まだ太陽が昇ったばかりの早朝、一人の若者が買い物客で賑わうマルシェを歩いていた。
フラット=エスカルドスは買ったばかりのリンゴに噛り付き、往来する観光客や地元民の合間を抜けて海岸へと出た。
ここは、地中海が広がるコート・ダジュールの中心都市・ニース。
風光明媚なこの都市は空港がある事もあって、海外からの観光客も多い。
紺碧の海をバックに記念写真を撮影している東洋人達のグループや海岸に裸で寝そべっているイタリア人を尻目にフラットは近くのベンチに腰掛けると、肩に掛けていた鞄から一冊の古い本を取り出した。
ペラペラとページを捲り、時折何かを呟いたかと思うと、手帳にメモを書いている。
本を読み終え、ページを閉じると、フラットは少し離れた所で写真撮影をしている男女に声を掛けた。
「ねえ、俺が撮ってあげようか?」
フラットが声を掛けると、男女はギョッとした表情を浮かべた。
フラットは気にした風も無く笑顔を浮かべると、ベンチから立ち上がった。
「俺が撮ってあげるって言ったんだ」
フラットが言うと、男女はさっきとは少し違った驚き方をした。
どう見ても西洋人にしか見えない若者の口から流暢な母国語が飛び出したからだ。
「あれ? 日本人だよね? おたくら」
声だけを聞けば日本人が話しているのではないかと思うほど流暢に日本語を操るフラットに日本人の男女は顔を見合わせた。
「えっと、その……」
「二人っきりでデートかい? なら、一緒に写った方がいいよ。大丈夫だって、ここは国内でも治安が良い場所だ。つまり、俺は泥棒じゃないって事。お分かり?」
フラットが言うと、男の方が恐る恐るといった様子でカメラを差し出して来た。
「えっと、じゃあ……お願いします」
「任せておいてよ。じゃあ、そこに並んで」
フラットは男女の写真を数枚撮ると、カメラを男の方に返しながら話しかけた。
「俺、今度日本に行くつもりなんだ」
「そうなんですか?」
男はフラットがカメラを素直に返した事で警戒心を解いたらしく、自然とフラットの言葉に受け答えをした。
「うん。冬木って所。知ってる?」
「ああ、いえ、知りません。お仕事ですか?」
「まあ、そんな感じかな。友達を作りにちょっとね」
「業務提携ですか? お一人で、ですか? お若いのに凄いですね」
「業務……、まあ、そういう事になるかな」
「頑張って下さい」
「うん。じゃ、俺はこの辺で! ここはいい所だから、楽しんでいってね。じゃ!」
日本人の男女に別れを告げると、フラットはその足で遠目に見える空港へと向かった。
三日後の夕方、慣れない異国での交通手段に戸惑いながら、フラットは日本の関西地方にある冬木の地に足を踏み入れた。
「ン、ン――――!」
恍惚した表情を浮かべながら、フラットは自分の手の甲を見つめている。
彼の視線の先には火傷の痕の様な真紅の模様が浮かんでいる。
うっとりとした様にため息を吐く彼が立っているのは冬木の駅前広場だ。
周囲の人々は奇異な目で見つめるか、あるいは関わりを持たない様にわざと視線を外して通り過ぎていくかの二通りだ。
「ヘイヘイ!」
フラットは偶然横を通り過ぎようとしていた学校帰りらしい高校生の少年を捕まえると心底嬉しそうに自分の手の甲を見せ付けた。
「どうだい、コレ! カッコいいでしょう?」
突然、外国人に肩を組まれて変な刺青らしきものを見せ付けられた少年はあわあわと周囲に助けを求めるが、誰一人として助けに入ろうと言う勇者は居なかった。
「えっと、それって……その、刺青ですか?」
少年はビクビクした様子で尋ねる。
海外ならばどうかは知らないが、基本的に日本で刺青を入れる人間というのはかなり限られている。
裏社会に身を置く危険人物か、あるいはそれに憧れる馬鹿だ。
ここで気をつけなければいけないのは、例え後者の馬鹿であろうと、平々凡々な一般人にとっては脅威だという事だ。
むしろ、暴力団やカラーギャング、暴走族といった少年がパッと頭に閃く悪党よりもずっと身近に居て、ずっと加減を知らない。
暴力に憧れてはいても、暴力の加減を知らない人間はどこまでやったら人間が壊れるのかなんて御構い無しだ。
少年の通う高校でつい最近、悪党を気取る三年生が二年生の男子生徒に大怪我を負わせた。
二年生の男子生徒は事件から半年経った今でも病院で暮らしている。
少年の目から見て、目の前のフラットは後者に思えた。
純粋な悪党と言うにはあまりにも無邪気で、爽やかな印象があるからだ。
だが、その印象も彼が見せびらかす“悪の刻印”によって台無しになっている。
「さって、大物を釣り上げに行きますかね! じゃ!」
お金を渡せば許しくれるかも、と少年が財布の中に入っているお札の枚数を思い出そうとしていると、拍子抜けする程あっさりとフラットは少年を解放して去って行った。
「な、なんだったんだ……一体?」
少年の疑問に応えられる者は広場には一人も居なかった。
広場には……。
陽が沈んだ頃、フラットは冬木市の名所である冬木大橋の傍にある公園に来ていた。
「失敗したなー」
「どうかしたのですか、少年?」
フラットがベンチで項垂れていると、いつの間にか目の前に赤毛の女性が立っていた。
ハッとするほど美人で、思わず見惚れていると、女性は「ん?」と首を傾げた。
「えっと、実は、思いつきで日本に来たのは良いんですけど、宿を予約するのを忘れてまして……」
