春の匂いがする。
小春日和の中、縁側で私たちは真昼の陽光を浴びていた。
微風に揺れる葉群から若草の匂いが運ばれ、遠くには山腹を垣間見ながら、隣に座るあの人は穏やかな眼差しで世界を映し出し、その視線を大きくなった自身の腹部に向けながら優しく掌を添えた。
穏やかな時間が流れていく。
合間に訪れる沈黙もまた心地よく、時の流れは周囲と隔離されたかのようにゆるやかであった。
きっと、今も尚誰かが死を運ぶ蜘蛛となっているのだろうけれど、そのような喧騒はまるで自分たちには関係ないように、まどろみすら覚えるほどに私たちの周りは温かい素材で組みあがっていた。
『ねえ』
『はい、なんでしょうか』
軽やかに声をかけられて、私は硬い言葉を返す。
性分でこのように女らしくない声音しか紡げない自分を歯痒く思うことは多々あれど、この人の側にいるだけでそれも不思議と和らいだような気がした。
『世界は優しいわね』
『……そう、なんでしょうか』
唐突、意味深に紡がれた言葉。
私は躊躇いがちに問い返すと、あの人は何がおかしいのかくすくすと笑った。
『だってそうでしょう。女として生まれ、子供を宿す。これほど幸福な事なんてあるかしら?』
『……私にはわかりません』
そのような思考も、あるいは経験も持とうとは今まで思っていなかった私には彼女の言葉に満足な答えを返す事が出来なかった。
けれど、彼女はそれをもまた楽しげに笑って受け止めたのだった。
『貴方にもいずれ分かるときが来るわ。ひとつの命を紡ぐその時が来れば、いずれ』
『……そんな日は、きっと訪れる事はないでしょう』
『あら、どうして?』
『私は好いてもない男にこの体を許そうとは思いませんので』
全ては一族故の宿命だった。
この人が私の兄と結ばれた事。
それが彼女の望んだ事ではない事。
何もかも、思うが侭に人生はうまくいかない。
運命という文字は命を運ぶという漢字を用いるが、得てして七夜の女とは次代へと血を残す胎盤としての役目が強い。
それ故に、自由意志の有無は介入する余地も存在しなかった。
『確かにそれはそうかもしれないわ、でもね』
そこで彼女はひとつ間を置いた。
『私は今、幸せよ。きっと百年先でも、死ぬ瞬間にでもそう言い切れる』
そよ風が私たちの間を通り過ぎていった。
風に靡く彼女の髪は柔らかく揺らめき、私は女としての美しさをそこに見た。
今のこの人に世界はどう見えるのだろうか。
たぶん、私には理解できず、また経験し得ない世界を穏やかに眺めているのだろう。
宿命として狂気を帯び始めた男と繋がり、子を宿して母となり始めたこの人には。
血に縛られ、子を成す事に疑念を抱いた日はないが、ここまで己が運命を容易く受け入れられるこの人は、きっと強い人なのだろうと自然に思えた。
『もし、この子が生まれたら』
視線に更なる優しさを滲ませて、己が内に宿された命へと語りかけるように彼女は言った。
『どんな形でもいいからまっすぐに育ってほしいわ。それが例え七夜に縛られたとしても、もし違う形で生きるとしても』
そう言って彼女は、私に向かって微笑んだ。
『その時は、貴方も見守ってくれないかしら。私の子供がどんな道を歩むのか』
戯言か真意かはまるでわからない。
けれど、ただ微笑を浮かべて問いかける彼女に、私は曖昧ながらもひとつ頷きを返したのだった。
□□□
東の地平から太陽が顔を出し、日差しが里にかかりだす頃に目覚めるのが私の習慣で、それはもうずいぶんと長く続いている。
雄鶏が鳴くのと同じ時刻に起きてしまうのは少し眠い。
だがそれも馴れてしまえば早くに起きないほうがもったいないと思い始めた。
