『ふん……小賢しい』
オドロームが鼻を鳴らす。
まさに、一気呵成。
モーゼの十戒さながらに、兵士の海を割り裂いて来る勢いは、怒涛であった。
「フー子、合わせて!」
「フゥ!」
叫ぶや、魔術師の女が宙へ宝石を大量にばら撒く。
そして台風の少女が暴風を生み出し、宝石を風の中へ巻き込みながら前方へ叩きつけた。
「全解放――――凍てつけぇ!」
水の兵士が次々嵐に揉まれ、消える。
さらに被せて、宝石から解放された猛烈な冷気が、飛び散る遺骸の飛沫すら凍てつかせた。
戦場には似つかわしくない、ダイアモンドダストが吹き荒れる。
だが、面の広範囲を包み込むようなそれでも、如何せん多勢に無勢。
波が引いても、海はそのままだ。数の暴力で、どうしても討ち漏らす敵は出てしまう。
「ち、っ!」
一体、二体、三体と。破壊を逃れた傀儡が動く。
怯みも慄きもなく、命すらも惜しまない。ただ諾々と、命令(コマンド)のままに全力で目標へと突貫する。
この兵士に、心などない。敵意も戦意も、およそ心に関するものは何一つとして備わっていない。
故に。たとえ自軍が磨り潰されようと、腕と脚は盲目的に動き続け、止まる事はない。
「…………」
だが、水の兵士は近づけない。
近づく前に、弾け飛ぶ。
色なき蛇が、空気に溶けてするすると絡みつくように腕を振るっていた。
鎧に覆われていない、人体の脆い箇所へ正確な一撃を放ち続ける。
漏れた兵士は、須らく彼の手により元の水へと還元されていた。
「よし、このまま行く!」
戦力が限られている上、兵力の差は圧倒的。
加えて戦場は敵地。だからこそ僅かだが援軍を得た今、一気に片をつける。
後がない。これ以上の時間はかけられない。
『……そう考えたか』
短期決戦。立場が逆なら、己もそうする。
女の思考を追いながら、オドロームは、自軍の惨状を眺めていた。
感情は、至って平静。むしろ僅かに愉悦を覚える。
『所詮は人形。その気になれば、この有様か』
オドローム自身が生み出したとはいえ、特別製のジャンボスとスパイドルとは違う。
数を最大の強みとしたため、反比例して戦闘力はたかが知れたものとなった。
敵の前では、せいぜいが暴力と無縁な一般人よりもましな程度。
しかし、それでも相手の神経を削る嫌がらせ程度にはなる。
そのために、オドロームは傀儡の数を維持し続けていた。
『まあ、いい。せいぜい悪足掻きするのだな』
竜巻が荒れ狂い、魔術の氷雪が空気を凍らせ、蛇の拳が飛沫を散らす。
嵐のような猛攻によって、潮が引くように消えていく雑兵。
しかし、そんなものは魔王にとっては些事であった。
神殿に集う魔力で生産エネルギーは尽きず、地下水脈から材料はいくらでも調達出来る。
製造など、魔王にかかればたいした手間ではない。
やられた端から、作り直してどんどんつぎ込めばいいだけであった。
『さて、この分では辿り着くな。ここに』
敵の狙いは明白。頭を潰すつもりで、魔王への活路をこじ開けている。
その証拠に、全力を以て立ち塞がる敵を押し潰しているのは、白銀の剣士以外だ。
剣士は集団の中央で、剣を抱えて脚だけを前へ動かしている。
たったひとりが持つ刃を魔王の眼前に押し出すために、周りが力を振り絞っている。
このままの勢いを維持すれば、遠からず目的は果たされる。
『だが、その時が最期だ』
にしゃあ、とオドロームの顔が邪悪に歪む。
それと同時に、鼓膜が裂けるほどの猛烈な風音が吹きすさび、兵士の海がばっくりとふたつに割れた。
魔王へ至る直通路。そこを一塊となった一団が、まっすぐ突き進んでいく。
疾き事、風の如く。時が惜しいと言わんばかりの勢いだった。
『ふん、威勢がいいな。だが、なにか忘れてはおらんか?』
魔王が呟いたその時、一団からひとりが、空へ舞い上がった。
体格は小柄。眼鏡をかけた顔には、疲労と虚勢と恐怖と、一片の度胸。
羽の回る、耳障りな機械音をBGMに。片方にはピストル、もう片方には銀に輝く諸刃の剣が握られていた。
