呼吸は深く長く。五体の隅々、爪先の末端にまで酸素が行き渡るように息を吸い、そして吐く。
吐く息は白く、まるで魂まで吐き出しているよう。肺と胃の中に溜まっていた空気を吐き出して、肉体の中身を吐き出すようにして呼吸を吐き切る。
それをくり返す事数回。冷たい空気が体中に染み入り、熱気が消えうせていく。姿勢は直立不動。あくまで自然体のままに呼吸をくり返す。
そうする事で意識が次第に澄んでいくのが理解できる。思考と肉体から雑多なものが吐き出され、余分なものが取り払われていく。
その呼吸法は空手等に伝わる息吹に似ている。特別な呼吸によって全身の筋肉を刺激させ、更なる動きの可能性へと結びつける。
武道家が行うそれと、殺しの術理を磨く殺人鬼であってもそれは代わらない。肉体を駆使するという意味では、特に七夜であっては両者共に同存在だろう。
「――――……」
夜だ。朔は訓練場にて一人佇んでいる。季節はいつの間にか冬となって訓練場は夜の静寂(しじま)が増していったような気がする。
外気は肌に刺すほど寒々しく、着流し一枚を身にまとっているだけの朔は身震いさえ起こさない。
時刻は幾程ばかり経っただろう。
黄理との訓練は疾うに終わっている。にも関わらず朔はこの場を動こうとはせず、黄理に教えられた動作、黄理が行っていた仕草を脳裏で反芻していた。
反復運動をくり返し、自分なりの最良を見つけ出す作業はそれなりの手ごたえがある。
それが楽しいとか、嬉しいという感情に帰結はせずとも、朔はひたすらにそれを繰り返していた。
そうする事で今の自分にはないものを発見し、身につけるという事は存外に没頭できる。特に朔の場合、それが顕著であった。
食事も、あるいは休息を取る事無く続けているのがその証拠だろう。
そうして荒ぶった呼吸を整え、静かに目蓋を下ろしていく。視界は暗闇。一切の光を閉ざした意識は、疲労故にかすぐにでも解けてしまいそう。
その感覚が数回。それらを断ち切って、あの日の残像で拭っていく。
あの時、目前に突如として出現した異物を思い描く。
響き渡る哄笑と、嗅いだ事すらない異臭が今も五感に残っている。それを自分の内側は殺せと咆哮し、同調した肉体が昂ぶった。
筋肉は痛いほどに熱を持ち、ともすれば自分の意識さえも剥奪してしまいそうな感覚。思い出すだけでこうなるのだ。
再び目前にあの存在が現われた時、きっと身体ははち切れてしまうだろう。
だが、これではない。こんなものではない。あの時の自分はこんなにも静寂な自我ではなかったはずだ。
だからもっと意識を潜行させなければならない。自分の中に深く潜り込み、あの混血という魔の姿、存在そのものを脳裏に思い描く。
姿ばかりが似ていても意味が無い。魔。人間とは、七夜とは対照的な存在を根本から思い描かなければならない。
自分とは違う、人間ではないもの、人間以外のもの。正真の化物。
しかし、目蓋の裏で思い描く混血の姿は想像しようとすればするほど歪と化し、あの日に出会った老人とは似ても似つかぬ存在に成り下がる。
想像力の欠如か。あるいはあの時忘我の極みにあったからなのか。理由は幾らでも見つかるが、わかる。
違う。これではない。こんな紛い物ではない。
創造と否定の繰り返しに脳が痛むが、それでも構わない。頭痛などと言う瑣末に気を取られてはいけない。少しでも気にしてはぶれてしまう。
化物の姿が。化物の存在が自分から離れてしまう。一度手放してしまえば、最早元には戻らず、また最初からやり直し。それでも、また創造を始める。
朔も元から出来ないことだとは解っている。あの時の自分はあまりに昂ぶりすぎて五感の全てが振り切れてしまっていたのだ。まともに知覚すら出来てすらいないのである。
故にあの化物の完全再現なんて不可能なのだ。しかし、だからと言ってやらない理由にはならない。
この完遂できない作業を朔は混血と出会ったあの日から欠かさず繰り返してきたのだ。
それは始めて遭遇した混血に対し自分はどのような反応を示したのかの確認作業であり、また自分自身に起こった変化に対する出口なき問答であった。
何故自分はあの時あんなにも昂ぶったのか。
何故あんなにも変化を遂げたのか。
何故自分はあのような反応を示したのか。
何故あの時自分は真っ直ぐにアイツを殺そうとしたのか。
何故。何故。何故。
自分は、自分は、自分は――――。
幾ら考えても疑念は尽きず、溢れて今にも零れてしまいそう。
変わったと言えば、それは朔自身を含めた環境にも当てはまる。
朔には人間がわからない。それは最早覆す事の出来ない大前提であり、決定である。
それは自分が他の人間とはどこか違っているからだと思い込んできた。周囲に溶け込もうとしない自分。
環境に溶け込めない自分を含めて自分と言う存在は人間とは異なった生物なのだと考え続けた。
だが朔はそれでも何故自分は彼らとは違うのかと思い、ひたすらに思考を重ね続けた。それだけが朔に出来るたった一つの解答への至りだった。
しかし、今となってはそれさえも疎ましい。否、これは疎ましいという感情よりも排他的と呼んで差し支えない。
そうして朔は疑問を疑問と思わないようになってきていることに気付いた。これこそ最も己に起こった顕著な変化であろう。
以前の自分であるのならば疑念を抱くような事柄に対し、朔はより淡白に、より無機質になりつつある。それを良しとするか悪とするかの判別はつかない。
判断をつけるための基準がそもそも曖昧なのだ。それをどうしろと言うのか。
だが、そのような分別すらも最早朔にとっては価値の見出せぬものになりつつある。
だからだろう。あの日の自分へと近づき、その答えを見出そうとしているのは。
あの混血――――周囲の大人が交わしていた言葉からそのような存在である事が知れた――――と朔が対峙した時、朔は何か明確な変化を遂げた。
それまで空白でしかなかった歯車の欠片がようやく嵌ったような気がした。
どこか白熱とは程遠い生であった。黄理との鍛錬にはそれなりに傾斜できるが、今ではそれでも何か物足りなさを感じていた。
