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No.34379の一覧
[0] 【月姫】七つ夜に朔は来る【オリ主もの?】[六](2012/09/19 16:31)
[1] 第一話 黄理[六](2012/09/08 21:12)
[2] 第二話 志貴[六](2012/09/09 20:34)
[3] 第三話 とある女の日常[六](2012/09/09 20:58)
[4] 第四話 骨師[六](2012/09/10 08:36)
[5] 第五話 梟雄[六](2012/09/10 09:47)
[6] 第六話 ななやしき君の冒険 前編[六](2012/09/12 11:12)
[7] 第七話 ななやしき君の冒険 後編[六](2012/09/19 16:29)
[8] 第八話 蠢動[六](2012/10/23 11:06)
[9] 第九話 満ちる[六](2012/10/26 18:36)
[10] 第十話 月輪の刻[六](2012/11/03 09:25)
[11] 第十一話 紅き鬼[六](2013/01/10 12:13)
[12] 第十二話 鬼共の饗宴[六](2013/02/24 11:13)
[13] 第十三話 Sky is over[六](2013/04/17 00:45)
[14] 第十四話 崩落の砂時計[六](2013/06/29 18:01)
[15] 序章終極 鬼の哭く夜に、月は堕ちて夜は終わる[六](2013/07/13 10:17)
[16] 刀絵巻 百花繚乱/曼荼羅地獄絵図[六](2014/01/29 21:59)
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[34379] 第八話 蠢動
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/10/23 11:06
 ――――重ねたしゃれこうべを幾ら数えても、どれほど屍を築き上げても、そこに価値は無い。

 七夜は決して最強ではない。最も強い生命ではない。
 思えば、七夜黄理との訓練の際、教示された全ての事柄は否定から始まった。

 それはいつかの情景。取るに足らぬ、いつもの光景であった。

 日増しに力をつけていく朔に向けたものか、あるいは七夜としての特色を自分へと言い聞かせるように、何度もそんな言葉を彼は紡いだ。
 慢心を防ぐためか、それとも誇りを持たせるためか、理由はわからない。
 もとより誇りなんぞ塵芥ほども持ち合わせていなかったから、それを危惧したなのかもしれない。

 曰く、七夜は最強ではない。決してこの世界で最も強靭な存在ではない。
 ただ超能力を保持し、人間の粋を極めた身体能力を持ち、門外不出の暗殺術を伝えている、だけの存在でしかない。
 その暗殺術すら四足獣であるならば身につけられる程度のものでしかないのだ。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもない。それは隠しようのない紛れもない事実。
 もし、七夜がこの世で最も強い存在であると言うのであるならば、何故七夜の者は敗れるのか。

 それが答え。七夜は死ぬ。簡単に死に絶える。
 それは七夜が弱いからではない。人間というカテゴリーの中でならば七夜は極めて高い位置に座位する一族である。
 長い時をかけて繰り返された近親相姦は、七夜の血を研ぎ澄まして不純物のない身体を得るに至った。
 しかし、ではなぜ七夜は敗北し、死に散らざるをえないのか。
 確かに、以前黄理は護衛の任について負傷した事もある。それが驚くほど衝撃的だった。
 あの黄理ですら、自身が思い描く最強の男ですら簡単に傷つくのだと、彼が自分と同じ人間なのだと改めて実感したものだ。
 その時、黄理は「なれない事はするもんじゃない」と言っていたが、果たしてそれはどのような意味があったのか。

 この世には人間ではないものが溢れている。
 人外の化物。悪鬼羅刹の魑魅魍魎が跋扈する現界の地獄。それが世界の真実である。
 そのような者に七夜は勝てるのか。

 勝つ事もあるだろう。
 川原から砂金を発見するような確立で、勝ちを拾うこともあるだろう。
 だが、それは絶対ではない。

 世界は化物に満ち満ちている。
 裏に、夜に、闇に、影に、あるいは無に彼らは潜み、あるいは闊歩している。
 そんな世界では人間の想像を遥かに超える存在が当然のようにいる。
 超越種と呼ばれ、人間という種よりも高位に座する存在。
 それらは主に血を好む吸血種と考慮すればいいだろう。
 中には肉を捨てて事象に成り果てた化物もいると聞く。そのような存在に七夜は勝てるのか。
 黄理はこちらの思考を読み取るように瞳を細めて、視線を交わした。

 その時、自分はなんと答えただろう。恐らく、わからないとだけしか口にしなかったはずだ。
 しかし、そんな問答を切り捨てるように黄理は言うのだ。

 勝てない。七夜はまずもってそのような存在に太刀打ち出来ない。
 よほどの能力を保有していない限り、七夜が勝ちを拾うことは無い。絶対に勝てるなどという事など無いのだ。

 覚えておけ。

 七夜は退魔の組織において混血共を相手にしていた。つまり、それは七夜にはそれ以外の道しか残されていなかったとも言える証明。
 事実それは正しい。七夜は混血以外との相性が悪く、純粋な魔という存在に対して七夜はあっけなく殺されるのみ。
 それほど七夜は脆弱で、儚い存在なのだ。
 だが、それでも七夜が何故蜘蛛として恐れられ、禁忌の存在と謳われたのか。
 何故だかわかるか?

