――――彼は理想に殉じた尊き者であり、そして理想の果ての絶望に至った愚か者であった。
彼は走った。走り続けた。
どこかで泣いている誰かを救いたい、と。その涙を止め、笑顔を齎したい、と。
子どもが一度は憧れるだろう英雄(ヒーロー)。先立った者より受け継ぎ、胸に抱いた原風景を彼は己の手で形にしようとした。
そのために、彼は力を振るった。理不尽に傷つく、何処とも知れぬ者達のため、彼の持つ秘奥を惜しげもなく開陳し駆け抜けた。
その事を快く思わぬ者達から襲われる事も度々あったが、彼はその魔手から悉く逃れてきた。
見返りも、感謝も、同情も、彼は欲しなかった。
目的を果たすために、たとえ人から疎まれようが、利用されようが、彼にとっては些事でしかない。
愚直に邁進する彼を、多くの人々は畏敬や感心よりも、むしろ奇異の目で見ていた。あるいは、人によっては不気味に映ったかもしれない。
すべては救うべき者、救われるべき者の救済のために。たったひとりの旅路、どれほどの苦境に陥ろうと、彼の命題はいささかもぶれる事はなかった。
だが、彼は万物を司る神ではない。救えぬ者もいた。かけがえのないものを奪われ、悲嘆に暮れる者の姿を、何度となく見てきた。
その度、彼は己の非力さを呪い、次こそは救ってみせると心に刻んだ。形のない心から血が滲み出すほどに、幾度も、幾度も。
「……だから、アイツは死後を“世界”に委ねた」
ある時、ありふれた悲劇によって生み出された被害者が、百人ほどいた。
老若男女の別問わず。共通項は、不運であり、また理不尽に抗う力なき事のみ。
死屍累々たる亡骸の丘の只中、彼は揺らぎない瞳で天を仰ぎ、そして告げた。
『――――我が死後を委ねる。その報酬を、ここに貰い受けたい』
名も知らぬ屍をその腕に抱き、彼は死した後の自分を“世界”に売り渡した。
そこに躊躇いなど、微塵もない。あっさりと、ホテルのボーイにチップを差し出すように。
“世界”からの報酬の前借りによって、奇跡は起こる。亡骸の丘は生者の立つ丘となり、彼は、百人の命を救った。
そして、引き換えに彼はその死後を、“世界”に委ねる事となった。
魔の道において、奇跡はただでは起こらない。縋るとなれば、それ相応の対価が必要となる。
すなわち『等価交換』。それが、この“世界”の神秘の理であり、また成り立ちの根幹でもあった。
己の死後を売り渡すなどまずもって狂気の沙汰としか言えない所業だが、彼はその事を一切後悔していなかった。
世界と契約した者は“守護者”と呼ばれ、なんらかの要因で人類が滅びの危機に直面した時、現世に現れその抑止力となる。
彼はこう考えたのだ。“守護者”となれば、今よりももっと多くの人々を救えると。
“守護者”となった人間は、“世界”からのバックアップを受け、人間よりも上位の存在『精霊』へと昇華する。
力及ばず救えなかった者達を思い、彼は欲した。今の自分をより高みへ登らせる力を。
そしていつしか周囲に人はなく、孤高の者となった彼は旅路の果てに露と消え、“世界”の走狗となった。その希望の先に見る結末を、知る由もなく。
「……浅はかな。“守護者”など、所詮は始末屋でしかない狗よ」
彼の見たものは、地獄だった。
“守護者”とは、早い話が“世界”の暴力装置。
ヒトによって齎される人類存亡の危機を、この世で最も手っ取り早い方法を以て強引に解決する。
すなわち、要因となる関係者すべての抹消。皆殺しだ。
そこに救うべき者、救われるべき者などといったものの考慮は皆無。九十九を救うため、一を切り捨て続ける役割の連続であった。
百すべてを救う事、存命時には叶わず。死後こそはと“守護者”になったはずが、常に己の手で救われぬ者を生み出し続けなければならない。これで心が保てようか。
“守護者”には自由などなかった。ただ“世界”のために、傀儡として仕事を完遂する。
正義も倫理も矜持すらも、現世に降臨した際の彼には何一つとして持ち得なかった。
