フラットは眼下に広がる人工的な光の海に魅了された。
彼が居るのは冬木市の上空を走る馬車の中だ。
「どうだい、マスター? 僕の馬車の乗り心地は」
馬車の戸を開けて話し掛けてきたのは、ついさっきフラットが召喚した、今は御者台で手綱を握っていた筈のサーヴァントだ。
自分をライダーと名乗り、後一歩と言う所でフラットの命を救った恩人でもある。
赤毛の女によって付けられた傷も薬で癒してくれた。
ライダーは扉を閉めて、フラットの対面の座席に座った。
馬車の中は光源が無く暗いが、雲の切れ目から窓を通して突き刺す月明かりがライダーの顔を照らし出した。
改めて見たライダーに対するフラットの印象は可愛いお姫様だった。
艶やかで長い髪は首の辺りから三つ編みで纏められている。
首筋は滑らかで長く、肩は外套で隠れているけれど、ひ弱で華奢なイメージだ。
細かい細工の施されたボディーアーマーが辛うじて戦う者である印象を残しているが、細い手足や磨かれた貝殻のように綺麗な爪はその僅かばかりに残された印象を吹き飛ばしてしまう。
「えっと、ふかふかで最高ッス」
フラットが言うと、ライダーは満足そうに微笑んだ。
「それは結構。改めて、これから宜しく頼むよ、マスター」
「う、うん。えっと、俺、マスターで……いいんですよね?」
ライダーが差し伸べる手を取ろうか取るまいか悩みながらフラットは言った。
フラットの言葉にライダーは小首を傾げた。
「君は確かに僕のマスターだよ? ラインを確認すれば分かるでしょ?」
ライダーの言葉に、フラットは「あっ」と声を上げると、自分とライダーの間に繋がる見えない線を目で追った。
「納得いったかい?」
ライダーの言葉にフラットは頷いた。
「俺は確かにあんたのマスターみたいッス」
「なら、今度こそ、宜しくね」
片目を閉じ、悪戯っぽい笑みを浮かべて手を差し伸べるライダーに今度こそ、フラットは迷い無くその手を取った。
馬車は更に高度を上げ、窓の外は白い霧に包まれた。
どうやら、雲の中へと入ったらしい。
数分が過ぎると、窓の外の光景は一変した。
ライダーはフラットに手を差し伸べると言った。
「ちょっと、外に出てみない?」
「え?」
応える暇も無く、フラットはライダーに強引に手を引かれ、空中を疾走する馬車の外へと飛び出した。
「う、わああああああああああああ!!」
思わず絶叫するフラットに構わず、ライダーはフラットの体を御車台に押し込んだ。
堪らず文句を言おうとするフラットの目に飛び込んで来たのは満天の星空だった。
「ご覧よ、マスター。この空を!」
ライダーに言われるまでも無く、フラットの瞳は空に釘付けだった。
これほどまでに空に近づいた事は無く、視界に広がる星の海に圧倒される。
「……綺麗だ」
本来なら、こんな高高度を何の装備も無く飛行すれば寒さや気圧の違いで感動どころの話では無かっただろうが、何らかの守護が働いているらしく、馬車の御車台はこの上なく快適だった。
感動の余韻に浸っていると、ライダーが「さて」と咳払いをした。
「遅くなったけど、自己紹介をしておこうか」
ライダーの言葉に漸くフラットは互いの名を未だ知らない事に気が付いた。
「俺、フラットって言います。フラット=エスカルドス!!」
「フラット……。うん、覚えた。僕の名前はアストルフォ。シャルルマーニュ十二勇士が一人。よろしくね」
アストルフォ。
その名前には憶えがあった。
エスカルドス家の屋敷はコート・ダジュールに面するニースにあり、書庫にはその名を記す書籍が幾つもあった。