だって寝ている時間よりも、起きている時間のほうが楽しいことはきっとあるだろう。
起きて先ず私は布団の上へ立ち上がって背伸び、全身の血のめぐりを良くする。
こうすることでスッキリとした目覚めとなるらしいと聞いたが、それは本当だろうか。
曖昧なことだが、なんとなくこれをやらないと一日が始まらないような気さえしてしまうので、最早日課だ。
数箇所の関節から小気味よい音が小さく鳴って背伸びをやめる。
全身に脱力感。だけど、少し身体が温かくなった気がする。
布団を畳んで押入れの中にしまい、庭先に向かう。
木製の屋敷、言うなれば武家屋敷のような造りをした屋敷の中を移動し、縁側へ。
私の部屋は屋敷の端にあるので、縁側は近い。
縁側から見える光景は密かに私が好きな場所だ。
この屋敷は里の中で一番に高い場所、と言ってもそこまでだが、開けた視界が見える。
そこから見えるのは里に点在する屋敷や平屋、その向こうには深い森が広がっている。
東の木々の隙間から太陽が昇り、日差しが里を明るく染めていく。
私は目を細めて暖かくなっていく地と澄んだ空を眺めた。
「今日もいい天気になりそうだ」
くぅっ、と再び背伸び。
さて。身支度を済まし、食事の準備を開始しよう。
部屋の中に戻り、寝巻きを着替える。
下着を着けている以外では何も着けていない状態で私は、ふと部屋の中に設置してある姿鏡の前に立った。
女性にしては高い身長。
肉付きの少ない身体。
そして引き締まった肉体。
良く言えばスレンダー、悪く言えば男性的な身体の私が鏡に映る。
その顔つきも色気が無く冷たい印象を受ける。
更に目は若干鋭い。
ここらへんは私の家族(まだ私は未婚なので夫や子ではない)の血を色濃く受け継いでいるようだ。
その顔つきは私の兄様(あにさま)と似ているような気がする。
兄様は七夜の当主であり、七夜としては最強の座にいる男。
そんな人間に似ているのは女性としてどうだろう。
出来れば私は義姉様(あねさま)のような姿に似たかった。
義姉様は兄様と夫婦の契りを交わしたお方で大変女性的なお方だ。
朗らかで身体も女性らしい。
豊かな胸など見るたびにため息が出る。私とは比べるまでもない。
七夜としては別に問題ないのかもしれないが、女性としては少し、いや少々、いやいや結構考えものだ。
内心、なんで見てしまったんだろう、と思いながらさっさと着替えも済ませ、台所場に向かった。
今日の朝餉は昨日の晩に食した川魚が余っているので、これを焼いてほぐす。
しかしそれだけでは寂しいので、汁物と漬物を添えて彩りを増そう。
あ、あと米も炊かなくてはならない。
身支度を済ませた私は台所場に向かう。
まずは米を炊く。
あらかじめ井戸から汲んであった水で米を研ぎ、そのまま釜の中に。
竈に運んだらさっさと炊いてしまう。
火をつけるのは面倒だが、それも手馴れたもの。
少しばかりの藁に火打石で火種を点ける。
僅かな時間で火種がつき、それを竈の下に敷き詰めた藁に投入。
そのままでは消えてしまうので火吹き竹を使う。
暫く息を吹き続けていると火が点いたので、更に強く吹いていく。
目に見えるほど火が安定してきたのでそのまま少しの時間放置しておく。
七夜の里は人里離れた森の奥にあるので電気が通っていない。
なので電化製品が使えない。これは少し面倒かも知れない。
生まれた時から七夜にいる私にはあまり関係ないのだが。
「~~~~~~~♪」
料理をしているうちにちょっと機嫌がよくなってきたので鼻歌交じりに竈で川魚を焼いていく。
昨日採ってきたものだが、まだまだ鮮度はよく、取った直後にしめてもあるので味は大丈夫なはずだ。
あ、ちゃんと下ごしらえはしたぞ?
