僕は時計塔で働く人間だ。つまり、給料を魔術協会から貰って日々を食いつないでいるわけである。
まあ、実際のところ、現金収入は微々たるものでしかない。雀の涙ほどの現金で、その月を生きていくので精一杯だ。
その代わり、魔術実験の際に必要な材料やら道具やら場所やらを提供してくれるのは、ここ時計塔――魔術協会くらいである。だからこそ、こうしてショボイ給料で扱き使われてやっている。
なにが言いたいのかというと――結局のところ、僕と時計塔は正規の雇用契約を結んでおり、仕事という現実からは逃げられない、そういうことだ。
だから、僕はクソガキ共相手に、下らない授業をすることを強いられている。
それも、貴重な休憩時間や大切な研究時間を削いで、だ。
「……すなわち、この時に用いられるルーンは既存のそれと異なる意味を持ちます。解釈も意味も同じままで」
僕の言葉を、必死の形相で書き取る大多数の生徒たち。
僕は板書を好まない。なぜなら面倒だから。
基本的に口述なので、生徒が頑張らないと勉強できない――というか進級できないシステムだ。まあ、時計塔に来ている以上はそれくらいのこと、こなしてくれないと困る。
僕の授業は、テスト6割、平常点4割。合格点は総合で6割だ。だから、ちゃんと授業に出てテストをそこそこ取っていれば、落ちるはずはない。
その程度の努力もできない奴に単位をやるのは、授業という強制労働をさせられている僕からすれば、考えられない。
生徒諸君にもそれなりに苦しんでもらわなければ、不公平というものだ。
そのせいで僕の授業は超スパルタのハズレ授業として知られているらしいが、んなもん僕の知ったことではない。生徒が落ちようと、進級できようと、僕の給料と日常生活にはなんら支障がないのだから。
だから、授業態度も別に気にしない。僕に関係ないからだ。
だが前から三列目、右から四番目の茶髪。授業開始十分後に寝るな。僕だって自室で寝てたいんだぞ。嫌味か、嫌味なのか。
それに前から五列目、右から七番目の赤髪。ルーン魔術の授業で鉱石学科の宿題の内職なんぞするな。なんか腹立つから。
そして最後尾の男女四人組。甲高い声でベラベラ喚くな。耳障りで、さらにいうならば不愉快なことこの上ない。
口には出さないけれども、腹の中に溜め込んで後に吐き出すのが僕の日課になりつつあった。人生花の20代にこんなことしなくちゃならないなんて、嘆かわしいことだ。
――まあ、3ヶ月前の誕生日になったばっかりだが。
この調子だと、親友ケイン君のように額から砂漠化が進んで行きそうで恐ろしい。主にストレスが原因で。
ケインのあれは、うん、遺伝だ。父親の写真、つまり現当主の写真を見たが、まだ43歳だというのに、見事に禿げ上がっていた。太陽拳とか使えそうな見事さで。
「ルーン占いをする時、ルーンはその意味を寸分たりとも変化させないこと、それは前述したと思います。それを踏まえて、ここで、敢えて“異なる”という表現を用いたのは――つまり、占いはルーン文字の持つ意味、そのものをただ知識として告げているだけだ、ということを言いたかったからです。
þurisazという言葉が氷の巨人、普通の巨人、刺、門などを意味することを皆さんは既に知っているはずですが、占いでこのルーンを引き当てた場合、それは巨人や門、刺が持つ本来の意味、なにかを阻むという要素が運命に投げかけられていることを意味しています。未来を占った時にþurisazが出たならば、氷の巨人が操る吹雪、固く閉ざされた門、茨に彩られた道などを想像できます。ですが、戦闘の意図を持ってþurisazを唱えた場合、氷の巨人、門、刺……それらの本質をこの世に写し取ることができます。本当に門や刺を表出させる術師もいれば、そこに込められた妨害の意図だけを現出させ、利用する者もいるでしょう。これは召喚にも近しい行為です。占いがルーンを絵に描く、または詳細に描写する行為であるとすれば、ルーン魔術の行使そのものはルーンを召喚することだと言っても過言ではありません。ルーン魔術が魔術師にとっての教科書にも近しい存在として知られ、今もなお毎年のように新たなルーン文字が登録され、それなのにルーン魔術の使い手が大成しない理由は、単純でありながらも深淵な、実によくできたシステム構造にあるわけです。