「君、少し抜けてるって言われない?」
クスリと笑う女性にフラットは恥ずかしそうに「時々……」と呟いた。
「言われているなら、直さないといけないな」
じゃないと……、と女性はフラットの手を取った。
そして、ゾッとする程綺麗な笑みを浮かべて言った。
「命に関わりますよ」
「そんな、大袈裟な……」
思わず身を引くフラットを逃がさないように女性はフラットの手を恐ろしいほどの力で引っ張った。
そして、
「君は聖杯戦争のマスターか?」
と、分かりきった事を尋ねた。
「えっと、その予定……ですけど……、もしかし……なくても、お姉さんも?」
引き攣った笑みを浮かべながら尋ねるフラットに女性はニコリともせずに「そうですか」と呟くと、同時にフラットの腹部に拳を突き刺した。
まるで爆発したかのような衝撃を受け、少年の体は三十メートルという距離を飛び、街路樹に激突すると、街路樹ごと地面に倒れ伏した。
内臓が一撃で破裂し、肋骨は悉く粉砕した。
全身がバラバラになったかの様な激しい痛みに苦悶の声を漏らすフラットの視線の先で女性が感心したような表情を浮かべているのが見えた。
「今の一撃に耐えるとは、さすがは聖杯戦争のマスターに選ばれただけの事はありますね」
「だな。俺からも褒めてやるぜ、坊主」
そんな声が直ぐ間近から聞こえた。
明滅する意識の中で首を動かすと、そこには青い髪の男が居た。
「ま、街中で令呪を堂々と曝してた自分の間抜けさを恨むんだな」
そう言って、男はどこからか取り出した真紅の槍を振り上げた。
それでようやく理解した。
――――ああ、死んじゃうのか、俺。
聖杯戦争。
極東の地で五十年周期で行われている聖杯降臨の大儀式について、フラットが知ったのは偶然だった。
彼が所属している組織で同じ教授を師事する少女がその戦争に参加するという噂を耳にしたからだ。
何でも、彼女の家門は件の戦いで当代の頭首を失い、衰退の一途を辿っているらしい。
没落一直線の家門の長を務めるのは誰にとっても嫌なものだったらしく、彼女は若くして魔術師の家門の頭首の座を押し付けられたそうだ。
可哀想だな、と思いながらも、フラットは聖杯戦争というものに興味を持った。
そして、聖杯戦争に関する記述に目を通す内、彼の瞳にはみるみる好奇の光が浮かんだ。
過去の英雄を召喚し、戦うという聖杯戦争。
彼が何より惹き付けられたのは、どんな望みも思いのままに叶えられる万能の願望機たる聖杯では無く、魔術師同士の尋常ならざる武勇と知力を競う殺し合いでも無く、英雄を召喚するという聖杯戦争の参加条件そのものだった。
『過去の英雄と会えるなんて、最高にかっこいいじゃん!!』
それが聖杯戦争への参加を決めると同時に彼が発した言葉である。
聖杯戦争の事を知って、嘗ての英雄達に会えるなんて凄いと思って楽しみにしていたのに、まだ、全然英雄達に出会っていないのに、こんな所で死んじゃうのか、そう、少年は頭の中で考え、胸の内でソレを拒絶した。
――――まだ、死にたくないな。
「あばよ、坊主」
振り下ろされる真紅の槍に少年は思わず瞼を閉じた。
その瞬間だった。
奇跡が起きた。
英霊召還の為の専用の魔法陣があるわけでは無く、召還の祝詞を唱えたわけでも無く、少年はおよそ聖杯戦争に参加する魔術師達が等しく行わなければならない行程を完全に無視した。
「馬鹿な、こんな場所で召喚だと!?」
男の驚愕は仕方の無い物だ。
サーヴァントの召還において、触媒たる聖遺物は必ずしも必要とは限らない。
だが、不可欠な物はある。
それが少年の手に宿る令呪と召還に耐えうる魔力と召喚の為の魔法陣、そして呪文だ。
少年は令呪こそ自身の右手に宿らせているが、魔法陣はおろか、呪文の一節すら唱えていない。
だと言うのに、青い髪の男の真紅の槍は唐突に現れた第三者によって防がれた。
金色の槍を握る真紅の髪の騎士によって、フラットの命は救われた。
騎士以外の全ての者の驚きは場に一瞬の隙を作り出し、騎士はフラットの手を取って、高く天を舞った。
一足飛びで騎士が降り立ったのは公園の外灯の上だった。
騎士によってお姫様抱っこをされた状態でフラットは月明かりに照らされた騎士の顔を見て、息を呑んだ。
その赤い髪の騎士のあまりの美しさに見惚れてしまった。
騎士はフラットに微笑み掛けると、初めて口を開いた。
「聖杯の寄る辺に従い、ここにライダーのクラスをもって現界した。君が、僕のマスターかい?」
騎士の問いにフラットが出来たのはただ首を振るだけだった。
何度も何度も首を縦に振り、己が騎士の主である事を主張した。
その応えに騎士は満足し、騎士は言った。
「これより我が命運は汝と共にあり、汝の命運は我と共にある。契約は完了した。よろしく頼むよ、僕のマスター」
「君が……、俺のサーヴァント……?」
唖然とした表情を浮かべるフラットに騎士は優雅に頷いて見せると、眼下で睨みを利かせる槍使いの男を睥睨した。
「やあ、僕のマスターがお世話になったみたいだね」
鼻にかかった甘い声には僅かたりとも敵意は無かった。
騎士の言葉はただの確認作業であり、これから行われる宴の開幕の挨拶のようなものだった。
英霊と英霊。
時や国を隔て、交わる筈の無かった二人が武を競う。
聖杯戦争という宴の始まりはこの日、こうして幕が上がった。