/14
オフィス街での戦いから一夜明けた朝。淡い陽光を遮る分厚いカーテンの掛かる間桐邸客室に、間桐雁夜はいた。
以前と同じようにソファーにその身体を預け、瞳は深く閉じられている。違いがあるとすれば、今彼は自身の身体を精査していた。
二夜続けてのバーサーカーの運用。僅かではあれ自身の魔術をすら使用した事もあり、体内を巡る魔力は急速に枯渇に向かっていた。
身体の中に巣食う刻印蟲も、昨日精製した分だけでは飽きたらず、根こそぎバーサーカーに持っていかれている。
まだ余力はある。後一度の戦闘には耐えられる程度の猶予はある。もし付け焼刃で十年前に戦いに臨んでいれば、雁夜はとうに狂死している程の魔力を消費している。それでなお猶予がある事を思えば、充分以上に研鑽は意味を為したと言えるだろう。
「でもこれじゃ……足りない……。こんなザマじゃあ届かないッ……」
バーサーカー……ランスロット卿の能力をほぼ完全に引き出し、その上狂化までさせてなお使役出来た事が既に驚嘆にも値する事なのだ。その分手綱を握る事が難しくなり、奪われる魔力量が桁違いなのが雁夜の誤算。
あの黒騎士の狂気に引き摺られているのもその範疇だ。いずれこの身は憎悪と狂気に呑まれ、何を願い、誰を救おうとしたかを忘れてしまうだろう。
ただ目に映る全てを破壊する化身と成り果てるかもしれない。その前に、全てを吸い尽くされ枯れ果てる方が早いのかもしれないが。
どちらにせよそれは雁夜の望むところではない。理性が消えては戦えない。そんな状態で戦えるバーサーカーが異常なだけで、雁夜にはとてもではないが無理だ。獣のように狂ってしまえば、あの子を暗闇から救い出す事が出来なくなってしまうから。
「足りなければ他所から持ってくる……魔術の基本じゃの雁夜よ」
「……臓硯」
瞳を開いた先、机を挟んだ対面のソファーにはいつの間にか間桐臓硯の姿があった。扉が開いた音は聞いていないし、気配すらも感じなかった。文字通り、間桐の妖怪は忽然とその姿を現した。
雁夜は別段驚きはしない。間桐の工房は地下の蟲蔵だが、この屋敷とて臓硯の工房の一部には違いがない。神出鬼没であったところで驚きには値せず、当然のように受け入れ目の前の男に口を向ける。
「何の用だ……とは今更訊かない。足りなければ他所から補う……そんな事、言われなくとも知っている。この身に巣食う刻印蟲とて俺自身の魔力生成量に不安があったからこそ寄生させたものだからな」
「それでなお足りぬとは、ちと強力な英霊を喚びすぎたかのう。その分戦闘力は驚異的なものだが、マスターが食い散らかされ自滅しては意味がない」
多量の魔力の消費と引き換えに手に入れた力は確かに強大だった。最優のセイバー、太陽の騎士ガウェインを相手取ってなお優位を保ち続けた近接、白兵戦闘能力は他の追随を許さない。
その上ただ狂い暴れ回るだけでなく、確かな技量と戦況を把握する知恵を有するという規格外。代償は大きくとも、その分対価も相応以上に得てはいる。
どう巡ろうとやはり懸念はマスターの魔力維持。過去のバーサーカーのマスター達の悉くが自滅したように、このままでは雁夜も同じ道を辿る可能性が高い。通常の魔術師を大きく上回る魔力量でも、本来弱小の英霊を強化する狂戦士の座に元から強力な英霊を招いた弊害は大きかった。
「いずれにせよ後悔したところで変わるものでもない。代償の分対価もでかい。ならばそれを有効に使う策を巡らせる方が建設的じゃろうて」
「……何か考えがあるのか」
「先程言ったはずだがな。足りぬのなら、他所から持ってくればいい」
「……俺に魂食いをやれと言うのか」
サーヴァントの身体はエーテルで編まれている。それ故に魔力で肉体を維持出来るし、パスのオンオフで実体と霊体を切り替える事が出来る。
魔力供給の手段は何もマスターからのものでなくとも良いのだ。一般の人間とてその身に宿す第二要素、ないし第三要素をその食事とすれば、サーヴァントに魔力を補給する事は可能なのだ。
ただ問題なのは、その行いは余りにも人の道理を外れたものだという事。自らの願望を叶える為に、無関係な人間を犠牲とする事を許容出来るかどうか。如何に魔術師とはいえ、魂食いを容易に行えるような輩は、同輩に箍が外れていると見なされてもおかしくはない。
雁夜にとって見ればそれはなお深刻な問題だ。生まれついてより魔道を歩んだ者ならいざ知らず、雁夜は十年前まではただ魔道の大家に生まれただけの人間に過ぎなかった。魔の道がどんなものかを知り、背を向けた雁夜にとって、人間としての常識は魔術師としての常識よりも深く心に根付いている。
そして何より、桜を救う為に他の見知らぬ誰かを犠牲にしたと知った時、あの子はどんな顔をするだろうか。自らの足元に堆く積まれた屍の山を見ても、あの子は手に入れた幸福を甘受してくれるだろうか。
「ふむ……何やら勘違いしておるようだが、今は良い。その話は後回しだ。まずは昨夜の事とこれからの事を話しておかねばならん」
雁夜は怪訝な面持ちで臓硯を見つめたが、表情からは一切の思惑が読み取れない。仕方なく、続きを促した。
「では雁夜よ。お主、何故昨日アーチャーを討たなかった?」
「……魔術師殺しの策に乗っかるのが不服だった。それじゃ不足か」
確かにあの夜、前線に介入せず桜と共にアーチャーを狙っていれば、最悪でも相当の痛手を負わせる事が出来た筈だ。それをしなかったのは雁夜自身が天秤を私怨へと傾かせた結果であり、何よりあの姉妹が殺し合いをする場面など見たくなかったからだ。