それが何すらも解らず、朔はその空洞の虚ろを胸の内に収めていた。故にあの混血と対峙した時の感覚をもう一度味わいたい。
そこに答えの手がかりがあるような気がした。これほどまでに熱中するのは始めての事で、朔自身も多少驚いている。
驚愕と言うわけではないが、寧ろ戸惑っている。しかし、止める事は出来ない。
これは自ら始めて黄理との鍛錬以外で望んだ事なのだ。それを自ら手放すほど、朔は賢しくない。故に愚直なまま、朔は意識の心髄に潜り続けた。
変わったのは己だけではない。身の回りにもまた多少の変化が起こった。
まず食事を誰とも取る事が無くなった。朝目が覚めると襖の向こうに朝餉が置いているだけであり、世話役という役割を持った女の姿はない。
そうすると必然的に朔は誰も訪れる事のない離れの中、たった一人で食事を行う。必要な分量の食事を取り終えると黄理との訓練が始まる。
黄理との鍛錬はあれ以過激になった。もともと黄理との力量は隔絶しているのだから当然の事であるが、黄理が次第に容赦を止め始めていた。
それが朔には言い様の無い熱を帯びさせる。楽しいとかそういう感情は解らないけれど、恐らく黄理との鍛錬は楽しいと言う表現に当てはまるほどまでに昇華されていった。
黄理が容赦を止めたという事は、つまり朔に手加減は無用と判断したのである。 それほどまでに朔の力量を黄理が認めたのだ。
しかし、朔に慢心はない。元より慢心するほどの余裕は鍛錬時には皆無だし、己の力量に自信を持つほど驕りを朔は持っていない。
だから黄理と過ごせる唯一の時間を削りたくなくて、朔は休息を拒み、昼食さえ摂取するのを止めた。
そのような時間があるならば、もっと黄理と共に過ごす時間に傾倒していたい。
そんな想いに応えたのか、黄理もまた朔の鍛錬に出来る限り付き合った。
以前であるならば正午に終わるはずの鍛錬は、他の時間へと裂くのを厭うかのように過激なものとなり、夕刻まで続けられる。
長時間の打ち合いと酷使によって肉体は満身創痍も甚だしい。一日中動かし続けた筋肉は痛みの危険信号をけたたましく鳴り響かせ、これ以上は無理だと脳に訴える。
しかし、朔は黄理が去った後も鍛錬を止まなかった。肉体疲労なんてものは瑣末事に過ぎない。重要なのは昇華し、研磨される己自身である。
そこに休息だとか、食事だとか言う些事が入り込む余地なんて無いのだ。
何故なら自分が限界へと近づく事で、意識は次第に澄み渡り、自我が透明となって混血へと対峙したあの日の自分と同じ状態になれることが解ったのだ。
忘我の境地とでも言うべきか、そこに微かにだが触れる事が解ったのである。
これは大きな発見だった。
ただ己に問い続けるしかない朔にとって他人に答えを求めるという選択はありえない。
だからこそ、己自身の問題を解く鍵を己自身で見つけたというのは多大な功績だった。
故に、そこからが本番。限界の先の先、忘我の極地目指して邁進する。
無論、疲労のピークなど一切無視しているのだから、じきに意識が飛ぶ。そうして垣間見た瞬間の映像こそ朔が求めるものなのだ。
そして気付くと朔は離れで寝ているのである。恐らく誰かが気絶した朔を運んでいるのだろうと推測は出来る。
が、その誰かを予想する事無く再び鍛錬場に足を勧める。その度に朔はいいようのない視線を感じたが、どうでも良いことだ。
こちらへと注がれる視線に害意らしきものは感じられないのならば、放っておくのが賢明である。
そして再び鍛錬場に辿り着けば無茶な動作をくり返し、意識を透明化させていく。そんな生活も最早慣れ、かれこれどれほどたったのだろうか。
時間の感覚は曖昧で朝と昼と夜と大雑把に三分割したものでしかない。故に時期は一切問わず、朔は鍛錬に打ち込めるのであった。
これをあれから毎日続けている。朔の今の状況を考慮するのであるならば、いっそ病的と呼ぶのが相応しい。
限界以上の鍛錬は身体に毒だ。何かにとり憑かれたように行動する朔は以前よりも遥かに危うい。
しかし、止めるべき者は最早黄理しかいないのだ。彼が黙認しているのならば、どうして関わる事ができよう。当主自らが発した今の所一部の者を除いて浸透しつつあった。
だが、ここに例外が存在する。
「……兄ちゃん」
気付けばそこに、志貴がいた。
眉根を寄せて困っているような表情を見せている志貴の身長は以前と比べ緩やかに伸びている。
何故志貴がここにいるのかと朔は疑念を抱えども、いつものことだとそれも消化される。
いつからか人気のなくなった朔の側。それも当然だろう。いきなり――――すぐに協定は破棄されたが――――協定相手の棟梁へと襲い掛かったのである。
人払いが行われるのは致し方のないことだ。しかし志貴はそれを無視し、朔の側に留まっている。
いつも変わらずに志貴は朔の隣にいる事が、不思議でならなかった頃もあった。だが、今となってはその答えを求める感情は芽生えようともしない。
――――そういえば最近になって志貴が六歳になったと誰かから耳にした。
その誰かは女性で、何故か自分の表情を執拗に隠していた。
震えるように感情を隠して、抑え気味に囁かれた声によれば、朔との会話は一切禁止されており、この会話も秘密なのだとか。
『食事はちゃんと取っていますか』
『休息は十二分に取れていますか』
交わした言葉はそこらに転がっている世間話。けれど、朔の瞳を覗く女の表情は真剣そのもので、時折暗い色を瞳に湛えていた。
そして女の質問に機械的に答えると暫し唇を噛み締めた後に「やはり、兄様は何もわかっていないじゃないか」と恨みを吐くよな声音を残して去っていた。
彼女が朔に向けた瞳は仄暗いながらも、柔らかなものだった。
だが、果たしてあれは誰だったのか朔は思い出せない。
記憶の片隅に似たような存在がいたような気もする。
光陰矢のごとしと言わんばかりに加速化した朔の脳は余分なものを置き去りにしていった。
かつての朔であるならば記憶に留めていたものが今となっては雑多なものと化し、風化していく。
あの女もまた自分に縁のある七夜なのか?
