――――これより始まるは、小さな一族の物語。
栄華もなく、ただ終焉を向かえるだけの悲劇。
ひとつの血をめぐる、奇怪な舞台劇である。
□□□
それは、とある部屋の中で起こっていた。
どう表現するべきだろう。
男の首が根こそぎ食い千切られた。
形状をただ簡潔に表すならば、きっとこれが正しい。
男の首元、筋肉繊維から喉笛、そして頸椎に到るまで。
その中心部がまるで猛獣の牙によって暴力的な破壊を成されたような形状を見せ、不気味な空洞を男の首に穿ちあけていた。
もはや頭部と肉体の繋がりは皮膚によってのみ。
ぽっかりと空いた穴から向こう側の光景が覗けた。
そして数瞬の間を置いて、根幹の支えを失った首がずれた。
鮮血が天井を濡らした。
木目に拡散した血飛沫は野に咲く花の毒々しい花弁のようであり、それが妙に現実感を失わせていた。
吹き出る血は畳を、男の肉体を赤く彩る。
人間の体は血液が絶え間なく循環し、それによって生かされている。
肉体を運用させるために血液は栄養及び酸素を運ぶ。
その巡りは止め処なく、人間という生命を生かすためには必要不可欠なもの。
そのために血管は体中をかけまわる。
人間の血管は完全を成している。
どこにも不備なく、穴もなく、欠ける事もなく、人間を生かす。
しかし、血管を破り、出血は起こる。
血液の無い人間はただの死体だ。人間ですらない。
肉体は壊死し、その活動を停止させる。
故に、男は死体に成り果てる。
暫し、男は今自分がどのような状態に陥っているのか、理解が出来ていなかった。
元より、そのような思考を男が保持していたのかは怪しい事この上ない。
しかし、男の理解が追いつくよりも早く、その意識は霞み、そして途絶える。
――――それを感情もなく眺めている、男がいた。
男を簡潔に述べるならば、研ぎ澄まされた抜き身の刃のような男だった。
死に逝く人間を見る視線はあまりに鋭く、獲物を見つめる鷹のよう。
その手には鋼の輝きを放つ、撥のような、あるいは擂り粉木のようなものが握られている。
男は微動だにせず、死んでいく人間を見続けた。
その目に情けはない。
死に逝く者への憐憫、あるいは同情、あるいは嫌悪、あるいは畏怖。
何もその瞳には映らない。
感情も宿らぬ瞳は、男が死んでいく様を最後まで見続ける。
痙攣する五体、根幹を失って後方にずれた頭部、座り込むように崩れる肉体。
噴出する血飛沫は男の肉体をも染め、そしてそれも納まり、やがて動かなくなった。それを確認した男は踵を反す。そして男が立ち去った部屋には一つの死体。
室内から抜けた男を、跪いた数人の男たちが出迎えた。
和装の黒衣に身を包んだ、屈強そうな男たちは男の出た部屋に入りゆく。
その内の一人が男に無言で手ぬぐいを手渡すが、男は何も言わず其れを引っ手繰るように受け取った。
顔を拭い、血に滑り赤々と色を成していた撥を拭い懐に仕舞う。
武家屋敷の中、男は無言で歩く。
滑らかな重心移動、尖る気配が男の存在が尋常ではない事を告げている。
血染めの衣服もまた其れを増長させているのもあるが、しかし、それ以上に男の目が際立っていた。
先ほど、男は自身の兄を殺した。
だと言うのに、男の瞳は何も変わらない。
兄を殺した瞳から、その様はまるで変わっていない。
まるで通常の瞳がそれであるかのように、瞳はただ冷たく、凍えている。
男の兄は、禁忌を犯した。
身内殺し。近親相姦を重ねる一族で、間引き以外の殺しにおいては最も重い罪だった。
殺されたのは男の伴侶たる女。
今しがた子を産んだばかりの女をその場で殺し、今廊下を歩く男の手によって首を破壊し尽くされ、命潰えた。
男の兄は狂っていた。殺害に悦を見出した人間だった。
元からそのような徴候はあった。
幼い頃から破壊衝動に身を委ねた彼の姿を男は鮮明に覚えている。
近年其れは悪化し身内の静止にも耳を貸す事もなくなり、そして遂には伴侶を殺した。
女が死にゆく姿に、笑みを浮かべながら。
兄は殺人に快楽を感じてしまうような人間だった。
一族はとある事情からそのような人間が生まれやすい一族だったが、兄の場合はそれが顕著とさえ言えた。
最も殺しに魅入られ、血肉を撒き散らす作業に没頭し続けた。
それは暗殺という範疇さえも超え、ひたすらに人を殺すのならば時や場所、あるいは相手さえ選ばぬほどの徹底ぶりだった。
依頼を選ばず、対象を選定せずに血みどろを良しとした。
その結果自らの片割れである妻でさえもその手にかけた。
そして、殺された。粛清と言う名の下。
それを男は成した。当主と言う立場故に。一族の長という役割故に。