姉と妹が、聖杯を賭けて殺し合うなどという異常を雁夜は看過出来なかった。だから桜には足止めだけを願い、戦闘を避けるよう頼んだのだ。
その間にバーサーカーが敵を一騎でも討ち取ってくれれば良かったが、そう簡単には事は運ばない。雁夜自身も戦場に介入しながら明確な結果を残せなかった以上、誰を責める事も許されない。
全ては雁夜自身の心に蟠る甘さ。何を犠牲にしても桜を救うという願いに殉じ切れない心の弱さがその原因。バーサーカーの制御が完全ではないのもその辺りに原因があるのかもしれない。この心を冷徹な刃へと変えられれば、あの狂気もまた完全な制御下におけるのだろうか。
「……臓硯。やはり俺は魔術師殺しの策に乗り、アーチャーを打倒するべきだったんだろうか」
「いや……そうとは限らん。結果論でしか語れぬが、もしアーチャーを打倒しておったらアインツベルンの優勢が確定的になっておったやもしれんのでな」
それぞれが二騎のサーヴァントを従えているという現状、一騎の脱落はほぼ趨勢を決するといっても過言ではない。ほぼ拮抗する三角形の一角が削り取られれば、瞬く間に残る一騎も刈り取られる事は想像に易い。
そうなった陣営の取り得る選択肢は狭く、遠坂の一角を削った間桐に遠坂が協力を求める事は有り得ない。アインツベルンがもし遠坂を抱き込めば、戦力比は三対二。大勢は決してしまう。
遠坂時臣がそこまでの凡愚とは思えなくとも、サーヴァントを失った遠坂凛を人質に共闘を迫るくらい、あの魔術師殺しならばやってのけるだろう。
もしここまでのシナリオを衛宮切嗣が描いていたのだとすれば、雁夜の打った手は最善ではなくとも最悪を免れたと言える。
恐るべきは衛宮切嗣の聖杯にかける執着か。
何があの男を衝き動かしているのかは分からないが、決死の覚悟で時臣を殺しにかかった事といい、決して甘く見ていい相手ではない。下手を打てばこの間桐臓硯すら出し抜かれる可能性がある。
……そんな事はさせぬがな。
この老獪とて今回の戦いには過去最大級の期待をかけて臨んでいる。雁夜と桜だけで足りぬというのなら、この臓硯もまたその知恵を巡らし魔術師殺しの上を行こう。伊達や酔狂で五百年の時を生きてきたわけではないのだから。
「まあ、結果としては無難に落ち着いている。膠着とも言えるが、分が悪いよりはマシじゃろうて」
次いで、臓硯は今後の展望を語る。
「昨夜の一戦でどの陣営も前衛を務めるサーヴァントが疲弊しておる。セイバーとガウェインはバーサーカーとの戦いで消耗し、バーサーカー自体はほぼ無傷でも雁夜がこれでは後が続かぬ。
故に今日、どの陣営も大きく動く事はせぬだろう。傷の少ないサーヴァントで偵察程度は行うかもしれんが、事実上タッグ戦の様相を呈す今回の聖杯戦争で、単独で動く事は不利益が大きいでな」
「休める時間があるのは正直有難い。が、それもアンタの推測だろう。敵が同じ結論へと至れば、あえてその隙を突いて来る可能性も考えられる」
特にあの魔術師殺しは。
昨夜の一戦もあの男がその土台を築いた上でのものだ。その結果が衛宮切嗣の想定通りではなくとも、裏を掻く事を常とする暗殺者ならばどんな悪辣な手段で攻めて来るか想像も出来ない。
そしてもう一角。未だ姿を見せない魔術協会枠のマスター。御三家が二騎のサーヴァントを従えている事がほぼ確定的な現状、慎重になっているのだろうが、漁夫の利を狙うのならば今は好機の一つだと思われても仕方がない。
「まあ警戒するのは良いが、し過ぎても身体がもたん。休める時に休んでおけ。無理にこちらから攻め入る理由も今はあるまい」
防衛に徹する限り、この屋敷はそれなりに堅固だ。サーヴァントの宝具に晒されればその限りではないが、現段階でそこまでの大事を仕掛けてくるような、後先の見えない愚か者はいないだろう。
バーサーカーの脅威が知れ渡った事で標的にされやすいのは間違いがないが、正攻法では崩せない力があの黒騎士にはある。桜のサーヴァントも目を光らせているので、そう簡単には近づく事も出来ない筈だ。
敵が攻めてくるとすれば、それはバーサーカーを撃破しうる策を構築し終えた後の事。今暫くの猶予はある。この僅かな休息を利用し、もう一手確実性の高い策を仕込んでおかない手はない。
「お主の警戒しておる衛宮も、今日に限っては動かぬだろうて。動いてしまっては、昨夜仕込んだ罠が意味を為さぬだろうからな」
今後の展開については、やはりアインツベルンと遠坂の動きを見てからで充分だと臓硯は思う。衛宮切嗣が仕込んだ策と、それに対する遠坂の出方次第で間桐はその身の振り方を考えるべきである。
今迂闊に動くのは得策ではない。足場をより強固なものとし、必要な時に十全に動けるよう策を巡らせる段階だ。
「では話は戻るがの。雁夜、儂はお主に魂食いをしろとは言わぬ。それよりも確実で安易な方法があるのでな」
街の住人を無差別に喰らう魂食いにはリスクが伴う。監督役に目を付けられ、孤立無援に立たされる可能性がまず高い。
そして臓硯も日に日に腐り落ちる身体を補う為、時折食事をしているが、雁夜に同等の真似を強要すればやり辛くなるし、何より雁夜との間に致命的な亀裂を生んでしまう。
究極的な話をすれば、この間桐臓硯を殺せばそれで雁夜の願いは叶うのだ。この悪鬼を地上より完全に滅せば、二人は自由を手に入れられる。サーヴァントの力を以ってすれば、二百年を生きた妖怪とて一溜まりもない。