救いたいと願った者達の涙と血を、いったいどれほど見せつけられただろう。やがて、彼は磨耗していった。
次こそは、次こそはと誓っても、延々と背負わされる始末屋稼業。
幾星霜の果て、抱いた理想は擦り切れた。彼の夢は残骸へと堕ち、彼自身はくたびれ果てたガラクタと化した。
そんな彼に残されたものは、たったひとつの真実と目的だけ。
彼を彼たらしめる、その身に宿した象徴と、そして。
「――――理想を追いかけていた、かつての『自分』に対しての“憎しみ”」
地獄の底から湧き出すような暗い執念を鉄面皮で覆い隠し、彼はこの世に顕現した。
ついに、その憎悪の宛先に辿り着いた、途方もない歓喜を内心で爆発させて。
HDDにデータを読ませるような、じりじりという音が頭の中で反響している。
死闘の情景と共に、脳裏に刻み込まれる回顧録。いつか男が辿った軌跡と、その魂の奥底に封じられた心の絶叫。
なぜそんなものが見えるのか、聞こえるのか、解るのか。不可思議な闇の中での、その追求は無意味に等しく、捨て置かれ。
ふたりの脚は留まる事なく。
ただ只管に、止めようもなく頭に刷り込まれる『記録』の判読に耽っていた。
「……そうか。そういう事だったのか」
「――――くっくっ」
道程定まらぬ旅を始めて多少の時が経ったが、今なお、暗夜よりもなお暗い漆黒の空間を往く道すがら。
闇の先にただひとつだけ灯された北極星は消えておらず、黙々と足跡を残す最中、片時もそこから視線を外さなかった。
この訳の解らない暗闇に囚われた今、その光は暗夜の灯台にも等しい。
すべてを呑み込んだ士郎の表情は、神妙そのもの。対する小次郎は、やはり常のものと似た、意味深長な含み笑いを浮かべていた。
士郎の眉が怪訝に歪む。
「なんだよ、小次郎」
「くく、いやなに。なかなかに愉快な人生を歩んだものだと思ったまでよ」
「皮肉か」
「解釈は自由にすればよい……さて童よ」
「なんだ?」
「今のを見て、どう感じた」
小次郎の問いは、士郎の脚の速度を僅かに落とさせた。
小次郎の笑みがゆっくりと深まっていく。
「どう、って」
「思ったままを言えばよい」
「……そう、だな」
促された士郎は、徐に足元へと視線を落とす。
しばらく沈思していたが、やがて顔を上げると、こんな答えを呟いた。
「――――アイツの抱いた理想は、間違ってない」
「…………」
耳にした一瞬、小次郎の表情は不意打ちを喰らったように、目が点となっていた。
だがそれもすぐに消え、ふん、と鼻を鳴らして元の薄笑いへと戻る。
「ほう。それはまた……くっく」
「笑うなよ」
「別段、馬鹿にしておる訳ではない。しかし、意外ではあった」
「……別に。今でも虫が好かないよ、アイツは。でも」
歩みは止めず、しかし眩しそうに目を細めて、士郎は続けた。
「夢に向かって走り続けたアイツを非難なんて、そんな事は出来ないし、したくない。特に、今の俺にはその資格すらない。そう思ってる」
「青臭い事を……が、まあよかろう」
真摯な眼差しで告げた士郎に、小次郎は再度鼻を鳴らした。
すると、今度は士郎が小次郎へ視線をぶつける。
「お前は」
「うん?」
「お前はどう思うんだ」
まさか問い返してくると思わなかったのか、小次郎の目が再度点となる。
だが、今度は笑うでもなく、組んでいた手を顎へとやり、しばしの黙考を始めた。
じっと士郎がその様を窺っていると、ややもして小次郎は手を元へと戻し、一言、こう呟いた。
「――――矛盾、よな」
「……矛盾?」
「うむ」
小次郎の言に、士郎は首を捻った。
「人の救済に身を捧ぐ。私自身はそんな酔狂に微塵の関心も湧かんが、それ自体を否定はせん。だが、奴はある種の勘違いをしているように映った」
「勘違い、って」
「そも、人を救うのに武力など絶対的に必要なものとは思わん」
「……どういう、意味だよ」
掴みきれないのか、士郎の眉間にきゅっと皺が寄る。
