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No.34379の一覧
[0] 【月姫】七つ夜に朔は来る【オリ主もの?】[六](2012/09/19 16:31)
[1] 第一話 黄理[六](2012/09/08 21:12)
[2] 第二話 志貴[六](2012/09/09 20:34)
[3] 第三話 とある女の日常[六](2012/09/09 20:58)
[4] 第四話 骨師[六](2012/09/10 08:36)
[5] 第五話 梟雄[六](2012/09/10 09:47)
[6] 第六話 ななやしき君の冒険 前編[六](2012/09/12 11:12)
[7] 第七話 ななやしき君の冒険 後編[六](2012/09/19 16:29)
[8] 第八話 蠢動[六](2012/10/23 11:06)
[9] 第九話 満ちる[六](2012/10/26 18:36)
[10] 第十話 月輪の刻[六](2012/11/03 09:25)
[11] 第十一話 紅き鬼[六](2013/01/10 12:13)
[12] 第十二話 鬼共の饗宴[六](2013/02/24 11:13)
[13] 第十三話 Sky is over[六](2013/04/17 00:45)
[14] 第十四話 崩落の砂時計[六](2013/06/29 18:01)
[15] 序章終極 鬼の哭く夜に、月は堕ちて夜は終わる[六](2013/07/13 10:17)
[16] 刀絵巻 百花繚乱/曼荼羅地獄絵図[六](2014/01/29 21:59)
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[34379] 序章終極 鬼の哭く夜に、月は堕ちて夜は終わる
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/07/13 10:17
 一先ず幕は一度降ろされる。
 後に残るのは、観る者もいない観客席。

 □□□
 
 ふいに、目が覚めた。
 
 広い屋敷の中は誰もいなくて、痛いほどに静かで、僕は寂しくなって外に出た
 
 離れに向かっても兄はいなかった。皆何処に行ったのか分からない。中には敷かれた布団だけがあった。

 静かな夜に何処からか音が聞こえた。遠く耳を澄ませばそれが森の方からだと分かり、誰もいない事が嫌になって森に向かった。森の中は子供だけで行っては駄目だと言われていたけれど、誰もいない屋敷にいるのが怖かった。

 森は暗くて、冬の空気がシンと身体に痛い。息は白く、先も見えない暗がりを進んだ。

 流れる黒のヴェールに月の光は届かない。森は深く深く、先に何があるのか分からなくて、僕は少しドキドキしながら音の聞こえる所に進んでいた。

 ナニカが弾ける様な音、硬く乾いた様な音が、聞こえる。それはどこにだろう。

 森を進んでいると、誰もいなかった。人も、動物も、皆いなくなっていた。誰かとすれ違うこともなく、鳥の鳴き声も聞こえない静かな森が横たわり、夜には森の向こうから聞こえる音しかなかった。

 ――――――し、き―――。

 名前を呼ばれた気がして、そちらに向かう。

 ――――――――――わからない。

 広い場所に皆いた。

 赤い赤い、赤い地面。赤い水が、広がっていた。

 その中に、皆いる。だけど皆ナニカが欠けていて、バラバラになっていた。

 手がない。足がない。身体がない。頭がない。

 赤い水の中を泳ぐように、皆倒れている。

 ――――――――――わからない。

 誰かが僕の前に現われた。僕をバラバラにするために、やってきた。

 そして、誰かが僕の目の前に飛び出て、僕の変わりに倒れていった。

 赤い水を浴びる。

 僕の代わりにバラバラになった、お母さんと言う人は、そのまま動かなくなった。

 ――――――――――わからない。

 赤い水が目の奥に染みこんでくる。

 それを拭おうとは思わなかった。

 ――――――――――わからない。

 僕の前に、誰かが来る。僕をバラバラにするために、やってきた。

 ナニカ鋭いものをその手につけて、僕に向かって突き刺す。

 痛いとは、思わなかった。

 だけど力が入らなくて、そのまま地面に座り込んだ。

 この人は僕をどうするのだろう。

 僕を皆みたいにバラバラにするのだろう。

 そして―――――。

「―――――――――――――――――っ」

 その背中が、見えた。

 僕の前で、僕を守るように、その背中があった。

 半身は肌蹴ていて黒ずんだ藍色の着流しは破れていた。

 僕よりも少しだけ大きな背中は引き締まり、だけど細く。

 その左腕は長くなっていて、まるで人形の腕を無理矢理くっつけたようだった。

 けれどその背中は、なくならない。揺るぎなく立ち続ける背中はまるで父親の背中のよう。

 それに僕は安心して、涙が出そうになった。

 力がなくなって、僕はそのまま倒れてしまう。

 頭が靄にかかったように曖昧で、自分でも何を考えたいのかよく分からなかった。

 倒れて、空が見えた。夜の空に、月が独りぼっちで吊るされている。

 そして、思う

 ああ、何で気付かなかったのだろう。

 見やる空に浮かぶは、満月。

 丸い形をした淡い光。

 ――――嗚呼。今夜は、こんなにも。
 つきが――――――きれい―――――――――――だ―――。

 
 □□□


 時は少しばかり遡る。


 鬼の豪腕が風を突破して迫る。


 その刹那が永遠の如くに感じる。あまりある質量と膂力にものを言わせて攻勢を強いる軋間紅摩の一撃はまるで暴風雨のようだった。風が轟き、稲光が劈く。凡そ人の域を凌駕したものだけが揮える拳であった。
 まともに喰らえばただでは済まされぬのは百も承知。故に七夜黄理は迫る拳をするりとかわして出方を待つ。すると軋間紅摩は避けた黄理に目掛けて又もや拳を揮う。埒外の威力を秘めた拳をだ。それを回避すれば勢い余った紅摩の拳が樹木に直撃し、軒並み圧し折った。決して細くは無い、寧ろ巨木と称するべき木々を拳ひとつであっけなく破壊したのだ。並みの威力ではない。もし身体で受け止めれば、まず間違いなく木っ端微塵となる。


 鬼達の交差はまるで災厄のようであった。否、軋間紅摩こそが災厄の象徴そのものであった。


 一度腕を揮えば樹木が抉れ、一度地面を踏みしめれば大地が割れる。とんだ化物だ。


 そも軋間紅摩はそのような存在なのだ。質量乃至膂力、果ては存在又概念に至るまで、まず根本的な部分から人とは異なる混血。黄理は知りえぬ事だが、血とはいわず、肉まで魔と混ざり合った過去を持つ狂気の結集だ。対峙する黄理とは最早核が違っていると表現しても過言ではない。
 黄理も幾度と無く混血殺しを行ってきたが、これほどまでの化物は初めて対峙する。黄理自身、人間の頭部を身体にのめり込ませることが出来る故、尋常ではない力量を持ちえているが、眼前で乱舞する鬼は鍛錬や努力という言葉を軽く握り潰してくる。凝縮された巨獣という形容では足りない。一瞬たりとも気を抜いてはならない。


 硬められた拳の打突が腹部を狙って放たれる。鉄塊よりも重く、馬鹿げた威力を放ちながら黄理を殴殺しようと、轢殺せんと迫る。その一撃を寸でのところで避けるが、頭部を横切る握り拳の余波に一瞬脳が揺れた。拳圧だけで頭蓋骨を揺さぶるのか、と内心驚嘆しながら、僅かに歪む意識に顔が苦々しく歪んだ。その刹那を紅摩は見逃さない。
 振り抜かれた拳は勢いを殺す事無く、逆の腕が跳ね上がる。筋肉繊維が急速に膨れ上がり、葉脈のように血管が浮かびあがる。踵から生まれた急激な旋回に紅摩の足元が沈む。爪先から始まる回転力は足に伝達され、太腿を刺激して腰骨を捻る。筋肉の連動は留まる事を知らず、正確に拳へと伝わった。近代ボクシングで言う所の右フックに近い一撃が放たれる。しかし、紅摩の全身から放たれた拳が所謂ただのスポーツの範疇で収まるはずがない。混血の最終地点に君臨した男の拳が、人間程度の威力で収まるはずがない。


 それは稲光だった。曇天を切り裂く赤い雷光であった。


 音すら置き去りにして、時が止まったかのような刹那の永遠。その空間を抉るように紅摩の一撃が迫る。限界まで引き絞られた上腕二頭筋と僧房筋が、黄理の身体を破壊し尽くさんと死神の鎌の如くに襲い掛かり――――。


 其れよりも尚早く、銀の刺突が紅摩の首筋に突き刺さる。


「嗚――呼――」


 だが紅摩は止まらない。例え骨肉を磨り潰す銀撥の一撃を喰らってなお、剛毅なる意思をそのままに肉体へと変換したかのような紅摩には痛みすらも感じない。そして、打たれた事実を意に介さず振り被られた腕は、またもや幻のように消え去った黄理により、発散するはずの力を解放できず、空振りという結果に終わった。
 そして首筋を穿った黄理の銀撥には、強かな痺れが走っていた。まるで鋼鉄を打ち据えたかのような骨まで震える痺れだ。


 状況だけ見れば攻勢に出ている紅摩が有利と言えよう。だが、彼の本懐はその圧倒的なまでの潜在能力を直撃させなければ発揮されない。無論、直撃すれば忽ち黄理は原型を残さずに亡骸と化すだろう。そう確信がある。


 それに対してこちらはどうか。
 剛直さで言えば劣るのは明々白々。頑健さもまた然り。しかし、肉体運用と死角への移動速度であるならば黄理が有利。益荒男の如き肉体の紅摩に対し、黄理も人の段階を踏破した鍛錬を行っているが、少々見劣りするのは致し方が無い。そも混血と張り合おうという思考がそぐわない。
 やはり、初撃で決めるべきだったか。
 距離を置き、内心忸怩たる思いで髪の毛を揺らめかせ、鬼気迫る表情でこちらを見やる紅摩を睨む。
 七夜の体術は暗殺に特化している。正面から対峙し、戦闘に移行するのは愚の骨頂。七夜が退治する混血は人の範疇を超えた化物なのだ。ならば正面から戦うのは愚の極み。故に暗闇から忍び寄り、気付かれる事無く背後から奇襲し殺す。歴史の最中、幾度と無く血を流した七夜が生み出した混血に対する唯一の攻撃手段である。
 しかし、黄理は初撃でそうはしなかった。否、出来なかった。あの状況、あの段階において早急に朔を救出しなければならなかった。故に真正面から姿を現したのだ。少しでもこちらに混血の意識を傾けさせるため。
 確かに判断としては正しかっただろう。でなければ、朔を救えなかったのも事実。