それでもなお仕掛けて来ないのは、雁夜も桜も臓硯を恐れ、この男の生への異常なまでの執着を知っているからだ。
今この客間に座す臓硯が本物である確証などない。本体ないし本物は何処かに潜み、悠々と場を俯瞰している可能性が極めて高い。
そして雁夜も桜も臓硯がその気になれば身体の制御を奪い取られかねない事をもまた理解している。
雁夜が蟲の秘術を修めたとしても、その始祖はこの悪鬼なのだ。制御を奪う方法など幾らでもある筈で、雁夜が気付かぬ内に臓硯の子飼いを寄生させられていてもなんら不思議ではない。
桜にしても同様。一度だけ放り込まれた蟲蔵での記憶と、続く修練という名の責め苦は彼女の心に消えないトラウマを植えつけている。反抗の意思など芽吹かないよう、徹底的に調教を施されている。
故に二人は臓硯を上回る力を手にしていながら、この悪鬼棲む魔窟と決別する事が出来ていない。臓硯を確実にこの世から葬る算段がない以上、聖杯を手に入れる方がまだ現実的で確実性がある。
全ては間桐臓硯の掌の上。この屋敷で、マキリの呪縛から逃れる事は至難を極める。
「ところで雁夜よ、お主、出奔しておる間に投資をした事はあるか?」
「……? いや、ないが。その話と今の話がどう繋がる?」
「何、身に余るリスクはな、分散させておくものなのじゃよ」
一瞬訝しんだ雁夜であったが、すぐさま臓硯の思惑へと至り、問い詰めた。
「まさか臓硯……貴様桜ちゃんに……」
「うむ。雁夜、お主と桜の間にパスを繋げよ。さすればお主の負担は一層減り、バーサーカーの十全の力を発揮出来よう」
魔術師同士がパスを繋ぎ、魔力を共有出来るようにすれば、一方が重い負担を背負っていた場合にもう一方が肩代わりを出来たり、瞬間的に多量の魔力を必要とする魔術を展開する際に融通する事も可能となる。
今回に限っていえば、雁夜が身に宿す蟲を含めた魔力量よりも桜が生来宿す魔力量の方が遥かに勝る。彼女自身もサーヴァントを従える身である以上、全てを賄う事は難しくとも一端を担う程度は充分に期待が出来る。
バーサーカー以外のサーヴァントはその維持に然程の魔力を必要としない。マスターはあくまで現界の為の楔としての役目が主であり、サーヴァントを維持しているのは聖杯の負担の方が圧倒的に割合が大きいのだ。
無論、サーヴァントに魔力を捧げれば捧げるだけその基礎パラメーターは上昇するが、生前を上回る事はない。唯一狂化によって生前を上回る可能性を持つバーサーカーのみが多量の魔力を必要とするのは、ある種必然とも言える。
臓硯の提案はそう悪いものではない。桜の魔力を死蔵するくらいなら、バーサーカーの負担に回すのは決して悪い手ではない。
しかし。
「ふざけるな……! これ以上あの子に重荷を背負わせてどうするっ! それにこれは俺が背負うと覚悟したものだ! あの子に背負わせるわけに行くものかッ……!」
桜を守る為、強大な力を欲したのは雁夜自身だ。その為の代償を受け入れ、身の破滅の可能性さえも覚悟してバーサーカーを召喚した。
それが今更になって自分だけでは維持が難しいから桜に一緒に背負ってくれなどと、一体どの口が言えようか。
彼女を守る為に、彼女を救う為に彼女に犠牲を強いるなど、そんな本末転倒があって良いのか。
「確かに休養を挟みつつならばお主だけでも最後まで戦い抜けるやも知れぬ。だがこんな休息が今後も定期的に望めると本当に思っておるのか?
遠坂時臣が、衛宮切嗣がお主の消耗の度合いを看破すれば、間髪を置かず攻め入ってくるのは当然だろうて。その時になって泣き言を言うつもりか? あの時、儂の提案を受け入れておけば良かったと、死の淵でそう思えば満足か?」
「…………ッ」
「あるいはお主自身が口にしたように無関係な人間を食らう覚悟があればまた話は別よ。要はバーサーカーを維持出来るだけの魔力さえ確保出来ればいいわけであるしな。それが桜だろうが見知らぬ誰かであろうが変わりはない」
間桐雁夜は選択を迫られる。
身に余る負担を意地に代えて一人で担い、破滅の道を歩むのか。
守るべき少女に今まで以上の負担を強い、それでも自由を勝ち取る為と願うのか。
無関係な誰かを食い散らかし、人の尊厳を捨ててでも勝利を望むのか。
「俺は────」
+++
間桐桜は自室で椅子に腰掛け虚空を見据えている。
それは普段と変わらぬ彼女の姿、間桐の人間からの命令がなければ彼女はずっとこうして窓の向こうに広がる世界を見つめている。
いつもと違いがあるとすれば、それは彼女の心。無私の心で過ぎ行く時間に耐え続けるだけの彼女の心に、今日は渦巻く想いがあった。
昨夜の戦い。対峙した少女。分かたれた半身。遠坂に生まれ、遠坂の家門を背負う遠坂凛──間桐桜の、実の姉。
凛を恨む謂れはない。彼女もまたその父である遠坂時臣に歩む道を否応なく決定された被害者の一人に過ぎない。桜が恨むべきは己をこの奈落に突き落とした父であり、憎悪は父にこそ向けるべきだ。
だが桜にはそれが出来なかった。幼少時、魔道とまだ関わりのなかった頃の父の姿を覚えている。魔術師としての側面を覗かせぬ父の姿を。
その優しさに縋っている。今もってなお何故自分が間桐に送られたのか、彼女は疑問に思う事が稀にある。そこに父の願う何かがあっても、桜の現状は何一つ変わる事がないというのに。
だから桜は凛の背中を追いかける。子供の頃の姿しか知らない父の背中よりも、学園ですれ違う、魔術師の顔をした姉にこそ憎悪はその矛先を向けた。