『ここに辿り着いたその時が最期だ、白銀の剣士よ!』
敵を煽るように、オドロームは大きく諸手を振り上げた。
高笑いの下に、タールよりも黒く粘つく狡猾さを潜めながら。
切り開いた道半ば、魔王まで残り僅かのところで、凛の声が轟いた。
「行きなさい、のび太!」
「はっ、はいぃいい」
合図とともに、のび太は頭につけた“タケコプター”のボタンを押す。
次いで、ぎりぎりまでバッテリーを温存していたポケットの中の“バリヤーポイント”のスイッチを入れ、一足飛びに宙へと舞い上がった。
誰にとっても、踏ん張りどころ。チャンスはここしかない。
心身とも疲労困憊だが、のび太はなけなしの気合いを入れた。
「い、行くぞ、オドロームっ!」
右手に“白銀の剣”を握り締め。
半ば突撃するようにして、のび太はオドロームへ空から急接近を図る。
目標は、神殿の屋根に程近いバルコニー。
登場からここまで、魔王はそこから一歩も動いていなかった。
『甘い』
刹那、オドロームが杖を振り上げ、杖から大量の炎がどっと噴出した。
マグマのように毒々しい赤をしたそれは、突進を遮る大きな壁となってのび太へ迫る。
「うわ!?」
突如現れた炎の壁に、のび太のスピードがぐっと鈍る。
身を守ってくれる“バリヤーポイント”こそあれど、眼前の圧力は恐怖を誘う。
しかし、それでものび太の前進は止まらない。
こんな事もあるだろうと、事前に凛から言い含められていた。
「フゥウウウ……えいっ!」
立ち塞がるものは、全部こちらが引き受けると。
のび太の脳裏に凛の顔が掠めた刹那、暴風の塊が、のび太の背後から吹き抜けていった。
「わひっ!」
ごう、と強烈な追い風。発生元は言わずもがな。
切られると錯覚するほどの唸りが耳に轟いた次の瞬間、ぼっと炎の壁が雲散霧消した。
「ええ!?」
「んっ♪」
後ろを振り返ったのび太の目に、フー子の小さなガッツポーズが飛び込んでくる。
如何に魔王の炎と言えど“竜の因子”に支えられた彼女にとっては、バースデイケーキの蝋燭にも等しかった。
『それがどうしたぁ! ぬん!』
魔王が叫ぶや、今度は杖から幾条もの稲妻が奔る。
ばちばち剣呑な音を立て、空気まで焦がせとばかりに猛り、稲妻の矛先が標的へ向けられる。
うっ、と呻いたのび太の速度がさらに鈍る。
今にもズボンの前が湿りそうなほど、顔に再び恐怖が兆す。
「させないっ!」
まさに発射される寸前。
雄叫びとともに、のび太と杖の間に掌半分ほどはあろうかという、大きな宝石が飛び込んできた。
「わっ!」
『ちぃ、小娘が!』
舌打ちとともに、オドロームの杖からビームと見紛うほど分厚い稲妻が解き放たれる。
光の速さでのび太へと迫ろうとしていたそれは、本来の狙いを逸れ、割って入った宝石へと激突する。
ばちばちと、合金の溶接にも似た派手な火花と異音。無機物が焦げる形容し難い臭いが、のび太の鼻を刺激する。
やがて空気が抜けるような音を残して、宝石は粉々に砕け散った。
「間一髪、か」
のび太が声の先へ目をやると、そこには投擲の腕を振り抜いた凛の姿があった。
身体に施した『強化』にあかせて、野球の右翼手よろしく大遠投のレーザービームを敢行し、宝石を無理やり割り込ませたのだ。
ただし、成果とは裏腹にその表情は渋い。
「逆属性のとっておきでも、あっさり粉微塵なんてね」
歯軋りの音が混じった、呪詛のような呟きが彼の耳にか細く届く。
最上効果の手札を切ってなお、魔術師としての格の違いを思い知らされた屈辱が、音のひとつひとつに滲み出ていた。
英霊と人間では致し方なし。しかし、それでも目的は達成した。
この瞬間、オドロームとのび太の間に一切の障害はなくなったのだ。
「今だっ、それ!」
アクティブからトップへ、のび太のギアが切り替わる。
遅れた分を取り戻すように、ぐっと加速し、オドロームへ飛び込もうとする。
