ep.03 / 春遠き如月Date:02 / 01 (Fri)─────sec.01 / 武家屋敷の朝「………ん」自然と目が覚めた。僅かにぼやける目で外を見るが、外はまだ薄暗い。日時は二月一日の午前五時を十五分ほど過ぎたところ。「寒………」流石にまだこの時期のこの時間は布団の外は寒い。しかし朝の冷気に負けじと起き上がり、気合いを入れるために頬を叩く。どんなに夜更かししても、大抵はこの時間に起きられる。勿論例外はあるので、絶対にとは言い切れない。昨日がいい例だろう。「朝飯………作らないとな」昨日は桜に朝食を作らせてしまったため、今日こそはと洗面所へと向かう。男性である士郎は必然的に女性と比べ必要とする時間も短い。寝癖などはそんなに酷い部類には入らないので、顔を洗い必要最低限の身嗜みを整える。その後台所へ向かいエプロンをして包丁と秋刀魚を手に取った。寝る前に炊飯器を六時に出来上がる様にセットしているので、既に機械がご飯の準備を進めている。家に来るであろう自分含め3人分の秋刀魚に包丁を入れて塩をまぶし、後は焼くだけの状態にする。味噌汁は玉ねぎと海藻が入ったシンプルなものを用意。定番のだし巻卵は秋刀魚を焼いている間に用意できるので、今はおいておく。「とりあえず朝食の準備はこんなところか」一旦朝食作りを中断する。時計を見ると五時四十分を過ぎたあたり。「少し時間あるし、掃除しとくか」そういって次は屋敷の掃除を始める。今日もバイトが入っているので帰宅するのは遅い。当然日中は学校にいるし、家には誰もいなくなるので掃除をするとすればこの時間しかなくなってしまう。とはいってもこの広い武家屋敷全てを掃除するほど時間に猶予があるわけもなし。日常的によく使う場所に重きを置いて掃除をする。ちなみに人の入りが少ない場所は、休日に何時間かけてしっかりと掃除している。とある部屋は埃だらけ………なんてことはない。午前六時。めぼしい部屋を掃除し終えたところで桜が家にやってきた。「おはようございます、先輩。今朝はもう済ませてしまいましたか?」「おはよう、桜。朝食はもう準備してる。後は秋刀魚に火を通すのとだし巻を作るだけだ。─────藤ねぇもそろそろ来るだろうから用意しておくか」「あ、それならお手伝いします。先輩はだし巻卵を用意しちゃってください」二人で台所に立ち、士郎はだし巻卵を、桜は秋刀魚を焼いていく。その合間に食器を取り出し、三人分の朝食を用意していく。その手つきは既に慣れたもので、どこに何があるかというのは分かっているようだ。「これで全部ですか? 先輩」「ああ、これで朝食の準備完了」食卓に朝食を用意したところで、今朝も変わらぬ声が聞こえてきた。「しろーぅ、おなかへったー!」毎朝毎晩食事時を狙い澄ましたかの様にやってくる姉役である。廊下を勢いよく走ってきて、その勢いそのままに襖を開け放つ大河。「お、朝ごはん出来てるじゃなーい。じゃ、早速食べよう!」「あのなぁ藤ねぇ。アンタの頭の中には食べることしかないのか。というか廊下を走ってくるな、一応教師だろ」「それだけお腹が減ってるってこと。いっただっきまーす!」士郎の問いかけに話半分で答え、食事に手を付ける。呆れるばかりの士郎だったが、これもまたいつものことなので特に気にすることもない。「いただきます」「いただきます」「むっ!士郎、このだし巻、いいじゃなーい!やっぱり出来立ては美味しいわぁ。お姉ちゃん、これだけで生きていけそう」「大袈裟だなぁ、藤ねぇは。そんな慌てて食べなくともちゃんと用意してるんだから、落ち着いて食え」食事をとる三人。その間も会話はボツリボツリと続く。「む………。美綴の奴、まだ桜に俺の文句を言ってるのか?」「はい。美綴先輩は卒業するまでに何としても射でうならせてやるって、毎日頑張ってますよ」「はぁ。今じゃアイツの方が段位高いだろうに。アレかな、思い出は無敵ってやつかな。 