様々な魔術と共通項を持ち、ルーン魔術そのものも非常に広範に応用が利き、そして歴史的に見ても大きな意味を持つルーン魔術は、まさしく魔術の教本、根本に近いものと呼んでも差し支えないものでしょう。ですが、あまりにも応用が利きすぎるために極めることは難しく、ルーン魔術単体で戦闘やその他の実験を行うことのできる魔術師は――あー、まあ、非常に少数であると言えるでしょう。いないわけではありませんが」
諸々の下らない思考をおくびにも出さず、淡々と授業を続けていく。
僕は大抵の場合において、ルーン魔術だけで実験も戦闘もこなしているので、その少数派に属しているわけだ。自画自賛みたいで恥ずかしいが、紛れもない事実である。
ただ、僕はゲルマンルーンしか使わない魔術師だ。つまり、ルーン魔術という大木の幹から11代に渡って離れず、枝の先にある花や実には見向きもしなかった連中、偏屈で頑固な一族の次期当主だ。ゆえに、この説明はあまり当てはまらない。
――北欧神話における最高神オーディンは、ルーンの秘密を知るために世界樹ユグドラシルへと赴き、自らを大神宣言(グングニル)で貫いたまま、9日9晩に渡って首を吊り続け、自分という存在を知恵の神にして最高神たるオーディン、すなわち自分自身に捧げ続けたという。
全てをルーンに捧げ続けたバンクス家と、やたらと符合する記述。最初に聞いた時は、なんともいえない気持ちになったのを覚えている。
まあ、ここでいう“ルーン魔術という大木”云々は言葉の彩に過ぎないけれども。
「硬化のルーン、幻覚のルーン、強化のルーンなどは主に実戦で使われ、また魔術師の間でも流行りの新種です。これらは、いわばルーン魔術という大木から伸びた枝葉末節。故に行使する際の燃費は非常に良いものです。新しい魔術は――少なくとも、ルーン魔術においては――大抵の場合において汎用性が高まる傾向にあります。
しかし、古代より受け継がれてきた大元のルーン文字から離れてしまっているため、その神秘は弱体化してしまっていることも事実です。だからこそ、この授業で神秘の強い魔術を、ルーン文字の原型に近いものを学んで帰って欲しい――これも以前に言いましたね。
ああ、今日の授業はここまで。きちんと聞いていたのかどうか、試させてもらいます。いつもの通り、テストを行います」
ざわざわと幾らかの話し声が響き、十数秒ほどで収まる。
同時に、ほとんどの生徒が食い入るように自分の、もしくは誰かのノートを食い入るように見つめ出した。
授業の復習で見ているなら全然構わないのだが、一夜漬けならぬ一瞬漬けでどうにかしようという不届き者も多いようだ。
まあ、好きにすればいい。その程度で良い点が取れるほど甘いテストではない。
「ミス・カウフマン」
「はい」
僕の呼びかけに応じて補助講師の女性、アンネ・カウフマンがプリントを教卓の上に置く。いわゆる、小テストである。範囲は、たった今まで行なっていた授業の内容についてだ。
授業を聞いていなかった連中は、ここで天の裁きを受けるのだ。
そもそも平常点を4割も加味しているのに、なぜ落第するのか。答えは簡単、普段から頑張っていないからだ。
こと研究的な魔術師に関して言うならば、一発勝負にだけ強いなんて話にならない。コンスタントに実力を発揮し、弛まぬ修練を積み、努力を怠らない者が魔術師という選民になる資格を持って然るべき。
――という建前で小テストを実施しているが、本当のところは少し違う。
「ミス・カウフマン、監視と回収、よろしくお願いします。直前の勉強時間は、いつもどおり3分で。答案は講師室の僕の机に」
「任せて下さい。では」
後は任せて、僕は教室を出た。
そう。小テストを利用すれば、本来の授業時間よりも10分短く仕事を終えることができるのだ。
その時間を利用して、ゆったり紅茶を嗜んだり次の教室へ悠々と移動したりするわけである。完璧、まさに完璧だ。
我ながら狡い気がしないではないけれども、まあ些事にすぎない。
時間は3時の10分前。つまりは3限目が終わる10分前だ。
今日――水曜日の場合、これが最後の授業なので、食堂が混み合う前にスコーンを購入し、外の木陰に設えた木のテーブルと椅子を使って優雅にアフタヌーンティーと洒落込むことにしている。
ここ、ルーン科の授業は基本的に2階か3階で行われる。ルーン科の授業を受けるのは大半が新入生であり、あまり上層や下層に行かせるのは好ましくないからだ。
