吹雪の中に佇む城の一室で、座したバスティアンは巨大な鏡を見ていた。
そこに映る自分は、ぞっとするほど美しい。いつでも、何度目でも彼はそう実感する。
純白を基調としながらも金の装飾を施されたローブを身にまとい、水晶玉を前に座っている姿は、座り方から指の伸ばし方まで気品に満ちていた。その完成度は、長きにわたって教育を受けなければ、とてもこのような雰囲気を発することはできないと、一見しただけで容易に知らしめるほどだ。肩まで伸びる白銀の髪と、天然の水晶の鋒を彷彿とさせる顔立ちは、見る人を魅了せずにはいられないことは明らかである。
これほどに非現実的なまでの美貌は人を遠ざけ、畏怖を集めがちなものである。ただ口元に浮かぶ品の良い笑み、ただそれだけの要素が天上の美を人知の及ぶ範囲に留めていた。
ある女性は彼を見て「妖精のよう」とまで言ったが、客観的に見てあながち間違いでもないように思われる。
そして当然のように瞼は閉ざされていた。
「……ふん」
それを確認して口元の笑みを消す。途端に鏡の中の妖精は氷の彫像へと印象を転じた。神が作った完璧なビスク・ドールが存在すればこのようになるのだろう。人間から欠点という欠点を全て取り除き、欠落という欠落を全て埋め合わせた、文字通りの「神の似姿」。
彼に言わせれば、それは「不気味の谷」を超えた先にある新たな「不気味の谷」でしかない。
不完全な姿しか持てない人間は、完全な姿を見ることに耐えられない。であるならば、感情表現を必要とする人間種族に合わせ、感情の変化に付随して起こる非合理的な顔面の筋肉動作、俗に言う表情なるものを浮かべておくのが無難である。
バスティアンはいつものように、百九十三万千五百二十回目の思考結果をそう結論付けた。
そこで背後からノックが聞こえた。大きくもなく、小さくもなく、早すぎず、遅すぎず。
世界一正確なメトロノームは? と問われたなら、躊躇いなくこのノック音を正答として推す。それくらいしか形容の言葉が見つからない。
そして現在、これだけ気味の悪い正確さを持つノックの持ち主は、この城に一体しか存在しない。
「エドゥアルトか」
「はい。紅茶をお持ちいたしました」
「わかった、入っていいぞ」
「失礼いたします」
――このやり取り、録音すればいい売り物になるな。
腐りきった婦女子なる珍妙不可思議な生物への商法を刹那で考え付く自分の脳に呆れ返りつつ、バスティアンは鏡越しに扉を見やった。
今、まさに開いた扉。入室した従者もまた、同じような美貌の持ち主だ。髪は短く刈り込まれ、チュニックとシャツの間の子のような服を身にまとっている。服の上からでもわかる筋肉と、相反するように細身なシルエットは豹もかくやの機能的肉体美を備えていると言って過言ではない。
その手には銀盆。紅茶のセット一揃いと、数枚の書類が乗っている。
「少し遅かったか?」
「は。先日より三十二秒ほど遅れています」
「なぜだ?」
「竃が破損していました。発見後、即座に炎の魔術を使用し湯を沸かしました」
「なるほどな。まあ、別に少し遅れたくらいならどうということはない。さ、早く注げ」
「かしこまりました」
白い陶磁のカップに湯気を立てる紅茶が注がれ、バスティアンの傍らの机に音ひとつ立てず置かれる。
「紅茶は良い。小島の貧乏人共もひとつくらいは取り柄があるものだ。餅は餅屋に、紅茶はインド人に、奴隷経営は女王陛下に……そんなところか?」
エドゥアルトは答えない。バスティアンも、返答を求めてなどいなかった。期待していないことを人形に求める馬鹿はいない。少なくとも、この場にいる者に人形遊びをする趣味はない。それが一人遊びなら尚のこと不毛だ。
無言のひと時が過ぎて、主がカップを置き、従者も呼応して書類を示す。
「バスティアン様、知らせが届きました。いかがなさいますか?」
「よこせ、と私が答える前に渡すことができれば成長したと言えるが。まったくお前は良い従者だな。エドゥアルトという名前まで付けてやったのに」
従者は主の皮肉に眉ひとつ動かさず、ただ一礼をもって答える。バスティアンは、ふんと一つ鼻息を吐く。悪意を感じる機能がないというのは、思っていた以上に呆れ果てるに値するものだった。
馬鹿正直かつ間抜けなエドゥアルトのこと、あるいは賛辞と受け取ったのやもしれぬ。そんな推測すらできる。
「やれやれ……ほう?」
苦笑しつつ書類を受け取って流し読めば、その中身に少しだけ口の端が歪んだ。
「偽報が通じたか。時計塔の情報網の手薄さは相変わらずと見える。しかし、あの禿頭予備軍が独自で動いたのは予想外だ。……なあ、エドゥアルト?」
「……」
僅かな希望を込めて視線を向けてはみるが、案の定反応はない。
ため息を挟み、独白は続く。
「さて、どうやって察知したのやら。権謀術数、悪意渦巻く時計塔のロードを務めるだけはあるということか、それとも……あいつが余計な世話を焼いたか。間違いなく後者だ。相も変わらず、魔術師らしくない男め。捻り殺してやれ」
「かしこまりました」
エドゥアルトが背を向ける。
「おい、どこへ行く」
「は、武器庫へ」
「待て待て」
エドゥアルトがまた回転する。
再び向かい合った人形の融通の無さ。頭痛が溢れ出るのを禁じ得なかった。
「まったく、待たんかい。ロボットとホムンクルスの区別もつかないままお前を作った覚えはない。いまの言葉が冗談か命令か、自分で判断しろ」
「申し訳ございません。ただいまのお言葉がご冗談かご命令か、ご教授いただけますでしょうか」
「マジか」
