これは、刀崎梟襲来から時を遡った時ごろの話である。
「森の奥ってどうなってるのかなあ」
その日はそんな言葉から始まった。
志貴は目の前で何やら翁と会話している父の黄理に向かいそう言った。
話の所々で「……朔が…しかし……」「朔はやはり……」「風呂……朔……」と朔の名が頻繁に出てくるので一体何を話しているのだろうと思ったが、それを聞いても微妙にはぐらかされるので少し拗ねた。
そんな父に朔の世話を行っている最近叔母から聞いた『へたれ』という単語を黄理に浴びせかけ黄理が落ち込み翁が励ますなど、なかなか混沌とした空間を作り出したのでとりあえず志貴は満足していた。
志貴の何気ない一言が飛び出したのは、その空気が落ち着き始めた頃のことだった。
志貴としては本当に何気ない一言であった。志貴はこの七夜の里から出たことはなく、当然外界がどのようなものか知らない。
さらに人里から離れたことはなく、遠くはなれることは子供たちには固く禁止されていた。
朔と黄理が早朝森の奥に向かい基礎訓練を行っているのは知っているが、それも黄理が朔を受け持っているが故の例外。そこが一体どういう場所なのか全く教えられていない。
だから志貴としては未知なる場所に興味を持ち、気になっているのだ。
志貴の幼い冒険心が燻り訴えているのだ。森はなんだかすごいところに違いない、と。
だがそれを聞いて黄理と翁が固まる。
里の外、つまり人里から子供を出すのを禁止させたのは黄理を含めた七夜大人組の総意である。
七夜の里は森の内部にあり、そこは外部の敵を撃退する罠で埋め尽くされている。
撃退と嘯いているが、対人地雷がいたるところに設置されていることからどう考えたって殲滅を念頭に置いた罠である。
そもそも七夜は裏の人間であるため敵は多い。
混血との協定を結んではいるが、それは薄氷の協定。七夜の安全が確保されているとは程遠いのである。
それゆえ森には数多くの罠が設置され、その種類は七夜のものですら完全には把握することが出来ず、正規のルートを通らなければあっという間に死体と化す。
だから安全な場所を知らぬ子供は里から出してはならない。
と、これが建前である。
本当の所、そんな罠が云々より、七夜の森にかけられた結界がヤヴァイ。
過去志貴が生まれた黄理はそれまでの人間性が嘘のように変わり、言ってしまえば、はっちゃけた。
「ヒャッハアアアアアッ!!」
などと、さすがにモヒカン軍団のような奇声を発声することはなかったが、その行動から自重が消し飛んでいた時期が黄理にはあったのである。
その頃黄理は生まれてきた志貴のために、といままであった結界を強化することを決意。そのために異例であるが外界の魔術師と協力するほどの徹底振りである。
そんでもって完成した結界により、森の生態系が突然変異を起こしたのは完全に黄理のせいである。
植物が獣を襲い、獣がおかしな姿で動き回っているのである。
幸い現在確認されている獣の中に七夜の脅威となるような存在はいなかったが、それでも危険なことに変わりない。
最近の目撃例では空中浮遊のキノコが大量発生し、独自のヒエラルキーを生み出したとある。
その他にも生き物を捕食しようと蠢く蔦や、闊歩する大樹など、とんでもない場所なのだ。
そんなわけで七夜の森は現在子供たちだけで進むことは硬く禁止されている。
今の森は言わば黄理の黒歴史であり、それを指摘すれば、あの頃の俺は若かったと視線を逸らすことも出来ずに身を捩じらせる黄理が見れるだろう。
そんなこんなで人里を離れるのは大変危険である。
生命的にも黄理の体裁的にも。
「志貴様。森は危険がいっぱいですので、子供をいかせるわけにはいかないのです」
二の句が告げられない黄理に変わって対応に出たのは翁である。
黄理は大した変化なく泰然と志貴を注視しているようにも見えるが、長年黄理に仕えてきた翁は黄理の額に浮かぶ脂汗を見逃さなかった。
「でも、それは子供だけでいくのは駄目だって事でしょ?だったらお父さんといけばいいってことじゃないの翁?」
「ふむ……確かに、そうでございますな」
確かに大人の者といくのは認められていなくもない。