時計塔の流儀や慣習に疎い新入生であれば、たかだか迷子とはいえども命の危険を伴うのだから。
新入生諸君が、時計塔と書いて魔窟と読むことを理解するのに必要な期間は、平均すれば約2ヶ月。
それまでの間、できるだけ死なないように、こちらも配慮しているというわけである。
そんなわけで教室からすぐの所にある食堂に入る。
「あら、ベン」
「こんにちは、エリザベス」
顔馴染みとなりつつある中年女性、エリザベスがこちらを見、笑顔を向けてきた。こちらも笑い返し、互いに挨拶を交わす。
エリザベスは今年で45歳、いわゆる食堂のおばちゃんポジションである。決して美人ではないが、エネルギッシュな上に面倒見もよく、多くの人から慕われている。
ただ、多くの人、の8割は普通の魔術師ではない。清掃夫などの職員、つまり魔術の使えない一般人であったり、僕のように一般人の間に垣根を作ろうとはしない、変わり種の魔術師であったりする。
大概の魔術師は、食堂で働く一介の凡俗になど興味は示さないし――いやむしろ、馴れ馴れしい相手には無礼討ちも辞さない。ジョークにすればウケが狙えるかもしれないが、これは前例があるだけに笑えない。
まったくもって、時代錯誤な貴族趣味の多い場所である。
ちなみにエリザベスは不妊症であり、子供がいない。旦那さんとも既に死別しているそうだ。そのためか、時計塔の学生にやたら優しい。なぜか僕にも優しい。
まだ僕は20歳で、他の学生とさして変わらない。年頃的に、息子のように思われているのかもしれない。
「いつものスコーン頼むよ。今日も紅茶は自前だから」
「分かったわ。でも……ベン。貴方、また授業を早退したのね? 最年少講師の名が泣くわよ」
「より正確に言うと、20世紀に入ってからのルーン科で最年少、だよ。19歳で正式な講師に任命されたのは17世紀以来らしいけど、まあ知ったこっちゃない。なにせ身近に馬鹿みたいな天才殿がいらっしゃるものだから、コンプレックスが毎晩疼いて仕方ない」
「口が減らないわね。コンプレックスなんて殊勝なもの、フォークより重たい物を持てないベンが持てるわけないのに」
なんとなく、そこで会話が途切れて、それから2人してクスクスと笑い出す。
こんなやり取りも、いつものこと。
ケインの他にこんな会話をできる相手は、エリザベスくらいだ。それはエリザベスにとっても同じらしい。
エリザベス曰く、
――ここのカボチャ頭は、ユーモアや気品を心得ずにロンドンに来た田舎者ばっかり!
だ、そうだ。
僕も、それほどユーモアを心得ているわけではない――しかしまあ、気軽な会話もできないくらいに選民思想でガチガチになった魔術師の相手ばかりしていれば、エリザベスにもストレスが貯まるのだろう。
僕は貴重な話し相手、というわけだ。
「ほら、早いとこオーダーを伝えてくれないかな。早く来た意味がなくなる」
「はいはーい。厨房! ミスタ・バンクスとミスタ・アーチボルトのスコーン!」
「ちょっと待ったぁ!」
僕の大声に、エリザベスはきょとんとした様子でこちらを見る。まるで、僕がなんの脈絡もなく叫んだかのようだ。
だが、先程のエリザベスは明らかにおかしかった。明らかにだ。
なにをトチ狂っているのだろうか。どこをどう見ても、ここには僕しかいないというのに。
「あのさ、僕はここに一人で来たつもりだったんだけど……」
「どうせ、ミスタ・アーチボルトの分も持っていくんでしょう? 早く持っていかないと怒られるわよ」
「む……僕とあいつは友達だけど、いつも一緒にいるわけじゃないさ。そんなんじゃ恋人もできやしない」
「いつも一緒じゃないの。恋人なんか作る気もなさそうなくらいにね。私がもう20歳若かったら、それでも狙いにいったでしょうけど……最近の娘たちには、どうも気合が足りないみたいね。貴方、それなりに人気はあるのに、誰からもアプローチ受けないでしょう? そういうことに興味がないと思われてるのもあるのよ?」
「な、なんだって? そりゃないよ……」
またも聞き捨てならない発言が飛び出した。
僕には意外と人気があったらしい。それなのに恋人ができないのは、もしかしてケインと一緒にいるからなのか。そうなのか。
女の子からすれば、間に自分の入る余地がないくらい仲良しに見えるのか。そうかそうか。