 こちらの深遠を覗く様に黄理は瞳を見る。
 その鋭い眼差しに映るこちらの姿は熱気も興奮もなく、ただ深々と黄理の言葉を受けいれていた。

 それは偏に、殺す殺さないと言う領域において、七夜に敵う存在がいないからに他ならない。
 七夜は殺しを目的とし手段とし結果とする一族。故に殺す事を第一に教え学び、必殺を授け考え鍛え磨き続けてきた。
 殺しに徹し、殺しを珠玉とする一族なのだ。
 他の退魔の一族ではどうか。確かに彼らもまた魔を対象に相手取って動く集団。
 だが、彼らの目的は七夜と異なる。
 彼らは魔を相手に討伐し封印し祈祷し法術によって祓うことを目的とした一族であり、殺しは手段の一つ、あるいは結果でしかない。

 これが魔であるならば更にはっきりとしている。魔が持ちえて行使するのは暴力。
 彼らは自らが生まれ持った素養や能力を使用して、他を圧倒する術を惜しみなく発揮させる。
 それは鍛えて得たものでもなく、また本人の意志とは関係なく望んで手に入れたものではない。
 彼らは魔であるが故に暴力を会得していて、それを揮って対象が死んだという事に他ならない。
 七夜は違う。七夜は殺す。確実に殺し、必ず殺す。
 それ以外は出来ぬ。それ以外をやろうと思わない。
 それが七夜にとっての最善であり最良、そして存在証明なのだ。
 だから理性を持つ者は俺たちを恐れるのだ、とそこで黄理は視線を外し、空を見上げた。
 葉群によって遮られた空は狭く、薄暗い。それでも隙間から零れ出る光のなんと輝かしいことだろう。

 七夜は殺人鬼だ。殺しを目的とし、手段とし、ただひとつの結果とする殺人鬼だ。
 俺たちは暗殺者だ。殺しを目的とし、手段とし、唯一の結果とする唯の暗殺者だ。

 そして黄理は言った。そこに自嘲の響きがあったのは、きっと気のせいではない。

 ――――これほど最悪な者がいるだろうか。
 七夜は生きているから殺すのではなく。
 殺すために生きているなどと、自ら証し立てているのだから――――と。

 それを己はどう受け取ったのだろう。今となってはわからない。ただ理解できることがあるとするのならば、自分はただ殺す事を唯一の行為とするだけの存在でしかないのだと、なんとなく思ったぐらいなのだろう。

 それは、いつかの情景。いつしか幻のように色褪せて消えていく、いつかの光景――――。

 □□□

 人がどうにか不十分には過ごせなくもない広さは家主に似たのか、温度のない静寂が横たわっていた。
 志貴はその圧迫感を宿す雰囲気にどこか息苦しさを覚えながらも、目前で耳を澄まさなければ聞こえないほど小さな寝息をくり返す朔を注視していた。

 すぐ側に人がいるというのに、朔は目覚めない。
 それも当然だ。何せ彼は黄理の手によって気絶させられたのである。
 訓練によるものではない。本気の一撃だ。肉体への負荷はどれほどのものか。

 里を騒然の渦に叩き込んだ男――――あの妖怪のような老人が去ってから、すでに二日経っている。
 しかし、朔は未だ眠りから覚めず、その目蓋を開かない。

 その呼吸はあまりに静かで、胸の僅かな上下がなければ死んでしまったのではないかと疑わざるを得ないほどだった。
 顔面の筋肉は微動だにせず、微かな身動ぎさえ起こさない朔は精巧に作られた人形を思わせ、ある種の恐れさえ抱かせるほど。
 故に志貴は時間が許す限り朔の側を離れず、その目覚めを待ち続けていた。

 志貴の表情は頑なであり、どこかしらに不安と彼自身にも判別できぬ感情が複雑に絡まりあっていた。
 そうして思い返すのはあの時目前で突如として巻き起こった一連の騒動だ。

 志貴の側で突然に豹変した朔。見た目は変わらないのに発する雰囲気が一変した瞬間を志貴は幼心に察した。
 そして戸惑いを隠せない志貴を置き去りにして、まるで理性を失ったかのような身動きで朔が外へと襖を破って飛び出していった。
 そして繰り広げられた戦端。否、あれを闘争と呼ぶのは些か一方的に過ぎた。
 あの妖怪に襲い掛かる朔が見せた動作の悉くは、獲物を甚振る肉食獣のそれであった。
 急制動と加速の連続は七夜である志貴でさえも目視することを許さず、ただ老人の命を翻弄し続けた。まるで始めて手に入れた玩具へと戯れるように。

 あのまま黄理が駆けつけなければ、あの妖怪はきっと朔の手によって必ずや命を散らしていただろう。
 何故だか志貴はそんな未来を簡単に確信できた。
 それは朔が圧倒的だったとか、そういう簡単な言葉ではなく、決まりきった運命が無理矢理に捻り曲げられたような有無を言わせぬ説得力が、あの時間にあったからだろう。
 未だ人を殺めたことのない志貴でさえも自然と知れるほどの決定的な死という審判があの時、すでに打たれていたのだ。