 そう思えば、このような化物に傷を負わせた朔は驚嘆するに値する。近年目覚しい成長を遂げていたが、真逆あそこまで食い下がるとは思わなかった。己の千切れた腕を生贄に、奇襲を果たしたのだ。死力を尽くし、すでに動けぬ身体を無理矢理稼動させ、最後に見せた戦術は賞賛すべき事態であった。何故なら、七夜最大戦力を誇る黄理が、今も尚相手に対して傷ひとつ負わせていないのだから。
 俊敏性はこちらが圧倒的に有利である。しかし、紅摩の質量と甲殻にも似た表皮は岩石そのもの。あるいは凝縮された鋼のよう。一撃で屠るにはほぼ不可能と、黄理は結論付ける。そしてあの行動が現在取れた最善であった、と付け加える。
 では退けるか。そう思考して、無理だとすぐさま却下する。この混血はどのように負傷しても必ず邁進する。例え遠野からの退却命令が出たとしてもそれを無視して直進する何かを持っている。具体的に把握できないが、茫洋たる瞳に燃え盛る紅蓮の炎がそれを証明している。こういう手合いは厄介だ。決して怯えず、怯まず、己の内側に眠る心根を信じきるため、絶望もなければ空虚すらない。精神的に追い込もうとしても、意味がないのだ。
 ならばどうする。と、思考の間隙を縫って第二波の猛攻が放たれる。


「――――っ! 狂犬かてめえは!」


 犬歯を剥き出しに、壮烈な眼差しでこちらを睨みながら拳を繰り出す混血に思わず舌打ちが漏れる。


 まずもって対峙する混血は普通とは異なる。幾ら魔の血脈を混ぜているとは言え、人間としての括りから抜け出る事はない。それは肉体も同じ事。どんなに異常な能力を秘めていようとも、先ほど黄理が穿った一撃は咽喉下を貫き頸骨を砕くほどの威力を込めて放った一撃である。だと言うのに相手はそれを意に介さず反撃にかかる。尋常ではない。


 これが噂に訊く紅赤朱か?


 混血の中には時たま先祖返りを起こして純血の魔へと成り下がるものがいる。そうなれば最早人の手には負えない真性の化物となる。つまり眼前で脅威と化している混血はその類のものか。瞳に理性は見えないし、あるのは荒々しい気炎のみ。凡そ通常の人が持つ眼ではない。
 その可能性が浮上すると厄介どころの話ではない。今まで屠ってきた相手方に紅赤朱とした開眼した者はいなかった。真っ当な奇襲では打倒不可能だろう。現実として、今もなお混血は猛威を振るっているのだから。では、どうする。黄理の額に脂汗が流れた。
 幸いにして動体視力及び敏捷性はこちらのほうが上。更に相手は隻眼である。死角へと潜り込むのは容易い。そこからが勝負だろう。と、再び鬼の豪腕を掻い潜って死角に移動しながら首筋へと銀撥を穿つ。これで良い。寧ろ、これが良いのだ。幾ら相手が頑丈極まりない混血とは言えど心臓脈打つ生命に変わりは無い。ならば殺せる。生きているのなら殺せる。そう確信できたのは、奇しくも朔が最後に与えた傷だ。致命傷には至らなかったが、相手が傷つくという事実は黄理に計り知れぬ大きな要因を与えた。つまり、相手がどんなに化物であろうとも、傷を負い血を流したのであるのならば身体構造は人と同じ、同じ生物なのだ。倒しきれる。知識とこれまで培ってきた経験でもって黄理は相手を打倒する算段を錬り、死角から踏み込んで再度首筋を打つ。
 どんなに硬い岩石であろうとも、長年雨滴に晒されればやがてへこみ、遂には穴を穿つ。つまり黄理の戦術はこうだ。安全圏内に常に移動しながら相手の首筋の同じ箇所に銀撥を叩き込む。それの繰り返しだ。地道な作業と言うなかれ。黄理はそれを実行するたびに、刹那とはいえ嵐の中に潜り込むのだ。柔な心胆では竦んで思いもつかない算段である。しかし、黄理は暗殺者。奇しくも相手の混血と同じ呼び名で恐れられた男だ。それぐらいの事、軽く実行してみせる――――!


 そう覚悟を決めて、黄理は戦闘の最中でありながら不思議な感覚を味わった。これまで幾度と無く覚悟を決めては来た。無理難題、不可能とさえ呼ばれる暗殺を行ってきた。だがあくまでそれは暗殺、奇襲による一撃に過ぎない。このように戦闘を行い、戦術を練るなど、黄理の生涯に於いて初めての事象であった。死線を踏むこえ、相手を打倒する算段を思考し、そして結果を残す。それは幾度も繰り返した。だが、こうして相手の正面に立ち、真っ向から立ち向かうなど人生で初めての経験だ。
 心臓が高鳴る。自然と呼吸が乱れる。筋肉が熱を放っている。


 そうか、これが戦いか!


 合点した。この不思議な感覚は始めての戦闘に心躍っているのだと。互いの命を両天秤に乗せて戦い続ける『殺し合い』なのだと。
 これまで黄理は一方的に殺し続けるだけの人生だった。闇夜に紛れ、暗がりに身を潜め、対象に狙いを定めて、間隙を突いて殺す。それだけの人生だった。


だが、今はどうだ。今自分は交戦しているのだ。殺し合いをしているのだ!


 妙な得心ではある。だが、その結論に至り黄理は凄絶に笑った。
 そうか、これが殺し合いが。互いの命を懸ける殺し合いなのか、と興奮した。
 殺すことで興奮することなど未だ体験した事のない感情だ。殺人機械と称された黄理はどのような状況であろうとも感情を抑制し、決して怯まず鏖殺してきた。そうでなければ困難な要請は達成できないし、心というものが壊れてしまうだろう。黄理には心があるかどうかは分からない。ただ、もしも心が黄理の中にあったとするのならば、その深い部分が壊れてしまっているのだろう。でなければ、こんな状況で笑えるはずがない。戦いを楽しみ、殺し合いを果たす。まず常人の理性ではない。しかし、それでも構わない。七夜は最早常人ではないのだ。
 そうして、更に黄理は混血の首筋に刺突を解き放った。
 振り被ったふるはしで岩盤を穿つような感覚に、暫し酔いしれる。


 この感覚こそ、勝利への布石なのだ。


 □□□


 大樹の生い茂った葉群に紛れ、交戦の状況を真摯に翁は戦場を見守っていた。あわよくば黄理の救援を、と考えていたが自らの力量を考えると無理だと理解した。波飛沫がぶつかり合うような殺し合いに自分が介入してしまえば、寧ろ黄理の邪魔となろう。で、あるならば自分はひたすら疼く身体を抑えて戦況を見守るしかない。


 そして、はたと気付く。あの黄理が凄絶に笑っている事実に。


 ただでさえ表情の変化に乏しく、感情も変化が見られない黄理が今、殺し合いを楽しんでいるのだ。自らがそのような状況に陥った境遇に滑稽さを感じているのかも知れないし、ただ純粋に殺し合いを楽しんでいるだけなのかもしれない。
 だが、それこそが危うい。今の黄理は尋常ではない。彼の淨眼は余さず周囲に移った者の思念を読み取るが、この自分に気付いていないという事実が圧倒的な現実となって翁に圧し掛かる。相手の挙動に集中しているからだとか、必死になっているから、という理由ですら言語道断だ。
 殺し合いで、ひいては戦場に於いて感情は無用なのだ。感情を爆発させれば肉体が抑制できず、勝敗が決してしまう可能性がある。感情の発露は抑えなければならない。暗殺に向かう黄理に再三上申した言葉だ。どれほど感情統制に優れていた黄理であろうとも、もしものことがある。故に翁は口酸っぱく申し上げてきたのだった。血に酔い痴れた過去があるだけ、余計にだ。


 そして、目の前の状況は充分危惧に値する。


 現在七夜最大戦力の黄理は一体の混血を抑え切る役目を担い、哨戒の者たちの報告によれば随時遠野の部隊が里に迫っているとのこと。翁は眉を顰めて状況が芳しくないのを知り、起死回生の一手はないかと必死に考察する。遠野部隊はどうでも良い。はっきりと断じてしまえばあれは烏合の衆、いくら遠野当主自ら率いようとも夜の、しかも七夜の森では無力に陥る。報告によれば特殊な混血はおらず、殆どが武装集団なのだとか。銃火器など恐るるに足りず、彼らは息つく暇もなく絶命するだろう。
 問題なのは、あの混血だ。永の時を奇しくも生き永らえた翁の目にはあの紅蓮の混血が戦車のようにも見えた。愚直なほどに真っ直ぐ前進し、砲撃の如き一撃を放つ。黄理が押し留めなければ、その道程には何も出来ずに七夜の屍が積み上げられるだろう。彼は前進し、押し潰し、打ち砕く一個の意思を持った戦車なのだから。


 故にここで黄理が混血を抑えきれるかどうか、あるいは打倒できるかどうかで七夜の命運が決まる。云わば分水嶺。瀬戸際と形容しても過言ではない。


 見やれば黄理は打ち倒す術を持っているらしい。幾ら打てど叩けど皮膚一枚傷つかぬ相手を殺しきれる戦術を練っている。遠目から見れば良く分かる。黄理は幾度と無く混血の猛攻に晒されながらも、その間隙を縫って首筋の同じ箇所に銀撥を打ち据えている。正確な動体視力と肉体を余さず稼動できるから出来る芸当だ。つまり、黄理はあの混血の咽喉元を磨り潰すつもりのようだ。今までと変わりの無い、七夜黄理だけが持ちえた殺しの技法だ。


『世には数多の不死が存在する。中には永遠の命を手に入れた者も存在する。だが不滅は存在しない。存在する限り、存在しているものは必ず滅びる定めにあるのだ』


 いつか、黄理が口にした言葉だ。場面は思い出せない。老いて頭が呆けてきたのだろうか。しかし、その鮮烈な言葉だけはどれだけ歳月が流れようとも脳内の皺に刻まれている。暗殺を極めた黄理だから言える至言。鬼神と呼び恐れられるに至ったが故の豪語。暗殺の依頼さえ受ければ必ず殺してみせる、と黄理は何気なく言った。けれど、その何気ない一言がどれ程翁に感銘を与えたか、きっと彼は知らない。いや、知らなくても良い。


