「――――と、いうわけよ」
私の――自分で言うのもアレだけど――不幸な過去を聞いていた筈の目の前の男は「なるほどな」と一言呟くと、私に淹れさせたコーヒーを啜った。
「実に不味い」
何がおかしいのか、男は笑いながら――人に淹れさせておいて――不味いと言い切ったコーヒーを一気に飲み干した。
男と出会ってからほんの半日程度しか経っていないけど、この男の傍若無人な在り方を散々見せつけられて、諦観にも似た気持ちを抱いていた。
「しかし、残念だ」
男は中身を飲み干したカップを机に置くと、全然残念そうじゃない顔で言った。
「汚物に塗れた物など、どれほど優れた逸品であろうと価値は無い。我が財に加えてやろうかとも思ったが……」
言いながら、男はおよそ日本では見掛けない……というより、世界中探しても滅多に見掛けない赤色の瞳を向けて来た。
人差し指を机に置いたコーヒーカップに向けながら――――。
「不味いんじゃなかったの?」
「さっさと淹れて来い」
人差し指でコーヒーカップの縁を叩きながら偉そうに命令してくる。
私は溜息すら出て来なかった。
誰かに対して逆らう、という事に疲れてしまって久しい私はそれ以上は何も言わずに素直にコーヒーのおかわりを淹れに部屋を出た。
年中無休で真っ暗な廊下を進み、階段を降りる。
階下に降りて来ると、いきなり肩を引っ張られた。
その手の主が誰なのかは振り返らなくても分かる。
「セックスなら後で部屋に行くから待ってて欲しいんだけど?」
私が言うと、手の主は嫌そうな顔をする。
「違うよ、凛」
ゲンナリした様子で首を振るのは私の兄だ。
兄、と言っても血の繋がりは無い。
髪の色も私のは純粋な黒なのに対して、彼の髪は少し青みがかっている。
兄、間桐慎二の迂闊な言葉を私は――いつものように――窘めた。
「凛じゃないわ。桜よ、兄さん」
「家の中ならどっちでもいいだろ。それより、その……」
いつもの掛け合いの後、歯切れの悪くなった兄さんの様子に彼が何を言いたいのか察しがついた。
「アーチャーなら大丈夫よ。いきなり暴れ出すようなタイプじゃないようだし」
「でも、さっき喧嘩してたみたいじゃないか……」
「あれは……、私が悪かったの」
――――半日程前の事だ。
私はこの十年間の大半を過ごして来た屋敷の地下にある広大な空間に降りて来た。
足元に這い寄って来る刻印虫と呼ばれる淫虫を無視して空間の一角に足を向ける。
この家の頭首に手の甲に浮かんだ紋章の事を報告する為だ。
報告って言っても、もう相手には全て知られてしまっているから、これはただの確認作業だ。
私の体の中には頭首が私の監視用に入れた刻印虫が居る。
私が何を喋っても、何を聞いても、何処に行っても、何をしても、全て頭首に知られてしまう。
トイレやお風呂も例外では無く、兄さんの父親――つまり、私の義父――が生きていた頃は私の反抗心を徹底的に抑えつける為に排泄まで完全に管理されていた。
死ぬより酷い事があるっていう事をこの家に連れて来られてからの十年の間に散々教わったけど、こうして今も生き続けているのは嘗て、共に戦った相棒との約束があったからだ。
反抗する気力も意思も根こそぎ奪われながら、それでも私の胸にはいつも彼との約束があった。
その約束とは、生きる事。
どんなに辛くても、苦しくても、生き続ける。
その約束を反故してしまったら、今度こそ遠坂凛として築いた絆が全て無くなってしまう気がして、必死にこれまで生きて来た。
もしかしたら、再び会えるかもしれない。
手の甲に紅の紋章が浮かんだ時、私が真っ先に思い浮かべたのはそれだった。
もっと、他に考えるべき事があるだろうに、私の頭の中は彼の事でいっぱいだった。
私がまだ遠坂凛という名を堂々と名乗れていた頃の大切な思い出がフラッシュバックする。
『生前、私は遠坂の者と縁があってな。この宝石に篭められた魔力で命を救ってもらったんだ。それ以来、英霊になった後もこれを持ち続けている。君が遠坂の魔術師である事。それ自体が召喚の触媒となったのだろうさ』
それは私が彼と出会った日に彼に教えてもらった事だ。
そして、彼の言葉の内にあった縁があった遠坂家の者とは遠坂凛の事だ。
