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No.34379の一覧
[0] 【月姫】七つ夜に朔は来る【オリ主もの?】[六](2012/09/19 16:31)
[1] 第一話 黄理[六](2012/09/08 21:12)
[2] 第二話 志貴[六](2012/09/09 20:34)
[3] 第三話 とある女の日常[六](2012/09/09 20:58)
[4] 第四話 骨師[六](2012/09/10 08:36)
[5] 第五話 梟雄[六](2012/09/10 09:47)
[6] 第六話 ななやしき君の冒険 前編[六](2012/09/12 11:12)
[7] 第七話 ななやしき君の冒険 後編[六](2012/09/19 16:29)
[8] 第八話 蠢動[六](2012/10/23 11:06)
[9] 第九話 満ちる[六](2012/10/26 18:36)
[10] 第十話 月輪の刻[六](2012/11/03 09:25)
[11] 第十一話 紅き鬼[六](2013/01/10 12:13)
[12] 第十二話 鬼共の饗宴[六](2013/02/24 11:13)
[13] 第十三話 Sky is over[六](2013/04/17 00:45)
[14] 第十四話 崩落の砂時計[六](2013/06/29 18:01)
[15] 序章終極 鬼の哭く夜に、月は堕ちて夜は終わる[六](2013/07/13 10:17)
[16] 刀絵巻 百花繚乱/曼荼羅地獄絵図[六](2014/01/29 21:59)
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[34379] 第十話 月輪の刻
Name: 六◆c821bb4d ID:40472e46 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/11/03 09:25
 七夜の森は果てしなく広大であり、鬱蒼を成す黒き森林は正に樹海と呼ぶに相応しい外観をしている。
 故に内観もまた然り。太古の匂いを感じさせる緑の要塞が視界をふさぎ、今では結界による作用から徐々にその範囲を外部に侵食しており、生者が入り込めば抜け出すことの叶わぬ自然の墓場と化している。
 無論、森の中で命を散らしたものに墓標は存在しない。
 正式な手続きを踏まず、また正規ルートを辿る事の無かった彼らは皆侵入者という形で処理され、無様な屍を晒すのみだ。
 その亡骸も鴉が啄ばむ前に植物達が群がり、骨の一片までも失われる末路。
 まともな神経を持っている者ならば、まず侵入しようとは考えぬ地獄の扉である。


 外部から招待した魔術師との共同作業によって設置された結界は七夜以外のものを排斥する効果を発揮し、更には自然の秩序乱れた森の内部には殺傷能力の高い罠が幾つも隠されている。
 そして極めつけは結界の副作用によって変異した動植物たちであろう。序と言わんばかりに彼らは森林の内部で血を求めて這いずる獣と成り果てている。
 そのさまは正しく死徒二十七祖に数えられるシュバルツバルトの魔物さながらであった。


 だから大丈夫だろう、とは誰も考えはしない。幾ら防備を重ねた牙城であろうとも崩れるときはあっさりと崩れるもの。
 もとより、七夜には敵が多すぎた。殺した対象の数は幾星霜。歴史を紐解けば、それこそ表沙汰には出来ないほどの暗殺が七夜によって行われているのである。
 ならば、憎悪の数がそれに比例して増幅していくのも当然の事。
 例え退魔から抜け出そうともその血の業の罪はあまりに深く、混血ともどもにおいては恐怖と侮蔑によっていつまで経っても忘れられるはずがない存在である。
 まるで魔である混血よりも人間の結晶である七夜の方が妖怪であるかのようだ。


 故に、今日の夜は当然の事だった。あまりに必然すぎた。


 方やかつての屈辱を忘れる事が出来なかった混血。
 方や陰に潜み魔を狩り尽くした絶対の殺し屋。


 その関係性は簡潔に尽き、余分なものを含みはしない。水と油のように互いは離反しあい、決して融合などしない。
 即ち彼らは必然的に殺しあうしかないのだった。
 仮初の協定を結んでいたが、薄氷と呼ぶに相応しい薄っぺらさの関係は容易に瓦解し、やがてはこうなるであろうと誰もが内心思っていた。
 それはまるで見えない糸が先の先で紡いだ運命のようだった。
 なれば馴れ合いは無く、歩み寄りもまた然り。互いに理解はすれども共有は得ない。
 今宵は殺し合い。どちらかが滅ぶまで戦い続ける絶叫の夜。
 その果てはきっと、天上で煌々と光る月輪(がちりん)のみが覚えているだろう。

 □□□

 深夜の森の中を武装した男達がひた走っていく。
 物音は限りなく静かに、それでいて獣のような素早さで位置を変え、慎重に進んでいく。
 地面に落ちていた枯葉の一枚すら踏まぬように注意しながら邁進する彼らを頭上の月が窺っている。
 獣道さえないような森林である。視界は不明瞭。
 夜であるならば月明かりのみが頼り。木々の合間を縫って、その手には銃器。身に纏うは厚手の戦闘服。
 顔を隠すようなマスクを装着したその出で立ちは戦地に向かう如くであった。


 彼らは今宵七夜襲撃を企てた遠野槙久の私兵であり、数としては小規模。
 しかし偵察を使命に受けた彼らの足並はプロのそれで、無線機と手信号のみで連携を取り合いながら、微小ながらも確実に潜伏していく。
 目標は未だ遠く、沈黙は耳に痛いほどで、隣にいる隊員の荒い息遣いさえ聞こえてくる。
 皆緊張しているのだ。何せここは混血の天敵とされた七夜の根城。人間である彼らの上位者である混血が畏れる化物の巣窟である。
 何とすれば敵対対象の寝首を掻く心意気を皆持ち合わせているが、それでも心のどこか奥底で恐怖の感情が呼吸をしているのがよく解る。
 心臓が痛いほどに脈打っている。今だけは黙れ、黙れと内心繰り返しながら慎重に進んでいく。その足並はいっそ臆病と形容してよいかもしれない。
 まるで外敵に警戒している草食動物のようでさえあった。――――と。不意にこの部隊を率いていた隊長格である山本はある事に気付いた。
 聞こえてくるのは自分たちの足音、更に言えば息遣いばかりで、この森に入ってから何の音も聞こえない。鳥の囀りも、虫の鳴き声も何も聞こえない――――。


 そして、がさりと、明らかに自分たちのものではない騒音がした。


「いぎゃあああああああああああああああああああああああああっ!!?」


 絶叫。突然、茂みのどこからから仲間の悲鳴が迸った。


「なっ、……! 状況報告、状況報告」
「状況不明ッ! 何者かの襲撃にあっている模様、う、うわああぁぁぁぁぁぁ!!」


 暗闇の森の中、散開していた仲間たちが襲われている。
 咄嗟に隊長である山本は無線をフルオープンで状況確認を急ぐが、返ってくるのは言葉として聞き取れないほどの悲鳴のみ。
 何が、一体何が起こったのか理解出来ない。
 そして悲鳴がひとつの契機だったように、前を進んでいた者たちの辺りからも次々と断末魔の絶叫が木霊した。
 まるで地獄の獄卒と出会ってしまったかのような絶望感に彩られた悲鳴は、次々とそこ等彼処から聞こえてくる。
 暗闇に灯されるマズルフラッシュ、セミオートのトリガー音。


