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時は半日程遡る。
場所は冬木市西方一帯を覆う森林地帯。頭上に輝く天然の明かりと疎らに立ち並ぶ人工の明かりとが暗い森を照らしている。
しかしそれも切り拓かれた森の入り口付近を照らすのみで、少し遠くへと視線を投げれば無明の闇が広がっている。一度踏み込めば、二度とは戻れないのではないかと思えるほどの深い黒色。
緒戦を終えた直後の深夜未明、森を切り拓き敷設された国道を走る一台の自動車の姿があった。煌々と灯るヘッドライトが夜陰を切り裂き、人気どころか対向車すら一台も通らない闇の中を高速で駆け抜けていた。
ハンドルを握るのは壮年の男──衛宮切嗣。普段と変わらない無表情を能面の如く貼り付け、ライトが照らす道の向こうを見据えている。
後部座席には金髪の少女──セイバーの姿もある。背筋を伸ばし折り畳んだ膝元に両手を添え、瞳は閉じられたまま微動だにしていない。深い瞑想のようだ。それでも彼女は欹てた耳で周囲への警戒を行っている。
彼らアインツベルンの一翼を担う切嗣とセイバーは緒戦、敗走を強いられた。明確に負けたわけではなく、勝負の内容だけを見れば拮抗していたし、最終的に押されはしたがその為に相手が切った札は多い。
こちらが晒した手札は予期せぬ事態から漏れたセイバーの真名のみであり、差し引きで見てもプラスの面が勝っている。
それでも切嗣にとってこの緒戦は敗北と同義だった。勿論初っ端から見えた敵を討ち取れるほど易い戦いなどとは思い上がってはいなかったし、討ち取る心積りもなかった。討ち取る為の手の内を晒していないのがその証左だ。
ただそれ以上に気掛かりであり、敗北と断じる原因は、切嗣自身が想定していた作戦がまるで失敗に終わってしまった事に尽きる。
最優を誇るセイバーの実力と暗殺を主とする切嗣自身が真っ先に姿を見せるという異常を利用しての衆目の集中。戦場に華を咲かせ自らを囮とし、今後の展開を優位に進める為の一手は、無残にも破られてしまった。
令呪を使用しての太陽の騎士の顕現。最優を超える最強を追い詰めた漆黒の狂戦士。超遠距離からの狙撃で戦場を荒らした弓兵の慧眼。彼ら三者の能力の披露により、セイバーの最優はその陰に埋もれてしまった。
これでは他の連中がセイバーと切嗣を最優先に狙う理由はない。せいぜいが同等の力を持つという認識止まりであって、どうあっても、是が非でもセイバーを優先的に打倒しなければならない、という結論には誰も至らないだろう。
セイバーが特別劣っていたわけではない。太陽の加護を得たガウェインと斬り結べた事やアーチャーの狙撃に対応出来たところから見ても、優秀な部類なのは間違いない。
ただ切嗣の想定以上に遠坂を始めとする参加者連中は、この十年遅れの第四次聖杯戦争に入念の準備で臨んでいたというだけの話だ。
ともあれ当初の予定を崩された格好の切嗣は次善の策を講じなければならなくなった。幸いにして入手出来た情報は多い。これらを利用し次なる作戦を組もうと、一旦久宇舞弥に連絡を入れたところで、事態はまた急変した。
彼女曰く──キャスターより連絡が入った、と。
切嗣は舞弥の存在をキャスターには知らせていない。イリヤスフィールは何度か面識がある事もあって切嗣の助手程度の認識はあるかもしれないが、父は実の娘に対しても舞弥の連絡先を教えてなどいなかったのだ。
つまり彼女の居場所、連絡先を知るのは切嗣以外には誰もいない。いない筈だ。だからこその不可解。ではキャスターは如何にして切嗣と舞弥の関係を知り、連絡を取るまでに至ったか。
