咽喉へ迫る銀の斬撃は、冬に照らす月光のように冷たく輝いていた。
空気を薄く切り裂いて袈裟に振り被られた小太刀の刃は、あまりに速過ぎて刃の形が目視できなかった。
線の軌道は鋼色を伸ばし断頭を狙いに来る。
それを寸での所、頭部を傾けることでかわすが、首の薄皮一枚をもっていかれた。
僅かな痛みを無視している間に遅れた黒髪が数本散り、相手の鋭い眼差しに翳りをもたらした。
しかし、相手はそのような僅かな支障を障害とせず、せせら笑うかのように返しの一撃を揮う。
握る腕に捻りも加わり、切っ先は肉を抉ろうと呻りを上げた。
どの角度から小太刀が襲い掛かるのか判断できない。
しかしそんな思考は無視されて、無慈悲に煌く刃が殺しに迫る――――。
全身が警鐘を打ち鳴らす。
――――ぞわり、と。
背筋を戦慄が舐めた。
横から脳を穿つ閃光。
それを万全の体勢で迎え撃つ事は出来ず、回避する事も出来ない。
自身を震わす戦慄と風を突破する刃の音に、真横へと刃を回した。
正確な位置も把握できない勘による判断だった。
右手に握る小太刀の腹で受け流そうと、腕では事足りない衝撃を耐えるべく左手の掌を添えた。
滑る刃に撃たれた瞬間、骨が響いた。
ぐらつく。
脳まで震えるその衝撃に抑え切れず足元が浮ついたが、それを好機と、重心を後方へとずらし、地面を叩く。
結果、追撃の小太刀を回避。
開いた彼我の距離は十五メートルもない。
対する相手ならば一足で突き詰められる距離でしかないだろう。
その時になって、ようやく呼吸を行う。
刹那の交差は瞬きも許さず、呼吸を忘れさせた。酸素が足りない。
意識が揺れている。
肺一杯に吸い込んだ呼吸。
荒れる息遣いに、肩で息をする。
思考が雑だ。何を考えているのか定かではない。
酸素が足りず、痛む肺を堪えて呼吸を果たそうと口を開く。
だがそのような事、相手が、七夜黄理が許すはずが無かった。
息を吸い込んだ瞬間を狙い澄まし、黄理は彼我の距離を一息もつかせずに詰めてくる。
揺れる視界。突風のように走駆してくる。
瞬きの内に、黄理は眼前に迫っていた。
研ぎ澄まされた抜き身の刃の気配。
切っ先を思わす鋭い視線を象るそれは、獲物を狙う猛禽のそれである。
男は冷たい殺意を滲ませて、小太刀を真っ直ぐ心臓の位置へと向けてきていた。
――――嗚呼、あまりに疾い。
思考は最早役に立っていない。
感慨だけが浮かんでは消える。
幾度と無く繰り返された切り結びは優勢とはあまりに遠い状況にあった。
劣勢以外の言葉さえも見つからぬ、厳しい現状だった。
高められた錬度が違う。鍛えられた密度が違う。
七夜黄理が修める技量の底は見据える事も出来ず、こちらが拵えた稚拙な攻勢は幼子をあやす子守のようにあしらわれ、転ばされ、飛ばされた。
それは自身が子供という事もある。
成長過渡期にある未成熟な肉体では、完成された大人の圧力と拮抗できない。
あまりに体重が軽いのだ。攻撃は通らず、防御は果たせず。
自身の現状は把握している。
既に追い縋るだけで精一杯だ。
着流しには泥がついて、転んだ拍子に出来た擦り傷や、打ち込まれて回避できず打ち身も到る所にある。
小太刀を握る手には力も入らなくなってきている。酸素も足りず肺が痛い。
しかし、相手はどうだ。
無傷で、疲労もない。まるで変化がない。
両者の力量は歴然と横たわっている。
それはそうだ。
その様な事、全て承知していた。
――――迫る、刃。
腕を伸ばせば届く距離に黄理はいた。
黄理の構える刃はぶれることなく、明確な死を突きつけていた。
死神の刺突である。死神から逃れる術などない。
では、死神に対してどうする。
このままあっけなく倒れるか。それとも――――。
「――――っ」
肉体は容赦なく反応を示す。躍動を始める筋肉が血管を圧縮する。
それは、敗北を喫しようとする者の最後ではない。
瞬時、風が轟く。
爪先が思考を超えて、関節の稼動を果たした。
心臓へと突き刺さるはずだった小太刀の揮いを屈み込んでかわしていく。
頭上に残酷な刃の輝きと、無機質な男の瞳が過ぎる。
体勢は低い。
四肢は土をなぞり、地面を這うような姿勢と化した。
蟲の如きその姿に黄理は右手に握る小太刀を指の動きのみで逆手へと組み換えて、背面へと突き立てんと振り下ろし。
――――その眼球を、小太刀が捉えた。
「――――」
