なぜ彼の者は、この結末へと至ったのか。外野に在する彼には、その過程は解らない。
だが、過程を推測する事は出来る。
そしてそれは、大筋で間違ってはいなかった。
ある意味で両者は近親者よりも近く、そしてまたある意味では赤の他人よりも遠い存在。
矛盾入り混じる両者が、再度意思を交わしたその時に。
無形の悪意は、その終焉を迎えていた。
「……まさか、な」
優しくも力強い閃光に照らされながら、弓兵は呟いた。
発光源は既に己の脚で立ち上がり、健在をその身で示している。
身に纏う服はあちらこちらに大穴が開き、鮮血にどす黒く染まってぼろ布と変わりない。
だが、その奥の肉体には、あるはずの傷が一切なかった。
あれほどに凶器で切り裂かれ、穿たれ、刺し貫かれたにも拘らず。
かすり傷どころか痕すら、残っていなかった。
その理由を、弓兵は知っている。
「――――待たせたな、アーチャー」
光の中から響く声は力強く、これまでの激戦をまったく感じさせない朗々さを以て彼の鼓膜を揺らす。
天に高く片腕を掲げ、強い意思を秘めた瞳がすっと閉じられたと同時、光は徐々に弱まっていく。
そして完全に輝きが引いたそこには、鋭気漲る青年の姿があった。
「……特に待ってもいない。衛宮士郎」
「そうかよ」
満身創痍の男の皮肉を気にした風もなく。
腕を下ろしざま、士郎がゆっくりと目を開き、次いで周囲を見渡す。
考えるまでもなく、目が追う目標はたったひとつ。
彼の身体から飛沫となって飛び出した、緑のヘドロの成れの果て。
『――――!!』
瓦礫の地面と化した境内のあちらこちらで、緑の物体は声なき声を上げていた。
アメーバのようにぴくぴく蠢く様は、見る者に生理的嫌悪を催させる。
再び元の無形生物になろうとしているようで、互いに引き合っている。
じゃり、と士郎の脚が微かに動く。
その瞬間、物体の挙動は早回しとなった。
「む……」
ばらばらにあったゲルが、ある一点へ目掛けぎゅっと収束する。
強力な磁石に引き寄せられるかのような、性急かつ急速な再生だった。
集まったそれらはひとつとなり、元のスライム状の軟体物へと戻る。
それが、士郎を乗っ取ったアンゴルモアの全貌であった。
「――――早い」
間、髪を入れず、アーチャーは剣を構える。
これまでの例から見れば、アサシンの変異体であるアンゴルモアは、クラススキルの『気配遮断』を有していると考えてよかった。
この場で逃げの一手を打たれては、向こうが積極姿勢へ移らない限り、発見のしようがない。
そして取り逃がしてしまえば、誰かが士郎の二の舞を演じる事になる。
気配を殺しての接近、そして寄生憑依。単純だが特性上、この上なくえげつない。
今回は結果的に被害者は生還したが、他の者では寄生されたが最後、生き残りの芽はまずない。
なんとしても、ここで阻止しなければならなかった。
「逃がすかよ」
だが、アーチャーよりも先に士郎が動いた。
脱兎の動きで、アンゴルモアが気配を消そうとした数瞬前に。
士郎はいつの間にか手にした『それ』を敵へと向ける。
「お前には……これだ!」
闘志も露わに士郎が猛る。
形容するなら、『それ』は手持ち式のスポットライト。
「――――仕留める!」
スイッチを押す音と共に、ばっと光が照射される。
途端、スライム状だったアンゴルモアが、みるみるうちに固化していく。
やがて、球状の鏡石のような形となると、そのまま地面へと落ちる。
「……よし」
ごとり、と岩塊のような重く硬質な音が、宵闇を微かに揺さぶる。
瓦礫だらけの境内に転がったアンゴルモアの成れの果ては、がちがちに固められていた。
構えた剣はそのままに、アーチャーの目がきゅっと細くなる。
「それは……そういう事か」
「ああ、“カチンカチンライト”さ」
以前、のび太によって語られた『宇宙漂流記』。
ドラえもん達の手により、宇宙国家支配の野望を挫かれたアンゴルモアは最初に取り付いていた機械の肉体から逃走した。