「失礼ながら……まじ、というお言葉の意味は」
「もういい黙れ」
意味のないやり取りを打ち切り、バスティアンは熟考する。
現状において時間は貴重なのだ。このような馬鹿話に費やす余裕がないというほどでもないが、効率的にやるにこしたことはない。
――上手く、いきすぎている。
そのような感想が脳裏に浮かんだ。
一部に偽報が割れたのはともかく、策略そのものは成功した。ただし、それは最初から八割しか達成できないことを見越した上でたてた策だ。現在の達成度は九割ほどだが、そのまま成功を収めてしまったならばそれは既に誤算であり、事態が自分の手元から離れてしまったのと同義だ。
予想外の成功に手放しで喜んでいては、予想外の失敗を誘発するということは歴史が語っている。計画の修正が必要なことは疑いない。
そうしてなんだかんだ理屈をこねつつも、バスティアンとしてはたった一つの理由があるだけなのだが。
(他人の思惑が、俺の策略に干渉するのは許せん。特にあいつは)
これらの前提を踏まえ、しばし黙考する。数秒の後に答えは出た。主に大嫌いな相手の意表を突く方向で。
「よし、一当てするとしよう。試作一号の使用許可を出せ」
「かしこまりました。劔冑(クルス)はいかがいたしましょう」
「構わん。予想通りであれば一目で『観測』することだろうが、それはそれで愉快なことになるかもしれんからな。予想を外れるようなら、そのまま羽虫のように死ねば良い」
従者は今度こそ一礼して、音もなく立ち去る。その存在を海馬の片隅に追いやり、バスティアンは思う。
賭け。それも限りなく分が悪い。もし『奴』が関与しているなら――いや、九割九分そうなのだが――ここで一当てするという選択は予想されているはずだ。敵の掌中で転がされているというのは決して望ましいことではない。
ただし、今回は掛け金が少ない。失ってもさして懐は痛まず、成功すれば敵戦力を見極める上での最善手だ。
そのように思ってひとり頷き、徐に立ち上がって書類を暖炉に放り込んだ。
蟲に集られるかのごとく熱と光に蝕まれる紙束を閉じた目で見詰め、彼は柔らかに笑む。
「斥候とは消耗品であり、すべからく有効活用すべきなのだ。悪く思うな。まあ――悪く思える人形なぞ、作るわけもないが」
炎の舌で舐められた可燃物が黒い塵に変わっていくのを横目に窓際へと歩み寄る、その顔にもはや笑みはない。常人が見れば発狂するほど冷たい無表情。
「さあて、愛しき怨敵よ。この程度の苦難は乗り越えてくれよ?」
幻想の如き少年は、その無表情と裏腹に。
歌うように言の葉を紡ぎ、全霊の呪詛と愛を呟きに乗せた。
「……む」
切り替わって最初に見えたのは、門扉。
よくよく周りを確認したところ、僕は既に聖ジョージ教会の中に入り、礼拝堂の前で覚醒していた。新しい傷や痛みはなく、教会の周辺は静寂に包まれている。なんとか無事に切り抜けたようだ。
しかしポケットや指輪を確認すると、ルーン石二十八個、松脂爆弾二つ、血文字ルーン紙二十三枚がなくなっている。加えて魔力消費による疲労も全身を襲っているからして、戦闘はかなり激しいものだったらしい。
餅は餅屋。僕が魔術師なら、彼女――アリスは魔術使いだ。専門家が使うべきと判断したなら迷わずそうするべきだし、この状況下では消耗を惜しむ余裕もない――にしても使いすぎだ。装備を万全に整え直すには一ヶ月ほどの自由時間が必要になるだろう。
周囲の状況はというと、彼女は主導権が僕に戻る前に索敵を済ませておいてくれたらしく、網の範囲内には誰もいない。教会の中も無人だ。
全体として見れば、次善の成果といったところか。ただし次の襲撃をこの装備で切り抜けられるかどうかは怪しいので、必死に隠れ潜んでおくとしよう。
スーツの汚れを大まかに払い落とし、教会に入る。
軋む扉を思い切って開け放つと、すぐ目の前に礼拝堂が現れた。
至って普通の礼拝堂だ。長椅子と、机と、十字架。そして十字架の前に、僕に背を向けて立つ男。
「お前は……」
僕が身構えたのは一瞬のことで、すぐに体の力を抜いた。
上から下まで統一された赤の服装と、やや古臭い感の否めない堅苦しい髪型は、あの人物を彷彿とさせたからだ。なぜ熱源探査式の対人索敵魔術に反応しなかったのかはわからないが……。
彼はゆっくりと振り向いて、こちらの考えを確信に変えた。
「貴方がMr.バンクスですね?」
「ああ、僕がバンクスで間違いありません。ところで君は?」
僕の問いに、赤い宝石が差し込まれた杖を撫でて、彼は答える。
思えばこの時、僕は完全に間抜けとしか言いようがない醜態をさらしていた。
そも魔術師たる者、自らの魔術に信を置き、異常が発生したならその原因を一刻も早く知るべきだったのだ。
助かった要因はたった一つ。
僕は原作キャラの大半を総じて敵とみなしており、油断などこれっぽっちもしていなかった。
「我が名は――」
瞬間。
土下座のような形で、極めて不格好ながらかがみこんだ僕の体の上を、一筋の刃らしきものが通り抜けていった。はっきりとは見えないが、魔術でなく物理攻撃のようだ。
――っぶねえ! そう心中で吐き捨てる間があったのかなかったのか。
続いて振り下ろされた第二撃を、あえて突っ込み肉薄することで避ける。よく見ると、ガラスのような半透明のなにかを手にまとっているようだ。それがなんなのかは、やはりわからない。
しかし、ここは額と額がぶつかるほどの至近距離だ。遠坂は素早く腕を引き戻すが、僕が一手早い。
「ūruz(雄牛よ)!」