肉体が限界まで高められた速度で腰元から捻られ、地を這う姿勢から回転を果たす。
その胴は天へと向けられ、連動する腕は躊躇い無く小太刀を射出した。
彼我の距離は言うまでも無く超近接。
心臓の鼓動まで伝わりそうな間隙。
こんな距離で、こんな合間で己の武器を投擲する。
それを無謀と嘲う者はここにはいない。
ただ結果だけが巻き起こる。
飛来する刃を黄理は回避ではなく、小太刀によって打ち払う。
甲高い鋼の悲鳴。
襲撃した刃は弾かれた。
企みが失敗したのではない。
むしろこれこそ――――。
左腕が地面を叩きつける。
指先まで込められた力が強引に身体を起き上がらせ、無理矢理右足を動かして地面に突き立てた。
嫌な音を立てて筋肉繊維が膨れ上がる。
数本の筋肉がぷつんと音をたてて断絶した。
その痛みを無視して、奥歯を噛み締めた。
すると、どうだ。
――――黄理の顔が、最早目の前にある。
推進力は上へと立ち上る。
全身は押し込められたバネ仕掛けだった。
緊張を保つスプリングは螺旋を描いて解放を喜び、右腕は振り上げられた。
勢いのままに振りぬかれる腕は真っ直ぐに黄理へと突き刺さるために、駆動を果たす。
黄理の小太刀は遠い。
迫る身体に突き刺すには、遡る右腕と比べればあまりに遅い。
頭蓋を破壊し、脳をぶちまける膂力が込められた一撃。
拳の形は掌底。顎を打ち砕く威力を余すことなく一点へ。
それが真っ直ぐに肉体へと突き刺さり。
――――不可視の衝撃が米神を撃ち抜いた。
□□□
不意に、目が覚めた。
乾いた土の固い感触が背中にあり、どうやら自分は倒れているのだと気付く。
そのまま倒れているわけにはいかぬと朧に起き上がろうとするが、なぜか身体に力が入らない。
これは、一体なんだろう。
何故自分は立ち上がることが出来ないのだ。
肉体は立ち上がろうとしているのに、どうにもまともに動いてくれない。
「起きたか」
不可思議な現象に暫し時を置いていると、その頭上から無遠慮な声音が降り注いだ。
聞き間違える事のない、朔と名を呼ばれた子供には特別な響きを放つ声だった。
「御館様」
力も無く横たわり、起き上がる気力も揮わないまま。
朔は頭部を覗き込むような位置に佇む男、七夜黄理を朔は見上げた。
そして、自分が負けたことを朔は悟った。
「負けました」
「そうだな」
にべもなく返答する相手に対し、己は声が少し変だった。
そして今しがたになり咽喉が渇いているのだと朔は気付いた。
「どうして」
「小太刀を弾いたが、そのまま捻って左手に持ち替えた」
そして柄で打ったのだと、黄理は静謐に言った。
確かに、あのまま右手に小太刀を構えていたら迎撃は叶わなかった。
それゆえ振りぬかれた右腕を背面へと勢いのままに運び、そこで右手に持ち替えたのだと言う。
それを安易に言葉にするが、それがどれほどの技量であるか。
瞬時の判断、実際に行える技巧。
どれもが並みの妙技ではない。
だが、ああ、そうかと納得してしまうのはこの男の実力ゆえだった。
七夜黄理。
殺人機械、鬼神、殺人鬼。
幾つもの仇名を冠された退魔一族七夜の現当主。
目の前にいる男はひたすらに強く、その差は目に届かないほどにある。
朔など歯牙にもかけぬ遥か高みに存し、手加減されて尚勝てない。
本来、七夜黄理の得物は小太刀ではない。
黄理自身の得物はもっと別のものにある。
それでいて今回の組み手では黄理は小太刀以外を使用しないという枷まで課していた。
つまり、五体を攻勢に用いず小太刀のみで朔の組み手を受け持ったのである。
にも関わらず、無様にもこうして倒れ伏している。
いや、そのような枷があっても朔では黄理には未だ届かないだろう。
どれだけ幸運が巡り、例え目前の男が組み手最中にすっころんだと言うありえないような事態が起ころうとも。
朔は黄理に勝てる映像が浮かんでこない。
つまり、七夜黄理はそういう存在だった。
挑むのも無謀な果て無き極地を闊歩する鬼神である。
核が違う、そもそも立っている場所が違う、次元が違う。
勝つ事も、越える事も叶わぬ七夜最強の男である。
だが、それがわかっていても――――朔は。
「次を」
「あ?」
七夜黄理の背中を朔は追い続けるのみである。
「次をお願いします」
「……てめえ一人に構える時間はもう無い」
にべも無く、切って捨てられた。いっそ冷徹とさえ形容しても良い。
しかしそれもそうか、と朔は思う。
