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北欧のとある地方。
一年を通して雪に閉ざされたままの極寒の森。根雪は何処までも地平を白く染め上げ、居並ぶ針葉樹は降り注ぐ僅かな陽光をすら遮り影を作り出す。
冬のこの季節ともなれば連日連夜の猛吹雪が森を覆い尽くし、人の踏み入る事の叶わぬ魔境へと変貌する。
そんな人里離れた森の奥に存在するのは一つの城。中世よりその姿を保ち続けた古城。それは千年余りの歴史と燃え滾る妄執が渦巻く狂信者の住まう塔だった。
その城からは少し離れた森の中。年に数回とない珍しくも晴れた空の下。淡い光の中に粉雪が舞い散る幻想的な一幕。一人の少女が雪の妖精のように、真白の髪を風に躍らせながら軽やかにステップを踏んでいた。
「キリツグー、何しているのー? おそいよー!」
少女は後方の人影に向けてひらひらと手を振り、振られた方の男は苦笑を浮かべ小走りに少女に駆け寄った。
「イリヤは元気だなぁ。僕はもう年かな、イリヤについて行くのがかなり辛いよ」
「またそんなこと言って。本当はぴんぴんしてるくせに年のせいにしてごまかそうたってそうはいかないんだからっ!」
「おいおい心外だな。僕が何を誤魔化そうとしてるって?」
「キリツグは外でこうして遊ぶより、お城の中でぐうたらしてる方が好きなんでしょ」
「う……まあ、否定はしないが。それでも偶に晴れた日くらいは、イリヤの我が侭にも付き合うさ」
「わがままなんて言ってないもーん!」
はしゃぐ少女と嗜める男。
少女の名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンと言い、男──衛宮切嗣の娘だった。姓が違うのは切嗣が婿養子のようなものであるからだ。
「もう。こうして一緒に遊べる機会はもう当分ないかもしれないんでしょ。だから今日はいっぱいいーっぱい遊ぶんだから!」
「ああ、望むところだ。今日は遊び倒して、明日は一日筋肉痛でベッドの上を覚悟しておくよ」
「だいじょうぶだよキリツグ。私がちゃんとマッサージしてあげるから。じゃ、とりあえずあの一本杉まで競争ね! よーいどーんっ!」
苦笑いと共に走り出した少女を追いかける。
この少女と……実の娘とただ親子としていられる最後の一時。だから切嗣は娘に何処までも付き合う覚悟をして、冬の森の中を走り出した。
+++
衛宮切嗣とアインツベルンの関係を端的に表すとすれば、それは契約である。
アインツベルンの千年の妄執の結末──聖杯の成就による第三魔法の顕現。これまで三度行われた聖杯を巡る闘争の全てで敗北を喫した彼らは、千年の純潔を捨て去り部外の人間を招き入れた。
それは誇りに泥を塗り込むようなものだ。魔術師としてのプライドを金繰りに捨てるにも等しい行い。自らだけの力では聖杯を勝ち取れないと悟り、彼らの持ち得ない戦闘能力に秀でた魔術師を迎え入れた。
彼らの聖杯へと賭ける情熱。行き過ぎたきらいのある熱情は、胸に抱く無形の誇りよりも形ある実利をこそ優先した。そうまでして聖杯を欲したのだ。
聖杯戦争の開催が十年遅れても、その熱意に陰りはない。むしろ与えられたモラトリアムを最大限に利用し、磐石の布陣を敷き詰めた。
それは数日前の話だった。
『ようやくマキリの仕掛けた令呪システムの綻びを見つけた。それは綻びというには些細なものであり、むしろわざとそう仕組んであったかのような盲点だったが、それもあの翁を思えば無理からぬ話だ』
アインツベルン城最上階。祭壇と玉座を併せ持ったかのような造りの広大な一室の最奥でアインツベルンの当主たるユーブスタクハイトは切嗣とイリヤスフィールを呼び出しそう話を切り出した。
『しかしこれで我らはまた一つ優位を得ることになる。即ち、一つの陣営からは一人のマスターしか選ばれないという前提を覆し、衛宮切嗣とイリヤスフィールをアインツベルンのマスターに仕立て上げる』
『…………』
祭壇に立つアハト翁を、直立したまま無表情に見つめる切嗣の右手の甲には既に十字架を模した令呪が浮かんでいる。