自分が居てもおかしくはなかった場所。何か一つ、ボタンが一つ掛け違っていたら、二人の立ち位置は真逆であったかもしれない。
いつ何時も変わらぬ凛々しさを湛える姉が憎い。常に俯き、視線を彷徨わせる自分とは違う、前を見据え続ける彼女が憎い。
何故こんなにも自分と彼女は違うのか。あの姉もまた、この地獄に放り込まれればこの己と同じように暗く影を背負うのか。
“今度はちゃんと戦いましょう。そうすればきっと、お父さまもお喜びになるわ”
「…………ッ」
その言葉を思い出す。桜の心に深く突き立てられた剣の碑銘を思い返す。
魔術師として、その言葉はある種正当なものだ。この戦いが如何に戦争と名付けられていようとも、本来魔術師同士の争いはその身に刻んだ魔の薫陶の競い合い。積んだ研鑽の高さと深さを披露する場。
だから凛の言葉は正しい。魔術師としてのあるべき姿だ。自らの刻んだ魔道を誇りに思うが故の、思っていなければ出てこない言葉。
だから彼女には分からない。魔道を背負う事が苦痛である桜の悲鳴は、凛の心には届かない。
ならばその身に知らしめよう。この身が刻んだ苦痛の数を。痛みを伴う修練の先に、望んだものが何一つなかった空虚を、望む事さえ叶わなかった絶望を、姉と──そして父に。
凛の言葉は、皮肉にも生きる意義を失くしていた人形に息吹を吹き込んだ。たとえその形が歪で捻じ曲がっていようとも、凛の言葉は桜の心に深く深く刻み込まれた。憎しみは、最も明確な感情の彩。
憎悪を糧に、人形は自らの足で歩き出す。
『サクラ』
姿なき従者の声を聞く。その声に含まれた感情を察し、静かな声で答える。
「うん、大丈夫。私は大丈夫だから。だからお願い、貴女の力を貸してライダー」
『はい、私はサクラの助けとなるべく喚ばれた者。貴女を守る事に、一片の戸惑いもありません』
「ありがとう、ライダー」
孤独に道を歩いてきた桜にとって、初めてともいえる明確な味方。雁夜は多分に桜に肩入れをしてくれているが、それでも間桐の人間である以上、彼女は全てを委ねる事は出来ていない。
自らの腕に刻まれた三画の令呪だけが繋ぐ、けれど確かな絆。その細い糸を頼りに、少女は闘争の渦へと身を投げる。
自らを捨てた父と姉に、これまで鬱積され続けていた感情の全てをぶつける為に。
その果てに、“何か”があると信じて。
/15
あの瞬間、確かに死を覚悟した。
屋上を覆い尽くした炎の海を越え、携えた銃の銃口がこちらを捉えた時、遠坂時臣は生まれて初めて確実な死を予期し観念した。
魔術師とは常に死を傍にあるものとして諦観する者。果て無き道を絶え間なき苦痛といずれ来る死の恐怖と共に歩む者。
それは魔術師が魔術師としてある為に、第一に観念すべきもの。時臣も当然にして、魔道に足を踏み入れると決意した時に心に誓いを立てている。
それでもあそこまで明確な死を突き付けられた事は一度としてなかった。魔術師同士の争いに巻き込まれ、死を隣に感じた事はあっても、あれほどの恐怖を味わわされた事は一度としてなかった。
衛宮切嗣が如何に近代兵器で武装していようとも、あの時確かに、時臣は魔術師として敗北した。渾身の炎は敵を焼き尽くす事叶わず、対するあの男は死をすら踏み越えて時臣を殺しに来た。
違いがあったとすれば、それは覚悟の差。あの男が何を願い聖杯を欲しているのかは知らないし、知りたいとも思わない。
それでも衛宮切嗣の覚悟だけは本物だ。命を賭し、死をすら賭し、この街に集う祈り持つ者全てを踏み越えて聖杯を掴むという覚悟があった。
ではこの遠坂時臣はどうだ。家督を譲ったも同然で、娘の凛は既にして時臣を上回る力量を有する傑物。聖杯にすら令呪を与えられなかった男が、物見遊山で戦場に顔を出していたのではないか。
娘の力となる為、助けとなる為に杖を執ったこの己が、一番覚悟が足りなかったのではないのか。
「…………認めよう、私は自惚れていたのだと」
ただ努力の果てに掴み取った椅子の座り心地の良さに甘んじ、娘の溢れる才を目にし鍛え上げ、己の役目は既に果たしたのだと弛んでいた。
戦いの勝敗を分けたのはその覚悟の差だ。保身に走り、最後の一歩を踏み出せなかった者と、決死の覚悟で踏み抜けぬ筈の一歩を踏み抜いた者の、僅かな────けれど決定的な覚悟の差。
父である事を忘れ、成功者としての自負を捨て、あの頃──ただひたすらに前を向き走り続けていたかつての己へと立ち返らねば、あの男は超えられない。全てを金繰り捨ててでも一歩を踏み込む覚悟がなければ、衛宮切嗣には届かない。
ならば捨てよう、この誇りを。
ならば捨てよう、この信条を。
ただ全ては勝利の為。
ただ全ては悲願の為。
この身は今一度ただの一魔術師となり、死を想い、立ちはだかる全てを踏み越えてみせよう。その果てにこそ、今の自分が望む全てのものがあると信じて。
「間桐雁夜にも借りを返さねばな。だがまずは────」
ただの一魔術師に立ち返ろうと、その肩に担う責務は消えてはくれない。昨夜の一件の始末は監督役たる言峰綺礼に一任はしているが、この街の管理を預かる者として報告を受けておかねばならない。
時刻は早朝。
小鳥の囀りがカーテン越しに聞こえる良く晴れた朝。
優雅を信条とする遠坂時臣が、戦いの後から一睡もなく書斎で物思いに耽り続けていた異常を咎める者は誰もなく。
