「ひひ、ひ……ようやっと動き出したか、ねえ」
暗い森の中、影さえ溶けてしまいそうなほどに黒い獣道を悠然と歩みながら、刀崎梟は森にはこびる闘争の予感に頬を吊り上げた。しわがれた皮膚が壮絶に歪む。
森の奥深く、遠野槙久の傍から離れた梟は森を大きく迂回するような形で歩を進めている。無論罠を多く詰め込んだ爆薬庫のような森だ。ここに至るまでに幾つもの罠を発見したものだが、先代の頃より七夜との付き合いのある梟は七夜すら知りえないルートを伝っているのである。
何故この道を遠野槙久に教えなかったのかと言えば、彼から離れる必要があったからに他ならない。その往年の観察眼によって人の良し悪しを見抜くのに長けている梟には槙久があまり契約を重要視していない事などお見通しであった。故に自らの足で朔を回収乃至捕縛しようという心積もりである。
混血の宗主、言い換えれば自らの主を信用しないのは褒められた事ではないが、復讐の念に駆られているあの神経質な男が信じるに足るかと言えば、梟はにやついて首を振るしかない。それほどまでに槙久は矮小で誇り高い男であった。梟からしてみれば噴飯ものである。
「いいね、いいねえ。殺し合いの空気がここまで匂ってきやがる」
戦前から生きてきた梟であるから戦の肌を指すような雰囲気は知っているが、このように国同士の戦いではなく異なった血族同士の潰しあいには違った気配が漂うものである。それは興奮ではなく、また退廃でもない純然なる殺意だ。
大まかな総体の国家とは異なり個人の感情が流入しやすい人間同士の争いは戦争と比べそれが顕著である。だからこそ面白い、と梟は破顔するのであった。
特に今夜の顔比べは互いに相反するもの同士。方や魔の血をその肉体に混ぜた混血であり、方や純粋に人間同士の交配によって殺人衝動を向上させた一族である。 どう考えても交渉の余地などありはしないし、譲り合う事もないだろう。譲るとは梟の価値観からすれば要らないものを捨てるのと同等の行為である。
つまりここで譲り、妥協するという事は自身に流れる血の否定に他ならない。それはこの状況では破滅への呼び水だ。少しでも亀裂が入れば決壊の兆しを見せるダムのように、あっという間に内側から崩壊するだろう。
それを予想するだけで梟の顔はだらしなく歪むのだ。邪悪に、醜悪に。顔面の皺という皺を寄せて邪笑を浮かべる様はまるで本物の妖怪である。否、今この時間、一歩一歩確実に歩みを進める梟は、階段を昇るように本物の妖怪へと変貌しつつあった。
「死ね。全員死ね。あいつ以外は全員滅べ。そうだ、滅べばいいさ」
破滅への足音が近づく度に、梟は肩を揺らして呵呵大笑する。そして楽しくて、待ち遠しくて仕方ないと叫び声を今にも叫びたくなるのだ。それはさながらプレゼントを待ち焦がれる子供のように、方向性は逆位置であろうとも純粋な笑い声であった。
冬の刺すような冷たさに相まって空気が乾いているのがよくわかった。そこに争いの熱気がぶつかって、殺し合いの空気へと変わる。老人である梟にとっては懐かしくも嗅ぎ慣れた臭気である。
一世紀近く生きた人生の中で闘争の最中に巻き込まれた事もある。大きな戦争もあり、小さないざこざもあった。刀崎の名を冠する梟は刀剣を造れるだけで良いとそれらをゆるりと凌いできたが、如何せん梟は刀崎の棟梁である。その肩書きに召喚の命令を受け、斬った張ったも数え切れぬほどにある。時にはこの命散るのではないのかと危惧した場面もあるが、今も尚彼はどうにか生きている。
故に遠野に関われば碌な事がないと学習した梟はなるべく公の場に出ないようにしてきた。棟梁の肩書きが己の自由を縛る言葉だと理解してからは尚一層そうしてきた。自分は刀を造るだけでいいのに、と愚痴を口ずさみながら。
しかし、今日この日だけは棟梁の肩書きに感謝した。己が自由を縛り要らぬ欲求を強いるそれが巡り巡って、輪廻のように梟の希求し続けた存在を見つけ出したのだ。
あの時の歓喜は今でも忘れられない。あの瞬間を思い出しただけで悦楽の感情に体が疼き、熱に浮かされて数十年ぶりに女を抱いたほどだ。しかし、たかが女の肉だけでは体の昂ぶりは収まらなかった。故に梟は女を抱く事を止めて己が内側に燃え盛る熱気をひたすらに閉じ込めるようにした。きっと誰にも理解は共有されぬ事は解っているし、誰にもこの熱を渡したくはなかったのだ。
そしてこの夜。満月の明かりに空が青ざめた森。遠野の襲撃に乗じて梟は再び七夜の地を踏んだ。
「嗚呼、待ち遠しいなあ」
その双眸は愉悦交じりながらも、どこか恍惚としている。それほどまでに今夜の再会を梟は切望していた。