焼き加減を確かめながら、汁物を作ったり漬物を小皿に盛ったり。
ちなみに私は白味噌が好きなのでいつも白味噌。
今日はほうれん草や甘い人参を入れた野菜汁だ。
肉は入っていないが野菜のほのかな甘みが絶妙だ。
まあ、私だけが食べるわけではないのだが。
用意する食事は二人分。
魚は二匹だけ。川魚はこれで終い。
この料理を食べるのは私と、私が世話をさせていただいているお子。
いつも無表情で無感想。おいしいともまずいとも言わない。
一度試しにとんでもなく苦い食事を一品用意したが、その時も何も言わずに食べ、むしろ作ったのは言いけれど食べられなかった私のものも食べてもらった。
反省。
と言うか私の話をちゃんと聞いているのかも怪しい。
だからその子においしいと言わせるのが私の密かな目標だ。
そうしているとちょうどいい時間となった。
釜から炊き立ての米の香りが漂ってくる。
魚もいい感じなのでそろそろだろう。
釜の蓋を除くと蒸気がふわっと登ってきた。
それもまた良い匂い。お米の甘い匂いが食欲をそそる。だからだろう。
お腹から音がなった。
くぅ、と小さな音。
恥ずかしくて思わず辺りを見渡す。
ちょうどよく人もいなかったのでちょっと安心。
これが義姉様に見つかったら微笑みながら「早く食べましょうねえ」と言うに違いない。少し顔が熱い。
落ち着いたところで、米、川魚、野菜汁に漬物を盛って朝餉を完成させる。
今日の朝餉もおいしそうに出来上がっている。
密かに料理を得意としている私としてもまあまあな出来ではないだろうか。
見た目は少なめにも見えるが、朝の食事なのだからそこまで大目でもきっと食べられないだろう。
それらを大き目の盆に二人分乗せる。
では運ぼう。
台所場を抜け、目的地を目指す。
玄関に一度向かって草履を履き、無作法だが足で引き戸を開ける。
場所はこの屋敷の敷地内にある離れ。小さい建物だ。
この屋敷が大きいからか余計にそう思う。
今、時刻で言うところの六時前ぐらいだろうか。
いつも台所場から私が立ち去った後で義姉様が朝餉の準備を始める。
どうせなら一緒に調理すればいいと思われるかもしれないが、私が早起きすぎるのと義姉様が朝に弱いので合わせることが出来ない。
決して義姉様のマイペースに巻き込まれるのが嫌だとかそんなわけではない。
離れには縁側が小さいながらもついているので、そこに越し掛け一度盆を置いておく。
「失礼します」
襖から声をかけるが返事はない。
これはいつものことだ。なのでそのまま襖を開く。
するとそこには壁に寄りかかって座る子、朔がいた。
目つきは鋭いのに茫洋な瞳はどこを向いているのだろう。
天井あたりに顔を向けているが果たして天井を見ているのだろうか。
私には判断できない。
布団はしまわれているようで畳みの上には何もない。
朔は大変早起きらしく、私が朔を起こすなどほとんどなかった。
なので朔の寝顔などレア中のレアだ。
「朔さま、朝餉をお持ちしました」
話しかけても朔は無言。
しかし無反応ではない。
いつも食事を取る自身の定位置へと移動する。
その動きの何と滑らかなこと。
重心がどの位置にあるか把握できない。
私も七夜として幼少から訓練を受けてきた身だがこんな何気ない動きの中で訓練の成果、朔の才が見えるのだから凄いことだと思う。
縁側に置いてあった朝餉を室内に入れ配膳。
朔が座るのは部屋の中心。
朔の目の前に一人分を配膳し、その対面にもう一人分、私の分を配膳した。
「では食しましょう」
配り終わり、食事を開始する。
ただ私はまず手をつけない。
目の前で朔が食事を口元に運んでいく。
それはほぐされた魚。
食べやすいようにあらかじめほぐしておき、絶妙な塩加減と焼き加減をした今日の会心の朝餉。
それを食べ、朔はどのような反応をするのだろうか。
「……」
個人的な目標で内心緊張する。
ただそれを悟らせるのは愚の極み。
見かけは装い、朔を見守り続ける。