 無論、志貴は今でもちゃんと整合がつけられた訳ではない。彼の思考が現実に追いつく事には全ての終止符が打たれたのである。
 しかし、それでもあの現場に居合わせた志貴は全てを見ていた。否、見ざるを得なかった。

 朔の異変に飲み込まれ、言葉を失い視線で追いかけた先にいた妖怪の前に降り立った兄と呼ぶ従兄弟。
 空気が硬質を帯びたかのように動かなくなり、時が止まったように感じられた。
 間違いなく、あの瞬間に暴動の中心として里を支配していたのは朔だった。
 その身から噴出する殺気は周囲を仄暗い深海へと貶め、妖怪の命を狩ろうと襲い掛かったのである。
 その時、志貴は呼吸が苦しくなったのを感じた。
 未だ戦場を知らず、本番を知らぬ志貴にとって始めて感じる本物の殺意は肉体が動くのを止めるほどの威力でもって志貴を蝕み、息をしてしまえば、それが自分の最期なのだと思うような感覚を志貴は味わった。

 朔がそのような人物である、という事を志貴は知っていた。
 以前も敵対したきのこの化物へと問答無用に襲い掛かったのがその証明である。

 だが、あそこまで箍が外れているとは思いもしなかった。
 言葉を変えれば、考える事を止めていた。

 冷静に考えれば、それも致し方のないことなのかもしれない。
 志貴と朔の交友は未だ短く、濃密な時間を共に過ごしたとは言えぬ。
 兄と志貴が一方的に呼称してはいるが、その距離感は曖昧なままで、志貴が頑張ってその間隙を縮めようとしても朔は何も反応してはくれない。
 そればかりか、朔からは何もしてこない。志貴としては、朔とは友達という感覚ではなく、それよりももっと近い場所にいてほしいと思っている。
 それは同じ敷地内に生活しているというのもあるだろうし、両親のいない朔を哀れんだというのもまた事実。
 しかし、そのような打算はあれども、本来二人の関係が稀薄な従兄弟関係であるならば、その距離を縮めて本当の家族になれるのではないのか、と志貴が打算を凌駕して考えたのもまた事実であった。
 志貴は一人っ子だ。両親との生活に満足してはいるが、兄弟というものに憧れている節がある。
 里にいる同年代の七夜の子らを見て、友とは違う、歳の近い家族がいるという事がひどく羨ましかったのだ。
 だから朔と交友を深める事で、今は無理でも真実兄弟のような関係になりたい、と子供ながらに志貴は願っていた。

「兄ちゃん……」

 志貴は布団の中で未だ目覚めぬ朔を見やる。

 あきらかに他の子供とは違うというのは感じ取っていた。黄理に似た従兄弟、というだけでは説明がつかない。
 本質的に、自分とは違うという事実が、あの時現実として志貴の認識に叩きつけた。

 故に朔が豹変して老人へといきなり襲い掛かったとき、志貴は朔に言いようのない感情を覚えた。
 尋常ではない殺気。自分とは全く異なる、まるで獣か鬼のような存在が放つ殺意。それが志貴には怖くて怖くてたまらなかった。
 自分の知らない朔。自分が見たことのない兄。
 話しかけようとも、まるで人語を解していないような無反応のまま強襲していった従兄弟。
 大人である翁の拘束と静止を振り払って飛び出した家族。

 もとよりそのような徴候があったのは事実。そしてその時が来たのだと実感した。

 しかし、志貴はそれを受け止め切れない。だから戸惑い、どうすればいいのかと悲嘆に暮れる。

 けれど、黄理が朔を気絶させたことであの場はどうにか収まった。そして、朔が気絶したことに安堵した自分自身を志貴は恥じた。
 あれではまるで、自分が朔を恐れているようではないか、と。
 どれだけ豹変しようとも朔は朔。それだけは変わりようのない真実であって、自分が兄と見定めた従兄弟なのだ。
 それを自分が怖がってどうするのか。それでは本末転倒も甚だしい。

 そう思い、そう思った。

 けれども本能は理解を超える。今でも朔の側にいるのは少し不安だ。
 もし朔が目覚めた時、兄は自分の知っている朔ではないかもしれない可能性。それが脳裏を過ぎ去って不安へと変貌する。
 そしてもし、あの時の姿が朔の本当の姿であるならば、あの殺気が自分に向けられるのではないのか。

「大丈夫、だよね?」

 それがいったい何に対する言葉なのかも分からず、志貴は腕を伸ばして朔の手を握る。
 ごつごつとした感触に、力の篭っていない掌は冷たい。

 志貴の中身は感情がごちゃ混ぜになっていて、自分自身でも統制の取れる状況ではない。
 だけど、それをどうすればいいのだろう。未だ志貴は幼く、人生経験など殆どない。
 誰かに助言を貰えば良いのかもしれないが、今現在里の大人たちは朔の処遇をどのようにするべきなのかと母屋に集って話し合いを行っている。
 その内容によっては朔がこれまでとはまた一変した生活を余儀なくされる場合もあるだろう。
 その時、自分はどうすればいいのか、まるでわからない。
 志貴には難しい事は分からない。だから、大人たちの決定に、父の決定に従わなければならないのか。
 自らの力で答えを導くには、志貴はあまりに無知で、そしてあまりに力不足だった。

 もし、朔があの時のままで、大人たちの審議が厳しいものになった場合、自分は本当に朔を兄と呼んでもいいのだろうか。
 近づいてもいいのだろうか、側にいても、いいのだろうか。
 一抹の不安が過ぎる。そもそも希望なんてものはどこにもない。
 全て志貴の手には届かない場所で動き、決定されるのだ。その時になって、自分はどうするべきなのだろう。

 しかし、そもそも朔は自分をどう思っているのだろう?