いや、切嗣にとってはそれが如何なる手段であってもどうでも良かった。気に掛かるのは何故キャスターが連絡を寄越したのかという一点だけ。
まあその内容についてもある程度は推論が出来るし、魔女の浮かべる喜悦の口元が想像出来て余りあるが、コンタクトを取ってきた以上は無碍にも出来ない。
いずれ一度は顔を合わさなければならないと思っていたところだ。魔女の知恵を借りるつもりはないが、こちらとしてもキャスターの構築している結界の具合を確認しておいて損はない。
その為、切嗣は夜の国道を飛ばしアインツベルンの森へと向かっている。程なく森の入り口とされる地点へと辿り着き、車外へと降りてその先を見渡した。
夜という事もあって森はその不気味さを増している。灰色の土と灰色の木々。色付く葉は既に枯れ落ち、冬の到来を告げている。
ここから先は全てアインツベルンの私有地だ。この近代に入っても人の手が入らず森が森の形を残しているのは冬の一族が開発を拒んでいるからでもある。前人未到、とまでは行かずとも、好んで人が入り込むような森ではない。
目的とされる拠点──北欧の冬の城を模した古城までは優に十数キロメートル。昼なお薄暗く、夜ともなればまともに歩く事さえ困難な道程だが、日が昇る頃合には辿り着けるだろうと当たりをつけて踏み込んだその時──
「……っ!?」
瞬間、彼を不意の目眩が襲った。何が起きたのかと考察する間もなく、視界は歪み足元は崩れ落ち、気が付いた時には目の前に突如として古城が姿を現していた。
……いや、違う。僕達が飛ばされたのか。
身体を襲った異常が消え、冷静な思考が戻ってくる。代わりに現われた目の前の異常について思考が巡る。物理的に城が飛んでくるわけがない。ならば森へと踏み入った瞬間、切嗣達が城のある地点まで強制的に転移させられたのだ。
空間転移は限りなく魔法に近い魔術の一つだ。その論法については高次元を経由するともある地点とある地点の間にある距離を切断する事によって無視するとも言われているが、その理屈は理解が出来ない。
切嗣にとってこの手の魔術は専門外であり、そもそも余りに高度すぎる魔術である転移系の魔術などそうそうお目にかかれるものでもなく、即座に理解が及ぶ魔術師の方が稀有だろう。
辛うじて分かるのは、これは純粋な転移ではないという事だけ。恐らくキャスターの定めた境界を超えた場所ではこれ程の魔術は発動出来まい。
城を中心として最大半径十数キロメートルに及ぶ大結界。その内側でのみ可能な転移。充分驚愕に値するものではあるが。
いずれにせよこれで無駄な時間をかなり節約する事が出来た。切嗣は目の前に聳える巨大な門扉を戸惑う事なく開き、エントランスホールへと踏み入った。
北欧の冬の城とほぼ同型の内装。華美に過ぎず質素に過ぎず、それでも己が力を誇示するかのような絢爛さで彩られた大広間。中央に伸びる大階段の上──二階部分に紫紺のローブを見咎める。
「ようこそ、いらっしゃい。ちょっとした余興は愉しんで貰えたかしら?」
口元に妖艶な色を浮かべながらキャスターは謳い、一歩また一歩と階段を下りてくる。魔女の軽口には付き合わず、切嗣は目の前の現実についてを問い質す。
「……もう結界の構築は終えたのか」
切嗣とセイバーより若干早く冬木入りしていたらしいとはいえ、それでもせいぜいが一日二日。この広大なアインツベルンの森の全てを把握、掌握した上で更に結界の基礎部分を構築したのだとすれば。
キャスターの工房建築能力は図抜けていると言えるだろう。
「完全ではないですけどね。向こうで森の見取り図は見せて貰っていたし、下準備も大方済ませていたもの。後は組んだ予定の通りにものを配置するだけでしたから」