思い出そうとして、何故思い出さなければならないのかと疑い、そして思考を放棄した。
七夜の血族は皆親近者である事に変わりは無い。なら、あの女もまたその一人なのだろう、と結論付けた。
しかし、そこでどうして自分は疑問に思っているのだろうか、と考えてみる。
だが、その考えは果たして必ずやいるものなのかと思えば、そもそも自分に疑問を抱く機能そのものが必要なのだろうかと考えた。
ただ自分は黄理のようになりたいだけで、他に余分なものは必要ない。
そして、それも最早どうでもいいことになるだろう。自分にはきっと意味の見出せないことなのだろう。そもそも意味を求める事自体間違いなのかもしれない。
とは言え、朔はそれを間違いだと断定できるほどの判断材料を保有していなかった。
今となっては黄理ともほとんど会話を交わさなくなってきている。それは普段の生活のみならず鍛錬の際においてもそうだ。
真意を見せぬ黄理に問い質すつもりはないし、如何様な理由があれども朔は今の生活に十分な満足感を覚えている。
飛躍の手がかり、始めて垣間見た『敵』の存在。どれもが素晴らしい価値を秘めている。
故に周囲の環境が変わった理由を朔は知ろうとさえしなかった。残念だと、無念だとさえ思う事無く。
だがそれでも、変わらないものも、あるとするのならば――――。
「兄ちゃん、ねえってば。もう夜だよ? 家に帰ろうよう……」
終わらぬ精神統一を図る朔の側には必ず志貴がいる。
黄理から特例でも出されたのか、彼だけは相も変わらず朔の側にあり続けた。
朔の鍛錬は夕刻を過ぎて、星の輝きが瞬く頃まで行われる。志貴は夜の鮮やかな黒に紛れる事無く、小さな掌で朔の袖を掴んで帰宅を促す。
いつから、人気のなくなった朔の傍。だが志貴だけは今も尚そこにいる。いつも変わらず朔の傍にいる。それが不思議であった頃もあった。
しかし、今となっては朔にその答えを求める感情は存在しない。朔の内側にあるのはあくまで昇華への渇望なのだ。その他はどうでもいい。
どれだけ日常的に触れ合う志貴であってもそれは同じだ。
限界突破を目論んで肉体乃至精神を過酷な負荷にかけたこともあるが、その時の言い様の無い心地と比べれば志貴との遣り取りなど、春にたなびく柳と会話しているようなもの。
しかし、帰りを促す志貴が何故今も尚ここにいるのかと考え、志貴は黄理の代理にきたのだと憶測した。
そして、黄理とはもう顔を合わすこともないのかと漠然と邪推した。
残念だとは思わない。もとより疎まれて当然の身。理不尽は当然であるし、里の住人との交流も芳しくない。冷遇は致しかなの無い事なのだ。
だから、これも当然の事なのだ。当然のことなのだろう、と思いはした。
ただ、内側に広がる虚しさが悲しく震えた。
「兄ちゃん……?」
「……」
反応を示さぬ朔に心配となったのか、こちらを覗くように志貴が顔を見せる。
すると、――――視界が僅かに霞んだ。
しかし、自分の瞳が濡れていないことは理解している。ならばこれは一体何なのか。
時折だ。朔の視界に微かな靄がかかることがある。
それはこの時のように志貴に見つめられている時だったり、あるいは離れに一人でいる時だったり、母屋と忍び足で向かっている時だったり、はたまた訓練所にいる時だったりと、かなりの頻度で視界に靄は降り注いでくる。
最初目に何かしらの病を患ったかと思いはしたが、どうやら靄を注視してみると多様な変化がある。
色がついているものもあれば、濃淡にばらつきがあるようなものもある。
そして視界いっぱいに靄は広がるのではなく、血管のようにどこからか繋がり漂っている。これが一体なんなのかは具体的に理解できない。
一度翁と相談するべきだろうか。
「……」
そこで朔は頭を振る。
――――そんな事を考えてどうするのか。考えたところで、自分に答えなど解るわけないだろう。自戒に瞳を閉ざす。
目蓋を閉じても志貴の不安そうな視線を感じて、朔は致し方なく自身の住処である離れに向かって歩いてく。
この靄が何なのかはわからないが、見ていて気持ちの良いものではない。何より、動くのに邪魔だ。
半ば志貴を無視するような形で動こうとする朔。――――と、その身を引っ張る力があった。
着流しの袖を志貴が掴んでいる。だがそこに朔を押し留めるような力はない。
だと言うのに、志貴は朔の袖を掴んで離さず、何かを訴えかけるかのように微力な握力で朔を引き止める。
「……兄ちゃん」
志貴は俯いていて、その表情は今が夜という事もあり、よく見えず察する事も出来ない。そして朔は志貴が一体何をしたいのかがよく解らなかった。
朔を帰らせるためにこちらへ志貴は赴いたはずなのに、その志貴が帰そうとしないはこれ如何に。
生憎人の機敏に疎い朔には志貴の胸中を渦巻く形なき不安など理解できるはずもない。
故に、この行為は無駄なのだ。意味のない行動のはずなのだ。
なのに、朔にはこの手を振り払う事が何故か出来なかった。
か弱き力で袖を握る志貴の手を振り払おうと思えばいつ出来もできる。けれど、どうしてもそのような行為をする気にもなれない。
致し方なく、そのまま二人は歩いていく。朔が志貴を連れ立つような形で。
頭上には月、冬の冷たく澄んだ空気で満月の輪郭が良く見えて、夜の森を歩く二人を淡く照らし出す。
それはまるで月光が歩む道程の未来を映し出しているようだった。
□□□
食事を作る。ただそれだけの事がたまらなく楽しいと思えるようになったのは、いつからだろう。
野菜を煮て、米を研ぎながら相手に満足してもらいたくて、一生懸命料理を作った。
それでもまったく反応のない彼にもっと頑張ろうと思った。
今度こそは反応してくれると期待しながら、無表情の子供を思った。
そしていつも通り何の変化も示さない少年に敗北感を覚えながらも、次こそはと執念の焔を燃やした。
うまいと言ってくれた事なんて一度も無い。舌鼓に表情を綻ばせた場面なんて、全く無い。
だからそれを変えたくて、女の意地を張った。
けれど、二人で食事を取ったあの瞬間は、何よりも温かかった。黙々と箸を運ぶ少年の仕草にどぎまぎしながらも表面上は冷静に料理を口に運んだ。
何を考えているのかは解らない少年だったけれど、私が作った料理は全て残さずに食べてくれた。
それでよかった。何気ない日常の一コマとしていつまでも続くと思われたその時間。