美化されてるのは悪い気にはならないけど、それも人によりけりっていうか」「美綴先輩ってすっごく負けず嫌いですから。きっと心の中で先輩をライバルみたいに思ってますよ」朝食を終え、食器を洗い、出かける支度をする。大河は例の如く食べ終わって学校へ走り去った。食事時といいもう少し落ち着きは持てないのか、と内心思ったのだが同時に『無理だな、藤ねぇだし』と早々に結論づけた。戸締りをしっかり確認し、学校へ向かう。交差点で信号待ちをしている前をパトカーが数台、サイレンを鳴らしながら通り過ぎていく。「なんでしょう………先輩」朝から騒がしい。ここ最近は物騒になってきたこともあり、心配そうな声で尋ねてくる。「わからん。………あんまり気にするな、桜」「はい………」交差点の信号が青になり、横断歩道を渡る。そこで昨日の事を思い出した。「そうだ、桜。ここ最近さ、物騒になってきただろ? 特に夜とか。 だからさ、夜はなるべく外出しないようにしてくれないか?」「え………? でも─────」「いや、桜の言いたいことも分かる。けどもし桜が俺の家からの帰り道で誰かに襲われたーなんてことがあった桜に申し訳が立たなくなる」桜の顔を窺うが、心なしかその表情は曇って見えた。その表情を払拭するように気軽に話しかける。「そんな顔するなって。別にもう二度と来るなって言ってるわけじゃない。 物騒な事件のほとぼりが冷めるまで夜は家に居てくれってことだからさ」「先輩がそう言うのでしたら………」渋々了承する桜。流石にばつが悪いので話題を振る。「その分朝食は少し豪華にしようかな。桜にもいっぱい食べて貰いたいし」「そうですね。先輩の作ったご飯はおいしいです」「ははは、ありがとう。けど、桜だってこの前の味噌汁おいしかったぞ? コツとか掴んだんじゃないのか?」そう会話をしているうちに学校へ到着する。さあ学校だ、ということで校門を潜ろうとしたときだった。「ん………?」今まで感じなかった筈の違和感が左腕に奔った。思わず左腕を見るが、特別変わった様子は見られない。「どうしましたか? 先輩」「いや、なんでもない。桜、朝練だろ? 頑張ってな」「はい。それじゃ、行ってきますね」手を振って桜は弓道場へと向かっていった。その背中を見送り、昨日一成と約束した仕事を終わらせるため生徒会室へと歩を進めた。─────sec.02 / 如月の小異朝日は隔たりなくこの冬木市を照らし出す。それは武家屋敷も集合住宅も同じである。昨日と変わりなく朝に起き、母親の用意してくれた朝食を食べ、身支度を済ませてバスに乗る。鐘のいつも通り変わらない朝の行動。昨日と違うといえば同じバスに綾子がいなかったことぐらいか。ただ彼女とはいつも一緒に登校しているわけではなく、そういった約束事も結んでいない。同じマンションに住んでいるが故に同じになることがある、というだけ。一緒になったなら一緒になったんだな、くらいの軽いものだった。学校付近のバス停に到着し、学校へと向かう。グラウンドに描かれた白線のトラックを横目に陸上部の部室へ。部室には数名ほど同部員がいた。近々大会があるというわりには少ないのだが、彼女が学校にやってくるこの時間帯はいつもそうだ。これがあと十五分もすれば人が増える。鐘はただ単にその人の多い部室で着替えるのが嫌だったので、少し早めに学校に来て着替えを済ませている。「おはよう、蒔、由紀香」「おっ、氷室。おはよー」「おはよう、鐘ちゃん」1年の頃から共にいる二人に挨拶。性格が全く違う三人だが、仲の良さは本物である。「ん? 由紀香、何かしているのか?」「うん。皆の健康状態を把握するように、って。ほら、最近練習中に怪我をする人とか調子がすぐれない人とかいっぱい出てるから………」「学校からの指示か。確かにここ最近は怪我人が増えていることもあるから、その調査といったところか」無論怪我人を排出しているのは何も陸上部だけではない。