だが、男は兄を殺してもまるで変わらなかった。
揺らめかず、翳りなく、瞳はひたすらに鋭いまま。
思い返す兄の姿は歪であった。
理性をなくし、獣のような笑みを浮かべたあの顔。
自身の弟が殺しに走ると言うのに、人間を壊すことに喜びを感じた悪鬼めいた表情。
狂気に走る以前は情の分かる人間だった。少なくとも男以上には。
だが、それもかつての話だった。
男を身内と見ていない事なぞ、すぐさま知れた。
獲物を見つめる愉悦の瞳に、最早人としての表情は浮かび上がらない。
それが、かつて男にとって兄だった男の末路だった。
だからこそ、感慨は抱かなかった。
否、だからこそというのは誤りだ。
無言で歩く男に、肉親を殺めた罪悪や戸惑いはない。
元より、そのような感情が芽吹くような心を男は持ち合わせていないのだ。
きっと、兄を殺したという事実もすぐさまただの記憶として塵となる。
そのようなモノ、男には無縁であった。
感情を削いで落としたような、無機質な鋭さだけが男の存在を表していた。
「御館様。ご無事で何よりでございます」
と、廊下に突如として一人の老人が現われた。
どのような術理を成したのか、音もなくその場に出現したのである。
顔に刻まれた掘りの深い皺が、枯渇した大地を思わす老人だった。
頑健とした体付きが老人の形相と実に奇妙な構造を成しており、不思議なバランスを保っていた。
男は老人の声に立ち止まり、何も言わずその鋭い瞳で言葉を促す。
「奥方様は回収しました。現在お体をお清めしております」
心臓を潰され、血に体を汚された女。兄の妻は即死であった。
せめてもの慰めに、亡骸は綺麗にして手厚く葬る。
幸であったのが、既に子供が生まれた後であった事だけであろうか。
ただ殺されたならば、あまりに報われない。
連れ添いの男に殺されるとは、女も思うはずがなかっただろう。
あるいは、狂気に魅入られていた兄と結ばれたその時点で女はこんな未来を想像していたのだろうか。
一族を永らえさせるために子を成し産み落とす。
それは女にとって唯一の役割であり、また逃れられぬ宿命であった。
故に、女は命を己が胎に宿した時に、己の命が潰える未来を諦観でもって迎え入れたのかもしれない。
しかし、それを語る女はすでに物言わぬ死者に成り果てている。
その心根を聞くことは、もうない。
「御子でありますが、元気な男児であります。もし、御子をここに」
老人の呼び掛けに、一人の女が現われた。
男と良く似た雰囲気を持つ女である。
女はその腕に今しがた生まれたばかりの嬰児を清潔な布で柔らかに包みこみ慎重に抱えている。
その不慣れな手つきは少々危うく、たどたどしい。
重心の安定しない手つきで女は男に嬰児を手渡した。
男は何故自分が受け取らなければならないのかと暫し時を置いて両者を冷酷に睨みつけた。
しかし、老人の視線と目前に突き付けられた嬰児、そしてそれを支える女に他意がないことを視ると、仕方なく子供を受け取った。
男は己の腕の中にいる嬰児を見る。
ふやけた肌、産毛のような髪、閉じられた目蓋。
弱々しく、そして儚い、新たな命。
二人の関係は、今この時よりはっきりとしていた。
兄を殺し、父を殺された二人。
この幼子は誕生の瞬間には生みの親である母を父によって殺され、父は男によって殺された。
生まれた時には、両親は亡骸だったのである。
将来、真実を知ったこの子供はどう思うのだろうか。
果たして父を恨むのか、それとも男を恨むのか。
あるいは一族の定めであったと訳もなく流せるのだろうか。
疑念は尽きない。だが、男は何も思わなかった。何も感じなかった。
肉親を殺めた事も。
自身の手で殺めた兄の子を自身が抱くという、男への皮肉のようなこの状況に対しても。
「御館様」
老人の呼び掛けに声を返す事もなく、男は腕の中にいる嬰児を女に手渡そうとする。
自分が抱いている事に意味は無いだろう、と何とはなしに考えた。
だが。
「――――――――――――――――っ!!」
叫び声。
嬰児の割れ響く産声だった。
顔面をしわくちゃにしながら、自らの存在を証明するかのように大きく、それでいて脆く儚い声だった。
それはこの世に誕生した命の最初の訴えだった。
それを感慨もなく一瞥し、男は女に嬰児を手渡そうとする。
しかし、嬰児はそれを拒むかのように、よりけたたましく産声を上げた。
まるでここがいい、離れたくないと語るかのようにつたない動きで体を捩らせ、小さな手足を震わせる。
「……」
男は再び嬰児を見た。
今しがた自分の親を殺した男に、この赤子は一体なにを求めているのだろうか。