朔の志願を受け入れる理由が黄理にはないのだ。
元より、朔が黄理の薫陶を受ける事それがあまり好ましい事実ではないのだ。
早朝から行われる訓練において組み手は、冷めた熱を帯びて次第に殺し合いへと昇華し、今では正午になっていた。
黄理との訓練に於いて気を抜けばあっさり死体と化す。
それは訓練とは呼べぬ濃密な本番であった。
事実これまで行われた組み手で朔は死にそうな目に幾度と無くあっている。
瞬時の判断を誤り咽喉を潰され、骨を折られ、肉を裂かれた。
意識を奪われる事などざらで、黄理の訓練はいつも苦痛を伴っている。
しかし、これほどまでに充足される瞬間を朔は知らない。
黄理の意識が朔を打倒する事、それのみにしか注がれぬ時間。
僅かな時間ではある。けれど、朔はこの時間を好いていた。
例え、黄理が自ら望んで朔を受け持っていなくてもだ。
故に時がどれほど流れても全く気付かないのだ。
時間は訓練終了の時間である正午へと辿り着いたのだろう。
気付けば黄理はその場から立ち去ろうとしていた。
倒れ伏し、脳を揺らされた朔を介抱する気なぞないのだろう。
朔もそれを望んでいないのだから構わないが。
「……―――さーん!」
すると、遠くから声が聞こえてきた。
それと同時に地面へと接触する朔の背に規則的な振動が伝わり、近づいてくる人間の気配があった。
「父さーーーーーーーーーん!」
幼い子犬を思わす、子供の声。
声が聞こえる方角へ首を傾けると訓練場に一人の子供。
それも朔とそう歳の変わらなさそうな男の子の姿があった。
子供は元気良く腕を振り回して黄理へと駆け寄っていく。
あの子供こそ、黄理の息子である七夜志貴だった。
そして、朔は見た。
「志貴」
それまで無機質めいた男の姿に、確かな温度が生まれた瞬間を。
視線を僅かに緩ませて、黄理は志貴を迎える。
そのぬくもりは、朔には向けられる事のない温度だった。
七夜朔は七夜黄理の子ではない。
身内殺しを行った黄理の兄の子供である。
身内殺しは一族に於いて禁忌でしかなく、兄は朔が生まれた瞬間にはこの世には命を散らしたのである。
目前にいる黄理の手によって。
母と呼ばれる人物も出産に伴って亡くなっている事から、朔に対し黄理は温度を生み出さない。
それもそうだろう、と朔は思う。
禁忌を犯した者の子に対し、何を傾ければいいのか。
それゆえ、この自身の待遇は恵まれたものであった。
少なくとも朔は冷遇されても可笑しくは無い状況にある。
それでも朔がこうやって生きているのは、朔を黄理が引き取ったからに他ならない。
ただ、それをどうこう思う感慨を朔はまるで抱いていない事が問題であった。
視線の向こうで黄理と志貴はなにやら楽しげに会話をしている。
何を話しているのかまでは把握も出来ず興味もなかったが、それでも視線を外す事はなかった。
出来なかった。
そうしているうちに、黄理の子供である志貴がちらちらと視線を寄越してくるのがわかった。
好奇心だろう。隔絶された扱いを受ける朔に興味を抱いたのかもしれない。
しかし、そんな納得をする朔だからだろう。
志貴の表情が心配そうな影を差し込んでいるのが理解できなかった。
確かに、起き上がらぬ人間がじっと見てくるのは気分を害するだろうと、朔は視線を外した。
そして空を見た。
鬱蒼と茂る森の合間から差し込む太陽が眩しい。
それを、無機質な瞳で眺め続けていた。
□□□
人里を遠く離れた太古の森。退魔一族七夜が根城、通称七夜の里。
侵入者を防ぐ結界によって保たれた、七夜たちの住処である。
森の周囲に施術された結界には、一般に生きる人間にはそこにあるのに認識できない暗示がかけられる仕組みとなっている。
更には敷地内を多い尽す罠の総数は里の者の認識を凌駕していた。
つまり、この森に入るのは必然的に裏の人間ということになる。
七夜のほとんどはここで生まれ、ここで育ち、そしてここではないどこかで死ぬ。
生業が生業なだけに、七夜の者は布団で死ぬ者が多くない。
見守られながら死ねるなぞ、皆無と言ってもよい。
混血への暗殺を主とする仕事上、どうしても生還できない者はいる。
血なまぐさい世界の住人たる運命だろう。
人としての形のまま死にゆく者は稀で、任務に失敗する=死という図式が当たり前のように出来上がったこの世界では、そのようなものも珍しくなかった。