流石に文化系の部活が怪我人を出すことはかなり稀だが、運動系の部活生が怪我をして保健室へ厄介になっているという話は聞く。「それでね、皆の健康状態を聞いて回ってるの」由紀香は厳密に言うと陸上部員ではなく、陸上部のマネージャーである。それゆえに由紀香にこの仕事が与えられた、ということだろう。「………聞いて回る、か。まあ何もしないよりはいいのだろうが。ああ、私は大丈夫だ由紀香。体に問題はない」「わかった、鐘ちゃん」手に持ったクリップボードに書き込んでいく。健康診断の予定もない以上はこういったことで現状を把握・改善していくほかはない。「大会も近い。私たちも怪我と体調に注意して取り組むとしようか、蒔の字」「おうよ!優勝は私のモンだぜ!」少なくともこの人物には風邪や不調といった類の心配は不要だろう、と鐘の心の中で書き留めておく。由紀香はこの学校に入学当初、料理同好会に入ろうかと考えていたらしい。しかしそこに楓の勧誘(と言う名の拉致)にあい、そのまま陸上部のマネージャーとなっている。当初は戸惑いも多く何をしたらいいのか、と全く分からない様子だった。だが1年半経った今ではすっかり板についており、今回の部員達の健康調査もその独特の雰囲気を以てしてこなしている。そして鐘自身も由紀香と同じであった。彼女は絵を描くのが得意だったため美術部への入部を希望していた。そこに降りかかる楓の強引な勧誘により陸上部へと入部。最初は渋々だったものの今では陸上部の走り高跳びのエースと称されるまでになっているあたり、彼女は文武共に稀有な才能の持ち主らしい。グラウンドに出てそれぞれウォーミングアップを行う。楓は短距離走の選手なので走り込みがメインであるが、鐘は高跳びの選手なので短距離走の選手ほど走り込みは必要としない。むしろ少し早めにアップを終えて走り高跳びに必要な機材をセッティングする必要がある。そう言う点ではグラウンドに白線で描かれた場所をひたすら走りこむ短距離走選手よりも面倒な作業をしなくてはならないが、それを拒んでいては走り高跳びなどできない。早めにアップを終えた彼女は走り高跳びの準備を行うために、陸上部の機材がしまってある倉庫へ向かう。ふと、そこにその場所とは無縁な人物がいた。「─────そこで何をしている? 寺の子」「む、役所の子か」陸上部の倉庫前に腕を組んで立っていたのはこの学校の生徒会長、柳洞一成だった。誰もいないと思っていた場所に意外な人物を見たので、訝しげな表情を作りながら生徒会長の傍へと近づいていく。「何、ここの倉庫の電灯とスピーカーが天授を全うされていたことは知っておろう? それを直す為に衛宮が中で作業中でな。 集中を阻害せぬように外で待機しているということだ」「………天授を全うされているのであれば、流石の衛宮でも直せないと思うのだが?」「俺から見れば天授を全うされている、というだけの話。衛宮ならばあるいは、と思い頼んでみたが、いや全く頼りになる男だ。 見事直してみせるとのことだったからな」「………なるほど。しかし私はこの倉庫の中に用があるのだが、今はまだ入ってはいけないのだろうか?」「当然。毎度の事だが、修繕をしている間はそれに集中するために人払いをさせるほどの徹底ぶりだ。 しかしそのおかげで衛宮が修繕したものは再利用が可能になっているのだから、これくらいは大目に見るべきだろう。 異論は断じて認めん」毅然とした態度で言う一成。鐘はその態度と答えを聞いて、改めて彼の仕事の高さは理解したのだが、倉庫に入れないのでは機材を出すことができない。そう考える一方でその修繕の邪魔をするのも躊躇われた。最近は電灯が付かなくなって薄暗い倉庫の中で機材の出し入れすることを強いられていた。それ故に明かりがつくのであればそれはそれで助かることでもあったからだ。「わかった。では、もう少し時間をおいて来るとしよう」そういってグラウンドへ戻ろうとした時だった。