今の私は間桐の家の者であり、対外的には間桐桜という名前だが、それでも私が遠坂凛というアーチャーが生前に縁を持った女と同一人物である事に間違いは無い。
ならば、再び英霊を召喚すれば、高い確率で再び彼を召喚出来る筈なのだ。
終幕した筈の聖杯戦争が何故再び開始されたのか、そんな事はどうでも良かった。
ただ、彼ともう一度会いたい。
もう一度、声を聞きたい。
私の頭の中はそれだけだった。
だから、頭首に渡された物を理解出来なかった。
「これ……は?」
「それは世界で初めて脱皮した蛇の抜け殻の化石じゃよ」
頭首の言葉に私は「そうじゃない」と叫んでいた。
こんなに感情的になるのは何年振りだろう。
「どうして、こんな物を!?」
こんな物を――――聖遺物など使ってはアーチャーを召喚出来なくなってしまうじゃない。
そう、叫びそうになる前に焼け付くような痛みが下腹部に走った。
激痛に膝を折る私の頭を頭首は杖で地面に押し付ける。
「そう言えば、昨今は調教を行っておらんかったな。慎二のマラが余程気に入ったのかと思っておったが、どうやら、また要らぬ考えが湧いたらしい」
愉快そうに言いながら、頭首たる老人――――間桐臓硯は杖を私の頭を押し付けたまま、私の中の刻印虫を暴れ回らせた。
十年の間に幾度と無く感じた痛みだが、決して慣れる事は無く、自分のものとは思えない悲鳴を上げながら頭を地面に縫いつけられた状態で悶えた。
どれくらい時間が経過したのかは分からない。
ただ、私の頭から彼の事はすっかり消えてしまっていた。
ただ、逆らってはいけないという考えだけが頭に浮かんでいる。
全身に焼けた鉄を押し付けられ、体内を刃物で切り付けられたような痛みを延々と受けるこの調教は臓硯から受ける数ある調教の中でも最も辛い調教の一つだ。
「さて、いい加減に話を始めるとしよう。令呪が浮かんだな?」
「……はい」
未だに先程感じた痛みの余韻が引かず、私は弱々しく答えながら体を震わせた。
こういう時は早く慎二の部屋に行きたくなる。
性欲の捌け口にされていようと、人肌の温もりを感じられるあの一時は私にとって、この家で唯一心安らぐ時間なのだ。
「お前にはこの聖遺物を憑代にサーヴァントを召喚してもらう。この聖遺物はお前の父が前回の聖杯戦争に用いる為に準備しておった、考えうる限り最強の英霊を召喚する為のものだ」
「お父様の……?」
「ああ、遠坂の屋敷を整理しておった時に見つけたものだ」
屋敷の整理などとどの口が言えるのだろうか?
私が間桐桜として間桐の家に連れて来られた時点で遠坂の屋敷はその持ち主を失った。
その空き屋敷となった遠坂邸を目の前の老人は見事な手腕を持って、唯一の生者である私――――つまり、間桐桜に継承させたのだ。
そして、私の記憶を覗き見て遠坂の家の秘奥を悉く暴き、私ですら知らなかった遠坂の秘儀を間桐の家の物としてしまったのだ。
この聖遺物もその内の一つなのだろう。
「……分かりました」
私が言えたのはそれだけだった。
臓硯が用意した召喚陣の前で私は一つの可能性に懸ける事にした。
それは祭壇に捧げられている聖遺物と己自身、どちらがより強く目的の英霊を呼び寄せる絆を持っているか、という賭けだ。
私とアーチャーを結び付けているのは私では無い私だ。
アーチャーが生前に出会い、共に歩んだ並行世界の遠坂凛とアーチャーの絆が十年前に私とアーチャーを引き合わせた。
だけど、今はそれだけじゃない。
十年前、私もアーチャーと確かな絆を築いた。
だから、例え聖遺物を用意されていようと、きっと、アーチャーが私の呼び掛けに応えてくれる筈だ。
そう、私は信じていた。
「さあ、詠唱を始めるが良い」
臓硯の言葉に私はゆっくりと口を開いた。
「閉じよ――――」
循環する魔力に体内の刻印虫が暴れ始める。
構わない。
魔力を繰る時の痛みと蟲がざわめく痛みは似たようなものだ。
臓硯が敢えて私に苦痛を与えたい時に蟲共が私に与える痛みとは比べるのも馬鹿らしい些細なものだ。
そう、自分に言い聞かせながら、呪文を紡ぎ続ける。
