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No.36131の一覧
[0] 【完結】第四次聖杯戦争が十年ずれ込んだら 8/3 完結[朔夜](2013/08/03 01:00)
[8] scene.01 - 1 月下にて[朔夜](2013/01/10 20:28)
[9] scene.01 - 2 間桐家の事情[朔夜](2013/01/10 20:29)
[10] scene.01 - 3 正義の味方とその味方[朔夜](2013/01/10 20:29)
[11] scene.02 開戦[朔夜](2013/01/02 19:33)
[12] scene.03 夜の太陽[朔夜](2013/01/02 19:34)
[13] scene.04 巡る思惑[朔夜](2013/04/23 01:54)
[14] scene.05 魔術師殺しのやり方[朔夜](2013/01/10 20:58)
[15] scene.06 十年遅れの第四次聖杯戦争[朔夜](2013/03/08 19:51)
[16] scene.07 動き出した歯車[朔夜](2013/04/23 01:55)
[17] scene.08 魔女の森[朔夜](2013/03/08 19:53)
[18] scene.09 同盟[朔夜](2013/04/16 19:46)
[19] scene.10 Versus[朔夜](2013/03/08 19:38)
[20] scene.11 night knight nightmare[朔夜](2013/05/11 23:58)
[21] scene.12 天と地のズヴェズダ[朔夜](2013/06/02 02:12)
[22] scene.13 遠い背中[朔夜](2013/05/16 00:32)
[23] scene.14 聖杯の眼前にて、汝を待つ[朔夜](2013/05/28 01:03)
[24] scene.15 Last Count[朔夜](2013/06/02 20:46)
[25] scene.16 姉妹の行方[朔夜](2013/07/24 10:22)
[26] scene.17 誰が為に[朔夜](2013/07/04 20:19)
[27] scene.18 想いの果て[朔夜](2013/08/03 00:51)
[28] scene.19 カムランの丘[朔夜](2013/08/03 20:34)
[29] scene.20 Epilogue[朔夜](2013/08/03 20:41)
[30] scene.21 Answer[朔夜](2013/08/03 00:59)
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[36131] scene.03 夜の太陽
Name: 朔夜◆4a471bd7 ID:42607152 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/01/02 19:34
/6


 未遠川より吹き込む風が対峙する二つの陣営の間を渡る。

 冷たさの滲む陣風が砂塵を巻き上げてなお、セイバーは目を離せなかった。遠坂時臣を庇い立つ白騎士から、視線を切る事など出来る筈もなかった。

 ────太陽の騎士(サー・ガウェイン)。

 アーサー王の片腕。アーサー王の影、あるいは王亡き後を継ぐ者とさえ謳われた忠義の騎士。身に纏う白の甲冑のように誠実で、実直で、何よりも情に厚き騎士。彼こそを騎士の体言といわずしてなんと言おう。

 共に戦場を駆け、共に国の為に剣を執った男が目の前にいる。道半ばで死なせてしまった騎士がいる。
 聖杯戦争は英雄を招来し競わせるある種のゲーム。星の数ほどある伝承、伝説、神話。その中からこうして同じ伝承に名を残し、同じ時代を駆け抜けた者が招かれるなど、どうして予想出来ようか。

 あるいは人はこの偶然を──運命と呼ぶのだろうか。

「ガウェイン卿……」

 呟いた声は風に攫われ音を失う。けれど白騎士は恭しく頭を垂れ、胸に手を置き、生前と同じ声音でこう告げた。

「お久しぶりです──拝謁の栄に浴し光栄であります、かつての王」

 それは涼やかな響きを伴った声。郷愁を覚えるほどの、聞き慣れた臣の声だった。

「…………」

 耳に馴染んだ音を聞き、セイバーは冷静さを取り戻した。目の前に立つ白騎士を認め、その存在を認め、深く息を吐いた。

「ああ……久しいなガウェイン卿。壮健そうで何よりだ」

 搾り出したのは王としての声音。生前、奇矯な魔術師が彼女に施していた偽装の魔術は解けてしまっている。素性もまたばれてしまった。それでも目の前の騎士は彼女を王と呼んだのだ、ならば応えるものは王の声でなければならない。

「このような時の果ててであれ、卿とこうして語らえる事を嬉しく思う。だが今の我々は共に剣を掲げ、国の為に尽くしていた頃の我等ではない。その程度の事、言うまでもなく卿ならば分かっているだろう」

「ええ、無論です。それを承知の上で、今代の主に無理を願い出てまで御身の下に馳せ参じた次第です。
 主に仕える剣の身に過ぎた私情、騎士にあるまじき厚顔と今もって恥じております。それでも──私は御身に告げなければならなかった」

 忠節の騎士は瞼を重く伏せる。

 主の温情があったとはいえ、これは彼自身が己に課した誓いを裏切るようなもの。私情を捨て、ただ主の剣となる事を望んだ男の、たった一つの未練。心に残る悔いを、今この機を逃せば叶わぬ願いを、己を裏切ってまで口にする。

「申し訳ありません、王よ。私は私情を捨て切れず、結果として貴女を死の淵へと追いやった。この身の不徳が円卓を瓦解させ、この身の怨恨があの男を追い詰めた。この身を焼いた私怨が、貴女を死なせてしまった。
 言葉では何の償いにもならない事など承知しております。それでも私は、貴女に伝えたかった」

 騎士道の体現者と謳われた男の唯一の汚点。人一倍情に厚かったが故、兄弟を殺された事実を国の崩壊間際になってなお引き摺り続けてしまった事が彼の悔い。
 王を守る為の剣が激情に駆られ大局を見失い、騎士達の誉れである忠義と誇りを穢してしまった。

 ようやく我に返った時には全てが遅すぎた。

 故国は二つに分裂し、円卓もまた無残に崩壊。その最期まで王を守る為に戦い抜いたものの、玉座の簒奪者の手によって無念の内に討たれてしまった。致命傷が私情に駆られ決闘を行った際に受けた古傷というのもまた皮肉な話だ。

 だから彼は願った。

 もし二度目の生というものがあるのなら。
 もしまだ挽回する機会があるのなら。
 今度こそは────主の為、自らの全てを捧げよう、と。

 しかし彼はこの時の果てで巡り会ってしまった。奇跡ですら叶えられぬと思っていた邂逅が果たされてしまった。
 今更の謝罪などでは何も変わらない。それはただ欺瞞に満ちた自己満足。騎士にあるまじき行いで、剣にあるまじき私情。彼自身が切り捨てた『己』そのもの。

 それを。

「良いのです、ガウェイン卿。それは貴方の私情などでは決してない。その心は、かつて仕えた私に対する忠節の証。貴方が恥じ入る理由など何もない」

 王は、肯定の言葉で応えた。

 意味のない謝罪と価値のない言葉の羅列。そんな過ぎた想いにも、王は真摯に答えてくれた。ああ、そうとも。彼の信奉した王はこのように高潔であり、公平であり、理想そのものの王だった。あの裏切りの騎士をもその最期には許した程の無欠の王。

 そんな王を裏切ってしまった後悔と呵責。それ故に死後、白騎士は己に完璧な騎士であり続ける事を課した。王の赦しを得ても胸に誓ったその祈りを違える事はない。より強固にその想いを貫くと、人知れず誓う。