「た、助けてくれ、助けてくれぇ!!!!!!」
「いやだ、死にたくない死にたくない死にたく――――」


 何かが潰される音。
 精強を誇っていた兵士がまるで未知の巨大生物に遭遇したかのような弱兵と成り下がり、指揮系統は最早意味を成さなくなった。
 暗い暗い森の中、兵士を預けられていた山本に状況は解らずじまいだった。何か理解を超えた現象が起こっている。
 だが、仲間が今この瞬間にも何者かに襲われているという事実に揺るぎは無い。


『孤立するな! 全員密集隊形を取れ、周囲を警戒しろ!』


 咄嗟に怒鳴り、どうにか混乱した者達を収めたかった。
 しかし冷静さを欠いたものから死んでいくのだと言わんばかりに、返ってくるのは悲鳴。そして渇いた銃声音。
 至る場所で仲間が死んでいくのが暗闇の中でも解る。そして悲鳴がどんどんと遠のいていく。
 その悲鳴の有様はまるで奈落の彼方に連れ去られていくかのようにも聞こえた。


 そして、男の元に集まってきたのは僅か五人ばかりだった。
 あれほどいた兵士たちがもうこれだけしかいないという切迫感に誰かが息を飲む。はあ、はあ、荒ぶる吐息がやけに耳について離れない。


「一体、何があったんだ」


 呆然とした様子で山本は周囲を窺いながらもどこか上の空で聞く。


「わかりません、何か生き物のようなものに襲われたとしか……」
「七夜かッ?」


 ここは敵の根城。すでにこちらの動きを察知している可能性が高い。しかし問いかけた山本に対し返ってきた言葉は否という報告だった。


「いえ、あれはもっと原始的な、人間ではないなにかです」


 そんな要領を得ない報告に呻き声が漏れる。
 状況は緊迫している。周囲は訳の解らないものに囲まれていて、いつの間にか自分たちは突然窮地に立たされているというのか。
 そうしている合間にもこの場に辿り着く事の出来なかった仲間たちが何ものかに襲われていくのが解った。
 夜だから音だけが頼りなのだ。静けさに満ちた森林では何かに引き摺られる音、何かを潰す音、何かを砕くことが鮮明に聞こえる。
 その中には水っぽいものが樹か岩に叩きつけられているような歪な音が木霊している。まるでこの世にいるような感覚ではない。
 山本は傭兵として幾つもの戦場を練り歩いた過去を持つ男だが、このように常軌を逸した場面に遭遇した事などない。
 そう、ここが異常なのだ。七夜の里。遠野が怨敵として畏れる者達が暮らす自然の墓場。
 そして、誰とも言わず何かに気付いた。


「……おい、なんだあれはっ」


 月光が影となり仔細は分からない。しかし、確かに見えた。見えて、しまった。
 彼らの視線の先、樹木の生い茂る森林の中で、何かに引っ張られるように隊員が宙吊りにされていく。
 その手足、胴体に巻きついているのは蔦、あるいは枝。それはさながら生贄を月へと捧げる神秘的な光景ですらあった。
 先ほどから生贄となった隊員の声から助けを呼ぶ声が迸っているが、最早言語としてまともに理解できぬほどのものに成り下がっている。
 まるで豚の鳴き声のようだ。憐れで、騒々しい。
 そして――――ぼくん、という場違いな音がした。


「……」


 誰もが何も目の前で行われた惨劇に声を忘れた。
 いとも容易く蔦によって引き千切れた体。肉の千切れる形容しがたい音がした後、股関節の外れる音だけが鮮明に聞こえたのであった。
 半分に切り裂かれた体から溢れ出す臓物が月光に照らされて、ひどく鮮やかな前衛芸術作品のような呈を成す。
 遅れて、矢鱈と瑞々しい血潮と内臓の落下音が耳に届き、ただの肉塊と化した元人体のもとへ一斉に蔦やら蔓やら、あるいは細い枝やらが群がり、喰らっていく。
 彼らもまた曲がりなりにも遠野に属する者達である。この世には常識では賄え切れぬ超常が在りえることは存じていた。
 特に彼らの雇い主である遠野の場合はそれが顕著で、理解を超えた存在として理解している。
 故に彼らは理解を超えた、という現実を解っていた。しかし、今この眼球で映される映像はなんだ。
 植物が人を襲い、あまつさえ血肉を貪るなどどんなB級ホラー映画だ。暗闇の向こう側で今でも悲鳴と咀嚼音がバックサウンドとして流れていく。
 映画で描写されればある程度の想像を掻き立てて、僅かばかりの恐怖感を煽るだけしかない場面が、今目前でリアルとして起こっている。
 山本がちらりと隣にいる隊員を見やれば、呆然と表情を崩している。思考など一切していない隙だらけの様相だった。
 しかしむべなるかな、きっと山本も同じような顔をしているのだろうから。


 つまり、一連の光景を見せ付けられた事によって山本たちは解ってしまったのである。
 今しがたまで通り抜けてきた道は油断させるための罠。否、すでにこの森に侵入を果たしたときから彼らは虎視眈々と山本たち人間を狙っていたのである。
 ここは最早ただの森ではない。
 魔物の口内、もしくは餌場なのだ、と。


「ききき、来たぞぉッ!?」


 絶叫めいた報告に忘我していた山本たちの周囲はいつの間にか捕食者達に囲われていた。
 最も捕食者たちはまともな姿をしていない。
 肉食動物ですらない彼らの姿は皆、植物。柔らかそうな蔓に棘の生えた蔦がうねりながら、さながら蛙を囲む蛇のように厭らしくじわじわと迫ってくる。
 のたうち蠢く緑の触手には幾つもの赤い斑が付着していて、きっとそれは喰われた者たちの鮮血だろう。
 山本たちは皆、ここがこの世ではないような気がした。悪夢?
 いや、きっとこれは地獄ですら生温い。


「なんだ、ここは」


 それは誰の呟きだったのか。ここにあらずな表情で溢された言葉が合図であったかのように、植物達が一斉に山本たちへ群がった。


「なんなんだここはっ」


 そして一人、また一人と触手に連れ去られ、飲み込まれていく。血飛沫を撒き散らしながら消え去った後で、形容しがたい咀嚼音が聞こえる。
 冗談ではなかった。皆ここにいた者達は山本を信頼し、着いてきた小隊である。
 同じ鍋を囲み、時には冗句を口ずさみながら共に眠りについたこともあった、愛すべき同胞である。
 幾つもの戦場を歩んで、時には隊員の誰かが戦死した事はあるが、決して涙は見せなかった。
 皆解っているのだ。彼らは自ら進んで戦場に向かうような愚か者である。そのような者達にいちいち涙を流しては次に死ぬのは次の番だと。
 故に涙を飲んで邁進し、戦場を練り歩いてきた。
 しかし、ここは何だ。ここは戦場ですらない。
 あの硝煙の香りと、懐かしき砂埃はどこにもない。あるのは濃厚な緑の臭いと、静かな森の姿だけ。
 ここが戦場だと?
 とんでもない、ここはただの処刑場だ。