 それを思うと恐れと切なさがこみ上げてくる。
 今まで共に過ごした時間。一緒に過ごした日々。
 それに対し、否、志貴に対し朔が何も感じていなかった場合、志貴はそれに耐え切れるだろうか。
 ありえる可能性に、身体が心から震えるような気がした。だから志貴は朔の掌を力強くにぎった。

「大丈夫……、大丈夫だよね、兄ちゃん」

 自分へと言い聞かせるように志貴は呟く。
 朔に、朔を取り巻くであろう状況に恐れを抱いているのは事実。しかし、志貴は朔から離れることも嫌だった。

 朔と共にいるのならば恐怖さえも踏み越えよう。
 志貴は朔と家族になりたかった。
 父や母とも異なる自分の居場所。拠り所を欲した。そのためならば、決してこの気持ちは折れない。
 でも、具体的にどうすればいいのか分からない。分からない。分からない。
 だから志貴は、ただ黙って朔の掌を握り締めた。硬く、冷たく、まるで死人のようなこの手を決して離すまいと、自らに証立てるように。
 震える心を、抑え付けながら。

 □□□

 それは、屋敷内部に一瞬の余韻すら響かせることなく、どよめきと女の怒号によって遮られた。
 いっそ発破された声音は罵声と言っても差支えがないほどである。

「どういうことですか、兄様っ!!」

 朔の世話役をかってでている女が吼えたて、自身の兄であり、当主である黄理に向かって噛み付いた。
 しかし、皆の注目を集める黄理は座したまま、冷酷とも言えるほどの無表情で言いのける。

「どうもこうもない。これはもう決定した事だ」

 そのまともに相手取りすらしない黄理の態度に女はますます憤怒に表情を歪めていく。

「だからと言って、あんまりではないですかッ!?」
「くどい。何を言おうが最早俺が決めた。……お前達も聞いたな。これよりお前達は今後七夜朔との接触を一切禁じる」
「兄様!!」

 悲鳴のような女の声を無視して、更に黄理は続ける。

「以降、朔と接触するのは俺を除きその一切を許しはしない。これは提案ではない、命令だ」

 黄理は冷たい表情のままにそれを宣言した。

 ことは朔と黄理の衝突から二日と経過し、里内部の混乱が沈静化された後に一族の者が当主の館に召集された事から始まった。
 黄理から七夜と刀崎の協定を検討し直す旨が伝えられたまでは良かった。
 あの日、刀崎梟の行動は里に無用な混乱を与え、決して好意的に流されるものではない事は明白である。
 故に刀崎との協定破棄は異存の声が上がらなかった。そもそもあの時、戦闘に長ける者は挙って梟の討伐を虎視眈々と狙っていたのである。
 戦力にはならない者は除いて、偏には発見されぬ隠密により確実に不穏分子と化した梟を仕留める算段をつけていた。
 それが行使されなかったのは黄理の命によるもの。協定破棄とは言え、相手は遠野の分家を纏める棟梁。それに手を出せば確実な報復が目に見えている。
 危険分子は排除されるのが世の常であろうが、あの時梟が無事に七夜の森から抜け出したのはそのような計算もあってのことだった。

 現在梟に襲撃し、黄理との衝突によって気絶した朔は未だ目覚めておらず、黄理が召喚したヤブ医者の処置によって肉体的損傷には問題ないことが判明している。 彼の診断を正しいと判断すればの話であるが、もういつ目覚めてもおかしくはないとの事である。
 そして今現在朔は離れにて安置されているが、それは隔離にも近い状況である事はこの場に召集された者達も承知していた。

 突如として巻き起こった朔の豹変。
 それが七夜に動揺をもたらしている。

 もとより朔は黄理が預かり表沙汰にはあまりされていない子供ではあるが、その存在が黄理の兄の実子である事は周知の事実。
 つまり彼の血を色濃く受け継いだ危険分子であるのだ。
 故に朔がいずれ成長したとき、なんらかの騒動を起こすのではないのかというのが穏健派の意見であった。
 にも関わらず朔が今日まで多少の不便はあったにせよ無事に成長できているのは、黄理の決定と妹の鶴の一声によるもの、そして翁の賛意があったからである。
 当時、朔を不安視する者の中には混乱を起こす前に排斥するべきでは、という過激な発言すらあった。
 それを抑えていたのは翁乃至黄理である。自分たちが面倒を見るからそのような事は起こらぬ筈だと言い、曲がりなりにも朔を引き取っていたのだ。