 王は続ける。されど彼の見上げる王とは別の想いをその胸の内に隠して。

「何より貴方はその最期まで私に仕えてくれた騎士の内の一人だ。その忠義に礼を言うべきなのは私であり、悔いるべきなのもこの私だ。
 国が傾いたのも、円卓が崩壊した事も、貴方と彼の湖の騎士の間の友誼に刻まれた亀裂もまた、その発端は私にある。そう、私が────」

 ────王でなければ。
     貴方はきっと、その最期まで高潔な騎士のままで。
     彼の騎士も理想の騎士であり続け、二人は良き朋友であったであろうに。

 胸を締め付ける悔恨。
 言葉にならない想い。
 伏せた瞳に映るのは、落日の丘。
 剣の墓標が乱れ立つ、アルトリアの後悔の地。

「王……貴女は……」

 白騎士の誠実なまでの眼差しに影が映る。騎士がその言葉の続きを口にする前に、王は鋭くその舌鋒で空気を切り裂いた。

「貴方も私も、今や違う主を頂く同士。願い叶える奇跡の杯を巡り、共に競い、合い争う間柄だ」

 そう、冬木での聖杯戦争へと赴いたのはこの手に奇跡を掴む為。奇跡に希わねば果たせぬ願いを叶える為だ。
 たとえかつての忠臣が立ちはだかろうとも、決して歩みを止める事は出来ない。何をおいても、何を犠牲としてでも叶えなければならない祈りを、少女はその小さな身体に宿しているのだから。

「剣を執れ、ガウェイン卿。もはや我らの間に言葉は不要。語るべきは剣で語れ。よもやかつて仕えた主を斬れぬなどとは言うまいな?」

 逆巻く風がセイバーを包む。ダークスーツは一瞬にして戦装束──青のドレスと白銀の甲冑へと変化する。
 下段に構えた両手の中にもまた風が渦巻く。具現化したのは不可視の剣。風呪によってその刀身を隠蔽された稀代の聖剣。

「……ええ。我が剣は今代の主に捧げたもの。貴女がたとえかつて仕えた王であっても、我が行く道を塞ぐとあらば、押し通らせて頂きます」

 対するは月明かりを照り返す青白い刀身を持つ剣。セイバーの聖剣に勝るとも劣らぬ聖なる剣。
 共に最高位の聖剣を手にする騎士の中の騎士。ならばその優劣は所有者の技量によってこそ測られる。

「いざ────」

「────参るッ!」

 此処に第四次聖杯戦争の戦端は開かれる。

 奇しくもそのカードはかつて頂いた王と仕えた騎士。
 互いにその手の内の全てを知る者。
 共に最高クラスの戦力を有する至高の英雄。
 彼らほど開幕を告げるに相応しい者はなく。

 火花散らす聖剣と聖剣との激突が、
 厳かに鳴り響く鐘のように──開戦の合図を告げた。



+++


 逆巻く風が夜を駆ける。衝突は一瞬、共に全力を込めて放たれた初撃は極大の火花を咲かせた。
 全力で打ち付けたが故に生じる一瞬の硬直を埋める為、両者は共に飛び退き、体勢を整える。

「…………」

「────」

 たった一合剣を重ねただけで分かる互いの力量。生前において幾度か手合わせをした事はあったが、こうまで全力で打ち合った事はない。
 かたや国を率いた王そのものであり、かたやその片腕にして騎士の誉れ。轡を並べ同じ戦場を駆け巡った事は何度となくあっても、殺し合いにまで及んだ剣と剣との衝突は有り得なかった。

 その剣は国を守る為のものであり、民を守る為のもの。仕える主に向けるものでも、仕えた臣に向けるものでもない。故に互いにその実力を音に聞き、目にしていようとも、こうして己が腕で感じたのはこれが初めて。

 ──やはり、強い。

 どちらともが同じ結論へと至る。そして同時に感じる胸の高鳴り。強き者と剣を交える事に震える心の高揚。己をただ一振りの剣と断じてなお、騎士としての矜持が顔を覗かせている。

「ふっ──!」

 先に仕掛けたのはセイバー。

 その身に宿す特殊スキル──魔力放出の力を借り、体内を巡る膨大な魔力を推進力へと変え、優に十メートルはあった距離を瞬きの間に詰める。
 迎え撃つは白騎士。横薙ぎに構えた剣を大上段から襲い来る必死の一閃に合わせ打ち上げる。

「はぁ……!」

 今宵咲く二度目の大輪。一気呵成の一撃を難なく防ぎ止める。

 セイバーの手にする得物は不可視の剣。刀身どころか柄さえも視認出来ない文字通りの不可視。
 けれどこの白騎士はその剣を知っている。王の手にするその威光を何度となく己の瞳に焼き付けたのだ。見えぬ刃であれ、知り尽くした剣の軌跡ならば捉える事などそう難しいものでもない。

 セイバーとてそんな事は百も承知。見えない剣の有利は最初から捨てている。防がれる事など承知の上で放った二撃目。防がせる事すら目的の内。その真意は更なる追撃へと向かう切っ掛けに過ぎず。

「はぁああああああ……!」

 脅威の突進力で肉薄した結果、間合いの有利は共にない。ならば後は機先を制した者が勝つ。
 追撃を前提とした二撃目を繰り出したセイバーは間髪を置かず連撃を見舞う。

 上段、下段、袈裟、横薙ぎ。剣の軌跡に法則はなく、その全てが神速。瞬き一つ行う刹那に首を刎ね、胴を輪切りにし、両手両足を裁断して余りある速度と威力。並の実力者であろうとそのどれかによって致命傷を被るだろう。

 しかし相対するは同じく英雄。時代に選ばれた稀有なる騎士の一人。神速など浴びるほどに受け、その全てを跳ね返し、同様の速度で以って返り討ちにしてきた。王の片腕と呼ばれた男が、並程度の実力者であろう筈がない。

 一閃を繰り出す度に爆ぜる魔力。
 防ぎ止める程に弾ける火花。
 青い魔力の軌跡と赤い光跡が交じり合い、夜の闇を照らし上げる。

 繰り出される刃の全てが必死の威力。一撃受け損なえば致命傷に至る無刃。両の手に支えられた不可視の剣は、少女の身体から湧き上がる魔力を糧に暴威とも呼べる連撃を嵐の如く闇に咲かせる。

 受ける青刃は足を止め、守勢に回る事でどうにかその狂嵐を凌いでいた。彼の剣もまた相応の力強さを伴い流麗な剣閃を描いてはいるが、反撃の隙が見当たらない。
 セイバーの剣速は一合ぶつけ合う度に増し、今や視認すら難しい速度で縦横無尽に襲い掛かって来る。間断なく繰り出される剣の乱舞は留まる事を知らず、十二十と堆く積み上げられ、白騎士は愚直なまでにその全てを捌き切る。

 乱れ舞う剣戟。咲き誇る火の花。膨大な魔力の加護を得たセイバーの太刀は重く速く、そして鋭い。
 まるで針の穴を通すような精確さでガウェインの防御の甘い部分を狙ってくる。それを凌げているのは防御に専心しているからだ。

 反撃を試みようと思えばどうしても隙が生まれる。その好機をこの少女騎士が見逃すわけがない。
 いずれは打って出なければ状況は膠着したまま。長引けばやがて押し込まれる。しかしそれでも現状はセイバーの猛攻を押し留める事が肝要。そう判断しているかのように白騎士は防御に専心し、反転の好機を窺っている。