子供のみでいかせるのは大変危険であるが大人の者、つまり安全な道筋を知っているものが一緒についていれば罠にかかることはないだろう。
ただそれだけだと少し問題が起こる。
先ほど言ったとおり森は黄理の黒歴史そのものであり、そこから誕生した突然変異種はほとんど調査が行われていない。
調査が行われようとしてはいるのだが、昨日向かった場所の地形が変化していたり、生態系が一日だけで変わっているなどざらで、調査が追いついていかないのである。
わかっていることと言えば、その影響が里にまで及ばないことであろうか。
結界の影響か、里を守る方向性を持っていることからか、突然変異種はなぜか里に現われず、植物たちもその足を伸ばさないのだ。
「しかしそれでも、子供をいかせるのは大変危険でございまして……」
「じゃあなんで兄ちゃんはいいの?」
「ぬぐっ……」
それを言われてしまえば翁としても何も言えなくなる。
朔は黄理の預かりとなって早朝には森の奥に向かって基礎的な訓練、つまりは足腰の強化、俊敏性の強化、持久力の強化、空間把握と判断能力の強化を備えるため走りこみのようなものを行っている。
走りこみと言っているが、覆い尽くす木々の合間を七夜の移動術をもってして縦横無尽に飛び交うそれを走りこみと言うのは少々、どころかかなりの語弊が生じるだろうが。
その走りこみの中で判断能力の強化を期待されているのは、走りこみを行う場所に訳がある。
黄理の暴走の末、森は七夜の者も吃驚な変化を遂げ、ここは腑海林かと突っ込みたくなるほど植物が暴れまわっている。
獣を襲い捕食する植物が今日も活発に育っているのである。
夜中など植物に襲われたのか獣、あるいは侵入者の断末魔が響き渡るのでかなり怖い。
子供としてもあれは普通に怖い。悲鳴はやがてか細くなっていき次第に聞こえなくなる様など普通にトラウマとなる。
想像出来るだろうか。四方八方から襲い掛かる植物たちを。
それは蔦のような柔らかいものだけではない。視界を覆い尽くすような大木が向かってくるのである。それもいたるところから。
それゆえ黄理は森に着目し、朔の訓練、危険把握能力を高めるため森にて走りこみを行っているのである。
とは言え、正直にそれを志貴に言ってもいいのかと翁は吟味する。
これで森の中はこれこれこういうことで、こんな理由があるから危険なのですと教え、その原因が自分の父と知った時志貴はどのような反応をするのだろう。
少なくとも評価が上がることはない。
翁はちらりと黄理を見た。
なんか獣が死んだふりをしそうなほどの凄みで睨まれた。
しかしこのまま答えないのもなんだかアレである。
はぐらかす事も出来るだろうが、そのまま放っておくと勝手に森に行きそうだ。
なので朔に関しては。
「私としましても、朔様がなぜ森に行ってもいいのか疑問に思っていたのでございます」
まとめて黄理に丸投げしてみた。
一瞬黄理の表情が「なにぃっっっっっ!」と歪み、翁に向けて憤怒の殺意を向けた。しかし翁はそ知らぬ顔をするばかり。
この老人、自分が仕える相手を窮地に立たせるなどなかなかいい性格をしている。
そして困ったのは黄理である。
まさかお前のためはっちゃけちゃいましたとは言えない。
一時期暴走してはいたが、常識らしい常識は情報から隔絶された場所に生きてきた黄理でもある程度持っている。
後悔は微塵もしてはいないがかなり痛い過去であることには違いない。
しかし志貴はそんなこと知らない。子供の穢れない純粋な瞳で「どうして?」と訴えている。
その輝きが黄理には辛い。
「朔は、な」
散々考えあぐねた結果、黄理はおもむろに口を開いた。
「朔は特別だ」
「なんでなの?」
「朔は私が訓練を付けさせている。だからだ」
「どうしてなの?」
「それはな……つまり……」
「ねえお父さんどうしてなの?なんで兄ちゃんがよくて僕は駄目なの?」
答えに窮した黄理に対し、志貴は次第に機嫌を損ねてきたらしく、軽くぶーたれ始めている。
その瞳が興奮か少し潤んでいた。どうしたものかと黄理は翁に視線で助けを求めた。
翁は優雅に茶を飲んでいた。翁しかとである。