彼の故郷、フランスで彼の英雄の名前は広く知られている。
「よろしく……って、あれ?」
だけど、一つ気になる事があった。
「アストルフォって、大金持ちのイケメンで、確か……男だったと思うんですけど?」
「え? 僕――――」
ライダーはその美少女としか表現不可能な愛らしい顔をフラットに向け、首を傾けた。
「男だけど?」
「え、えええええええええええええええええええ!?」
ライダーの言葉にフラットはこの日何度目になるか分からない絶叫を上げた。
「まさか、いきなり逃げ出すとはな……」
頭を掻きながら呆れた様に槍使いの男は言った。
「見事に虚を衝かれましたね。ですが……」
赤い髪の女性は眉間に皺を寄せながらライダーとそのマスターが走り去った夜空を見つめた。
「よもや、幻想種を呼び出すとは……」
「ま、次に会った時が奴等の最期だ。それより、行こうぜ、バゼット。今日は別にあの小僧を殺す為に出向いたわけじゃないだろ」
「ええ、今回はマスターの一人とそのサーヴァントのクラスが判明しただけで良しとしましょう」
そう言うと、バゼットは腕時計を確認した。
「あまり遅いと先方に失礼ですね。少し急ぎましょう」
「確か、言峰教会だったか? 目的地は」
「ええ、協会から受けた命を遂行する上で、彼と連携を取る事が出来れば大きな助けとなるでしょう」
半年前の事だ。
バゼット=フラガ=マクレミッツは魔術協会に召喚された。
封印指定と呼ばれる一部の魔術師が暴走し、一般市民に多くの犠牲を出した際、聖堂教会が動き出す前に封印指定を保護する任にあたる“執行者”と呼ばれる役職に就いているバゼットがこの日呼ばれた理由は普段とは一風異なる内容だった。
日本の冬木市で行われている第七百二十六号聖杯を巡る闘争を監視し、参加者である魔術師が魔術協会の意に沿わぬ行動を取った場合、即時にコレを処断する。
それが此度、バゼットに下された、命令だった。
監視の理由は十年前に行われた第四次聖杯戦争にある。
第三次、第四次における聖杯戦争の監督役を担っていた言峰璃正の死と冬木のセカンドオーナーである遠坂家の断絶。
本来、聖杯戦争を監視する役目を担っていた彼らの死によって、再び一般にも多くの犠牲者を出した第二次や帝国陸軍、ナチスなどが介入し、混迷を極めた第三次の時の様な事態が起こる事を懸念されたからだ。
令呪は冬木市に入った時点で手の甲に刻まれ、その日の内にサーヴァントを召喚した。
召喚した英霊はバゼットが幼少の頃から憧れを抱くケルト神話の大英雄だった。
日本ではあまり名を知られていないようだが、発祥地であるドイツではイギリスに於けるブリテン王・アーサー=ペンドラゴンにも劣らぬ知名度を持つ、凡そランサーのクラスとしては最強の英霊だ。
彼を召喚する為の触媒を探し出すのに半年の準備期間の殆どを費やしてしまったが、苦労の甲斐あって、目論見通りに事は進んだ。
「言峰綺礼だったか? お前がお熱な野郎ってのは」
からかう様に言うランサーを無視してバゼットは冬木大橋へ向かって歩き出した。
言峰教会に到着したのはそれから一時間後の事だった。
周囲に人の気配は無く、どこか陰鬱な雰囲気のある教会だった。
「ランサー。貴方はここで待っていて下さい」
バゼットの言葉にランサーは「あん?」と眉を潜めた。
「おい、バゼット。俺も男女の色恋に口を挟む程野暮じゃねぇつもりだがよ。今が戦いの最中だって事は分かってるよな?」
「無論です」
「だったら……」
「言峰教会は聖堂教会によって中立を約束されています。如何なる魔術師も聖堂教会を敵に回す愚行は犯さないでしょう」