一声叫べば、全身に充実する力。勢いと力に任せて、スーツの襟を掴んで思い切りぶん投げた。
遠坂――いや、謎の男は机と衝突し、破壊されて木材となったそれと共に十字架のかかる壁まで吹き飛ぶ。
その隙に身体操作の反射部分をアリスに委ねる。先の精神譲渡による負担はまだまだ回復しきっていない。ゆえに身体の反射のみを彼女に委ね、戦闘思考は僕が行う。
もう限界に近い身体を騙し騙し使っているのが現状だ。今のうちに逃げ出したいが――
「……ふむ。思ったよりやる。これは主に報告せねば」
僕の目の前で立ち上がる男は、どうやらちっとも堪えていないらしかった。これはもう駄目かもしれない。せめてもの強がりで、全身に満ちる疲労だけは見せないように振舞ってはいるが、どうせバレているだろう。
「殺されるほどの恨みを誰かから買った覚えはないけど。君が本物の遠坂時臣なのか知りたいし、名乗りくらいは上げてもらえないかな」
「私は遠坂時臣ではない。が、名乗る許可も与えられていない。……我が主からの伝言がある」
「そりゃどうも。なら、さっさと言って帰ってくれ」
会話の間じりじりと後ろに下がりつつ、後ろ手でイチイの小枝を、相手に見えないように取り出す。これはまだ使っていなかったようで残っていた。さらに足を小刻みに動かし、床にルーン文字をこっそり書いておく。
これが成功すれば、勝ち目は五分五分。
「我が同胞。運命の悪戯に呑まれなければ、いつか会おう。以上が主のお言葉だ」
「同胞ゥ? 残念だけど電波さんはお断ひぇっ!?」
返事も待たず、男が突っ込んできた。遠坂時臣の顔と声だから遠坂を相手にしている気分になるが、一歩目の踏み込みと、そこから生み出される初速は常人のものではない。踏み込んだ床が砕け散っているし、初速は初速で頭おかしい。代行者かお前は。
驚く暇もあればこそ、イチイの枝を投げつける。男は回避する素振りも見せない。
「īhwaz(イチイの木/防御)」
ルーンの力で、イチイの小枝から根が伸びる。枝が伸び、蕾が咲き、男の足にまとわりつく。魔術強化された木だ、振りほどいても引きはがしても僅かな欠片がまた芽を出し、まとわりつく。成人男性の筋力でも一分ほどで身動きひとつ取れなくなり、絞め殺されて養分に変わる代物だ。
結論からいうと、それはなんの妨害にもならなかった。ただ走るという行為を人外の筋力でもって行う目の前の男は、伸びても伸びてもそれを砕き、引き剥がしつつ僕に迫ることが可能だったのだ。無残に蹂躙されたイチイの木が空中に舞う。数秒後の僕の姿だ。
だから、あえて接近した。イチイを物ともせずカウンター気味に突き出された右手を左手で弾き飛ばし――あまりの重たさに、弾き飛ばすというより軌道を逸らすのがなんとかだったが――右の拳を水月に打ち込む。
だが、かえって僕の右手が痺れた。腹筋を打ったわけでもないのに、まるで岩のような硬度だったのだ。鉄板でも仕込んでいるのか。
掌底から服を掴み、半身になることで反撃の膝蹴りをかわす。そのまま投げ飛ばそうとするが、やり過ごした膝蹴りが、膝から先を伸ばす蹴りに展開して頭を刈りにきたので、投げを諦めてその場に伏せた。その勢いで男の服のボタンが飛び、上半身がはだける。そこにあったのは間違いなく生身で、つまり先ほどの掌底からすると、こいつの体はくまなく岩のような硬さなのかもしれない。正直、あの感触で生身とは信じたくなかった。
だが、生身とわかればやりようもある。
体勢を崩した僕に、半透明の刃による突きが繰り出される。正直かわせる気がしない。
最初の二撃を偶然にも回避したところで、イチイの木が上手い具合に伸び、男の右腕が伸びきったところで肘を固定してくれた。僕は右の手のひらに水のルーンを書き込みつつ飛び込んだ。左腕による突きが襲ってきたが、僕の左肩をこするだけに終わり、僕は再び男の懐に潜り込む。
腹部に掌底を繰り出す。先ほどの水月の硬さからするに、人体の限界を超えた耐久力の持ち主だ。だが、たとえば全身を鉄に変えているとか、魔術障壁を張っているとかではない。だから、インパクトの瞬間に水のルーンを発動する。
「laguz(水)」
「ぐぼぁッ!?」
水のルーンが掻き消え、男は目を見開きながら悶絶し、吐しゃ物をまき散らして後退した。大腸と小腸が、渾身の掌底をぶち当てられたのと同じ量の衝撃を受けて苦悶しているのだ。
これは、接近戦が苦手な僕なりに「一撃の火力を高めよう」と試行錯誤した結果生まれた小技で、水のルーンの効果により、肉体の水分を経路として衝撃を内に伝播させ、臓器全体にダメージを与えるというものだ。中国拳法の発剄と同じ発想だが、あちらは技術によって物理法則を誤魔化すだけの不完全な打撃であるのに対し、こちらは文字通り、水分に直接干渉することで威力を減損させることなく体内にダメージを与えられる。マジカル☆八極拳のような脳筋技能ではなく、魔術師らしい頭脳的攻撃だと自負している。もし僕の属性が水だったなら、敵の体内の水分をフルに利用して脳まで衝撃を伝えることもできるのだろうけど、残念ながらこれが限界だ。
実は某錬金術マンガのように炭素硬化してました、なんてカラクリだったなら術理そのものが通用しなかっただろうが、肉体の組成を多少変えた程度では防ぎきれまい。
「まだまだっ!」
今の一撃で消えた水のルーンを書き直し――恐ろしい風切り音を伴って繰り出された回し蹴りを、右腕で防御する。