「一成、終わったぞ」倉庫に背を向けた直後に、士郎が倉庫から出てきた。つまり振り返れば当然視線は合う。「あ、氷室。おはよう、倉庫に何か用事があるのか?」「ああ。おはよう、衛宮。少し機材を出そうと思ってここまで来た」帰る足を返し、倉庫へ近づく。鐘がその場に行くよりも早く、一成が士郎に話しかけていた。「衛宮、修繕の方はうまくいったのか?」「ああ、どっちも問題なく終わったよ。電灯が少し厄介で取り換えるだけじゃ済まなかったから、少し時間がかかっちまった」「そうか、天授こそ全うしていなかったが重体患者ではあったか。だが、流石だな衛宮。お前が頼りになるときわめてうれしいぞ」「………一成? お前たまに変な日本語を使うな?」苦笑している士郎にさも自分のことのように胸を張る一成。その光景を見ていた鐘は、ふと思い出したように二人に尋ねる。「衛宮、一ついいだろうか?」「ん、なんだ?」「生徒会長である『柳洞 一成』とそこに頻繁に出入りしている『衛宮 士郎』は、実はそっち系の関係がある、という噂が密かに立ち始めている。 ………これに対して、実際はどうなのだ?」少し意地悪く訊く。それは聞いた士郎は残像が見えそうな勢いで右手を左右に振った。「じょ、冗談じゃない!俺も一成もそういう付き合いはしていない!」なかなか必死になって反論してくる。もう一方はというと、「そっち系とはなんだ?」と、訊き返してくる始末だった。「いや、一成。知らないのであれば知らなくていい。そして知っていてもすぐに出てこないのであればそれで全く大丈夫だ」「? まあ衛宮がそういうのであれば、それでいいだろう」尋ねた鐘自身もこの噂は単なるデマだと決めていたので、特別気にも掛けなかった。「すまない、衛宮。かくいう私もデマだとはわかっていた。だが、そういう噂が立ち始める要因があるのも事実。 火の無い場所に煙は立たない。誤解を招かない程度には周囲にも気を配るのだな」「まったく、なんでそんな噂が。─────とりあえず、ありがとう。氷室の言うとおり、誤解されないように配慮することにする」「賢明だ」話題も終わり。おしゃべりはこれくらいにして、走り高跳び用の機材を出せなくてはいけない。「そういえば倉庫に用があるって言ってたよな。何か持ち出すものがあるのか?」「ん?─────そうだな、走り高跳びの練習をするための、その準備だ」何事もなく、問われたから答えた鐘。だがそれを聞いた士郎は一瞬呆気にとられたような表情を作った。「………なにか、私の答えに分からない点があったか? 私が陸上部員ということは知っているものだと思っていたが」「え? あ、いや氷室が陸上部員ってことは知ってるぞ。ただ走り高跳びの準備を氷室一人でするのか?」「? そうだが。今は私一人しかいないのだから当然だろう」部室の混雑を避けるべく早めに来ているのに、他の部員がやってくるまで走り高跳びの準備をしないという道理はない。それに走り高跳びの準備は一人では時間がかかるものだが、準備をしているうちに他の高跳びの部員達もやってくる。これを常習的に行っているため、準備作業が苦であるとは微塵も思っていない。「………ふむ。明かりは問題なさそうだな。これは助かる」「ああ、いや。直したのにつかないと困る」入口付近になったスイッチを入れると、今までつかなかった電灯が倉庫内を照らす。これで薄暗いせいで煩わしかった作業も捗るだろう。鐘が倉庫の少し奥に置かれている走り高跳び用の厚めのマットを両手で引きずり出してくる。その光景を見た士郎は後ろにいた一成に声をかけた。「悪い、一成。残りの修繕は後でいいか?」「ん? ああ。別に構わんがこれからどうするのだ、衛宮」「氷室を手伝う。修繕はそれが終わってからでいいだろ? 終わらなかったら昼にまたやるよ」一成にそう告げて、鐘が引きずり出そうとしているマットの持ち手を握った。