まだ古い時代の話だ。
使い捨ての超能力者の血を長らえさすことに成功させた七夜は、近親相姦を重ねることでその血を保ち、それと同時に暗殺の術をひたすらに研鑽することで、退魔組織七夜と名乗るに到った。
しかし、七夜はあくまで人間である。
どれだけ人間としての限界を極め、また突破し人外の力を得てもなお、七夜は人間だった。
それゆえ魔のモノたちとはもともと相性が悪く、専ら混血専門の暗殺を担ってきた。
七夜の里。
危険な仕事を生業とする一族の最後の安息地でもある。
そんな七夜の里の奥。
木製の小さな屋敷が点在する空間で一際大きい造りをした屋敷のなか、一人の男が唸り声を上げていた。
場所は囲炉裏の間。
機能していない囲炉裏のそば。
そこには鋭いのだか鈍いのだかよく分からない雰囲気を放ちながら、苦悶の表情を浮かべる男が胡坐をかいて座っている。
男の名は七夜黄理。
七夜一族の現当主である。
黄理は七夜でも最強と謳われた男であり、混血の者たちからは鬼神と呼び恐れられた存在である。
ただひたすらに人体の活動停止の術のみを磨き上げた黄理は、かつて殺人機械として何の感慨も何の感情もなく殺戮を重ね続け、今では名を呼ぶことも憚れる存在と成り果てている。
それは前線から退いた今でも変わらず、練り上げた暗殺術はなお健在。
鬼神の名を欲しいままにした最強はいまだ最強だった。
そんな男が今表情を歪ませ、腕を組んで思考を巡らし、ある問題を解決しようとしていた。
ことの発端は五年前。
男に息子が生まれたことにある。
跡継ぎの問題のためだけにもうけた息子の名は七夜志貴という。
七夜の一族は生業上早くに子供をもうけ鍛えられるのが望まれている。
それはいつ死ぬかも判らぬ退魔業。
次の世代を残すのはとても重要なことだからだ。
ゆえに黄理もそれに習い、子をもうけた。
確かに七夜の里には他にも子はいた。
極めて幼少の頃から七夜として鍛えられたそのなかには、すでに頭角を現し、他の子とは比べ物にならない才をもった子も現われている。
七夜の当主に求められるのは最強の人間である。
それは現当主である黄理の血を引いていようがいまいが一切関係ない。
七夜には世襲制など存在しないのだ。
純粋に七夜を引っ張るに相応しい存在が求められているのである。
ならば競争相手は多いほうが良い。
互いに意識しあうことで更なる高みに進む者もいるだろう。そういうわけで黄理も子をもうけたのだが。
殺人機械と化して感慨もなく人体を解体し、鬼神として呼び恐れられた殺人鬼七夜黄理。
自分の血をひいた子供がひたすらに可愛くて仕方がない。
いや、確かに里には子が何人もいるし、ある事情から黄理は以前から一人の子を育成している。
だがその子には何も感じることなく、ただ作業として面倒を見ていたに過ぎない、と思う。
そして黄理は鬼神と呼ばれた殺人鬼。
殺人機械。老若男女容赦なく殺害してきた。
呪詛を吐き出す老人を殺し、絶望に力を失った若人を殺し、自暴自棄となって向かってきた男を殺し、慈悲を乞うた女を殺した。
無論、そこに子供の姿もあった。
なにがなんだかわからず、ただ恐怖に泣き叫ぶ子供を何の躊躇いもなく殺した。
殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けて。
肉と中身の混ざり合った血だまりのなかを、無機質に泰然と立ち尽くす殺人鬼。
迷いなく、惑いなく、躊躇なく、容赦なく 慈悲なく、恐怖もなく殺す鬼神。
七夜黄理という人間は積み上げられた屍の上に出来上がっている。
だと言うのに、だと言うのにである。
生まれた志貴はやたらに可愛く、そして愛おしかったのだった。
それからの黄理は変わった。
それまでの憑き物が落ちた黄理の姿は豹変と言ってもいいだろう。
「志貴がいるのに危ないこと出来るか!!!!」
と一族ごと退魔組織を抜け出し、
「志貴を危ない目に合わせる気かこの■■■■(聞くに堪えない罵詈雑言)!!」
と叫んで里の結界の強化を開始。
本来ではありえないが外の魔術師を招いて結界の強化を重ねに重ね。
今となっては魔の存在が近づくだけで森の植物が襲いだすというとんでもな自然要塞と化している。
これ腑海林じゃね?と思った七夜がちらほら。
当主の変貌っぷりに頭を痛めた七夜が続出。