アインツベルンからのマスターは通常ならば切嗣一人であるのだが、ユーブスタクハイトは長い月日をかけマキリの構築したシステムを紐解いた。そしてその裏を掻いてイリヤスフィールまでをもマスターにする算段だった。
それはまさに外法。反則と呼んでも過言ではない暴挙だ。七人が競い合う闘争においてその内の二人が手を組んでいるとすれば圧倒的な優位に立つ事が出来る。
作戦の幅は広がり、勝利への道を近くする。外法であり反則ではあれど、絶対に勝利と聖杯を掴まねばならないアインツベルンなりに最善を望んだが故の逸脱だ。
『いいえ、アハト翁。その必要はありません』
しかし、切嗣は揺るがぬ意思を瞳に湛えて、拒絶の言葉と共に祭壇に立つ老獪を睨めつけた。
『……それは、どういう意味だ』
『言葉の通りです。僕は単独で全てのマスターとサーヴァントを打倒することが出来る。ならばイリヤスフィールに無意味な負担を負わせる必要はない、そう言っているのです』
『……何故だ? イリヤスフィールは初めから“そのよう”に調整を施してある。聖杯として機能する上での負担も多少はあるだろうが、それも戦いが終盤に差し掛かる頃合だと見ている。
なればそれまでの戦いを円滑に進める為にイリヤスフィールにサーヴァントを喚ばせて状況を有利に進めておくべきだろう』
『それが不要だと言っているのです。イリヤスフィールをマスターに仕立て上げては彼女自身の命をいらぬ危険に晒す羽目になる。アハト翁、貴方は聖杯の守り手であるイリヤスフィールが戦いの途中で命を落とすことになっても良いと?』
『それをさせぬ為のお主であろう。お主は我らアインツベルンの剣であり盾だ。聖杯を勝ち取るのも守り抜くのもその役目に含まれる。よもやこの段になって臆病風に吹かれたなどとは言うまいな?』
『ご冗談を。分かっていないようなのではっきりと言いましょう。僕の戦略を推し進める上で協力者など必要ない。それがたとえ歴代最高のマスター適正を持つイリヤスフィールであってもだ』
言って切嗣は自らの胸に右腕を差し込み、霊媒治療の如く体内より異物を引き抜いた。
それはばらばらに分散し、切嗣の体内に溶け込んでいた聖剣の鞘。目も覚める青と金で彩られた、この世に比するもののない聖剣をその身に収めていた鞘だった。
『無理を言って発掘を願い出たこの聖剣の鞘の加護さえあれば、僕はたとえ相手がサーヴァントであっても遅れを取らない戦いが可能だ。
しかしイリヤスフィールを戦場に立たせ守りを考えなければならないのなら、この鞘は彼女に預けなければならなくなる』
持ち主に脅威の治癒能力を授ける妖精郷よりの贈り物。無論、本来の持ち主との繋がりがなければ完全には起動しないが、聖杯戦争に限ってはそれが可能になる。
この鞘を体内に埋め込み、持ち主をサーヴァントとして喚び出せば、マスターは擬似的な不死を得ることが出来る。
死を恐れることがなければ踏み込めぬ一歩を踏み抜くことが可能になるし、決死の戦場であっても優位に立ち続けることが出来る。
それこそ相手がサーヴァントであっても限界を超えた魔術行使が可能ならば、その頂に指先を掛ける事さえも叶うかもしれない。
それほどにこの鞘は脅威の性能を有している。切嗣の考え出した最大のジョーカー。自らの性能を余すことなく引き出し敵マスターを駆逐する為の切り札。
しかしイリヤスフィールが戦場に立つのなら、この鞘は彼女の守護に回さなければいけなくなる。万が一にも彼女を死なせるわけにはいかない以上、切嗣に選択肢はない。それは切嗣という戦力を半減以下に落とすほどの愚策だ。
見返りとして得られるサーヴァントは確かに魅力的ではあるが、サーヴァントであるが故に敵の警戒も厳しくなる。切嗣というマスターでしかない駒を最大限に活かした戦術よりも上策であるとは、必ずしも言えないのだ。
ユーブスタクハイトにしても、自らが勝負を預けたマスターが不要であると言う以上は無理に食い下がるつもりもない。
彼にしてみれば聖杯さえ手に入ればそれで良いのだ。より優位に戦況を進める為に苦心したものとはいえ、要らぬと言われてしまっては是非もない。
必ず聖杯を掴み取る──その約定さえ果たされるのならば、過程などに興味はない。