そんな彼に、首を横に振りつつまあ聞け、と前置きし、小次郎は語り出した。
「私の生きた時世の事は知っていよう」
「あ、ああ。たしか『佐々木小次郎』は関ヶ原の後くらいの剣客だよな」
漠然とした範囲だが、おおよそ間違ってはいない。
うむ、と小次郎は頷いた。
「偶然、かどうかは定かではないが。『佐々木小次郎』の役を担うこの『私』もまた、同じ頃に生を受けた」
「へえ」
「その頃は、今生の静かで華やかな日ノ本とは雲泥の差よ。大乱こそ鎮まれど、下々の暮らし向きは取り立てて上向く事もなく。村の一歩外に出れば、凶賊まがいの夜盗や牢人(ろうにん)が跋扈する」
「…………」
大きな戦が終わると、それまで必要とされた過大な武力は要らなくなる。
世が平穏を取り戻すにつれ、兵は最低限を残しつつ、無駄飯食いを減らして軍費節約、という行動へ移るのが出来る施政者の基本方針となる。
結果、雑兵……足軽や半農半武士といった下級戦力は放逐され、生活の立ち行かなくなったそれらが犯罪に手を染め、治安悪化の一因となった。
秀吉の朝鮮出兵も、一説には大乱なき後の行き場のない牢人を朝鮮へ押しやり、治安と雇用を一度に解決する。そういう一面もあったとされている。
戦いが終われば、平和が来る訳ではない。事後処理や後始末まで完了して、やっとその下地が出来るのである。
「中でも酸鼻を極めたのは……さて、なんだと思う」
「……ん、一家皆殺しとか、略奪とか?」
牢人云々の前振りがあったからか、ちょっと考えて士郎はそんな結論を出す。
だが。
「否」
間、髪を入れず、侍はそれを否定した。
眉根を寄せる士郎に、『1+1=2である』と当たり前の事を口にするように小次郎は解答を告げた。
「――――『飢え』よ」
端的であるがゆえに明朗な一言。
聞いた途端、士郎の表情は渋いものへと変わり、同時に彼の手が胃の辺りを摩り出した。
「……飢饉、か」
「左様さ」
当時の時代背景にはある意味付き物の、天よりの不幸とも呼べるもの。
士郎の出した訂正回答に、小次郎は唇を三日月にして首肯した。
「燕を斬らんと剣に狂ったが、元を正せば『私』はとある農村で生まれ、百姓の倅として育った」
「そ、そうなのか? 意外だった」
これだけ風雅な格好と垢抜けた風情の侍が、農民出とは誰も思うまい。
外見と内情がここまで噛み合っていない人間も珍しい。士郎の顔は純粋に驚きに満ちていた。
「剣に見入られ故郷を出で、時には諸国を経巡り、ひたすらこの備中青江を振るっておった。幸い、縁にも恵まれ食うには困らなんだが……幼少の頃に一度、故郷が凶作に見舞われた事があった」
「凶作……」
「……あの臓腑を根こそぎ抜き取られるかの如きひもじさは、今となっても忘れられんな」
時の彼方を見るように、小次郎は遠い目をする。士郎は声をかけられないでいた。
飽食を極めているこの現代日本において、凶作こそ時たまあれどその結果、飢餓に苛まれるという事はまずない。
士郎も、その例外ではなかった。ゆえに、究極の飢餓に喘ぐという事を想像こそ出来ても、共感するまでは至れない。
戦時下を生きた者であれば、また違ったであろう。
「僅かに実った雑穀を粥よりもさらにのばして食い、足りなければ山へ赴き、命懸けで痩せた野草や木の実を採っては齧る。それでも満たされねば壁土の藁や木の皮までも口にした」
「そ、そんなものまで?」
「毒でさえなければ、なんでもよかったのだ。人とて畜生、食わねば死ぬのみ。腹が満ちるのならば、たとえ人の食うものではなかろうが、構わず食らう。それが『飢える』という事よ」
凄絶なる飢餓に浸った者の言葉は、ひたすらに重く士郎の内に圧し掛かってくる。
しかし、小次郎の口が生み出す語りは、まだ終わりを見せない。
「だが飢えた者の中では、『私』や郷里の者はまだ恵まれていた方よな。“堕ちずに済んだ”ゆえに」
「え? それって、どういう」