そんな彼らの目の前で当主は結界を合作した魔術師と共に、にやりとニヒルな笑みを浮かべた。
その姿を見て全員が思った。
「「「(だめだ、この当主はやく何とかしないと……っ!)」」」
とにかく黄理は何でもやった。
その姿はまさしく子煩悩な父親である。
息子のために何でも行う姿は正に世の父親の鏡とも言えるだろう。
ただもう少し周りのことも考えて欲しいとは一族の言。
そりゃ結界の影響で森の動植物たちが突然変異を起こしたとあっては笑えない。
実際ある者は二足歩行のキノコを目撃している。
生憎と最近は目撃情報はないが、証言によれば空中を漂いながら横回転するそうだ。
それはともかく志貴が可愛くて仕方ない黄理だが、それと同時にあるひとつの悩みも抱えることとなった。
「翁」
「なんでございましょうか御館様」
すっと、音もなくいつの間にか囲炉裏の対面に男が現われた。
初老の男である。
頑健とした身体を黒装束で包み、掘り深く顔に刻まれた皺がひび割れた大地を思い起こさせる男だった。
翁と呼ばれたこの男。
その役割は一族のご意見番であり、黄理が誕生する以前から七夜の当主に尽くした古参の男である。
年老い、七夜としての力も衰えているが、長年培われた経験と、幾つもの修羅場を乗り越えてきたその度量は貴重であり、今では黄理の相談役としての顔を持っていた。
しかし見かけはただの好々爺にしか見えない。
「……あいつは、どうしている」
「朔さまは現在里のものによって離れに移されております。私が見たところなかなかに疲労が溜まっているではないかと」
「……ああ」
そうか、と黄理はため息を漏らした。
黄理が抱えている問題。
それは現在黄理が育てている七夜朔にある。
いや育てていると言うにはは語弊が生じる。
黄理は朔を引き取っているだけだ。世話もしていない。
七夜朔。
身内殺しを行った黄理の兄の息子。
七年前に自分が預かった子。
その存在は別に問題ではなかった。
狂ってしまった男の息子ではあったが、当主が名目上預かる事となったため混乱は起きず、表面上は一応問題なかった。
朔と名づけたあの時。
夜を終わらす朝焼けのなか、黄理は笑みを浮かべた。
殺人機械だった男が笑みを浮かべたのである。
自分はなぜあの時笑ったのか。
志貴が生まれるまで、結局それがなぜなのかわからなかった。
しかし今ではなんとなく分かっている。
それは志貴が生まれて始めて気付いた。
志貴と名づけたのも、朔に似せようと思ったり思わなかったり。
ただ、それに気付くのが、あまりに遅すぎた。
「御館様も気になるならば自分で行けばよろしいでしょうに」
呆れながらも微笑み翁は言う。
しかし、それが出来ないから黄理は困っているのである。
預かっているとはいったが、黄理と朔は同じ住居で生活していない。
この屋敷の離れ、小さく、隔絶されたようなその建物の中で朔はひとり生活している。
あの頃、情もなかった黄理は屋敷の離れに朔を放り込み、世話の一切を妹に任せていた。
志貴が生まれるまで黄理と朔は指で数えるほどにしか顔を合わしたこともなく、会話などありもしなかった。
当時の黄理には朔と共にいる理由もなかったし、それを必要としていなかった。
それが当然と感じ、そしてそれを受け入れていた。
しかし志貴が産まれたことで黄理の憑き物が取れ、黄理はだいぶ人間らしくなった。
今までの殺人機械はなりを潜め、朔への対応に疑問を感じるようになった黄理は朔と顔を合わすこととなったのだが……。
「翁。てめえは今のあいつをどう見る」
「……すさまじいですな。このままゆけば当主の座もありえないものではないかと」
「……」
「恐ろしいお方です。七夜の鬼才とは朔さまをいうのでしょうなあ」
現在朔は七歳。
通例に習い、早いうちから訓練を施すこととなった。
退魔組織から抜けた現在においてもそれは変わらず、七夜の技は脈々と受け継がれる形となっているが、そこでわかったのは、朔はとても才のある人間だったことである。
さすがは黄理の兄の子ということだろうか。
鬼神の兄は狂気に飲まれはしたが、それでも黄理を凌ぐ強かさを練り上げた男だった。
黄理が感慨なく解体する殺人機械なら、兄は圧倒的な力をもって相手を蹂躙する爆撃機だった。
事実兄が殺した相手は肉片ひとつ残さず爆散し、彼が通った道には死体すら残されない。