「…………」

 人外の戦場の外、セイバーの後方に控える切嗣は、口にしていた煙草の灰が風に攫われる事にも頓着する事無く、目の前の嵐を見据え続ける。

 人の身でありながら人の極点を越えた者。一握りですらない、天と歴史に選ばれた者だけが辿り着ける境地の果てに至った者。人はそれを英雄と呼び称え、畏怖と礼賛をもって祀り上げる。

 ああ、確かに。正直なところを言えばこれほどとは思いもしなかった。彼女達の戦いを思えば、魔術師同士の諍いなどそれこそ児戯にも等しい。
 資格なき者が踏み込めば、その余波だけで骨砕け肉が千切れるほどの死地。目で追えている剣舞だが、本当にその全てを見切れている自信がない。

 切嗣自身の衰えを勘定にいれたところで、二束三文にしかならない極地。これが英雄の高み。人々の賞賛を浴び世界に祀り上げられた英霊の座。手を伸ばしたところで届くような峰ではない。

 ……だが。

 だからこそ、切嗣は強く思うのだ。こんなにも眩しき光が傍らにある恐怖を。比類なき光に焦がれて空を飛べば、イカロスのように翼を焼かれ地に落ちてしまうのに。墜落の恐怖に勝る憧憬こそが、もっとも恐ろしい罪の形なのだと。

 人が空を飛ぶ必要はない。
 そもそも最初から飛べるように設計されてなどいないのだ。
 空を飛ぶ英雄達こそがおかしいのなら。

 ────僕は『英雄(かれら)』を、地に墜とそう。

 揺るがぬ決意。
 鉄の意志。

 衛宮切嗣はその為だけに策謀を巡らし、準備を整え、人の極点を見据えたのだ。

 全ては己の理想を叶える為に。
 人が人である事を誇れる世界であって欲しい。
 そしてその世界には、英雄なんてものは必要ないのだから。

 一際大きな炸裂音を耳朶に聞く。守勢に回っていたガウェインが連撃の隙間を縫い、肩口に刻まれた傷と引き換えにセイバーを弾き飛ばしたのだ。
 宙を舞った少女騎士は動揺もなく、銀の具足を打ち鳴らしながら、華麗に着地を決め今一度剣を握り直した。

「ふむ……流石は最優のセイバーにして彼の騎士王と言ったところか。ガウェインがこうまで一方的に押し込まれるとは」

 白騎士の後方で切嗣と同じく戦況を眇めていた時臣が嘯く。その声色には微塵の揺らぎも見られず、劣勢に押し込まれた側が持つべき焦りが見えない。

 百をも超える剣戟を交わしてなお双方の被害はガウェインの裂かれた肩口の傷のみ。それも戦局を左右する程のものではない。
 事実白騎士は押し込まれていたものの、天秤の針が僅かでも傾けば互いの立ち位置は変わっていた筈だ。

 ただガウェインをしてセイバーの放つ魔力放出は厄介極まりない代物だった。それは嵐の中心点から斬撃が降って来るようなもの。襲い来る暴風に耐えながら、より脅威な剣戟を凌ぎ続けなければならないのだから。

 良く見れば彼の身を覆う白の甲冑のところどころに傷が見える。物理的な刃と化した魔力の波動が鎧を削り取っていった証拠だ。

「…………」

 セイバー自身、手応えは感じている。このまま続ければいずれ致命的な一撃を見舞う事が可能だろうと予見している。
 ただ生前の彼と本気で剣を交えた事がない以上、憶測の域を出ない話だが戦場で見たこの忠臣は、太陽の騎士である事を差し引いても、もっと強かったような気がしている。

 流麗な剣閃、力強き一撃。その涼やかな面持ちを一切変える事なく振るわれる太陽の剣は並み居る円卓の騎士の中でも際立って輝いて見えたものだ。見る影もない、とまでは言わないが、曇りがあるように見て取れた。

「…………」

 セイバーがガウェイン本人に抱く違和感とは別に、切嗣は余裕の体を変えない時臣に猜疑の念を抱いていた。

 事実、切嗣に見えるガウェインのステータスはその全てがセイバーと同等以下。最優を誇るセイバーに匹敵していると言えば聞こえはいいが、同じ土俵で戦う者同士ならば、それが覆しようのない実力差を表しているとも言える。

 しかし切嗣の疑念はそこではない。そもガウェイン卿は太陽の騎士と謳われた傑物。その真価は日の光の輝く昼の時間にこそ発揮されるもの。
 冬木で行われる聖杯戦争は人目を憚って行われる。その性質上、昼の時間帯よりも夜の方が圧倒的に戦場を構築し易く、また戦闘が行われ易い。

 それを遠坂時臣が知らぬ筈がない。

 太陽の加護がなくともガウェインは一流の騎士だ。アルトリアがいなければセイバーのクラスで招かれていたであろう程の。
 その戦力を期待して召喚したのかもしれないが、それでも拭い切れない違和感がある。消えない疑念がある。自陣のサーヴァントを上回る可能性を持つサーヴァントと剣を交えてすら変わらぬ余裕。

 その真意は────

「こうして我らが君達の挑発に乗り、姿を見せたのはこちらも戦力を測っておきたかったからだ。想定外だったのはガウェインを上回るステータス値を誇る者がいたこと。それがかつて彼が仕えた王であったこと。
 ……いや、予感はあったかな。ガウェインが『セイバー』ではないと知った時から、この程度の事は予測していた」

 セイバーと同等のステータスと、同じく剣を得物とし近接戦闘を得手とする者でありながら、ガウェインは“剣の英霊(セイバー)”の“座(クラス)”で招かれてはいない。
 真名が明らかになった今、クラス名に然したる意味もないが、彼は七騎の内一つは紛れ込むというイレギュラー、エクストラクラス。

 戦局を左右する駒に不確定要素はあってはならない。それ故に遠坂時臣はこの一戦を仕掛けた。ガウェインの名と逸話、彼の偽らざる忠義を目の当たりにしながら、それでもより確実な戦力を把握する為に。

「幾つかの不満もあるが、しかし全ては許容の範囲内。緒戦にて貴女のようなサーヴァントがいると知れたこともまた重畳」

 時臣の目が細く鋭さを増す。吹き荒ぶ風に両の耳に飾られたピアスが踊る。街灯の明かりを受け、紅玉が煌く。

「余興は終わりだ。ガウェイン、君に太陽の加護のあらん事を──令呪をもって命ずる」

「…………っ!?」

 瞬間、迸る雷光。
 稲妻は夜を斬り裂き、白騎士の身体を貫いた。

 いや、実際は何も起こってなどいない。
 そう見えただけという幻覚。
 されどその変化は一目瞭然。

 白騎士の身体に充溢する魔力の高鳴り。
 手にした聖剣の輝きもまた曇りなき太陽のそれ。
 先程までの彼は衰弱していたのではないかと疑うほどの力強きオーラ。

 夜陰の黒が支配するこの戦場において、この瞬間、ガウェイン卿だけが太陽の加護を受ける。日の光は彼のもの。灼熱の輝きは星の光を駆逐し焼き尽くす。巡る血潮は熱を宿し、心は鏡面の如く闇を照らす光。