 しかし、今回の騒動により彼らの懸念が現実のものとなった。

 故に彼らはやはりあの時殺しておくべきだったと声をあげかかった。それに待ったをかけたのが黄理の決定だった。

 何者に於いても、また如何なる時であっても朔への干渉を禁ずる。

 もともと人との交流は少ない朔である。
 効果は薄いのではないのか、と懸念の声も聞こえたが、子供というものは状況から精神を守るため否応なく変化する、という翁の説のもと渋々と応じたのである。
 
 しかし、それだけでは納得出来ないものがいる。

「私は反対です」

 黄理の妹だけは頑なに彼の言説を拒んでいた。

 もとより朔の味方は少ない。あの刀崎梟が原因となって巻き起こした混迷によって、それも減少して今では朔の世話を行う妹ただ一人である。
 故に彼女はここで引き下がる訳にはいかなかった。ここで引き下がれば、大事な何かを失うと危惧したのである。

「兄様。朔は未だ十にも届かぬ幼子です。そして今が最も子供にとって大事な時期である事は、兄様にも理解できるはずです。ならば、今朔を放っておけばどのような事になるか、お分かりになっているはず」

「確かにそうだな」

 幾ら当主とは言え肉親の言葉は無下には出来ず、黄理は鷹揚に頷いた。

 確かに、女の言葉にも説得力はあった。
 どのような経緯があるにせよ、朔は未だ子供。ここで彼を育児放棄してしまえば、朔の精神構造にどのような害が生じるか想像も出来ない。
 ただでさえ特殊な一族である七夜の中で更に特異な生活を強いられている朔が、あれよりももっと酷い事になることは目に見えているはずなのだ。

 ――――それなのに、この人は!

 妹は目前で座する肉親を睨みつける。ともすれば、激情に憎しみが注がれんばかりの力を込めて鋭く睨みつける。
 しかし、黄理は依然として無表情であり、妹の激昂など何処吹く風と言わんばかり。
 駄目だ。このままではいけないと、彼女は尚も食い下がる。

「義姉さまも、何ゆえ兄様を説得して下さらないのですか!」

 下位に座る義姉を見やる。
 だけど、彼女は目を伏せて応えてはくれない。
 垂れ下がった前髪が頑なに彼女の瞳を隠していた。それが彼女の言葉ならざる返答であった。

「……そんなに朔が邪魔ですか。そんなにも朔が邪魔なのですか」

 いっそ憎しみを込めて女は呟く。それはここにいる全ての者に発しての怨嗟であった。
 誰も彼もが気まずげに視線を反らす。当主ではないとはいえ、当主の妹である女の覇気は彼らの心臓を握るほどのものがあった。

「誰も邪魔だとは言っておりませぬ。これもまた一時的なものであって、致し方のなき処置で御座いますゆえ」

「翁っ! あなたもあなたです! 何故朔を庇おうとしない!」

 この場には似つかわしくない穏やかな声音は翁によるものだった。女は感情をそのままにぶつけて標的を変える。

「あなたも朔の世話を曲がりなりにも受け持った身でしょう。何故兄様の意見に賛意などするのです!」

 しばらく無言が続き、翁は徐に口を開いた。

「里のためで御座います」
「……何だと」
「如何様な理由があったにせよ、朔さまの情緒が不安定になったのは事実で御座います。故に無用な騒動は避けなければならないもの。里の存続を願う者の身ならば、何もそこまで間違えた選択では御座いますまい」
「……ッ、お前!」

 女は翁に飛び掛る寸での所で黄理の無感情な瞳に射止められ、その動きを止めた。

 そして本人ですら自覚なき威圧感に気圧された。

「ですが、これも一時的な処置で御座います。朔さまが落ち着き次第直ちに以前の生活にお戻りしていただきます」
「……つまり、お前は様子見か。この道楽屋めが!」
「どのようなお言葉を言って下さっても構いませぬ。しかし、これは最早決定した事。そうで御座いましょう、御館様」
「……そうだ」

 頷く事もなく、黄理は肯定の意を下した。

 それが女の激情に油を注ぐ。朔を赤子の頃から世話をしてきた女にとって朔は己の子も同然。
 故にどのような正論であろうとも、彼女の前ではただの唾棄すべき戯言にしか成りえない。
 子を守る母が驚異的な強さを持つのと同じように、彼女は今我が子を守る一人母として、一族の総意と対峙していた。

「……志貴はどうするのです。志貴はそのような事情で納得するはずもない」
「私が徹底させます」

 苦し紛れに搾り出した言葉を切り崩したのは、今も尚俯いている志貴の母だった。

「義姉様……」
「これは最早決定されたのです。だから、あの子にもちゃんと言い含めて……」
「そういうことではない! 志貴にもまた同じような気持ちを味合わせるのかと聞いているのです!」
「……」

 志貴と朔の仲が良好なのはすでに里中で知られている。その仲を引き裂こうと、義姉は言っているのだ。
 同じ子を持つもの同士、きっと義姉はこちら側についてくれるだろうと、心の片隅で女は思っていた。
 しかし彼女は黙ったままだ。沈黙は時として言葉よりも重い肯定である。故に女は裏切られた心地がした。
 最早、誰も味方にはなってはくれない。誰も朔を庇おうとはしない。それが決定付けられようとしている。
 改めて思うは何と朔の味方のいないことだろうか。これほどまでに朔は里の者から庇われる事もなく、また擁護されることもない。
 それは皆内心朔を疎んじていたからなのか。驚愕と怒りがうねりあげて背骨を痛めつける。何とかしなければならない。
 何とかしなければならないが、焦燥と怒りにうまく言葉が続かない。今口を開けば、出てくるのは彼らを罵倒する言葉ばかりだろう。