「さて……ふむ。『私』がいつか、旅の空で聞いた話だ。ある年、大凶作に見舞われた国があった」
悪天候が続いた事が原因で、常の半分にも満たない量しか収穫がなく、貴賎を問わず多くの餓死者が出たらしい。そう小次郎は語る。
士郎は、黙する聴衆と化している。そんな中でも、ふたりの両脚は一定のリズムでの挙動を維持していた。
「しかし、そのような状況の中、比較的飢え死んだ者の少ない村があった。官吏がそれを調べに赴いたところ、それぞれの家に大きな甕(かめ)が置いてあったそうだ」
「か、甕?」
「うむ。塩漬けの入った大きな甕よ」
「凶作で食うものもろくにないはずなのに、なんで塩漬けなんか……備蓄でもしてたのか」
「人肉よ」
何気なく呟かれた小次郎の回答。
士郎の表情が凍りついた。
「じっ……!?」
「人の身体ともなれば結構な肉の量がある。飢えが極まり屍となった者や、口減らしで間引いた童子。それらを引き裂き、腹に詰め込んで糊口を凌いだところで余った分を塩に漬け込み、蓄える。生への執念のあまり、餓鬼道に堕ちざるを得なかったのよ」
「…………」
「まあ、この手の話は我らの世では枚挙に暇がない。たとえば、かの太閤秀吉は『干し殺し』や『兵糧攻め』と呼ばれる手で城を落とすのを得手としていたそうだが、やられた方は堪ったものではなかったろう。糧食尽きて井戸は枯れ、騎馬は殺して喰い尽くし、果てには……くく、聞けば人の部位では脳髄が最も美味だったそうな」
士郎は言葉も出なかった。
人肉を食すなど、陰惨極まる鬼畜の所業である。
衣食足りて礼節を知る。逆を言えば、衣食が足りなければ礼節は成り立たず、人は獣となり共食いをしてまで命を繋ごうとする。
人間の三大欲求と呼ばれる食欲、睡眠欲、性欲。それらは個として、種として命脈を繋ぐために必要な本能である。
しかし、それらが満たされなければ人は、鎖の切れた猛獣と化す。特に個の命に直結する食欲については。
「色事や、眠る事は己のみでどうとも都合がつけられよう。しかし、食う事だけはそうもいかん」
「……そう、だな。どうしたって周りの環境に左右されちまう」
「他はいざ知らず。だが少なくとも『飢え』についてのみは、人にとっての絶対悪として不都合はなかろう。私に言わせれば、人を救うなど飢えに喘ぐ者に握り飯のひとつでも差し出してやれば、それだけで事足りる」
「…………」
きしきし、と。
不意に士郎の身体の中で、金属が擦れ合うような、そんな音が響いた。
そんな気がした。
「だが、あれはそうせなんだ。己が力を振るう事によって悪を排除し、人を救わんとした。それしか能がないのだと言わんばかりにな」
士郎と彼が抱えるものは、ある意味で同質。
伝えられた回顧録が、未熟者の小さく錆付いた扉をこじ開けたのかもしれない。
それだけの破壊力が回顧録にはあった。開陳された中身に、士郎が盛大に揺さぶられたのは事実。
そして、引鉄となったのは、この今述べられている侍の持論なのだろう。
「どれほど崇高な理念に基づき、剣を振るおうが所詮、剣は人を殺めるためのもの。他人を救わんがため、その手で別の他人を傷つける。矛盾極まるそこに行き着くのに、さして時間はかかるまい」
「……ん」
「もっとも、そうせねば救えぬ者がいる事もまた真理ではあろうがそれはそれ。その状況に陥る以前に手を打たねばならんというだけの話。であれば、単なる武よりもむしろ別の力が必要とされる」
ぎしぎし。
今度は、先ほどよりも大きな異音。これを気のせいとは、士郎は思えなかった。
尖った粗鉄を放り込んだミキサーがゆっくりと回り始めたような、むず痒い感触だった。
「彼奴が自縄自縛に嵌まったは……憧憬を抱いた影の背中がそうだったからか、はたまた目的の前に“力”がそびえ立っていたがゆえか。あるいはその両方か、それとも違う理由か」
士郎の中のそれは、いよいよ高まりを見せる。
皮膚の下で、がりがりと鋼を引き切るような刺激が這い回りだした。