研究肌の細腕だけで、この人外めいた蹴りを防ごうというのは流石に楽観的すぎたようだ。肉が潰され、骨が軋み、思い切り吹き飛ばされた。転がりながら即座に起き上がるが、右腕に走る激痛に顔をしかめてしまう。よくわからないが、骨にヒビでも入ったのだろうか。
「ぐ、ォお……痛っぅう……ひぃっ!」
悲鳴が出るほど恐ろしかった。男は嘔吐しながらも足を動かし、高速でこちらに迫ってくる。イチイの木も既に振り払われており、もはや足止めにはならない。吐瀉物と苦悶の混じる表情は、まさに悪鬼の如き形相だ。思わず顔が引きつる。
化物め、悲鳴と呪詛が混じった悪態を言う暇もない。もう二秒で互いの間合いだからだ。
だが。ここは僕の結界内だということを忘れているようだ。
男が、幸運にも最初の仕込みを踏みしめた。それを僕は見逃さなかった。
「þurisaz(棘)」
「ぐぅっ!?」
木の棘が飛び出し、男の足を貫いて縫い止めた。棘には返しもついており、無理にはずせば移動に支障が出るレベルで足が削げる仕組みだ。最高速に達したところで突き刺さったため、停止しきれずに慣性で派手に抉れていた。右手の手刀で素早く棘を切断し、残った部分は気合かなにかで引き抜いているが、もう遅い。その間に僕は十分な距離を確保していた。
「isa, þurisaz.kaun(氷/槍、棘、炎)」
小さめの氷の槍衾を射出してフクロにし、そちらに気を取られている隙をついて松脂爆弾を投げ込む。即座に起爆すべくルーンを唱えたが――不発。
魔力と回路が万全なら即座に起爆できたのだが、ついにここで限界が来た。最後に唱えた炎のルーンに魔力が通っていなかったのだ。
「――Er anderen eine Grube gräbt, fällt selbst hine(人を呪わば穴ふた)」
「kaun!(炎!)」
男の詠唱が終わる直前に、こちらの詠唱が割り込んだ。今度はしっかりと魔力を込め、力を入れて叫ぶ。炎が解放され、男の姿がかき消された。
お互いに相手を視認することができなくなったところで、教会外の草むらに飛び込んで隠蔽魔術を行使し様子を伺う。
死んでいればよし。もし生きていれば、負傷具合によっては戦わなければならない。普通に逃げてもあの速度では追いつかれるし、機動力を削げたと確信するまでは迂闊に逃げ出せない。そして残念なことに、あれで殺せた気がしない。なんの詠唱かは知らないが、ドイツ語のなにかだ。あれがギリギリで間に合ったのなら、あの爆発も防御されている可能性が高い。
やがてひとつの影が、煙を振り払ってゆっくりと歩を進めてきた。
迎え撃つべくそれに焦点を合わせ――
「!?」
息が止まったのか、思わず吐き出してしまったのか、自分でも定かではなかった。いま見えている物についての理解が、脳の処理能力を凌駕したからだ。
一言で言うと鎧。
白銀の全身鎧を纏い、長大な突撃槍を携えた重装歩兵の姿がそこにあった。背中には巨大な筒らしき物を縦に背負い、胸部の鎧には逆十字(アンチクロス)が刻印されている。鎧の表面には煤が付着しているところを見ると、爆発の寸前にどうにか装着して防ぎ切ったようだ。
一歩ごとにガシャガシャと音を立てるそれは、フルプレートメイルどころではない。もっと仰々しく、華美で、ごてごてしている。さながら儀礼用の大鎧のようだ。実用性には欠けるレベルで俊敏さが失われるが、防御力だけは確かという類のものだ。もし、あれがただの鎧なら、僕でも楽勝できる。
僕の乏しい語彙で説明しきれないそれを一言で表現すると、とどのつまり。
「……騎士?」
それも、おとぎ話でしか見たことがない、重装の聖騎士のようだった。
鎧からはしっかり魔力を感じることだし、ただのアホな装備ではないだろうけれど。アトラス院あたりの作品だろうか。もしそうだとすれば、見かけからでは戦闘能力を測りきれない。あそこの人間はどんなキチガイ作品を生み出していても不思議ではないのだ。なにせ、魔道式のパイルバンカーを作るような連中であるからして。
さて。あの鎧がどんな能力を持っているのかは知らないが、あれだけ巨大な鎧を着こんでいる以上、これまでのようにダメージを与えることはできないだろう。幸い、動きは鈍いようだから、翻弄するのは容易そうだが。
不安なのは、「いけそう」「容易そう」という曖昧な仮定しかできない点だ。万全ならヒット&アウェイで様子を見るのだが、今は長期戦ができる状況じゃあない。魔力だってほとんどを使ってしまったし、装備もこれまでにないくらい貧弱だ。おまけに敵があいつだけとは限らないのに、僕の味方は今のところ僕しかいないのだ。だから、戦うにしても逃げるにしても、短時間で完遂しなければならない。
《Mr.バンクス。どこにいる?》
「……」
鎧によってくぐもった声に、僕はもちろん応えない。あれがどんなキチガイめいた代物かは知らないが、わざわざ居場所を知らせてまで試したいとも思わない。好奇心が刺激されないと言えば嘘になるが、まず考えるべきはそいつが僕の命を狙っている現状に対する策であり、この際探究心など路傍に捨てるべきなのだ。
さて、男は、なぜかこちらの隠れている方向を正確に見つめ――
《私の任務の都合上、ひとつだけ教えておく――この劔冑(クルス)なる装備には熱源探査能力がある。這いつくばったままでは死ぬだけだ》
「クソッタレェッ!!」
近場にある自動車の陰まで飛び退る。自動車如きでどうにかなるかは別として、動かないよりは百倍マシだ。
そして次の悪態を叫ぶ間が与えられることはなく、離陸直後の飛行機のような轟音が轟いた。振り返ってみて、我が目を疑った。騎士の背中にあるブースターが火を噴いている!