ただ、悟らせたとしても朔が何かするとはとても思えないが。
徐々に運ばれていく魚の身。
それに合わせ少し開く朔の口元。
ただそれだけの事だというのに時間が遅くなっていく。
スローな時の中で朔の姿だけがリアル。
無表情な朔。淀みの無い動き、そして―――――――。
「っ!!」
はむ、と朔が魚を食した。
そのまま味わっているようなわけでもなく咀嚼していく。
口をもごもごと動かす仕草は無表情ながらに子供らしく少し可愛い。
しかし、今は朔が反応をするのかが肝心だ。
名残惜しい気もするがいったん我慢しよう。
結果が肝心で、朔が反応を示すかどうかが重要だ。
そして朔がおいしいと、その口で言ってくれるだけで、私には充分だ。
そして嚥下。
魚を飲み込み、そして朔は。
美味いともまずいとも言わず、そのまま食事を進めていった。
「(……わかってた、わかっていたさ)」
密かな挫折感があった。
悔しいがそれを表に出すわけでもなく、二人は無言のままで食事を進めていった。
うちひしがれるのは慣れている。
□□□
食事を済ませ、朔が兄様との訓練に向かった後、私は家の家事を行っていた。
その時ふと思ったのだ。
食器をかたし、洗い物をして、掃除。
普段と変わらない、私の時間のことだった。
「(そういえば、もう七年経つのだったな)」
竿に洗い物を干しながら、私はなんとなく思った。
私が朔の世話を行って七年経つ。思えば随分と早い。
兄様が連れてきた時など、生まれたばかりの赤子だった。
世話をする人間がいないと知った私はすぐさま朔の世話係を名乗り出た。
それが長兄の子であることに関係ないと言えば嘘になるだろう。
七夜朔。
私たち三兄妹の長兄の子。生まれた時には親を亡くした子。
長兄は一族の掟を破ったことで名を排されており、その名を呼んではならない。
私自身長兄に対し肉親だった感情はない。
長兄は強かった。
圧倒的な力量で、単純に言えば暴力で蹂躙する様を強かったと言うのは少し語弊があるかもしれないが、それ以上に私はその存在が恐ろしかった。
七夜の者は退魔衝動を色濃く特出させる。
そして長兄は通常の七夜より遥かにそれを継承し、その影響で長兄は本人の気質と交じり合い殺人に快楽を見出す人間だった。
その姿、その在りかたが、私には長兄は魔物に見えた。
私たち七夜に存する異物。人間のようなナニカ。
私と血をわけたはずに人間を、私はそう思った。
だから私は長兄からはなるべく離れて生きていた。
長兄が死んだ一年前には気がおかしくなっていたため余計に遠ざかっていった。
だからだろう、長兄が粛清されたと兄様から聞いた時、正直私は安堵した。
これには私自身の気質も影響していると言えなくもない。
私は七夜でありながら魔を殺せぬ七夜。
色濃い退魔衝動は反転すれば、それだけ魔へ過敏ということだった。
アレが恐ろしい、アレが怖い、アレは嫌、アレは死。
そんな認識が脳髄に叩きつけられ、とてもではないが前線で活躍することは出来なかった。
例え認識を克服しようとしても、本能的、あるいはこの身体、もしくは魂が恐れを抱く。
ゆえにだろう。
私は魔的なものに排他的だ。もとより私は七夜。それは最早本能に近い気質。
しかし、私は私を許容することが出来ない。
魔的なものがいる事も、生きていることも、呼吸をしていることも、地に立っていることすらも。
思考の隅に過ぎっただけで、私は耐え切れなくなる。
そんな私を七夜は当然のように受け入れた。
七夜全てのものが退魔として生きれるわけではない。
ゆえに私は七夜として活躍することも、女盛りでありながら誰かと契りを行うこともしなかった。
跡継ぎの問題は自分には関係ないことだと、考えていた。
そんな私に変化があったのは、朔の世話を始めた頃。
そもそもなぜ私が朔の世話を名乗り出たのか。
世話をする人間がいなかったこともある。
当時の七夜に朔を世話する人間がいなかった。
そして死した長兄の子、というものに興味を覚えたのかも知れない。