痛みは少ない。だが、違和感はひどい。
その正体は解っている。だから、少しの不安こそあれ恐怖はなかった。
水底に錆付いて眠っていたものが、目覚め始めた産声。
それは、ある意味強制的な覚醒であった。
内部の変革を意図して無視し、無表情を装う士郎を知ってか知らずか、小次郎の言葉はまだ続く。
「いずれにせよ、矛盾を抱えたまま突き進んだ果てに、奴は理想に押し潰された。哀れとは思わん。愚かとも思わん。ただ、矛盾したものよと思うのみよ」
くつくつ。小次郎が咽喉を鳴らす。
その途端、しゃりん、と士郎の中で鉄の凱歌が終息を告げた。
サルベージされたものが、彼の奥底でしっかと根を張り、その根源を教えてくる。
彼の持つ属性、乏しい魔術の才能、その意味を。
確かな脈動を始めたそれと、小次郎の評を呑み込んで、士郎は我知らず、呟いていた。
「――――体は(I am)……」
口にした、その瞬間であった。
淡い光のみを発していたはずの北極星が、突如として爆発的な光を放った。
「うわ!?」
「ぬっ……」
超新星爆発のように。
熱くもなく、衝撃波もない白い波が、怒涛の勢いでふたりを照らし駆け抜けていく。
腕をかざし、目を細くして光をやり過ごす以外に両者の選択肢はなく、それは光の炸裂が収まるまで続いた。
「んん……っく、な、なんだったんだ、いったい」
瀑布のような光が静まり、士郎はいまだ霞む目を擦りながら周囲に気を配る。
隣では、平静な佇まいそのままの小次郎が、ふわりとかざしていた袖を払っていた。
「さて、取り立てて不都合は見受けられんが……む」
「小次郎?」
途切れた声に士郎がそちらを振り返ると、小次郎の目がきゅっと細まっている。
その視線の先を追うと、星があったはずの場所になにかが置かれているのに、士郎は気づいた。
遠目に見るそれは、陽炎のような淡い輝きを放っていた。
「あ、あれは」
「ふむ、破裂した星の星屑か……否。まあ、いずれにせよ、行って目にせぬ事にはな」
「それは……そうだな」
形が変わろうと、行先は変わらない。
遥か彼方に見えた星に対し、そのなにかは星よりも、遥かに近い位置にあった。
まるで北極星が空から滑り落ち、大地に根を生やしたかのように。
数分と歩かず、二人はそこへ辿り着いた。
本来の目的地であった場所へ。
「ほう……」
立ち止まり、そこにあったものをふたりは確とこの目にする。
小次郎は、この男にしては珍しい感嘆の色の混じった吐息を漏らしていた。
「成る程、これが綺羅星の正体か。いやはや」
顎に手を当て、頷く事頻り。
名のある逸品を手にした好事家のように、両の瞳が輝いていた。
「これ……は」
一方の士郎は、まるで雷に撃たれたかのように呆然と立ち尽くしていた。
目はかっと見開かれ、何事かをぶつぶつ口の中で呟いている。
小次郎の目が、士郎へと向けられる。
「どうした」
「いや」
ゆっくりと。
士郎の目もまた、小次郎へと向けられる。
彼の瞳には、真理を掴んだかのような不思議な輝きが宿っていた。
「解ったんだ……」
「なに?」
「たった今、解ったんだよ。小次郎」
視線が交わり、ぶつかり合い。
吐き出された言葉に、小次郎の眉根が訝しげに歪む。
しかし、そんな彼の様子をまるで無視して、士郎の口は動き続けた。
「すべてはこれから始まったんだ」
「……すべて、とは」
「俺と、聖杯戦争にまつわる、すべて」
「…………」
「そうだ。あの時、俺が生き残ったのもセイバーというサーヴァントを呼び出せたのも! これがっ、これがあったからなんだッ!」
最後は、もはや叫びに等しかった。
語気は荒く、士郎の目は爛々と輝きを増している。
だが、彼の中に渦巻き、余勢を駆って外に漏れ出す感情は、決して激したものはなかった。
「どうりで、どうりで見つからない訳だよ! こんなにすぐ近くにあったんじゃあさ!」
敢えて言うなら、難解なパズルがふとした拍子に解けてしまった際の、つい跳ね回りたくなるようなあの達成感。