騎士はクラウチングスタートの姿勢を取り、アンカーで体を地面に固定して、十分な推力が得られるまで待っているようだ。ブースターから出る炎は少しずつ大きくなっており、鎧込みで数百キロはありそうな巨体が浮き始めていた。この世界はいつからロボット物になったのか、我が身の破滅も気にせず宝石翁に問い質してみたい。
そして恐ろしいことに、あいつは突撃槍をこちらに構えているじゃないか。思うに、馬上槍と同じ使い方を、あの謎めいた鎧型パワードスーツでやろうというわけだ。馬がいなけりゃロケットエンジンを使えばいい。まったくもってロマンがあるが、冗談きついというものだ。
僕には四つの選択肢がある。回避か、防御か、迎撃か。大穴は投降だ。平和主義者である僕の嗜好にも実に合致するので、相手が問答無用で僕を殺そうとしていなければ名案とさえ呼べるかもしれない。
そんな現実逃避をしている暇もなく、巨大な騎士が接近してくる絵図が脳裏に浮かんだ。駄目だ。考える時間も対処する余裕も全くもって足りていない。あの構えは明らかに突進だということはわかる。なら、ここはどうにか耐えて、距離と時間を稼ぐしかない。
残り装備はイチイの木が三、役に立ちそうもないルーン石が数個、血文字ルーン紙が各種数枚ずつ。
「alg,isa,geb id est þur(護りのイチイ、停滞の氷、合わさればすなわち氷の巨人が護りし門なり)」
超高速詠唱で車とイチイを核にした『氷巨人の門』を作成。最大の防御力でここを凌ぐ。魔力の枯渇で倒れそうになるが後回しだ。いま倒れたら二度と起きられない。
確実な退路を探すべく周囲を見回すが、ここはどうも開けた場所だ。上手い具合に見つかるわけも――
そして時は来る。アンカーが格納され、白銀の巨体が空間を軋ませながら突進してきた。『氷巨人の門』が抱きしめるかのように突進を受け止め、壮絶な衝撃音が響き渡った。
巨人はその体に大きな亀裂を走らせたが、突進は止まった。しかし、僕が安堵したのを見計らったかのようにブースターの炎が勢いを増す。おいまさか、と呟く暇もあればこそ、巨人は粉雪のように打ち砕かれてしまった。
僕は咄嗟に左に飛び、男の進路から退避した。ここから曲がって僕に衝突するのはどうやっても不可能だ。しかしながらこいつはまたも僕の上を行った。大きくひしゃげた突撃槍を棍棒のようになぎはらい、衝突面積を増やしにきたのだ。
猛スピードの中で行われた一連の攻防は、お互いに著しく精細さを欠いていたが、それでも僕の脇腹は突撃槍の先端に掠り――浮遊感――
爆音。
衝撃。
暗転。
浮上。
「……ぅ…………ぁ…」
なんだ、耳がおかしいな。喋っているはずなのに聞こえない。
いや違うな。声がそもそも出ていないのか。そういえば口も動かしづらい。
あれ……空って、あんなにぐにゃぐにゃネジ曲がっていただろうか。太陽がまるでストーブの上に置いておいた飴玉みたいに溶けている。溶けて広がってへばりついて、その上焦げ付いた最悪のあれだ。
状況の判断に費やしたのは数秒か、数十秒か。
まず感じたのは脇腹の激痛だ。脳内麻薬の分泌である程度は抑え込んだが、肉が削がれているので視覚的に痛い。第七肋骨が見えてしまっているじゃないか。心が感じる痛みは、いわゆる錯覚の一種なのだろうが、脳内麻薬では消せない。次は上手く動かない肺を必死に動かし、酸素を取り込む努力が必要だった。呼吸をすればするほど意識がクリアになり、死の恐怖が克明になる。パニックを起こさなかったのは、自分をこんな目に合わせた外敵がすぐそこにいるはずだと知っていたからだ。そうでなければ今頃は過呼吸を起こしながら震えて転げまわっていただろう。
「……ぐ、う、お……ッ!」
臍の下に気を込め、震える足腰に芯を入れてゆっくりと起き上がる。
揺れる視界に定まらない意識、よろめく体だけでも十分だ。その上、眼前に致死の敵手と来れば気分は最悪極まりない。
騎士は起き上がる僕をじっと見つめているが、攻撃の気配はない。ついさっき意識を失っていた時に追撃してこなかったのも変だ。なにか、攻撃に条件があるのだろうか。それとも、主とやらの命令か。考えたくない可能性としては、目の前のこいつが嗜虐趣味の持ち主だというものもある。
《状況対応力C。引き続き戦闘を続行する》
これは実力試験だったのか。前世を合わせてもここまで嫌な試験は受けたことがないが、これを計画した輩はよほど悪趣味と見える。
それっきり敵は黙り込み、ゆっくりと歩み寄ってくる。
あの金属の塊が人を内包したまま突き進んでくるとは思わなかった。この世界の法則に従うならば、超一流の魔術師であってもあれだけの出力を単騎で発揮することは非常に難しいからだ。
つまり、敵手は十分すぎる魔力と、空気抵抗、摩擦、重力、加速減速の全てを計算するだけの超高度な術式か頭脳を持ち合わせている。その結果、当たれば戦車であろうとも粉砕できるだけの威力を持つ突進(チャージ)が、空間を軋ませるほどの速力で襲い掛かってくるということだ。これが最悪でないという奴がいるならお目にかかりたい。きっと英雄候補だ。