そう告げて話を終わらせようとしたアハト翁を遮り、
『ねえキリツグ。私、一緒に戦いたいな』
彼女──イリヤスフィールは、そんな夢物語を謳ったのだった。
+++
真綿のような雪の上を駆け回り、短い昼の時間を精一杯使いきって遊んだ二人は。一際大きな傘のように開いた巨木の足元で身を寄せ合って座っていた。
残照の如く降り注ぐ淡い陽光。冬の森でその温かさに包まれながら、切嗣が呟いた。
「……イリヤ。なんであんなことを言ったんだ」
「あんなことって?」
「アハト翁に呼び出された時のことだよ。僕と一緒に戦いたいだなんて……」
結局あの場はうやむやのままに終わってしまった。切嗣にすればそんな子供の駄々のような我が侭に戦場で付き合う気にはなれないし、イリヤスフィールは嗜める切嗣の言葉の全てを『やだ』で押し切った。
本格的な喧嘩になっても水掛け論にしかならないのは明白で、だから切嗣が一時折れることでこの時まで決断を引き伸ばしたのだ。
「イリヤ。これから僕が臨むのは遊びじゃないんだ。アインツベルンの千年の悲願は……まあ僕個人としてはどうでもいいが、聖杯は絶対に勝ち取らなければならないものなのは間違いない。
他の連中も死に物狂いだろうし、イリヤを守りながら戦うのは難しいんだ」
「それでも私は冬木に渡らないといけないんでしょ? 私が──今回の聖杯の器だから」
彼女の母、アイリスフィールの胎内にいる頃からイリヤスフィールは聖杯として機能するよう調整を施されてきた。
それはアインツベルンとしても試作の段階と考えていたものであったが、この開催の遅延によりイリヤスフィールは正式にその任を負う事になった。
無機物の聖杯では叶わぬ自衛機能を有するホムンクルス型の聖杯。イリヤスフィールの体内に埋め込まれているわけではなく、彼女自身が聖杯そのものなのだ。
アハト翁の言う令呪システムの隙、というのもイリヤスフィールの特性があってこそ可能なものだ。マキリの秘術を完全に解せないアインツベルンは、イリヤスフィールの小聖杯としての機能を利用し令呪を大聖杯より横取りする腹だった。
「ならキリツグはどのみち私を守ることになるんでしょ? だったら私も一緒に戦わせて欲しいの」
「非戦闘員のイリヤとサーヴァントを従えて敵に殺しの対象として定められたイリヤとでは守る難易度が段違いだ。
完全に守りきる為には聖剣の鞘を渡さなければならないし、そうすれば今度は僕の性能が低下する。そうするとよりイリヤを守ることが難しくなるんだ」
「鞘はいらないよ。私は自分のサーヴァントに守ってもらうから」
「そういうわけにもいかないんだ。万が一にもイリヤに死なれては困るんだから」
自分でそう口にして、切嗣は唇を噛み締めた。
どの口がそんなことを言うのだ。最後には犠牲にしなければならない命に、犠牲にすると覚悟した娘に、ただ自分の願いを叶える為にこの手で殺すまでは生きていて欲しいだなんて──
──何処まで偽善者なんだ、僕は……
真綿の雪を強く握り締め、その冷たさが罰のように感じられた。
「だいじょうぶだよ」
その手を包み込む、温かな掌。
視線を傾ければ、そこに輝くのは柔らかな笑み。
「キリツグの願いを知ってるから。それは、どんなことをしてでも叶えなければならない願いなんだよね?」
「……ああ」
自らの娘の命を捧げてでも、叶えなければならない尊い祈り。
「この森で過ごした……私とキリツグと、そしてお母さまとの思い出さえを失くしてしまっても?」
「……ああ」
切嗣の妻でありイリヤスフィールの母であるアイリスフィールは既に亡くなっている。彼女は本来起こる筈だった十年前の戦いに向けて調整を施されたホムンクルス。なればその寿命も当然にして十年前。
戦いによって使い潰される前提で鋳造されたホムンクルスに余計な延命機能を付与するほどアインツベルンは甘くはない。
それでもアイリスフィールは五年を生きた。寿命を超え、機能の限界を超え、愛する夫と子と共にその生を精一杯に謳歌した。
避けえぬ死によって別たれる結末は同じでも、彼女にとってその五年間は幸福なものであった筈だ。短く、そして儚き生であっても、精一杯に生き抜いた彼女の生き様を誰も穢すことは出来ない。