――――それだけで、私は良かったんだ。
母屋の居間にて一人夕餉を食す。だいぶ遅めの時間だったためか、食事を取っている人間は私だけしかいない。
たまたまそのような状況になっただけであって、私自身この状態を望んでいた訳ではない。
時折襖の向こうに人影が通り、無意識に視線で追った。
屋敷の中は本当に静かで、自分が屋敷の中にいるのではなく、暗い深海に沈んでいるような孤独感が胸を締め付ける。
たった一人の食事。それだけの事だというのに、なんて味気ないだろう。自分で作った料理の味すら解らなくなるほど淋しい気持ちになる。
以前、朔と共に食事を取っているのならばうまいと感じていただろうが、今では箸の進みも遅く、動きも能動的ではない。
対面に座っていたはずの少年の姿は暫く見ていない。たった一人の人間が私の日常から離れただけなのに、随分と心模様は様変わりした。
胸の内に寂寞が巣食っている。それはいつの間にか私の中に宿って、そのまま離れてくれない。
そしてその寂寞を自覚するたび、私はどうしようもなく叫びたくなる衝動に駆られる。
この状況、理不尽ともとれる現状。そして無力な自分。その全てを纏めた感情の一片までも身体から吐き出してしまいたくなる。
だが、そんなことに意味が無い事は百も承知していた。私は子供ではない。子供でいられる時間は疾うに過ぎている。
駄々をこねて泣き叫んでいるだけの子供でいてはならないのだ。もう、子供ではない。
しかし、あの子は、朔はどうだっただろう。
朔もまた私と同じように夕餉を一人でとっているのだろうか。そも食事をまともに取っているかも怪しい。
朔がいないのを見計らって食事の残りを下げに行くと、そこには殆ど手のつけられていない料理があるのだ。それを見るたびに膨れ上がる心配は一入だ。
兄様の決定以降、朔に対する接触禁止令による隔離から幾ばくかが経った。
時は流れて季節は移ろい、冬の冷たい空気が里に降り注いでいる。朝の地面には霜が降り、本格的な冬の訪れまではもう僅かだろう。
そしてそんな冬の中で、朔は生きている。たった一人で。
あの日から直接的な接触を禁じられてしまった私は朔と共にいる事ができない。一緒に食事を取る事も、何気ない時間を一緒に過ごす事も叶わない。
全ては胡蝶の夢だと疑わんほどに、あの日々は残滓を微かに置いて消えた。
私に許されているのは、ただ朔の食事を作っておくだけ。共に食事を取る事は許されていない。
朔を起こして顔を合わすことも出来ず、料理を縁側に置いておくだけだ。
勿論、私はこのような状況を受け入れられない。何度と無く当主である兄様に問い質した。
何故そのようなことをしたのか。真実、朔の事を考えたつもりなのかと、訴えた。
だが、兄様は私に朔の現状を言ったうえで、全ては里の存続のためだと、当主の顔で私に言うのである。
兄様は七夜の当主。云わば七夜の代表であり、一族を守り、歴史を紡いでいく事が彼の責務である。
そのためならば、何かを切り捨てなければならない。
故にかつて私たちの兄だった人間を粛清の元に排斥したのだ。本来であるならば朔の父親となるはずだった男をだ。
それは解る。感情では受け入れたくないが、理解できる。
私は当主として動く兄様の姿を幾度となく見てきた。
必要なことなれば幾らでも冷酷になれる人間であり、朔の接触禁止もまた一時的とは言え必要なことなのかもしれないと、暗がりで囁く自分がいることも事実。
――――だが、だがだ。
噛み締めた唇から鉄の味が滲む。気付けば箸の動きは止まっていた。
どのようにもならない現状を嘆く感情は後悔か、悲嘆か、あるいは罪悪か。
朔の実母である彼女と交わした口約束のひとつすら守れない私は一体何をしているのか。
何気なく交わした約束を頑なに守り続けてきたのに、それをあっさりと覆されたのである。
激情に身を任せて暴れてしまえばどんなに楽だっただろう。けれど、癇癪を起こすのは子供のすること。
私が暴動を起こせば朔の立場が危うくなるのは必然だ。そも暴動など起こせる力もない私が暴れてもすぐに取り押さえられるのが関の山だろう。
少し前の事だ。私は自身の衝動を押さえつけることが出来ず、朔と会った。誰に知られず、兄様にさえも知られずに秘密裏にだ。
懸念もあった。手をつけた形跡の見られない料理や、鍛錬場から戻る時刻の遅さ。遠目に見ても明らかに休憩をとっていない。
だから、この目で確かめたかった。朔は今どのようになっているのかと、心配だからと言い訳して。
今、ここに告白しよう。私はあの時、自らが安心したいがために朔へと近づいたのだ。
愚かな私は自身の不安を消してしまいたいがために朔のもとに向かったのだ。
なんて愚劣な行為だろう。朔の事を思っての行動とのたまいながら、結局行っているのは自分しか考えていない行動でしかなかったのだ。
それがどれほど卑怯な行為だったかも、あの時は気付きもしなかった。
「朔……」
閉じた目蓋に浮かぶ朔の姿。夕闇の中、夕暮れの朱にも闇夜の漆黒にも溶け込むように佇んでいた朔の姿を。
茫洋な気配。記憶よりも少し高くなった背丈。それに対し削げた肉体。頬は痩せこけ、余分な脂肪など残されていない身体。
強引に引き締められたその身体は以前まではあった子供特有の丸みを消失させていた。
そして、あの眼。
「朔っ……」
無機質な瞳。何者にも興味を持たず、何事にも関心を示さないあのあの眼。それが深くなっていた。
鋭い眼光はここではない何処かへと向けられ、目前にいる私など風景の一部でしかないのだと言わんばかりだった。
事実それは正しいのだろう。あれは私を見ていない。朔の視界にたまたま私がいただけだ。
しかしその眼球の中身は虚無そのもので、どこか闇色を孕んでいる。
思わず息を呑んだ。たったこれほどの時間で人はここまで様変わりできるのかと、朔にかける言葉を見失い声につまった。
――――故にあの時、私には朔の姿が幽鬼に見えて仕方がなかった。
禁止令の施行から幾ばくの時が過ぎた。それは短いと言うにはあまりに長く、長いと言うにはあまりに遅く、致命的だった。
朔の変容がその証明だ。
いや、朔を変えてしまったのは、果たして誰だ?
「――――っ」
何もかもが今となっては言い訳に成り下がる。
何者からも隔絶された子供にどのような影響が及ぶのか想像することも出来ない、あの時私は強く兄様に訴えた。
だが、現状はどうだ?