そして宇宙船の中から集めたガラクタを新たな肉体として、破れかぶれに近いながらも彼らの隙を突き、強襲する。
だが、アンゴルモアは結局敗れ去った。
ひみつ道具の“カチンカチンライト”によって、文字通りかちんかちんに固められ、身動きの一切を封じられた。
「しかし、成る程な。こういう軟体の相手には、これが一番なんだな」
「…………」
士郎の述懐を余所に、アーチャーの目は、ライトと化石を忙しなく行き来している。
ややもして、その焦点は化石へと絞られた。
「で、この後はどうする気だ。宇宙を飛ぶ荷札はないぞ」
固められたアンゴルモアは、その後ドラえもんの手によりブラックホールへ投棄された。
その際使用されたのが、ひみつ道具の“空飛ぶ荷札宇宙用”だが、それはのび太の“スペアポケット”には存在していない。
つまり、この場のふたりも持ち得ないという事で。
「それと、そのライトの効果時間は数分だ。時間が経てば元のスライムに戻る」
じっと視線を送り、アーチャーは答えを催促する。
それに対し、士郎は決まり悪くもせず。
「それは、まあ決まっているよな」
さも当然の事のように言い放つと、彼の脚が化石の元へ一歩踏み出す。
既にライトは手にはなく、射抜くように標的を睥睨するその鋭い眼差しは、どこか弓兵を思わせた。
「ブラックホールに叩き込んだのも、結局は跡形もなく消滅させるためだ。つまり別のやり方であれ、同じようにしてやればいい」
士郎の言に、迷いの影は見えない。
やがて、アーチャーはふうう、と長く息を吐いた。
「なんともシンプルかつ力業だな」
「ああ。けど、前例に則ればそれでいいはずだ。どうする?」
「……ちっ」
舌打ちをするも“否”の返答をする事はなく、アーチャーは無言で顎をしゃくる。
あいよ、と軽い返事と共に、士郎が片手で球形の固体となった“成れの果て”を拾い上げた。
そして視線を、アーチャーの腹に穿たれた大穴へ向ける。
「あと一息頼む。派手にやってくれ」
言葉と共に、士郎の手が動く。
ジャンプボールを行うバスケットボールの審判のように、掌中の球体を天高く放り投げた。
「ふん……」
鼻を鳴らした次の瞬間には、アーチャーの手に黒の弓と、見慣れた螺旋剣の矢があった。
そのまま淀みなく矢が番えられる。
きりり、と弓弦が甲高く音を立てた。
「――――これで幕だ。消え失せろ、ミュータント」
諸々の感情が練り込まれた言葉と共に、螺旋の矢が大気を引き裂いて飛翔する。
矢は勢いを殺さぬまま、標的の中心にその身を突き立てる。
「『壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)』」
次の瞬間、螺旋の矢は閃光と共に大爆発を起こした。
衝撃波が木々をざわめかせ、発生した下降気流が瓦礫の砂塵を飛散させる。
境内全体が、びりびりと震え、戦慄いた。
『――――!!』
無言で、しかし確かに響き渡った断末魔。
悪意の成れの果ては、欠片すら残らず閃光の中で消滅した。
「……っう、ぐ」
決着を見届けたその途端、アーチャーの残心が崩れ、その場へ膝を折った。
片手が、腹の大穴を庇っている。
士郎が駆け寄ろうとしたが、アーチャーは目でそれを制した。
「おい」
「……既に修復は始まっている。しばらくすれば問題ない」
「いや、大有りだ」
制止も構わず、士郎がアーチャーへ近づく。
そして己のズボンから“スペアポケット”を探り出し、中から布を一枚、取り出した。
それを見たアーチャーの眉が、きゅっと引き締まる。
投げ渡された布を引っ手繰るように宙で受け取り、患部へ押し当てた。
「そうか。時間がないんだったな」
「ああ、もうかなり経ってる。急がないと」
ふたりの見解が一致する。
障害を潰した以上は、一刻も早く、分かたれた仲間へ向かうべきだと。
“タイムふろしき”で時間回帰したアーチャーの肉体は、瞬く間に修復が完了する。