軽く言っているがそれがどれほどの手間でどれほどの労力を必要とするかは一魔術師程度では計り知れない。そもそも工房らしき工房を持たない切嗣のようなタイプの魔術師から見れば、埒外という他にないくらいの途方もない作業だ。
「当面の対策として遮音や感知といった基本の結界の構築は終えてるけど、後は好きに改造させて貰うつもりよ。まだただの工房止まり。神殿にまで至らせるには、もう少し時間が必要。
まあそれも──貴方達がきちんと契約を果たしてくれればの話ですけれどね?」
「…………」
契約。それは切嗣とキャスターが手を組む上で交わした条件の一つだ。魔女が結界構築を終えるまでの間、切嗣とセイバーが衆目を集め時間を稼ぐ、という。
そしてその目論見は緒戦で崩れ去り、善後策を模索していたところへのキャスターからの連絡。こうしてこんな辺鄙な森の果てまで足を伸ばしたというわけだ。
「既にある程度の策は考えている。上策が失敗した以上、こちらが負うリスクも増すが構いはしない」
「そう。まあ立ち話もなんでしょうし、サロンにでも行きましょうか」
背を向けた魔女を追い二人もサロンへと向かった。
+++
城に滞在しているアインツベルンの侍従──ホムンクルスが淹れた紅茶がテーブルの上に薫る。三つ並べられた赤い液体に手をつけたのはキャスターだけだった。
腰を落ち着けて話をするつもりがあるのがどうやらキャスターだけであるらしい。切嗣は長机に並べられた椅子には手も掛けず、壁際に背を預けている。マスターが座らない以上セイバーもまた座るつもりもないのか、こちらも直立してる。
「それにしてもセイバー。よく貴女、私の転移を受け入れたわね?」
開口一番、水を向けられたのはセイバーだった。彼女自身、自らの立ち位置をマスターの剣であると定めており、切嗣もそのように扱っている。それ故にこのような作戦会議の場においても無駄な言葉を挟むつもりはなかったのだが、意見を求められては答えないわけにはいかない。
セイバーの対魔力は最高位。およそ現代の魔術では傷の一つも付けられず、相手がキャスターであっても同様だ。魔術という式を用い、魔力を放つ類のものは全て彼女の肉体に届く前に四散する。
ただそれも無意識に全てを弾いたり、無作為に遮断するわけではない。全てを無条件に拒絶するのでは、マスターが施す治癒系の魔術さえもその範疇に入ってしまうからだ。
故に対魔力と一口にいってもそこにセイバー自身の意思が介在する。受け入れるもの、受け入れないもの。その取捨選択は本人の意思に委ねられている。
「私が転移を拒めば飛ばされるのはマスターだけだ。それは許容出来るものではない」
転移の魔術といえど、セイバーならば拒絶出来た筈だ。ただその場合、強制的な転移に対する手段を持たない切嗣だけが飛ばされる事になる。それは相手の思う壺だ。マスターとサーヴァントの分断を容易にしてしまう。
もし仮にセイバーがこのアインツベルンの森の主がキャスターだと知らなかった場合や明確な敵と断じていた場合、敵からの魔術的介入と判断し、あるいは反射的に拒絶していた可能性もある。
現状、セイバーとキャスターは共闘の関係だ。マスター同士がそれを容認している。ならば明確な敵意のある術的干渉でないのなら、セイバーにとって拒絶する意味も理由もなかったのだ。
何よりセイバーはキャスターがどのような手段で挑んで来ようとも返り討ちに出来るだけの力がある。
剣の英霊を筆頭に槍と弓、俗に言う三騎士クラスが有する対魔力のクラス別スキルはそれほどにキャスターのサーヴァントと相性がいい。正面から戦う限り、どんな悪辣な罠を張り巡らせようと突破出来るだけの自負がある。