黄理はこの世全てから裏切られたような衝撃を受けた。
□□□
結局、あの後黄理は志貴が納得するような理由を話そうとはしなかった。いや話すことが出来なかった。
黄理としては志貴に話したい内容ではなかったが、話さずにいると志貴が不機嫌になり、もしかしたら嫌いとか言われるかもしれない。
そしたら黄理には灰になる自信がある。
しかしだからと言ってあの黒歴史を志貴に教えるには些か辛い。主に父としての威厳が。
ゆえに黄理は当主としての仕事が未だ残っていたと、そそくさいなくなってしまったのである。
もちろん逃げるための口実である。しかも志貴の視界から消えた瞬間閃走を使用するほどの徹底振り。黄理実に大人気ない。
そうするとそれに追随するように、それでいて「今度教えて差し上げます」と口ぞえしながら翁もどこかに行ってしまった。
不満なのは志貴である。
事実一人残された志貴は憤っていた。
誰も教えてくれないのだ。
志貴の頭の中でこれは、皆自分に対して意地悪しているのだと解釈した。
子供ながらの素直な思考であるが、それゆえ思い込みと決定は固い。
実はこの話、黄理に話す以前に何人から聞こうとしたのである。
例えば母。
母にどうしてなのか、と問うてみると母は「大人になればわかるものよ」と優しい微笑を浮かべ言った。
そして叔母。
自身が兄と慕う朔の世話を行っている叔母に聞いてみると、叔母は視線を背けながら「とても私の口からは言えない」と若干苦味のある引き攣った笑みを顔に貼り付けていた。
更には里の大人。
そこらにいる里の大人に聞いてみても「いや、あれはなあ……」と遠い目をしてしまい聞くに聞けなかった。
そういう訳で誰も答えてくれないと、思い込んだ志貴。
しかしどうしたものだろうか。
大人に聞いても答えてくれない。でも子供だけで行くには危ないらしいし、とウンウン考えた。
必死になって考えるその様はなかなかに微笑ましく可愛らしい姿である。だが本人はいたって真剣。
子供ながらに考え考え、考えすぎで頭が痛くなってきた頃、ハッと閃いたものがあった。
「――――ってことなんだ」
「……」
「結局お父さん理由言ってくれないし……。だから僕考えたんだ」
「何?」
「兄ちゃんと一緒なら大丈夫なんじゃないかなあって」
七夜当主である七夜黄理の住む屋敷の離れ。
簡素な部屋である。物らしい物がない、ひどく寂しい内部だ。そこに志貴は訪れていた。
その対面にいるのはこの離れの住人、朔である。
二人はいつぞやと同じようになぜか正座で対面していた。
「なぜ?」
「んとね、だって大人の人は教えてくれないし、でも僕たち子供だけじゃ今まで行った事もないから危ないし。だからね、何回も行った事ある兄ちゃんなら大丈夫だって、僕思ったんだ!」
すごいでしょ、と志貴は満面の笑顔で言った。
志貴の考えではこうである。
子供だけでは駄目、大人は教えてくれない、ならば朔と一緒に自分の足と目で確かめればいいんじゃね? である。
こんな流れが志貴の頭の中で完成され、そしてそれは最早朔さえよければすぐさま発動可能な計画でもあった。
大人は駄目だから、志貴と同じ子供でありながら里を離れることが許されている朔ならば外に出ても問題ない。
子供だけ、と言うのは懸念事項ではあるが、もしなにか問題あっても朔は志貴よりも遥かに鍛えられているし、志貴自身も最近は頑張っている。
七夜の移動術もある程度ならば使えるようになった。だからきっと大丈夫だろう、と考えたのである。
何とも子供らしい安直な考えではある。
だが志貴としてはこれ以上の案はないだろうと踏んだのだった。
「……」
「だからさ、兄ちゃん」
志貴は真っ直ぐに朔を見て言った。とても楽しげな笑顔で。
「森に連れて行って」
駄目かな? と若干小首を傾かせながら志貴は頼み込んだ。
そんな志貴の姿を、朔はその無機質な瞳でじっと見ていた。
今現在昼を過ぎた頃。
朔は僅かながらにもコロコロと表情を変える使用人と昼食を済ました後、特にやることもなく離れの中に寝転んで無意識のうちに黄理の動きを脳裏に描いていた。