狂気に飲まれた長兄が、手にかけなかった子。
ただひとり生かされていた子が朔だった。
もうどのような理由で名乗り出でたのかは正確には覚えていない。
だが、一ヶ月経ち、半年が過ぎ、一年を跨ぎ。
朔に目立ったことはなかった。
いや、何もなかったといえば嘘になる。
何も無かったということがあった。
離れに放り込まれ、そこで世話を受けていた朔。
だが、朔と関わる人間は私を置いて誰もいなかった。
朔を連れてきた兄様でさえ離れには近づかず、存在を忘れているのではないかと思えるほど話題にすら上がらなかった。
推論したところ、朔の存在は当時施行令が敷かれていた可能性がでた。
ゆえに朔は当時存在していなかった可能性がある。
だから朔が関わるのは私一人。
この里の中で朔は誰にも知らされず、存在していない子。
私が朔の歪みに気付いたのは直ぐだった。
笑わない。泣かない。喋らない。
たった一人で世話を行っていた私だったから分かったのかもしれない。
あるいは、側に兄様という具体的な殺人機械がいたからかもしれない。
子は訴える。
生きるために訴え、そして生かされる。
それは七夜の里の赤子も例外ではない。
生まれえたばかりの子は生きようと反応する。
だが、朔にそれはなかった。
訴えようとしない。
時折どこかを見ているのは知っているが、それはどこだったのかわからない。
少なくとも私ではなかった。
そして気付いた。
この子は異常だ。
だが、処理とは違うだろうとわかっていた。
異常だ。
確かに異常ではあったが、害はない。
ただ、憐れだった。
誰も側にいない子。
誰も守ってくれない朔。
そして何も訴えず、ただ在るだけの赤子。
恐らくこの時、私は朔の側にいようと決めたのかもしれない。
七夜ではない七夜の私が、始めて自分から進もうと決めた。
朝になれば起こして食事を共に食べ、昼も夜も同じく。
最初の頃は共に風呂にも入っていた。
そのような生活がもう七年以上。
朔は私をただの使用人風情としか考えていないだろう。
いや、朔の思考の隙間に私がいるのかと不安に思うこともある。
だが私が感じた七年は、朔と共に過ごした七年であると言える。
そう思うと、少しだけそんな自分が誇らしい。
干し終えた洗い物を見渡す。
暖かな日差しにあてられたそれらは緩やかな風に踊っている。
その中に一着だけ干された藍色の着流しが、ひときわ軽やかに揺れていた。
□□□
「どうすれば朔と食事をとれるのだろうか」
「知りません。そうしたければ、そういえばいいのです」
「っぐ、それが出来ないからお前に聞いているのだ」
「それこそ知りません。そのようなことを意識したことなどありませんので」
そう言うと目の前で当主、兄様は苦虫を噛み潰したような表情をし、私を睨む。
ただそれはお門違いだと直ぐに考えたのだろう、兄様は落ち着きを取り戻したようだ。
昼になると兄様との訓練が終了するので、朔との昼食を済ませた後(もちろん朔に反応はなかった)、母屋の囲炉裏の間で朔の着流しにほつれを見つけた私は裁縫を行っていた。
長いこと家事を行っているので裁縫などお手の物だ。
チクチクと裁縫を行っていると、その場に兄様が現われた。
「だいたい、今こうしている間に朔に会いに行けばいいのでは?」
「だが……俺は朔と何を話せばいいんだ?」
「(うざいぞ、こいつ)……兄様、別に無理に話さなくてもいいのですよ」
「何?」
ほとんど補修が出来上がっていた時のことだった。
ゆえに兄様に視線はほとんど向けず、手元のみを注視する。
しかし応答は行っているので問題はないはずだ。
「何かを話そうとしなくても、共に過ごす時間が多ければそれだけで変わるものもあります」
「なるほど……」
私のそれとない提案を受け、兄様は思案を深め、言葉を止めた。
その思案顔を見て思う。
兄様が変わったのは兄様のお子、志貴が生まれたからだった。
それから兄様は憑き物が落ちたように豹変し、その影響で七夜は退魔の生業から離れることとなった。