老体である梟を突き動かす執着心は間違いなくただ一人のためだけに注がれている。そのためならば邪魔なもの全てを利用し、淘汰する所存で梟はいる。元よりそのような性格であったため羞恥心など浮かばない。あるのは早鐘を鳴らす心臓の鼓動のみ。
あの日から、あの出会いから、あの子供が忘れられない。黄理の叫び声を盗み聞いて覚えた朔という名。それが運命を刻んだ。
朔の事を考えるだけで口から笑みが自然と零れてくる。未だ成長段階の未熟者には過ぎない。子供なのだからそれは致し方ないだろう。だが、あの時魅せた桁違いの存在感は、そう遠くない未来に化ける可能性を充分に秘めていて、やがてそれは梟ですらも知らない領域へと上り詰めるだろう。いや、確実になる、と梟は確信している。
あの殺気にあてられた時から、梟は朔に参っていたのである。あの殺意に満ちた瞳と、七夜というだけでは説明のつかない移動の軌跡、容赦と言う言葉さえ知らないような振る舞い。それらがいつも梟の脳裏には鮮明な映像となって蘇る。その度に梟は熱気を帯びるのだ。あいつだ、あいつこそ自分の上位者に違いない、と。
――――もし言葉を許されるのならば、梟は朔に恋をしたのだ。
あまりに歪んで逸脱しているが、身を焦がすほどの情熱と朔に出会うために万難を排する所存である心根は紛れもなく恋慕、あるいは敬慕の情念である。
一介の男が真逆子供にそのような感情を抱くなど、これまで梟は思いもしなかったが、ここまでの感情は正しく恋と当てはめる他ない。故に感情のままに梟は行動する。
「まあ、懸念と言えばあれぐれえか」
準備をしているとはそれとなく聞いていたが、真逆アレを引っ張り出してくるとはなあ、と梟は誰ともなく呟く。
遠野分家軋間家最後の当主、軋間紅摩。
存在そのものが反則極まりない混血の中でも、核違いの怪物である。
人伝の話では己が一族を滅ぼした後には世俗を疎んで樹海に篭り、頑なに外へ出ようとはしなかったらしいが、そいつが今夜は七夜の森に赴いている。
梟も軋間紅摩は初見の相手であったが、垣間見た紅赤朱は正しく人を外れた怪物であった。混血としての血は微弱である梟でさえ理解できる存在感は度肝を抜かれた気分だった。
あれは危ない。存在自体が神秘めいた混血であり、未だに正気が残っているのが驚きだ。一体どうやって自我を保っているのか。ある一定の混血はその宿命として先祖返りを背負っている。特に軋間の一族の場合、当主は必ずや先祖返り、即ち紅赤朱となる運命が定められている。血の純度では遠野には及ばないが、血の濃度では他の追随を許さぬ一族の必定が正気を失わなければならないのは皮肉が効いていると思うが、それでもあそこまで濃い血は始めて見た。流石は肉まで魔と混ざり合った一族の末裔、とでも言うべきだろうか。
もし、あれが朔と当るならば、想像はしたくはないが十中八九朔は敗れる。確かに朔の素養は素晴らしいものがある。恐らく今後の鍛えようによっては人間の限界を突破するやもしれない。
だが、軋間紅摩。あいつだけはいけない。
元から存在そのものが違うのだ。幾ら混血殺しを生業としてきた七夜であろうとも純粋な魔に迫っている軋間紅摩に抗う事など不可能だ。何せ七夜は混血限定での暗殺を請け負ってきた殺し屋であり、魔に敵う可能性は限りなく低い。
それほどまでに両者の間には莫迦らしいほどの隔絶がある。人間と魔の混ざり者とは言え、完全に魔へと反転しかけている存在である。その差は歴然だ。梟でさえ対峙などしたくはない。自ら死にに行くなど阿呆のする事だ。
問題は朔と軋間が対面すること。
一度対峙した梟だからこそ解る所だが、朔はまず間違いなく軋間の方へ突撃するだろう。アレは血の濃度に反応し蠢く海獣なのだ。まるでどんな距離を隔てていても血の匂いを嗅ぎ分けて獲物へと忍び寄る鮫のように、朔は軋間に惹かれる。それが梟の気になるところではある。
朔が死んでしまっては意味がないのだ。ある程度の損壊は仕方ない事だろうが、朔が殺されてしまうのだけはいただけない。緻密に編んだ計画、刀に心血を注いだこの人生、そして梟と言う人間そのものの意味が無に帰する。
だから正直なところ、朔と軋間が出会わない事を梟は願っているが、無理な話だろう。何せ朔は梟と言う運命に出会った子供なのだ。きっと運命が彼を放っておかない。
「んでもあいつなら……ってえ考えるのは贔屓が過ぎるもんかねえ」
無理だ、無茶だとは解っていても、どうしても期待してしまう自分がいる。軋間が破れる事はないだろうし、彼を用意したからこそ槙久は七夜の襲撃に踏み込んだのだ。対抗できるのは恐らく七夜黄理ぐらいなものだろうし、その黄理が敗北してしまえば七夜は一気に瓦解するだろう。軋間紅摩という反則によって。それを食い止めるものはいない。
けれど、もし朔が生き残ったならば、あるいは軋間に一矢報いる事が出来たならば?