残念ながら殺人を楽しむ人間になってしまったが、ちゃんとした理性をもっていたならば、間違いなく七夜の当主となるはずの男だった。
そんな人間の子である。
驚異的な速さで成長する朔は今となっては同年代の子供らを遥か後方に置き去りにし、それでいて更なる飛躍を見せている。
下手をすれば大人の者すら凌ぐ強さである。
朔が掴まり立ちを成功させてから始めた戦闘訓練。
七夜の子は幼いうちからその戦闘訓練を始めるが、それでもなお速い。
最初それに難色を示す者もいたが、当主命令をちらつかせたことでそれは抑えられた。
そうして始まった訓練。
幼すぎる朔には身が重いだろうと思い込んでいた里のものは面食らうことになった。
もの覚えよく、文句ひとつ言わず、訓練を受けた朔。
朔は周囲の予想を裏切りメキメキと力をつけていった。
今となっては鬼才と称すものも現われ、鬼神の子と呼ばれることも少なくない。
その証拠に先ほどの訓練。
無論手加減はしていたが、それに喰らいつこうと追随するのである。
現当主に、七歳ばかりの子が。
最後の交差。
あの瞬間朔はこちらを殺そうとしていた。
刃を重ねるごとに増す殺気。
ひたすらに研ぎ澄まされた朔の殺気はただひとつ、黄理の命を狙っていた。
通常ならありえないようなことである。
しかし、事実朔は最後の最後まで諦めはしなかった。
結局訓練は黄理が朔を気絶させることで幕を下ろしたが、顎を狙ったあの掌底。
それを避けるため、力んだ一撃を撃ってしまった。
当主の名は伊達ではない。
本気の黄理の一撃は今だ訓練段階の子供に目視など出来ぬ速度で朔の米神を打ち抜いた。
恐ろしいのはそれを打たせた朔にある。
顎を狙った掌底。
あれは確実に頭部を砕く力を秘めていた。
再度言うが朔は七歳。
末恐ろしいとは朔をいうのだろう。
「けどよ、翁……」
「はっ」
「あいつは一体誰に似たんだ?」
「それはもう、御館様以外の誰と言うのでしょうかのう」
「……」
それを聞き、黄理はため息を吐く。
七夜朔。
七歳の子だというのに、妙に黄理に似ている。
無論顔が似ているとかそんなんではない。
黄理と朔は叔父という関係で、どこかに通っているような顔立ちはしているが、問題はそんなことではない。
怜悧に鋭く、無機質な瞳。
研ぎ澄まされた刃を思わすその雰囲気は間違いなく以前の、志貴が生まれる以前の黄理のものだった。
今だ小さな子供が、殺人機械と称された男と似ているのはどういうことだろうか。
殺人機械の黄理なら問題ないのだが、今の黄理は父性あふれた父の鏡。
ほとんど放棄していてが、やはり何とかしたい。
しかし本当に今更の話である。
とりあえず一緒にいる時間を増やそうと朔の訓練は黄理が全て受け持つことにした。
当主が訓練を受け持ち、しかもたったひとりを受け持つなどまさしく前例にないことである。
だが、訓練中は必要最低限の会話しか交わさず、朔は訓練に没頭して黄理を会話を楽しむ対象として捉えていない。
黄理は黄理で今までのことがありどうにも話しかけづらい。
そうして朔はどう思っているのかわからないが、気まずい時間だけが過ぎていくのである。
これではあまりに意味がない、と黄理は頭を抱えることになった。
そこから先どうすればいいかまったくわからない。
なのでこうして翁と相談するのである。
「一緒にご入浴などはいかかでしょう」
「……それはあまりに難易度が高くないか」
「いえいえ何を言いますか御館様。家族として近づきたいなら、四六時中一緒にいるのは当然のこと。事実志貴さまとご入浴などしょっちゅうではありませんか」
「それは確かに、そうだが……」
「ならば何を迷いますか。朔さまとご入浴をすることで親密度を上げ、フラグを立てればよろしいのです。そうすればいずれ朔さまは心をお開きになり、確実に父様発言フラグが発生するかと」
「おお……!!なるほど、さすがだ翁!!」
「感謝の極み」
しかし、この男。
本当に鬼神と呼び恐れられた殺人鬼なのだろうか。
□□□
月が里を見下ろしている。
薄雲にかかる朧月夜は二重にその輪郭をぼやかせて、触れてしまえば忽ち壊れてしまいそうながらも、柔らかな光として夜のしじまを照らしていた。
翳ることもない月を美しいと思わない自分はどこか壊れているのだろうか、と朔は庭先が広がる離れの縁側に腰掛けながら考えた。
夜である。
戌の刻ばかりだろうか。
里は静まり、外に出ているものの姿はない。