「なんなんだあお前らはぁッ!!」


 山本は短銃を標準も合わせずに発砲しながら、絶叫した。
 弾丸が着弾しても触手の動きは収まることを知らない。寧ろ痛みに身悶えて震える様は巨大生物の一部かのようだ。


 そして、ずんと重く響いた音が山本の体を貫いた。


 いきなりやってきた鈍痛に山本は顔を顰めながらも、どうにか痛みの正体を知る。
 どうやら槍のような根っこが自分の体を穿ったらしく、股間から背骨まで飛び出した樹木の感触がやたらと冷たい。
 そうして山本の体は勢いよく振り回され、上空にて半身となった。辛うじて首だけで繋がっているが、もう体の感覚はない。
 縦に真っ二つの状態になるとは夢にも思わなかった男の意識はそれでも微かに覚醒していた。それも末期の光景となるだろう。
 最期に彼が見たものは、まるで口を開くように山本を貪らんとする植物のうねりだった。
 そして木霊すのは悲鳴ではなく、何かの咀嚼音。そうして惨状が広がった森の各箇所には月光の淡い輝きに照らし出され、赤い牡丹を花開いた。

 □□□

 武装が本来意味する所は自らが弱小の存在である事を公表している事に他ならない。
 幾ら強力な銃火器を装備し、厚手の防護服を身に纏っていても、結局の所それはそうでもしなければ自分がいつ死んでもおかしくない状況にあると見ている者に公言しているようなものだ。
 その様は確かに一見屈強な兵士のようには見える。
 だが、裏を返せばそのぶんだけの弱さを内包した生命であり、そのような装備をしなければ生きていけないのである。それ以上の事は期待出来るはずもない。


 男に自信などない。過去には誇りと自信を胸に闊歩していた時代もあったが、それもとある事件を経て粉微塵に砕かれ、今となっては屈辱の歴史だけがある。
 月明かりだけが頼りで足元さえもおぼつかぬ森の中を老人の先導によって歩み、周りを武装した兵士によって守らせ、しきりに周囲を警戒させてはいるが、それは即ち不安と恐怖が綯い交ぜとなって心理的圧迫感を覚えさせているからに他ならない。
 今感じている緊張はまやかしだ、現実には幻だと内心唱えても負の感情は消え去るばかりか更なる鼓動を感じさせる。


 かつて受けた恐怖。その時受けた傷はもう完治してはいるが、あの恐怖を思い出すたび、男は自分が自分でなくなってしまうような感覚を覚えた。
 あの目が数年経った今となっても忘れられないのだ。夢にさえ見ることもある。
 反転した斎木を売り、七夜の手に巻き込まれたあの時、倒れ伏す自分を眺めて、あの男は嬉しそうに顔を歪めたのだ。


 ――――七夜、黄理。


 それが、あの男の名である。
 混血の天敵であり、男に恐怖を刷り込んだ死神の名だ。
 現役を引退しているとはいえ、その名は今でも混血たちにとっては禁忌。凡そ口にする事さえ憚れる忌まわしき存在なのだ。
 あの屈辱、あの陵辱を忘れはしまいと自身に呟いた日々だった。古傷が痛むたびに復讐の焔が燃え上がり、体を燃やすようだった。
 だが、それは恐れを忘れることさえも出来ぬ自信の弱さそのものであった。
 それを認めたくなくて、あの屈辱を拭い去りたいからこそ、今日ここに男はやってきた。天敵の根城、七夜の森へ。


 目前、先頭をまるで散歩のような足運びで進む老人に目を見やる。
 擦り切れた着物と異様に長い手足は妖怪のようだ。いや、もしかしたら本当に比喩でもなんでもなくこの老人は妖怪なのではないのかと疑いたくなる時がある。
 剥き身の双眸に晒されると、まるで深層心理に横たわった恐怖感や思考さえも覗かれた気がしてならないのである。
 でなければこのタイミングはなんだ。七夜襲撃の機会を伺っていた時期に突如として舞い込んだ刀崎梟からの協力要請。
 あまりにも上手くできすぎて気味が悪い。まるで最初からこの老人の掌で踊らされているようだ。


 ――――先ほど、先行していた偵察部隊が壊滅したと報告があった。


 妖怪は信用できるが、その言葉までは信頼できない。あらゆる甘言、戯言を用いて相手を惑わす老人の手法はいまいち信用に欠けた。
 故に先ずは妖怪の言う安全ルートから外れた場所から部隊を先行侵入させ、情報乃至あわよくば七夜の手並みを拝見しようとしたのだが、ものの二十分も満たずに無線の向こうから返ってきたのは理解できぬ言葉と悲鳴が混ざった救助要請。
 どうやら絶叫のままに助けを求めた隊員が、何者かの襲撃を受けたらしい。
 彼らとて歴戦とまでは言えないがある程度の場数を踏んだ兵士である。
 早々壊滅する事はないだろうとの思惑故の命令だったが、それも無駄に終わったらしい。
 更には報告に歯噛みし、焦燥を感じる男を見て妖怪は嘲ったのだ。


『ほれみろ』と。


 その金属を擦り合わせたような声を軋ませながら男は嘲笑混じりに言ったのである。
 その全てを見下し、男の企みなどまるで児戯と言わんばかりの表情はあからさまに男個人に向けられていた。
 神経を逆撫でるような物言いを含め、男は妖怪の全てが気に触って不快だった。最も、この妖怪を好む人物など刀崎衆しかいないだろうが。
 男にとって妖怪はただただ不愉快な存在である。一世紀近くも生きた化石でありながら、その発言力と意見は親戚一同の中でも一入で簡単には無視できない。
 それでいてその欲求の傲慢さや言動の身勝手さに腸が煮えくり返る事もしばしばである。
 無論、そんな輩でも遠野に連なる血族の一員。無下には出来るはずもない。それに男の知識、そして経験は現存している一族の中でも抜群である。
 故に男は老人を信用している。しかし妖怪としての側面としての信頼は微塵も無い。


 もとより男は被虐意識の強い精神構造をしていた。他人に信を置くなどまずありえないし、その感情の殆どは身内にしか向けられない。
 だから老人などに向ける感情などあってはならないはずなのに、この老人の言動は一々癪に障る。
 しかし、この妖怪がいなければ男達がすでに物言わぬ屍だった可能性も否定できない。ここは七夜の根城にして常識では対処できない魔窟なのだ。


「こっから先は大丈夫だ。獣道を辿ればまず死ぬこたあねえだろう」


 と、鬱屈した思考を繰り返す男の耳に妖怪の耳障りな声音が鳴り響いた。
 暗い森の中、月光を纏って案内を口ずさむ老人の在り様はあくまで楽しげだ。まるで出来の悪い三文劇を観閲しているように、男を含めて見下している。


「俺の案内はここまでだろうな。なあに、安心しろ。てめえらは油断なく殺し合えばいい」


 そして拉げた笑いが零れる。背筋に寒気が走るような不快感を覚え、男は鼻を鳴らした。


「いいだろう。案内、感謝する」


 心にもない言葉を口にするが、不機嫌さが丸解りの声に妖怪の愉悦さは更に熱を帯びた。


「ひひ……老骨への感謝痛みいる。それじゃ気張れ、気張って殺されろ。それと、だ」


 ずい、と老人は音も立てずに男の傍に近寄り、その耳元に囁く。
 そこにいたのは先ほどの世を嘲笑する老人ではなく、百年近くを生きた妖怪の醜悪な邪笑であった。


「契約を違えるなよ、ご当主様?」


 まるで錆びた金属がへし曲がるような音が鼓膜を震わせて、咄嗟に男は身を翻した。
 その様を終始眺めて笑みを浮かべた妖怪は足取りも軽やかに森の影の中に消えていく。確かな足運びはまるでこの森を全知しているような自負心が窺えた。
 拭いきれぬ不快感に男は殺気をその背中へと寄越すが、それさえも可笑しいと体を揺らしながら、遂に妖怪は視界から消えていった。
 いつの間にかあの妖怪が発していた空気に呑まれていた。
 残っていた私兵は我を思い出し、急いで状況を報告していく。
 微細を漏らさず目に付いたもの、気付いた事を瞬時に述べる姿は流石に男の周囲を任されているだけの事はあるだろう。
 そして、慌しくなったその中心で男は一人、呟いた。