「御館様……ご武運を願いまする」


 今はただ、状況を見据えるのみ。何も出来ない自分に歯噛みしながらもつぶさに状況を見やる。固唾を飲み、己が仕える当主の必勝を願いながら。
 この勝敗により、七夜の命運が決するのだから。


 □□□


 交差を重ねること幾数回。気付けば、二人は草原にいた。風に凪いでそよぐ草花と、空気に乗って香る草の匂い。火照った身体を冷ます風が気持ち良く、月光を浴びた草達はどこか神秘的な燐光を放っていた。
 しかし、ここは不味い。交戦に夢中になり過ぎて周囲に気を配る余裕がなかった。明らかに黄理の失態だ。この周囲には遮蔽物や足場になるような樹木が無い。つまり、改めて混血の脅威に真正面から晒されなければならなくなったのだ。黄理は不利な環境で戦わなければならないのだ。状況は最悪に傾いていると言えるだろう。
 けれど、黄理の口角はにやりと吊りあがる。眼前の敵を如何に打倒すべきかと。 そう、あれは暗殺対象ではない。最早完全に黄理の敵になった。なってしまった。倒さなければならない愛しい敵になったのだ。俄然殺さなければならない相手になってしまったのだ。笑みが零れるのも無理からぬ事だろう。この感覚は覚えている、そう確か……。


「ああ、お前あの時の餓鬼か」


 思い返すは十数年以上前。初めての暗殺以来に赴いた時だった。遠野槙久に企てられ、お膳立てされた初めての任務である。その時、黄理は初めて暗殺という形で人を殺した。それまで訓練という形で幾度となく人体を解体し、絶命させてはいたが、あれが仕事では初めての殺人だった。故に黄理は血に溺れた。何事にも初めは昂揚するもの。黄理も過分洩れず血に酔い痴れ、無用な暗殺を行った。その時、黄理はこの混血と出会っていたのだ。まだ幾許の歳も覚束ない少年だった。斎木に飼殺しにされてはいたが、なるほど、軟禁するだけの脅威をあの時この混血はすでに携えていた。故にその片目を奪ったのだ。まだ自分がどうにかできるうちに対処する布石を打つべきと、怜悧に判断したのだった。
 であるならば、布石は開戦前に既に打たれていたということ。それも黄理自身の手によって。そこに至り、黄理はより獰猛に笑った。全ての布石は整えられ、符号は合致し、今宵を迎えたのだ。誰も脚本していない物語に於いて、二人は自らの意思で対峙していたのである。


「真逆、こうしてまた会えるとはな」
「嗚――――呼――」


 皮肉な状況に思わず言葉を漏らすが返答はない。そも意志の疎通すら曖昧だ。最も、最初から返事など期待していなかったが。相手は狂人か、あるいは猛獣なのだ。意思疎通など出来るはずもない。


 相手は相も変わらず徒手空拳。されど砲弾のような拳と肉体で迫りきり、黄理の体には幾つかの掠り傷が生じている。首の皮一枚、紙一重でかわし続けてこの様だ。七夜最強と讃えられても所詮はこの程度、軽く笑える。対するこちらは銀撥を二振り。長年愛用し続けた暗器は黄理の信頼に応え罅ひとつ走っていない。頑丈極まりない鋼鉄の肉体を殴打してもなお健全に揮えるのは称賛に値するだろう。ならば、こちらも戦働きでそれに応えなければならない。
 混血は一見無傷。その肌には掠り傷ひとつもなく、まだ打撲痕もなければ出血もない。どうやら、朔が負わせた傷は疾うに塞がっているらしい。そして骨折もまた然り。しかし、その内側はどうだ。この黄理が、七夜最強と謳われた七夜黄理が勝算もなく殺し合いに挑んでいるはずがない。何度も同じ場所に穿った銀撥の威力は表面上には浮き出ていないが、頑丈な皮膚と筋肉に守られた骨に亀裂を走らせている。先ほど打ち据えた時、掌に確かな感触があった。そうするとなれば、相手の頸椎は最早限界に近付いている。あと一手、あと一撃穿てば絶命は必至だ。つまり、この殺し合い黄理が勝者となる。
 そして黄理は身体の熱に身を任せた。この緊張と昂ぶりは最早抑えが利かない。いや、抑えたくも無い。こんなにも楽しいことがこの世にあるとは思わなんだ、と体制を低くし、距離を保つ。ここで討つ。全力で。
 考えることは相手も同じか、仁王に屹立しながら肉体に渾身の力を込めている。隆起した筋肉から陽炎のような靄が立ち上っている。そうか、お前も同じなのか、とここに至り黄理は相手も同じ心境であったことを悟る。見やる所、相手方の混血は生まれながらの純粋種。さぞ退屈していただろう。好敵手もおらず、発達した身体だけを持て余して、さぞ窮屈だっただろう。


〝そうか、お前もか〟
〝そうだ、俺もなんだ〟


 言葉ではなく、ただ瞳でもって語り合う。こんなに愉快な事が当たり前のように転がっていたはずなのに、自分たちはまるでそれに気付かず、素通りしてきた。しかし、最早無視出来ない相手と出会った。出会ってしまったのだ。好奇に思わず顔面が緩んでしまいそうだ。鍛錬によって昇華した技法でもって必ず殺してきた黄理、そして生まれながらの体躯で戦う事など出来なかった混血。これはもう運命と形容しても過言ではない逢瀬だ。
 一陣の風が一際強く凪いだ。まるで二人を包み込むかのように。
 しかし、哀しいかな。楽しい時間はあっという間に終わりを告げる。 


 黄理の勝利でもって、終いとする――――!


「お互い損をしたな、小僧――――ッ!!」


 呼吸をひとつ置き、一気に踏み込む。爪先から地面を抉るように射出された肉体の姿勢は低い。草原を舐めるかの如くに地を這い進む。影を置き去りに、風を突破して体躯が速度で霞む。これが正真正銘、全身全霊の動きだ。挙動の一切を捨てた全速力での突撃。捨て身の突貫。
 地面と平行に移動する前傾姿勢。筋肉に酸素が行き渡り活性化された血が沸騰寸前と化し、黄理の身体を一息で最高速度へと移行させた。地面が爆ぜ、掻き消える景色、顔面に受ける風が心地よい。
 目標はこちらの狙いに気付いたのか、あくまで受け身の構え。拳をぶら下げた自然体。だが、隙だらけだ。身構えても最早遅い。あまりに遅い。幾つもの暗殺を成功させてきた黄理には混血は最早標的に成り下がった。伏線をいくつも張った結果、それが今まさに収束する。頸部への必要なまでの殴打、片目を奪った過去。疾走する黄理は左手の銀撥を捨て、僅かでも軽量化させて目標部分を目指す。
 これから放つは渾身一滴の突き。肉を抉り、筋を磨り潰し、咽喉元を食い千切り、骨を砕く全力の打突。これを喰らえば頑健極まりない混血であろうともひとたまりもなし。瞬く間に絶命は必至。予感がある、自分は勝者として拳を突き上げるのだと。


「――――ッ!」


 するりと死角に移行する。隻眼の瞳にはどう見えただろう。
 こちらへ突撃してくる相手が突如視界から消え去ったのだ。
 そして黄理は狙い通りの場所へと辿りつく。
 失われた視界に潜り込んだ黄理は地面を踏みしめ、全力の突きを放ち――――。


 ずん、と身体を突き抜ける何かに動きが止まった。


 これは致命傷だな、と黄理は思いながら下腹部を恐る恐る見やる。そこにはあるべき下半身が無かった。背骨が晒されて、内臓が滴り落ち、皮一枚で上半身と下半身が繋がっているが、千切れて落ちた。空洞となった下半身から零れる血に草原が赤く濡れる。


 呆然と黄理は省みる。咽喉元からせりあがる血が唇から漏れ出た。もう少し踏み込めばこうはなっていなかった。混血の首筋に銀撥は確かに触れている。だが、あと少し、あと少しだけ踏み込む速度が遅かった。それは混血が反応したからだ。何故、こちらの意図に気付いたのか。何故、反撃が出来たのか。布石は幾つも打ってあったのに、とそこでふと、黄理は気付く。もしも、この混血もまた布石を打っていたならば?
 最後まで戦うためにあくまでかわせる攻撃を避けず、わざと喰らっていたのならば。
 本当は死角への対処など疾うに済ませていたのならば。
 そして、それはいつ考え付いたのか。


「……さ、く?」


 思いつく限り、それしかない。もしも朔が黄理と同じ戦法を取っていたのならば、二度目の戦いとあらば対処は容易いだろう。それを黄理は知らず知らずの内に同じ轍を踏んでいたのだ。そうと混血が判断し、次第に慣れたならば、後は簡単だ。自ずから動かずとも、相手は先ほどの子供と同じような動きを行うのだから。


「ああ……」


 苦悶に声が漏れる。けれど、そこには韜晦の響きもあった。
 これが、敗北と言うやつか。


「                   」


 相手が何かを囁いているようだが、もう聴こえない。視界は暗黒に呑まれ、次第に黄理自身を激痛とまどろみの中に引きずり込んでいく。


 そして、黄理は幻想した。
 幼き日々からの鍛錬を経て成長した己の姿。そして初めて朔を抱いたあの日の朝焼け。それから志貴と朔と共に過ごした日々を。幾つかの騒動もあったけれど、何かと微笑ましい営為がこの暗い静かな森で行われていた。
 そうして時が過ぎ、黄理は自らが所有する屋敷にたむろしていた。縁側に座り込み、隣には女がいて、目前には志貴と楽しげに戯れる朔の姿。快活に笑い声を上げながらはしゃぎまわる朔を相手に妹はおろおろとして、翁は緩やかな時の流れに身を任せながら、相変わらず好々爺の笑みを浮かべている。


 嗚呼、そうか。


 幻の中で黄理は合点がいった。
 これが自分にとっての理想。夢にまで見た幻想だったのだ。
 そして幻の中で朔がこちらを振り向き、明るい声で「父上」と言った。一切の曇りも暗がりも無い心からの笑みに、自分はなんだか嬉しくてたまらなくなり、幸福を噛み締めながら。
そして――――……。