そして想像の中、朔と黄理の対戦で朔の殺された回数が十を越えた頃だった。
離れに志貴が訪れたのである。
そして用件は森に連れて行って欲しいとの事である。
この頃朔は志貴と共にいる時間が多くなってきた。
閉鎖された里というのも在るだろうが、一日で会わないことはない。
常にいる、と言うことはないが極めてそれに近い。
遊戯に付き合うことはあまりないが、時たま共に夜を過ごす事もあった。
無論二人で眠っただけのことだったが、次の日使用人の鼻息がやたらと荒かった。
兎にも角にも人里を離れることを志貴は望んでいる。
朔は考える。以前から朔は訓練のため森の中に向かうことが許されている。なぜ許されているのか。
森は子供には大変危険、らしい。
全方位から襲い掛かる植物たちに、突然変異を起こした生き物たち。
自然のヒエラルキーは逆転し、植物が生き物を喰らうという関係が形成された森は同じく生きた者である人間にとっても危険地帯に変わりない。
それでも朔が森に行けるのは朔自身の生存率が極めて高く、無傷で生還が可能だからである。
幼少の頃、気付けばそんな場所へ当たり前のように行けた朔だからだろう。
そんな朔にとって森は危ない場所と思うことが出来ない。
確かに危険な場所ではある。
朔自身判断を誤り、命を落としかけたこともあった。
だが、朔にとって自身の命の価値を判断することは難しく、死ぬことに厭いはない。
ゆえに森の中に行くことは命を落とすことはあるだろうが、別に問題らしいことはない。
朔は改めて志貴を見た。その茫洋な瞳に期待をしている志貴の姿が見えた。
「……」
不意に立ち上がった朔に志貴は少しばかりの戸惑いを覚えた。
もしかして駄目なんだろうか、と不安が過ぎる。
朔はそのまま歩き出し、外に向かおうとする。
そして座ったままの志貴に振り返ることもなく、
「行かないのか」
と言った。
始め朔が何のことを言っているのか分からなかった志貴であったが、次第に朔の言葉に思考が追いついた。
「行く!うん、絶対に行くよ!」
嬉しさと楽しさが混じりあったような笑みを浮かべ、躍動するように朔の後姿を追った。
朔の判断では、志貴が自ら森の奥に行きたいと志願したのは詰まるところ、森の奥に行っても生還できる自信があると判断したからに他ならない。
森は大変危険な場所であるが、志貴は行きたいと言った。
動物の本能には危険な場所には近づかない生存本能が存在するが、志貴は森を危険ではないと判断したのだろう、だから行きたいのだ、と朔は考えたのだ。
当然の事ながら。
志貴は森が危険な場所であると知ってはいるが、分かってはいない。
志貴の想像する危険とは、精々危ない場所と言うことで、怪我しても仕方がない場所である、ぐらいのものでしかない。
つまり朔の考えた志貴の判断は、全く見当違いなものであった。
それ以前に子供は行くことを禁じられていると、朔は知っていて、それではなぜ断らなかったのか。
朔自身、なぜかは知らないが、志貴の話はなんだかんだで断ることが出来ないと、未だ自覚していなかった。
兎も角、他の七夜が聞けば全力で阻止しそうな朔の思考経路によって、志貴は里の外に向かうこととなったのである。
□□□
始めていく場所ほど興奮する場所はないんじゃないか、と志貴は密かに思っている。
何しろ七夜の里は、外部から隔絶された場所にあり、志貴自身人里から離れた経験は無い。
里は確かにいい場所ではあるが、未だ幼い志貴にはそれはわからない。
この変化のない里はなんだか詰まらない所としか思っていたりする。
自身と同じ子供と遊ぶのは楽しいし、訓練も辛いがやっているうちに面白いと感じるようになった。
だが、いかんせん里は娯楽が少ない。外部から志貴の好奇心が満たされるようなものは入ってこないし、僅かにある楽しみと言うのも発展性が少ない。
そんな折、志貴の前に現われたのが朔である。
朔は兎に角凄い。
志貴と同じくらいの子供でありながら、黄理と訓練が出来て、志貴には出来ないことが何でも出来る。
志貴の思い込みも多々とあるだろうが、志貴の中で朔のイメージ像は大変膨れ上がっている。
だからだろう、従兄弟という関係であるが、朔を兄と呼んでいるのは。