「……ああ、いいだろう。契約は守ってやるさ。私が発見すれば、な」


 誤魔化しきれぬ緊張と愉快さに男の体が震える。冷や汗とも脂汗ともつかぬ滴が頬を垂れて地面に落ちた。
 顔面を濡らす雫を拭う事も無く、男はその身に巣食う恐怖を押し潰して命令を下す。


「状況開始。散開しろ」


 男の命令に従い私兵隊は森の中に散って行く。その手に装備された弱さを武器にして。
 もともと男も彼らにはさほど期待しては居ない。幾ら強力な銃火器を手にしてようとも、七夜の脅威は誰よりも知っている男である。そのようなものが通用しない事ぐらい承知の上だった。
 故に彼らはあくまで囮。あわよくば後詰として残っていればそれで良し。


「ふん……」


 鼻を鳴らし、男もまた歩み始める。
 その脳裏には妖怪と交わした契約。道順を教える代わりに出された唯一の要求である。
 確かに妖怪は信用ならないが、その信用を自ら貶めるつもりはない。
 例え対象が粉微塵な肉体となっていても、ちゃんと確保はしてやる度量ぐらいは彼ももっていた。


 男は、遠野槙久は浅く笑った。見ようによっては引き攣った笑みである。


 数は揃えてある。古臭い通説を信じるつもりはないが、やはり殺し合いは数こそ全て。
 どれだけ相手の数があろうとも、まずこちらに負けはないと槙久はこの時点で確信していた。相手は天敵であるはずなのに、だ。
 そのための布石はすでに打たれている。
 武装兵力と単純な個人戦力。比較するのも莫迦らしいほどの兵器を男はわざわざ引き連れてきたのである。
 ここは存分に活躍してもらわなくてはならない。そのために温存してきたのだ。


 ――――鬼札。


 あれを表すならば、そう形容する他ない。
 存在そのものが出鱈目の規格生命であり、人知を超越したあれがいたからこそ遠野槙久は七夜襲撃に踏み込んだと言っても過言ではない。
 それほどまでの存在。理解するのも莫迦らしい怪物。
 次第に槙久の笑みが深く、凄絶になっていく。満願成就の夜なのだ。せめて楽しまなくてはならない。それほどの余裕がこちらにはある。


 所詮、鬼に敵うものなど、ありはしないのだ。

 □□□

「殺し合いは久しいな」
「確かにその通りでございますな」


 さながらこの場に居合わせながらどこか浮世にいるような心地で七夜黄理はひとりごちて、隣に随伴する翁が厳かに首肯する。
 周囲は慌しく外敵の襲撃に備えている。
 正体不明の敵から襲撃の報があって僅かばかり、皆は後続の戦力として保存に回して黄理は一人で外敵を切除する所存である。
 その身をいつしか着なくなっていた黒の仕事服で包み、当主として、あるいは殺し屋として名を馳せた過去に想いを重ねながら、里の広場に黄理は屹立していた。 ただ直立しているだけだというのに、それだけでも様になるのはこの男が醸しだす雰囲気がひとつの傑作として完成しているからだろう。
 その横に控える翁もまた常とした好々爺としての顔は隠れ、剣呑とした空気を滲ませながら黄理の傍にあった。
 翁の形相は歴戦の修羅場を潜り抜けた猛者の顔。黄理の隣にいても何ら不自然ではない。


「しかし、本当にお一人でよろしいのですかな」
「俺一人で十分な奴らなら他の連中は不要だ。違うか?」
「……まあ、確かにその通りでございますな。しかしその身はご当主の身。是非にご自愛してほしいものです」
「自愛、だと」


 隣で里を纏める相談役としての言葉を紡ぐ翁に顔を傾け、黄理は言う。その声音は冷たく引き攣ったような笑いを溢した。


「知らんな。てめえがやることはただ一つ。鏖殺するだけだ」


 否、声音だけではない。その眼差し、眼光、黄理を構成する何もかもが冷気を放っているように凍えている。
 それは充満する殺意。温もりなく、また心も無い殺人機械としての黄理の姿である。故に今この時には身内の事も忘れる。
 黄理に許された動作はただひとつ、敵を追い詰め、対象を殺し、七夜の脅威を排除する事に他ならない。


「思えば、防衛戦てのは初めてだな」
「そういえばそうですな。御館様の代におかれましては始めての事です」


 思い立ってみれば七夜黄理の場合暗殺が殆どであり、それは里以外での場所、つまり外部へ赴いての殺しが全てであった。
 こうして攻められる側、しかも守らなければならない里に襲撃者が来るなど黄理の記憶にはない。
 しかし、翁の言葉の言うとおりであるならば前代未聞の騒動ではないとのこと。


「つうことは何か? 前の代の頃にはあったのか」
「さあて、どうでしたかな。私の記憶には数回ほど外部から襲撃の憂き目にあった事もありますな」


 そうなのか、と黄理は呟いた後に、まあ確かにそうだろう、と納得した。何せ七夜の職業柄を敵は多い。
 これまで殺してきた者に組みする者の報復、あるいは七夜というブランドを打ち倒す事で名誉を手に入れようとする阿呆、もしくは七夜を恐れた者達が襲撃を企むなどありえなくは無い話ではない。
 故に七夜の森は黄理が凡そ知る以前から要塞化が進んでいたのだろう。森を網羅する罠の数に、今となっては動植物が襲う修羅の場だ。
 相当の幸運か、正規ルートを知る者でもいない限りは七夜の里に五体満足でたどり着ける者などそうそういない。
 で、あるならば此度の襲撃者は一体何者かと思案した所で、黄理はある話を思い立った。
 遠野が襲撃を企てている、と内密に教えてきたのは一体誰だったか。


「刀崎が敵方に周ったか?」
「……まずありえない話ではないでしょうな。しかし、彼らが相手方に周ったとして何を得ますか?」
「そこが解らねえ。奴らが敵に周る可能性は否定できねえが、メリットが見当たらない」


 確かに遠野分家の刀崎ならば宗主たる遠野の呼びかけに応じざるを得ない場合もあるだろう。
 しかし、正規ルートを教えてまで積極的に関わろうとする理由が不明瞭だ。
 真逆、七夜との縁を切られたのを逆恨みしたとは到底思えないし、棟梁の性格があれだ。まともに遠野に協力するとは思えない。
 そして協力しても積極的な姿勢を向けるような性分の持ち主ではない。あの老人は自分の享楽を至上とし、それ以外はどうでも良いと排するような腐った根性を持った男である。
 例え遠野に招来されようともまともに興味を傾けるとすら思えないほどに歪んだ性格なのだ。
 仕事柄嫌でも関わるざるを得なかった黄理でさえ辟易とするような妖怪なのだから、遠野に組みする意図が不明である。
 それに噂に聞く限りでは遠野槙久はかなりの神経質の持ち主。どう考えても二人が結びつくようには思えない。


