の剣は敗れたのだ。
昨夜、遠坂邸の屋根の上で赤い弓兵に投げ掛けられた言葉を思い出す。
“君はこの戦いで、唯の一度も自らの手で剣を振るってなどいない。そんな曇り切った手で握られては、その手に輝く太陽の名が泣こう”
戯言だと切り捨てた筈の言葉。己の心に誓った誇りに間違いはないと思っていた。ただ主の為に尽くす剣。剣に意思は必要ない。ただ王命を全うする事こそが騎士の本懐だと。
ならば目の前に立つ男は何だ。我欲に溺れ私情に塗れ地に堕ちた獣。されど王と共にあるという誓いを取り戻した騎士。
未だその身は狂える獣であれど、黒騎士は意思なき剣ではない。自らの意思を以って、残った理性を掻き集めて、王の剣になると誓った獣。
語る言葉は持たずとも、自らの身体一つで意思を体現し実行した誇りある騎士。赤い弓兵の言葉は真実であるのなら、白騎士の意思なき剣は、黒騎士の意思ある剣に敗れたというのか。
“ならばこの心に誓った誇りこそが、間違いだというのか”
晴れた筈の心に掛かる薄い靄。自らの在り方に疑問を抱いたガウェインの前で、黒騎士は僅かにその身を傾げた。
「ッ……ランスロット卿……!?」
彼自身の身体には傷の一つもない。だが、彼に魔力を供給しているマスターが同様に無傷である保証はないのだ。
ただでさえ魔力を多量に食らうバーサーカーであるというのに、所持する二つの宝具を封印する事で解き放たれる魔剣を振るったのだ、その魔力消費量は常軌を逸する。
並の魔術師であればそれこそ魔力の限りを搾り取られ、ミイラ化して絶命していてもおかしくはない。
その辺りの対策も充分に練っていた筈の雁夜であっても、彼自身もまた戦闘中であったのなら、その消耗はより加速度的に増している事は想像に難くない。
黒騎士が勝利の代償に手にしたのは消滅を早めるカウントダウン。零れ落ちるだけであった砂時計の器に、亀裂を刻むようなもの。残された時間は、一気に少なくなった。
しかしまだ終わらない。
これが十年前、何の予備知識も対策もないままに雁夜に召喚されていれば此処で終わった戦いも、与えられた猶予が砂時計の砂の落下を鈍らせている。
とはいえ、これ以上の無理な戦闘は今後に支障を来たすどころか消滅を早めるだけの自滅行為。黒騎士の姿が霞み、解けて掻き消えていく。
「後は任せて下さい、ランスロット卿。どの道この森での戦いもそろそろ佳境を迎える頃合だ。貴方が切り開いたこの時間を、無駄にはしない」
低い唸り声を残し、黒騎士はその姿を消した。
後に残ったのはセイバーとガウェインのみ。拓かれた森の中、舞う炎の只中に二人は静かに佇む。
「ガウェイン卿。貴方にまだ余力があるというのなら、私が相手を務めますが」
「…………」
聖剣の一振りを放った今、余剰魔力はそう多くない。マスターからの供給を鑑みても、全力のセイバーを相手にするには太陽の加護を得ていたとしても厳しいか。
エクスカリバーを抜かれればガラティーンで対抗するしか術はなく、二度の宝具使用に耐えられるかどうかは未知数だ。
幾らかの沈黙が流れ、どちらともが剣を手にして動かない、そんな硬直が続いた時。
『…………っ!』
不意に、森の奥から轟いたのは爆発音。夜を染める赤い炎が、霞む空の向こうに窺えた。
「状況は変わったようですね。ガウェイン卿、三度決着を持ち越すのは私としても不本意ですが、これも勝利の為。
貴公が今後も私の前に立ちはだかるというのなら、何度でも剣を合わせ戦いましょう。私が聖杯を掴む、その時まで」
鋼の具足を鳴らし、王は戦場に背を向ける。一足飛びに森へと消え、やがてその姿は見えなくなった。
「……化け物だな、あの男は。流石は最強の騎士と謳われただけの事はあるか」
セイバーと入れ替わる形でモードレッドが広場へと戻ってくる。彼女にも傷はない。どうやらガラティーンの射程範囲から無事逃れていたようだ。
「遅かったですねモードレッド卿。もう一足早ければ、違う展開もあったものを」
「有無を言わさず宝具を解放したのは誰だって話だよ。オレのクラレントや王のエクスカリバーとは違って、アンタのそれは範囲攻撃な分逃げるのに時間を食うんだ」
「それにしては帰還が遅すぎた。まさか、狙ってこのタイミングで姿を現した、王が去るのを待っていたわけではないでしょう」
「さてね。ご想像に任せする」
飄々とした態度を崩さないモードレッドにガウェインは鋭い視線を向けるも、頭部を覆うフルフェイスヘルムに阻まれ表情は窺い知れなかった。
「とりあえず進もうぜ。何やらキナ臭い感じがする」
「……それは勘ですか」
「ああ、まあオレの勘は悪い方に良く当たるからな。バゼット達に何事もなければいいが」
「待ってください」
歩き出そうとしたモードレッドの背に、ガウェインは問いを投げた。
「モードレッド卿、貴女は王の祈りを聞き、何を思ったのですか」
「…………」
黒騎士は王に剣を捧げる誓いを立てた。
白騎士は口を閉ざし、王に仕える騎士に剣を向けた。
ならば、背徳の騎士であるモードレッドは何を思うのか。王の実子にして国を崩した張本人。王にあの祈りを抱かせたのは、彼女自身だと言っても過言ではない。
己に王の器がないと、王が言い放ったその根拠をすら聞いてしまった彼女は、今一体何をその心に描いているのか。
「……オレの願いに変わりはない。聖杯を手に入れ、選定の剣への挑戦権を手に入れる。そして証明する。この身の存在を。天地の全てに、遍く民に。そして他でもない、あの王にその証明を見せ付けてやる」
去り行く背中。少女の身には重過ぎる鎧を打ち鳴らし、モードレッドは戦場の奥へと消えていく。
「…………」
白騎士は静かに思った。
少女の背に宿った感情を。
僅かに滲んでいた声色に。
憤慨と、悲哀。
赫怒と、屈辱。
相反する想いをその心に抱き、口にする事もなくひたすらに前へと進む少女に。
「……モードレッド卿。貴女はもしや、涙したのですか。王の祈りに。その、余りにも悲痛な願いに」
確たる証拠はない。ただ、なんとはなしにそう思っただけの事。そもあの少女はランスロット以上に王の意思に背いた者。同情の余地や憐れまれる立場にはない。
己の内に降って湧いた感傷を振り払い、白騎士もまた森の奥へと足を向ける。
自らの心さえも分からないのだ、誰かを気に掛ける余裕などない。
ただ今は、前に進むのみ。
ままならない心を抱えたまま、終わり行く戦いの予感を確かに抱いて。