 □□□


 草原に頭部と下半身を失った屍が横たわっている。かつての強敵の亡骸だ。しかし、骸は骸。もう二度と動く事は無く、声を聞くことも、戦う事もできない。


 それが妙に残念だった。


 あの刹那の交差、七夜黄理が捨て身の突貫を行ったとき、もしあの子供と紅摩が交戦していなければ、こうはならなかったかもしれない。自分が倒れ伏し、黄理が勝者として亡骸と化した自分を見下ろしていたかもしてない。全てはもしもの話だ。実際は紅摩が勝った。


 そう、これは紛れもない勝ちだ。


 最後の瞬間、紅摩は死を幻視した。死角から弓矢のように伸び上がる銀撥に己の死を幻想したのだ。この生涯にて初めての経験である。人の生命を奪ったのはこれが初めてではない。何度と無く紅摩は他人の人生を台無しにし、滅ぼしてきた。けれど、殺したことはない。殺すとはあくまでこちらも殺される可能性がある状態で指す表現である。これまで紅摩が行ってきたのは、轢殺であり蹂躙であった。誰も敵わない、誰も相手が出来ない、為すがままに滅んでいった。
 しかし、今胸に満ちるこの充足感はなんだ。対等の相手と命を賭けて殺し合う。これが生命の証。死に触れてこそ理解できた。生きているとは、こういうことなのかと。死を間近に感じる事で、紅摩は生を実感できたのである。


 どくん、どくんと心臓が脈打ち熱を放つ。この熱こそ、紅摩が生きている証明なのだ。
 身体が昂ぶる。精神が高揚し、魂が震えた。
 勝利を味わい、死を想い、生を謳う。これがこんなにも歓喜極まりないことか。


 熱い。気付けば、草原に火が灯り、焔と化していった。次第に広がっていく炎の海は空を焦がし、紅摩を祝福するかのように容姿を照らし出す。
 燃える。燃える。草原が、草花が、地面が燃える。それはさながら暁のようだ。
 紅摩は暫しその光景に見とれた。熱情に広がる景色はまるで己の心象風景のよう。灼熱は天へと昇り、身を焦がす熱さに酔い痴れた。そして想う。この熱を忘れたくない、と。自分はこんなにも今生きているのだ。これを失いたくは無い。


 では、どうすれば良いか。


 遠野槙久の指示通り七夜黄理は殺した。これで己はお役御免だろうが、これだけでは物足りない。もっと、もっとだ。身体が滾り迸る熱情は未だ足りない。まるで水分を求めるかのように、紅摩は枯渇し、所望した。
 そして思い至る。何も七夜黄理のみに標的を絞らなくても良いのではないのか、と。目につくもの全ての七夜と戦い続ければ、この滾りは永遠に続くのではないのかと。そう決断したのならば、行動あるのみ。
 そこでふと、脳裏に掠めた黄理の最後の言葉だ。


 〝さく〟


 七夜黄理は末期の際に、確かにそう呟いた。何せ意識不明寸前に零れた言葉であるから確証らしきものはない。けれど『さく』とは恐らく固有名詞なのだ。そして『さく』とはあの子供のことだと爆発的に理解した。
 『さく』は七夜黄理と比べれば修練度は未だ低い。しかし、この軋間紅摩を傷つけた偉大な功績を残している。傷口は疾うに塞がっているが、傷を残したという時点でそれは脅威だ。で、あるならば『さく』は黄理に次ぐ担い手に相違ないだろう。体感したからこそ分かる。あれは間違いなく本物だ。まじりっけなしの、本物の七夜だ。
 では往くしかあるまい。最早価値を失った亡骸を後方に紅摩は歩みだす。
 目指すは『さく』。小さき童。邁進は止まらない。


 □□□


 音も無く樹木を渡り走る。翁は厳しい顔つきでただ前へと疾走した。終始余さず黄理と混血の勝負を見定めて、そして結果は一目瞭然、黄理の敗北に終わった。それは即ち、七夜の敗北と言う意味を齎す。最大戦力である黄理が倒れた今、あの混血に敵う者はいまい。で、あるならば七夜の壊滅は必至だろう。あの混血は七夜の精鋭を一網打尽にする怪物なのだ。翁が幾ら捨て身覚悟の奇襲を加えても無駄だろう。こちらの武力では敵うはずもない。


 ――――今宵七夜は終わる。虚しさはない。胸中に宿るのは、ただ寂寞のみ。


 長年、それこそ先代当主から仕えてきた。粉骨砕身、滅私奉公。全ては七夜繁栄のためとあの手この手を使い、智謀と老いてなお前線に挑むその姿勢に歴代当主からも御礼の言葉を頂いている。少なくとも、今代の当主も同じように影の奥深く、闇の中に紛れて彼を補助し、七夜の行く末を見守るはずだった。しかし。
 嗚呼、無念。枯渇した大地を思わせるほどに干からびた顔面を更にしわくちゃにしながら、ともすれば眼の奥が熱くなる程、翁は無情を呪わずにはいられなかった。
 永の時を脈々と受け継いできた歴史が今日潰えるなんて、想像だにしていなかった。当初は撃退可能だと考えていたが、とんでもなく甘い結論だった。あの混血が投入されて、それまでの流れが一気に遠野方へと傾いたのだ。これを悔しいと想わずにして何とする。もっと自分が知略の限りを尽していれば、こうはならなかったかもしれない。あの混血を打倒しうる術を考え出していたのならば、こうにはならなかった。あの忌まわしき混血が今宵全ての元凶だ。そしてあの怪物を止める算段はこちらにはない。終わりだ。どうしようもなく、終わりだ。今日、この夜に七夜は終止符を打たれる。絶望だった。


 だが、だがである。


 翁は面を上げて眼下をつぶさに散策した。
 七夜。その名を聞けば、誰もが恐れて震え上がり、混血の者は忌み嫌い、退魔組織からさえ爪弾きにされたほどの一族なのだ。人間の身で在りながら混血を暗殺する術を長い長い時間をかけて練り上げてきた一族。それは人間の本能の中に刷り込まれた退魔衝動を最大限に発揮させた結果も含み、七夜の名は斎木暗殺の際激震と共に語り継がれた。


 だが、それ以上に彼らが恐怖したのは、七夜のその徹底振りにあった。


 暗殺の練達者。そう言えば聴こえはいいかもしれない。完成されたプロフェッショナル。依頼達成の為ならば如何様な手段を用いても達成する賢しさ。一族に受け継がれる秘伝の技法もまた然り。その術理、その手際の良さは最早完成された一個の芸術。鬼神と呼び恐れられた七夜黄理は七夜の最高傑作の誉れを頂戴してさえいるのだ。
 だが、混血たちがそれ以上に恐れたのは、七夜たちの執念深さにあった。狙った獲物は逃がさない。必ず殺すと書いて必殺。それを体現し、生き様のように生きてきた群集団。それこそが七夜の恐るべき観点である。
 そう、彼らは必ず殺すのだ。そのためならば、自らの命を捨て去るほどに。
 それこそ七夜の矜持。生まれながらに殺すことを宿命付けられた者たちの誇りだった。


「おやおや、そんなに急いて何処に行かれまする?」


 眼下に見定めた武装集団に向かって翁は快活に問う。月光すら届かぬ深い森の闇の中を慎重に進んでいった彼らからしてみれば、突如として降り注いだ声は度肝を抜かれた。彼らはどうやら未だ七夜と遭遇していない新参者のようで、翁にとっては乳飲み子にも等しい無力な存在だった。


「これより先に進んでも貴方がたにするべきことなど何もありますまい。早々に帰路へつかれるがよろしいかと。さもなくば――――」


 翁の言葉が途切れる。声の出所に気付いた小隊が翁が佇む幹に発砲したのである。しかし、闇夜で、更に言えば一族の根城であるこの森で銃弾など恐れるに足りず、翁は身動ぎひとつで音速を突破する弾丸をかわした。


「やれやれ、最近の若者はこらえ性もないと見えまするな。まあ、ただの人間でしかない貴方がたにとって、それも致し方のない事とお見受けする。もう少しこの老骨の言葉にお付き合いしてもよろしいでしょうに」
 咽喉元でくつくつと笑いながら、翁は眼下で戦闘待機している部隊を観察する。数は凡そ十数名、各自銃火器を装備しているが、暗視スコープの類は装着していない様子。そして多少の訓練はされているようだが、動向からして素人に毛が生えた程度の修練度具合。まずもって申し分の無い獲物である。残念なのは今宵の首魁である遠野槙久の姿が見当たらぬことぐらいか。こういう輩は子供たちの為にとって置き、後学の為に保存してもよさそうだが、何分時間がそれを許さないし、何より状況がそれを許してくれない。もう、後々の事など考える暇すらないのである。無情を噛み締めながら、それでも翁は言葉を紡ぐ。


「今宵の祭りは最早終わりを迎えようとしております。なに、貴方がたが駆けつけても全ては後の祭り。残念なく全てが終わっていましょうぞ。であるならば、これ以上ここにいても無駄に尽きまする。それでも進みたくばこの翁の屍を超えていかねばなりますまい。ここにいるは先代より仕えた七夜が一人、貴方がたの相手など赤子の相手よりも容易かろうて」


 足元から激昂と動揺の気配が生じているのが分かって、尚更翁は可笑しくなった。これぐらいの戯言でたじろぐなど程度が知れる。そしてそれぐらいの戯言でたじろぐような相手に我々は負けるのだ。であるならば、今から行うはれっきとした負け戦。殿もいない、撤退戦もない、正真正銘の敗戦処理なのだ。
 そう思えば、少しだけ懐かしさを憶えた。先代より七夜当主に仕え続けた翁はどの七夜よりも修羅場を潜り抜けた経歴がある。若かりし頃は本当に戦争のようなものに巻き込まれたこともあった。国の情勢が崩れ、外敵が押し寄せた頃合、翁は炸薬と爆薬の扱いを得意とする七夜として、集団への奇襲攻撃を当主から賜ってきたのである。故に翁は刃傷沙汰よりも、よりいっそう戦争の香りがする火薬の香りが好きだった。若かりし頃の青春はまさに戦場と共にあったと言っても過言ではないだろう。
 特に敵陣へと突撃して炸薬を破裂させるのはたまらなかった。爆炎に紛れて魂ぎる絶叫は愉快そのもので、七夜では忍ばない七夜としての語り草として今も尚語られたものだ。特に先代の当主には付き従う事も多かったが故、そして得物が爆発物ばかりだったが故に積み重ねた屍の数は実は現当主よりも多いという事実に気付いた時は、中々荒唐無稽な話だと想ったものだ。
 思えば全てが懐かしい。七夜としては驚嘆に値するほど長命な翁は、その後前線を引いてご意見番や相談役として幾つもの役目を担ってきた。それは即ち七夜の変遷をこの目で見てきた事に他ならない。先代当主から続いた刀崎との盟約を交わした際も立会い、今代当主七夜黄理が正式に当主として任命された場面にも立ち会ってきた。そして黄理が退魔組織を脱退し、以降は俗世を離れて暮らす決断を下す際にも相談役として幾度と無く密談を交わしたものだ。それから七夜の雰囲気も一変して安穏とした生活を送り、翁自身もまた血生臭い生活から一風して平穏な日々を謳歌してきたものだが、やはり血は争えない。