兄は凄い。
未だ朔と話したこともなかったあの頃は、朔は志貴にとって未知の塊で、朔の話を聞けば聞くほど志貴の好奇心は高まっていった。
そして実際に会って、話してみて、共にいる時間が多くなり。
志貴は朔と共にいることで、家族といるような安心感を見出していた。
そんな訳で、朔と一緒にいるなら大丈夫だと思った志貴は森の奥に行きたいと朔にお願いしたのだった。
志貴の視界には広大な緑。そして地面、そして空。それ以外の雑多なものはない。
家もなければ、人もいない。
いつもよりも濃い自然の香りが鼻腔に満たされる。それを吸って、吐いて。
そして志貴のわくわくはピークに達しようとしていた。
「うわあ、なんだか凄いよ兄ちゃん!何もないよ!」
「ああ」
「ほら、里があんな所にある!さっきまであそこにいたのに、凄い小さい!」
「ああ」
興奮冷めやらぬ志貴の言葉に、朔はまともに聞いているのか聞いていないのか判別のつかない返事を返した。
今現在、二人は人里を少しばかり離れた場所に入る。
そこは朔や志貴の他に里の者が使用する訓練場を抜けた先の所だった。
里を離れ、森に向こうへ赴くのは良いが、果たしてどうやって行くか。
いざ向かわんと意気込む志貴の目の前にそんな問題が現われたのだった。
志貴と朔が話し合った結果、家のある場所からは少し離れた訓練場から向かうことになった。
里には何人かの見回りがいて、外部からの敵の侵入を監視し、里から安易に子供が出ないように回っている者がいたが、そこは朔の出番。
朔は人の視線の間隙を縫っての移動を敢行。同じ七夜の志貴ですら分からぬ、人からの視線。
それを感じ取り、何者からも視線を感じない瞬間、二人は里から離れたのである。
実際、里の実力者ですら容易には行えない芸当を苦なくこなせる朔の凄さが垣間見えた瞬間であり、志貴の中の朔への尊敬がまた大きくなった。
だが既に限界値を突破しているので、意味がなかった。
さて、そうして里を離れていった志貴と朔であるが、始め朔が先行していたのだが、高まる胸の鼓動を抑えることが出来なかった志貴の歩調が次第に速くなっていった。
普段見慣れる風景。里から少しばかり離れただけだというのに、志貴にはこの空間が別の世界のように見えた。
苔むした植物たちの匂いは遥か太古の原始を感じさせた。
果てしなく広がり途切れることのない大樹は志貴の冒険心をくすぐらせた。
そして後ろに振り返ると里がもう見えない。側には朔。
朔がいるだけで冒険心を高ぶらせながらも、その存在に安心感があった。
怖いものなんて何もない。
幼い冒険心は未知への好奇心を飛躍させるばかりだった。
目的地なんてどこにもない。ただ気の向くままに進んでいく道がきっと正しい。
だから志貴はそのまま進んでいこうとして。
「待て」
ふいに、朔に呼び止められた。
朔の言葉に振り返ったなぜ呼び止められたのか不思議に思い、朔に聞こうとして。
「何かいる」
その冷たくも意志の有無を許さぬ言葉に固まった。
何かいる。なにかいる。ナニカイル?
志貴は慌てて辺りを見回した。
しかし志貴の視界には取り立てて生き物の姿は見えない。ではなぜ朔は呼び止めたのだろうと、不思議に思い、再び聞こうとしたその時だった。
志貴の後方、朔の視線の先にある茂みから、草を踏む擦れた音が聞こえた。
「―――――――っ!」
それは突然に現われた。
一切の気配を志貴に感じさせることなく、志貴の直ぐ後ろに何かがいる。
慌てて朔の後ろに隠れた志貴は、その茂みにいる何かに僅かな不安と多大な好奇心を揺らめかした。
そんな志貴のことなど露ほど知らず、朔は携帯していた小太刀を鞘から抜き、腰を落として茂みを見つめいていた。
その何かが何であれ、朔は殺す気満々だった。
次第に大きくなる茂みの音。
志貴の喉が鳴った。
そして一瞬の静寂。
その瞬間だった。
茂みから、何かが現われた。
「―――――――――――っ!!!!」
びくつく志貴。襲い掛かろうと低い姿勢になる朔。
だが。
「――――――――……………………………………………………………ゑ?」