――――老人の描く絵空事だ。実際には不可能だろうし、現実には起こり得ない事は明白である。
それでも朔に期待し、彼の可能性に触れてみたい自分がいる事に梟は気付いて悦に浸る。と、懐にしまいこんでいた無線機から音が漏れている事に梟はようやく感づいた。
電波など届かぬ森の中である。この深海のような森では携帯電話など無用の物品に成り下がるのだ。
「おう、なんだ。何かあったか?」
『はい、遠野槙久が動き出しました。それに七夜黄理も動き出したと確認がとれました』
無線機の相手は槙久に貸し出した刀崎衆の一人である。槙久は情報と共に戦力の補強まで梟に要求したので、梟は致し方なく兵隊を十人程度槙久に貸し出したのだが、彼らは梟の信奉を捧げているので、こうして秘密裏に梟へと情報を横流ししているのであった。
「なるほどな。流石は糞餓鬼、動きが速い。んで、何人やられた?」
『確認できるのは現在のところ六名です。皆、罠にかかって即死です』
「ほうほう、んで。朔の方は」
『……それなのですが』
何か言葉にはしたくないのだろうか、無線機の向こう側にいる刀崎は一瞬言い淀んだ。
『どうやら軋間紅摩と交戦を始めたようです』
「……ひひ、ひ」
雑音交じりで聞こえた情報に梟は思わず苦笑を漏らした。いやはや、ここまで予想が的中すると逆に怖いものがある。
『如何いたしますか?』
「んー、今の所は静観しとけ。せいぜいだらだらと動いてろ」
『しかし、対象の回収はどうします』
「なあに、賽はとっくに投げられてる。俺たちにゃもうどうすることもできねえよ」
そう言って無線機を切った梟は総身に走る戦慄に身を奮わせた。やはり朔はこうでなくてはならない。予想を裏切らない行動にほくそ笑みながら、梟は再び歩み始めた。
状況は最早始まった。賽は投げ出されたのである。どのような目がでるか後は朔の運次第。そこに誰かが入る余地はないだろうし、とてもではないが梟が今駆けつけた所で間に合わないのは目に見えている。それに介入したところで巻き込まれて死ぬのが関の山だ。何せ自分は刀鍛冶師。それ以外はまるで駄目だし、争いごとに巻き込まれるのは御免被る。
刀鍛冶師としての自負心は確かにあるが、戦力としての自分など取るに足らない。所詮今宵七夜の森にやってきたのも槙久の腰巾着程度でしか考えていないし、自身もそれで良いと思っている。あくまで主役は彼らであり、自分は傍観者風情に過ぎないのだ。ただし、色々と動き回る観客である。
「んじゃあ、ま。迎えに行くとするか。……忘れるんじゃねえぞ、朔。お前は俺のもんだ。他の奴にやられんじゃねえぞ」
期待と一抹の不安を胸に梟は森の奥深くに進んでいく。その足取りは軽い。不安などどこにもない、何処吹く風と言わんばかりの歩調であった。
□□□
鬱蒼と茂る森の中、今銃声の渇いた破砕音とは異なる強大な音を立てて、太い幹が圧し折られた。
言葉に形容するのは簡単である。ただ木が限界強度を超えて倒壊した、と簡略的に示せば良い。だが、問題はそれが一体誰がどのようにして行ったか、に尽きる。
彼、軋間紅摩を語るのに、そう多くの言葉は必要とされない。
何故なら彼の存在そのものが規格外、現代に残存する神秘の体現であるからだ。
狂気の経過を歴史に刻んだ軋間家最後の一人にして、軋間家を滅びの道に導いた張本人である彼の強靭さ、あるいは強大さは人類史を含めた歴史においても類を見ない様相を成している。
混血としての血の尊さは宗主たる遠野には劣るものの、混合率という計測をもってすれば血の濃度は驚嘆の一言、あるいは絶句に尽きる。何せ血縁どころか肉まで魔と混ざった一族の末裔なのである。練磨された狂気が常識を超える妄執となるのは無理からぬ事ではあるが、それでも彼は外れすぎている。最早掠れ、役にもたたぬものと化している記憶の中では軋間の中にも彼に似通った人物はいたが、その末路は大抵人間とは呼べぬ化物と成り果て一族から排斥されるのがオチだった。
つまり、軋間紅摩という存在はそういうものだ。そういう風に出来ている、と言っても過言ではないだろう。そして彼はその者等悉くを滅ぼした過去を持つ男である。危険さ、厄介さで言えば彼に並ぶものなどまずいない。
全身の筋肉は言うに及ばず、骨や皮膚に至るまで硬化させる能力と、今しがた行ったように大木を握力のみで握り潰す単純な破壊力は計測すら不可能。純粋に魔に近い軋間紅摩だからこそ出来る人外の芸当である。故に彼の一族は自分たちの末路がこのような魔そのものかのような存在である事に絶望し、彼を殺そうと撃鉄を引いた。