負傷箇所の時間が逆行し、全身が元の傷ひとつない状態へと戻った。
立ち上がりながら、アーチャーは二、三度、手・腕・脚と曲げ伸ばしをする。
十全であった。
「貴様は身体に問題はないのか。服以外に損傷はないようだが」
「おかげさまでな……お前、知ってたんだろ。“アレ”の事」
「想像に任せる。それで正解だ。独力で形を成せるとは思わなかったがな」
「偶然だよ。ただ、皮肉だな。乗っ取られて、結果的には良かった、のかもしれない……色々とな」
遥か彼方を見つめるようにして、士郎が呟いた。
あらゆる感情が織り込まれたその物言いに、アーチャーの眦が訝しげに歪んだが、それだけだった。
今は、それ以上に優先するべき事がある。詮索は後回しでいい。
最後に、ぐっと拳を握りこむと、アーチャーは踵を返した。
「それはともかく、工房を探すぞ。急いでな」
「ああ」
アーチャーの後を、士郎が追おうと動く。
その時だった。
「――――案内(あない)してやろうか」
唐突に、背中に声がぶつけられた。
コンマ数秒で、ふたりが背後を振り返る。
一方はいずこから出した二刀一対の剣を構え、もう一方は無手のまま。
声の主を目にした時、後者の表情は微かに緩み、警戒を真っ先に解いた。
「小次郎!」
群青の羽織に、背中に背負った六尺はあろうかという長長刀。
なにより涼やかな風を思わせる、その佇まい。
アサシンのサーヴァント『佐々木小次郎』が、腕を組んで立っていた。
「アサシン……貴様は」
じゃり、と靴音を鳴らしてアーチャーは剣を構える。
身体中から、相手に対する警戒心が滲み出していた。
元々がキャスターの手駒であり、実力も剣の業だけはセイバーに比肩し得る存在。
彼にとって、警戒をしない理由がなかった。
「くく、剣呑剣呑」
だが、敵意を向けられても小次郎は涼しい表情のまま。
ショー開演間近の観客のような薄い微笑を湛え、気配を尖らせる事もない。
小次郎の視線がアーチャーから士郎へと移り、そして唇をはっきりと三日月にして片目を閉じた。
「さて、童(わっぱ)。このような仕儀となった訳だが……まずは、お主の手の甲を見てみよ」
士郎の目が己の手の甲へ落ちる。
そこには、剣の英霊との契約を断たれて色を失ったはずの令呪が、赤く浮かび上がっていた。
はっ、と跳ね上がる士郎の顔。
小次郎の唇の三日月が、さらに鋭く吊り上がった。
「契約が……完了している? なんでだ?」
士郎の首が懐疑に傾ぐ。
バーサーカー然り、ライダー然り。
これまでの変異体の最期を振り返ると、変異前の固体に戻った後、エーテルの塵となって消滅していた。
だが、アサシンの佐々木小次郎にその気配は皆無だった。まるで、変異など最初からなかったかのように。
しかも、本来は儀式がひつようなはずの契約まで終了しているというオマケまで付いている。
のび太の例に倣って裏技を用いた訳でもない。小次郎にたった今気づいたふたりでは、物理的に不可能だ。
悠然な姿勢を崩さぬまま、小次郎が軽く肩を竦めた。
「知らぬ。この身が特異な者ゆえか、あるいはあの奇妙な深淵の影響かもしれんが。しかし、そんな事はどうでもいい」
「どうでもいいって」
「既に望んだ通りの結末となった以上、過程など些事に過ぎぬよ」
「そう、だけど……」
逡巡する士郎へ、小次郎がするりと近づいていく。
荒れ放題の境内の中でも、草履の擦れる音はしない。
「ともあれ、契約は成った。あの深淵での言葉、覚えていような」
淀みのない物言いだった。
小次郎の顔から笑みが消え、ゆっくりと厳かなものへ変化していく。
「アサシンのサーヴァント、佐々木小次郎。約定により、これより汝の一刀となろう」
宣誓が、鉄よりも重く響き渡る。
士郎の表情が、決然としたものへと変わっていた。
「ああ。よろしく頼む」
「…………」
契約がなされた以上は、敵ではない。
なにより、二者の間に根差す奇妙な信頼が見て取れる。
ひとり傍観していた、アーチャーの目が疑わしげに歪んだ。