呆然とした志貴の口元から表記しにくい音が漏れた。
緑の傘。
白い斑点。
デフォルメされたように輝く眼に、淡い黄色のぼでぃ。
あえて言えばキノコ。頑張って言えばキノコ。苦しいかもしれないが、キノコ。
それが二足歩行で、なんかそこにいた。
「……」
「……」
茂みの中から現れたモノを見て、志貴はほとんど反応することが出来なかった。
だってそうだろう。志貴としては始めての冒険である。
その場所で出会うものは未知なものがいいなあ、と期待してはいたが、目の前にいるアレはなんだろうか。志貴の想定の範囲内を超えている。
キノコ。見かけはまるでキノコであり、見事なキノコっぷりである。
形状的に考えてキノコ以外の何者でもない。だがこれをキノコと呼ぶにはあまりに強引過ぎ、志貴としても些か首肯するには戸惑う。
キノコとは本来、菌から発生した植物であり、その性質は花に近い植物である。
そしてそれらは食用として食されることもあれば、命を脅かすような毒を持つものもある種類豊富な植物である。
そして志貴の知識では、キノコは生物ではない。
しかし、改めて目の前にいるモノを見る。
キノコ。形状はキノコである。
傘の部分は妙に毒々しい色をなし、その黄色のぼでぃには丸っこい手足のようなものがついている。
そしてその顔面(この時点でおかしい)には輝く瞳。
大きさは志貴よりも少し小さいが、何と言うかずんぐりむっくりとした感じであり、それが上目遣いで二人を見ている。
部分的に鑑みるにキノコではある。
正直、キノコと呼ぶにはキノコに対して失礼な気もするが、それ以外に呼び方が無い。だがどうにも納得できない。
戸惑いを覚えながらも志貴はどうするべきかと朔に視線を投げかけたが、朔は朔で既に腰を落とした前傾姿勢。臨戦態勢である。
その手に握られる小太刀はまっずぐに目の前の命を狙っていた。
それを見て志貴は思った。駄目だ話にならない。
朔にとって志貴が戸惑う未知の存在など、さして興味も沸かない奴なのだろうか、と志貴は考え、改めてキノコを見た。
キノコは茂みに姿を現した状態のまま、そのつぶらな瞳で志貴と朔をじっと見つめている。
キノコとしても二人に対し興味を持っているのだろうか。なんだかデフォルメされた瞳の虹彩が先程よりも輝いて見える。
しかし、ここで何もしないのはちょっといただけない、と志貴は次第に落ち着いてきた頭で思った。
突然の出会いに混乱はしたものの目の前にいるのは志貴の望んだ未知である。
想像の斜め上に突っ走っているが、冷静になってみると志貴の好奇心がむくむくと大きくなっていく。
志貴は再び朔を見た。キノコが未だ何も行動を起こしていないからなのか、朔に今のところ襲い掛かる気配は無い。
しかし、このまま何もしなければしないで、朔が目の前の存在を廃絶するのは時間の問題である。
その証拠に朔の身体から僅かながらに殺気が滲み出ている。それは朔といる時間が多い志貴だから分かる、朔の機敏であった。
「兄ちゃん。どうしよう?」
朔にとりあえずどうするべきか聞こうした。
朔は既に足を踏み込んでいた。
志貴の気配読みはあてにならなかった。
「って、うわああぁ!待って待って兄ちゃん殺しちゃ駄目だよ!」
本気で焦った志貴は今にも飛びかかろうとした朔の目の前に回りこんだ。
キノコを背に庇うように。
そして志貴の目前で朔は止まる。その手に握られた小太刀は志貴の鼻先。
あと少し志貴が遅ければ頭部が串刺しにされていた。
志貴ビビる。
「うわもうびっくりしたっ。兄ちゃんまだ駄目だよ!」
「なぜ」
志貴の焦りように朔は静謐な声を返した。そしてまだってことは後でならばいいのだろうか。
「なんでも!」
志貴は軽く怒ったように朔に言い、そして今しがた自分が守ったキノコに振り向く。
キノコは朔の殺気にあてられたのか完全に怯えていた。
「あの、えとごめんね大丈夫?」
とりあえず刺激しないようになるべく優しく接してみたが、キノコの瞳は潤んでいる。
この時、志貴にはやばい予感が過ぎった。
なにか自分たちはやってはいけないような、とんでもない事をしでかしてしまったような気がする。