安直な決定が微かにでもあった朔の人間らしさを奪ったのだ。
唇を強く噛み締める。そうでもしなければ嗚咽が漏れてしまいそうだった。
だが、そんな資格、私にはない。結局朔の味方でいる事が出来なかった私に彼を想って泣く資格は失われたのだ。
手のつけられない料理はすでに冷め切っている。もう旨味を感じる事はないだろう。
否、私にとって朔と取る食事という要素が無ければ味があっても旨味など無いも同然なのだ。
朔はあの時何も言わなかった。稚拙に語りかける私を視界に収めながらも、反応する事も無く、そして口を開く事も無かった。
文句も、泣き言も言わなかった。
ならば、私が泣いて良いはずなんて、ない。
『世界は優しいわね』
そんな事はない。そんな事は無いのです。
世界はこんなにも冷たく、悲しい。
『私に何かあった時は、この子は貴女に任せますよ』
そんな約束さえ私は守れない。七夜として終わった女だ。使い物にすらならない、無力な女だ。
けど、あの時私は確かに頷いた。春の兆しの中で、確かに彼女の言葉を受け取った。
『だから、お願いしますね』
『……はい』
――――それはいつかの夢物語。
嘗ての約束が、虚しく響く――――。
□□□
「御館様」
母屋、囲炉裏の間。火の灯る囲炉裏を囲むように座る黄理に翁は声をかけ、そのまま対面に座る。公式な場でないので足は崩されている。
黄理は静かに座布団へと座し、力なく囲炉裏を挟んだ向こう側にいる翁を見た。その瞳には僅かな疲労が窺える。
それは肉体的なものではなく、精神的なものだと翁には解っていた。
「志貴様も困ったものですな」
世間話をするように語り掛けた翁であったが、返ってきたのはぎろりと睨みつけられた黄理の眼差しであったので、肩を竦めるしかなかった。
けれどその表情は忍び笑い。何せ先ほどまで彼が見ていた光景は微笑みを浮かべるには十分なもの。
それは孫の成長を見つめたような好々爺の表情である。
すでにここには黄理と翁しかいないが、先ほどまで志貴がいた。
『なんで兄ちゃんと会っちゃ駄目なの』
朔を迎えにいった帰りなのだろう、志貴は不服そうに頬を膨らませて黄理と問いかけた。
瞠目したのは黄理である。真逆、志貴が自分のいう所に反感を覚えるとは埒外の事だった。
『どうして誰も兄ちゃんと一緒にいないの?』
真摯な眼差しが黄理には痛かった。一時的な措置とは言え兄と慕っている朔を隔離させたのは他ならぬ自分の決定であり、志貴には黄理を責める権利がある。
だのに志貴は黄理を弾劾するのではなく、ただ不思議でならないと質問するのだ。
その無垢な心が自分に向けられていると想うと、どうも言葉にし難い歯痒さを黄理は覚えてならなかった。
真正面から父を見上げる志貴の視線は真剣そのもの。故に余計なはぐらかしなど忽ち打ち払われてしまう事は確実である。
だからこそ黄理は朔そのものの状況、そして現状を簡素に伝えるだけに留めた。
余計な情報を与えて刺激するのは賢い選択ではないし、適度に餌を与えておけばそれで満足する。そう思ったのである。しかし。
『なんで!? ちゃんと答えてよ、父さん!』
志貴はあっさりと黄理の企みを看破した。別に甘言を用いたわけではない。だが、隙を見せるような言動も行わなかった。
だと言うのに志貴はあっさりと父の企みを破り、更に睨みを利かせたのであった。
意外ではあった。志貴の言うとおり自分は彼が求める明確な答えを提示していない事が理解されていたのだ。
しかし、まだぬるいとも感じた。ここで糾弾するのではなく、もっと実用的な手段を用いれば利益も得れるだろうにと打算的な思惑が生じた。
「すこしばかり自由に育てすぎたか」
「ほほ、そのようで」
一人ごちる黄理に翁が相槌を打つ。
「あいつは俺の子供だ、本当のな。だから俺に似るかと思ったが、んなこたあなかった。あいつはあいつのままで俺なんかに似やしなかった」
「御館様の可愛がりようはそれはもう見ていて微笑ましいほどでしたぞ」
そのような起因。原因になったのは恐らく。
「朔、か」
己が手で粛清した兄が残した遺児。それを戯れに引き取ったのは翁の思惑も重なるが、今となっては立派に成長し里一番の成長を見せている。
このままいけば次期当主の座も嘘ではないほどにだ。
故に、惜しい。
あの事件がなければ朔はそのまま自制の効いた暗殺者として一族を背負う人材になっていただろうに。
いや、もしかしたらあの時に朔の本性の一片が垣間見えたのは、ある意味では幸いだったのだろうか?
実力を考察すれば朔に追随する者はいない。下手な大人ではもう太刀打ちすら出来ないだろう。鍛錬を直接受け持っている黄理だからこそ認められる。
それほどまでの力を朔は秘めている。だが、それがもし遠くない未来で暴走を起こしたらどうなるか。
結果は見るまでもない。惨い地獄絵図だけが広がるのみだ。誰も朔を止められはしない。
故に今回の決定は見解を変えてみれば良い結果だったのかもしれない。朔の置かれていた環境を除けば、の話であるが。
一番はやはり志貴だろう。朔の接触禁止令を故意に無視して朔と共にいる姿が度々目撃されている。それを叱ろうとも志貴は碌に話を聞かない。
志貴の言い分の主だった所は結局の所、何故朔といては駄目なのか、のみに尽きる。
黄理からすればそのような説明懇切丁寧にするつもりもなく、だからこそ志貴は窘められるのを覚悟のうえで朔の元へと向かうのだからたちが悪い。
これが噂に聞く反抗期か、と黄理は心密やかに思った。
子供だから、という理由で甘く見るつもりはないが、志貴の反抗心には興味がある。
幼心に動き始めた原動力はいっそ愚直と言ってさえ良い。それが良い方向に向かえば朔の楔としての効果を得るかもしれない。
そうなれば実に理想的だ。朔が殺し、志貴がそれを抑える。
本人には無理でも外部の力を借りればどうにかなるというのならば、それも存外にありえない話ではない。
そして二番は妹の事だ。あれ以降、彼女はやたらと黄理に辛辣だ。元々自分に似た外見をした姿をしているのだから、睨まれるとそれなりの気迫がある。
そして彼女は一時黄理を睨んだ後に、『兄様は、それでいいでしょうね』と冷たい瞳で蔑み、目前から去った。
本来は妹が朔の境遇改善を再三訴えてきた果ての事だったが、彼女が去り際に残した言葉が耳から離れない。
勿論、あの決定が当主として正しかった。
無駄な騒乱の種を残すのならば刈り取ってしまえば良い、と以前の自分なら考えたやも知れぬが、少なくとも命を絶たぬだけマシであると言えよう。
故に朔を隔離し、自制心を覚えさせようとした。
しかし、自身の全てを鍛錬に捧げている朔を見ると、あの時の決定は本当に正しかったのかと疑心に狩られる事もある。
最初、黄理は反省のためにより苛烈な鍛錬を朔が望んでいたと思っていた。しかし、時が進んで思えばそれは大きな見当違いではなかったのか。
今の朔はより増大な力を得んとする獣だ。寝食すら惜しんで戦いに備える一種の闘争心そのものだ。
だから、黄理は疑わざるを得ない。
接触禁止令は朔にとっては降って注いだ大きな転換期であり、今となっては止める者もいない事から存分にそれを貪っているのではないのか、と。
事実刀崎梟を襲っている際に感じた朔の気配は、かつて長兄が発していた存在感そのものに類似していた。
このままいけば、遠からず朔はそれに極めて近い存在になるという予感が黄理にはあった。
故に朔を隔離した。精神的な枷を架し、もし朔が再び暴走しようとも他の七夜に一切の危害が及ばないように徹底している。
だが、この背筋に這いよる百足のような悪寒は一体なんだ?