当然隣にいる鐘は少し慌てるように断りを入れた。「衛宮、別に無理に手伝う必要はない。君は君で他にやることがあるのだろう?」「確かにあるけど、今すぐっていう事じゃない。それに一人より二人だ。手伝った方が氷室も楽だろ?」「─────いや、気持ちはありがたいが。衛宮、これはいつもの事だから別に気に掛ける必要は………」と、ここまで言って自身の言葉が失言だったということに気付く。士郎の表情が一瞬むっ、と眉を顰めたからだ。「いつも一人でやってるのか?………他の奴らは何やってるんだか。─────なら一層手伝う。なんなら明日からも手伝うぞ? 氷室」流石学園内でも有名なお人好し、と確認する。しかし部員でもない彼に手伝ってもらうのも如何なものか。「重ね重ね気持ちはありがたい。だが、部員ではない衛宮の手を煩わせるわけにはいかない。気にしないでくれ」「部員だからとかは関係ない。実際、今ここにいるのは氷室だけだし。俺は氷室を手伝いたいから手伝うって申し出てるだけだからさ。 ………あー、でも。氷室が迷惑だ、って言うなら大人しく引き下がるけど………」「いや………迷惑─────というわけでもないのだが………」「なら決まり。明日も手伝いに来る。女の子がこれを毎日用意するのは大変だろ? 遠慮なく俺を使ってくれ」これはもう動きそうにないな、と判断した鐘はそれ以上何をいう事もなかった。一人でいつも引きずるように出していたマットも二人で持てば引きずる必要もない。走り高跳び用の機材も比較的軽いものを鐘が持ち、それ以外は士郎が運ぶ。運ぶ時間が半分で済んだのなら、セッティングする時間もまた半分だ。そうしてかかった時間は当然ではあるがいつもよりも短い。「よしっ、終わりっと」セッティングが完了したのを確認し、士郎が独り言のように言う。手伝ってもらって助かったのは事実なので、ここは素直に感謝しておこう。「すまない、衛宮。助かった」「明日もこの時間には用意するんだろ? なら俺もこの時間帯に倉庫の前にいるから。また明日も手伝うよ、氷室」どうやら彼の中では既に決定事項になっているらしい。梃子でも動きそうにないので、彼の申し出を受けることにした。「終わったか、衛宮」少し離れたところで走り高跳びの準備を眺めていた一成が話しかけてきた。「ああ、見ての通り。悪いな、一成。まだ時間はあるから他の修繕箇所へ向かおう」歩き出そうとする士郎だったが、その行く手に腕を伸ばして動きを止めた。「まあ待て衛宮。………まったく、人が良いのも考え物だな。衛宮がいてくれると助かるが、衛宮の場合来る者拒まず過ぎるぞ」「? 別に氷室を拒む理由なんてないだろ?」そう言いながら後ろにいる鐘を見る。別に彼女が何か悪いことをしたわけでもないので、当然拒む理由などない。「たわけ、誰が彼女一人を対象として言った? 彼女は誠意もあるからいい。だがこれでは心ない馬鹿どもがいいように利用するやもしれん。 断るときはしっかり断ることも必要だぞ、衛宮」「一成。流石の俺も善悪の判別はできるし、無理な頼みならしっかり断ってる。一成が心配することもないよ」「しかしな、衛宮のは度が過ぎるというか、このままいくと潰れてしまうというか。─────そうは思わんか、役所の子」話を振られた鐘は返答に僅かに窮してしまう。それは唐突に話を振られたから、というよりは一成の話の内容に対してどう答えるべきかでシークタイムが発生してしまったからだ。「こらこら一成。いきなりそんな話を氷室に振るな。………まあ、一成の忠告は受け取っておくよ。じゃあな、氷室。朝練頑張ってな」そう言って二人は去って行った。彼らの後ろ姿が見えなくなり、鐘は一人思考する。「………私がもう少し衛宮の人間性について知っている間柄であるならば、答えられたのかもしれないが」生憎と彼女が知っていることは、彼を知る人ならば知っているようなことしか知らない。