「べ、別に君に何かしようとか思ってないよ?うん、まずは落ち着こう深呼吸して深呼吸は大事ってお父さん言ってた、あれでも君呼吸しているの?違うそうじゃなくてとりあえず落ち着こう、うん、そうしっ――――!!」
森が、ざわめく。
急激に接近する気配。
何者か、それも複数の気配がいっきに近づいてきた。
ニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロニゲロ。
志貴の脳内で逃亡を促すアラートが鳴り響く。
しかし、志貴がそれに従い逃げるよりも早く、それらは急激に近づきその姿を現した。
キノコ。
「え、あの」
キノコキノコキノコ。
「え、え、あ、あれ?」
キノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノコキノキノコキノコ。
志貴の視界にキノコが現われた。しかも複数。
いや、今こうしている間にもキノコたちはその数を増やしていく。なんだかキノコ以外にもいるような気もするが。
「…………えぇぇ」
森に志貴の力ない絶句が沈む。
目前、いや周囲に渡って姿の似たキノコが蠢き犇めいている。
数えるのが莫迦らしくなるほどのキノコたちが志貴や朔を取り囲んでいた。その光景の何とコミカルなことか。
それら全てが二人を見つめているのである。
しかし、数の脅威と言うべきか。同じ造形の生物に取り囲まれている志貴は怯えた。
こいつはやべえ。
「に、兄ちゃん……」
志貴はそもそもの原因である朔に縋りついた。
あまりの事態にすっかり先ほどの出来事が頭から飛んでいったのだが。
その朔は朔で、周囲に殺気を撒き散らしキノコたちを威圧している。瞳にキノコを映して。
その増大な殺気にあてられキノコたちもなんだか怒っているような。
その体を目一杯使って私たち怒ってるんですアピールをする様はなかなかにシュールである。
「兄ちゃん怖がらせちゃ駄目だよ!」
しかし今度は志貴の言葉に朔は耳を貸さず、両者の睨み合いは次第に熱を帯び始めた。
色めきたつキノコの群れとそれに対峙するのは朔。
志貴は朔を止めようとしているが、朔と関わる合間に志貴が朔を止められること等なかった。
それは詰まるところ、今この時点で志貴は役立たずということ他ならない。
なので、
「「「―――――――――――――――――――――――――――――――――!」」」
「……」
しばらくお待ちください。
「ああもう!殺しちゃ駄目だからねっ!」
志貴は身の危険を感じ、とりあえず近くにそびえる木の枝に駆け寄った。
あのままあそこにいたら巻き込まれるだろうと判断した結果だったのだが、おそらく正しいだろう。
眼下には正面から衝突した朔とキノコの大群である。
あきらかに数の対比がおかしい。朔一人に対し未知の生物であるキノコ。
五十は確実にいる。これで正面から襲い掛かる朔は凄い、がもう少し何とかして欲しかった。
「うわあ……」
見渡す限りのキノコの山に向かって襲い掛かった朔。とりあえず志貴の言葉を守っているのか、気付けばその手に小太刀はない。
直接的な殺傷能力はこれで下がった、と思うかもしれないが、朔の膂力の凄まじさを考えればこれでも安心できない。
だってそうだろう。
「――――――――――――――っ」
キノコが宙に舞っている。
群れの中に突入した朔は体当たりを敢行するキノコ共を千切っては投げ千切っては投げ。
キノコ乱れ舞である。
朔によって殴り飛ばされ、投げ飛ばされ、蹴り飛ばされるキノコたちは何やら悲鳴のような音を漏らしながらポンポンはねられていく。
そしてその度にキノコの体から胞子が飛んで視界が悪くなっていく。
キノコの色からして毒のような気もするが、とりあえず志貴は着流しで口鼻をガード。
そして高い木から俯瞰している志貴にも分かるが、このキノコたち戦闘能力自体はあまり高くない。
先ほどから行っている攻撃手段は相手に近づいての体当たりのみであり、その他のような行動は見せていない。
だからだろう。朔の独壇場である。
碌な抵抗も出来ずポンポンとすっ飛ばされていくキノコたちの目には涙。ホントにこれ植物か?