一度はやってやれた事。怖かろうが怯えようが、二度目に対してやれない道理はない。
「オドローム!」
一気に迫るバルコニー。魔王まであとほんの僅か。
遮る物は、なにも見当たらない。敵は、稲妻を放ち終えた杖を振り上げたままだ。
パラシュートを切り離したスカイダイバーのように、空中からバルコニー前へ躍り出る。
「喰らえっ!」
剣を突き出す。速度を上乗せした、今の己に出来る最大限の攻撃。
のび太が仕掛けようとした、その刹那だった。
『……ふん』
鷲のようなオドロームの口が、微かに三日月に歪む。
それと同時に、剣の切っ先がオドロームの鳩尾ど真ん中に触れる。
やった、という確信をのび太が抱くその前に。
「――――え?」
勢いそのままに、すうっとのび太の身体がオドロームをすり抜けた。
「わっ、わぁ!?」
驚愕を他所に、猛スピードで迫るバルコニーの壁。避ける間もなく、のび太の身体が激突する。
だが、張っていたバリアが彼の身を護り、代わりにのび太はゴムボールのように弾かれ、床に転げ落ちた。
「あ痛っ、たた……な、なんで?」
仕留めたと思ったのに、手応えなく消えた。
突然の事態に思考が追いつかない。だが、それでも離さなかった剣を杖に、彼は急いで起き上がる。
そしてふと、過去のある光景が脳裏を掠めた。
「あっ! ま、まさか幻!?」
『――――その通り。間抜けを晒したな』
がば、とのび太の顔が跳ね上がる。
彼の視線の先、数メートル先の上空には、嘲り笑いを浮かべた首魁の姿があった。
『一度見た事を忘れているとは、笑わせてくれるわ。白銀の剣士も安くなったものだ』
「うぅ……っ」
悔しさを噛み殺して、のび太は剣を構え直す。
不恰好だが、これ以上間抜けは晒せない。
吶喊が不発に終わったとはいえ、いまだ敵は目の前にいる。
ならば、やるべき事はひとつ。
「か、構うもんか、まだだっ!」
膝を曲げ、再び宙へ飛び上がる。
気概は削がれこそすれ、折れてはいない。
今一度の突撃を仕掛けんと、のび太の頭の“タケコプター”が唸りを上げた。
『……クッ、ク』
それでも、宙のオドロームは揺るがず。
含み笑いと共に、ぱちん、と指を鳴らした。
『――――これでもかな?』
ぶぅん、とふたりの間の空間が歪む。
次の瞬間、歪みから吐き出されるように現れた人物に、のび太の吶喊は止まる。
止まらざるを得なかった。
「セイ……バー!?」
オドロームが繰り出した奇手。
それは、強制支配に抗い続ける騎士を呼び出し、楯にする事であった。
これまで以上にとびっきりの卑劣な手。だが、これ以上なく効果的な手。
「ぐ……ぁ……」
精根尽きかける彼女の顔は蒼白に染まり、死人のそれに近い。
輝きの薄れた視線定まらぬ瞳と、のび太の目が噛み合った。
「う!?」
消えかけの蝋燭。彼女の意思の霞んだ目が、のび太にそれを思わせた。
彼女を伝う幾条もの魔力の紫電が、いまだ崩れぬ彼女の抵抗を示している。
彼女の口から漏れる言葉は確たる意味を持たず、重力に逆らわぬ四肢は、彼に糸切れたマリオネットを思わせた。
少年に、火のように赤く激しい感情が灯る。
「ひ、卑怯だぞオドローム!」
『なんとでも言うがいい。使えぬ手駒をここぞという時に役立てる、それのどこが悪い? この女の存在が頭から抜けていた貴様らの失敗だろうに」
痛快そのものの表情で、オドロームは高笑いを上げた。
事実、セイバーの楯はのび太にとって千の兵士よりも厄介だった。
攻撃は出来ない。刃も銃口も向けられる訳がない。
乾坤一擲の吶喊も止められてしまった。のび太に出来るのは、セイバーを挟んでオドロームと向き合う事のみ。
だが、オドロームは違う。邪悪に歪んだ愉悦の顔で、追い討ちの言葉を吐き出した。
『それから……こやつ等も忘れては――――いまいなぁ!』
ぶん、と横薙ぎに振るわれる杖。再びオドロームの周囲がぐにゃり、と歪む。
中から吐き出されたのは。
『Guoooooooh!』
耳の翼をはためかせ、諸手で剣を構えるジャンボス。