 刮目せよ──あれなるは太陽の具現。
       彼こそが真なる太陽の騎士。

 円卓で最強を誇った騎士をも圧倒した、天道を背負いし者。
 日輪が彼を裏切らぬ限り、其は無敵を謳う魔人なり。

 “聖者の数字”

 ガウェイン卿の特異体質にしてその本領とも言えるスキル。太陽の輝く時間だけ、己の力を三倍まで引き上げるという脅威の能力。
 それを絶対命令権たる令呪の力を用い、強制的に発動させた。本来昼の限られた時間だけしか発動しないスキルを、夜が戦場である冬木の聖杯戦争とは相容れぬスキルを、令呪の強制力は可能にして見せた。

 ……やってくれる。

 切嗣は内心で臍を噛む。その令呪の使い方は予測が出来た。遠坂が“ガウェインを狙って召喚した”のだとすれば、それ以外に令呪の使い道はないと。
 読みが外れたのはこの緒戦でカードを切った事。令呪はたった三度しか使えないジョーカーだ。ここぞという時にこそ切るべきカードであり、こんな見せ付けるように切るべき札ではない。

 最初からあった違和感。
 消えない余裕。
 その正体が見通せぬまま、戦闘は再開される。

「では第二幕と行こう。ガウェイン、君の真価を見せてくれ」

「御意」

「────っ……!」

 ガウェインが答えると同時に地を蹴った瞬間、セイバーもまた同様に地を蹴り上げた。ただしその方向が真逆。敵を刈り取る為に前へと跳んだ白騎士とは逆に、セイバーはただ逃げを打つように後方に跳んだ。

 セイバーの全開の踏み込みをも凌駕する加速。直後、振るわれる剣閃。音をすら置き去りにする峻烈なる横一文字。その一撃は辛くも空を切るが、剣圧が翻ったセイバーのドレスの裾を捉える。

 バターのように切り裂かれ風に舞う一枚の布切れ。それが判断を誤っていた場合のセイバーの姿。己の直感を信じ全力での回避を行っていなければ、ああなっていたのはセイバー自身だ。

「くっ……はぁ──!」

 踏み込みの速度が既に違いすぎる。今の白騎士の加速はサーヴァント一を謳うランサーにすら匹敵する。
 太陽を背負うガウェインを相手に逃げに回るのは悪手。今の一幕は初撃だからこそ許されたもの。このまま引き続ければ時を待たずして追い詰められる。

 雷光の速度でそう判断を下した騎士王は大地を全力で蹴り上げる。
 過重に掛けられた魔力放出のブーストも相まって、公園に敷き詰められたタイルはいとも容易く砕け散った。

 神速の踏み込みからの全力での一撃。
 大木すら薙ぎ払う容赦のない一閃──それを、

「はっ──!」

 ガウェインは容易く弾き、体勢を崩したセイバーに返す刀で致命を狙う。

「ぐっ……!」

 刹那をすら置き去りにする速度で迫る青刃。伸ばした足先が地を掴むと同時に最大威力での魔力放出。硬直をすら無視しての強制的な捻転。魔力放出という名の外付けのロケットエンジンで自身の身体を捻らせ、間一髪で回避する。

 ギチギチと軋む体。ぐるぐると回る視界。真横を擦過する熱線の如き刃。触れた髪先が焼け付いたように音を上げる。
 一撃躱したところで次の瞬間にはもう横合いから次撃が迫る。だが二度その全力の打ち込みを見た。対応出来ないほどの速度ではない……!

 風を巻き上げ振るう不可視の刃。
 ガィン、という音と共に今度こそ太陽の輝きを凌ぎ切る。

 太陽の熱を纏う白騎士と青白き魔力の波動を放つ騎士の王。熱線を帯びた剣と逆巻く風を纏う剣が鎬を削る。

 類稀なる直感は、彼女に勝利への道筋を照らし出す。如何に能力を倍加させようとも、何度となく見てきた剣筋だ。ただ速く重いだけの打ち込みならば、対処は難しくとも不可能という領域ではない。

 戦場となった海浜公園を所狭しと走る影。軌跡は既に目視に耐えず、移動による余波、剣と剣とのぶつかり合いによる衝撃、高まる太陽と魔力の波動が並び立つ木々を軋ませ、街灯のランプをすら割り砕く。

 両者は拮抗しているように見えるが、その実押しているのはガウェインだ。セイバーの表情には先程まではなかった陰りが見え、頬を滑るのは一筋の雫。
 対するガウェインは涼やかな面持ちを崩す事なく、精悍な眼差しもまた揺らぐ事なくセイバーを捉えている。

 セイバーの面貌に宿るのは焦燥だ。これまで何度も繰り返した衝突の中で、その内の幾度かは確実に肉体を捉えた。上手く芯をずらされ直撃とまではいかなかったが、鎧への打ち込みは成功している。

 しかしガウェインの鎧には太陽の加護を得てからの傷はない。無数に刻まれた裂傷は全てその以前に付けられたものであり、セイバーの剣は一度としてダメージを与えるに至っていなかった。

 ガウェインに刻まれた聖者の数字。その本領は筋力や敏捷の上昇もさることながら、この鉄壁の防御能力にこそある。
 彼の身体を覆う熱はありとあらゆる外部からの衝撃を遮断し、触れる全てのものを弾き返す。

 攻撃によるダメージを気にする必要がなければ意識の大半を攻め手へと回せる。多少の被弾を無視して相手の懐へと切り込める。
 事実セイバーはそのようなガウェインの動きによって身体に傷を負わされている。直感に物言わせた回避で致命傷こそ避けているが、このまま続ければじり貧は明らかだ。

 聖者の数字の効果時間は約三時間。太陽が出ている時と効力が同じであるのなら、この騎士に傷を負わせる為にはそれだけの時間耐えるか、防御を上回るだけの一撃を繰り出すほかに手立てはない。

 ……この猛攻を凌ぎながら、三時間耐える……?

 ものの十分足らずで既に何度か手傷を負わされているセイバーにしてみれば、三時間耐え抜くという判断は狂気の沙汰としか思えない。これに耐え抜いたという彼の湖の騎士は、別格という他あるまい。

 ──太陽の加護を得たガウェイン卿が、よもやこれ程とは……!