それはいい。
退魔業から抜けた七夜は平穏そのもので、実に穏やかな日々を私自身過ごしている。
それを得難いものだと気付いたのは、私自身の進歩だろうか。
あるいは業を深めた一族の末路と考えれば退化と呼んでも差支えがないのかもしれない。
けれど、私は今の空気が好きだ。
元から事情により前線に出ることの出来なかった私には、あまり関係ないことと思われるかもしれない。
だが、七夜の雰囲気が変わってきていると肌で感じている。
里に生きて戻らぬ者も在り、日々暗澹と殺人術を磨き続けた七夜とは一変し、実に安穏とし、温もりのある里になりつつある。
これは、素晴らしいことだろう。
しかし、懸念するのは朔のこと。
朔はこの七夜が過ごす平穏とは隔絶された場所にいる。
朔は人とのかかわりをほとんど持っていない。
兄様、翁、私、そして最近になってそこに志貴が加わったが、それだけだ。
温もりがわからず、温度の有難みがわからない子。
それは一体どうしてかと、考えた時、要因が目の前にいる兄様にあるのではないかと思いついた。
「(ただ、それも今更なのかもしれないな……)」
確かに要因かもしれない。
だが、それを考え始めたのが最近。
動き出すには遅すぎたのだろう。
根付いた習慣は拭えず、朔は以前の兄様のような性格になりつつある。
それをわかっていても朔を変えることの出来ない自分が腹立たしい。
思考に行動が追いついていない私が言える事ではないのかもしれないが。
……そういえば。
「以前翁と話し合っていたご入浴の件はどうしましたか」
「……」
兄様が固まった。
いつだったか朔と一緒に入浴したいと兄様は言っていたが、今ではすっかり話を聞かなくなっていたのを思い出した。
「それが、なあ……」
硬いままに兄様は私に視線を合わせず妙に動揺していた。
「俺が提案してもだいたい朔は既に入っている状態がほとんどでな……」
「それで、本当は?」
「いや……、一度断られてから、全く聞いてもいない……」
「このへたれが」
一蹴した私は決して悪くはない。
□□□
どんよりとした空気を纏い始めた兄様を無視し、修繕の完成した着流しを離れに持っていく。
この時間帯、兄様との訓練が終わり食事を済ませた朔はだいたい離れの中にいることが多い、というかほとんどだ。
それは朔自身が用もないのに外出することを理解していないかもしれない。
しかしそれ以上に兄様の訓練が厳しいことに尽きるだろう。
兄様はあれでも七夜で一の強さを誇る七夜の当主。
その力量は折り紙つきで、七夜の鬼神とは兄様を指す。
混血の天敵として恐れられ、前線を離れた今もなおただただ強い。
その強かさはほとんどの七夜では対応が出来ないほどのもの、なのだが、それに朔はついていっているとのことだ。
しかも、時たま兄様を凌駕しようとさえしていると聞く。
それを聞いて、少し嬉しくなり、そして悲しくなったのはいつの日か。
朔には才があると知り、嬉しくないはずはないだろう。
私が朔を今まで育ててきたと考えるのならば、自分の子供のように育てている相手が褒められるのはいいことだ。
だが、今の七夜でその訓練が必要なのだろうかという疑問は尽きない。
退魔組織から抜け、人里離れた場所に住まう七夜に、必要はあるのだろうか。
外敵から身を守ると考えればいいのかもしれないが、それは大人の仕事であって、朔のような子供には訓練もまだ早いと感じる。
ただでさえ朔は訓練を開始するのが早かった。
未だ歩けたばかりの子供に課すには疑問を抱く事態。
だが結局兄様の当主としての命令で、朔は訓練を行わされた。
そして兄様の訓練は苛烈。
ただの子供が行うにはあまりに厳しい。それに朔は追随していると言うのだ。
もう七夜は退魔ではないのだ。
だからそれだけ鍛えられても、ほとんど意味は無いのではないのかと、私は思い、そして過酷なことをさせている朔が文句を言わずに過ごしていることが、悲しかった。