「翁」
「はい」
それまで何処からか取り寄せたのかお猪口に酒を注いでいた翁が面を上げる。
「今の朔は誰に似ている?」
黄理の問いかけに翁は暫し眉根を吊り下げて黙考し、恐る恐る口を開いた。
「性質は長兄の方に似ていますな。まず間違いなく、朔様はあのお方の血を引いていらっしゃいます。それは最早変えようのない事実。ですので、朔様が長兄のお方に似られるのも無理からぬ事かと」
「確かに、そのとおりだ――――」
「ですが」
言葉を続ける黄理の声音を切り裂いて、翁は声を紡ぐ。
「性格等は幼き頃の御館様そのままでございますよ。私は覚えていますよ、御館様は小さき頃から七夜として何処か外れていましたから、よく印象に残っております。ですから朔様も御館様に似たのでしょう。朔さまは何処か、と言うよりもかなり外れていますゆえ」
「そう、か……」
七夜黄理も確かに兄妹の中においては人並みから外れた存在だった。
幼少の頃よりどのようにすれば巧く人体を解体できるかを追及し続けた履歴を鑑みれば、病的と呼んでも差し支えはない子供時代を過ぎ、いつの間にか周りからあげ奉られる形で当主の座についている。
自分はただ殺しの手筈を追求していたはずだったのに、気付けばそれだ。
生憎その頃には人間らしい感情を持ち合わせていなかった黄理は唯々諾々と当主の務めを果たしはしたが、それは最低限の事ばかりで、殺人鬼として活躍していた頃は前線にて殺す事にこそ価値があると思い邁進した。
事実最初に殺人を果たした際はその魔性に取り込まれ、関係ない者まで手にかけた。
脅威を事前に取り除くという要素を構築すればそれも挽回出来なくはないが、血に酔うなどという経過を経ても黄理の暗殺は人並み外れていた。
あるいは朔もまたその可能性を秘めているのか?
そのように考察してみると実に興味深い。朔は始めて混血と対峙した事で七夜としての血が目覚めたと考えたならば、あの出来事は大きな跳躍になったのだろう。
切っ掛けは違えども、この七夜黄理と同じように、だ。
つまり今行っている精神の枷を架けるという所業はより七夜としての速度を早める事に繋がるのかもしれない。
「御館様。随分と悪い顔をしておりますな」
「あ?」
「まるで悪戯を思いついたような童のような顔をしていますぞ」
翁に言われ、黄理は自らの頬を指先でなぞる。確かに表情筋が吊りあがり、無表情から変化を遂げている。
しかし、それほどまでに凶悪な変容をしている訳でもない。
幼子のような表情、しかも悪戯を思いついた童のような顔と言われてもいまいちピンとくるものがない。
〝こいつ、魔眼には目覚めてねえはずだったが〟
内心翁を勘ぐり魔眼で見つめてみるが、さしたる変化はなし。
ならば黄理よりも長命であり、先代から忠節を守ってきた翁の人生経験とやら故に人の心根の機敏が読めるとでも言うのか。
馬鹿馬鹿しい。翁にそのような読心術めいた能力はない。
つまり、翁に解るほど自らが揺らいだという事だ。けれど、その揺らぎもまた楽しからずや。
「翁」
「はい」
「朔がもしこの機を乗り越えたならば、あいつを次期当主候補の筆頭にする」
「ほう、誠でございますか。しかし、それでは他の者が納得しないのでは?」
答えなど解りきっている癖に、翁は面白がる表情で問い返す。
「戯け。七夜は力が全てだ。多少外れていようともそれは変わらねえ。実際、朔の実力は今の所桁違いだ。俺が保障する」
「つまり、御館様自らが後ろ楯になると」
「まあ、なんだ……結果的にはそうなるな」
自分で言いながら、それがどれほど荒唐無稽な話か笑いたくなってくる。
実在的に今現在厳罰という形で隔離を行っている者に対し、次期当主の座を将来的に譲ると自ら言いのけているのだ、この七夜黄理は。
何という馬鹿げた話、何と愚かな事。噴飯物の戯言だ。だが、それが面白い!
自らの血を引いている志貴もまた将来的な実力を考えれば未知数の力を秘めている。
朔の挙動に眼は奪われやすいが、実地的な実力は朔に次いで志貴が子供の中では追随している。
それに志貴は朔を兄と慕うストッパーだ。何かと無茶しがちな朔を止める良き相談役にもなるだろう。
未来を想像するとはこんなにも面白いものだったのか、と黄理は今気を抜けば表情を更に崩してしまいそうだった。
二人はきっと上手くやるだろう。七夜の未来をどんな形であれ、より良い方向へと引っ張っていくに相違ない。
とは言え、それは朔がこの試練を乗り越えられればの話だ。
「だが、朔が今回の件で潰れるんだったら」
その時は仕方がない。
「手ずから殺す」
己が手塩にかけた子供を抹消する、と黄理は確言した。
何も手放しに朔を擁護する訳ではない。確かに黄理は朔の面倒を見てはいるが、それが災厄の芽となれば話は別である。
当主として、然るべき処置を行わなければならない。ただでさえ今の朔は危ういのだ。
朔は徐々に変わりつつある。狂気に飲み込まれかけているのか、あるいは昇華の経過の最中にあるのかは解らない。
しかし、鍛錬に熱中し他の物一切目をくれない朔を見ていると、どうにも危うさを感じてしまうのだ。
より無機質に変質し、より機械的に変容していき、そしてより暴力的に変身していく朔の姿。そしてあの目、朔のあの瞳だ。
無機質だった眼が今では何も見ていない。どこか遠くを見つめているような眼差しは、かつての自分のようでさえある。
――――ただ、どうにもそのような考えをすると、脳にノイズが走る。
「翁。お前の眼に朔はどう映る」
それはかつて、黄理が翁に問うた言葉だ。
朔が変わったのは、何も瞳や在り方だけではない。あれ以降、朔の運動能力は飛躍的に伸びているのである。
単純な膂力は無論、一々の動作に切れが更にかかり、時には黄理でさえ視認出来ないほどだ。
打撃は重く、鋭さを増した攻撃はより狡猾に敵を、訓練の相手である黄理をしとめんと蠢く。
縦横無尽に動き回る朔の動きは正しく蜘蛛の片鱗を見せている。僅か八歳の子供がだ。
今となっては黄理は自身の獲物である鉄撥を使用している。
それでも手加減がやっとの状況であり、本気の動きを強いられる瞬間が増えた。黄理と対峙する朔はさながら小規模の暴風雨のようだ。
故に黄理は時折、朔に怖気のような感情を抱く。それは畏れと言っても過言ではないだろう。
幼子相手にそのような想いを抱くなど、思いも余らなんだ。
そう遠くない未来。朔は黄理を超えるだろう。
それは、はっきりと、異常。
「そうですな……ただただ恐ろしいと存じ上げます。あのままではどうにかなってしまうのではないのか、と」
「……」
正直に己が心根を述べる翁に容赦はない。無理矢理に現実へと眼を向けさせる声音だ。
「ですが、もしその時が来て、御館様は本当に朔さまをその手にかけることが出来ますかな」
「なんだ、俺を見くびっているのか、翁」
思わぬ言葉に黄理は眉を顰める。
「いいえ、そうではありませんよ。確かに里を守る当主の役目と思えばそれは正しいかと思われます。しかし、御館様。貴方はその時、本当に朔さまを手にかけて後悔をなさいませぬか? 胸を張れますか?」
翁の言葉が空間に響く。その時、ぱちりと音をたてて囲炉裏の焔が小さく爆ぜた。
可能か否かと問えば、可能だ。
朔は確かに実力を持った子供であるが未だ黄理を凌駕せぬ幼子。実力的に考察すれば有無を言わさずに殺める算段はつける。
正面から殺すのもありだし、鍛錬で気絶した寝首を掻くのも容易に可能だ。それこそ赤子の手を捻るように簡単だろう。
だが、黄理は何故か翁の問いかけに頷くことが出来ない。
あの生まれたばかりの子供を引き取ったのは誰だ?