「まあ、関係ねえだろ。刀崎だろうが遠野だろうが関係はない。やる事はただひとつだけだ。例えあの糞爺が敵にいようともだ、単なる気紛れだろうがな」


 曰く、七夜には鬼神がいる。心せよ、七夜を相手取るのはそれ相応の覚悟を持て。


 七夜黄理が現役時代に口ずさまれた文言である。
 上位種である混血を相手取り、数々の暗殺を達成してきた黄理の偉業を讃えながらも畏れた彼らがそう発言するのも無理からぬ話である。
 何故なら七夜黄理は今生において七夜の最高傑作とまで称された逸材。敗れることなぞまずなかったし、また依頼を達成できなかった事などありはしない。
 今回もまた同じような結果が生み出されるだけだ。屍を積み上げ、血溜まりを疾走する蜘蛛として活動するのみ。
 その手に握るは愛着すら抱いた鉄撥が二本。月光を浴びて冷たく輝く様はとてもではないが暗器として使用される一品とは思えない。
 けれども彼はこの武装を手に幾つもの死体を生み出してきたのである。そう思えば冷たさを放つ鉄撥の照り返しは血に餓えた獣の瞳のようでさえあった。


 そんな黄理を横目に見やり、翁は昔に戻ってきたと思った。
 ここ数年は当主としての仕事よりも子を持ち父としての顔を常に張りつけていたが、今の黄理は対象全てを殺害する一つの機械だ。
 父親としての側面はどこにもなく、あるのは如何にして対象を排除するかの算段のみ。その思考に温度はなく、その行動に油断はない。
 あの恐怖さえ覚える七夜の鬼神が戻りつつある、と翁は柄にもなく自分の血が滾っていくのを感じた。
 翁もまた年齢にとらわれる事無く黄理に追随しようとしているのだから、血には逆らえないといった所だろうか。


「まあ、折角遠路遥々やってきたんだ。盛大に歓迎してやろう」
「あい解り申した。及ばずながら私もお供いたします」
「勝手にしろ、物好きめ」


 はっ、と短く黄理は笑みを切った。


「そういえば志貴様はよろしいので?」
「女に任せてある。……まあ、もしかしたら家に残っていたほうが生きる確立は高いかもな」
「まるで負けるような物言いですな」


 思わぬ言葉に同じような笑みを浮かべて翁は茶々を入れた。ここら辺は普段と変わらぬやりとりに黄理はつい可笑しくなってほくそ笑む。


「言ってろ。……さて、忙しくなる。迎撃に出るぞ、殲滅する」
「委細承知」


 深々と頭を垂れる翁の声に反応する事無く、黄理は疾風の如き速度で駆け出す。と、その後姿に声をかける者があった。


「兄様っ!!!!」


 息を切らし走り寄ったは黄理の妹である。彼女は着流しが乱れている事すらも忘れ黄理を引き止めたのである。
 これを妙に思ったのは翁である。彼女は前線に出ることも、また殺す事も出来ぬ身の上。
 屋敷の中で待機しているようにと言われていたはずなのだが、それを省みずに黄理を止めたという事だろうか。
 それにしても彼女の様子は尋常ではない。
 息を整える事ができないのは全力で走ってきたからだろう。髪も、衣服も乱れた様はまるですぐでも伝えなければならぬかのような様子。
 同じことを思ったのだろう。黄理は踏み出しかけた足を止め、ゆるりと振り向いた。


「屋敷の中にいろ、といったはずだが? そんなに死にたいのか」


 実妹を見る黄理の目の色はひたすらに冷たい。
 人情など理解できぬ温度を漂わせる雰囲気と相まって、くだらない事を彼女が申せば妹であろうともその手にかけてしまいそうな獣性があった。
 しかし、黄理の視線に晒されても妹は怯む事無く、寧ろ切迫感を更に増してその言葉を口にした。


「兄様っ、朔の姿がどこにも見当たりませんッ!!」


 しん、と静まり返る里の中、彼女の声は悲鳴となって割れ響いた。

 □□□

 天上に吊り下げられた月の形は冷たい真ん丸。夜に一際輝く月光は、その者の歩みを止めることは無かった。
 あまりの美しさに言葉を失ってしまいそうなくらいに明るい月だというのに、である。
 本来、夜は魔の時刻。人間以外が堂々と跋扈する魑魅魍魎の世界。光の中に生きて文明を築き上げた生者では踏み入れる事の出来ない亡者の領域。
 そこにいたが最期の時。この世と今生の別れ。あの世への誘いは月光の役目である。


 ――――そうであるならば、自身もまた化生の類に違いは無い。


 言葉ではなく、思考としての感慨が浮かんで消える。
 森の中をただ一人闊歩する男もまた、誘蛾灯に引き寄せられる虫の如くに月の光も隔たる鬱蒼の森を進んでいく。
 その歩みを止めるものはいない。七夜の結界によって突然変異した動植物たちは統制すら取れぬ野生を持ちえた思考の群体である。
 本来であるならば森の中を極自然に歩む男は格好の餌食となるはずだった。しかし、依然として男の周囲には何も出現しない。
 生き物も、植物も同様にまるで男を恐れるように現われ出でなかった。
 故に黙々と歩む男の思考は内面に向けられる。未だ生物が見当たらぬのならば、それも致し方ないだろう。接敵の予感すらなければそれは尚更だ。


 ――――己が生に実感を得られない。


 呼吸をし、思考をし、肉体が活動をしているのは確かではあるが、なんと言うべきか、情熱を傾けるべきものが男には何もなかった。
 どのような芸術品にも心奪われる事は無かったし、また死の直面に出くわしてもこの一個の命の塊は動揺ひとつさえしなかった。あまつさえ反応すらしなかった。
 それが何故だか男には検討もつかない。うまれいずったその時には、男は男として存在していた。何者にも近寄らず、何者も近寄らせずに。
 強大すぎる生命力、濃すぎる血。
 まるで畏れるように人は周囲にいなかった。恐らく親と呼べる者もまた同じだった。
 彼の記憶では自分の目前に人の形をした生命が現われたのはただの一度きりである。それほどまでに男は孤独だった。
 何も理由が無かったわけではない。
 男は知らぬことだったが、男は一族の血を集結したような存在であり、そのあまりな結末に絶望した親族は誰も彼に近寄らなかったのである。
 そして遂には身内の手にかかる運命となった。彼の意見など――彼に意見、というか言葉などありはしないが――誰も求めはしなかった。

 だが、彼は死ななかった。米神に弾丸を撃ちつけられても、頭蓋を砕くどころか出血さえしなかったのである。驚嘆すべきは男の強靭な硬さだろう。
 音速を超えた速度で射出された鉄の塊に、彼の体は勝ったのである。まずもって人間には不可能な所業だ。
 そして男は死なず、生き延びて一族を滅ぼした。
 ただ感覚のままに、微弱な感性のままに振る舞い続け、気付けば焦土にも似た場所で彼は屹立していた。
 そこが元は人の住んでいた屋敷があったことなど誰もが思わぬほどの更地を生み出し、親族乃至両親を皆殺しにしたのである。
 そこに罪悪は無い。そも罪という概念が彼には解りかねる事だった。
 ただ存在する事が罪であるならば、果たして全生命に罪は存在しないのかという疑念故にではなく、単純に罪という概念そのものが彼の理解の果てにあった。
 けれど、疑問だけが残された。
 曖昧模糊の人生である。その人生の中で自身が生まれた意味とは何だったのか。その疑念だけが生まれ、残された。
 故に樹海の奥に生き、俗世を絶って修験者の如き生を送れども未だに答えまでは届かない。そもそも答えがあるのかさえ不明だ。
 何せ、彼はこれまで何かを手に入れるということをしてこなかったのだ。心の底から何かを欲した事など一度たりとて無い。
 ならば人の世から外れようとも解脱の境地には早々至れるはずもないのも至極当然だった。