娘の凛はそろそろ起き出す頃合だが、その前に顔を洗い身支度を整え、普段と変わらぬ己を演出した後、時臣は書斎へと戻り通信機のスイッチを入れた。
「綺礼、聞こえているのなら返事をして欲しい」
時間帯は早く、昨夜の始末をもしなければならない綺礼がこの呼びかけに応えてくれる可能性は低いと時臣は見ていたが、数秒ほどの後、ノイズと共に返答が来る。
『はい、導師。聞こえております』
「ああ、朝早くに済まない。昨夜の処理状況について確認しておきたいのだが、今時間は大丈夫だろうか」
『はい。こちらは問題ありません。隠蔽工作なども既に済ませておりますので、報告にも問題ありません』
「そうか。仕事が早くて助かる。では疲れているところ悪いが、報告を頼む」
はい、との返答の後、綺礼は抑揚のない声で語る。
昨夜の一戦は時臣が事前に結界を敷いていた甲斐もあり、隠蔽工作は最低限のもので済んだ。
被害状況は、埠頭近くの廃工場が一棟、オフィス街のビルが一棟、同建設途中のビルが一棟。全て衛宮切嗣が仕掛けていた爆弾により破壊されたものだが、周辺への被害はなく、人的損害は────
「ゼロ……だと?」
『はい。オフィス街の二棟は元より埠頭の廃工場についても民間人の死傷者はゼロです。鎮火、隠蔽に当たった教会スタッフに話を聞いたところ、魔術の痕跡が微かではありますが確認されたの事。
これらから類推するに、事前に結界の類で、人避けを行っていたのではないかと思われます』
つまりは全て魔術師殺しの掌の上。廃工場の爆破は時臣に対する挑発でしかなく、人的被害、神秘の漏洩を行っていないのなら、監督役から罰則を言い渡す事も出来ない。
被害の規模は新聞の一面を飾るに相応しいものであっても、これではせいぜい厳重注意程度しか行えない。それ以上の介入をしてしまえば、聖堂教会と監督役が中立としての立場を逸してしまう。
如何に時臣が管理者として諫めようと、神秘の秘匿という大前提が守られている限り、中立者は動けない。
「……だが、昨夜の一件で衛宮のやり口は確実に参加者連中に伝わった筈だ。破壊された三棟の建物のように、自らの棲家がその標的とされる可能性を考慮すれば、捨て置けるものではない」
御三家の屋敷はどの家も一筋縄では行かない結界や罠が張り巡らされている。おいそれと魔術師殺しの侵入を許すとは思えないが、一体どんな手段で仕掛けてくるか分からない以上は警戒を緩める事は許されない。
それならばいっそこちらから仕掛け、機先を制するのも一つの手だろう。
「ただ……それすらもあの男の掌の可能性があるのが煩わしいところだな」
時臣を挑発する為の廃工場はともかく、ビル二棟は破壊せずに済ませられた筈だ。確かに戦場からの離脱に一役買ったのは間違いがないが、その為だけにあれだけの仕掛けを施すのは割には合うまい。
ならばそこに仕掛けられた策略とは、自らのやり方を知らしめ、優位を築ける自陣へと引き込もうという狙いがあるのではないか。
「であればやはり、アインツベルンの従える二騎目のサーヴァントはキャスターか……?」
陣地構築のスキルを有するキャスターの工房を陣営の拠点とするのなら、引き込もうとする意図は分かりやすい。最優の盾もあるのだ、易々と魔術師の英霊の首を取れるとは思えない。
「…………」
それすらも罠ではないか? と勘繰るのは最早行き過ぎなきらいもあるが、あの魔術師殺しなら幾重の策を巡らせていても不思議ではない。警戒してし過ぎるという事もない。それは時臣自身が身を以って経験したものだから。
「とはいえ、ガウェインも相応に痛んでいる。仕掛けるにしても一日程度は休息が欲しいところだろう」
魔術師の工房に挑もうというのなら、万全の状態でなければならない。それが英霊の手によるものなら尚更だ。幸いにも鷹の眼を持つアーチャーは無傷に等しい。屋敷の防衛に関してはとりあえずの問題はない。
「凛にも意見を聞きたいところだが……まあ結論は恐らく変わるまい。綺礼、我が陣営は今日一日を休息に当てる事にする。何か異論は?」
『いえ、特には』
「そうか。では私は衛宮切嗣を打倒する為の準備でもしておこうか。君は何か予定はあるのかね?」
『昨夜の戦後処理は既に済ませておりますので、これといった用事はありません。強いて言えば少し調べたい事があるくらいのものです』
「調べ物……? 何か手を貸す必要はあるかな」
『いえ、以前頂いた書類を引っ張り出す程度の事ですので、導師の手を煩わせるほどのものではありません。今日を休息日に当てられるのでしたら、どうぞ御自愛下さい。戦いはまだ始まったばかりなのですから』
「ああ、痛み入るよ綺礼。ではこれで失礼するとしよう。朝の早くに済まなかったな、君も休んでくれ」
綺礼の返答を聞き届け、宝石仕掛けの通信機のスイッチを切る。さて、と時臣は書斎を辞し、地下工房に向かう事とした。
凛にも今日の決定を伝えなければならないし、やるべき事もある。休息日と定めても日がな一日ベッドで横になっているような暇はない。
この一日を後悔のない日とする為、遠坂時臣は行動を開始した。
+++
時臣との通信を終えた言峰綺礼は、知らず溜息を一つ吐く。
深夜に行われた戦闘とその後処理は朝方まで続けられ、綺礼自身が現場で作業を行う事はなくとも、その指示統括を任されているのだから先に眠るというわけにもいかない。隠蔽の規模の大きさからも、関係各所へと伝達や偽の原因をでっち上げたりとやるべき事は多かった。