現実逃避を重ねながらも打開策を必死に探す僕の目に、マンホールが目に入る。
迷わず松脂爆弾を投擲し、爆炎で煙幕を張った。熱源探知ということなら、炎の熱で一時的に無効化できるはずだ。
「……こっからだ、クソッタレ」
爆炎と煙に乗じて手近なマンホールの蓋を吹き飛ばし、中に飛び込む。
敵は来る。すぐに来る。だから、ここで完封する。奥の手を使ってでも、殺しきる。僕と、我が友人のささやかな幸せを破壊するやつは殺して殺して殺しつくしてやる。
――後から考えると、本当に秘していた切り札を使わなくてもどうにかなったのかもしれないと思う。あれだけのエネルギーを消費する魔術なら、普通に考えてもすぐ稼働限界を迎えるはずだし、そうでなくても人目に付きすぎるからだ、でも、この時の僕は、恐怖と怒りと生存本能で頭がブッ飛んでいて、とても冷静に判断できるような状況じゃなかった。だから、時が巻き戻せても同じやり方を使ってしまうのだろう。
僕はボロボロのスーツとシャツを脱ぎ捨て、上半身を露わにする。そして自らの胸部に手をやり、そこに刻まれた『紋』を起動する。
『紋』の起動と同時に、胸全体に及ぶ『紋』を覆い隠していた魔術染料が剥がれていく。
これこそが我がバンクス家の秘奥、根源の渦に至るために受け継がれてきた秘中の秘――に、僕にしかできない改造を施した最大、最速、そして最高の魔術。
もし時計塔に認識されれば封印指定は免れない、空前にして絶後の大魔術。見るのはこいつで二人目だったが、片方は死人で、もう片方はすぐそうなる。
「Quid faciam? Quo eam? Nudus ara, sere nudus. Superanda omnis fortuna ferendo est quod abyssus abyssum invocat. Amat victoria curam. Aspirat primo Fortuna labori. (私はなにをすればよいのか? 私はどこへ向かえばよいのか? 裸で耕せ、裸で種を撒け。全ての運命は耐えることで克服されなければならない、なぜなら地獄は地獄を呼ぶ。勝利は労苦する人を好む。幸運は我らの最初の努力に微笑むのだ)」
魔術回路が回転、回転回転回転回転回転――ギアチェンジ――回転回転回転回転回転回転。
この励起は『紋』を使うためのものじゃない。『紋』による魔術行使に僕が巻き込まれないための楔を作るために、僕の全魔術回路を、ほんの一瞬とはいえ、限界を超えて稼働させることが必要になるだけだ。
これで魔力は尽きる。アリスを起動している余裕なんてとっくになくなった。ここからまだ敵が追加されるようなら大ピンチ間違いなしだが、今の僕にとってそれは重要だろうか? 今、この瞬間にもミンチにされかねない状況下で、狂気の沙汰以外のなにが役立つだろうか。
戦闘とは、冷静に狂えるやつこそが勝利する。僕は「冷静に」の部分はともかく「狂う」ことに関しては一家言持ちだ。
「Citius, altius, forties!(より速く、強く、高く!)」
天井がぶち抜かれ、崩れる煉瓦とコンクリートをかき分けて銀の騎士が下りてくる。衝撃のせいか下水道の明かりが消えると、鎧の逆十字が光と異彩を放ち始めた。さながら異教徒をドブに追い詰める聖騎士だ。胸にある逆十字が実に皮肉げに目立っている。
猶予は与えた、ということなのだろうか。着地と同時にまたも突撃槍を構え――ひどく折れ曲がってはいるが、鈍器としては実に有用だと僕の脇腹で証明済みだ――アンカーを刺して背中から火を噴く。じきに猛加速で僕に迫ることだろう。構えられた突撃槍の切っ先は、かのディルムッド・オディナを殺した猪とまではかずとも、人を肉片に変えて余りある威力に違いない。
「この門をくぐる者、一切の希望を捨てよ」
「……神曲か」
僕は答えず、そっと左手を差し出した。
そして、手招き。
「来い」
「参る」
今まで戦ってきた中で初めて感情のこもった声が返ってきた。
鎧の下の顔が、笑っているような気がした。
関係なく、殺すのだけど。
「オォッ!」
短い雄叫びと共に、鎧騎士がアンカーを格納する。
地面に縫い付けられていた超重量の死が浮遊し、空気の壁と戦いながら僕の眼前へ――
差し出した左手に、槍の切っ先が触れる。
左手の皮膚がひしゃげ、破け、肉に届き――騎士の姿が、吸い込まれるように消えた。さながら左手に食われたかのように。
実際、食われたと言っていい。
「……ふぅ」
騎士は消えた。
破壊の爪痕と、ブースターの余熱だけが彼の存在を証明する。だが、彼はもうどこにもいない。
安堵と疲労から尻餅を着き、魔術回路をゆっくりと減速させる。僕の裸体に詳しいやつがいれば、その『紋』の一角が消えていることに気付けただろう。普段は染料で隠しているから、知る奴がいるはずもないのだが。
アリスが僕のエースだとすれば、『紋』はジョーカーだ。使い捨て、回数制限ありの札だが、命中さえすれば確実に殺しきることができる。僕の最高の財産にして最後の手段である『紋』の一角と引き換えに消えた彼は、二度と現れることもない。あれはそういう魔術だ。たとえ「魔法」を用いようとも、彼の蘇生は不可能だ。並行世界から別の同位体を連れてくることも復活と定義されるのであれば、話も変わってくるが。