過去から現在、そして未来。
己に関わるあらゆる因果が一本の線に繋がった事実を、昂った感情と共に士郎は正面から受け止めていた。
しかし、その昂揚も侍によって唐突に区切られる。
「そろそろ落ち着け」
「ぐっ!?」
ごすっ、と響く鈍い音。
抜く手も見せぬ、小次郎の鞘ぐるみの唐竹が士郎の脳天を捉えていた。
備中青江を収める鉄拵えのそれは、ほんの軽く当てただけでも士郎の頭を盛大に揺さぶる。
たまらず、士郎は膝を折った。
「う、が……!」
「何事か悟ってはしゃぐのもよいが、私を見ているようで見ておらんその態度はいただけんな」
「ぬ、ぐぅ、わ、悪かった」
小次郎の正論に反論の余地はなかった。
士郎は脳天を押さえながら謝罪すると、よろりとふらつきながら立ち上がる。
そして、改めて小次郎へと視線を移した。
「小次郎、頼みがあるんだ」
「なんだ」
士郎はそこで少し間を置き、やがて先ほどとは変わって静かな声でこう切り出した。
「ここから出た後なんだが……お前の力を貸してくれないか」
「……ほう」
ほんの僅かに目を細め、士郎を見下ろす小次郎。
士郎の視線は、いささかも小次郎から逸れる事はなかった。
本気の目であった。
「最優の戦士たるセイバーの主が、亡霊の私を欲するか」
「ああ。不義理だ、って言いたいのか」
「まさか」
侍の目が、ますます細められる。
「セイバーとの契約が切れ、非力な童に出来る事は限られている。そこで、私に目を付けたか」
「間違っちゃいない。多分に成り行きだけどな、こっちは形振り構ってられないんだ」
「成り行きで女狐から私を寝取ろうとは。くく、童にしては肝の太い事だ」
「寝取るとか言うなよ、人聞きの悪い。俺に衆道の趣味はないぞ」
「案ずるな。こちらとて、男の花など愛でたくもない」
渋い表情で断言する士郎を、小次郎はすました顔で笑った。
くっく、と喉の奥で鳴る音に、否の感情は含まれていない。
「――――酒だ」
「は?」
「月見に見合う酒を用意せよ。それで手を打つ」
「……えぇ?」
士郎が目をぱちぱち瞬かせる。
そんな安い取引でいいのか、と。
薄い笑いを崩しもせず、小次郎はなんでもない事のように言い放った。
「女狐に呼ばれてからというもの、水一滴すら口にしておらんのでな。今生の美酒も口にせぬまま去るというのも、戦とは違う意味で惜しい」
「……酒飲みたさに、主と手を切るのかよ」
「山門の守護を命じられたが、今となってはその意味もない。また、それ以外の働きをする義理も義務もない」
「だからって、ちょっと安すぎはしないか?」
仮にも天下の『佐々木小次郎』が酒で買収されるなど、あんまりな話であった。
言い出しっぺの士郎も、流石に少々尻込みしてしまう。
「それに、山門に括られてそう遠出も出来ず、退屈しておったところだ。だがお主に憑いておけば、この騒動だ。飽く事はなかろう」
「……そういう打算か」
退屈を紛らわす。それが小次郎の目論見と理解して、士郎の肩から力が抜けた。
酒云々も嘘ではなかろうが、つまるところ退屈凌ぎが主目的なのが窺える。
なんにせよ、助力願えるならば士郎としては願ったりであった。
「解った。酒は、帰ったらよさそうなのをいくつか見繕っておく。それでいいか?」
主に士郎のアルバイト先である酒屋『コペンハーゲン』から貰ったものだったり、大河が持ってきたものだったり。
士郎は未成年で飲めないため、酒類は家の棚に溜まる一方であった。
心の中で指折りリストアップしながら、士郎は小次郎へ向けて頷きを返す。
小次郎の鼻が、ふんと鳴った。
「ほう、では期待しておくとしよう」
「そうしてくれ……さて、と」
話は終わった。
あとはこの闇の牢獄から抜け出すだけ。
綺羅星の正体を目の当たりにした事で、文字通りの光明が差した。
ここからは出られる。そうでなければ先ほどのような交渉などしない。
鍵は既に、自分の中にある。