徹夜が苦ではなくとも、人を統べて動かす事を得手とはしない綺礼にとって見れば、この一夜は酷く肩の凝る思いだった。
それも管理者たる時臣への報告を済ませ、朝刊に無理矢理捻じ込んた虚偽の文言が一面を飾っている事を確認し、ようやく人心地つけるようになった。
自室のソファーへとその重い腰を下ろす。そのまま目を閉じて身体を休めたいところではあったが、最後の仕事とばかりに手を伸ばす。
室内には人工の明かりはなく、燭台の蝋燭の炎を頼りに、綺礼は十年以上も前に時臣から譲り受けた書類へと目を通し始める。
それは第四次聖杯戦争が十年前に行われる事を前提として収集されていた、当時のマスター候補者達の素性を洗い出したもの。時臣が時計塔の知人を頼って掻き集めた得られる限りの情報だ。
あれから十年も立てば趨勢は変化し、マスター候補者自身も入れ替わったり、情報自体が古く意味を為さないものが大半だ。それでも綺礼はその中から事前に当たりを付けていた人物のものだけを抽出し、目を通していく。
その人物とは衛宮切嗣。二十年近くも前にアインツベルンに召抱えられた、フリーランスの傭兵。魔術師殺しの異名で畏怖され、今この冬木で行われている聖杯戦争において、最も危険な人物。
綺礼が夜通し行った隠蔽工作も、全て衛宮切嗣が発端となったもの。奴が建物を爆破などしなければ、もっと簡単に、楽に処理を済ませられていた筈だ。
時臣は切嗣を含む参戦者の情報をこの戦いが開かれる前に収集している。綺礼が用があったのはこの十年の間の変化ではなかった。アインツベルンに招かれて以降、なりを潜めた男に興味などなかった。
綺礼が求めたのはそれ以前。二十年より前の、戦場を横行していた時代の切嗣の情報だった。
魔術師殺しとして名を馳せ、協会からの依頼を受ける傍ら、紛争地帯に頻繁に足を運んでいた事がその経歴から窺える。当時この情報を見た時の時臣の反応は、傭兵の小金稼ぎ程度と深く考察すらしなかったが、綺礼は感じていたのだ。
ただ金欲しさの行動にしては、その間隔が余りに狭すぎると。
一つの紛争地帯で依頼を遂行しながら、次の戦場に向けての準備をも同時に済ませるなど常軌を逸している。戦場とはそんなに甘いものではない。今を生き残る事に誰もが必死になっているというのに、この男だけが先の先をも見据えて動いている。
その介入も戦闘が激化した時ばかりを狙い撃つように行われている事も不可解だった。まるで死地に赴く事に脅迫観念を抱いているかのよう。
傭兵稼業はリスクが高い分、割も良い。こんな契約と契約の隙間さえもない、それどころか複数同時などという強行軍で予定を組むメリットなどない。如何に自分の腕に覚えがあっても、これではリスクは高まるばかりだ。
だから綺礼は断定した。衛宮切嗣は金を目的に紛争地帯に介入していたのではない。名声欲しさに異端狩りを行っていたわけではないと。
では一体何を求めてこれ程の試練を己に課しているのか。
十年前の綺礼はそこで思考を停止した。己の歪みを知り、世界との間にある溝を理解して何に対する関心をも失っていた綺礼は、まるで目を背けるように切嗣の遍歴の奥にあるものを見つめることをしなかった。
あらゆる苦行に意味はなく、求め欲した答えは何処にもない。死ねないが為に生きている真似事をしていた綺礼では、そこまでの興味を抱く事が出来なかった。
だが今は違う。十年遅れの第四次聖杯戦争は既にその戦端を開かれ、参加者達は誰もが争乱の渦に自ら踏み込んでいる。そしてその渦の中心、渦中に立ち戦局を動かしているのは他ならぬ衛宮切嗣だ。
これまでの戦いは全て、衛宮切嗣によって誘導されている。初戦は奴の挑発がその発端であり、二戦目もまた奴がその場を整えている。
昨夜のビル倒壊は恐らく、第三戦目を自陣で行う為の布石。時臣が語ったように、自らの悪辣さを見せつけ罠へと誘い込む為の一手だ。
戦いの趨勢を見ても、全体ではバーサーカーを擁する間桐陣営が強力だが、遠坂を含めこの二家は既に全サーヴァントを戦場に投入している。
対してアインツベルンはセイバー単独で彼らと切り結び、なお致命傷を被る事なく生き延びている。
今一番恐れるべきなのはアインツベルン、そして衛宮切嗣だ。最優のセイバーと衛宮切嗣の計略、そこにもう一騎サーヴァントが加われば、今は拮抗しているように見える天秤がどう傾くか、分からない。
「──衛宮切嗣。おまえは一体何を求めて、この戦いに身を投じた」
死と隣り合わせの戦場で生き足掻くように何かを求めているその様は、かつての己、若かりし頃の自分自身に酷似している。
まだ世界には救いがあると信じられていたあの頃、ありとあらゆる苦行の中で答えを探し求めていた己の姿と、衛宮切嗣の過去はまるで鏡合わせのように映る。
今もってなお綺礼の心にぽっかりと空いた空虚を埋めるものはない。だが切嗣は違う。確固とした信念と目的を抱いて、この戦いに命を賭けている。
ただ理由も分からぬままマスターとなった己とは違う。聖杯に願う祈りを宿し、衛宮切嗣はこの死地へと踏み込んだのだ。
似通った過去を歩みながら、ならば綺礼と切嗣は何が違う。何が食い違い、こんなにも明確な差が生じたのか。
「その分岐点にあった何かが、私が探し求めたものであるのなら──」
世界の全てに無関心だった男の心に灯る、炎の色。戦場で何かを捜し求めていた男が二十年の静寂を破り、かつてない覚悟を以って聖杯に手を伸ばす意味。言峰綺礼の心の中には存在しなかった何かを、この男は抱いているのか……?