だから魔術師の英霊を相手取る上で最も警戒するべき事は、マスターを狙われてしまう事だ。先の転移のようにマスターとサーヴァントを分断されてしまえば、如何に後者の力が優れていようと守りきれず、前者が優れていようと太刀打ちが出来ない。
ならば共に虎穴に飛び込む方がまだ打つ手はある。遠く離れた場所でマスターの首を刎ねられたとあっては、為す術などある筈もないのだから。
「御託はいい。本題に入るぞ」
切嗣が切って捨てる。
「緒戦、僕達の目論んだ衆目を集めるという策は失敗に終わった。どの陣営もセイバーは警戒に値するサーヴァントだと認識はしていても、真っ先に打ち倒さなければならない、と思わせるには至らなかった」
「…………」
セイバーは黙し、僅かに唇を噛む。マスターの手足となり敵を討ち、与えられた指示を全うすべき存在がその責務を果たす事が出来なかった。
彼女自身に落ち度はない。ただ、それ以上に相手の打った策略が上回っていたというだけの話であり、既に終わってしまった事。
見つめるべき先は過去ではなく未来だ。過ぎ去ってしまった事象を検分する必要はあっても、何時までも引き摺る事はあってはならない。
「確認出来た敵は三騎。キャスター、おまえもあの戦いを覗き見ていたんだろう?」
「ええ、当然。太陽の加護を得た白騎士と、それを圧倒したバーサーカー、そして超遠距離からの狙撃を為しえたアーチャーね」
「正直なところ、バーサーカーについては後回しだ。身体の全てを黒い霧で覆い隠し、マスターの透視能力をすら無効化とする隠蔽能力がある限り、あのサーヴァントの素性は知れない」
「そうね……マスターにしても姿すら確認出来なかったし、何処の誰が差し向けたのかも不明。後回しにするって考えには賛成だけど、考察くらいは出来るんじゃない? ねえ、セイバー?」
この段に来てキャスターは切嗣とセイバーの関係について大分理解が出来てきた。両者は聖杯の獲得という目的で一致し、足並みを揃えているように見えるが、違う。二人の間には見えない一線がある。己自身に課した線引きが。
二人はその線を越えない限りは意見をぶつける事すらないのだろう。そしてそれは恐らくほとんどない。両者は共に自らの分を弁えているからだ。
切嗣はあくまでマスターとして振る舞い、サーヴァントに必要以上に干渉しない。召喚時のように必要に駆られれば会話くらいはするのだろうが、このように第三者がいる場では極力話を振る事すらしない。
消極的な無視、とでも言うのだろうか。わざわざキャスターの根城たるこの場所まで足を運んだのも、あるいは二人きりで会話をしたくなかったからなのではないか。
そうまでしてセイバーを遠ざける理由にまでは、流石のキャスターをしても思い至らなかったが。
そしてセイバーも同様。サーヴァントの分を弁え、マスターの方針に致命的なズレが見られない限りは口を挟まない。彼女は彼女なりに切嗣が己を忌避していると感付いているのかもしれない。
二人の間に信頼と呼べるものはない。何処までいっても利害の関係。聖杯を掴むという大目標が一致しているからこそ共闘関係。切嗣自身がキャスターに持ち掛けた、条件付きの共闘と何ら違いがない。
……確かに合理的で無駄はないのかもしれないけれど。二人一組の戦いである聖杯戦争において、その合理さは何れ致命的な亀裂を生むかもしれないわね。
ただ今はまだその時ではなく。事実この二人が足並みを揃えている限り、余程の強者とて容易には崩し得ないだろう。