しかし、米神に着弾した弾丸は頭蓋を貫くどころか出血さえ成せなかったのである。人類の叡智の一つの結晶である現代科学の銃が純粋に効かないほどの外れた彼に、半端な魔であった一族が逆に滅ぼされたのは全く持って当然の事だった。
それほどまでに強力な生命。ただ単純に強力な生を彼は生まれながらに持っている。誰かに与えられた訳でもなくにだ。
故に軋間紅摩とは言葉通りに桁違い、真実人智を超えた化生に最も近い混血と形容できるだろう。宗主である遠野ですら統制の出来ぬ怪物なのである。
だが、それだけに代償はある。
紅赤朱、つまり先祖還りを宿命付けられた一族の濃縮された血を受け継ぐ彼だからであろうが、元より人から離れていた。当たり前のように交わされる言語、つまり言葉を理解し使用するまで八年の歳月を必要としたとおり、人間の道理が通用しないのである。思考もまた然り。
年々歳月を経て費やされていく時間によって彼の思考は間違いなく人外の脳髄にならんとしている。そのような素養が強い一族とは言え、あまりに速い先祖還りの徴候である。通常混血の先祖還りは大抵が老年期に入って理性が磨耗してからなのだが、混血の常識でさえ彼には通用しないのだ。軋間の一族が彼を畏れたのも無理からぬ話だろう。何せ代を重ねる毎に彼らは自ら人外の道、真性の化物への道程を歩んでいると知らされたのも当然なのだから、妄執の最果てに行き着いた彼らの絶望を推して然るべきである。
では何故軋間紅摩が現在七夜の森にいるのか、と言えば別に深い意味は無い。
歩行する兵器さながらな彼だ。槙久の命令には殆ど耳を貸してなどいないし、また聞く価値もないと思っている。けれども彼は実際にこうして――槙久に運搬されたとだけとも見てとれるが――この七夜攻めに参加しているのである。
彼という人物を知るものは殆どいないが、それでもその存在上奇異なことなのは否めない。とは言え、それも致し方ない。ただ彼は今宵確かめにきただけなのだ。
かつて彼の右目を潰した人物の存在。自らの前に現われた謎の男がここにいると聞き及び、足を運んだまでに過ぎない。別に、右目の仇を討とうなどという考えはない。そういう粘着質な精神構造は彼には理解できないし、理解する気もない。
一族を滅ぼし、斎木に監禁されていた当時の記憶は朧だが、何故だかその時の記憶は彼の中に強烈に残っている。
あれは軋間紅摩、十の頃だ。あの時、彼は何かを見出し、そして何かを感じた。だがその重要な何かが未だに解らずにいる。だから彼はここまで来た。世話になった遠野宗主への恩返しなど、そこに打算的な考察はない。
あの時感じたあれが一体なんだったのか確認をするため、あるいは答えを得るために態々自分が暮らしていた森から離れ、七夜攻めに参加した次第である。
そして、今。
軋間紅摩は一人の童と相対していた。
彼と比較するにはあまりに脆弱な命である。突きの一つ、あるいは体に触れてさえしまえば粉微塵に砕けてしまいそうな生命力しか保持していない。彼の脅威になど成りはしない微弱な存在だ。
そんな子供が今、鬼神と対峙しあまつさえ戦端を自ら開いたのである。
七夜とは混血とは異なり純粋に人間同士の交配によって退魔衝動を高めた一族であるから、混血の一つの到達地点である軋間紅摩に挑みかかるのは、まあ存外ない話ではない。
しかし、それと敵対し襲い掛かるのは別だ。他の種族とは異なり、より人間に近い彼らだからこそ混血の極みである彼の魔の気配に強大さに危惧を抱いて登場しないのならば、まだありえた。
だが、この子供は自らの足で彼の眼前まで現われ、殺気を放っているのである。
その身から発せられる殺気は子供の身でありながら見事なもの。七夜である、という言葉だけでは説明がつかないほど練り上げられ、また凶悪な殺気である。胆力のないものならば忽ち萎縮し逃亡してしまいそうな殺気が彼よりもずっと幼い童から噴出されているのは、ある意味では驚嘆すべきことだった。
内包する殺気は純度の違いはあれども決してその存在規格を超越したりはしない。それは生命の意志の強靭さの問題であり、また規格そのものに関わってくる問題なのである。故にこの子供はすでに等身大以上の殺気を放ち、彼を威嚇しているのだ。
ただ、それは軋間紅摩からすれば虚しい事だ。
彼にとって殺気など、怖じるに値しないものなのだから。
「嗚――――呼」