 しかし、かつて一族を滅ぼした後、ある男と会い見え、この右目を潰された時、自身は何かを掴みかけた。
 もう随分と昔で記憶も朧である。
 しかしながら、あの時眼球を潰された感触、あるいはその痛みは今でも辛うじて覚えている。
 凡そ脈絡というものに縁のない生を送っていた彼にとって始めて起こった隆起がそれである。その痛みに、何かを見たような気がした。
 あれは一体なんだったのか。次ごう数年は経つが今でも解らない。
 それが解らず、だからこそここまで来た。
 話が来たのは偶々ではない。恐らく遠野の当主はこれだけが目的のために己を囲い匿ってきたのだろう。
 しかし、それに応えようなどという気骨は男には該当しない。男が出来る事はたった一つなのだから。
 故に当主の目論みは見当違いも甚だしいし、男の目論見と重なる事は決してない。


 果ても見えぬ深緑を彷徨う事僅か。悠々と歩いていればやがて辿りつくだろう、などという安直な思考の元に歩んでいた男は、ふと足を止めざるを得なかった。
 不自然な風が髪をそよがせる。強風とは言わないが猛烈な風の勢いが突如として男の体を包み、体が硬直した。
 それは殺気。生命が他生命を殺すための気概。それが質量を持って男たったひとりに向かって放たれていた。
 純然な殺気に森が泣いた。
 空気は軋み、周囲で虎視眈々と男を狙っていた突然の変異に生命は逃げ惑った。佇むのみの男にもそれが解る。
 とても人間の発する事の出来ない殺気に風景が歪んで見える。あるいは物の怪の類でも現われたかと、男が腰を落としたと時だった。――――眼前に子供が現われたのは。


 強大な殺気と共に現われたのは意外な事に小さな体の人間だった。
 藍色の着流しをはためかせ、その手に握るは小太刀。しかし、そのようなものは眼中にない。男が唯一興味を引かれたのは、その眼だった。
 茫洋な空洞を成した、まるで硝子のような瞳が男を映し出している。
 それは例えるならば闇。それは例えるならば鏡面。遍く全てを飲み込み、光さえも吸収する人形細工の瞳が子供の眼窩に嵌めこまれている。
 その体が呼吸をしていなければ式神の類と錯覚しただろうほどその子供には生命力がなく、あるのはただ膨大極まりない殺気と、幽鬼の如き気配のみ。
 まるで道先案内人のように唐突に現われた童は身動ぎ一つ、あるいは彼の存在に動揺すらすることなく、そこにいるのが当然であるかのように屹立していた。


「嗚――呼」


 言葉の変わりに零れる声音。ようやく待ち侘びた自分の役割を果たすときが来たのである。それに呼応するように子供の口元が微かに動くのが見えた。


「――――……ッ」


 ――――瞬間、森が絶叫を上げた。


 まるで爆発したかのように放出された殺気はそのまま形となって男の肉体を撫でた。
 あれほど小さな体格でありながらこれほどの殺気を内包しているとは、流石は七夜と言うべきかと、男以外の者ならば感嘆の言葉を漏らすであろう。
 それほどまでに子供の身から滲み出る強烈な殺意は鋭利かつ壮烈なものであった。
 しかし、それを受ける男もまた常人とは異なる。否、最早人とさえ異なるかもしれない。
 お前を殺す、今から殺してやると言外に叫ばれているはずなのに、そのようなものは瑣末に過ぎず、何処吹く風と言わんばかりに佇んでいる。
 常人であったならば、普通のただの人間であったならば肉体が生命活動を拒否して気絶するほどの殺気を受けても男は常と変わらずに在った。
 それだけで男がどれほど外れているかが解るだろう。
 だが男は、その男だけは対照に位置する子供の殺気にあてられて、脳裏に何かが煌き過ぎ去っていっただけだった。
 それは、かつて感じた事があるような気もする。懐かしささえ覚えているような気さえする。しかし、何も解らない。
 確信には程遠く、核心には少し触れた程度。記憶の中に残るあれに近しいような気がする。それとも遠いような気もする。

 だから――――。


「嗚――――呼――」


 言葉の変わりに呻き声とも取れぬ声音を溢し、男は、軋間紅摩は、一歩大地を踏み抜いた。真実へと触れるように。

 □□□

 何者かが七夜の森に侵入しているのに最も始めに気付いたのは離れにて休息していた朔であった。


 それは奇しくも七夜の大人たちが襲撃に気付く五分前程度の事。しかし、その五分の合間に朔は行動を開始した。
 深夜、時刻で言えば秒針は零時を指し示しているあたりだろう。
 疲労の蓄積された肉体を休めるためには睡眠が今選択できる行為で最も効率が良いが、睡眠欲もなく深い眠りにつくことの出来なかったが朔は庭先で地上を睥睨する満月を瞳に映し出していた。
 硝子のような瞳に今夜の満月の光は染み入る。まるで朔という個人に光が侵入して浄化させているような感覚さえ覚えていた頃の事だった。
 天上に居座る月を見ても感慨は浮かばない。
 俗に美しいだとか、神々しいだとか形容できそうなほどに見事な満月である事は認めるが、月は月だ。
 最早そのような自然に対し感情を抱くような無駄な機能を朔は停滞させていた。
 亡、と瞳は月を映し出している。しかし何も思わない。何も感じない。
 今この時、夜の月光に照らされても、朔にさしたる変化は見受けられなかった。
 常とは変わった行動もある一定の変化を肉体に促すやもしれぬと期待した故の行動だったが、それも徒労に終わろうとしていた。
 相変わらず五感は鋭いがそれ以外の機能は停滞の一途を辿っている。
 だからだろうか、最近あまり眠っていない。
 脳が活発に活動しすぎているのか、知覚できるもの全てに対してとても敏感であり、僅かな変化すら流す事が出来ない。
 以前の平時であるならばそれでも睡眠は可能であっただろうが、今となっては寝ようとさえ思えない。体が眠るという意志に上手く反応してくれないのだ。
 充分な休養を取らない肉体は疲労を蓄積させて精神さえも磨耗させる。
 だからだろう、月のもとに佇み亡羊に空を眺める朔の姿はこの世のものとは思えぬほどに儚い。
 いっそ月光に現われ出でた亡霊であると言われたほうが信じられただろう。


 そしてその時だった。朔はこの里で最も早く外敵の存在に気付けた。
 何者か、七夜以外の何かが森に近づいている感覚。七夜の森に展開する結界とほぼ同時の速さで朔はそれを感じ取れた。
 あるいは自我と言うものをとことん磨耗させ、自己を周りの自然と同等の位置にまで透過させた朔であったから、微かな変化に気付いたのかもしれない。
 それを証明するように、視界に変異が生じた。微かながらに靄のようなものが漂って見える。
 実像無きそれは一筋の糸となって様々な色を混ぜ合わせながら、森の向こう側から漂ってきていた。
 その中にただひとつ、紅い赤い朱い靄が波濤のように近づいてきている。
 気配は未だ遠い。この里にその靄を放つ存在が訪れるには未だ遥か先の場所。そこに何かが、いる。
 とても普通の言葉では表現できないような紅の靄はまるで明け方の日差しか、あるいは夏の日の蜃気楼。
 普通の人間ではまず気付けない、七夜の者ですら気付く事の出来ない極僅かな気配である。
 だが、それはあの時、正面から対峙した混血に感じた桁違いの化物の気配である事に朔は察知した。
 それが音となり、匂いとなり、そして視認できる形となって朔の五感に訴えかける。