そして。
『Syiiiaaaaa!』
六本のレイピアを一斉に振りかぶるスパイドルだった。
のび太の顔から血の気が引く。
「おねえちゃん、のびたっ!?」
地上で、フー子が悲鳴を上げた。
風で敵を撃ち落とそうにも魔力を貯める時間がなく、この距離では間に合わない。
それは、彼女の隣の凛も同じであった。
せめても、と宝石を手にしながら、顔を歪ませ歯噛みする。
「……――――」
「葛木先生!?」
無言のまま、葛木が駆け出す。前方に立ちはだかる兵士を拳で砕きざま、人の限界に迫るほどの速度で。
だが足掻きも道半ばで頓挫、単騎の四肢では物量の壁は厚く高い。瞬く間に直線ルートを塞がれて、減速を余儀なくされた。
そしてセイバーを間へと挟んだまま、オドロームの杖がのび太へすっと向けられる。
『さあ、逃げ場はないぞ。妙なバリアを張っているようだが……クク、見くびり過ぎだ。そんな薄紙、抜く方法などいくらでもある。そもそも、この術に果たしてその壁は耐えられるかな?』
「うひ!?」
『女諸共に塵と消えろ、白銀の剣士!』
どろつくほど濃い魔力がオドロームの杖先へ収束する。
触れた者を灰にするあの光線だと、のび太は確信した。
言葉以上に、一度喰らって灰にされた事がある。見間違うはずがない。
『Goooaaaaaah!!』
『Syaaaaaaaah!!』
ジャンボス・スパイドルの挟撃。正面にはセイバーごと撃ち抜こうとするオドローム。
地上からの援護も間に合わない。
のび太の心臓が痛いほどに縮んだ。特攻を仕掛けた時の比ではない。
剣を持つ手も、銃を構える手も震えるだけで動かない。
「ぅぐ、ぎ……」
生気のない声がのび太を叩くが、そんな時はない。
死神の鎌は、首筋にひたりとくっついていた。
「あ――――」
瞳が、恐怖に塗り潰される。ぞくりと全身が総毛立つ。
掠れたのび太の悲鳴が、風に流れて消える。
『死ねぇい!!』
闇をも揺るがす魔王の雄叫び。その刹那であった。
のび太の耳が、大気を引き切るような異音を捕らえたのは。
「え……?」
気配は背後。のび太の首が微かに後ろへ動く。
絶命の恐怖から彼の気が僅かに逸れたその時には、すべてが一変していた。
『Guaaaaaaooooooh!?』
ぼっ、という異様な音と共にジャンボスの片耳の翼が消し飛んだ。
血を吹き散らし、絶叫を上げて瞬く間に落ちていくジャンボス。
「G……oooooh」
意図せぬ損傷に狂気の瞳が明滅する中、地面まであと一メートル。
そこへ、ようやく兵士の壁を突き破った葛木が飛び込んだ。
視線はのび太から切られ、手負いの獣へ向けられている。
もはや心配は要らぬと言わんばかりに。
「……ぬん!」
そして迷いなく振るわれる蛇の拳。
鋼よりも硬いそれが地すれすれを這い、ごきりと迷いなくその首を下から折り砕いた。
『ぐお! な、なにぃ!?』
それと同時に、先のものとは正反対の、焦燥めいた魔王の雄叫びが上がった。
オドロームの杖を掲げた腕。そこに『ナニカ』が深々と突き刺さっていた。
それは刹那の前、大気を切り裂いてのび太の脇を高速ですり抜け、狂戦士の翼をもぎ取ったものであった。
『ば、馬鹿な、これは……なぜだ!? なぜこれが複……ありえん!?」
「な、なんだ?」
白とも銀とも取れる、細い物体。
混乱と焦燥の混じったオドロームの罵声を他所に、恐々ながらも、よく見ようとのび太が目を凝らそうとした。
だが、その視界が突如、壁のようなものに遮られる。
「――――秘剣」
壁と見間違えたのは、高速で、しかしふわり、と下から躍り出た誰かの背中。
のび太の耳に三音の言葉が届いたと同時。
『Sygiiaaaaaaaah!?』
しゃりん、と鳴る鉄の音。
途端、スパイドルの身体がするりと三枚に下ろされた。
「え……あ」
思考が追いつかない。
切り身が盛大に吐き出す断末魔にも、血飛沫にも彼の意識が引かれる事はなく。