呻き声とも似つかぬ声音と同時、紅摩が踏み込む。爆発的な踏み込みに地面が抉れ、木立が軋めき、弾けるように彼我の距離が詰められた。
軋間に生まれた者の性、とでも言うべきだろうか。世俗を離れ樹海の奥で手慰みに武術の真似事を彼は行っているが、彼の本来の強みとは肉体の潜在能力そのものにある。
絶滅種の血を色濃く継承した彼の肉体は、苛烈な鍛錬を経由していないのに頑健そのものだ。膨れ上がった筋肉繊維ははち切れんばかりのもの、力んださいに浮かび上がる血管はまるで葉脈のようでさえある。鋼の如きに作られた彼の肉体は正に鋼鉄の肉体であった。
先ほども言ったとおり、別段彼は特別な鍛錬をしているわけではない。特殊な環境に身を置いてはいるが戦場に赴くわけでもなく、また死線を彷徨う軍人のように自然と発達した肉体を保持しているのでもない。彼は本当に何もしていないのだ。それこそ軋間の血を濃縮された証、生きた神秘である。
樫の幹のように太い首、金剛石の如き怪腕。頑丈と言う言葉でさえ生温い鋼の肉体は人として発達して作られたものではなく、魔としての肉体が作られたからだ。純度の高い鉱石ですら及びもつかない筋肉は、彼の凡そ知れぬ所で発達し、その破滅的な力を増したのである。
故にその俊敏性、反応速度は人智も届かぬ領域。踏み込みただ一つで子供の距離を瞬く間に縮める事さえ可能なのだ。その速度から放たれる突進は単純なれど、子供からすれば見上げるほどの巨躯、そしてそこに十重と秘めたる魔としての力は童ほどの矮躯を木っ端微塵に変貌させるほどの威力を放っていた。巨大な巌が霞みと錯覚せんほどの速度を持って転がり落ちる様を想像すれば解りやすい。だから、怨念の如くに佇み殺気を放つ少年の体はあっけなく散り散りとなる、はずであった。
しかし、軋間紅摩の肉体が少年へと衝突する寸前に、彼の視界から掻き失せた。そして眼には見えぬままに体の数箇所から斬撃の衝撃が走ったのを彼は感じた。勢いのままに暫し直進し続け、直線状にある木々を薙ぎ倒しながら緩慢な動作で振り向けば先ほどと同じ位置で少年は屹立していた。まるでそこを軋間紅摩が通過したのが幻であったかのように。けれど、今しがた踏み抜いて亀裂の走る大地は間違いなく彼が猛進した証明に他ならない。だからそこに少年がいたことは明らかである。
改めて少年の姿勢を見ると先ほどとまるで変わらぬ佇まいだった。四肢を地面へと突き刺し、土を舐めるほどに低い姿勢からこちらを窺っている。まるで蜘蛛の如きに這い蹲り、足元から見上げる姿に変異はない。あるとすれば彼の四肢の周辺。亀裂に目が奪われやすいが、四足獣と化した少年の足元の土は急加速と急制動に盛り上がりを見せ、僅かな山を築き上げているぐらいだろう。
つまり、少年は軋間紅摩さえ視認できぬ程の速度で突進をいなし、擦れ違い様に彼を斬りつけたのである。否、正確には紅摩の死角へと僅かに移動しながらの所業であった。呻りをあげる威圧と重圧を風の柳と言わんばかりにかわし、あまつさえその手に握る小太刀で肉を裂かんとした算段は上々であったと言えるだろう。相手が軋間紅摩でなければ、の話であるが。
「――――」
じっと、観察するように少年の瞳が翳る。その眼の先は己が感触を確かめるためか彼の肉体に向けられていたが、斬りつけられたような軌跡はあれど、皮膚が裂かれた訳ではない。血肉を晒すはずの肉体は確かに斬りつけられはすれども、依然として無傷であった。
先ほどからこのような展開が続いている。紅摩が仕掛け、それを子供は驚嘆すべき術利と速度で回避しながら斬りつける。後の先を取るつもりだったのだろう童の算段は、しかし肝心の相手の肉体に傷一つ未だ負わせられぬ状況にあった。
子供ながらに観察眼は一丁前と言うべきか、紅摩の攻撃速度は驚くべきほどのものであるが、よく見れば隙だらけである。今現在の突進もそうであるが、猛然といきり立って剛腕を揮う紅摩であったが実直すぎるのだ。ひたすらに真っ直ぐに直撃せんと己が五体を振り回しているが、だから安易に回避され、切り裂かれるのである。通常であるならば今も背面を見せ、小太刀の刃によって首の静脈動脈、足の腱、弛緩させていた手首の血管を合わせて都合十五箇所斬りつけられている。
まともな相手ならば肉体の弱点と言って差し支えの無いそれらの部分から激しい出血を伴い、やがて死に至らしめられるだろう。そう、相手がそのような道理が通用するのならば、だが。