 故に彼女は、ここでは禁句とされていた名を紡いでしまうのだ。

「ここで問答しているのは志貴の問題ではない。朔の問題だ」
「しかし兄様、幾ら朔が長兄の子とは言え――――っ」

 瞬間。重圧が屋内を飲み込んだ。

 咽喉がひりつくような感覚に肌が粟立つ。それは紛れも無く七夜当主である七夜黄理が放った殺気であった。
 全身に刃が食い込んだような感覚に皆、息を止める事しか出来ない。

「口を慎め」

 黄理が発する殺意にも似た威圧により、激情に身を任せる寸前だった女も止まらざるを得なかった。

「朔があいつの子供である事はもう変えようのない事実だ。お前も目にしただろう、朔のあの変容を」
「……」
「ならば、今は里のため朔の殺人衝動を抑えつけ、操作するのが道理。朔には暫く行動を厳守させ、衝動を抑えるための枷をつくる」

 それが、ひいては朔のためにもなるだろう。

 小さく、黄理は己へと言い聞かせるように呟いた。
 彼らは皆未だ覚えているのだ。黄理の兄の圧倒的な姿、その蹂躙、その狂気を。
 肉片すら残さずに散って行く生者と、亡者ですらない死体を幾重にも生み出した男の偉容を。狂態を。
 その呪われた血に名を列ねる幼子。朔は未だ小さいが、ひとつの火種だ。
 彼が後に成長し、やがて長さえも凌駕する力を得たとき、何が起こるか。狂乱か、それとも混沌か。
 少なくとも安寧とは程遠い修羅道を七夜は再び歩むかもしれぬ。二日前のあれはその片鱗であろう。
 圧倒的な暴力と冷酷な意志。興奮もなく、狂気もないただの行為として殺人に没頭できる性質の一片。
 それは人間味の薄い人格と幼子では抑えきれぬ殺気と相まって、真性の殺人鬼としての資格を朔はすでに手にしている。
 否、最早化け始めているのだろう。人外の鬼に。その時に起こるであろう騒乱は如何ほどか。

 それを良し、とする者はここにはいない。
 折角手に入れた安らぎを身内の手によって崩されるなど、昔ならいざ知らず、平穏を知ってしまった七夜にとって素直に受け入れがたい事であった。

 故に、誰も朔を庇わない。否、庇えない。

 ここにきて黄理の決定による、ズレが生じてしまった。
 もし、七夜が退魔組織から抜け出していなければ。
 もし、あのままの七夜でいたならば、このような問題と直面はしなかったであろう。
 例え狂気に身を委ねようと優秀であるならば暗殺者として育て、そして戦線に立たせる。
 寧ろ殺人という行為に嫌悪感を持たない鬼子であるならば、挙って殺人者にさせるはずだった。

 しかし、最早七夜は退魔の組織にあらず。退魔を抜けた七夜は最早人里から遠く離れた森の住人でしかない。
 殺しを手段として是とするが、生業としては、一族としては否と認めなければならない。認めなければ、行く末は惨めな滅びでしかない。

 それを分かっているからこそ、黄理は念を押す。

「異論はないな」

 顔を見合わせるものはあれど口を開くものはいない。いるとすれば、悔しさに顔を歪めて黄理を睨みつける妹ぐらいか。

 彼女だって理解はしているのである。このままでは朔の状況が追い込まれるだけだという事は、彼女自身も理解しているのだ。
 けれど、理解と受け入れるのはまた別の話。
 これで女が愚昧であるならば、まだ救いはあった。
 将来も打算も見出せぬほど愚かな女であったならば、問答無用に異議を唱え続けた。
 朔をこれ以上に冷遇するとは何事かと、当主を相手取った。

 しかし、彼女は聡明に過ぎた。
 女としての己よりも、七夜としての自分がこのままではいけないという忠告を彼女に告げるのである。
 もしこのまま朔の処遇に手を拱いて何も行わなかった場合、一体何が起きるか。
 あの恐るべき長兄を間近で触れた彼女だからこそ、懸念は必然だった。とても楽観視出来ぬ程、朔は危ういのだ。
 人格、殺人衝動、行動。そのなにもかもが人として大事な何かを欠落している。
 まるでそれはあの狂気に魅せられ、そして身を委ねた長兄と同じ道を歩んでいるような気が女にはしてならないのだ。

 故に枷をつけるのだ、と黄理は告げる。

 それがどれほど朔を苦しめる結果となるか、想像もしたくはない。そして女自身朔と今更離れる事は許容できない。
 愛情を注いだ。温もりを与え続けた。報われぬ愛だとは思えない。朔は歪なりにも順調に育っているのだ。それに、約束もある。
 朔の実母と交わした口約束だ。取るに足らない、ただの気まぐれにも似た約束に過ぎない。
 しかし、それを彼女は頑なに守り通してきた。何故、などと問うのは無粋だ。女が朔に愛情を注いでいるのは、亡き朔の実母との約束もある。
 だが、それ以上に朔へと注いだ愛情が偽者ではなく本物であったからこそ、尚も食い下がる。