 こうして命を賭そうとする瞬間、翁の心は猛々しく、眼下の敵を抹殺せしめんと滾りきっていた。


 再びの発砲。マズルフラッシュに刹那森が明るくなる。しかし、そこに翁はいない。全員が気付いた時、翁は小隊のど真ん中に鎮座していた。老齢であろうとも翁は七夜、意識をずらし移動する心得は誰よりも誇っている。


「さて、皆様方お付き合いのほうをよろしくお頼み申す。何ゆえ、前線を引いて久しいのでご満足して頂けるかどうかは定かではありませぬが」


 そう言って、翁は胸元を開く。肋骨の浮いた表皮に染みがついているが、着目すべき点はそこではなかった。戦闘衣装の内側には数え切れぬほどの手榴弾がぶら下がっていた。


「どうか、ご堪能してみて下され」


 瞠目した隊員達が慌てて翁の脳天目掛け引鉄を引こうとした時にはすでに遅く、翁はピンを引き千切った。まず感じたのは激しい衝撃だった。身体が内側から破裂してしまうような感覚に引き続き、今度は灼熱とけたたましい破裂音が耳を劈く。無論、その場にいた部隊は爆風に巻き込まれ全身が奇怪なオブジェとなっていた。けれど、翁にそれを確認する術はない。何故なら自爆した翁は火薬と共に散り散りとなってしまったのだから。


 嗚呼、御館様。


 ――――それでも、脳裏に焼きついて離れぬ望郷の限り。安寧の日々。子供たちの笑顔。唯一の気がかりと言えば朔と志貴。どうか二人は生き延びて欲しい。けれど、翁にその力はなく。


 ――――今、お傍に参りまする。


 そうして、翁は、七夜至上最も長命と公式記録に残された一人の七夜は、満面の笑みを浮かべながら絶命した。


 □□□


 耳を劈くような爆音が森に木霊する。木立が揺れるほどの爆発は槙久を慌てさせるには充分すぎた。しかし、再度参集させた部隊の総数を確認して槙久は愕然と声を嗄らした。


「たったこれだけなのかっ!? 他の輩はどうした!!」
「それが、襲撃及び罠に嵌められてしまい……」


 辛うじて生き延びた部隊隊長は萎縮して面を下げる。犠牲となった者の中には彼の部下もいたのだろう、悲痛な目元をしていた。しかし、そのような瑣末は槙久には関係ない。今宵七夜侵攻作戦の為に集めた者達はなるべく迅速に動けるよう少数精鋭部隊ばかりで、それを期待して槙久は彼らを雇ったのだが、この様だ。森に侵入する以前と比べれば、隊員の人数は数えるほどしかいない。それほどまでに七夜の森が堅牢だった、という部分も過分にあるだろう。だが、折角大金を払ってまで雇った部隊が物の役にも立たず、徒に数を減らしただけというのは、ただでさえ沸点の低い槙久の怒りを買うに充分値するものだった。


「本当に貴様達は精鋭部隊なのか、このような有様でよくもまあ今まで生き残れたものだ」
「……は、申し訳ありません」


 仮初の雇い主とは言えど、散っていった部下達を揶揄するような物言いに隊員たちの柳眉が下がった。そして、それに槙久は気付かず、更に罵倒を繰り返す。これには隊員達も溜まったものではなかった。裏の世界ではその名を轟かせる七夜を攻める等という狂気の作戦を立案しただけでも正気の沙汰ではないというのに、更には戦果を挙げろという。すでに存命率は大幅に下がり、士気もだだ下がりだ。これで更に侵攻するのは無理があるだろう、と隊長が進言をしようとした所で、彼らの合間で紛れるように沈黙していた刀崎衆の一人がおもむろに口火を開く。


「槙久様、朗報です」
「なんだ、私は今非常に腹がたっている。下らぬ報告ならもう充分だ」
「七夜黄理が討たれました」


 思わぬ報告に、槙久は言葉を失い、隊員達は心身凍る。


「それは本当か」
「はい、戦闘を監視していた者からの報告です。七夜黄理は軋間紅摩に破れ、最早再起不能だと」
「再起不能? それは存命しているということか」
「いえ、頭部を破壊され、内臓も破裂されている様子。とても存命は不可能かと」
「そう、か。そうか……」


 あまりのあっけなさにそれまでの意気込みが嘘だったかのように、槙久は悄然とする。お膳立てした斎木暗殺計画の際、血に酔った七夜黄理に重傷を負わされ一時は生死を彷徨った身である。当然、七夜黄理への憎悪は深かった。慰撫のために訪れた見舞い客に当り散らすほどの屈辱は、最早深い恨みへと変動して黄理への復讐を企てるほどだった。今までの行動指針の全てが七夜への制裁と表現しても過言ではなかった。しかし、その七夜黄理が討たれた。自分が用意した紅赤朱の前に敗れ去ったのである。


「く、くく」


 いつの間にか食い縛っていた歯の隙間から苦笑が漏れた。


「くくく、くははははははははははははは」


 愉悦と歓喜が槙久を笑わせる。なんだ、あれだけ脅威だと、怨敵だと思っていた男がこんなにもあっさりと死んでしまうのか――――!
 槙久は腹を抱えて笑った。今までの労苦が報われた歓喜の笑い声であるはずなのに、どこか不気味極まりない哄笑は森の暗闇に吸い込まれ、周囲の隊員達を怯えさせた。それほどまでの狂態だった。堪えなければ涙さえ流してしまいそうなほど、槙久は笑った。


「それで、如何致しますか。当初の目的は達成されましたが……」


 やがて落ち着き始めた槙久の様子を伺い、刀崎衆が声をかける。


「いや、まだだ。まだ足りない」


 面を下げていた槙久が顔を上げ、周囲の者たちは思わず息を呑む。血走った眼は最早人の物ではなかった。


「これだけの戦果ではまだ足りない。もっとだ、もっと戦果を挙げよう。幸い相手方の最大戦力は敗れた。もう七夜黄理はどこにもいない、後に残されたのは取るに足らぬ七夜ばかりだ。討ち取ろう、首級をあげよう。今宵は月が綺麗だ。血を眺めるにはさぞ美しかろう。禍根は断たねばな、何時復讐に来られるかわかったものではない。私は安心して眠りたいのだ」


 血眼になって部隊へと更なる侵攻を告げる槙久。その有様に部隊隊長は戦慄を覚えた。人はかくも変化するものなのか。こんな狂気を身に宿せるのか、と。


「し、しかし我々の戦力ではこれ以上の侵攻はあまりに危険が」
「否、否だ。こちらの手札には軋間紅摩がいる。真性の鬼が、真のジョーカーがあるのだ。あいつは最早暴走機関車、触れた者は容赦なく挽き肉になるだろう。ならば、我らはあやつの作った道筋を進めば良い」
「ですが、これ以上の被害が出れば部隊編成も難しくなるかと」
「だから、どうした?」


 あくまで自分たちの存命を危惧する隊員達は槙久の返答に絶句する。


「最早ここまで進んでしまったのだ。ここまで来てしまったのだ。帰りたい者がいれば帰ればいい。だが、上手く帰れるかな? 行きは良い良い帰りは怖いとも言う。無事に出口まで帰られる者がこの中に何人いる。で、あるならば進むしかあるまい。私たちはただ邁進すれば良いのだ。紅赤朱の闊歩した道筋をひたすら真っ直ぐに」


 槙久は己の意思を翻すつもりはない。あくまで前進するつもりだ。しかし、隊長には首筋に嫌な寒気が走っていた。彼らも歴戦を超えた猛者たちである。予感というのはあながち莫迦に出来ない事を熟知している。その予感が悪寒を告げているのだ。これ以上進むのはあまりに危険だと。


 しかし、上申しても無駄だという事は理解した。眼前で狂乱を見せる槙久の様子を見る限り、彼は有頂天なのだ。


 隊員達は憎憎しげに刀崎衆を睨む。彼の情報が無い限り隊長は撤退を申し上げようとしたのだ。これ以上の損害は出せないし、槙久自身にも危険が及ぶかもしれないと。槙久は小心者だ。己の命に危機が及ぶかも知れないと分かったなら、すぐさま反転して撤退しただろう。だが、それも刀崎衆の情報ひとつで露と散った。刀崎衆は手を打ったのだ。この男は状況が上手くいかない事で焦燥していた槙久が今一番欲しい情報を、この上ないタイミングで言い放ったのだ。槙久がそれに飛びつかぬはずもない。それが目の前の槙久の姿だ。彼はようやく己の怨敵が亡くなって、更に欲をかいた。七夜を滅ぼす。当初はせめて七夜黄理の首級だけ取れれば良かったのだ。それが最低かつ最大条件だった。だが事態は想定を遥かに超えて、黄理を倒してなお進軍するとのこと。今の槙久は貪欲に進撃する狂人でしかない。


 もしかすると、今日の戦場を支配しているのは七夜でも遠野でもなく、刀崎ではないのか?


 疑念が脳裏を過ぎる。刀崎棟梁刀崎梟は独断専行して、彼の配下である刀崎衆が梟の思惑通りに槙久を動かしているのならば? 