凡そくり返された交差はこれで四度。しかし、無傷のままで直立する彼の姿はいっそ異様である。すでに同じ箇所を数度も重ねて斬りつけられているのだ。腱は致し方なくとも、血管乃至皮膚ぐらいは裂けてもおかしくはない。
だが、そのような常識が彼、軋間紅摩に通用しないのもまた、全くの道理であった。
何せ彼は混血の中で一際色濃く絶滅種の血を引いた現代の神秘である。古代ならまだしも、現代においては正しく無敵の剛健さ。つまり単純な硬さは決して真剣に劣りはしないのだ。
なれど、子供の小太刀を侮る事なかれ。刃物として丁重に扱われ、真剣としては上々の一品である。決して重い鋼ではないが、人体を解体するにそう力の要らぬものに相違ない。肉を断ち、中身を穿いて命を殺す所を本懐とした正に刃そのものである。更に言葉を重ねれば子供の技量も恐ろしいものがある。瞬時の交差に同じ箇所をなぞりあげているのだ。軋間紅摩でなければ、あるいはすでに滅んだ軋間の一族であるならば皮膚が磨り潰され、二度目の交差で失血死しても可笑しくはなかっただろう。
だが、そんなもので彼の体に傷を負わすことなど出来るはずもない。
軋間紅摩は別格なのだ。存在そのものが桁違いな生命であり、化物揃いの混血の中で尚恐れられた怪物である。そのようなモノを相手に常道の技術、通常の刃で倒せるはずもない。
そう、すでに結果は見えている。少年では軋間紅摩を殺す事は出来ない。否、殺すどころか傷一つ負わせる事さえ叶わない。そして、紅摩の一撃が掠りでもすれば少年は忽ち粉微塵だ。恐らく直撃すれば体の原型を留めることさえ出来ないだろう。こちらの攻撃は通用せず、だのに相手の一撃が掠りでもすれば一瞬で勝負は決まるこの理不尽。通常の者ならば逃げの一手を打つか、勝負を投げ打って玉砕覚悟の一撃を放つ状況である。
しかし、通常という意味合いからすれば少年、七夜朔もまた軋間紅摩と比べれば微細なものであるが大きく外れていた。
鍛錬の習熟度からすれば同年代の七夜から大きく離れ、それどころか七夜最強の黄理から直接手解きを受け、彼に追いつかんとする鬼才である。暗殺集団である七夜において鬼神の子と謳われ、惧れさえも抱かせた子供である。幾たびの交差に朔は死を幻視すれどもそれは遠く、依然として減少しない人外の殺意のままに軋間紅摩へと漫然と対峙する。そこに怖じる気持ちはなく、また逃げの算段を開始するような思考もない。どれほど強大な混血であろうとも満を持して立ち向かう様は、確かに朔は七夜であった。
だが、朔は歴戦の猛者でもなく蛮勇を奮う愚者でもない。今は俄然獣の如き本能に駆られ命永らえているが、僅かに残っている理性でこの混血が自分の手に余る事は百も承知していた。だからこそ正面から攻勢をくわえるのではなく、死角範囲からの消極的攻勢を今現在は強いられているのだが、それでも埒が明かない事は明白である。
朔では軋間紅摩を殺せない、軋間紅摩は朔を殺せる。しかし、それは彼の剛腕乃至肉体が掠ればの話だ。
故に限界まで引き付けて寸での所で回避し、何度となく刃を振るっている。常道であれば通るはずの刃、そして尋常であれば粉微塵と化していると思えば、現在の闘争は常識の適用されぬ怪物たちのぶつかりあいだった。
とは言え、それもジリ貧の千日手。今は朔の姿を捉えきれぬ軋間紅摩であるが、この繰り返しの果てには速度にも馴れ、朔を捕捉できるであろう。つまりこの状況を打破できるのは朔の手にかかっている。
しかし、どうするか。
ちらり、と手元の小太刀を窺えば刃に罅が入っている。撫で斬りにするはずの真剣に返った感触は、さながら純度の高い金属に刃を打ち据えたようだった。最早、持ってあと数合という所だろうか。ならば必殺の際に取っておくのが賢しいだろう。
殺意の衝動に飲まれてはいるが、殺す術を計測するのみに限定されて言えば朔の思考はとても冷静であり、熱とは無縁であった。もしこの肉体の昂ぶりのままに突っ込めば死は免れないと理解したからだろう。とてもではないが、この相手は朔の手にあまる事実が目の前に突き当てられていた。
それでも、それでも、である。
「――――」
小太刀の柄を口に咥え、四足を自由にして一息、地を舐めるような姿のままで朔は軋間紅摩へと接近した。
朔が七夜朔である限り、撤退の二文字はありえないのだ。ここで退いては何のために駆けたのか。その理由が失われる。
無論、ただで接近を許す紅摩ではない。
「嗚――呼」
幽鬼が近づいてくるのを感じ、稲光の如き打突が放たれる。それを首を傾ける事でかわしながら、朔の足が地面を叩いた。