「だがな……」
「むしろ、サーヴァントを連れて中に入れば、彼に要らぬ疑念を抱かせる事になりかねない。聖杯戦争の監視の任を遂行するにあたって、彼の協力は必要不可欠だ」
尚も納得いかな気なランサーにバゼットは令呪を見せた。
「これ以上の問答は不要です。分かりますね?」
ランサーは舌を打つと、無言で霊体化した。
「直ぐに戻ります」
そう言い残すと、バゼットは言峰教会へと入って行った。
それから数分後、呆気無くバゼットは戻って来た。
「おう、用事は済んだのか?」
実体化し、声を掛けるランサーにバゼットは首を振った。
「どうやら、留守だったようです」
「んじゃ、これからどうする?」
「そうですね……、ここで彼を待つのも良いですが……」
バゼットは瞼を閉じ、意識を今居る場所とは異なる場所に飛ばした。
冬木市の各所に配置した使い魔を通して見た光景の中に見過ごせないものが映り込んだ。
「どうやら、いよいよ他の参加者達も動き出したらしい」
「なら?」
「狩りに行きますよ、ランサー。聖杯を持ち帰るのも私達の大切な任務ですから」
「あいよ、マスター」
金属と金属がぶつかり合う甲高い音が鳴り響く。
「その程度か、ランサー」
「ほざくな!!」
バゼットに先行し、使い魔の捉えた黄金の鎧を身に纏う双剣使いの英霊と対峙したランサーは双剣使いの挑発に稲妻の如き切っ先で応えた。
心臓を串刺しにせんと繰り出したのは血に濡れたかのような真紅の槍。
躱そう、などと試みる事に意味は無い。
それが稲妻である以上、人の目で捉えられるものではない。
だが、その条理を双剣使いは容易く捻じ伏せた。
その面貌に浮かぶのは凍てつく夜気の如き冷笑。
奔る真紅の軌跡を黄金の軌跡が打ち払う。
間合いを詰めようと前に出る双剣使いの足をランサーは神速の槍捌きをもって縫い止める。
「アーチャー!!」
双剣使いの背後からマスターらしき女の声が響く。
「囀るな!! この程度、どうという事は無い」
「ハッ、戯けが、弓兵風情が剣士の真似事など!!」
烈火の如き気性に乗せられる槍撃の一つ一つには正しく必殺の力篭められている。
守りに徹する事を余儀無くされたアーチャーの間合いをランサーは更に詰めようと前進する。
本来、間合いを取り、敵を迎え撃つという戦法こそが槍の本領であるにも関わらず、その定石をあざ笑うかの如く、ランサーは前進を続ける。
「なるほど、貴様も世に武名を轟かせた英雄の一角なだけはある」
一際高い剣戟と共にアーチャーはランサーから距離を取った。
そうはさせじとランサーが距離を縮めようとするが、その間に無数の刃が降り注いだ。
「漸く獲物を出したか、弓兵」
「ああ、褒めてやろう。我を愉しませた褒美だ。存分に味わうが良い」
瞬間、アーチャーの腕に真紅のラインが奔った。
「我が宝物庫の扉を開け、王律鍵(バヴ=イル)よ!!」
その言葉に呼応し、アーチャーの背後の空間が揺らめき、そこから無数の武具が顔を見せた。
「――――ハッ」
その異様な光景を前にランサーのサーヴァントは嗤った。
「おもしれぇ」
打ち出される武具は例外無く宝具に比肩する魔力を放ち、それらが豪雨の如くランサーに降り注ぐ。
対するランサーは獰猛な笑みを浮かべ、一足飛びで大きく後退した。
瞬時に離された両者の距離は百メートルを超え、アーチャーはランサーの後退にその意図を悟った。
即ち、ランサーの後退の意図とは必殺の間合いを取ったに他ならない。