「ガウェイン卿と縁の深い貴女だからこそ分かった事もあるのではなくて?」
問いを投げ掛けられたセイバーは僅かに逡巡し、それから己の目から見たあの狂戦士について話し始める。
「マスターの目を以ってしてもステータスが見通せないとの事でしたが、それでも現実に目で見えたものは恐らく皆同じでしょう。
あの狂戦士はバーサーカーにあるまじき練達の技を以ってガウェイン卿を圧倒していました。本来、力で全てを捻じ伏せる事が取り柄のバーサーカーが」
膂力にしても狂化の恩恵を受けて強化はされている事だろう。それ以上に技の冴えが目を引いた、という事だ。理性を剥奪されては振るえない筈の技量。それを扱えるだけでもあのバーサーカーは規格外だ。
「そしてあの狂戦士は、聖者の数字を発動した状態のガウェイン卿を圧倒した。正直なところ、これには驚愕を禁じえませんでした。
私の前にかつての忠臣が敵として立ちはだかり、夜に太陽の加護を得るというおよそ慮外の事態に剣先が乱れた事を差し引いても、ガウェイン卿は強い。だからこそ、あれはあってはならない戦いだった」
太陽の加護を得たガウェインは文字通りの無敵だ。相手が如何なる大英雄であっても引けを取らないばかりか、圧倒出来るだけの力がある。
最高位のステータスを持ち、生前の剣筋を知っているセイバーですら致命傷を避け凌ぐのがやっとで、毛ほどの傷も付けられなかったのだから。
それ程に聖者の数字は驚異的なスキル。本来昼の限られた時間しか発動せず、この冬木の聖杯戦争と相容れない能力。打ち破る為には三時間耐え抜くか、宝具に訴えるしか有り得ない。
しかしあの漆黒の騎士はそんな白騎士を一方的に押し込めた。涼やかな笑みを崩す事のなかったガウェインに、苦悶の表情を浮かべさせたのだ。
本来ならば有り得ない事。ただ力で勝るだけでは決してあのような戦局には至らない。ならばそこに、仕掛けられたトリックがある。
……今にして思えば。あの時のガウェイン卿の顔は……そう、まるで。私が彼と見えた時のそれに、似通ってはいなかったか。
「セイバー? どうしたの?」
言葉の途中で思索に囚われたセイバーに掛かるキャスターの声音。疑惑の色が混ざるその音に、セイバーは首を振り答えた。
「バーサーカーの正体については現状、答える事が出来ません。あの者と直接剣を交えるかガウェイン卿と再び見える事があれば、問い質すのもありでしょう」
頭に浮かんだ推測を振り払う。そんな事がある筈がない。そんな事はあってはならないとでも言うかのように。
セイバーはそれ以上を黙して語らず、どの道推測の域を出ない結論で早合点するのは不味い。正体を知る機会は今後幾らでもあるだろう。まずは目の前の、正体の知れている相手に対する対策だ。
「ガウェインの力は脅威ではあるが、回数制限のある代物だ。無限に、無制限にあの三倍状態を維持出来るわけじゃない」
昼間に戦えばその限りではないのだろうが、ガウェインが参戦していると知れた以上、わざわざ昼間に遠坂に対し戦いを挑む馬鹿はいない。
夜がメインの戦場である限り、あの力は有限だ。三画しかない令呪の補助がなければ発動出来ない、制限付きの無敵の能力。
不可解があるとすれば、三度しか使えない能力を何故緒戦で晒したのか、という一点。
バーサーカーの登場まで揺らぐ事のなかった遠坂時臣の表情。切り札を早期に晒す事に対する気負いが全くと言って感じられなかった違和。“あの”遠坂時臣が緒戦から自ら戦場に立ったという事実。
“そうしなければならなかった”何かが遠坂にあるのなら、切り崩すならまずそこで、その裏にあるものを探らなければ彼の陣営は倒せない。
「遠坂に、今夜もう一度仕掛ける」