生まれたばかりの幼子にそのような感情はないかもしれない。思考もまた同じ。
だが嬰児は泣き止まない。
母の温もりを求めているのか、それとも父の温もりを求めているのか。
しかし、二人とも既にこの世にはいないのだ。
死んで、亡骸と化した。愛を注ぐ事も、共に過ごす暇さえなく。
しかし、嬰児はそのような事知るはずもなく、ひたすらに叫ぶ。
不可思議な視線を嬰児に投げかける男を見て、女は躊躇うかのように腕を引き、老人は笑みを浮かべた。
その顔に相応しい好々爺のような笑みであった。
「御館様。私はどうにも他の者から呼ばれているようなので失礼します」
白々しく、そしてわざとらしい言葉を重ね老人はほくそ笑んだ表情のまま。
男の目前から老人は姿を消し、女もまた名残惜しそうな瞳を嬰児と男に向けた後、老人の姿を追うようにその姿を暗ませた。
そして、残されたのは男とその腕に抱かれた嬰児のみ。
女と老人の気配が遠ざかっていき、それに合わせ嬰児の産声も次第に小さくなっていった。
暫し間を置き、腕の中にいる嬰児を揺する事もなく、男は再度歩み始める。
軋む床の音。
老人が何を考えているのか理解できなかった。
それに比べ、男と嬰児を心配する女の感情は容易く読めた。
揺らめく気配は不安と心配の混合。
だが、それが一体何に対する心配なのかまでは男には視えなかった。
例え視えたとしても、男には理解できなかっただろう。
男は腕の中で眠る嬰児を見た。
小さな命。弱く脆い存在。
自分が殺した、兄の子。
この子供が何をやりたいのかは知らない。
理解も出来ない。ただ子供の好きなようにやらせるべきだろう、と男は考えた。
腕の中の嬰児の体は大人の体温、それこそ先ほど浴びた血飛沫よりも温かい。
生まれたばかりの子供とは皆そうなのだろうか、と男は場違いな思考をめぐらせた。
何となく、ではあるが男は嬰児の小さな手に人差し指を触れさせてみた。
嬰児が我儘によって男の腕の中にいるのだ。
男の気まぐれもまた受け入れられるべきだった。
理由のない行動ではある。
しかし、それでも興味があった。
すると、嬰児は男の指先をたどたどしくも、だが確かに握りしめた。
嬰児が指を握る力は存外に強い。
生まれた子供が何かを握るのは霊長類としての特徴でもある。
しかし、それを考察しても力強い。
鍛え上げられていなければ指をへし折らんばかりに。
これは、良い。
知らず、男は頷く。
よく育ち、一族の名を冠するに相応しい男へと成長するに違いない。
一族の者として生を受けたならば力強く生きなければならない。
そのための兆候を子供はすでに保有しているのだ。
脳裏で怜悧に子供の握力を計算しながら男は歩んだ。
いつの間にか、男は屋敷を出ようとしていた。
律儀にも玄関から出ようとする男の姿を光が照らした。
それは朝焼けであった。
深い深い森の遠くから夜を打ち消す太陽が姿を現していた。
その光は暗いこの森を柔らかく照らしだす。
温かくて、優しい。
男は立ち止まり目を細めた。
男の目前には時の流れに置いていかれたかのような、暗く荘厳な森が広がっていた。
視界を覆う雄々しい木々、鬱蒼と生い茂る緑が影を指す。
昇りゆく太陽を見て、男はこの嬰児に名が未だ無い事を思い立った。
騒動はあれども命は紡がれ、またここに新たな一族の者が生誕した。
ならば呼び名のひとつぐらいは記号として必要である。
朝焼けの中、男は暫し太陽の光に身を温めながら黙考した。
そして、男はポツリと、小さく呟いた。
それは呟きと呼ぶにはあまりに無機質な声音であった。
「七夜、朔。それが、お前の名だ」
全ての始まりの名を、嬰児に与える。
微風に擦れる木々が穏やかな音色を奏で、陽光が今ひとつの生命を祝福するかのように煌いた。
その時男の無表情が、ふと変化を遂げた。
僅かに、本当に見逃しそうなほど少しだけ、小さく口角が上がり、瞳の形が変わる。
それは笑みと呼べる表情であった。
あまりに不器用な、だからこそ男に相応しい小さな笑みだった。
好戦的か、あるいは相手を物怖じさせるような獰猛極まりない笑みである。
あの朝焼けのように、世界を照らすように。
嬰児、朔に笑みを向けた。
行く果てが血染めの未来であろうとも、一心に生きるよう願いながら。
そして男は再び歩み、その姿を森の葉群へと溶かして消える。
光から暗がりへと逃れるように消え去ったその場に残されたのは、己が宿命を知らぬまま安らかに眠る嬰児の幼い寝息のみ。
――――退魔一族七夜現当主、七夜黄理。
それが、男の名であった。
――――それから、七年の月日が流れた。