「おや?」
離れにやってくると、離れの中に朔以外の気配を感じた。
襖の中を覗いてみる。
堂々とすればいいのかもしれないが、ちょっとした好奇心だ。
……あとで気付いたが、襖を覗いている私の姿はなんと間抜けだったのだろうか。
そして中を覗いてみると、なんとそこには横になって眠りについている志貴と朔がいた。
志貴が朔と距離を縮めたのは最近のことだった。
理由は結局わからずじまいだが、朔が誰かと仲を結ぶのは大変いい事だ。
ただでさえ人との関わりのない朔に近しい人間の有無は微妙なところだろう。
私は言うに及ばず、兄様や翁に繋がりの情を感じているのかも怪しい。
だから志貴の存在は稀有だ。
得がたい存在だと思う。
従兄弟という関係ではあるが、今まで近づいていったこともなかった。
それに歳が近い。ほとんど同い年同士だ。
志貴にはぜひとも朔とより仲良くなって欲しいと思う。
二人はお互い近づいて眠っている。
志貴のみが一方的に朔へと近づいているだけかもしれないが、志貴に手が朔の着流しを掴んでいる。
その光景は微笑ましく、温かみのある絵だ。
ただその光景は少しばかり私には刺激が強い。
「(おっと、よだれが)」
どうにも小さな子供が愛らしい姿にあると興奮してしまう。
これはきっと性だ。
致し方のない事である。
それを人はショタコンと呼ぶが、断じて違う。
この感情はそんな俗物的なものではなくもっと高尚で偉大なものだ。
そんな性的興奮とは訳が違うのだ。断じて。
それに私が注視しているのは朔である。
世話役の義務として対象の成長を見守るのは当然。
そこに私的感情を挟む余地はない。
嗚呼、しかし無防備に眠っている朔のなんて愛らしく可愛らしい事だろう!
今でも精悍の片鱗を垣間見せるが、順調に育てば里一の男になるのは間違いない。
容姿的な意味でも、技量の部分としても最も当主の座に相応しい男となるのは朔に他ならないだろう。
その時が待ち遠しく、また心のどこかで怖いと感じている己がいる。
朔が当主となれば伴侶が必要だ。
それは本人の意志とは関係ない。
その時、朔の隣にいる見知らぬ女の姿を想像するだけで虫唾が走る。
唾棄すべき想いだとは理解している。
けれど、それとこれとは別問題なのだ。
朔を生まれたときから世話をしているのは私以外の他におらず、また唯一朔と接触できる女は私しかいない。
つまり私は朔と最も近い血縁という事もあり、契りを結べる第一候補と言っても過言ではない。
その時、他の女共が指を咥えて羨ましがる姿を想像するだけで愉悦が背筋を駆け巡る。
嗚呼、しかし朔はやはり可愛いなあ、おい!
そう遠くない未来を思い描いて私は一人ニヤニヤとする。
最も、朔が当主となるのは微妙な所ではある。
何せ朔の立場は大変危ういバランスによって保たれており、それは何かひとつの衝撃で簡単に崩落してしまう可能性を孕んでいる。
一族から排された男の子供、というだけで朔は危険因子の目で見られてしまうと言っても過言ではないのだ。
故に、なるべく私と翁はそれを秘匿し、朔を外部から隔絶するような形で育ててきた。
それが正しかったのか、間違っているのかは今でも分からない。
しかし、実力主義である七夜を考えれば朔が当主となるのはそう難しい話ではないのだが、それだけに長兄の実子であるというのはネックだ。
「(まあ、朔なら問題あるまい)」
何せ黄理が手解きを行っているのだ。
当主が目をかけているという事実が衆目に触れている時点で、私たちの狙いはうまい具合に働いている。
後は順調に朔が育つのを待つのみだ。
「貴女は、見ていますか? 貴女の子供は立派に育っています」
私は一人、襖を閉めた後にここにはいない誰かへと呟いた。
□□□
『もし、ですけど』
何気なく、彼女は口火を切った。
柔らかな母としての笑みを浮かべながら。
『私に何かあったときは、この子は貴女に任せますよ』
『……それは』