『もし、この子が生まれたら』

 あの約束を、覚えている。

『どんな形でもいいから真っ直ぐに育って欲しいわ。それが例え七夜に縛られたとしても、もし違う形で生きるとしても』

 麗らかな春の縁側にて交わした契約。
 優しくあの人は微笑んでいた。

『その時は、貴女も見守ってくれないかしら。私の子供がどんな道を歩むのか』

 だからこそ、女には朔の行く末を見守る責務がある。
 決して違える事の許されない、女同士の約束。
 今は亡きあのお方とのそれを破る事なんて、出来るはずもない。

「……ッ」

 しかし、今この状況を覆すほどの立場ではないこともまた事実。
 彼は当主の妹ではあるが、結局のところ、当主の妹でしかないのだから反目は無意味に等しく、すでに決定付けられた御触れに抗う事は出来ない。

「では、お前達。以降は俺の命に徹しろ」

 悔しさに噛み締めた口内から、血の味がした。

 □□□

 鮮やかな月が天上に吊り下げられ、地上を淡く照らし出す。
 だけど月の燐光は眩くとも儚く、触れてしまえば忽ちのうちに消えてしまいそうに脆い。
 だからこれは、月にも照らし出されぬ宵闇の話だ。
 
 暗い暗い底、影さえ憚る闇の中の会話である。

「それで、お前はいいのか。刀崎と七夜は協定を結んでいたはずだが」

 男は目の前に座る怪物へ慎重に言葉を選んだ。本来、二人の立場を考えるならばありえないが、男は対面に据わる相手には下手に出ざるを得なかった。
 眼前にいるのは横柄に座椅子へと腰掛ける老人である。
 ランプシェードの明かりが晒すその相貌は伝承に残る妖怪と良く似ていた。擦り切れた着物に包み込んだ逞しい肉体。長い手足。
 そして、ぎょろりと眼窩から飛び出したような魚眼の瞳は、仄かな光に照らされてより一層不気味な様相となっていた。

「構いはしねえ。ああ、構うこたあねぇ。そんなもの、今となってはどうでもいい」
「どうでもいい、だと?」

 金属の擦り合わさったような声音はあいも変わらず不快だ。思わず顔を顰めるが、そんな瑣末に相手が勘ぐりをつける事など終ぞありはしない。
 ただ、不愉快にくぐもった忍び笑いを漏らすだけ。

「ひひ。ああ、そうともよ。今の俺にとっちゃ、んなもんどうでもよくなった」
「ふん。ならば、いい。私にとってもどうでもいい事だ。お前が約束を違えなければな」

 約束、という部分に重みを込めて再度確認する。

「お前が言う所が本当であるのならば、手筈を早急に整える。その代わり……」
「俺が正規の道筋をあんたに教える」

 男の言葉を遮って妖怪は嗄れ声をあげる。

「その代わり、だ。条件は破るなよ」
「……気に喰わんが、正しき道筋を知る者がお前しかいない今、条件は守ろう。……しかし、本当にそれで良いのか」

「おう、これで恨みを晴らせるなら安いもんだ。違えかい?」

 何故老人が話を持ちかけたのか、男にはいまいち分かりかねる事だった。
 来訪の予告すら無く昂然と現われた妖怪が持ちかけた話には確かに旨みが尽きぬ。正直、男自身も存外に悪くない話だと思っているが、いやに気にかかるのもまた事実。
 鼻につく、とでも言うべきだろうか。話をこの妖怪から持ちかけられたこともそうだし、秘密裏に計画していた案が何故妖怪の耳に触れたのかすれ分からない。
 それも、話の条件が条件だ。
 妖怪の尋常ならざる執着心を測りえない男にはどうにもピンとこないがあり、内心忸怩たる思いがある。

「……たかが子供ひとり、何をそんなに拘る」
「……」
「その、七夜朔、だったか。そいつを捕獲してお前はどうするんだ」
「……ひひ」

 男の問いに応えず、老人は卑下た笑みを浮かべるのみ。
 しかし、淡い光に照らされた老人の顔は陰影が色濃く反映し、何とも言えぬ不気味さを醸しだしている。
 否、それはもともとからか、と男は思いなおしながらも、魚眼の裏に隠された企みを読み取ろうと目を細める。

 故にここはひとつ鎌をかけてみる。

「しかし、知らぬぞ。もし確保してしまえば、殺してしまうが」
「何言ってんだあんた?」

 意気込んでいた男の意気込みを肩透かしするように、妖怪はいっそ莫迦にした笑みを溢す。

「なに?」
「ひひひひひひっひひひ! これは愉快だ。あんたら如きにゃあいつは手を出せねえ。気を抜けばそのまま口の中。あっという間に喰われちまうぜ」
「……」

 どこか揶揄したような妖怪の声音には篭っていた。それは暗喩としてなのか、皮肉としてなのか男には判別できない。
 ただ、目前に居座る男が何かしらの形であろうとも感情を起伏させると、どうしようもなく癪に障る。有体に言えば、気に喰わない。
 とは言え、持ちかけられた話を逃す手もなく、男は老人の条件に今は従っていなければならない。
 何故なら、これは千載一遇の好機なのだ。またとないチャンスなのである。これをみすみす逃す事など、それこそありえない。だから、我慢をする。