頭上には朧な満月。
歪みない月が夜空に吊り下げられ、目下に広がる地上を睥睨していた。
静かだった。
ただ静かだった。
生き物が発する物音は聞こえず、風に揺れる草のざわめきも聞こえない。
無音にも似た沈黙が里を支配している。
この耳鳴りがするような沈黙を朔は気に入っていた。
ともすれば死者の眠る墓場を連想させる静寂の世界。
生きている者のいない世界はなによりも自分がいるべき世界に思えて仕方がない。
少なくともこの生者溢れる世界で、自分の居場所を見つけることの出来ない朔にとって、それはひどく相応しく感じられた。
自分は一体何なのだ。
一体何をすればいいのか。
何者になればいいのか。
それを考えるたびに朔は諦観めいた感情を抱く。
特に独りのとき、その絶え間ない自問自答は加速し、朔を更なる深みに手繰り寄せる。
子供らしくない思考のどうどう巡り。
とは言え、それも無理からぬ事。
特に朔の場合、環境が環境だった。
七夜として自分が何を求められているのかは分かる。
七夜の業を教え込まれているのも、やがて一族の担い手として、侵入者を排除する尖兵となるよう望まれているからだ。
誰かに言われたわけではない。
命令されたわけでもない。
ただそのような蠢く意志を里の者から感じる。
その証拠はいくつもある。
今日の訓練もそうだろう。
通常、当主は子を鍛え、指導しない。
それは七夜の暗黙の了解のようなものだった。
しかし、それが朔の登場で破られている。
朔は訓練を始めてすぐ、当主が朔を預かって訓練の全てを面倒となっている。
それは黄理からすれば朔との時間を増やそうという魂胆から始まったことなのだ。
しかし、何分どうやって朔と触れ合っていいのかわからない黄理は事務的に相手してしまっているので、彼の狙いは今だ効果をあげているとは言えないだろう。
そして、その本人は当主が子供の手解きを行う理由をあまり考えていなかった。
ただ、それまで会話もほとんどなかった黄理がそばにいることを不思議に感じていた。
黄理が指導する訓練。
それは子が行うにはあまりに苛烈で厳しく、とてもではないが訓練を始めたばかりの子供には耐え切れることの出来ないハードなものだった。
基礎的な体力作りのために突然変異を起こした密林地帯を駆け回り、それが終われば朔が動けなくなるまで組み手を行う。
例え朔が気絶したとしても肉体的に問題がなければ、目覚め次第すぐに組み手を再開する。
しかも使用するのは真剣である。
本物の刃は扱いを誤れば自身を傷つけ、さらには相手を殺してしまうという禁忌を抱かされる。
そしてその全てを黄理自身が受け持つのである。
更にその黄理が持つのもまた真剣。
彼本来の得物ではないと言えど、それが持つ怪しげな危険性と、黄理が放つ殺意は実戦さながらで、朔は幾度となく無残に殺された自分を夢想した。
だがしかし。
朔は泣き言を漏らさなかった。
あまつさえ耐え切ってさえみせた。
これが朔を異常足らしめんとするものだった。
朔はひるまない。
訓練を開始する子供はある程度の事柄をこなしてから本格的に訓練を始める。
でなければ本人が危ないし、七夜の戦闘技術に耐え切れない。
さらには将来、殺し合いというステージに精神が耐え切れない。
そのための準備に何ヶ月かの時をかける。
じっくりと時間をかけて肉体を準備し、精神を鍛え上げていくのである。
だが、朔はその準備期間がなかった。
だというのに、朔は耐え、こなしている。
今となっては黄理に牙をつきたてようとしてさえいた。
それを人は才能といった。
朔を鬼才と評し、鬼神の子だと称した。
事実朔は里の子では並ぶことのない高みへと上がり、大の大人との組み手であっても対等以上に渡り合っている。
今では朔の組み手が務まるのは黄理ただひとりになっていた。
しかし、
「まだ、遠い」
―――脳裏に焼きつくのは七夜黄理の姿。
戦闘技術、重心移動、移動速度、気配遮断、神速の斬撃、死角からの奇襲。
さらに全方位に目がついているのかと思うような勘のよさ。
何よりも、油断なく、慢心なく、鋭く射抜くあの瞳。
鷹のように、あるいは研がれた刃の切っ先のように冷たい視線。
七夜の極みとして泰然と、遥か高みに屹立する男。
今日の訓練でも黄理には届かなかった。
朔が黄理の訓練を受け五年以上経つが、朔は未だに黄理へ一撃を食らわせていない。