その最たる人物がほかならぬ一成ではなかろうか。その最たる人物が抱く危惧を肯定なり否定なりするには、少なくとも彼よりも士郎について知れる間柄である必要があるのではと考える。たとえば、恋人関係とか。「………練習に戻るか」ふと頭の中に過った思考は放棄し、走り高跳びの練習を始めた。二月一日。まだ春の産声は程遠い。─────sec.03 / 4人と一人予鈴十分前。朝練をしていた生徒達はすでに着替えはじめている時間。一成は2年A組の担任、葛木 宗一郎に呼び出されて職員室へ行っていた。士郎はその間にも頼まれた備品の修繕を行い完了し、校舎へ向かためグラウンドを歩いていた。「や、おはよう衛宮」バッタリと弓道部の主将、綾子と出会った。その姿はまだ制服ではない。「何だ、まだ着替えてなかったのか美綴。もうすぐホームルームだぞ。俺なんかに挨拶してる場合じゃないだろ」「あはははは!いや、ごもっとも。相変わらずつれない野郎だねぇ、衛宮は!」何が楽しいのか、人目も気にせず豪快に笑う。その様子を見てぼんやりと(まあ、精神年齢は実年齢より若干上のお姉さんタイプだよな。いつも思うけど。言ったら怒られるから言わないけど)そう頭の中で考える士郎だったが、何かを感じ取ったらしい弓道部主将はむっとした表情で話しかけてきた。「あん? 今アンタ、よからぬ感想を漏らさなかったかもし?」「そんなものは漏らさない。あくまで客観的な事実を連想しただけだ。それで気を悪くするのは美綴の勝手だが」「お、言うね。正直に答えるクセに、何をどう考えてたかは口にしないんだもの。慎二と違って隙がないな」とおかしなことを言う。当然疑問に思うわけであり「慎二? なんでそこで慎二が出てくるんだ?」「何でも何も、友人だろ? 慎二の男友達ってアンタだけ。それにお忘れかもしれませんが、あたしはこれでも弓道部主将なの。うちの問題児と辞めちまった問題児をくっつけるのは自然な流れだと思わない?」その言葉を少し考える士郎。慎二とは士郎との同級生であり、男友達の一人だ。桜の兄であり、それなりに仲はいいが現在は少し疎遠状態。「─────ああ、確かに自然な流れだな。弓道部っていうのは関係ないけど、慎二とは腐れ縁だしな」至って普通に答えたつもりだったが、どうやら気に障ったらしい。綾子はムッとした顔で士郎につっかかってきた。「あ、カチンときた。アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるでしょ。いいご身分よね、慎二をほっぽっといて自分はさっさと退場しちまうんだから」「………む、慎二の奴、またなんかしたのか?」「一年365日、あいつが何かしない日なんてないけどさ。それでも昨日のはちょっとやりすぎか。一年の男子生徒が一人辞めたぐらいだから」はあ、と深刻そうにため息をつく。新入生獲得のために日々奮闘しようとしている彼女にとって、間桐 慎二は悩みの種であった。「なんだよ、部員が辞めたって」「慎二の奴が八つ当たりしたのよ。初心者の子を矢が的にあたるまで笑い物にしたとか」「はあ!? お前、そんなバカげたことを見過ごしてたのか!?」「見過ごすか!けどさ、主将ってのはいろいろと忙しいんだ。いつも道場にいるわけじゃないって、衛宮だって知ってるでしょ」「………それは、そうだけどさ。にしても慎二のヤツ。必要以上に厳しくなることはあっても、他人を見世物にするような奴じゃないだろうに」それを聞いた綾子は心底呆れた顔をしてため息をついていた。「────呆れた、衛宮ってば本当にアレだ」「む、アレってなんだ。今お前、良からぬ感想を漏らさなかったか?」「あーら、あたしはあくまで客観的な事実を連想しただけさ。それで気を悪くするのは衛宮の勝手だけどね」「………っ、この、ついさっき聞いたような返答をしやがって。────いいよ、それより慎二はどうしたんだよ。なんだってそんな真似を?」