 目にするのと実際に剣を交えるのではその余りの違いに目眩を覚える。一瞬でも気を抜けば首と胴が死に別れ、一つ判断を誤れば腕の一本を容易に失う。

 動きの先を読んですら対応する加速。極大の重みを載せた一撃とて無造作に弾かれる。剣士としては愚直すぎる白騎士の太刀筋も、全てを圧殺して余りある威力を伴うのならそこに技量の入り込む余地がない。

 それ程に圧倒的。付け入る隙は見当たらない。完成された精神性がその強さにより拍車を掛けている。揺らぐ事のない鋼鉄の意志力。胸に誓った忠義、誇りを頼りに騎士は剣を振るう。
 瞳に宿る炎は力強く。セイバーの一挙手一投足を捉えて離さず、それ故に逃れる事さえ叶わない。

 ……不味いな。

 戦場を俯瞰する切嗣は冷静に判断を下す。セイバーの実力は相当だ。並み居るサーヴァントを相手にしても後手に回るような事態は余程の事がなければ起こりえない。
 最悪なのはその『余程』が真っ先に姿を見せた事。今のガウェインを真っ向から倒すにはセイバーでは不足。最優を誇る英霊ですら不足と言わせるほどに、太陽の騎士は圧倒的に過ぎる。

 もはや自身の目論見など二の次だ。英霊の半身たる宝具に訴え勝負に出るか、逃げを打つか。あるいは奥の手を曝け出すか。

 その選択を迫られた時────

『────……ッ!?』

 その場に居合わせた全員がその異常を察知する。

 オォン、とノイズめいた音が耳朶を貫く。金属に爪を立てたような不協和音。肌を駆け抜ける悪寒。心臓を鷲掴みにされたような不快感。
 全ては目に見えるほどの殺意と敵意の具現。全身を貫き、絡み付く凶気の波動。

 その明らかな異常を感じた瞬間、騎士王も白騎士も共に退き、己が主を庇い立ち、視線を真横を流れる未遠川へと向けた。

 そこにあったのは川面に浮かぶ闇。
 夜の黒を塗り潰すほどの闇色。
 立ち昇るように揺らめく漆黒のオーラは目視出来る憎悪のカタチ。
 深き怨念と暗き憎しみが生んだ凶気にして狂気。

 その闇の向こうに赤く灯る光を見る。
 爛々と輝く、血のように赤い瞳を。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!!!」

 此処にもう一つの運命が交錯する。

 星の光を絡め取る鎖。
 逃げ場のない牢獄。
 過ぎ去った筈の彼方より来る凶獣が、その産声を上げた。


/7


「くくく……くはっ……」

 深い、緑色をした闇の中。足元を流れる汚泥と粘ついた臭気に晒されながら、間桐雁夜は独り嗤う。
 新都の地下を流れる下水道。人の寄り付かぬ暗闇の中で嗤う雁夜は右手で半面を押さえていた。

 別段傷があるわけでも苦痛が伴うわけでもない。閉じた右目が見ているものは目の前にある腐臭に満ちた空間ではなく、遥か上空──地上の光景。
 海浜公園近くの雑木林の中に潜ませた使い魔の眼を借り、雁夜は今宵戦端を切られた緒戦を観戦していた。

「ははは……まさか、こんな展開があるとはな……」

 狂気じみた笑みを浮かべながら、それでも雁夜の芯は冷静だった。彼にとっての怨敵であり宿敵……遠坂時臣の姿を目視してなお激情に駆られ無為に動く事はしなかった。

 あの男が戦場に姿を見せた事は正直予想外だった。臓硯の話によれば遠坂からのマスターは娘の凛であると通達が出されていた筈だ。それが何を思って時臣が緒戦から姿を現し、あまつさえサーヴァントを従えているのか。

「あぁ……そんなこと、俺にとってはどうでもいい。奴が俺の敵として姿を見せた……その事実さえあれば、他に何もいらない」

 遠坂の現当主とはいえ、マスターでもない男を戦場に引っ張り出すのは苦労がいる。何事にも慎重なあの男ならば尚更だ。
 胸に抱いた憎悪の矛先を向けるべき敵がいない空虚をどう穴埋めするかと煩悶としていたその時に、時臣は戦場に姿を見せた。

 サーヴァントを従えたマスターとして。聖杯を目指すのならば何の躊躇もなく斃す事の出来る敵として。
 その興奮。その高揚。十年の間鬱積していた想いの丈が爆発してしまっても誰も咎める事は出来はしない。

 ともすれば自ら戦地に赴いて罵詈雑言と共に一矢報いる事さえ脳裏を過ぎった雁夜だったが、足は今なお戦地に向かう事なく、己がサーヴァントをも差し向けてはいなかった。下水の匂いの中で、ただ只管に観戦に務めた。

 脳と胸の中を目まぐるしく駆け回る黒い奔流。サーヴァントを召喚して以来、身を苛む憎しみの闇。狂気を形にしたかのようなサーヴァントに引き摺られかねない心を必死に抑制し耐えている。

 それは真っ白なキャンパスの上にバケツで黒いペンキをぶちまけられるようなもの。自分自身というキャンパスを違う何かが犯していく恐怖は筆舌に尽くし難い。
 常人ならば即座に発狂し、人としての形すら失くした廃人となってもおかしくないほどの怨恨と怨念に晒されてなお、雁夜は自我を保ち続けている。冷静に戦局を分析し時を計っている。

 ────全ては間桐桜を救う為。

 この心は黒き憎悪に塗り潰されてなお、その誓いを覚えている。

 ただ暴れ回るだけは彼女を救えない。遍く全てを凌駕する暴力を欲しはしたが、その力に飲まれてしまっては立ち行かないと理解している。
 感情の赴くままに暴れ狂った先に待つのは何一つの残滓さえ存在しない無残な自滅。そんな結末が欲しくて、この十年を耐え抜いたわけじゃない。

 欲しいのはたった一つ──あの子の心からの笑顔だけ。その願いだけを頼りに暗闇の荒野を歩いてきた。今更もう一度無明の闇に自分から落ちていく無様なんて許されない。向かうべき場所は陽の光の当たる場所であるべきだ。

 ただそれでも、この胸に渦巻く憎悪の奔流は全てを投げ出し、全てを破壊し尽くしたい衝動に駆られるほどに凶悪で強烈だった。不幸中の幸いであったのは、雁夜の胸に宿す憎悪は自分自身の闇をも孕んでいた事。

 後から侵入してきた黒色に塗り潰されながら、それでも己の形を見失ってはいない。それは十年の研鑽が身を結んだ賜物。蟲蔵の底で万をも超える蟲に体を嬲られ蹂躙された時を思えば、この程度の闇に心犯される事など有り得ない。

 何より想いは同じなのだ。心に宿す復讐の想念。湧き出るほどの呪詛の言葉。誰何へと向けられた殺意の波動。心を染める黒と黒は螺旋を描き、相克してより強い憎悪を生む。黒くて黒い、闇の憎悪を。
 生まれた憎悪を食らい身体中の蟲がギチギチと戦慄く。間桐の血から生まれた刻印蟲はそんな醜悪な感情をこそ好む。蟲は魔力を精製し、魔力は身体中を巡り、やがて憎悪の糧となる。

 それは無限に循環する円環。
 終わる事のない疾走。
 憎悪という名の闇が枯れ果てぬ限り、際限なく魔力を湧き出す血の泉。

『…………、…………、…………!!』

 内なる獣が声なき声で哭く。地上に輝く二つの光を憎悪し、自らを縛りつける鎖と疾走を阻む牢獄を喰い破らんと暴れ回る。
 血管の中を這いずる蟲が奪われていく魔力の高に絶叫し絶命する。すぐさま別の蟲が新たな子を産み落としその代替とする。

 雁夜の口元を流れる一筋の血。されど浮かぶは消えない笑み。

「あぁ……そろそろいいだろう。奴らに関して得られる情報は得た。後はおまえがその力を俺に示せバーサーカー。
 天に輝く星を落とし、地上に引き摺り降ろして這い蹲らせろ。貴様らの陰で消えた星の名を、今一度思い出すといい……!」