 それはつまり、真性の人外がいるという事実に他ならない。


「――――」


 気付けば、朔は走り出していた。
 侵入者がやってくるという報告を誰かに伝えるのは念頭になかった。猛進する朔の思考回路は今や蜃気楼の他は瑣末事に成り果てている。
 誰かに訴えるなどと言う行動はまず思考に過ぎりすらしなかった。

 この気配、この匂い、この靄の濃さ。

 蜃気楼に近づけば近づくほどそれは濃厚となり、朔の体に直接化物の存在を知らしめる。
 里から速やかに離れ、森の中を縦横無尽に駆け回り、それでいて一直線に紅い靄の発信源の元へ走っていく。
 その行動に、あるいはこの靄に朔の内側が歓喜の産声をあげた。喜び勇んで魂からの咆哮を体に木霊させる。


 ――――殺す。殺す。殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス。


 思考は殺意に埋め尽くされていく。
 いつかの決定事項。殺せ、という矮小な命令ではなく、殺害の意思を強力に塗り固めた思考回路。
 あの時よりも、あの老人と会い見えたあの刹那よりもそれは強く、激しく、まるで直接脳を揺さぶるかのよう。
 だけど意識は次第に済んでいき、余分な物など何も無くなった。
 体感温度が消えた。あれほど寒々しかった冷気が肉体から隔離されたかのように消え去った。
 口内の感覚が消えた。最早自分が口を閉じているのかさえ定かではない。
 肉体にあった疲労がどうでもよくなった。蓄積された肉体疲労を投げやって、朔は進む。
 記憶が薄くなっていく。すでに自分自身という存在は思考の内側から消え去ろうとしていた。
 ――――しかし、朔という存在概念は朔自身の記憶が磨耗使用とも決して消えたりはしない。
 脳内に反芻される殺人手順。どのように動けば意表をつくことが出来るかの可動確認。そして、気付けば開けた広場に出て、そいつを眼にした。


 頑健な肉体の男である。
 体を締め付けるような胴衣を身に纏い、それでもなお筋骨隆々とした筋肉は紛れようも無く浮き彫りにされていた。
 そして左目だけ覗く修羅のような形相と相まって、まるで破戒僧のような印象があった。
 だが、それ以上に男の発する気配の何たる。男が無自覚に発する存在感に朔は自身の死を幻視した。
 気配が物量でもって朔を圧死させようとする。気を抜けば忽ち体がぺしゃんこになるような重圧が男から放たれていた。
 そして最も朔を魅了させたのは男が無意識に放出させているであろう蜃気楼であった。
 紅い靄はまるで霧雨のように周囲を覆いつくし、一種の結界のよう。それこそ朔が感じ取った気配の正体であった。


 もし、朔の中に理性や本能と言うような珠玉全うな感覚があれば、目の前の怪物に怖じて震え、そして自身を奮わせただろう。
 これと対峙した自分こそがこいつを倒すのだと気合を入れたのかもしれない。
 しかし朔にはそれがない。興奮もなければ覇気もない。あるのは純粋で混じり気のない殺意。ただそれのみに尽きる。
 この気配。この独特な重圧は間違いなく混血の気配であった。
 あの日対峙した化物の気配、それもあの老人よりもなお濃厚な気配である。まずもってあの老人以上の戦闘力乃至能力を秘めているに違いない。
 しかし、朔がやることなど、決して変わりはしない。
 例え目の前に佇む怪物が朔の手には負えぬ規格外の生命だとしても朔が行える手段はたったひとつ。
 いつだって朔はそれだけのために存在し続け、養育されてきたのだ。
 ならば今こそが、その時ではないだろうか。

 そうだ、朔はいつだってそうだった。


「殺すだけ」


 そっと、久しぶりに咽喉を介して音を漏らした。しかし、それは声にもならぬ音でしかなかった。
 いつぞや以来か、このように言葉を発するなど。
 咽喉は発声器官としての役目を忘れ、ただ呼吸を行うための機関に成り下がっていたのである。故にその声は掠れ、相手には届かない。
 だからこの言葉は自分自身に向けられた言葉。暗示そのもの。
 肉体の昂ぶりが抑えきれない。体は今すぐにでも眼の前の生命を殺そうと声をあげている。血管を流れる血が沸騰して、今にも破裂してしまいそうだ。
 最早、姿勢に意味は無い。立ち居振る舞いは全て真っ直ぐに男の命へと向かうだけだ。


「嗚――――呼――」


 目前の男がなにやら呻き声を漏らしている。その様はまるで知能を持たぬ動物のよう。
 だが朔の耳に届きはしない。


 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。
 コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスころすころす――――!!


 脳内に反響する殺意はもう呪詛のような衝動と化した。とても男の言葉などに耳を傾ける余裕があるはずもない。
 体は疾うに殺害を行使するだけの機関に成り果てた。
 視界は紅赤朱の蜃気楼。靄。鬱陶しいにもほどがあるが、その霧雨の中で男の存在だけがはっきりと認識できた。
 そして、それ以外に考慮する事さえも忘れ、男の獰猛な踏み込みを契機に朔はその場から掻き消えた。
 七夜の技術は必殺。それ故に小手調べを必要としない。殺害可能な時に殺すのである。
 人体破壊術はあくまでそのための布石に過ぎない。肝心なのは対象の生命を一撃で絶つこと。
 更にここは七夜の森。朔が慣れ親しんだ七夜の領域である。
 どうやらいつもなら邪魔でしかない動植物も今回は静観を決めている様子。ならば余計な邪魔が入る事もないだろう。
 動かないのであるならば、それらは全て障害物となる。本来であるならば視界を狭め行動を制限させるしかないそれらを七夜は覆す。
 腕を脚を巧みに扱い使用し三次元移動を可能とする七夜の空間利用術は、本来障害物が多い場所での行使が望まれる。
 ならば、この森はその絶好の場所に他ならない。
 地を、樹木を、枝を足場にして滑空する様は正に獲物を追い詰める蜘蛛。対象は幾ら動こうとも中心に封じられ、後は食い殺されるのみ。
 森の中を縦横無尽に翔ける。地上に降り立ったと思えば上空に身を翻し、木にすぐさま着地する事で正確な目視を許さない速度を生み出す。
 目まぐるしい動きに男はまず間違いなく追いついてはこれない。


 そして狙うは背面。目標は男の分厚い背中。やや左側に収められて脈動している心臓。そこを一息に貫く――――!