「……っく、これまでか」


 今日で命運尽きるかもしれない。誰かが嘆きを溢す。しかし、槙久はそんな隊員達の様子に気がつくはずもなく、意気揚々と刀崎衆の道案内に従い足取り軽く闊歩していく。その後姿の何と頼りなく、危うげな事か。彼は気付いていないのだ。今宵の戦が全て刀崎梟の掌の上でしかない、という真実に。
 心内で戦慄しながらも、諦観を抱き隊員たちは黙って追随するしかなかった。
 空を見上げる。鬱蒼とした森の葉群から差し込む月明かりはあまりに朧で頼りにすることも出来そうにない。まるで自分たちのこれからを指し示すかのようで、胸中に諦観が宿る。槙久に付き従う彼らの表情は暗澹とし、まるで絶望に飲み込まれていくようだった。


 そして、彼の予感はやがて現実のものとなる。だが、彼がそれを知るのは後のこととなる。


 □□□


 耳が痛いほどの沈黙が流れている。けれど、轟々と吠え立てるようなこの威圧感は一体何なのだろう。ともすれば体躯そのものが押し潰されてしまいそうな圧迫感。遥か頭上にまで聳える崖を目前にしたかのように皆閉口している。誰もが言葉を失い、その場に仁王立ちしている者に目を奪われた。ある者は驚嘆の、ある者は畏怖の視線で。しかしあらゆる視線に晒されている男はあくまで泰然と屹立している。幹のように太い首と、鋼鉄を思わせる肉体、そして修羅を体現したかのような面立ち。その衣服に付着した黒い染みは恐らく血痕だろう。それ以外の表皮にも鮮血や肉片が塗りたくられている。恐らく同道にいた七夜を文字通り蹴散らしてやって来たのだ。男にはそう思わせる何かがあった。


「ひひ、随分と早いご到着じゃねえか、紅赤朱」


 鼓膜を劈きながら、浮き足立って刀崎梟が口火を開く。


「で、どうだった。七夜黄理はご満足に至る相手だったかな?」
「嗚――呼――――」


 梟の茶化したような物言いに答えず、男の咽喉から零れるのは熱風のような吐息。その様はまるで何も見ていないかのように茫洋で、何も聴こえていないかのように蒙昧だ。いや、七夜の里に踏み込んでから、軋間紅摩はある一点のみを見つめているに過ぎない。それ以外にはまるで眼中にないと言わんばかりに、凝視していた。そして、その視線の先には女の腕に抱きしめられて今は意識不明に陥っている七夜朔。今宵二度目の再会だった。
 女は思わず咽喉にまででかかった悲鳴をどうにか耐える。眼前にいるのは刀崎梟とは比較にならないほど膨大で莫迦らしいほどの魔を撒き散らしている。人の血が混ざっているはずの混血とは思えぬほど、目線の先にいる男は魔そのもの。人の形を保っているほうが不思議なほど、あまりに魔的――――!


「化物か……」


 同じように反応した七夜の誰かが苦しげに声を漏らす。そう、皆の視線の先に昂然と佇む男はそう形容する他ないほど、化物の気配を漂わせていた。その臭気を嗅ぎ取ってしまえば瞬時に酩酊してしまうほど、芳醇で、忌まわしい香り。


「あー、んでだ。興奮してるところ悪いんだが、あんたの役目はもう終わりだ。ここで終了、行き止まり。後は俺に任せてちゃっちゃとお帰りを――――」


 お願いしたい。その言葉を梟は紡ぐ事が出来なかった。


 紅摩が一歩踏み込んだのである。しかし、それは震脚と見紛うほどの衝撃を周囲に広げ、地面を陥没させた。否、地が割れた。その先にいるのは女と、その懐で眠る七夜朔。紅蓮に燃える瞳が更に烈火の炎を焦がす。最早、軋間紅摩に周囲などどうでもいい些事に成り下がっていた。この溢れんばかりの熱情をもっと味わいたい。その一心で彼は進軍を再開する。故に彼が目指すは朔のみ。そして朔を抱く女が怯え竦む。


「嗚――呼」
「あ、駄目だ。全然駄目だ、そいつあそうだ。あいつは端から人の話に耳ぃ傾けるような質じゃねえか」


 仕方ないと言わんばかりに梟は肩を落とした。


「刀崎! 先ほどの約束はどうなるのですかッ!」


 想像を絶する化物の登場に飲み込まれていた奥方が悲鳴交じりに梟へ問う。


「おお、そうだそうだった。約束は守るぞ、俺は義理固え爺だからな」


 するりと前身する紅摩を緩やかに通り過ぎ、怯えて立つことも出来ぬ女の前に躍り出る。


「おい、黄理の妹。ひひ、朔を渡せ。あいつの狙いは最早朔しかあるまい。で、あるならば朔を手渡せ。そうすればあんたも、ここにいる全員の命も守れる」
「……そ、そんな、保障がどこにある」


 震えながらも、女は気丈に梟をねめる。瞳に写るは女の一途な想い。それのみ。故に梟はそれを利用する。


「なに、保障はする。今日の目的はあくまで七夜に恨みを晴らすだけで、黄理がお陀仏になった今それも解決した。なにも手前らも一緒くたになって死ぬ理由はねえよぅ。そこらへんはこの俺がいい感じになあなあにしてやる。だから朔を俺に寄越せ」
 

 一人の命と引き換えに、全員を救う。それは何と甘い誘惑だろう。


「それになにも朔をどうこうするつもりは毛頭ねえよ。俺が引き取って大事に育てる。手前の意志は俺が継ぐ。大切で大切でたまらないのは俺も同じ。今だってほら、碌な治療さえも出来ねえ有様だろ。こういう事もあろうかと刀崎衆を呼んである。ちゃあんと治療もしてやる。どうだ、悪かあねえ取引だろ?」


 命の定量だけ見定めるなら、釣銭が余るほどの取引だ。その中身を見据えなくても、ここは仮初であっても梟に預けるのが必定。だが、しかしである。女は周囲に気を配る。正確には周囲で状況を見守る七夜をだ。こいつらは朔を切り捨てた。最早信頼ならないのは明白。ならば朔の面倒見役を長年務めてきた女にとっても心情としては助ける価値は見出せなかった。朔の敵は自分の敵。そう考えるほど、女はただひたすらに朔を愛し、そして追い込まれていた。
 こうして会話を交わす合間もあの混血は迫ってくる。誰も止める事が出来ない。否、実際に止めようとしても瞬きひとつで肉片となるのは想像だに硬くない。それは無意味な死だ。自決にも等しい愚行。必殺を信条とする七夜にとっては唾棄に値する行動である。もしかすればこうしている間にもあの混血を殺す策を誰かが練っているかもしれない。だが、それはあくまで希望測に過ぎない。本当はこの場を収拾するための算段を錬っているのかもしれない。朔を手渡すのを前提として。


 女は唇を噛み締める。無力な自分に対して、無念とさんざめく涙を止める事も出来ず。


「……朔を、よろしくお願いします」


 血を吐くような想いで女は朔を手放す。だが最後までその温もりだけは、と己の胸元に朔の頭部を埋ませて、なるべき時間を置いて眠る朔の身柄を引き渡した。翁はにやりと三日月型に唇を歪ませて、朔を受け取る。そうして縋るように手を伸ばす女の手が朔の髪をさする。柔らかな感触と、確かな温度に切なさがこみ上げ涙が止まらない。眦から零れる涙は朔の頬を濡らし、最後の別れを惜しむ。
 これが子を奪われる母親の気持ち。これが愛しい者を投げ渡す寂寞。女はあまりの哀しみと、朔を失った孤独に嗚咽を漏らした。それはこれまで過ごした静かで穏やかな日々にあった愛を失った女の哀しみだった。もうこれ以上会うことも、会話をすることも許されない今生の別れ。その予感に女は身震いし、寒さに心を凍らせた。


「さあて、もう一丁一仕事いたしますかね、ひひ、ひ……」


 朔の身柄を確保した梟は、その小さな体躯を腕の中に隠すかのように抱いて振り返る。
 眼前には今まさに踏み込まんとする修羅の顔。軋間紅摩。


「ほうれ、あんたの望んだ朔はここだ。だが残念かな、あんたの仕事はここで終わりだ。こいつは最早俺のもんだからな」


 けたけたと歪み嘲う。いっそ哄笑と呼ぶべき嗤い声に紅摩の足取りが止まる。


「そいじゃ、こんな湿っぽい所おさばらと行きますか――――」


 と、歩もうとした梟の背中に甲高い怒声が飛んできた。


「ここにいたのか、刀崎梟……ッ!」


 その声の正体は武装集団を引き連れてやってきた、今宵の首謀者遠野槙久だった。スーツを葉や土で汚し、肩を怒らせながら彼はなおも叫ぶ。


「どうやってここまでやってきた! お前の教えた道筋を辿ってこの様だ! 部隊は殆ど壊滅したぞ、この責任どうとってくれる!」


 激昂する槙久とは対象に、梟は気だるそうに振り向いた。しかし、その顔に張り付くのは嘲笑。


「責任、責任だってぇ? ひひ! こいつは驚いた、俺は確かに里への道筋を教えてやったが、そこが完全に安全だって誰が口にした。ん? 手前らがそんな様なのはただ単に運が悪かった、その程度の事でそう怒るなよ。程度が知れるぞ、小僧?」
「知った口を聞きおって! それに軋間、何をやっている! さっさと七夜を全滅させろ!」


 喚き散らす首謀者の様態に皆が顔を顰める。だが、七夜にとってはどうして聞き流せない言葉があった。


「おいおいおいおい、この状況でよくもまあそんな事が言えるもんだな小僧」


 皮肉げに肩を揺らす梟に槙久が噛み付く。


「何?」
「周りをよおく見てみろ。その目を開いてよおくだ」


 梟の言に改めて周囲を見渡す槙久は渦巻く殺気の念に肝を冷やした。それら統べては七夜が発する殺意だった。彼らは軋間紅摩に注意を払いながらも、確実に槙久へと殺意を注いでいた。短く槙久が悲鳴を溢す。


「分かったかいお若いの。今宵の主催者は手前で、紅赤朱と比べたら明らかに手前が弱い。俺ならそうさなあ、弱い奴から殺すな。弱い奴から死んでいく。それが道理、この世の真理ってなあ」


 恐らく梟がこの場にいなかった限り、確実に七夜は槙久を殺しに走っていただろう。何せ彼は今宵の騒乱を巻き起こした張本人だ。その首が泣き別れするまで収拾はつかない。故に七夜は挙って槙久を殺す。それが七夜の総意である。せめて最後に首級を挙げようと。


「で、どうする? 手前が動けば七夜が動く、七夜が動けば紅赤朱が動く、紅赤朱が動けば俺も動く。さあて、誰が最初に動くかな」


 槙久は忌々しく梟を睨みつける。その懐にいるのは恐らく七夜朔に相違ない。人質、という訳ではなく、彼は独力で朔の身柄を確保したのだ。全てはこの三すくみを形成するために――――!