「――――告げる。汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」
嘗て唱えた呪文を十年の時を経て再び口にする。
「誓いを此処に。我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者――――」
あの時との違いが一つだけある。
あの時、私はバーサーカーのマスターの詠唱をそのまま繰り返した。
先にバーサーカーの席が埋まっていたからいいものの、もしもまかり間違ってバーサーカーなどを召喚したら、私は今頃声無き死者となって居た事だろう。
私はあの時に唱えた一節を無視し、呪文の続きを唱えた。
「汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」
途端、暗闇に覆われた蟲蔵が眩い光に包まれた。
まるで燦々と降り注ぐ太陽の光のようにどこか暖かく、だけど、直視するにはあまりにも攻撃的な輝き。
その光の中に一人の男が君臨していた。
私はそれが“彼”である事を疑わなかった。
無意識の内に駆け出し、彼の名を口にしようとした。
だけど、男の目の前に辿り着いた瞬間、私は凍りついた。
「喜ぶがいいぞ、小娘」
光の中に君臨するその男は彼では無かった。
どこか、彼に似た出で立ちだったけれど、彼が赤い外套に身を包んでいたのに対して、目の前の男は黄金の鎧を身に纏い、不遜な態度で真紅の瞳を私に向けている。
「この瞬間、貴様の勝利は確定した!!」
それが、私の新たなるサーヴァントとなった男の発した第一声だった。
私はそれに対して応える事が出来なかった。
あまりにも大きな失望感に声が出せなかったのだ。
私にとってのサーヴァントは彼だけだった。
彼以外のサーヴァントなど認められない。
だから、私は――――、
「あんたじゃない」
そう言ってしまった。
「……何?」
怪訝な顔をするサーヴァントに私は幼き頃に失ってしまったと思っていた大声を上げた。
「あんたじゃない!! なんで、アーチャーじゃないの!?」
「何を言っている? 我は紛れも無く、アーチャーのサーヴァントとして現界している」
「そうじゃない!! 私が、私が会いたかったのは……」
私は最後まで言い切る事が出来なかった。
黄金のサーヴァントは鼻を鳴らすと私の体を軽々と持ち上げると、自分の鎧の肩の部分に私を腹這いにさせ、まるで鉄骨か何かを運ぶみたいに歩き出した。
「は、離して!!」
私が叫んだり、暴れたりしても、黄金のサーヴァントはどこ吹く風といった態度で蟲蔵を横切って行く。
彼の歩く道程に這っていた蟲共は悉く彼を恐れ、道を開けた。
「小娘、話すに適した場所を教えろ」
蟲蔵を出る階段を上がり切る頃には私もいい加減頭が冷えて来て、自分の部屋に彼を案内した。
そこで漸く床に降ろされ、黄金のサーヴァントは言った。
「小娘、以前にも貴様は聖杯戦争に参加していたな?」
彼の紅の瞳は私の全てを見透かしているかのようだった。
「どうして……?」
私の問いに彼は答えた。
「愚問だな。貴様はアーチャーのサーヴァントを欲していた。特定の英雄では無くな。だが、それは戦略上故では無かろう。ならば、貴様の求めていたのは特定のサーヴァントだった、と考えるのが自明の理というものだ」
「それで、私が以前に聖杯戦争に参加していると……。さすがは人類最古の英雄王ね」
「答えは肯定か。ならば、話せ。貴様の経験した聖杯戦争をな。聖杯より流れ込む知識よりも経験者の言葉の方がより理解を深められる」
そう言って、人類最古の英雄王・ギルガメッシュは私に忌まわしい過去の経験を語らせた。
お母様が無残に死んだ所で私に喉が渇いたとコーヒーを淹れさせる傍若無人っぷりを発揮しながら……。
コーヒーを淹れなおして部屋に戻ると、ギルガメッシュは窓の外を眺めていた。
「どうしたの?」
私が尋ねると、ギルガメッシュは口元を歪め、愉快そうに言った。
「身の程を弁えぬ輩が居るらしい。往くぞ、小娘」
「行くって、どこに?」
「無論――――」
ギルガメッシュは窓を開け放ち、私の手を取った。
「我こそが最強の英雄である事を余の凡夫共に知らしめる戦場へだ!!」