「なにが、あった……?」
「ちょっと取引をな」
「……取引」
「といっても、大した内容じゃない。小次郎にとっては違うようだけど」
「当然よ。浮世の醍醐味に浸る事もなく、ただ番人稼業に縛られるよりはこの方が余程よい」
真剣な顔から一転し、涼やかな微笑へと戻る小次郎と、仕方なしとばかりに肩を竦める士郎。
語られる内容は漠然としていて、当事者でないアーチャーには結局、事情のすべてを理解し得なかった。
だが、肝心な事だけは確と理解する。
「――――案内する、と言ったな。アサシンよ」
「うむ」
ここにいるアサシンこと『佐々木小次郎』はこちらの味方となった。
今この時、それだけが解れば、とりあえずアーチャーにとっては十分であった。
「あんごるもあ、とか言ったか。私から出でたあの化生は。私は女狐から聞かされなんだが、しかし奴は知っておった」
「では……ミュータントの記憶を引き継いだのか」
「そうさな。そして……ふむ。時間が惜しいのだったな」
飛ばすとしようか。
そう言うと、小次郎の羽織の裾が翻った。
ふたりに背を向け、じゃり、と草鞋を鳴らして歩き出す。
ついてこい、と無言の背中で示していた。
「最も近い道を行くが、山中ゆえそれなりに険しい。見失うな」
「了解した。頼む」
アーチャーのその言葉が、出発の号砲となった。
疾風のように宵闇を突き抜け、駆ける群青の羽織。
ランサー並の出足の速さだったが、飄々としたその表情は崩れない。
速さを制限しているのだと窺い知れるその後背を、ふたつの影が追って走る。
「遅れるな、小僧。遅れるようなら眠れる荷物になってもらう」
「努力するさ……今なら、いける」
先導者と追走者の姿は、そのまま境内の向こうの山肌へと飛び込み、すぐに木々の奥へ消える。
暗夜の静寂が、再び境内に染み込んでいった。
「――――貴方、どうしてここが?」
疑問のままに凛が問うも、葛木は黙して答えず。
のび太を庇うように彼の前へ陣取ったまま、その手を覆う物の裾をぎゅっと引き絞る。
見た目にはただの黒い革手袋。しかし魔術師の凛と、半サーヴァントのフー子にははっきりと解った。
その手袋に込められた、強力な魔術の存在感に。
「ま、りょく……?」
「……『強化』魔術。でも、構成とベクトルが……これだとむしろ“硬化”?」
それにも答えはない。
葛木の視線は、悪の首魁を捉えたままであった。
『ふ、フハハハハ……! これは呆れたものだ。せめて死地から逃がそうという、愛人の最期の情も無駄にするとは!』
神殿の屋根から、オドロームの笑い声が響き渡る。
腹を捩らんばかりの高笑いだった。
『事前にこの神殿の事を教えられていたようだが、女の後を追いにでもやって来たか?』
「…………」
答えはない。
どこまでも無表情は変わらず、葛木は感触を確かめるように両手の指を軽く動かす。
視線もなんらの色にも染まらないまま、ただ無感情にオドロームを見上げている。
「あ、あの」
不可思議なこの行動に面食らいながらも、おそるおそるのび太が葛木に声をかける。
すると、ここまでなんの反応も示さなかった葛木が動いた。
のび太を振り返ったのだ。
びく、とのび太の身が竦む。
「ぅひっ!? その、あの……っ」
「…………」
泡を食うのび太にも眉ひとつ微動だにしない。
やがて、唇がゆっくりと動いた。
「名前は」
「……は、はい?」
「『名前は』と言った」
「へ!? あ、え、っとと、の、野比です。野比のび太……」
「そうか」
抑揚のない、淡々とした声だった。
呆気に取られるのび太にそれだけ言うと、葛木は視線をオドロームへと再度向ける。
「野比、尋ねる」
「へ?」
「あれはキャスターか」
「は、う、うん、たぶん間違いじゃない、と思うけど……だ、誰かの仕業で、キャスターさんがオドロームに作り変えられちゃった、でいいのかな?」
「…………」
要領を得ない返答だったが、葛木は特に異論を挟まなかった。