今はまだ分からない。その奥にまでは手が届かない。ただそれでも、何に対しても関心を抱けなかったこの心が、確かに心惹かれたのだ。
ならば追いかけよう、その果てへと。
この戦いの先に“何か”があるのなら、それを見てみたいと願うから。
『御免下さい』
その時、壁越しに来訪者の声を聞く。
綺礼の私室は特殊な構造になっており、礼拝堂での会話が聞こえるようになっている。今この時のように礼拝堂に教会の者が不在でも、この部屋に居れば対応が出来る造りになっており、事務作業をしている時などに重宝する。
「ふむ、来客か」
聖杯戦争が開幕して以来、この冬木教会周辺には簡易な結界が敷かれている。人払いの類だが、信心深い者ならば潜り抜けられる程度の弱い結界だ。
しかしこの時分、そんな参拝客は滅多に訪れない。ならば今ほど訪れた者は如何なる人物か、類推するのは容易い。
どのような客であれ、常に扉の開かれている神の家を訪ねた者を無碍に追い返すような事はあってはならない。それは神の教えと決別した綺礼であっても、生まれてよりずっと教えられ続けて来たものであるが故、反故にするような選択肢はなかった。
手にした書類をはらりとテーブルの上に落とし、綺礼は重い腰を上げた。
いつの間にか眠気はなく、普段と変わらぬ佇まいで、神父は自室を後にし礼拝堂へとその足を向けた。
+++
綺礼が礼拝堂に赴き、訪問者の顔を目視した瞬間、彼の者が信心深い参拝者である可能性は一瞬にして霧散した。
対峙した瞬間に分かる怜悧な気配。戦場に身を置く者だけが嗅ぎ分けられる血の薫り。何よりもその瞳が、圧倒的な意思を秘めて綺礼を見上げていた。
「早朝に失礼します、言峰神父。私はバゼット・フラガ・マクレミッツ。魔術協会より派遣されたマスターです」
単刀直入、余計な言い回しもなく、簡潔に自己紹介をしてみせたバゼットを名乗った男装の麗人に、綺礼はふと、違和感らしきものを覚えた。
「……マクレミッツ。その名は聞き覚えがあるな。それに、君とは何処かで出会っているような気がしている」
「そうですね。私は魔術協会の封印指定の執行者として。貴方は聖堂教会の異端狩りの代行者として。何度か同じ標的を狙い剣を交えた事もあります」
当時の綺礼は何にも関心を抱かず、ただ下された命令に唯々諾々と従い続ける人形のようであったから、覚えが薄いのも無理はない。それでも記憶に引っかかる程度に覚えているという事は、相当の腕利きには間違いない。
「ふむ……そうか。いや、挨拶が先だったな。マクレミッツ、ようこそ冬木教会へ。歓迎しよう。例年通り、監督役に参加を表明する者は少なくてね。既に戦端は開かれているが、こうして訪れてくれた事を嬉しく思う」
「いえ、こちらこそ顔を出すのが遅くなって申し訳ない。仮にも魔術協会の名を背負う者が筋を通さないのは如何なものかと思い、こうして訪ねた次第です。それと、幾つか訊きたい事もありましたので」
「神父としての私に対してならば、如何なる問いにも答えるが、まあそれはあるまい。監督役としての私に対しての質問であれば、答えられるものであれば答えよう」
言いつつ祭壇へと上った綺礼はバゼットに長椅子への着席を促すも、彼女は応えず立ったまま問いを口にした。
「ではまず一つ。監督役の立場である貴方なら既に知っているでしょうがこの聖杯戦争、御三家の者達がそれぞれ二騎のサーヴァントを従えているようだ。中立の立場にある貴方に問いたい。これを一体どう思うのか」
「別段何も。マスターの資格たる令呪を託すのは聖杯の意思だ。それだけのマスター候補を用意した御三家の面々の功労だろう。中立である以上、正式にマスターとなった者達に言うべき事は何もない」
「例えばそれが、不正な手段で得たマスターとしての資格だとしても?」
「それを立証し証明出来るのなら、話はまた違う。御三家の者達が組み上げたシステムを彼ら以上に解せる者がいるのなら、あるいはと言ったところだが。マクレミッツ、まさか君が御三家の不正を暴くと?」
「いいえ。私にそんな腕はありませんので。そもそも彼らが不正を行ったという証拠は何処にもありませんから」
バゼットは表情を変えずそんな事を言った。自分から話を振っておきながらその結論は余りに無意味なものだが、綺礼は素知らぬ顔で続けた。
「まあ確かにこの聖杯戦争、二騎のサーヴァントを従えている御三家の者達が優位にあるのは間違いない。孤立を強いられている君に同情は禁じえないが、立場上手を貸す事は出来ない」
「ええ、それもまた期待していませんので、お気遣いは無用です」
「…………」
話の狙いが見えて来ない。
実際バゼットの置かれている立場は傍から見れば開始時点からして既に背水。戦場で不用意に立ち回れば即座に狩られかねないくらいに危ういものだ。だというのにバゼットには気負いがない。彼女の気質もあるのだろうが、余りに自然体過ぎて余計に何かがあるのではと疑いたくなるほどだ。
それにバゼットの立場は完全に不遇というわけでもない。三勢力が拮抗している現状、彼女が何処か一勢力に肩入れすればそれだけで状況は大きく動く。一人と一騎で御三家を敵に回すよりは、生存する確率が高く見込まれる。
その旨をせめてものアドバイスとして綺礼はバゼットへと伝えると、
「そうですね、それも一つの戦術としてはアリだ。ただまずは、我々の力を試してみたい」
「何処か狙いでもあるのかね?」
「昨夜の戦いでどの陣営もそれなりに疲弊している。今日一日に限っては無理に攻め込もうとはしないでしょう」
それは綺礼も同じ見解であり、時臣もまた静観の体を明言していた。今彼女が仕掛けるのなら、穴熊を決め込んだ連中の鉄壁の門を破らなければならない。
「我々はこの後アインツベルンに対して仕掛けるつもりです。未だ姿を見せない最後のサーヴァントの正体を見極めなければ、今後についての対策も練りにくい」
「……結構な事だが、何故それを私に?」
「いえ、理由など特には。ただ中立である貴方に話したところで、誰の耳に漏れる事もないだろうと思ったまでです」
「…………」
これで綺礼は事実上釘を刺されたも同然だ。アインツベルンに対しては間桐も遠坂も監視の目は置いているが、此処で露骨にバゼット達を追えば綺礼にあらぬ疑いをかけられる事になる。