「だから安心せい。あんたらは目に付いた奴らを分け隔てなく殺せばいい。きっと生き残った中に、あいつはいる。朔はいやがる」
「……」
「あぁ。待ち遠しいなぁ。これが身を焦がす想いってやつか、ひひ。作刀以外にこんな思いをするたあ、思わなんだ」

 顔面の皺という皺を寄せて恍惚の表情を浮かべる老人を見て、男は吐き気を催した。
 どのような理由であろうとも、男はこの妖怪と対面したくはなかったのである。
 彼の精神構造、肉体が目前の老人を拒んでいた。故に、早々と話を切り上げる。

「……そうか。まあ、いいだろう。では頼んだぞ、梟」

 男の言葉を受け、妖怪、――――刀崎梟はにやりと歯茎を剥きだしにして笑った。
 暗がりで密かに物語りは進んでいく。だが、それは月にも映されぬ闇の中に溶けて消える。
 だと言うのに、天上に吊るされた月は、あいも変わらず地上を睥睨して照らす。

 満月まで、あと暫し。
 
 □□□

 まどろみから浮上してくる時は、大抵が苦痛を帯びていた。
 稽古で御館様に打ちのめされた時、一瞬の判断に躊躇して怪我をした時、無理な可動に肉体が悲鳴を訴えた時。
 その痛みこそが自身の伸び白が未だ存在している証拠であると思いはすれど、目標は未だ遠く果てしない。
 遥かな高みへと上り詰めるためには、未だ精進が足りない。
 やけに重たげな目蓋を開くと、見覚えのある天井が目前に広がっていた。見慣れた自室の天井である。
 差し込む光の加減からして夜なのだろう。恐らく光源は月。感慨は浮かばない。 
 だが、どうにも記憶に齟齬がある。おぼろげな思考は随分と頼りない。果たして、自分は何故ここに戻ってきていただろうか。
 そのような記憶はないのであるが、事実として今自分はここにいる。

 そして、どこか痺れたような感覚の手に圧迫感を覚えて、視線を辿る。
 そこに志貴がいた。

 志貴は不思議な事に、泣きそうな笑みを浮かべながら「おはよう」と呟いた。
 何故泣きそうなのか。何故微笑んでいるのか。

 状況に追いつけず理解が乏しい。もとより理解できるものではないだろうけれど、遂にはそれに対して考えても無駄だと思考を放棄した。

 しかし、不思議だった。
 側に志貴がいるというのに気付かないとは、それほどまで深い眠りの床についていたのか、と身を起こそうとすれば妙な気だるさが身体を包み込み、起き上がる動作を拒絶した。
 五月雨に打たれたような鋭く甘い痛みに歯痒さを覚えるが、これ以上体は動く事を許さない。
 とは言え、視線だけは動かせるので、何気なく側で泣きそうな志貴を見続けた。
 ふとした拍子に滴が目じりから垂れてしまいそうなほど、目を潤わせている志貴を見て、思い浮かぶ言葉はない。
 そも、かける言葉なんて朔には持ち合わせていない。だから、見動けぬ体の代わりに、志貴の掌を強く握り締め返した。
 子供特有の柔らかく、温かな掌だった。朔のように鍛え上げて硬質を帯びたものとは肉の感触である、と。

 ――――殺す、精神が遠吠えをあげた。

 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す、殺す。

 殺せ、ではない。

 それは命令ではなく、決定の審判であった。

 あまりにも突然な殺意が精神に水を注いで内側を潤していく。
 今すぐにでも目の前にいる子供の内臓を引き摺りだし、首を捩じ切って心臓をすり潰す想像が朔の中身を埋め尽くす。
 目の前の子供は驚く暇すら与えられず、呆けた表情のまま首を落とし、内臓を引き釣り出されるのだ。
 きっと若々しい臓物は妖しげに照り輝いて、真っ赤な血を流すだろう。
 それは想像するだけで脳からしがみついて離れぬ思考回路。行方知らずの殺人衝動である。

 あの時感じた感慨にそれは似ていた。あの面妖極まりない老人と対峙した時のそれと。
 それを朔はよく分からない。どうすれば良いのかまるで検討もつかない。
 故にそれを今は無視して、なんとなく志貴の手を握り続ける。
 言葉を発する気にもなれず、それが挨拶の変わりだと言わんばかりに。

 しかし、それで志貴は満足したらしい。暫く静かに笑みを浮かべ、もう一度「おはよう」と囀った。

 その笑みに、その柔らかな姿に言いようのない衝動を覚える。
 今すぐにでも目前で安堵しきっている子供の中身を引きずりだしたいという欲求が、内心で遠吠えをあげる。
 あまりに理不尽な衝動だ。敵意ではなく、害意でもない感覚に戸惑いすら覚える。

 しかし、この解体を促す内側の感覚を、朔は悪くないと感じた。

 ――――それは甘くも柔らかい、初めての感覚であった。


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