理解が及ばないのか、それとも想定の範囲内だったのか。
葛木の口が再度開く。
「もうひとつ尋ねる」
「はい?」
「あれを斃せばどうなる」
「ど、どうなるって……」
のび太には、葛木の意図がまったく読めなかった。
しかし、答えないという選択肢を彼が持っているはずもなく。
これまでの経緯を考えて、あり得る予測を口にする。
「そもそもこの“白銀の剣”じゃないとやっつけられないんだけど……」
「そうか。それでどうなる」
「ラ、ライダーさんの時みたいに、たぶん元のキャスターさんに戻って……そのままなにもしないと消えちゃうけど、その前に道具を使えば」
「のび太、それ以上は言わない!」
凛が発言を遮った。
行動を見る限り、葛木は敵ではないのだろうが、味方という確証もない。
敵か味方か解らない状況で、こちらの手の内を知られるのを凛は嫌った。
「…………」
すると、葛木がのび太から視線を外し、すっと正面へ向き直った。
一切の澱みのない、自然な挙動であった。
「解った。ならば、話は早い」
「え」
「手を貸す」
答えは簡潔にして明瞭。
葛木はそのままゆっくりと腰を落とし、手の指を曲げ拳法のような型を取った。
普段凛の使う中国拳法とも違う、どこか異質さの漂う構えであった。
凛の眦が吊り上がる。不審がっていた。
「……どういうつもり?」
「言葉の通りだ」
「まさか、キャスターを取り戻す気? いえ、それにしたって本来、敵のわたし達に協力って」
「…………」
凛の言葉に、葛木は反応を示さず、構えを崩さない。
そこに、オドロームの高笑いが再度響き渡った。
『グハッ、ワアッハハハハハ!! ヤケでも起こしたか! 情夫ふぜいが笑わせてくれる! クッ、ククク……!」
神殿が揺れるかと思われるほどの音量であった。
腹を抱えるオドロームに目もくれず、葛木は型を保ったまま。
しかし首魁の抱腹絶倒から数秒経って、ゆっくりと唇が動いた。
「オドローム、と言ったか」
『くく……ふふ、どうした?』
「俺はキャスターの情夫ではない。そして、キャスターは愛人でもない」
やはり、葛木の言葉に抑揚はない。
オドロームの口角が、さらに三日月に吊り上がる。
多分の嗜虐心と幾分かの関心が、その歪んだ口角に入り乱れていた。
『ほう、ではなんだというのだ。遺言代わりに聞いてやろう』
葛木が、目だけをオドロームへ向ける。
感情の色も、輝きもなく、しかし茫漠の中に断固たる意思を感じさせる目であった。
「――――婚約者だ」
途端巻き起こる、大気を揺るがす高笑い。
それと同時に、異形が葛木目掛け踊りかかった。
『Syiiiiiiiaaaaa!』
六剣を振り上げたスパイドル。
一撃を貰ったせいか、頭に血が上り、ほぼ半狂乱状態だった。
それ故に、敵意は純粋。そして苛烈。
リミッターの振り切れた重機のように、無秩序な暴力の塊として荒れ狂う。
「――――すぅ」
瞬間の一呼吸。
迫る脅威にも、葛木の無表情は崩れない。
空気を引き裂いて、大蜘蛛の六剣が唸りを上げる。
「――――はぁあ」
音もなく肺の空気を吐き出し、凶器を一瞥。
微塵の動揺も窺わせぬまま、葛木は腕を振るった。
空気が右から左に流れるような、不自然なまでに自然。そんな静に近似した動。
「……ぅあ!?」
彼の背後で、のび太が目を剥く。
そのさらに後ろには、凛の驚愕に染まった表情があった。
重い玄翁で、巨木を思い切り叩いたような、鈍く分厚い音が響く。
『Gyiiiiiiiiaaa!?』
同時に、スパイドルが前と同様に、大きく吹き飛んだ。
二メートルを超す巨体が、砲弾のように錐揉みしながら水の兵士達をなぎ倒していく。
目を見張りながらも、凛の目は捉えていた。
敵の胴の真ん中、鳩尾の辺りに深く刻まれた拳の形を。
「……拳法」
「これが『拳法』なのかは知らん。正しい名も知らん。“蛇”と耳にした事はある」
「“蛇”……か。それにしては二回とも派手にぶっ飛ばした……」