そして、魔術回路がオーバーヒートしてしばらく使い物にならなくなる。この上さらに魔術を行使すれば、待っているのはケインと同じ末路――魔術回路のショートによる致命傷だ。
とにかく、僕はようやく気を抜くことができた。地上からは消防車や警察のサイレンがひっきりなしに鳴り響き、近づきつつあるからだ。この状況で再度の大規模襲撃は流石に不可能だ。やるにしても日を改めるに違いない。
荒い息をゆっくり整え、ローブを着込みつつ、僕の脳裏は先ほどの騎士について考え始めていた。
最初、彼の言葉は謎だらけで、こちらをからかっているのかとすら思うところもあったが、今にして思うとなんとなく心当たりがあったのだ。
そもそも、僕に対して「同胞」などと仰々しい呼び方をできるような存在は、たった二種類しかいないではないか。
たった二種類――魔術師と、転生者との二択だ。そして、敵がわざわざ遠坂時臣の姿を使ってきた以上、もはやどちらからの刺客だったのかは九分九厘明らかだ。なぜ命を狙ってきたのかは知らないが。
しかし遠坂時臣の身柄の安全を確認しないといけないし、あの訪英の知らせは偽物だったのか本物だったのかも調べないといけないし、どこから僕が転生者だとバレたのかも調べないといけないしで、色々な仕事が山積して――
コツリ。
いまや崩壊した下水道に、明らかな足音が響く。なんとなく、ヒールや革靴のコツコツという音の気がする。
しかも、もはや身構える体力すら残っていない僕の方向に歩み寄ってくるのがわかる。魔術警報がなくとも嫌な予感しかしないが、身構えるどころか立ち上がって逃げる力も残っていない。座して待つしかなかった。
暗がりの中、音だけが進んでくる。
「目標を確認。当該状況、魔力波長、外見からベンジャミン・バンクスと断定します」
暗がりから現れたのは、驚くほどの美女だった。ネイビーのジャケット、タイトスカートにピンヒールの靴と、ただのビジネスウーマンと変わりない服装だ。白い肌と白い髪と赤い瞳、という明確なアインツベルン産ホムンクルスの特徴を備えてさえいなければ、僕は彼女に跪いて愛を奉げてもよかったのだけど。
息も絶え絶えの僕は、必死になって口を動かすことにした。ひょっとしたら通りすがりのただのOLで、僕を助けてくれるかもしれないという妄想に縋ったのだ。すでに最低の現実に襲われているのに、頭の中まで最低の想定をすることはない。
「これ、は……すごい美人さん、だね……会えて嬉しいよ」
僕の言葉を黙殺した彼女は、軽く手を振る。すると、まるで魔法を使ったかのように、その両手がナイフと拳銃を握っていた。袖口にでも仕込んでいたのだろう。拳銃は骨董品のワルサーPPK。師匠が見たら「ファシストの銃なんぞ使いおって!」と激昂すること間違いなしだ。ナイフも、刃渡りは30センチ程度だが、刀身の分厚さと柄のゴツさからして明らかに軍用だ。この時点でこの美女が通りすがりの一般人という奇跡は完全に否定された。そして、なお悪いことに、ナイフに限っても、僕の肉と骨を断ち切るのになんの不備もなさそうだ。
「そのナイフがなけりゃ、もっと嬉しいんだけどね」
無言。賢いのか、それとも心をインプットされていないのかは知らないが、少なくともお喋りに時間を使ってくれることはないようだ。だから、情報を喋るだけ喋ってチャンスを逃すというハリウッドのお約束を守ってくれそうにもない。
彼女はゆっくりと、しかし隙のない動きで近寄ってくる。なんらかの格闘技は記憶させられているのだろう。そのあたりは向こうのお家芸だ。
「なんでアインツベルンが執拗に僕を狙うのか、冥土の土産に教えてほしいんだけど」
黙殺。ダメだ、これは本当に話が通じない。人形相手に与太話で場を繋ぐなんてコメディアンのやることだ。そう遠くない未来に自分の首が柱に吊るされる状況で、酒の席の笑い話を作る必要を全く感じない。
ホムンクルスは僕から7メートルの地点で立ち止まり、ワルサーを突きつけた。照準は明らかに僕の額だ。
ひくっと喉がひきつる。嫌だ、こんなところで抵抗もできずに殺されるなんて絶対に受け入れられない。僕はまだなにもしていない。遺してもいない。まだ生きていたいんだ。こんな人形に殺されて、下水道のネズミに死体をかじられる最期なんて耐えられない。
僕はぎゅっと丸まり、両腕と足を盾にした。頭部と胴体さえ守れれば致命傷は避けられるはずだ。たとえそれが苦しみを長引かせ、たった数秒しか僕の寿命を延ばさないとしても、そうせずにはいられなかった。
そんな惨めな姿にも、ホムンクルスは眉ひとつ動かさず、ひどく冷静に引き金を引いた。乾いた音とほぼ同時に右ひじが痺れ、弾丸が跳ねて下水に落ちる音がした。ローブの繊維を強化している魔術は非常に低レベルなのだが、入射角がイマイチな小型拳銃弾が相手ならどうにか弾いてくれることもあるらしい。これは朗報だ。もちろん弾いてくれないこともあるだろうが、ひょっとすると数秒の余命が十秒くらいにはなるかもしれない。