 ならば積年の恨みを晴らすべく、槙久は朔をこの場で殺しておきたい。ここで七夜を掃滅しておかなければ確実に遺恨が残る。その遺恨はやがて猛毒へと変化して確実に槙久を殺すだろう。ならば、殺すなら今、今しかない。しかし、槙久自身は動けない。彼が動けば七夜が彼を殺すだろう。槙久程度の混血なら、七夜はいとも容易く殺せる。では、頼りにしていた軋間紅摩はどうかと言えば、何故か仁王立ちのままで動かない。黄理を殺した今、彼に七夜への執着は最早無いのか? と槙久は疑る。そして梟は明らかにこちらへ手を貸す気はない。どうにも出来ぬ状況に槙久は歯噛みする。


 こうして、今ここに三すくみの状況が出来上がった。
 全ては妖怪刀崎梟の思惑通りだった。


 □□□


 そこは乳白色の闇だった。黒くもなく暗くも無い、白い闇だった。まるで太陽を見上げながら目蓋を閉じているような視界に疑念が過ぎる。果たして自分は何処にいるのか。辺りを見渡しても所在は不明。このような場所は見聞に無い。ならば、ここは地獄への入り口だと考えるのが妥当だった。次いで、自分は死んだのだ、と結論も自然と出来上がった。
 しかし異な事、死人が思考できるとは終ぞ知らなかった事実である。死人に口なし、とも言う。あるいは皆死んでしまっているから、その真実を伝えることが出来なかったのかもしれない。何せここはとても居心地が良く、今にも眠ってしまいそうな錯覚に溺れてしまいそうになるのだから。まるで温かなお湯に浸かっているかのように、全身が温かい。そうすると、次第に気分まで良くなってしまう。嗚呼、これが死なのかと受け入れてしまいたくなる。そんな感覚に酔い痴れる。


 この感覚は、知っている。遠い記憶、未だ人間としての形骸を作りかけている途中の頃に、こんな感覚に包まれていたことがある。あれは、確か母体の胎の中にいた時だった。自分は確かにこんな小さな世界にいた。自身を囲う何もかもが柔和で、幼稚で、そして優しい物で作られた世界。


 そこで自分は生命として誕生した。生まれ、死んだ。そうして今またここに戻ってきた。


 つまり生と死は同じ場所からやってくるのだ。体に宿された生命力も、肉体から離れていく魂も、皆同じ場所を辿り、やがては同じ場所へと戻っていく。まるで出口のない輪廻の中を永遠にぐるぐると彷徨っているようなもの。あるいは巨大な渦の中を悠々と流されていくようなもの。寧ろ、これこそが運命と呼んでも過言ではないのかもしれない。運命とは「命を運ぶ」と書く。誰かの意志の介入をされることなく、ただ同じ場所へと往き帰り、そしてその作業は営々と行われていく。永遠に。
 では、やはり自分は死んだのだろう。あるいは死にかけているのだろう。このような場所にまでやってきたのだ。それ相応の理由があり、自分はここにいるのだ。


 しかし、何故? ここに至るまでの過程が何一つとして思い出せない。あるいは運命によって記憶すらも洗い浚い流されてしまったのだろうか。けれど、ここが知っている場所だという事は間違いない。つまり、これこそ原初の記憶、なのだろうか。人が生きる過程において刻まれた決して消えない記憶。決して癒える事のない爪痕。ならば、この生と死の狭間こそ己の原初の記憶だというのか。
 それは、都合の良い考えかもしれない。けれど、しっくりくる。


 自分は生きているという感じはしなかった。少なくとも、今自分は生きているという実感は一度も経験をしたことはない。一度は誰しもが感じる生の感覚が、自分にはごっそりと欠けていた。呼吸をしても、食事をしても、睡眠から覚醒しても、生きていたとは思えない。そんな周囲で言うところの当たり前さえ、己は享受出来なかった。どうしても違和感を拭えなかった。本当に自分は生きているのか? 命題とも言うべき絶壁の前で、自分は立ち竦んでいた。遥か見上げる壁の先は雲のようにあやふやで、光のように有耶無耶でさえあった。そんな場所にいて、果たして自分は生きているのかという自問自答を繰り返し続けた。何度も自分に問いかけた。それでも自分は生きているのだと言い聞かせ続けた。修練に次ぐ修練の果てにその答えが見つかるのだろうと、願い、縋った。


 けれど、本当は分かっていたのだ。自分は生も死も曖昧な存在でしかないのだと。その事実から目を反らしていたに過ぎないのだと。


 ならばここにいるのは当然の帰結。生も死も綯い交ぜの混濁でしかなかった己が到達するのはやはりここなのだ。妙な得心だった。


 本当は、己も生を謳歌してみたかった。例えば春、生命が芽吹く季節に包まれて感慨を抱きたかった。こんなにも生命は喜びながら生まれてくるのだと、思いたかった。


 けれど、駄目だった。己はどうしても生を上手く受け入れる事が出来なかったらしい。いや、受け入れる以前に理解する事さえも出来なかったらしい。理解力は確かに備わっているはずなのに、生に関して己は全く理解が及びつかなかった。寧ろ、無関心だったと言わざるを得ない。嗚呼、なんと残念な生命、なんと愚かな命だっただろう。死に瀕して今更ながらに己の愚物さに苦笑さえ漏れる。


 ――――苦笑?


 はたと気付く。死んだのならば肉を持っていないはず、なのに己は苦笑を漏らした。つまり、未だ肉はついている、ということだろうか。そういえば温もりさえ感じているのだ。何故気付かなかったのだろう。あるいはあまりの事態に未だ理解が追いついていないのかもしれない。
 そこでふと、眼前に淡い光景が浮かんだ。それは誰かの背中だった。雄大でありながら細身の背中だった。


 ――――嗚呼、そうだった。


 誰よりも雄々しく、寡黙で、そして壮烈なその背中に、己は憧れたのだった。


 たぶんそれは心惹かれたと形容しても良い。こちらを振り返らず、遠くへ去っていくその勇姿に、憧れたのがたぶん始まりだったのだ。


 そうだ、段々と思い出してきた。


 決して振り返ってくれない背中に追いつきたくて、自分は走り出したのだ。届かぬと知りながら手を伸ばし、必死に追い縋ろうとした。それまで不動だった風景の中で現われた大きくて、しなやかな造りをした背中に。自分は、その姿をいつも見つめ続けたのだ。眼前に現われてくれないが故に、遠目からずっと心焦がしながら。視線はその姿を追い続けた。他には何者にも目をくれずに、走り出した。
 ――――景色が変わる。
 自分は佇みながら、眼前に現われた巨大な人物を観察した。ずっと見つめ続けていたが、正面から対面するのは始めてだったが故に、全身くまなく観察した。視線は鋭利で触れてしまえば忽ち切り裂いてしまいそうで、何を考えているのか把握できない冷たい表情だった。男は誰からも御館様と呼ばれていた。だから自分も余計な反感を買わぬよう御館様と男を呼ぶことにした。
 御館様が真っ直ぐに自分へと話しかける。言葉少なに、自分は誰かと問う。その姿に釘付けとなりながらも、自分は覚えたばかりの言葉で返答した。


「そうか、お前が朔、か」


 朔。そう自分は呼ばれていた。名前という記号。固有名詞。そしてその時に自分は改めて朔という名のだと再確認した。男は自分の答えに満足したのかさえも分からぬ無表情で立ち去っていった。
 ――――情景が変わる。
 自分は腕の長さとそう変わらない長さの刃物を握り締め、それで目前に屹立する御館様へと斬りかかった。場所は森。初めての外出で、自分は御館様から手解きを受ける事となった。自らの一族は人を殺すために永らえた一族なのだとその時教えられたものだったが、生も死も曖昧な自分はそれをよく分からずに受け入れた。だから特訓を始めたが、何分初めて持つ刃物は重たく、握っているだけで精一杯な有様だったので、自分は無様に転倒した。特に痛みは感じなかった。しかし、その際御館様は笑うことも罵倒することもなく、再び襲ってくるように、とだけ口にして決して手を貸さなかった。そして、立ち上がろうとする自分を一心に待ち続けてくれた。
 その佇む姿を、朔は見つめ続けた。
 ――――光景が変わる。
 組み手に失敗し腕の骨が完全骨折した時、御館様は黙々と添え木を拾い手当てをしてくれた。そして再び、組み手を開始した。万全な状態でなくとも肉体運営を行えるように。
 景色は変わる。
 情景は変わる。
 光景は変わる。
 その全ての中心に、御館様がいた。
 次第に生活は御館様を中心に巡っていった。御館様との鍛錬のために目覚め、食事を取り、少なからずな時間を御館様を過ごす日々。楽しい、という感情はよく分からないが御館様と過ごす時間はあっという間に過ぎてしまうほど没頭出来る瞬間だった。それが良かった。少しでもその背中に追いつくため、少しでもその高みへと上り詰めるため。その一心で走り続けた。


 しかし、それはある時期を境に変化した。


 突如として現われた異物。御館様のご子息である彼は、常日頃から自分の傍にいた。自分よりも幼く、其れでいて子供らしい感性のままに振舞う彼。とりつめて御館様との関係以外を結んでいなかった自分は、彼が己を兄と呼び慕う事に賛同した。そこにより御館様との強い縁を結べる術を見出したからだ。云わば、打算での関係でしかなかった。都合よく子供はそれに気付くことも無く、傍らで表情をころころと変えながら話しかけ、時には朔さえも知らぬ知識を披露し、またある時は自身の父である御館様を自慢げに話してくれた。彼との間に結ばれた縁はとても有効なものだった。彼の話から己は御館様の普段の姿、あるいは己に見せぬ姿を知る事が出来たのだから。
 ただ、時として何もせずに過ごす時間もあった。子供らしく遊ぶわけではなく、ただ傍にいる。己が住処としていた小さな離れの縁側の腰掛け、空に浮かぶ雲を眺めたり、あるいは風の囁きに耳を澄ます。幼い子供からすれば大して面白くもない時間だっただろう。だが、子供はそれを是とした。交わす言葉は少なく、その場の雰囲気を堪能するかのように目を閉ざして、己の傍に座っていた。
 最初は奇特な子供だと思った。なにぶん、人と縁を結ぶのが下手だとは心得ている。飽きさえすれば自然と姿を消すだろうと考えていた。けれど、それは次第に変化して稀有な子供だと認識を始めた。沈黙も受け入れる、ありのままを受け入れる。そんな子供もいるのだと。
 ――――そうして景色は再び変わっていく。
 離れから見える本家の内部。そこに御館様と子供がいる。二人は話し合いながらも、時折子供がじゃれ付いて、御館様は邪険に扱いもせず、少し不器用な微笑みを浮かべていた。


 その、なんと温かみのある風景を、自分は離れた場所から見ている。


 そうして思い知ったのだ。自分にはあんなもの、手に入れる事など出来ない。触れる事さえ叶わぬのだと、悟った。
 あんな風に戯れることも、無邪気に振舞うことも出来ない自分は異端でしかない。だから、手には届かないし、その深遠にある温かみを理解できないのだと、思い知らされた。その驚愕は己をより一層頑なにさせ、孤立は更に激化していった。誰も彼もが己を腫れ物扱いし、誰も彼もが自分をいないものだと扱う。


 ――――それでは、自分が生きる意味とは?