相手が悪かったのもあるだろう。
キノコたちが挑んでいるのは朔である。
移動速度、膂力、急所へお的確な攻撃など根本的な七夜としての素質では七夜一。
化生と殺しあうために存在した七夜において尚際立つその技量と膂力。
さらに朔自身の努力でそれは更に磨きがかけられ続けている。
そのような存在を相手に戦っているキノコが憐れでならない。
いや、これは戦いとすら呼べぬ蹂躙だ。朔の動きに反応できているキノコがいないのがそもそも問題だろう。
なにしろ木にいる志貴ですら朔の動きに目が追いついていないのだ。
暴風雨の如くキノコたちを蹂躙していく朔。
気付けばそこに動いている者はただ一人となった。
「……」
無論朔である。
ぼっこぼこにされたキノコたちの亡骸が横たわる地面に朔は立っていた。
倒れ伏す異形のモノどもに対し残心なく油断はなく。
あいも変わらず茫洋な目。
その姿に志貴は自身の父である黄理の姿を重ね合わせた。
「あの、兄ちゃん?」
動くものがいなくなっても未だ臨戦態勢のままである朔に心配を抱き、志貴は木を降りて朔の側に寄った。
「……」
しかし、朔の返事はない。志貴の存在に気付いているのかも微妙だ。
そんな朔に懸念を抱きながらも、志貴は改めて倒れ伏すキノコたちを眺めたが、なんだろうか、漫画のように傘の部分にヒヨコが回っている。
これを植物のカテゴリーと呼ぶには芸が細かすぎるだろう。
そして志貴は今がチャンスと、ぴくぴくと痙攣しているキノコたちにおっかなびっくり近づいていった。
朔が志貴の事を視界に納めながらも何も言わないのはきっと大丈夫だって事だろう。
気絶していたり、ダメージからか動くことの出来ないキノコたちを憐れに思いながらも、それ以上の好奇心に罪悪感は薄れていき、目の前に倒れていたキノコの一匹。
それに近づき、手で触れる。
ざらついた手触りがした。そして妙に生暖かい。
それを触りながら志貴は今更ながらに朔へ問うた。
「兄ちゃん、これなんだろう」
不思議な生物がこの森にいるなんて聞いてもいなかった。
もしかして黄理や翁が言っていた危険とはこれに関係するのだろうか。
「知らない」
「そっかあ」
「でも」
「でも?」
「前に見た」
「そうなんだあ……って本当っ?」
「ああ」
朔は無表情に無機質に志貴の問いに反応する。
「兄ちゃんはこれいつ見たの?」
「訓練中に」
「森に入ってる時?」
「ああ」
話しによれば、黄理との訓練中の際何度か遭遇していたのだとか。
「それってお父さんは知ってるの?」
「伝えていない」
「どうして?」
「聞かれなかった」
「……そっかあ」
実に朔らしい事である。
「それで、その時にはどんな感じだったのこれって」
「変わらない。この形」
「それで、殺したの?」
そう聞くと、朔はしばし時を置き緩やかに首を振った。
「殺した。だけど、殺せなかった」
「え?それって、どういう……」
その時である。
志貴の触っていたキノコそれが。
むくり、と。
ぎこちない動きで起き上がったではないか。
「うひゃぅ!」
そしてそれに呼応するかのように、周囲に横たわっていたキノコたちが起き上がり始めたのだ。
突然動き出したキノコたちに驚いてしまった志貴は朔の側に慌てて戻った。
「こいつらは殺せない」
そして志貴を庇うよう前に出た朔は再びその殺気を滾らせた。
「どうして!?」
「何度でも甦る」
それを聞いた志貴は愕然とした。なんだそれは。本当にこのキノコたちは何なんだ。
ふらつきながらも起き上がったキノコたちは先程よりも怒っているようにも見えた。
志貴は予想も出来ぬ展開にどうすることも出来ず、最早置いてかれているような状態だった。
「そして」
そしてキノコたちは怒りの興奮そのままに、志貴の目前にわらわらと集まり始めた。
やがてそれはひとつの集合体となり、塊となり、なんだか蟻の巣のような凄い光景である。
その時、森に突風が吹いた。
あまりに強い突風に志貴は目を覆う。
森のざわめきが再び起こった。ざあざあと擦れる葉の音は何かの前触れにも聞こえた。
目を閉じる志貴の体に舞い散る葉が何枚をあったっていく。
だがその側にいる朔は目を隠すことなく、目の前の存在を見ていた。
しばらく経ち突風は収まっていき、森のざわめきが消えていく。
それに志貴は覆い隠していた目を徐々に開いていった。
「あれ……?」
そして、志貴の目の前にいつの間にか山が出来ていた。
「合体する」