成長していく幼子の姿を見定めていたのは誰だ?
鍛錬で力をつけていく幼児にほくそ笑んだのは、一体誰だ?
思い出す。始めて朔が黄理の腕を掻い潜って一撃を放ったあの時を。
咄嗟に本気の一撃を放ってしまい結局朔の仕掛けは失敗に終わったが、秘めたる可能性に黄理は確かな笑みを浮かべたのだ。
覚えている。鍛錬をしている朔は自分にはそれ以外の楽しみがないのだといわんばかりに振る舞い、じゃれ付くように黄理へと襲い掛かっては気絶させられ、それでももう一度と頑なに苦痛極まる鍛錬を止めなかったあの子供を。
記憶に残っている。結界によって突然変異を起こした森の奥地を舞台に、基礎体力の向上だという名目のもと鬼ごっこめいた催しを行ったあの日々。
それらの思い出が色彩を振り撒いて脳に焼き付いている。
「――――嗚呼、そうか」
そして黄理は気付くのだった。自分は出来れば朔をこの手にかけたくはないのだと。曲がりなりにも自ら育てた子供なのだから、それなりの愛着があるのだ、と。
否、愛着なんてものではない。これは志貴へと同等に向けられていたはずの、親愛。
何てことだろう。今更ながらに、黄理は朔を我が子同然に扱っていたのだと気付いた。
しかしそれは、なんて苦痛。我が子も同然の子供を、自ら手塩にかけて育てた子供を己が手で殺めなければならないなど。
以前の黄理であるならば、ただ巧く人体を解体できるかを追及し、没頭し続けた殺人鬼であるならばこのような痛みなど無縁だっただろう。
ただ「そうか」と決めて、あっけなく事を済ましていたはずだ。あの、兄のように。
七夜の血に負け、狂気に飲み込まれた長兄の姿は歪であった。いっそ禍々しいと形容しても良かったであろう、醜悪なあの姿。
全ては一族の掟だった。身内殺しは最大の禁忌として処罰しなくてはならない。そう黄理が決めて、そして実行した。
なら、その可能性を孕んだ朔に対しても同じように今の黄理が振舞う事は出来るだろうか?
純粋な疑問として、そもそも自分は朔をこの手にかける事なんて出来るだろうか。
嗚呼、こうなるならばいっそ本当の我が子として朔を育てればよかった。
そうすれば志貴と同じように育った朔は今のような状態にはならなかったかもしれないし、このような苦悩を抱える必要もなかった。
全てはイフ。ありえない可能性。
「なあ、翁。俺はどうすればいいんだろうな」
ぼんやりと黄理は言葉を残した。
ジレンマだった。自分でも疲れていると実感できる。最近では志貴との関係も上手くいっていない。今回の喧嘩がそのよい証拠だろう。
志貴は黄理に反発し、そのまま朔のもとに駆けつけていった。
どうしようもない状況に気が休まらない。朔の事が気がかりで一時たりとも頭から離れないと自覚してしまった。
こうして悩んでいる事も朔の事ばかりで、しかも解決策は見つからずに結局は堂々巡りだ。
答えの見当たらぬ泥濘に黄理は嵌ってしまった。もう、どうすればいいのか解らない。
それでも、月は苦悩する黄理を無視して明るく輝いていく。
□□□
布団から見上げる天井はいつもと変わらぬ母屋の情景だった。もうどれほど朔と共に眠っていないのか志貴は月日を数える事も忘れた。
見ようによっては顔にも見える木目と、頑丈そうな梁。
昔は明かりによって生まれる影に妖怪がいるのだと教えられ、酷く怯えたものだが、今となっては懐かしき思い出である。
それでも時折その恐怖を思い出し、傍らで熟睡していた朔にしがみ付いたものだったが、それももう随分と前の出来事のように思える。
普段と変わらぬ視界に思わず溜め息が漏れた。
「どうしましたか志貴、眠れないのですか?」
傍らで編み物をしていた母が優しげに問いかける。そう言えば母は昔から優しかった。
厳格な父とは違い、不安に揺れる志貴をいつも慰めてくれたものである。
「ううん。なんでもない、なんでもないんだ。母さん」
自分自身へと言い聞かせるように志貴は呟く。けれどそんな志貴を咎めるように母は言う。
「志貴。自分自身すら欺けない嘘なんてつくものではありませんよ。何を考えてたのです?」
穏やかに、だけど真実を貫いて母は緩やかに笑む。やはり母には勝てない。
自分の稚拙な誤魔化しなんて全てお見通しなのだろう。
ならばここでこの胸の中に渦巻く疑念を全て吐き出してもいいものだろうか?