 改めて問われた命題に、己は何も答えることができず、そこでふとこれが噂に訊く走馬灯なのだと悟った。死に際に見る、今までの光景、生き様、その全てを再び垣間見せる人間の本能。死の恐怖に耐え切ることの出来ない人間が取る、一種の逃避行。それは死への恐怖を癒し、温かな死を向かいいれるための準備。


 けれど、この虚しさは何だ。


 刹那に過ぎる光景は己が如何に無様だったかを再認識させる程度のものでしかなかった。つまり、己の人生はその程度のものだった、という事なのだろうか。何故、生き、何故生きたのか、その命題に直面してなお、答えは何処を探しても見当たらない。
 これでは、生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。
 きっと、そんな人生を今まで自分は歩んできたのだ。生きているのに死んでいる。そんな矛盾を抱えた幽鬼。それが自分の正体だったのだ。


 ――――嗚呼、寒い。


 心が砕けて散ってしまいそうだった。


 生きるとは何ぞや。生きるとは何ぞや。生きるとは何ぞや。
 死ぬるとは何ぞや。死ぬるとは何ぞや。死ぬるとは何ぞや。


 繰り返し、繰り返して問うが返ってくるのは虚しき反響。


『生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く。
 死に死に死に死んで死の終わりに冥し』


 このままではいけない。逝けない。まだ自分は何も手に入れていない、何も手を触れていない。探さなくてはいけない、己に足りないものを見つけ出さなくてはならない。生と死の狭間において、命題の答えを得なければならない。
 そのためにはまず、足りないものを補う事を憶えなくてはならない。自らに備わっていないものを身につけなくてはならない。己に未だないものを探しあぐねなくてはならない。


 ――――そうして、己は『其れ』に触れた。


 □□□


 最初に違和感を覚えたのは刀崎梟だった。散々に緊迫走るこの場を引っ掻き回して退散し、後のことは知った事ではないと彼は早々に立ち去るつもりだった。七夜が滅びようが遠野が負けようが最早些事、どうでも良いことに成り下がっている。賽はすでに投げられている。後は神のみぞ知る。彼にはもっと大事なことがあったのだ。
 この懐の中で気絶している朔。これから自身を捧げる担い手。彼の身柄の確保と保全。全てを成し遂げるために、輝かしい未来のために梟は殺伐とした空気の中、観賞するのを辞めて去ろうとした時、左腕に違和感を覚えたのだ。


 はて、この痛みはなんぞと、改めて懐を見たとき、彼は魚眼をさらに見開いて思わず叫ぶ。


「ああ――――ッ!?」


 思わぬ叫び声に皆の視線が梟へと注がれ、全員がぎょっとする。


 致命的負傷を負い、意識不明の重体にまで陥った朔が梟の左腕前腕を食んでいる。否、喰らいついている。現に、朔は梟の腕を骨ごと噛み砕き、食い千切って嚥下している。恐るべき咬合力によって老いてなお筋骨逞しい梟の腕を食べ、そしてなお足りぬと更に齧り付く。そのおぞましさ、その異様に誰もが混乱した。特に混乱したのは梟自身と、そして朔をこれまで育て続けた女だった。


「朔、……手前なにを――――っく!?」
「朔、どうした!!」


 あまりの激痛に悶絶する梟。いつかこの腕を捧げると誓った相手が真逆、その腕を喰らうなど想像さえもしていなかっただけにその驚愕は一入だった。まるで爬虫類のように骨をごりごりと噛み砕く音が里に響く。不気味な咀嚼は止まらず、なおも朔は左腕を食む。まるで失ったものを取り戻すが如くな所業に、意識が浮上したが錯乱しているのかと女が走り寄ろうとするなか、哄笑が高鳴った。梟の鮮烈な嗤い声である。


「ひ、ひひ……ひひひひひひひひっひひひひいっひいひひひいひひひひひひひ!」


 何かに思い当たったのか、梟の表情は快活だった。しかし齧り続けられ、左腕を損失していく梟の笑い声は森を揺らして殆どの者達の心胆を冷やしめた。事実鮮血を零れさせながら食われていく梟の有様は尋常ではない。


「そうか、そうかそうかそうか! 朔、手前至ったな!? 至ったんだな! その極みに到達したんだな! いいぞ、いいぞ、この老骨の腕存分に喰らえ、喰らっちまえ!」


 ぶちぶちと首の力を駆使してまで骨までしゃぶり尽し、朔の捕食は進んでいく。そしてそれを止めるものは誰もいない。誰も二人を止められない。見た様子、朔に意識らしきものはない。目蓋は開いているがその蒼き虹彩に理性の輝きはない。では、やはり気が狂ったか。そう思われるのも致し方がないだろう。その様は畜生道に堕ちた餓鬼の如く。
 だが、異変はこれでは済まされなかった。


 ぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎちぎち――――。


 それは表現するならそう形容する他ない不気味な音だった。例えるならば、蛹から羽化する蟲がその外殻を破るような、そんな音。


「っな……!?」


 驚きに何処からか声が漏れる。しかしそれも仕方なし。


 ――――何故なら、失われたはずの朔の左肩から、腕が生えてきているのだから。


「そうだ、そうだろうとも! 訳は分からねえが、これこそ至りの証拠! 極地への到達!」


 狂乱する梟の左腕は最早殆ど喰われている。激しい出血に痛みが伴ってもおかしくはないはずなのに、梟は可笑しそうに嗤っている。


 そして、朔がその身を翻し梟の懐から跳んだ。満月の月光を背に飛翔する朔は正に異形。生え出した腕は収まるところを知らず、更に伸びて腕の形を象っていく。二の腕、肘、前腕、甲、掌、指、爪に至るまで生やした頃には、まるで蟲の如き形となっていた。何故ならば、朔から生えてきた左腕はあまりにおかしすぎた。身の丈に合わず、長すぎる。筋張って、色素まで異なる腕の先に生えたる爪はまるで猛禽類――――!


「嗚――呼――ッ!」


 朔が地面へ着地した刹那、それまで不動の態勢だった鬼神が異形と化した朔へと猛追する。標的が行動を開始したが故にだろう。そのまま突撃しても過言ではない勢いは突進。身体ごとぶつかり朔を粉々に砕く所存だったのだろう。だが、紅摩が朔に接近した刹那、朔の姿が掻き消えた。


「――――ぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!」


 劈く悲鳴が森を揮わせる。それは全く場違いな所から響いた。皆がその居所を見やれば、槙久の周囲を防衛していた部隊のうち三名の首が消失し、鮮血を噴出させていたのである。
 そして再び皆の眼前に現われた朔はそれぞれに首を抱えていた。小さく細き右腕には驚愕した隊員の首を、長すぎて地面に引き摺るような形で伸びた左腕には唖然とした表情の首を、更にその口に咥えたるは自身が死んだことにさえ気付かなかったのだろう、瞬きをする首がぶら下がっていた。首を抱えるその様、悪鬼と形容する他なく、鬼と表現する他もなし。


「ひひ、ひ……! そうさな、そうさなあ! 折角の誕生祝いだ! それぐらいじゃ物足りんだろう朔! もっと喰らえ、もっと殺せ!」


 左腕の止血を刀崎衆に行わせながら、刀崎梟は膝を叩いて大いに嗤う。


「なんだ、何が起こった梟!?」


 目前で起きた事象に理解が追いつかぬ槙久が叫ぶ。だが狂乱する梟は涎を垂らし、唾を吐きながら嗤うだけ。
 そうしている合間にも、悲鳴が重なる。朔に狙いを絞らなくなった紅摩が他の七夜に攻撃を開始したのだ。そして身内が殺されている様を尻目に朔は再び姿を揺らめかせて消える。


 これから始まるはただ鬼の饗宴だ。それを眺めるは狂乱した刀鍛冶一人。


 その光景が照らすは満月の月明かり。少々心もとない演出ではあるが、妖怪を満足させるには充分すぎる惨劇が淡い光に映し出される。その地獄のような有様。この煉獄のような修羅。


 兎も角、疾走するは鬼が二頭。森に響くは梟のけたたましき嗤い声。


 ――――どこかで、鳥が悲鳴を上げながら飛翔していった。


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 結果だけ供述しよう。
 ○月×日。
 遠野槙久率いる七夜討伐隊は、槙久を除いて全滅。
 また闇夜に蠢く蜘蛛の異名を轟かせた七夜も壊滅。
 これを行った首謀者の名は七夜朔、及び軋間紅摩。
 先導役を任された刀崎梟も重傷を負うが治療せず。
 この記録は明るみに出してはならぬ忌まわしき物。
 目を通した者は、速やかにこの記録を滅却すべし。
 槙久は気まぐれに走り、一人の子供を拾いあげる。
 子供の名を志貴という。槙久の子と奇しくも同じ。


 かくして運命は叫び声をあげて、その扉を開かん。














後書き。
 ようやく七夜編が終わりました。長かった、実に長かった!
 しかし、これで終わりではありません。この小説は更に本編へと入る導入篇に過ぎないのです。これからが本番と言っても過言ではないでしょう。また、この拙作を愛読して下さる方々は所々に起こった変革に気付いたはずです。それが今後どう本編に影響するのか、楽しみに予想してみてください。
 次回は間幕をひとつ挟み、いよいよ本編に入ります。こうご期待、といった所でしょうか。
 では、今度はいつの更新になるか分かりませんが、またお会いしましょう。
 
 PS:感想とか、ほしいです(懇願)


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