+++


 川面に佇む闇の形。夜を塗り潰す漆黒。突如として姿を現した不可思議な存在に、その場の誰もが目を奪われた。

「なんだ、あれは……?」

 セイバーは呟き目を細める。目を凝らしてなお茫洋として形の掴めない闇。漂う靄のようなものが姿形を霞ませている。焦点があっていないのか、二重三重にぶれて見えることさえある。
 唯一明確に見えるのは、闇の奥で輝く赤色だけ。それが瞳である事は、居合わせた誰もが理解していた。

「サーヴァントか……一体誰の差し金やら」

 嘆息と共に時臣は息を吐き出す。当然だ、今このタイミングでサーヴァントをけしかける理由が分からない。
 少なくともガウェインとセイバーの戦いを盗み見ていたのならそんな馬鹿げた行為をしようとは思うまい。

 如何に正攻法を得手とするサーヴァントを引き当てようとも、この両者の間に割り込ませるのは余りにも分が悪すぎる上に己が晒さねばならない札もまた多くなると気付く筈だ。大局を見る目があれば静観こそが常套、その上で対策を練るべきだ。

 現場にありながらそう客観的に分析出来る時臣だからこそ理解には至らない。このサーヴァントを差し向けた輩の真意が。
 想像出来るのは彼我の実力差を量れもしない無能か、強力な英霊を引き当て図に乗っている愚か者か、あるいは……。

「…………」

 万が一の可能性を考慮し時臣は警戒を緩めない。未だ動きを見せない魔術師殺しに対してもそうだが、今ほど現われた闇がもし何らかの意図をもって放たれたのだとしたら。時臣の想定を上回る“何か”を持っているのだとしたら。

「……もう一手、必要になるかもな」

 その呟きは誰に届く事もなく風に消え。赤いピアスだけが揺れていた。

 カタチのない闇。正体不明のサーヴァント。カチカチと震える、恐らくは金属が触れ合う音がするだけで、闇色のサーヴァントは一言も発さない。このまま睨み合う事に意味もないと思ったのか、ガウェインが静かな口調で問い質す。

「主に成り代り問いましょう。貴公は如何なる意をもってこの場に姿を見せたのか。開く口があるのなら答えて欲しい」

 その言葉に、闇はスリットの奥の瞳を揺らしてガウェインを見る。白き甲冑とそれを上回る輝きを纏う太陽の騎士を。

「Ga……」

 闇の手元にはいつの間にか得物が握られている。見る限り然して高位な剣とも思えぬ無骨な造り。異常があるとすれば剣は持ち主同様の黒色に覆われ、その上を無数に走る血管じみた赤色に染まっている事。

 ギチギチと唸る闇は、まるで獲物を見つけた猛禽のような鋭さで、川面を蹴って走り出した。

「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」

 夜を引き裂く大音量。声にもならぬ金切り音を叫びながら、闇色のサーヴァントは疾走する。その速度はセイバーとガウェインにも劣らぬほど速く。抜き放たれた黒い剣は夜を斬り裂き迫り来る。

 迎え撃つガウェインは相も変らぬ涼やかな面持ちを崩さず、手にした聖剣を力強く握り締める。

「Aa……!!」

「はっ……!」

 青白き聖剣と黒の剣とが激突する。その余波は風を巻き起こし、一帯を薙ぎ払う。

 続け様に放たれる黒の連撃。凶悪なまでの重さと速さで繰り出される斬撃を、太陽の加護を未だ得たままのガウェインは、常人には視認すら難しい刃の嵐を、足を止めたまま凌ぎ切る。

「…………」

 闖入者の登場で蚊帳の外に置かれたセイバーは、警戒を緩めぬままに二人の戦場を傍観する。
 何故あの闇がセイバーではなくガウェインを狙ったのか、声を掛けたのがその理由なのかは不明だが、素性のまるで分からない敵手を観察出来る機会を得られたのは大きい。

 ガウェインに削られた傷も自動修復によって程なく治癒を終える。それまでは輪の外側にいる事も必要だ。獣のように敵に向かうだけが能ではない。戦う相手を知らねば勝てる戦も勝てないのだから。

 無尽に舞う刃の風。白と黒の騎士は先のセイバーとの剣戟にも劣らぬ勢いで共に鎬を削り合う。
 聖剣と称されるほどの名剣と打ち合う無骨な剣。並みの剣ならば一閃で芯を折られる筈だが、黒の剣は真正面から劣らぬ程の剣戟を繰り返す。太陽の熱をも遮る闇の刃。だかその異常を上回るのは漆黒の騎士の剣の冴え。

 聖者の数字を発動したガウェインに拮抗出来る英霊などそうはいない。土俵が違うのなら話は別だが、この漆黒もまた近接戦闘を得手とする者。ならばその名は歴史に深く刻まれている事だろう。

 ただしその正体を解き明かす事は誰も出来ない。時臣も切嗣も、どれだけ敵を睨みつけようとも漆黒の騎士のステータスを把握出来ないのだ。
 辛うじて見えるのはクラス名────“狂乱の座(バーサーカー)”という事だけであり、宝具はおろかスキル、パラメーターの一切を見る事が叶わなかった。

 数値は見えずとも現実に暴れ狂うものは見えている。太陽を背負うガウェインと真っ向から対峙出来る程の強者。ただそこに生まれた微かな異変に真っ先に気付いたのは、彼と剣を結んだセイバーだった。

「ガウェイン卿……?」

 セイバーと乱撃を交わしてなお一筋の汗さえも流さなかった男が、狂気に囚われた漆黒を相手にする今、確かに苦悶の色を浮かべていた。

 漆黒の騎士は確かに強い。狂気に犯されているとは思えぬほどの達者さで剣を振るい、先を読み、わざと隙を作り攻め手を限定までしている。
 ただ暴威を狂わせるのではなく、剣の一太刀に意味がある。繰り出される剣戟の全ては必死の一撃にして次の手への布石。流れるように美しく、見惚れてしまえば首を刹那に刎ねられかねない清淑の舞。

 本来バーサーカーという存在は限りない暴力を得る為のクラスだ。若輩の英雄を狂化によって、時には大英雄クラスにまで引き上げ強めるもの。その代償としてマスターからは多量の魔力を。サーヴァントからは理性奪い、それに伴い技量をさえ喪失する。

 だがこの漆黒は狂化してなお失うべき技量を維持している。言語こそ消失しているようだが、それは本来有り得ない筈の現象。極大の暴威と類稀な技術を併せ持つ──それがどれほどの異常かは事実目の前で行われている剣舞がその証左だ。

 それでも聖者の数字を刻んだガウェインならば、押し負けるどころか拮抗を自ら崩してさえ押し切る事が可能な筈だ。それ程に太陽の加護は桁違いの能力であり、彼自身の元より高いステータス値をより強力なものとしている。

 ならば目の前にある現実は何なのか。

「ア…………ァァア……ッ!」

「くっ……!」

 澱みのない剣尖は怜悧で、疾風をすら超える速度で穿たれる。セイバーの斬撃に匹敵、時には上回りかねないその一撃とて、太陽の騎士ならば無造作に防ぐ事も可能な筈。
 しかし今の彼は必死で凌いでいる。凌がなければ、致命の一撃を被るとでも言うかのように。

 その一幕を切り取るだけでも見て取れよう。押しているはバーサーカーであり、押されているのはガウェインだ。傷こそ受けていないものの、一方的なまでに攻め手を封じられ防御せざるを得なくなっている。

 合間を縫って繰り出す太刀の全てが水を切るように受け流し回避され、けたたましい数の斬撃を浴びるほどに受けさせられる。剣を切り結べば切り結ぶ程に白騎士の顔に宿る焦燥は増し、手にする聖剣の冴えが鈍っていく。

 輝ける太陽が、その熱を夜に奪われるように。

「なにをしているガウェイン……! 幾ら相手の得体が知れぬからと言って、君が遅れを取るような相手ではないだろう……!」

 遅れてガウェインの異常に気付いた時臣の叱責が飛ぶ。

「ぐっ……はぁ──!」

 それでもガウェインは押し返せない。剣先の乱れた一閃は敵を捉える事叶わず、返す刀で迫る黒刃をどうにか防ぎ切るだけ。先程までの力強さは見る影もなく、王の片腕と称された男とはとてもではないが思えぬほどの凋落。

 夜に輝く日輪は、深き闇に覆われその煌きを曇らせる。

「…………」

 なんだ、一体何が起きている……?