「勝算はあるの?」
「先程も言った通り、ガウェインの能力は有限だ。そう何度も使える代物じゃない。だからこそ戦いを挑み“使わせる”」
弾丸の装填されていない銃身など恐れる必要のあるものではない。遠坂のシリンダーに残る弾丸は二発。それを使い切らせれば、素の状態のガウェインならばセイバーで打倒が出来る。
ただそこに遠坂の仕掛けた何らかの姦計が存在するのなら話は変わってくる。けれどそこで怖気づいていては前に進めない。どの道危険を冒さねば渡れぬ橋だ、早いに越した事はない。
「ガウェインに気を配るのはいいけれど、もう一人忘れてない?」
アーチャー。
弓兵の英霊にして、衛宮切嗣を戸惑いもなく射抜こうとした下手人。太陽の加護を得ないガウェインであっても、あの弓兵の援護があってはセイバー単独での撃破は容易ならざるものとなる。加護のある白騎士なら言わずもがな。
そもそもからして、遠坂が二騎の英霊を従えている事に切嗣は不審を感じている。令呪の創始者である間桐や聖杯戦争の根幹を知るアインツベルンならばともかく、遠坂にそんな芸当が可能なのだろうか、と。
もし遠坂が意図的に令呪を二つ手に入れたのではないとしたら、もう一つは何処から来たのか? どんなカラクリを用い二人ものマスターを仕立て上げたというのか。
「セイバーがガウェインを請け負うのなら、アーチャーの相手は私が務めた方がいいと思うけれど」
既にこの段になっては切嗣とキャスターの契約も半ば形骸化している。敵がサーヴァントを二騎従えている事が確定した以上、身内を牽制している場合ではない。
セイバー単独、キャスター単独では白騎士と弓兵のコンビを破るのは難しい。一騎当千の実力者を二人同時に相手にする不利は、想像以上に重いものだ。
だから切嗣もキャスターも無言の内に手を取り合う事を了承している。そうでなければこの戦いを勝ち抜けないと、どちらともが理解している。
「不要だ、おまえの手はまだ必要ない。敵が手札を晒しているからと言って、こちらが律儀に答えてやる必要はない。おまえはこの森を好きに改造でもしていればいいさ」
キャスターの存在が露見すれば、そのマスターにまで疑いの手が伸びる。イリヤスフィールの存在はまだ隠し通すべきだ。少なくとも他の連中がまだ手の内を隠している現状で、晒すような札じゃない。
現在時刻は深夜。今頃イリヤスフィールは温かなベッドで安らかな寝息を立てている事だろう。父の隣に立ちたいと言ってくれたあの子の力を借りるのはまだ早い。自らの力で出来るだけの策を打った後でも遅くはあるまい。
「それで、キャスター。この森をおまえ好みの神殿に造り替えるまで、あと何日必要だ」
「セイバーを殺せるレベル、という意味なら三日は必要ね。最短でも、二日は欲しいところよ」
酷く物騒な言葉が出たが、それに切嗣もセイバーも拘う事はない。キャスターがそう言うからには文字通り最優の騎士を殺せるだけの仕掛けを施す自信があるのだろう。要する時間を勘案しても、妥当と言える。
これまでの日数を合わせて五日前後。下準備も含めると二週間強。それだけの時間がなければ、魔術師の英霊では剣の英霊に対抗する事すら出来ないという事実でもある。
「一日だ」
それを切嗣は、慄然と切って捨てる。
「今日中……最悪でも明日の朝までには完璧に仕上げろ。でなければ恐らく、この森に敵が踏み入ってくる」
「……酷い無茶を言うものね」
確かに三日、というのは余裕を持ってスケジューリングした場合の計算だ。マスターに掛かる負荷や自らの消耗を度外視すれば、切嗣の言う期限には間に合うだろう。まさかそれを推測して今の発言をしたとは思えないが。