綺礼と時臣の内通を疑っているのか、ただ予防線を張っただけなのか、核心までは掴めないが、綺礼の行動の選択肢を幾つか封じられたのは確かだ。
ただ今は、監督役としてこれより戦場に赴こうという戦士に労いの言葉をかける事が先決だ。
「そうか、では君達の健闘を祈らせて貰うとしよう。アインツベルンの拠点とされる街西部に広がる森は広く深い。どんな罠が待ち構えているかも不明だ。用心してし過ぎるという事もあるまい」
「ええ、ご忠告痛み入ります。彼の魔術師殺しが根を張る城に挑もうと言うのだ、こちらも万端の準備で臨むつもりです」
それで用件は済んだとばかりにバゼットは踵を返す。
「ではこれで失礼します。言峰神父、良い聖杯戦争の運営を期待します」
「さらばだマクレミッツ。サーヴァントを失った時には、すぐにもこの場所へと駆け込みたまえ。死んでなければ治療を施すし、戦いの終了までの安全を約束しよう」
汝、聖杯を欲すのなら己が最強を以って証明せよ────
そんな綺礼の謳い文句を背に受け、バゼットは教会を去る。その門扉が閉ざされた事を確認した後、綺礼もまた礼拝堂に背を向けた。
「どうにも読めないところがある女だったが、まあいい。とりあえずは時臣師に報告だ」
この情報をどう扱うかは時臣次第だ。自分達が不利益を被りかねない無茶をする程時臣は愚かではない。
バゼット・フラガ・マクレミッツと一度も姿を見せなかったサーヴァント。彼女らの行く末が、この聖杯戦争の命運を分けるのかもしれない。
綺礼はふと、そんな事を思ったのだった。
/16
「さて。これで監督役への挨拶も済み、煩わしい用事は全て終えた。では二人とも、そろそろ私達の戦いを始めるとしましょう」
冬木教会で監督役である言峰綺礼と顔を合わせた後、閑静な住宅街を貫くなだらかな坂道を下りながら、姿のない二人の従者へと声を掛ける。
けれどどれだけ待とうとも返答はない。不思議に思ったバゼットは前方への注意を怠らぬまま、肩越しに視線を後ろへと向けた。
「どうしました二人とも。何か問題でも?」
『いや……』
最初に口を開いたのはランサーだった。
『バゼット、あの男には気を付けておけ。上手く言えねぇが、不吉なもんを感じた』
『癪だがオレも同意見だ。あんな目をした奴に、ロクな輩がいるわけがない』
感情の読めない瞳。渦を巻いたような黒。視線は正面に立つバゼットを見ているようではあっても、その実何もを映していないかのような無関心。実体を持った幽霊という比喩がしっくりと来る。
腐っても英霊である彼らから見れば、あの男──言峰綺礼はその反対に属す存在にも感じられた。
「そうでしたか? 誠実そうな男(ヒト)に見えましたが」
『まぁ、上っ面だけならな。だがあの手の手合いは止めておいた方がいいぜマスター。アンタじゃちと荷が勝ちすぎる』
『都合良く利用されて、飽きられたらポイッてな感じになりそうだな』
「一体何の話をしているんですか……」
はぁ、と大きな溜息を吐いた後、バゼットは仕切り直す。
「まぁ、二人からの忠告だ、気には掛けておきます。ではこれよりアインツベルンの森へと向かいますが、何か異論は?」
既に昨夜の時点で今日の日程は取り決めてある。二人にも了承を得ているので、これはただの最終確認に過ぎなかったのだが、
『バゼット、悪いけどちょっと寄り道してもいいか。ついでに頼みもある』
「何ですかセイバー(・・・・)。他にも気に掛かる事が?」
『いや、酷く個人的な都合なんだが』
何処か言いにくそうに言い澱み、それから意を決してセイバーと呼ばれた少女は告げる。
『服が欲しい』
「…………理由を聞きましょう」
『霊体化してるのは何か変な感じだ。地に足がついてないと落ち着かない。どの道オレはアンタの魔力で現界してるわけじゃないんだ、いいだろう?』
霊体と実体を切り替えられるサーヴァントのメリットを自ら捨てるその非効率さを、何よりも効率を重視するバゼットは一言に切り捨てようとしたが、
『お、いいねぇ。おいバゼット、俺にも服買ってくれ。アンタの素質ならちっと実体化してても問題ねぇだろ?』
「……二人とも、我々は遊びで此処にいるわけではない。もう少し真面目にして下さい」
『完全にデメリットがあるってわけでもねぇだろ? 実体の方がアンタを守りやすいし、敵からの攻撃にも対処がしやすい。別に遊び場に連れてけとは言わねぇよ。やる事をきっちりやるのが俺の性分だ』
『こっちも同じだな。どの道円卓連中にはオレの顔は割れてる。“不貞隠しの兜(シークレット・オブ・ペティグリー)”の効果じゃ完全には素性を隠しきれん。一度顔を合わせてしまえばそれまでだ。なら別に、そこまで不利益があるものでもないだろう?』
武装状態のモードレッドを見られてしまえば、生前面識のある円卓の騎士の面々に隠し通せる道理はない。バーサーカーのように鎧を含めた全てに対して認識阻害の効果があれば話は別だが、彼女の兜にそこまでの隠蔽能力はない。
その分汎用性はあるが、どの道この冬木での聖杯戦争においては完全な効果は望めない。
「……まったく。昨日はあれほどいがみ合っていたというのに、何故今日はここまで結託しているのか。まあいいでしょう。二人の服を購入した後、アインツベルンの森へと向かいます。
それと、各自自分の服は自分で見繕うように。その手の事に私に期待するのはナンセンスです」
後ろから聞こえる歓喜の声になお深い溜息を吐いた後、バゼットは歩を早める。
「こちらは貴方達の要求を呑んだのです、貴方達にも相応の働きを期待しますよ」
『おう、任せろ』
『問われるまでもないさ。なんて言ったって────』
これより向かう森に待つのは、モードレッドの実父アーサー。
自らの父が治める国の玉座を簒奪せし子が、数奇なる命運を経て、今再びこの時の果てで巡り会う。
アインツベルンに仕掛けよう、という提案も元を正せばモードレッドの提案だ。素性の知れない、という意味では間桐のもう一騎のサーヴァントも同様であるのに、アインツベルンに挑むのは彼女の提案が決め手であった。
無論、バゼットには彼女なりの腹案がある。理由なき挑戦を無謀と呼ぶのなら、この行軍は意義のある挑戦だ。
人知れずモードレッドは震える掌を握り締める。
それは緊張か、興奮か。
彼女自身己の心を解せぬまま、三度開かれる戦端に向けて──運命の車輪の回転は加速していく。