そんな確信を、士郎は確かな手応えと共に抱いていた。
「……ん」
ふと、外の情景を垣間見る。
お互いが死にかけの血みどろで睨み合う、不気味なほど静かな膠着状態であった。
そして、怪物と化した己と弓兵が何事か語り合っている。だが、状況からして聞き耳を立てている暇はない。
急ぐべきだ。士郎は判断した。
「こんな辛気臭いところからは、さっさと出なくっちゃな」
「そうさな。ここはいささか静かすぎる」
こつこつと、彼の両脚が綺羅星へと向けて歩を刻んでゆく。
綺羅星が発する燐光に照らされ、靡く士郎の赤銅の髪が鮮やかに艶を放っていた。
ふと、士郎の頭が背後へと振り向けられる。
「っと、そうだ。小次郎」
「うむ?」
「もし外に出られたとして、お前がどうなるかはちょっと解らないんだ」
「……ほう」
己自身の重大事にも関わらず、応じる小次郎の顔は揺らがない。
流麗なのは剣筋だけでなく、性格や仕草までいちいち準じるのか。
士郎は、そんな場違いな感想を抱いた。
「一緒に外に飛び出すのか、アンゴルモアの中に留め置かれるのか、あるいはそれ以外か」
「…………」
「ただ」
そこで一拍の間を挟み、綺羅星に視線を戻して士郎は続けた。
「アンゴルモアについては勝算がある。だから、お前の力を借りたいのは」
「それ以後の話、か」
「ああ。今までの例を考えれば、少なくともアンゴルモアを倒せばお前を完全に解放する目処が立つ」
歩みが止まり、士郎は遂に綺羅星の前へと立つ。
そしてゆっくりと伸ばされた彼の手が、ふわりと星に触れた。
綺羅星は士郎を拒む事なく、変わらず二人を穏やかな光で照らし続けている。
士郎の口角が、にっと吊り上った。
「だから、この後どうなるにせよ、少しだけ待っていてくれ」
「……ふん」
鼻を鳴らす小次郎。
その表情は、余興を前にした観衆のような深い笑みであった。
「よかろう。まずは主(ぬし)の手並みを見せて貰うとしよう」
「ああ、しっかり見ておいてくれ」
士郎の声に揺るぎはなかった。
言い知れぬ気迫を漲らせ、士郎は綺羅星に鍵を差し込む。
癒し包むような光を放つ……『鞘』の形をしたソレを揺さぶり起こす祝詞が、空に静かに響き渡った。
「――――『I am the bone of my sword(体は剣で出来ている)』」
次の瞬間、眩い光がソレを中心に弾け飛び、竜巻のような濁流となって天まで立ち上った。
漆黒の空間が金色の波に溶けては消え失せ、ふたりの姿も同じく浚われ、見えなくなる。
空間を埋め尽くした黄金はやがて白金へと色合いを変え、そこにあるすべてを真っ白に染め上げていく。
輝き満ちる奔流の中、さあっと霧が晴れていくような、例えようのない解放感が、士郎の身体を駆け巡っていた。
「……ああ」
暗闇とは正反対。黒でなく、白で視界は塗り潰され一寸先も見えない。
熱くもなく、冷たくもない優しい閃光に洗われながら、士郎は確信した。
己の本来の肉体が、悪意の支配から脱却出来たのだと。
「さて――――行こうか」
あとにやるべきは、シンプルにして明快。
このような妙な事をやってくれた、その落とし前を付けさせに行く。
最後に見えた外の情景は、決着が目前となっていた。勝利の天秤は敵の側で。
しかし、それは今、士郎によってひっくり返された。
「ツケは支払ってもらうぞ、アンゴルモア!」
闘志滾りし眼差しは鋭く。
足先から両手の指の一本一本に至るまで、全能感にも似た赤銅色の昂揚が漲る。
そして唐突に光の嵐が止み、宵闇の冷たい空気がどっと押し寄せては全身を舐め、肺を満たす。
次に士郎の目に飛び込んできたのは。
『――――ィイ゛イイィイ゛イ゛ギャアァアア゛ア゛ア゛ア゛!!』
形容しがたい奇声を上げてびちゃびちゃ飛び散る、緑色をしたゲル状の物体。
それから、その奥にもうひとつ。
「……まさか」
魂でも抜かれたように呆然と士郎を見つめている。
鷹の目をした、満身創痍の赤い弓兵の姿であった。