ただそこまで言うからには彼なりの確信めいたものがある筈だ。明日の朝以降にキャスターの領域に敵が踏み込んで来るのではなく、アインツベルンの拠点に対して敵が仕掛けて来るという確信が。
「……貴方一体、これから何をしようと言うの?」
「僕は僕のやり方で戦う。それだけさ」
衛宮切嗣は常と変わらぬ無表情で謳う。ただその表情に、僅かばかりの不敵な笑みを宿らせて。
「それじゃあ招待しようじゃないか。血で血を洗うパーティへとな」
+++
朝を過ぎ、昼を超え、今一度夜が巡ってくる。人々にとっては眠りの時間、身体を休めまた次の日の朝に備える為の休息の刻限。
しかし現在この街に集う魔術師達にとっては違う。夜は安らぎを齎す事なく、苛烈なまでの戦いを強いる。眠りに落ちる闇の中で、人知れず彼らは踊り続ける。目指したものを、その手に掴み取るその日まで。
オフィス街に立ち並ぶ摩天楼の一角。周囲に突き立つ幾分背の低いビル群の中から一つ頭を飛び出した一棟の屋上に、衛宮切嗣の姿はあった。
身を攫う強風の中にはためくコートの裾を気にする素振りもなく、口元に咥えた煙草の煙の行き先──遥か虚空を見つめている。
今や深海に没したかのような街並み。僅かに灯る明かりは駅前が中心で、この街で一番背の高いセンタービルもその辺りだ。遠く見える教会とその麓の住宅街からは、ほぼ完全に明かりが途絶えている。
本来ならば切嗣が立つこのオフィスビルにも、仕事熱心な輩によって未だ消えぬ明かりが灯っていた筈だ。今日に限っては、このビルを含めた周囲一帯からは、完全に人気が消えていたが。
切嗣達は遮音や人払いの結界を施してはいない。ならば一体誰が今夜戦場と定められたこの場所に結界を張り巡らせたのか。
答えは単純、切嗣達を誘蛾灯だとするのならば、周到な蛾がわざわざ戦場を整えてくれたのだろう。灯に誘われながら、その灯を食い破らんとする獰猛な蛾が。
「マスター」
油断なく周囲を窺っていたセイバーが視線を細め振り返る。その先にあるのは屋上へと通じる階段。切嗣達も少し前に上ってきたものだ。
セイバーの発声から数秒、立て付けの悪い扉が開かれ、そこから姿を現したのは他でもない、遠坂時臣と彼の従えた白騎士ガウェインであった。
ビルの端付近に立つ切嗣とセイバー、扉を背にする時臣とガウェイン。時臣の手には先日も手にしていた樫材のステッキ。戦う準備は万端、と言ったところか。
「連日のお誘い痛み入るよ魔術師殺し。ただ、今日の誘い方は頂けないな」
言って、時臣は懐より一通の封書を取り出す。切嗣自身にも覚えがあるもの──というより、彼自身が舞弥を経由して使い魔で教会へと送り届けたものだ。
アインツベルン城での一件の後、冬木市内へと戻った切嗣がまず行った事が封書を送る事だった。
認めた内容は単純明快──今夜零時、この場所で待つ。来なければ街の施設を無作為に爆破する、といった内容のものだった。
「先日、確かに忠告した筈なのだがな。街の平穏を乱すような無粋は慎んで欲しい、と」
時臣の手の中の封書が一瞬で燃え上がる。生まれた炎は封書を焼き尽くし、灰となった残骸は風に攫われ消えていった。
封書を直接遠坂邸に届けず、わざわざ教会を介して渡させたのには理由がある。遠坂時臣は一人のマスターである前に、この街の管理者だ。新都に根を下ろす教会とも深い関わりがある。
この一件はマスターである時臣にではなく、管理者である時臣に対し送られたもの。それを強調する為にわざわざ教会の手を介させたのだ。
街の安寧を司る者として、爆破予告などという穏やかならざる宣誓は無視出来るものではない。それも悪名高き魔術師殺しからの予告とあっては尚更だ。