「んー、聞いた話じゃ………」「遠坂嬢にふられたのだろう、美綴嬢」不意に背後から声がかけられた。振り返る士郎に、覗き込む綾子。そこに鐘と由紀香、楓の三人がいた。「お、三人ともおはよう。今日も相変わらず一緒だねぇ」「おはよう、三人とも。朝練はもう終わったんだな」「おはよう、衛宮君に美綴さん」「おっす。こんなところで世間話か?」ストロータイプの水筒を口にくわえながら、楓が二人に問いかける。彼女達の様子からしてつい先ほど朝練が終わったようだった。「いや、ちょっと弓道部について話をしてたんだよ。………で、美綴。氷室が言ったことって?」「いや、その通りだよ。相変わらず耳が早いね、氷室は」「情報収集は常識ではあるからな。当然だろう」普段通りの振る舞いで言う。さすがパーフェクトクールビューティ、と内心感想を言いながら綾子は続ける。「ともかく、慎二のヤツはそのせいで昨日からずっとその調子。おかげであたしもこんな時間まで道場で目を光らせてたって訳」ふぅん、と答えながら学園の高嶺の花を思い浮かべる。……………。「………そうか。大変だな、美綴。頑張ってくれ」「はいはい。あ、そろそろ時間がまずいな。じゃあね、衛宮。今度あたしの弓の調子を見に来てよ」「ああ、また機会があれば行くよ」そう言って去って行った。それを見送る四人。と。ここで自分の状況を改めて確認する。「………あ。工具箱持ちっぱなしだ」「………気が付いていなかったのか、衛宮」少し呆れ顔で鐘は士郎の格好を見ていた。制服姿なのは同じだが、持っているものが工具箱という絵面。しかしそこに違和感を感じないという不思議。「っと!少し急がないといけないか。じゃあな氷室。そっちも間に合うように教室に行けよ」士郎も小走りに去って行く。その背中に向かって声を出す人物が若干一名。「おいー!私と由紀香は無視かー!」「間に合うようにいけよー、三人ともー」「なんだよそれー!」走り去る彼に文句を言って、その返答が帰ってきたのでさらに文句を言う。どうやら自分と由紀香が無視されたように感じて腹がたったらしい。が、当然士郎にその気はない。由紀香も文句を言った楓も、大して気にはしていなかった。「蒔、私たちも急がなければ」─────sec.04 / 日常での出来事四限目の講義が終わり、穂群原学園は昼食の時間に入る。授業中の静かな空間から一転して騒がしい空間へ早変わり。この学校には食堂があり、大抵の生徒はそこで昼食をとる。他に購買で昼食を購入して教室で食べる、という手段も。珍しいところでコンビニではなくマウント深山商店街まで走って弁当を買ってくるという強者。さらに珍しいところでは新都まで行って五限前に帰ってくる、なんて猛者がいるという噂も。「………もはやそこまでいくと昼食を食べに行っているのか、タイムトライアルをしているのか分からなくなる荒行だな」「それだけじゃないぜー? 食べに行ったまま学校のコト忘れて、そのまま新都で遊び回る奴もいるって話だ」「そ、それは流石にまずいんじゃないかなあ………?」かくいうこの三人は弁当組なので、先ほどのどのパターンにも該当しない。食堂の騒がしい喧噪に巻き込まれることも、タイムトライアルじみた昼食をとることもない。「ごちそうさま」他愛ない話をしながら昼食を食べ終わる。三人ともあとは五限が始まるまでフリータイムだ。「そういえば、鐘ちゃん。今朝、深山町こっちで起きた事件のこと、知ってる?」「事件………いや、わからないな。朝のテレビニュースならば見ているが」「あー、あれね。流石に今朝方起きた事件がその日の朝のニュースにはならないって」事件、という言葉を聞き少しだけ気になった。どうやら由紀香の顔や、楓の言った言葉からしてよい事件ではなさそうだ、と瞬時に判断する。「それで、その事件というのは? 由紀香」「うん、二丁目の交差点付近で殺人事件があったって」「殺人………。