 目的はつけた。算段も完了している。ならば後は穿つのみ。
 弾丸めいた疾さが空気を突破する。
 朔はより速くなる。あの老人との対峙時よりも、黄理との鍛錬時よりも更に速く風を両断して、真っ直ぐに男の心臓へ向かう。
 加速はすでに最速。これ以上ないほどの速さで踏み込み、距離を一息で詰める。
 幸い男は未だ反応できていない。もしこのタイミングで反応できたとしても、その時はすでに心臓を貫かれている正に絶好の機会。
 一秒にも満たぬ刹那に握られた小太刀は命を穿つ。

 それがきっと、朔の始めての殺人となる。

 感慨は浮かばない。思想は生まれない。
 今ここにいるのは殺意以外の感情を持たない殺人人形なのだ。何ゆえに殺す目的以外の事を想わなければならないのか。故に、今この時こそ朔の満願成就。

 朔の生まれ出でた意味を貫くのみ。――――と、肉に小太刀が食い込んだところで、ガキンと甲高い金属の悲鳴が聞こえた。


「――――ッ?」


 一瞬、朔には何が起こったのか理解できなかった。
 だってそうだろう。小太刀の切っ先は朔の最高速度、最高のタイミングで込められた膂力、そして全体重を一致させて男の背中に突き立てられた。
 突き立てられたはずなのだ。
 しかし、目の前にあるのは何だ。即ち刃は肉の中に入り込まず、それどころか皮膚を切り裂いてさえいない。
 肉を突き破り、骨を砕いて心臓を貫く威力を秘めた朔の一撃が、まさか傷一つさえ負わせられないなどと想像だにしなかった。どれほど鍛えられた筋肉なのか。
 否、例え想像を絶する鍛錬によって鍛えられた筋肉であろうとも刃には劣る。小太刀が通らない理由にはならない。
 ならば、背中に何かを仕込んでいるのか。だが、そのようには窺えない。男の胴衣は薄手であり、とてもではないが特殊な線維を使用したとは思えぬ。
 ならば体の中に直接仕込んだのか。それでも皮膚は破れてもおかしくはないはず。
 それに、小太刀を突き立てた朔の手には確かに人間の肉の感触があったのだ。
 だが、それは一瞬に過ぎなかっただろう。
 朔の手には、まるで刹那のうちに男の肉体が鉄塊と化したかのような――――。


「嗚――呼――ッ」


 どのような原理かは不明であるが思考の海に潜っている暇はない。
 男が振り向き様に拳を振り被っていた。あれほどの筋肉である。その破壊力は想像も出来ない。故にここは回避運動を取るのが最良だろう。

 だけど、その刹那の事である。

 威圧感を放ち、うなりをあげる拳が一瞬だけ巨大化したかのような錯覚を覚えた。
 それを寸での所で身を屈ませて回避する。頭上を通過した拳に背筋が嫌な感覚を舐めた。まるで小さくされた嵐がこの体の傍を通り過ぎたかのような悪寒。
 これを最小限の動きでいなし、防ごうとした時、何かが起きるであろう予感が脳裏に過ぎった。


 最小限の動きながらも視界から消え去った朔に対し、男の拳は止まらない。
 豪、と音をたてて突き放たれた握り拳は推進力を持ち、男の踏み込みと相まって決して細くはない樹木に叩きつけられる。否、突き刺さる。
 そして拳に込められた破壊力に耐え切れなかった木が、爆ぜた。木片を散らばせ、そのまま反対側へと突き抜けた拳が通り過ぎたその箇所は粉砕され、そこを起点にゆっくりと、みしみしと悲鳴をあげながら圧し折れ倒れていった。


 呆然とするのは朔の番である。幾ら鍛えられた拳とは言え太い幹を粉砕するどころか、あまつさえ貫くなど到底出来ぬ芸当である。
 あの黄理でさえもそれは不可能だ。それをこの男はまるで綿菓子に腕を突っ込むような軽やかさで成した。
 一体どんな腕力をしているのか。それもこの男の、混血の能力だと言うのか。
 明らかにこの混血はあの老人と違う。直感的に朔は悟る。
 この剛力を成す、破壊の権化のような男はあの老人とは根本的に、もっと基底の部分で異なる真性の怪物なのだと。


 朔の理解は正しい。
 刀崎梟は刀崎の棟梁として一族を纏める立場にある混血であるが、混血としての強さはこの混血とは比較にならぬほど微弱である。
 寧ろ比較対象として刀崎梟を上げるほうが憐れだ。何せ目前に存在する混血はその血の濃さ故に一族から見放され、遂には一族諸共滅ぼした男なのである。
 確かに強力な混血は様々な形で存在する。それでもこの男ほど規格外ではない。
 濃縮された血の極みの果てに男は生まれた。ならば、その他の混血と比べる事さえおこがましい理解ではないだろうか。
 更に朔はここに来てひとつの勘違いを思い知らされた。
 七夜が敵対する混血はある一定の程度はあれ、さほど強力な存在ではないのではないのか、と。
 それも致し方ない事ではある。何せ、朔がこれまで対峙した魔は混血としては微弱の地位に部類される刀崎梟のみであって、その他の混血を知らなかった。
 知識としては多種多様な混血が存在すると朔は知っていたが、理解にまでは至っていなかったのである。
 別に朔が慢心をしていたわけではない。朔は確かに勉学に関しては勤勉な態度を見せはしなかったが、知識を凌駕するほどの経験を常にしてきた。
 黄理との鍛錬には必ずや朔の思惑を通り越す何かが生じる。その経験を糧とし、吟味し舐りつくして朔はその経験を己が力量として加えてきた。
 故に敵対者である混血に対し、朔は決して驕るような性格をしてはいないのだ。


 では何故、ここに来て朔の思考が一時的にも停止したのか。それは簡単だ。
 朔は混血という存在はすべからずあのような存在であるという認識、あるいは思い込むが自然と行われていたのである。
 あの時対峙した混血は抹殺対象であり、決してこちらに牙をむくような敵ではなかった。敵対するような素振りさえ見せなかったのである。
 だからこそ、思い込みが固定されていた。


 そのような思い込みなど、この男、軋間紅摩相手には、あまりに無為だというのに。


 そして、男は驚嘆の念を禁じえなかった朔に対し、ゆっくりと腕を引き抜きながら振り向く。
 ミキリ、と歪な音をたてて樹木が倒れ伏す。
 垂れ下がった髪の毛の隙間から露わとなるその形相は。


 まるで、鬼のようだった。


――――ここはどこぞ。もし悪鬼と会わば。
ここは地獄ぞ。奈落の底よ――――。





 七夜朔 対 軋間紅摩
 状況開始




 あとがき、らしきもの。
 始めて後書き、のようなものを書かせていただきます。始めましての方は始めまして、そうでない方は日頃からご愛読感謝いたします。にじふぁんから移転して参りました、六でございます。皆様以後お見知りおきを。さて、今回のお話をお読みになった皆様も当然のように疑問を抱いている方もいらっしゃいますでしょうが、今回の説明、と言いますか、言い訳をさせていただきます。何故朔が黄理よりも先に軋間紅摩と戦闘になったのか、についてです。皆様もご存知かと思われますが、七夜黄理対軋間紅摩は月姫における最大の見せ場と言っても過言ではないほど熱い場面です。では、何故その場面ではなく黄理の代わりに朔が軋間紅摩と戦っているのかですが。ぶっちゃけていいますとそれ以外で朔が生き残れる道が他に想像できなかったからです。そのために自分から最大死亡フラグに立ち向かっちゃう朔ちゃん、まじ自殺志願。と、ここまで書いていて理解した方もいらっしゃるでしょうが、朔は基本的に危険を顧みずに敵へと突っ込む単純莫迦です。もし本編でアルクェイドと出会った場合、弱体化する前に襲い掛かっちゃうほど単純な思考回路をしています。なので今回軋間紅摩が来た→よし、殺ろうか、などというトンデモナ結果となってしまいました。理性ある生命は普通自ら危険に飛び込む真似しないのに、どうしてこんな事になったのか六でも解りませんwww

 


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