がきん、という鈍い音が森に響く。
軋間紅摩の懐に入り込んだ朔が放った脚の一撃、踵から抉りこむように天を穿つ上段蹴りが紅摩の顎を捕らえて上下の歯が噛み合った音だった。通常、この一撃が入ったならば頚椎が圧し折れるか、少なくとも強制的にぶつかり合った歯の何れかが砕けても可笑しくはないほどのインパクトであったが、やはり紅摩には通用しない。
ぎょろりと眼を向いて脚を突き出す格好の朔を無造作に腕で打ち払おうとして――――、再びの衝撃が今度は米神に走った。槍のように鋭い肘が紅摩の頭蓋を貫く。
それまでの朔の動きとは一線をかいた動き、消極的動きから積極的な動きへと変化したものである。しかしそれは軋間紅摩の距離に常にいることを指し示す。先ほどまでの交差ではどうにもならない、と考えあぐねた朔が導いた戦術がこの近距離戦であった。
無論、そこに勝機はない。寧ろ、正気を疑るような思考である。一瞬の交差では敵わぬならば常に近距離へ身を置くのは戦況の打開としては一理あるやもしれない。だが、相手は軋間紅摩なのだ。その拳、その肉体が掠りでもすれば忽ち致命傷を負わざるを得ないような暴力と破壊の塊なのである。そのような相手の懐に常に身を置くなど、まずもって全うな理性を持つ者の選択肢ではない。正しく正気の沙汰ではない。あまりの重圧に精神が狂気を帯びたか、と想うがあくまで朔の思考は静かだ。
脳内は脈絡なく消去法を重ね、遂に近距離に身を置く事を決心しただけの話である。四度の交差による結果は切創すら生み出せなかった。ならば、常に近距離から七夜の体術を叩きこみ殺害乃至昏倒させる次第である。あまりに無謀、あまりに無策とは思う事なかれ。軋間紅摩に対し物怖じすら感じない朔にとって、これは次善の策に等しい。
つまり直接的に抹殺できないのであれば、行動不能となるように疲労を蓄積し、そこを執拗に叩く。狙いは頭蓋。硬い骨に守れた脳を破壊する。脳を損壊させる事さえ出来ればどんな生物でも動く事が叶わなくなるのは黄理から教えられた薫陶の一つであった。
こちらには軋間紅摩に対抗できるような手段はない。肉体を破壊するはずの一撃は通用せず、体術もまた然り。であるならば、自ら暴風雨の中に立ち入り、そこに活路を見出すしかなかった。
「――――」
殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――――。
退魔衝動の叫びが止まらない。朔の内側、その奥底から歓喜交じりの絶叫を上げて軋間紅摩に接近する。噛み締める小太刀の柄を更に力強く奥歯で噛んで、この混血へと猛追する。
朔にとって軋間紅摩はある意味麻薬のような存在であった。接触するたびに感じる魔の感覚に痺れ、酔わせる。近づけば近づくほど混血の猛威に体が震え、喜びを噛み締める。まるで甘露のような味わいが軋間紅摩にはある。あの老骨の混血とは比べものにならないほどそれは美味であり、思わず身を委ねてしまいそうな衝動にさえ駆られる。
元々朔の感情には滾るような情熱はない。そんな朔に始めて生まれ出でた感情こそ殺意であった。喜びや悲しみ、怒りや嘆きを理解できないなかに誕生したこの殺意こそ唯一の寄る辺。軋間紅摩に安らぎを覚えるのも無理からぬ話かもしれない。人を、強いては他の七夜を慮外の存在だと認識していた朔だから、今の退魔衝動が心地よくさえある。
可笑しな話だ。内側から張裂けてしまいそうな殺意に入り混じり、今朔は敵わぬ相手に怖じるどころか親近感さえ覚え始めていた。だからこそ近づき、もっと紅摩に触れていたい。
そして始まった接近戦はさながら嵐のようであった。一撃離脱の動きから一変して紅摩に追い縋る朔と、それに応じる紅摩。
やがてそこは爆心地と化した。
対象が目前にいることから激化した紅摩の五体が炸裂せんほどに揮われる。それをいなし、執拗に死角へと移動しながら打撃を放つ朔。二匹の攻防は舞踏と表現するにはあまりに華がなく、あまりに武骨で熾烈だった。互いに互いを損壊させるために脚を、腕を振り回す。やがて幾度も軋間紅摩に踏み抜かれた地面が陥没し、勢いが加速した朔は旋風と化して独楽のように回転する。それをひき潰さんとした下段突きに顔面が骨ごと剥がれた錯覚が起こった。錯覚とだとは解っている。しかし、拳のひとつに込められた破壊の威力は想像を遥かに超えて、掠りでもすれば忽ち粉塵となるだろう。
存在規模が違う。桁が異なる。核が離れている。正しく場違い。最早人間の範疇に属する事も出来ぬ純粋の混血である。歯がたたぬのも致し方ない。