次は右上腕に衝撃。コートを貫通して体内で止まったらしく、熱した炭を押し付けられたような灼熱を感じる。魔力がないから痛覚遮断もままならないのが嫌なところだ。右腕がだらりと垂れさがりそうになるのを左腕で押さえつけ、こらえる。
三発目はコートに覆われていない左拳を狙われた。これは小指の肉を削り取ったが、骨に掠って逸れてくれたらしい。あらぬ方向に飛んで壁石を削った。正直、これが一番痛かった。あまりの痛みに鼻水と涙が出てくるが、目を瞑ればその場で死ぬ予感しかしないので、目を瞑って歯を食いしばることもできない。
四発目は脇腹。これは抉れた部分を狙ったらしいが、ちょうど肋骨に直撃してそこで止まってくれた。弾丸を受け止めた第八肋骨が粉々になった以外は非常に幸運だったと言える。
五発目と六発目は連続して左拳のど真ん中に命中した。ついに腕がダラリと地に着き、頭部が露わになる。
この時点で僕はなにも考えられなくなっていた。左拳から走る激痛が思考力というものを根こそぎ奪っていたのだ。死の恐怖すら忘れ、僕は泣き叫びながらその場に蹲った。
そして七回目の衝撃。脳をじかに掴まれて思い切り揺さぶられている、と言われても信じられるレベルの振動を食らい、そこで僕の意識は途切れた。
だから、ここから後のことは、他人から聞いた話と僕の想像だ。
僕は不幸中の幸いというものに縁があったらしい。というのは、左拳をずたずたにされた痛みがあまりに激しく、ついに僕は蹲って泣き叫んでしまったのだが、それが良かった。僕の額を狙っていた七発目は、亀のように動かなかった僕が急に動いたせいで微妙にズレ、頭頂部から後頭部にかけての丸みを帯びた部分に当たったのだ。弾丸は僕の頭皮と頭蓋骨の表面を削りはしたが、その威力を伝えきることなく逸れてくれたのだ。尤も、その衝撃は僕が脳震盪を起こして意識を失うには十分すぎた。
さて、ホムンクルスが持っていた拳銃はワルサーPPKだ。おそらく装弾数は七発のタイプ。だから、最後の一発が外れた時点で、彼女はナイフを構えて僕に近寄ってきたはずだ。そして、僕が狸寝入りからの逆転を狙っているわけではないのか、少し慎重すぎるくらいに確かめたのだろう。後から時計塔の検死官に聞いた話だが、彼女は魔術が行使できない個体だったらしく、死に体とはいえ、魔術師に迂闊に近寄ることのリスクを大きく見積もったのだ。
僕の意識が完全に失われており、トラップも仕掛けられていないことを確認した彼女は、念のために僕の背中を押さえつけて動きを封じ、首元に狙いを定める。おそらく一太刀で確実に動脈と神経を断ち切れるだけの技量を有していたのだろう彼女は、確実に任務を遂行するべく、そこを狙うはずだ。
そして彼女は、天井の崩落部分の穴から銀色の触手が伸びていることにとうとう気付けなかった。
「Scalp!(斬ッ!)」
ナイフを振り下ろさんとしたまさにその時、彼女と僕の直上の天井が銀の閃光に寸断された。
瓦礫にまじって落下してくるのは銀色のぷよぷよした球体と、それに体を隠した青い服の男だ。球体からは無数の細い触手が伸び、切れ味鋭い鞭となって彼女に襲い掛かる。
そこは流石のホムンクルス。予想外の事態に一瞬は硬直したが、自分の命よりも任務を最優先し、ナイフを振り下ろそうとして――
「愚か者め」
まず届いたのは三振りだったらしい。
音速にも迫る水銀の刃は、ナイフを持つ手首を一振りで切り取り、ナイフが僕の体に当たらないよう、宙を舞う手首ごと二振りで下水に弾き飛ばして、三振りで頭部を斜めに両断した。
そして、そのコンマ数秒後、残る鞭刃が肉塊と化した彼女に殺到し、残る体を完全に解体した。血の雨が降り、眼球の片方がケインの足元に転がる。
アーチボルト家の諜報網を用いて――なぜそこまで遠坂を疑っていたのか、理由を教えてはくれなかったが――偽報に気付いた我が友ケインは、足元に転がるホムンクルスの眼球を踏み潰し、僕の体を水銀で保護しながらこう吐き捨てたそうな。
「刺客風情が、我が友人を害するのみならず、亡き者とするなど……この私が許すとでも思ったか」
そして、僕は目覚めた。
目覚めて、なにがなんだかわからず混乱する僕の目の前に、おそらくは護衛役を務めていたのだろう男の魔術師が顔を突き出してこう言った。
「お目覚めですか、Mr.バンクス。一命を取り留められたようで、なによりです」
こうして、僕は丸二日の昏睡を経て、優雅な入院生活と相成ったのである。
9/22
一部納得いかなかったので削除し、修正してアップしました。
本当にお久しぶりです。
海外に行ったり部活したり就活したりで死ぬほど忙しかったのもあって、普通に忘れてました。
完結までプロットは作ってるけど肉付けする心のゆとりと気持ちが追い付かない感じですね。
今後も不定期更新になりますが、よろしくお願いします。
そうそう、剱冑に関してはわざと出してます。名前だけパクったとか、偶然被ったとかじゃないです。でも装甲悪鬼村正はなかなかマイナーな気もするので、fateだけ知ってれば普通にわかる書き方をしていきたいと思います。