「あれは単に力で吹き飛ばした」
葛木の平坦な物言いとは逆に、凛の眉根が吊り上がった。
狂戦士化されたジャンボス・スパイドルは、サーヴァントに比肩するほどの力を持つ。
それを葛木は、技ではなく、単純に筋力のみで吹き飛ばしたと言った。
もしも彼の言葉通りとするなら、その膂力は生半可なものではない。
「ひょっとして」
彼の手袋に施された『強化』魔術が、とも考えたが、凛の理性はそれをすぐ否定する。
『強化』の範囲は手袋を着けた指と手に限定されている上、術のベクトルが手を固く防護するような形に集束していた。
魔術師として、キャスターの足下にも及ばない凛だが、それでも魔術師の端くれである。
術の詳細は解らなくとも、効果とその範囲程度は読み解ける。
「…………」
数瞬の沈黙。
凛の決断は早かった。
「のび太に敵を近づかせない事。それから、オドロームまで剣を届かせる道を作る事。それが役目です。『葛木先生』」
「解った。役割は果たす」
首肯と共に、葛木が応じる。
そして、水兵の波がどっと押し寄せてきた。
「き、来た!?」
のび太が僅かに怯む。
寡兵を、大勢で押し潰す。シンプルかつ最も厄介な手法。
兵質の良し悪しは別として、群集が迫り来るその威圧感は並ではなかった。
「――――野比、少し下がれ」
それにいささかの動揺も見せず。
暴力の嵐に、葛木は欠片の躊躇もなく飛び込んだ。
「あっ、待って……ぇえ!?」
伸ばされかけたのび太の手が、ぴたと止まる。
なぜ葛木の拳が“蛇”なのか。
驚きに丸くなったその目で、のび太ははっきりと理解した。
「…………」
風が隙間に入り込むように、するりと葛木が群集へ滑り込む。
そして、最も手近にいた最前列の水兵目掛け、その両の腕をしならせた。
「うわ!?」
途端、ぱん、と水兵の頭部が弾けた。
兵士の頭部があった場所には、手袋に包まれた葛木の拳が。
水風船に針を刺したように、辺りに飛散する水飛沫。魔力の光が飛沫に反射し、空気を微かに白くする。
悲鳴にも似たのび太の声を余所に、しゅるりと拳を引き戻した葛木は、淡々と腕を振る。
それはまるで、雑草を刈り取っていくようだった。
「これは……」
拳を頭にした腕の軌道は、敵の身体表面を這うように。
行き先は、水月・延髄・人中といった人にとっての急所。
一撃で確たる手応えなければ別の急所へ二撃目を、二撃目でだめならさらに別の急所へ三度目を。
人体の脆弱な場所へ次々と、指を折り曲げ面積を小さくした拳を叩き込む。
無慈悲なまでに効率的な破壊を、最小限の労力で成し遂げる。
ダンスのように優雅でも、演舞のように流麗でもない。捻じ曲げられたパイプのように不恰好で、だがこの上なく無駄がなかった。
剥き出しにして無情、そして無機質。その在りようは、もはや『武』ですらない。
あらゆる装飾は削ぎ落とされ、裏表のない暴力の地金だけが露出している。
それが、この技とも呼べない技術を見慣れぬ奇術へと昇華させていた。
すべては、只管に単純な目的のために。
「絶対に殺す。たった一度の見敵必殺のためだけに極められた術、か」
武を嗜む凛だから解る。
目の前のこれは、初見殺しの暗殺術。たとえどんな相手だろうが、初回である限りはその奇怪な打撃軌道で必ず標的の虚を突ける。
知らず、凛の舌が動き、乾いた唇を湿らせた。
空気のように色もなく、そして冷然と敵を屠る様は、彼女に処刑機械をすら連想させる。
鋼の蛇が、しゅるしゅると獲物を求めて這いずり回っていた。
「…………」
無言の殺戮。葛木の身には殺気も、闘志も見られない。
しかし一体、また一体と、水兵が飛沫となって散ってゆく。
それが、凛に決断を下させた。
「正念場ね。のび太!」
「えっ?」
「一気に行くわよ。“バリヤーポイント”を準備なさい」
「は……?」
賭けるなら、この時をおいて他になし。
ぽかんとするのび太に頓着する事なく、軍配を翳すように凛が腕を振るった。