交差点、というと柳洞寺へ分岐する交差点で合っているか?」「そうそう、その交差点。深山町こっちに住む他の奴らにも聞いたんだけどさ、四人家族で子供一人残して両親と姉は殺されたって」学校の付近で殺人事件。しかも子供を残し三人が殺されている。「その犯人と凶器は見つかったのだろうか。そこのところは何か知っているか?」「あ、………うーん、詳しくは私もわからないかなあ。聞けば、凶器は長物だっていう噂。 犯人は捕まったっていう話は私も聞いてない」「長物………? それはナイフや包丁といった類ではない、ということか」今まで聞いた情報を元に想像してみる。今朝方発覚したということから、犯行は深夜あたりが妥当か。その時間帯に押し入ってきた誰か。不当な暴力。例えるならば交通事故。一方通行の略奪。日本刀じみた長物の凶器で、目の前で斬り殺される両親。訳も分からず次の犠牲になった姉。その陰で、家族の血に濡れた子供の姿。「………新都の方では欠陥工事によるガス漏れ事故。此方では殺人事件。学校の門限が早まるのも当然だな」人は何かを想像するとき、自身が持っている知識や映像を元にしてそのイメージを作り出す。当然だが鐘は目の前で人が殺されるのを見たこともなければ、日本刀を持った犯罪者に迫られたこともない。それゆえに想像の内容はドラマや漫画、小説といった産物から来るものだ。それはあくまでフィクションの内容であり、ノンフィクションではない以上『リアルさ』というものに欠ける。無論、そんな『リアルさ』を経験しないことこそが最善の生き方ではあるのだが。「にしても珍しいよな、氷室がこの手の話題を知らないなんて」「私は警察ではない。今朝発覚した事件だ。テレビや新聞にはならない、と言ったのは蒔の字だろう。 生中継でもしていない限り、今朝方からそれを把握するには無理がある」「いや、確かに言ったけどさ。ほら、朝練で他の生徒から聞いたとかさ」「………今朝は今朝でこちらもいろいろあったからな」そういって、ふと思う。今朝、倉庫前にいたあの二人。あの二人は両方とも深山町こちらの住人だ。となれば、今の殺人事件については知っていたのではなかろうか。「─────そもそもあったこと自体を知らなかったから、仮に彼らが知っていたとしても尋ねなかっただろうな」それこそ士郎や一成が今の話題を鐘に言わなければ知る術はない。そして唐突にそのような話をする間柄でもない。「ふっふっふ。けどまあ、なんていうか。博識な氷室が知らないことを、その氷室に教えるっていうのは、なんかこう優越感に浸れるよな」─────ぴくり、と。思わず眉が動く。何やら聞き捨てならない科白が聞こえてきた。「………ほう。ならば蒔。君が知っている他の博識とやらを教えてもらいたい。生憎と私も人の子でね、知る事しか知らない人間だ。 故に知らない事を知る事は私にとってプラスになる。君が私以上に博識であるならば、是非ともその知識を披露していただきたい」仕方がないとはいえ、鐘が知らず楓が知っている、というのも彼女の癪に障っていた。「え、ちょっ………」「ああ、いや無理にとは言わない。なんなら今度の期末試験で私よりも上位に立ってくれればいい。それで私も納得しよう」「や、ヤメロー!!私が頭を使う名参謀に敵うわけないだろー!」「私は君の参謀ではなく、ましてや君は我々の指揮官でもない、蒔」普通ならばこのような手合いは神経に障って駄目な鐘なのだが、二年来の楓はもはや慣れの世界にいる。むしろこれが古式ゆかしい実家で振袖を来て折目正しくしている方が、違和感が多くて駄目だ。「あ、あははは………鐘ちゃんはいっつも上位にいるから。すごいよね」そんな二人のやり取りを聞いていた由紀香は少し困り顔。「─────いや、すまない。少し意地が悪かったな」流石にやり過ぎたかと反省する。ただし。「そうだそうだ! ちょっとは反省しろー!」この人物に対してはそうもなれなさそうだが。