しかし切嗣だけは違った。
アイリスフィールの願いが夫と子の幸福であると知りながら、彼はその想いを裏切る。自らの理想の為に、我が子を聖杯として差し出すのだ。
なんという独善。何処までも自己欺瞞。それが許されざる罪であると知りながら、切嗣は歩みを止めることが出来ない。
自らの過ちによって犯してしまった最初の罪を購う為には、聖杯に希う他にもう手がないのだから。
自分自身と、これまでの犠牲を裏切れない。裏切ってしまっては衛宮切嗣が瓦解する。それほどに、その罪は切嗣の根幹に根付いている。
逃れえぬ鎖。避けようのない運命。自らの胸を絶望と悲哀で埋め尽くしながら、正しき行いを遂行する。
理想と現実の軋轢で鉄の心を軋ませながら。いつか夢見たものを追いかけ続ける。それでも切嗣は人間だ。どうしようもなく人なのだ。そこらにいる誰かと変わらない、弱く小さな一人の人間。
どれだけ心を固めても、ツギハギだらけでその隙間からは悲しみが零れてしまうから。
「──泣かないで。イリヤはキリツグの味方だよ」
俯いていた切嗣に覆い被さる小さな影。回された腕から感じる温もりに、切嗣は嗚咽にも似た声を漏らした。
「ねえキリツグ。イリヤとお母さまと、三人で暮らした時間は、幸せだった……?」
「ああ……僕には、もったいないくらいに」
自らには分不相応だと思っていた人並の幸福。アインツベルンでの二十年余りは、幸福に過ぎた。この微温湯で命尽きるまで幸せの中で揺蕩い続けられたら、どんなに良かったことか。
その思いが過ぎる度、切嗣は自らの身体に過剰なまでに鞭打った。
幸せの中で堕落していくことを恐れ、胸に抱いた理想が風化することを恐れ、死に物狂いで鍛錬に明け暮れた。
ここは本来自分がいるべき場所じゃない。あくまで理想を叶える為の通過点。そう自分を戒め続けなければ、この先の過酷に立ち向かえなくなる。それほどに切嗣にとってこの幸せは長すぎた。
「そっか……うん。私も、幸せだった」
だから。
「キリツグは悲しまなくていい。泣かなくていいんだよ。キリツグの祈りが誰に認められなくても、私だけが認めてあげる。ずっとずっと傍にいてあげる」
それが叶わぬ願いと知りながら、少女は歌う。
この誰よりも尊い願いを宿し、けれどどこまでも人でしかない大切な父を想い……
「キリツグが世界中の人を救って正義の味方になるって言うのなら、私はキリツグだけの味方になってあげる。
キリツグの夢の邪魔をする奴らなんかみーんなやっつけちゃうんだから!」
その為に少女は力を願った。孤独に世界の救済を夢見る男の隣に立ち、その夢の片棒を担ぎたいと願ったが故に。
守られるだけのお姫さまなんていやだった。そんな無様に甘んじるくらいなら、一緒に傷つき支えあいたい。
イリヤスフィールの人生に、幸福をくれた父の役に立ちたいと、そう願った。
「…………」
それは余りに感情的で、非効率な行い。冷徹に任務を遂行し目的を成し遂げる切嗣の理にはそぐわない。今でもイリヤスフィールの参戦には反対だ。その思いは変わらない。
「……分かったよイリヤ。僕の負けだ」
それでもこの少女の想いに報いたい。出来る限りの願いに応えたい。この戦いの果てに散ることを約束されている少女に少しでも幸福に生きて欲しい。
それは余りに理にそぐわぬ余分。されど父として子を確かに想うが故の祈りだった。
「ほんとっ!?」
「ああ。ただし僕の言うことを守ること。勝手な真似はしないこと。無理はしないこと。ちゃんと守れるかい?」
「うん! 簡単だわそんなの! だって私淑女(レディ)だもの!」
「…………まあそれは置いておくとして。そろそろ戻ろう。アハト翁にも伝えなければならないし。段取りも少し変えなければならないかもしれない」
「なんでもいいわ! キリツグにまかせる! ほら、そう決まったら急ごっ!」
「うわっ……とっ──!」
少女に手を引かれ男は雪原を駆け抜ける。
戦いに向かう前の最後の一時。
その幸せを噛み締めながら。
終わってしまう幸福に、名残惜しさを感じながら。
+++
それから数日。