 セイバーをも圧倒したガウェインがこれほどに一方的に攻め立てられる事になるとは予想だにしなかった。更にはその原因が不明となれば尚更だ。

「……分が悪い、か」

 この夜の一幕はまだ緒戦。戦力確認を含めた互いの顔合わせに過ぎない。この一戦で敵を討ち取れるとは思っていなかったし、討ち取るつもりも毛頭なかった。
 こちらが必殺を期せば相手もまた必殺をもって応えるのは道理。それは余りにリスクが高く、こんなところで及んでいい事態ではない。

 ガウェインの戦力は充分に把握が出来た。彼に起きている異常についても後々問い質せばいい。まずはこの場を一旦退く。そう決めた時臣に────

 ────これまで沈黙を貫いていた、魔術師殺しが牙を剥く。

 誰もが白騎士と漆黒の騎士の戦いとその異常性に目を奪われていた裏で、衛宮切嗣は一人隙を窺っていた。これまで決して切嗣から目を離さず、警戒の網を張り続けていた時臣が気を逸らす瞬間を。

 セイバーを圧倒したガウェインを上回る存在に気を取られたその一瞬──夜陰に紛れるように身を低くし、最速でもって射程圏内へと駆け出していた。

「……っ!」

 時臣が気付く。手にした杖に象眼されたルビーが煌く。だが遅い。既に切嗣は魔銃を抜き放ち、その顎門を向け射線に捉えている。
 指先に掛かる引き鉄。後はそれを絞れば必滅の魔弾が繰り出される────

「……ダメですっ、マスター……!」

 引き鉄を引き絞るその直前、セイバーは遥か頭上──対岸に聳える摩天楼の頂点に輝いた赤い光を見咎めた。夜に煌く人工の明かりなどではない、目視した瞬間に背筋を凍らせるほど凶悪な魔力の高鳴り。
 それを視認出来たのはセイバーだけがこの場で唯一全てを俯瞰出来る立場にあったからであり、反応出来たのは彼女が最優のサーヴァントであったからに他ならない。

 夜を劈く金切り音。
 闇を引き裂く箒星。
 地上へと墜落する、遥か彼方より降る赤き流星。

 キロメートル単位を優に超える超遠距離からの狙撃。音をすら置き去りにする超音速で放たれた“矢”を、セイバーは必死のスタートダッシュから瞬時に最高速へと至り、そのまま全速力で駆け、マスター目掛けて降り注いだ凶星を間一髪で迎撃する。

「……ッ!」

 手に伝わる衝撃を噛み殺す声は響き渡る轟音に上書きされ、剣と矢との衝突は大気をも震わせ、白と黒の騎士の戦場を風嵐が荒らし猛り狂う。余りの余波に両者も剣を止め、共に天を仰ぐ。

 咄嗟の事で不十分な体勢での迎撃を余儀なくされたセイバーでは、余りある威力と勢いを完全には殺し切れず、剣で逸らす事が精一杯。
 風王結界を削りなお速度を落とさぬまますぐ傍を擦過して行った矢は、その捻れ狂う竜巻めいた余波で彼女に明確な傷を刻み込む。

「ぐっ……マスターっ!」

 不意の一撃により脇腹を抉られた格好のセイバーは、それでも状況を見誤ってはいなかった。
 壊滅的な威力を秘め、放たれた一矢。それだけ射手はこの一撃に魔力を注ぎ、一瞬の好機を窺っていた。次弾があったとしても、これだけの威力をもう一度込めるには相応の時間が必要。

 敵は“弓の英霊(アーチャー)”。見咎めた姿は遥か彼方。この距離は弓兵の間合いであり、剣士でしかないセイバーには為す術がない。時を置けば次弾が放たれるだろう。認識した以上撃ち落とすつもりではあるが、痛手を負った状態では防ぎ切れない可能性がある。
 遠隔攻撃を得手とする弓兵を相手に射手の間合いで戦う不利は、戦場に慣れている切嗣も良く知っている。

「……退くぞ」

 決断は一瞬、指示もまた簡潔。右手に引き鉄を終ぞ引けなかったコンテンダーを携えたまま、切嗣は左手でコートの裾より発煙筒を取り出しピンを引き抜き放り投げた。一瞬にして煙は辺りに充満し、誰もの視界を閉ざす。

「ガウェイン……!」

 時臣にとってもこれは好機。このまま漆黒の騎士と対峙し続ける意味はない。この場は一旦退き態勢を整える。いつ次弾が来るかも分からぬ現状で白煙に乗じて時臣を害そうと考えるほど魔術師殺しは愚かではない。

 戦場を白煙が覆った時点で既に離脱している筈。こちらも深追いする気は欠片もない。アインツベルンに遅れる形で時臣もまた離脱しようとしたが──

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……!!」

 吼え狂う凶獣はそんなもの一切お構いなしとばかりに白靄の中で剣を振るう。射手を見たのは僅か一瞬、弓兵を敵ではないと見て取ったか、あるいは別の何かか。理由が不明ながら漆黒の騎士はまたしても白騎士に刃を向ける。

 弾け飛ぶ火花。裂帛の一撃を辛うじて受け止める聖剣。未だ視界を奪われているというのに、どういうわけか獣は完璧にガウェインの位置を把握している。
 もしここで白騎士が先に霊体化を果たせば次に狙われるのは時臣だ。故にガウェインは向けられる剣に応えるしかなく。

「チィ……凛……ッ!」

 正調の魔術師はこの場にいない少女の名を叫ぶ。
 刹那、再度降る赤い星。

 先の凶弾に比べれば幾らも格を落とす威力ではあったが、如何にサーヴァントとはいえ無防備に喰らえばただでは済まない威力が秘められた矢が再び夜を貫く。今度は、バーサーカーに向けて。

「ァア──!」

 白煙ごと飛来する凶弾を切り裂く黒刃。激突は一瞬、セイバーのように逸らすのではなく完璧に迎撃し無力化する。
 一瞬とはいえバーサーカーの意識が逸れた以上、時臣らの撤退を阻むものは何もない。

 矢を撃墜し凶獣が振り返ったところには既に人影はない。切り裂かれた白煙が晴れた後に残ったのは、戦闘の爪痕と行き場を失くした憎悪を迸らせる漆黒の騎士のみ。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!」