獣の如く四肢を大地に付けるランサーにアーチャーは百を超える宝具を放つが、掠るだけでも致命的な暴虐の嵐の中心で、ランサーは平然とした表情を受けべている。
「矢避けの加護かッ!」
「そっちが見せたなら、こっちも見せねぇとな」
ランサーは腰を持ち上げ、疾走直前のスプリンターの如き体勢を取った。
「――――行くぜ。我が一撃、手向けとして受け取るがいい!!」
瞬間、ランサーは青色の残影となり、疾風の如くアーチャーへ疾駆した。
刹那の間に五十メートルの距離を詰めると、ランサーは高く跳躍した。
無数に襲い掛かる宝具の群を欠片も恐れる事無く、手に握る真紅の槍を大きく振りかぶる。
アーチャーは舌を打つと、宝具の投擲を中断した。
そして、背後に控える主の下へと下がると、空間の揺らめきから新たなる武具を取り出した。
「――――刺し穿つ(ゲイ=)」
天高く飛翔したランサーの口から紡がれるは伝説に曰く敵に放てば無数の鏃となりて、敵を滅する魔槍の名。
生涯、一度たりとも敗北しなかった常勝の英雄の持つ破滅の槍は空間を歪ませる程の魔力を纏い、主の命を今や遅しと待っている。
「死翔の槍(=ボルグ)――――ッ!!」
怒号と共に放たれた真紅の魔槍は防ぐ事も躱す事も許されない。
正しく、必殺。
この魔槍に狙われ、生き残る術などありはしない。
しかし、
「我を守護せよ」
アーチャーの号令に呼応し、黄金の輝きが魔槍の進撃を止めた。
まるで獣の雄叫びの如き叫び声が戦場に轟き、ランサーは目を瞠った。
「――――それは、クルフーア王の!!」
ランサーの驚きを尻目にランサーの全魔力を注がれた真紅の魔槍は黄金の盾を蹂躙する。
嘗て、山三つを消し飛ばした大英雄の斬撃を受けながら傷一つつかなかったとされる至高の盾は四つの外殻の内、一つ目を打ち破られながら尚、高らかに吠え、二つ目が破られようとも所有者を鼓舞するか如く叫び続ける。
されど、必殺を誓う真紅の魔槍はソレを嘲笑うか如く三つ目の外殻を打ち破る。
最後の一つとなった盾は烈火の怒号を上げ、アーチャーは最期の一枚に己が魔力を残さず注ぎ込んだ。
「馬鹿な――――」
地に降り立ったランサーは目前のサーヴァントを凝視した。
無数の宝具には驚かされたが、その程度の常識外れは戦場の常だ。
だが、解せない。
何故、あの男が嘗て己が使えた王の盾を所有しているのか?
最強の一撃。
自らを英雄たらしめる一撃を防がれたランサーはその盾が紛れも無く本物であると確信した。
それ故に眼前のサーヴァントの正体が不可解だった。
「貴様――――何者だ?」
「我が宝物を目にしながら、まだ分からぬか」
ランサーの問いにアーチャーは不遜な態度で応えた。
両者共に限界まで魔力をすり減らしていながら、その眼光は僅かたりとも衰えず、互いを射殺さんばかりに睨み合っている。
「ならば、受けるが良い」
言いながら、アーチャーはその手に握る双剣を変形させた。二つの剣は一つとなり、弓の形を象った。
それこそがアーチャーの真の宝具であると悟ったランサーは顔を顰めた。
「我が真なる宝具の力を見よ!!」
弓の先に奇怪な陣が描かれ、アーチャーは弦を引き絞った。
その時だった。
アーチャーの千里眼がそれまで潜んでいたらしい何者かの存在を捉えた。
何らかの魔術を行使しようとしているらしく隠形の術が解けたらしい。
アーチャーはその者の持つソレに目を瞠った。
ランサーのマスター・バゼット=フラガ=マクレミッツは拳の上に球体を浮かばせ、真っ直ぐにアーチャーを睨み付けていた。
「後より出でて先に断つ者――――アンサラー」