あの日以来、森はまた吹き荒ぶ六花に閉ざされた。曇天は何処までも遠く空に蓋をし、垣間見えた青空を見ることはもう、叶わなかった。高まる闘争の機運とは裏腹に、曇り行く彼らの心のように。
冬の城のエントランスホール。大階段の脇から伸びる通路の先にあるサロンに、切嗣とイリヤスフィールの姿があった。
少女はその背に二人の侍女を従え、淹れられたばかりの紅茶の薫りを楽しんでいた。長机を挟んだ対面に立つ切嗣は、イリヤスフィールの楽しげな表情とは対照的な渋面を貼り付け虚空を睨んでいた。
それと言うのも未だ切嗣の中でイリヤスフィールをマスターとした上で戦う為の算段がついていないせいだった。
当初の計画通りイリヤスフィールはただの連れ添いとして冬木へと赴いた場合、矢面に立つのも傷を受けるのも切嗣とそのサーヴァントだけで済む筈だった。
他の連中がいかに有能なマスターでも、強力なサーヴァントを従えていようとも、戦い抜ける──勝てるだけの算段と用意が切嗣にはあった。
しかしイリヤスフィールが切嗣と同じ舞台に立つと言うなら話がまるで変わってくる。アハト翁と口論になった時にも言ったように、聖剣の鞘の守護を絶対に死なせるわけにはいかないイリヤスフィールに渡さなければならない。
作戦の根底にあったものが騎士王の戦力と鞘の加護にあった以上、立てた概要の全てを放棄して一から構築しなければならなくなる。
具体的には聖剣の鞘をイリヤスフィールに預けるとして、騎士王を召喚するのはどちらが良いか。もう一体喚べるサーヴァントはどのクラス、どの時代の英霊が好ましいか。避けられない切嗣自身の戦力低下をどう補うか。
「…………」
イリヤスフィールの懇願を受け入れた事を早まったか……とさえ思うほどに状況は芳しくなかった。
口を曲げて唸る父を上目遣いで見やる赤目の少女は、紅茶のカップを音もなくソーサーへ戻した後、頬を膨らませて言った。
「もう、キリツグったらいつまで悩んでるの? 何度も言ったじゃない、私は自分のサーヴァントに守って貰うから、鞘はキリツグが使えばいいって」
「……今ではそうするのが一番なんじゃないかという気もしているよ」
何せアインツベルンに招かれた時、聖杯戦争の概要を聞いた後、切嗣自身が世界中の文献を当たり、その中から選び出した最良と考えうる策だったのだ。
理想の王の手から失われし最強の聖剣をその身に納めたという鞘。アーサー王の凋落はこの鞘を紛失した事に端を発すると言われるほどの貴重品。
事実切嗣はこの鞘が発見されなければ別のサーヴァントを招来する腹だった。
鞘がなくとも円卓の王はおよそ最優のセイバーというクラスにおいても上位に位置する英霊だ。彼自身の武勇と手にする黄金の煌きがあればどんな英雄が相手でも一方的に劣ると言う事はないだろう。
ただし、文献などから考察される騎士王の気性と切嗣のやり方は恐らく、致命的に合わないしズレている。正統であり真っ当な騎士の王と騙しや裏切りが常套手段の切嗣では相性が悪くて当然だ。
聖剣の鞘ほど強力な縁の品ならば、そんな相性の悪さを無視して召喚を行う事は可能だろう。そしてそんな致命的なズレに目を瞑ってでも得たいほどに鞘の加護は強力。それが切嗣が鞘に固執する理由だ。
「……仮に僕がアーサー王……セイバーを喚ぶとして。今度はイリヤにどのサーヴァントを喚んで貰うべきかでまた頭を悩ませなくてはいけなくなる」
幸いにしてこの十年……前回から数えて七十年の期間で、ユーブスタクハイトは相応の数の触媒と成り得るものをかき集めていた。
名立たる英雄の所有物や、歴史に名を刻まれた縁の品。有名どころの北欧神話やギリシャ神話を筆頭に、世界中の誰もが一度は耳にした事のあるだろう大英雄の触媒さえも保管されている。
ただ名のある英霊を喚べばいいという単純な話ではない。これが個の戦いであるならそれでも構わないかもしれないが、今回に限ってはアーサー王個人やクラス間との相性も考慮しなくてはならない。
セイバークラスの強力なサーヴァントを二体使役出来たしても、それでは今度は搦め手に弱くなる危険性がある。