当主相手に組み手をこなす朔だったが、それは黄理が手加減をしてのこと。
朔は知っている。
黄理の本気、黄理の戦闘を。
感慨なく、感情なく相手を殺す殺人鬼。
殺人機械。鬼神。
暗殺者として遥か高みに座する黄理との距離は果てしなく遠く、見えないほど。
だが、それでも、朔は黄理に追いつこうとしている。
ずっと見てきた。
その姿を目に入れてきた。
あの男の雄姿、その背中を。
それがなぜだか分からぬが、朔は黄理のようになりたいと、漠然に思ってきた。
離れに放りこまれ、使用人の世話を受けてきたが、朔の周りに大人らしいものの姿はなかった。
ただ遠くに、黄理の姿だけがあった。
だからだろうか、朔には黄理を追いたいと考えるようになった。
あのような殺人鬼に。あのような殺人機械に。
あのような鬼神に。あの、背中に。
朔が影響を受けたのは、状況も考えれば、黄理しかいなかったと言える。
隔絶された場所に放り込まれた朔にとっては、人間とはとても遠い存在だった。
だが、そこに黄理がいた。
黄理だけが見える位置にいた。
だからだろう。
朔は黄理を見るしかなかったのだ。
無論そのようなことは朔には分からない。
分からないが疑問には思う。
だが、自分はなぜ黄理になりたいのだろう。
志貴が産まれ、七夜一族が退魔組織を抜けることで状況は一変している。
生業からも手を引いた。
今となっては七夜は殺し屋にあらず。
当主もまた護衛などというそれまでの血生臭い暗殺からはうって変わった依頼を受け持つようになっている。
七夜の代表である当主がそうであるならば尚更、七夜そのものがある一定の変化を着実に歩んでいる。
だと言うのに、自分は鍛えられ、望まれている。
人を殺す技術、人を壊す精神、人を解す肉体。
何のために?
何の、ために?
最早必要とされない技術。
すでに過去の産物へと成り果てんとする業。
そこに意味はあるのだろうか。
形骸化した使命でしかないはずなのに。
自分はなぜ黄理になりたい。
自分はなにになりたい。
一族の担い手。
里の尖兵。
そうなるように望まれている。
そうなるように求められている。
それは分かっている。分かっては、いる。
だが、自分は――――
「おい」
不意に、声がした。
いつの間にか、離れに黄理が赴いていた。
母屋からきたのだろうか。
今は淡く染められた着流しを見につけている。
黄理が離れに足を運ぶのは珍しいことだった。
黄理は基本この離れにやってきたりはしない。
それにしてもなんなのだろうか。
黄理からなにやら戦意のようなものが滲み、妙に意気込んでいるように見える。
ただの用事には見えなかった。
ただ事ではない雰囲気が黄理にはある。
「なんでしょうか、御館様」
朔の返事になにやら黄理が動きを止めた。
一体何なのだろう。
しばらくして、妙に落ち着きのない黄理だったが、どうやら決心をしたらしい。
「てめえ、風呂には入ったか」
「もう入りましたが」
間断なく応えられた返事に黄理は呻き声をあげた。
朔は今、黄理と同じように着流しをまとっている。
色は藍色。使用人が昔着けていたお古らしい。
朔は先程母屋にある風呂に入ってきたばかりなのだった。
そしてしばらくすると「そうか……」と力なく声を漏らし母屋へと帰っていった。
その際に背中が煤けて見えたのは朔の気のせいだろう。
志貴が生まれてから黄理は変わったと話は聞く。
それはそうだろうか、と朔は思ったりしたが、別にそれは問題ではないしどうでも良かった。
黄理を見て、黄理になんとなくなりたいと思っているが、彼の性格面はどうでもいい朔だった。
求められている事は、わかっていた。
望まれている事は、わかっていた。
成るべきモノは、知っていた。
為すべきコトは、知っていた。
己が何なのか。
そんなの、生まれた時から知っていた。
それだと言うのに。
今、己は何をしているのだろう。
退魔組織から抜け出した七夜。
最早修めた術理を行使することもない。
しかし、自分は退魔の術理をひたすらに極めようとしている。
御館様の命により、皆の期待により。
一体、何を得ればいいのだろうか。
己は、得てもいいのだろうか。
一体、何を求めればいいのだろうか。
己は、求めてもいいのだろうか。
己は、一体何を為せばいいのだろうか。
朔は一人、開けぬ未来への展望に鬱屈とした嘆息を吐いた。