混乱の兆すのび太の目がまず理解出来たものは、眼前の背中の正体。
「か、刀……?」
群青の羽織を翻す優美な侍に、彼の意識は引き寄せられた。
が、それもすぐに終わる。
「ぅわ!?」
突如、背後から首根っこを引っ掴まれ、ぐいとナニカに引き寄せられる。
次から次に、いったいなにが起こっているのか。
混乱の極みにあるのび太の脳が理解する前に、彼の口が熱く、柔らかいモノに貪られた。
「む!? んぅぐ……!」
怒涛のように押し寄せる矢継ぎ早の出来事に、何が何やら解らない。
疑問だらけで爆発しそうな彼の頭で、この瞬間、辛うじて理解出来たのは。
「むぅ、うっ!?」
ぼっ、と鳩尾に弾けた、焼きごてを当てられたような灼熱の感触。
そして。
「ぅ、ん……ん」
同じ熱、同じ香り、なにより同じ味という事。
脳髄を溶かしそうな、甘く痺れるこの感覚が舌と唇を覆ったのは、これが二回目であるという事だけであった。
結果は、放たれる前に既に解っている。
神言にも似た不遜な物言いではあるが、言葉に表せばそれ以上言いようがない。
それは弓・拳銃・大砲に限らず、おおよそ射撃の頂に立つ者達が意識的、無意識的の差こそあれ、持つ認識だ。
狙い定める。それだけで結果は決まってしまう。
矢を取り、番え、放つのは、ただ『当たる』結果に過程を繋いでいるにすぎない。
弓弦を引き絞った時には、もうすべて終わっている。
結果ありきの、一本道。
射に限って言うならば、今の彼の中で因果は逆転していた。
たとえそれが、何百メートルと離れた的であろうと。
「……ふう」
残心をしつつ、士郎は息を吐く。
常の『強化』を優に超す魔力の消費は、彼にとって初めての事。
酷使にじりじりと荒れ狂う体内の魔術回路に、鈍い頭痛と吐き気を覚えるが意思で無理矢理捻じ伏せた。
放ち終えた弓弦の響きを他所に、彼は一瞬だけ、隣に立つ者へ視線を向ける。
「…………」
彼と同じく、黒塗りの弓を携えた猛禽を思わせる偉丈夫。
彼と異なるのは、番えた矢に彼以上に丁寧に魔力を練り込みつつ、弓弦を引き絞っている事だった。
刹那向けられた一瞥に気を留める事もなく、鋭い目で標的を見据えている。
限界まで圧縮した意思を矢に束ね、波立たぬ水面のように微かな揺らぎも見えない射の構えは、偉丈夫もまた射撃の頂に立つ者である事を示していた。
士郎と同じ、結果ありきの過程を辿る者。
「これで、最期だ。弾けろ化生」
同時に、士郎にとってはあらゆる意味で己の最果てに立つ者でもあった。
弓弦の撥ねる音。
音速の唸りを上げて、大気を切り裂く長い白銀の弾丸が、狂乱する魔王の眉間から頭部を貫く。
そして。
「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」
炸裂。
耳を覆うほどの爆音と、目も眩むような閃光の中で、幻ではない魔王の頭が確実に消し飛んだ。
あの『アンゴルモア』と同様に。
「――――状況、終了。敵の殲滅を確認」
「……終わった、か」
ピリオドの言葉と共にもう一度、士郎は大きく息を吐いた。
消耗こそあれ、味方に死者はいない。
キャスターの屋敷襲撃に始まり、二転三転した死闘も、これで一応の決着を見た。
嵐のような不測の死線を乗り越えた事に、士郎の肩が僅かに軽くなる。
「…………」
そしてふと、己に視線が向けられている事に士郎は気づく。
彼が隣へ目をやると彼の想像通り、赤い弓兵がその鈍色の瞳を突き刺していた。
「…………」
それが何を意味しているのか。
表現する事は難しいが、なんとなく、彼には解る気がした。
交錯する視線。互いに言葉は発しない。
やがて、それも終わりを迎える。
「……合流するぞ。ここにいたところで意味はない」
「んっ、ああ。そう、だな」
視線を切り、アーチャーの脚が動き出す。
澱みなく進む背中を追いかけるように、士郎もこの場を後にした。
――――いつか、どこかでけじめを付けねばならないと、頭の片隅に思い浮かべながら。