結果、時臣はこうして引き摺りだされた。遠坂が余計な一手を打つ前に、機先を制しこちらの用意した舞台へと強制的に上がらせたのだ。
「ああ、確かにそんな忠告を受けた覚えはあるが……僕が明確な返答をした記憶はないな」
「ならば今一度言おう。私が預かるこの街で余り派手に暴れてくれるな。無辜の人々を巻き込む事を、私は決して許しはしない」
時臣がそう告げた瞬間──真夜中に閃光の華が咲く。
遥か遠方、遠雷の如く鳴り響く爆発音。
次いで目視したのは闇を煌々と照らす巨大な炎と、立ち昇る黒煙。
オフィス街から少し離れた埠頭付近。
火の手はそこから上がり、夜の黒色を上書きする、真っ赤な炎が一望出来た。
「き、さま……」
衛宮切嗣の手には何らかの機械装置。恐らくは今し方起こった爆発を巻き起こす為の起爆装置だ。夜を染める赤色を背にしながら、魔術師殺しは嘯いた。
「それで、許さないのならどうするんだ管理者サマ? 今ので一体何人死んだかな」
衛宮切嗣は犠牲を容認する。より大多数を救う為ならば、少数には死んで貰う事に躊躇はない。
彼が聖杯を手にした暁に救われる数は世界の大多数。億にも上る数の人間だ。それに比べればこの街の人口など高が知れている。
千や万を犠牲する程度で、億の人間が救えるのなら──衛宮切嗣は無辜の人々の血で己が掌を染め上げよう。
「…………」
瞳に赫怒の念を宿した時臣は、手にしたステッキを中空に振るい業炎を呼び起こす。象眼されたルビーが闇の中に炎よりも赤い色を踊らせる。
「……ガウェイン。セイバーの相手を任せる。この外道は、私自らの手で誅罰を下さねば気が済まない」
「了解しました時臣。武運を」
「…………」
白騎士の手の中に具現化する太陽の聖剣。セイバーもまた不可視の剣を呼び起こし、共にじりじりとビルの端へと移動する。
ビルの屋上程度の広さではマスターとサーヴァントがそれぞれの戦いを行うには少々手狭だ。故にサーヴァント達は別の棟へと戦場を移すつもりのようだ。
「かつての王……いえ、セイバー。今一度貴女と剣を交えられる幸運に感謝を。そして今度こそ決着を着けさせて頂く」
「私も卿に問い質したい事があったところだ。付いて来るがいい」
セイバーがまず離脱し、それを追う形で白騎士も夜の闇へと姿を消していく。後に残されたのは無手の切嗣と炎を輪のよう踊らせる時臣のみ。
……令呪は使わない、か。冷静な判断力は残っているようだな。
ここで怒りに任せて令呪を切るような相手ならば容易であったのだが、時臣の芯は未だ冷徹な魔術師のままだ。今この瞬間に令呪を使う事が如何に愚策であるかを、重々承知している。
……使わないのならそれも好都合。どちらに転んでも僕達に不利益はない。
ホルスターより黒鉄の銃身を引き抜く。魔銃トンプソン・コンテンダーを。
緒戦は『見』に務めた事とアーチャーの横槍があった事もあり、切嗣はその実力のほとんどを晒していない。故にこれが彼自身にとっての緒戦であり、自らの性能を試す絶好の機会だ。
「外道衛宮切嗣。遠坂家五代当主遠坂時臣、正調の魔術師にしてこの街の管理を司る者として告げよう──おまえに明日はない。今日此処で斃れろ」
時臣の宣告を一笑に附し、魔術師殺しは謳う。
「遠坂時臣、おまえは僕にとっての試金石だ。せめて踏み台程度の役割は果たしてくれよ」
その挑発に乗ったわけではないのだろうが、時臣が無造作に腕を振るう。
「良くぞ言った。我が遠坂の秘奥──とくと味わうがいい」
絢爛な炎がその顎門を開く。
炎の殺到を以って第二夜、第二戦の開始の合図が告げられたのだった。