けれど、この話題を出せば母は必ず良い顔をしない。幾度となくそんな光景が繰り返されたのである。
余程の莫迦でもない限り、同じ過ちは繰り返さないだろう。ならば、我慢できずに口から疑念を漏らした志貴は余程の莫迦に該当するに違いない。
「兄ちゃんのこと」
簡潔に言葉にすると、やはりと言うべきか母は顔を曇らせた。けれど、一度零れた言葉はもう戻れずにとことん溢れていく。
「僕は兄ちゃんと一緒にいたいだけなのに、だけど皆駄目だって、行っちゃいけないって言うんだ。……僕は一緒にいたいだけなのに、ねえ母さん、何で皆は兄ちゃんと一緒にいちゃ駄目だって言うんだろう?」
「……」
「父さんも答えてくれない、翁も何も言ってくれない。誰も反対するばかりで、皆駄目っていうだけ」
そう呟いて、不意に視界がぼやけてきた。いけない、思わず瞳が濡れて泣いてしまいそうだった。
不安や不満が綯い交ぜになって今にもはち切れてしまいそう。
でも泣いてはいけない。きっと、泣いていい資格があるのは朔ただ一人なのだ。
あの彼岸花を思い出す。二人で見つけた赤く咲き誇る一輪の花を。
たったひとりで咲いている様は淋しげで、自分だったら思わずしくしくと泣いてしまうだろう。
朔はあの彼岸花だ。たった一人で咲いても文句を言わずに咲き誇るたった一本の華。群生することなく、理由なんて求めずにただ在るだけの赤い花弁だ。
ふと気付くと、母は俯いていた。やはり、良い顔をしないのは解っていた。
けど何も母を責めている訳ではない。ただ不思議なだけだ。
この突然降って沸いたような理不尽が不思議でたまらないだけなのだ。――――と。
「そうですか……」
一言呟いて、布団に潜りこんでいる志貴の頬を母は今にも壊れてしまいそうな陶器を扱うように優しく撫でた。
「志貴は優しいのですね」
まるで慈しむように母は囁いた。
「僕は優しいの?」
「皆怖いのです。何かを失う事が、誰かがいなくなる事が。大人になればなるほど傷つきたくなくなる。そして傷つけたくなくなる。だから朔を遠くにおいた。朔は今不安定ですからね」
「どうして?」
「……それは」
言い逃れを許さぬような志貴の純真な視線に耐えて、母は言葉を紡ぐ。
「皆そこでどうしてだと思わない。いいえ、思わないふりをしています。それが一番悪くないことだと、自分に言い聞かせながら。それが一番痛いと皆気付かないふりをしながら」
そして、それは私も同じです。
と、母は懺悔するように小さく呟いた。
「母さん?」
「しかし、志貴。あなたは違った。皆が気付こうとしない事に自ら向き合った。だから、あなたは優しいの」
志貴にとって母は誰よりも優しく、そして柔らかい人だった。
当主としての顔を常に保つ父や拠り所としての朔、そして朔の世話をしている叔母や相談役の翁とも違う、どこか奥底で受け止めてくれる、そんな雰囲気を持った女性であった。
志貴にとっては理想的な母とさえ言える。そんな母から優しいなどと言われるとは思っていなかった志貴は、くすぐったい感覚を覚えながらも少しだけ誇らしいと思えた。
「痛いことは悲しい事。だけど痛くないと思うことが一番悲しい。だから、まだ大丈夫なんじゃないかと思います。これも希望観測でしかないのかもしれませんが……」
「母さん?」
「私たちはまだ踏み出せません。でも、志貴。あなたならもしかしたら……」
「……」
どう答えればいいのか解らずに迷う志貴に母は少し微笑んだ。
「もう夜も遅くなります。おやすみなさい、志貴」
「……うん、おやすみなさい」
結局明確な答えは解らないままに、襖を閉じて出て行く母にそっと志貴は呟いた。
夜。明かりの消された室内はひんやりとした気配にすぐさま飲み込まれていく。敷かれた布団の中、志貴は眼を凝らして天井を見つめた。
最早木目は見えずに、あるのは暗がりと化した影。
僅かばかりに開いた障子の隙間から差し込む月光が眩しかった。
これほどまでに月の光が強いのはいつぶりだろう。それほどまでに月明かりは眩しく輝いていた。
そうして、朔を思った。目前で変わり果てていく朔の姿を思った。
それをどうにかしたくて、けれどどうすることも出来ない自分は傍にいるだけ。それが悲しくて、悔しくてたまらず父に噛みついて、母に泣きついた。
今思えばなんて情けない。これではただの八つ当たりだ。
今日もまた、朔を迎えにいった。朔は鍛錬の時間も終わったと言うのにその場から離れず、何か瞑想しているようだった。
あの事件から朔がそのように眼を瞑っている姿は幾度となく目に付いているけれど、あれは何を思っているのだろうか。
少し前までは迎えにいくのは父の役割だったが、父はもう朔と関わる事を止めたのか、その役割は志貴が買って出た。
せめて、たった一人で佇む朔のその傍にいたかった。
だけど、それ以上先に踏み込む事ができない。何か特殊な結界でも敷いているかのように近づく事が出来ない。
理由は解っている。朔の瞳のせいだ。
朔は見ていない。何も見ていない。誰も見ていない。茫洋で曖昧な瞳はここではないどこかを映し出しているような気がした。
それが志貴には怖くて、その度に朔の袖を掴んだ。これ以上朔がどこか遠くへ行ってしまわぬように、強く握り締めた。
本来ならば掌を掴みたいが、それにはまだ勇気が足りない。あの好きだった掌までの距離は限りなく遠い。
だけど、ここで立ち止まっては駄目だと気付いた。
「僕が、頑張らないと」
決心の言葉が暗がりの室内でまるで灯火のように広まる。
周りが変わらない以上、朔もまた変わり続けてしまう。きっと兄と呼んだ人物ではなくなって、ここではないどこかへと消えてしまうだろう。
それだけは嫌だ。嫌なのだ。論理や根拠なんてない。ただ傍に居て欲しい。あの兄と慕う少年と共にずっといたい。
だから、志貴は決めた。
「明日、一緒にご飯を食べよう、かな」
もっと近づいて、あの頃の二人に戻ろう。きっと父は最初怒るかもしれない。母も自分を嗜めるかもしれない。
けれど叔母を味方につけて、翁を説き伏せてしまえばこっちが有利だ。そうすれば他の人もきっと元通り。
父は普段通り気難しい顔で、母は微笑んで、叔母は冷たいながらも優しくて、翁は快活に笑っている。
だから、自分が頑張る。そう決めた。
だから、今はお休み。全ては明日だ。
目蓋を閉じる。部屋に入り込んでくる外気が少し寒くて、志貴は布団に潜りこんだ。
部屋に入り込む月光は閉じた目蓋でも痛いほどに眩しく輝いている。
そのまま志貴は、緩やかにやってくる眠気にひょいと乗り込んで眠りについた。
□□□
月が、満ちる。
「槙久さま。足並整えました。いつでも行けます」
夜の帳に紛れ込み、復讐の化生は訪れた。
車から降り立って踏みしめる地面は土の感触。久しく味わっていない感覚に興奮し、脂汗が自分でもわかるほど発奮される。
「これは、粛清だ」
かつての恐怖を何層にも奥深くに押し込めて、男は呟いた。
「行くぞ」
懐には鬼。人外のための人外。
殺人鬼を滅ぼすために鬼を引き連れて、男はやってきた。
頭上には忌々しいほどに輝く満月。余韻に浸る余裕はなく、今はただ月明かりが邪魔だ。
「七夜黄理を殺れ」
――――逢魔が刻。