各地に伝わる伝承で主役とされる者達とて、違う神話の登場人物達が直接剣を交えた事がない以上、明確に最強であり無敵である英雄など決められない。そもこの聖杯戦争がそれを決する場でもあるのだから。
「…………」
結局は堂々巡り。上手い案は中々出ない。当然だ、そもそもこんな事態を切嗣は勘案など毛ほどもしていなかったのだから。
「いや……」
そこではたと、切嗣は自身の見落としに気付いた。そもそもの話として、何故ここまで頭を悩ませなければならないのか、と。
「キリツグ……?」
イリヤスフィールは窺うように切嗣の瞳を覗き込む。突如として色を失った、父の瞳を。
「……僕は馬鹿だな。ああ、本当に。前提を既に間違えていると、何故今まで気が付かなかった」
これは誰の為の戦いであり、何の為の戦いか。
自分自身に課した役目を今一度思い出せ。
自分自身のやり方を──衛宮切嗣の流儀を。
……こんなにも、心が鈍ってしまっている。
それほどに、この城での幸福は長く、満ち足りていた。
精密機械じみた殺人者でしかなかった切嗣の心。黒く渦を巻いていた心は、この城の中で色づいた。当たり前の幸福をくれた二人のお陰で。しかしそれは余分。衛宮切嗣が衛宮切嗣であり続ける為にはあってはならない余分だ。
機械を正常に動かす為には歯車は少なくてもいけないし、多すぎてもいけない。不必要なパーツを無理に組み込んだところで、動作不良を起こすだけだ。
冷静に。冷徹に。冷ややかに戦局を俯瞰し、己にとっての優位を構築し相手にとっての劣位を押し付ける。
誰かを守る為の戦いなんて一度としてした事などない。
だってこの掌は────誰かを殺す事でしか、救いを手に入れられないのだから。
瞼を重く閉じ、開いた時にはもう瞳には迷いはない。為すべき事は明確で、目的としたものはもうすぐそこ。ならば万難を排しただ駆け抜けるのみ。
「イリヤ。アーサー王は僕が召喚する」
「じゃあ……私は……?」
「イリヤには────」
切嗣は無感情な声で、喚ぶべき英霊の名と考えられるクラス名を告げた。
+++
そして遂に儀式が始まる。
聖杯戦争の足掛かりとなるサーヴァント召喚の儀。広い儀式場の中心に男と少女は背中合わせに立ち、互いに向かい合うのは各々の血で描いた魔法陣。
捧げるべき聖遺物は一つは切嗣自身と融合し、一つはイリヤスフィールの手の中に。血と鉄で描かれた紋様を前に朗々と歌は紡がれていく。
「我は常世総ての善と成る者──」
「──我は常世総ての悪を敷く者」
発光する魔法陣。踊る気流。咲き乱れるエーテルの嵐の中、二人は身に宿した令呪の高鳴りと門を開く感覚に身を任せる。
彼方と此方を結ぶ道。その創造はあくまで聖杯自身が行うものであり、マスターはただ呼びかけるだけでいい。難しい手順も何もなく、定められた詩文を謳い上げればそれだけで事足りる。
朗々と謳い上げられる小節。一字一句の間違いもなく。これより招かれるは絵本の中の主人公。御伽噺の中でしかなかった存在が、もう間もなく目の前に現われる。
サーヴァントを聖杯を手に入れる為の道具と割り切る男に高揚はなく。少女の心の内は不明瞭。されどどちらともが感じている。令呪より伝わる熱の意味を。
遂に最高潮を迎える乱流。二人は共に最後の一節を声高に叫び上げた。
「……汝三大の言霊を纏う七天」
「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ……!」
詠唱の完成と共に咲き乱れていたエーテルが霧散する。突風が巻き起こり二人の視界を遮る。漂う靄。しかしそれも世界の外側より招かれた者が放つ圧倒的な気配の前に、ただのエーテル流などただの一足で吹き飛ばされた。
白銀の具足が大地を打ち鳴らす。
黄金の如き髪が風の残り香に揺れている。
翠緑の瞳が、揺るがぬ意思を秘めて己を招きしマスターを見つめていた。
そして同刻。
白の少女の前にも彼女の喚んだサーヴァントが姿を見せる。
風を踏んだかのような軽やかな着地。
薫る甘い香の匂い。
耳に残る、鈴の音。
「────問おう。貴方が」
「私のマスターかしら……?」
幾千の時を超え、熾天より舞い降りた二人は、同時に己が主へと問いを投げ掛けた。