泣いていいだろうか。
「エリザベス。僕だって好きで恋人を作らないわけじゃあ」
「あら、スコーン焼けたわよ。はい」
「ああ、ありがとう。――じゃなくて! 僕は普通に女の子と仲良くしたいんだよ! あとケインの分はいらないって言っただろ!」
「分かった分かった。ほら、早く! 怒られるのは私たちなのよ? あまり悪い影響を与えるのは好ましくない、過度な付き合いは慎んでくれたまえ、なんて感じでね」
え――なんだ、それは。
ケインが嫉妬に駆られて、わざわざ食堂の職員に警告を飛ばしにいくということか。
それって、まるでホモのヤンデレ野郎みたいじゃあないか。
割と本気で引いた。
「ま、冗談だけどね」
「……エリザベス……」
もうここ嫌だ。
声に滲みでそうな疲れを必死で抑えながら、僕は背を向けて歩き出そうと――
「あ……待って!」
そこに、エリザベスの悲痛な声が聞こえた。
その声に、僕は思わず立ち止まる。
なんだ、なにを言うつもりだ。言いすぎた、そう思ったのか。まあ、素直に謝るなら許してあげるのも吝かじゃあない。
当のエリザベス、時計塔の数少ない常識人は、とても困った顔でこちらを見ながら、僕に手を差し出して、こう言った。
「スコーン2つ、講師割引も込みで6ポンドになります」
「……ああ、そう」
やはり、時計塔にロクな人間はいなかった。
◆◇◆◇
「……やっぱり多いな」
紅茶を飲みながらスコーンに齧り付く。
やはり、午後のおやつにスコーン2個は多い。1個で十分だ。
そして、僕はプレーンよりもフルーツ入りの方がいい。
フォートナム&メイソンのアフタヌーン・ティーは、いつものように素晴らしい味わいで安心した。
しかし、なぜこうもケインの影がチラつくのか。
僕の私生活とケインのそれは完全に別個のものであり、別に僕を殴ったり、引き止めたりしたからといって、ケインがどうこうするわけでは――いや、するな。間違いなくする。
ただ、それを差し引いても、ベンジャミン・バンクスという個人を見てくれている人は少ない気がする。
ケイネス・アーチボルトの側近……いや、そんなものではない。もっとプライベートなものだということは、既に周囲に認知されている。
前のジェファソンの一件から、それに堂々と文句をつけてくる馬鹿もいなくなった。全滅したのか、それとも激減したのかは、もう少ししてみないと分からないが。
しかし、なんとも奇妙な話だ。
ケイネス・アーチボルトの友人であるベンジャミン・バンクスを認知しているやつは大勢いるだろう。
だが、ベンジャミン・バンクスの友人であるケイネス・アーチボルトという認識を持っている人間は皆無に等しい。多分、だが。
それこそが、アーチボルト家の業でもある。
というよりは、有力な家――ロードの嫡子として生まれた瞬間から不可避のものとして決定された運命、と言うべきか。
そして、その嫡子の私的な友人であるからこそ、僕の一挙手一投足、僕に対する全ての行動は、時計塔の趨勢に大きく影響しうる。ならば、気にするなという方が無理な話だ。
エリザベスの発現は半分以上がネタではあるが、一分どころか二割くらいの真実を含んでいるのだ。
だから、僕がなにかすると、もしくは、僕になにかしたいと思った時、大抵の人間はこう思う。
ああ、これについてケイネス・アーチボルトはどう思うだろうか。
ベンジャミン・バンクスにこんな干渉をした場合、ケイネス・アーチボルトはどう思うだろうか。
つまるところ、僕はケインの影から逃れられないのだろう。
僕の全てを通して、彼らはアーチボルトを見る。
それで僕のプライバシーやプライドは侵害されているのだから、傍迷惑な話だ。
「有名税……とは、ちょっと違うか」
どちらかというと、ケインの有名税が僕からも徴収されているという理不尽な状況である気がする。
アーチボルト家の嫡男というのは、どうも垂涎の課税対象であるようだ。
調律された政争。
調和を保つ派閥。
そこには、友情すらも計算材料として含まれている。なんとも、やりきれない。
「やなとこだよ、ほんと……」
ずるずると茶を啜りながら呟いた。
僕の毎日は、大体こんな感じである。
お久しぶりです深海魚です。
ちいと潮流に乗るための免許とってきました。
長々と間を開けておいてなんですが、来週からまた、ちょっくら深海に里帰りしてきます。1週間くらい。
ではでは。