が、状況にある種の感情を覚えているのは軋間もまた同じであった。相手は小さな子供である。幾ら俊敏とは言え捕まえられぬはずがない。あっという間に破壊できるはずであった。
しかし、未だ相手は存命しており、抵抗を見せている。解せない。軋間紅摩には相手が何故未だ活動しているのか理解できなかった。何者も抑えきることの出来ない剛力を持ってして捕殺出来ないとは如何な事か。苛立ちや焦りとは無縁の彼であるが、この状況が不思議でたまらなかった。
内心に降り注ぐ不可解さのままに鉄槌のような上段蹴りを放つ。目視すら許さぬ脚捌きの狙いは小さな子供の頭部である。触れれば人間の頭蓋など豆腐にさえ等しい一撃だ。それを童はどういうわけか回避し、更に下へと潜り込む。お誂え向きに晒された頭頂部に振り上げられたままの脚が断頭刃のように振り下ろされた。しかし、それさえ子供は今度は見ることさえせずにかわして見せ――――。
「――――ッ」
下顎に衝撃が起こった。今度はどのような手段を行ったのかさえ理解が追いつかなかった。ただ脳天まで響く衝撃に己が死角へと出鱈目に拳を振ったが、捉えたのは冷たい空気のみ。まるで亡霊と対峙しているかのよう。実像は必ずあるはずなのに、いっこうに掴めやしない。
――――なんだ、これは。
今まで破壊できないものはなかった。対峙するものなど居なかった。目前に屹立したものの悉くは雑作もなく原型を留めぬ肉塊と化した。
だと言うのに、この小僧は未だ生きている。あまつさえ攻勢に出た。
彼からすれば蟲の抵抗に等しい行為である。煩わしい、という感慨はないが戸惑いばかりが浮上する。
何故未だ戦う。何故未だ生きている?
残された瞳が濁る。目視が叶わぬのならば、瞳は最早無用。ただ皮膚を打つ感覚のままに五体を揮う。
状況は拮抗などとは程遠い。埒外の戦力差を子供も理解しているはずだ。だと言うのに逃亡することさえしない。
何故だ?
漠然とだが、不思議だった。
矮小極まりない生命でしかない小僧が強大な戦闘力を持つ彼に挑み、追い縋るなど一体何のつもりなのか。終局は見えているはずなのに、絶無なる死が目前にいるはずなのに。その心積もりを支えるものは一体何なのか。――――と、軋間紅摩の振り上げていた脚が踵から大地へと降り注ぐ。渾身の威力を放つ大震脚。森が揺れ、衝撃波となって朔の脚に襲い掛かった。内側から破裂するような激痛が足運びを鈍磨させた。
「――――」
それに、子供の動きが突如として僅かに鈍った。
混血の肉体から放たれる重圧に今更押しのけられた、のではない。震脚の余波はあくまでも切っ掛けに過ぎなかった。
蓄積された疲労。自身の限界を突破しても無視して行われた鍛錬は確実に朔の肉体を蝕み、疲れとして残されている。それが抜けないままに衝動のまま襲撃した時にはすでに朔の体は悲鳴をあげていた。挙動のひとつひとつに関節が軋み、筋肉が泣いて骨が慄いた。それら全てを飲み込んで朔は今の全力で目前の混血を抹殺しようと動き回った。しかし、ここにきて限界が訪れる。本能のままに動いた肉体は最早断末魔の叫びを上げ、必死に己を保とうと理性が散逸しそうな五体を辛うじて繋ぎとめてきた。しかし、それは切っ掛けひとつさえあればすぐさま消える蝋燭の焔だった。
それがここに来て限界を向かえ、脚が縺れた。
僅かな停止。瞬き一つぐらいの刹那に動作が止まっただけに過ぎない。
だが、それはここにきて致命的な停止であった。
「嗚――呼!」
そのような間隙をこの男が、この怪物が見逃すはずがない。
背後で停止した子供の殺気に軋間紅摩は万全の体勢から旋回し、裏拳を打ち放った。風が轟く。急速に放たれた一撃が空気を突破して子供の頭蓋へと向かった。
朔は眼前に迫る拳を呆然と見続けた。小さな朔の頭部ほどに大きな握り拳である。そこに秘められた威力はよく理解していた。そして、それが回避不可能である事も今現在の状態から知れた。感覚の曖昧な下半身に、体勢は不十分。無理に動けば致命傷は確実――――!
その脳裏に様々な光景が流れては消える。幼少の頃から続けた鍛錬風景。対峙する黄理の圧倒的な背中。焦がれた刃の煌き。交差する肉体の熱さ。芝に倒れて見上げた木漏れ日。志貴と過ごした日々。翁との会話。世話役の表情。それらが一変に瞳の中で情景として過ぎ去っていく。
そうして拳が当る寸前、朔はそれが走馬灯である事をようやく理解し。
――――瞳が輝く。