『ふふ、もし、もしもの話ですよ。けれど、優しい貴女に育てて欲しいというのは私の本音』
心の奥底に仕舞いこんだ秘密を解き明かす恥ずかしさに顔を染めながら、彼女は言った。
けれど私は彼女の言葉の真実がどこにあるのか察することが出来ず、ただ戸惑いを覚えた。
自らの子供を託す事にも違和感を覚えるが、果たして彼女は本心から私を買い、任せると言うのだろうか。
私は役立たずの七夜だ。
前線に出ることも出来ず、また七夜としての宿命を全うにこなす事も出来ない、正に出来損ないでしかない。
故に、誰かに任された役目を果たせるとは、この時は想像出来なかった。
『……』
『誰よりも臆病で、誰よりも痛みを知る貴女にこそこの子の行く末を見守って欲しい。それはもし私に何かあったらだけではなくて、一緒に見守って欲しいという事です』
『滅多な事を言うものではありません』
『あら、何事も想定するのは七夜の領分よ?』
『それは、確かにそうですが……』
彼女言い分も、分からなくはなかった。
例え七夜の森という要塞の中にいようとも身の危機はいつも側に寄り添っている。
その死神がいつ命を食い破るかは定かではない。
故にこの人は私に託すのだという。
母でもなく、また七夜としての使命を全うにこなせるはずもない私に。
そのような資格の一切を持っていないのに。
けれど、あの時見せた瞳の深遠に微かな感情の揺らめきが映し出された。
それはすぐさまに消え去ったが、決して見逃したりはしなかった。
託すものだけが持ちえる、精神の眩い光。
……もしかしたら、彼女はすでにこの時、己の命がそう遠くない未来に散りゆく事を知っていたのかもしれない。
全ては過ぎ去った後の妄想に過ぎないが、あの時交わした視線の透明な瞳は、そう思わせる説得力を秘めていた。
『だから、お願いしますね』
『……はい』
それはいつかの夢物語。
春先の微風に吹かれながら、一人の女と母が交わした口約束。
けれど、私はその約束をまだ、守っている。
オリキャラ紹介
叔母。
七夜黄理の妹にして朔、志貴の叔母にあたる人物。本名は未だ知れず。
退魔反応が強力すぎて魔に反応しすぎる弊害を抱えており、魔の気配に極度の恐怖を覚えるため前線に赴く事が出来ない運命を持つ。
故に早々と婚姻を交わし、子を成す事を求められているが朔を育てるという約束のため未だ誰とも契りを交わしていない。
もし、朔が順調に育てば血の濃度によって嫁の第一候補として彼女があがる。つまり、正ヒロインの座に座ることも不可能ではない人物。
好きな事は家事、専ら危ない事は苦手。
容姿は黄理に似ており、彼が女となればこのような姿となるに違いないと思わせるほどの鋭利な雰囲気を醸しだす女性。
肉づきは悪く、良く言えばスレンダーな肉体をしている。
口調は固く、時に凶悪な言葉さえ放つ辛辣な面を見せる。
キャラクターイメージはACFAのオペレーター。
元々あまり必要事項以外は口にしないタイプであるが、胸の内は妄想逞しい女性である。
言うまでもなくショタコンであり、子供が大好き。
好きというより愛している。無論ラブな方で。
それは魔への強力な反応から来る怯えの裏返しでもあり、脅威が低い相手であればあるほど安堵と依存を覚える。
ちなみにショタコンが覚醒したのは朔の世話を始めてからであり、それまでは何かを興味を覚えるような事はなかった。
青い果実をもぎ取る未来を今か今かとタイミングを見計らっているとも言えるだろう。
七夜では珍しく一族の宿命に懐疑的な思想を抱く人物であり、朔の訓練をあまり快く思っていない。
とは言え、高められた実力によって彼が当主の座についた場合を想像し、隣に己がいると想うだけでニヤニヤする。
朔を育てているという自負心を持っており、最初それは興味本位の部分が強かったが、朔の実母に当る人物との口約束もあり、本当の愛情を持つに至った。
しかし、母性と性的欲求を綯い交ぜにしている部分があるため、その愛情がいったいどこから来るのかは甚だ疑問。