 遠吠えにも似た咆哮。それは一体何に向けたものなのか。誰も知る者はなく、此処に一つの戦闘が終わりを告げた。



+++


 新都の中心に聳えるこの街で最も背の高い建造物──センタービル。その屋上、地上よりもなお強い風が吹き荒ぶ天と地の狭間に、一組の主従の姿があった。

 黒の髪を左右に結わえた少女……遠坂凛。彼女の瞳は冬の風にも劣らぬ冷徹さで眼下を見据え、対岸にある公園で行われていた戦闘の一部始終を把握していた。

 彼女の傍らには赤い外套を羽織った銀髪の弓兵。左手には光沢のまるでない黒塗りの弓を持ち、今し方矢を放ったのか、右手には何も握られないままの矢を放った姿勢で硬直していた。

「ふむ……どうやら君の父君は無事戦場を離れられたようだな」

 言葉と共に弓を下ろす。黒塗りの弓は夜の闇に溶けるようにして消えていった。

「そう」

 少女の返答は無機質だった。声に感情はなく、音には色がない。まるで自らの不始末を恥じているかのように、この赤い従者を招いてからの彼女はより心を冷ややかなものとしていた。

 それも当然、彼女にとっても誤算の連続。本来彼女が招来しようとしたサーヴァントは父が収集した触媒の中でも選りすぐりの一つを用いた黄金の君。遍く英霊の頂点に位置する王者である筈だった。

 召喚には一切の不備はなく、粗さえも見当たらなかった。完璧と呼んで相違ない入念な準備の上、父の期待を背負い行った召喚は、意中のサーヴァントを引き当てることが出来なかった。

 今、傍らに立つ弓兵は彼女──遠坂凛の喚び出そうとした黄金とは異なる者。

 何が原因でこの赤き弓兵が招かれたのかは分からない。何故黄金の君が凛の呼び声に応えなかったのかは永遠の闇に葬られたまま。
 凛は己の喚び出したサーヴァントと共に十年遅れの聖杯戦争を勝ち抜かなければならなくなった。

 予めこのセンタービルの屋上に陣取っていたのは彼女もまた己のサーヴァントの力量を把握する為だ。
 太陽の騎士を補佐に、最強を誇る黄金の君が全てを駆逐する策謀は彼女の失態によって無為に落ちた。父は落胆こそしたが、それでも現状考え得る最善手を実行する為に自ら戦地へと赴いた。

 その背を支える為の配置。騎士の戦場からは遠く離れた弓兵にだけ許された独壇場。その場にて戦力を確認するのが彼女の今宵の役目。
 父の落胆を払拭し、アーチャーの実力を確かめる為の試運転。自身の名を思い出せないなどと嘯く英霊崩れにせめて力量を披露させようという凛の思惑だった。

 遠く公園での戦闘も終了し、その場へと横槍を入れる形になったが、凛にとって見ればアーチャーの狙撃能力は良い意味で予想外のものと言えた。センタービルから対岸の海浜公園までは優に四キロメートルを越える距離がある。

 時間を掛け魔力を込め、照準を狂いなく合わせるだけの優位と猶予があったとはいえ、それだけの超遠距離でありながら、針の穴をも通す精確さでセイバーのマスターだけを射抜く一射を放って見せた。

 結果だけを見れば捕捉した標的を撃ち抜けず、最優の剣士に阻まれはしたものの、相応の痛手を与える事には成功した。
 何よりセイバーを相手にダメージを与えられたという事実は大きい。素性の不明なサーヴァントにしては上々とも言える結果だ。

 記憶がないと憚っておきながら、宝具にも匹敵する威力の矢を惜しみもなく使いこなした事に不信感も増しているが、アーチャーが使える駒である事は間違いない。ガウェインとの連携をより綿密に行えれば、脅威の戦力になるだろう。

「凛、今夜の戦闘はこれで終わりだ、我々もこの場を離れよう。留まり続ければあの狂犬はこちらまで襲って来かねん」

 誰もいなくなった海浜公園の中心で吼え狂う黒き騎士。バーサーカーであるが故の制御不能状態なのだろうが、流石にここまで追ってくるとは思えない。が、万が一がないとも限らない。

 わざわざ敵が消えるのを待ってから離脱する必要もない。アーチャーの戦力を確認し、時臣の背を援護するという目的をも果たし、父もまた戦場を去った以上この場所に長居する理由もまた、ない。

 弓兵にとって懐は射程外だ。その距離まで詰め寄られた時点で詰んでしまう。この赤い騎士を効率良く運用しようというのなら、それなりの策を練るべきだ。幸いにして近づけさせない為の壁はある。一度屋敷に戻って父と話をしておくべきだ。

「分かったわアーチャー、一旦戻りましょう」

 言って、凛は屋上の縁へと足を掛けそのまま戸惑いもなく空中へと躍り出る。身を攫う強風の只中へ、地上二百メートル近い高さからの無謀なまでの落下。余人が見れば自殺としか受け取れない墜落。

 しかし魔術師にとってこの程度の高さなど大したものでもない。質量操作、重力軽減、気流制御。幾らでも着地の衝撃を減らし、命の危険をゼロにする手段はある。
 今回の墜落に限っては凛はそのどの魔術も使用せず、アーチャーに全てを預けた。共に夜に飛び込んだ赤い弓兵は少女を支えるように傍らに侍り、言われるまでもなく着地時のアシストを行うつもりでいた。

「…………」

 地上と空の狭間。星の光の届かない宙(ソラ)で着地までの数秒にも満たない時間、人がその死の間際に見るという走馬灯のように刹那を永遠に偽装して夢を見る。

 唯一つの願い。

 世界の果てに至って絶望を味わった男の荒唐無稽な願いはこの世界では果たされない。目的とした場所とは余りにかけ離れた場所。近くて遠い鏡の世界。胸に抱いた希望は、傍らの少女と出会った瞬間に瓦解した。

 磨耗した心に響いた少女の名前。雷光の速度で全てを思い出した後、その違和感と差異に気付き言葉を失った。顔には出さず態度にすら見せなかったが、内心は嵐のように渦巻いてメチャクチャだった。

 冷徹な魔女。血の通わない魔術師。それは男の知る少女ではない。そう振舞いながら、心の芯に人としての情を宿していた少女はいないのだ。

 胸に芽吹いた希望を一瞬で覆い尽くす絶望。神さまがもし本当にいるのなら、余りにも酷いその仕打ち。
 万分の一に満たない確率に賭けた祈りは果たされず、寄る辺となる少女は最早別人。あまつさえ先程対峙した敵は、この男にとってもっとも縁の深い二人。

 皮肉という言葉では済まされない。たった一つ胸に抱いたこの祈りは、こんな仕打ちで返されなければならないほどに悪辣で傲慢だとでも言うのだろうか。これまでの生き方を、否定する事さえ許されないというのか。

 この何もかもが違ってしまった世界で。
 この己は、一体何の為に剣を振るうというのか。
 誰の為に剣を握るべきなのか。

 ……今はまだ答えは出せない。
 ならば自身に課された役目を全うする事こそが目先の目的。

 それでも。
 こんな世界でも、もし己に成せるものがあるとするのなら……。

 赤い主従は夜の闇の中に姿を消す。
 それぞれの思惑もまた闇の中に消え、今はただ深海に沈んだ街と同じく、深く深く沈んでいった。


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