凛とトリホー。
相対するふたりの表情は、まさに対照的であった。
かたや凪いだ海のようなへらりとした笑顔、かたや緊張感の漲ったしかめっ面。
どちらがどちらかは、言うまでもない。
「『死因固定(アンデッド・コード)』……ね」
「左様。その内容は……ホッホ。言わずとも、予想がつくのではありませんかな」
そこで凛は唇は閉ざす。動く気配はない。
まさに、そのものずばりであった。
オドロームについては、既にのび太より聞き知っている。
魔に精通した才媛である彼女の推測は、限りなく真実に近づいていた。
だからこそ、解せない。
この初老の男は、いったいどういう意図で凛と接触し、切り札とも言えるブツを引き渡したのか。
「そうね……けど、どういうつもりなの、アナタ」
「おや、なにか不都合でも?」
「いいえ。不都合どころか渡りに船よ。このブツがなければ、こっちは『詰み』だったんだから……だからこそ、よ」
「はて」
「ご都合主義も時と場合によるわ。こんなあっさり切り札がくるなんて。この戦い、いいえ、この聖杯戦争すべてが『ダレカ』の掌の上みたいで、気持ちが悪いったら」
凛の舌鋒は鋭く、刺すような視線も相まって、さながら閻魔の尋問にも感じられる。
だが、被告たる老人はどこ吹く風。剣呑な雰囲気に中てられても、張り付けた微笑は小揺るぎもしない。
むしろ、鼻歌でも歌い出しそうな余裕すら滲み出ている。
「破格のお膳立て、おまけに『救済措置』ときた。そこを隠す気もないって、陰謀家としてはともかく演出家としては三流ね。ある意味、仕事を投げてるもの。おたくの後ろの黒幕」
しかし、凛の言葉はそれ以上続かなかった。
突如として、脳天から突き抜けるような高笑いが老人から響き渡った。
「――――ホーッホッホッホ! いやいやいや、結構、結構!」
「……なによ」
「仮にもまとめ役なだけはありますな。勘鋭く、気も回る。今の口ぶりでは、その黒幕とやらの見当も付いておられるのでは?」
まるで見透かしているような言いように、凛の片眉が跳ね上がる。
が、その熱された感情を瞬時に冷まし、努めて平静を保った。
強靭な自制心は、凛の長所のひとつ。とりわけ、危機的な状況においてはそれが顕著に出る。
「……アナタに言う必要があるとでも?」
「ホッホゥ、ごもっとも。しかし、その返答だけで答えは解るというものですな」
「言ってなさい」
従者さながらの冷徹然とした鉄仮面となり、凛はトリホーの言をいなす。
想像する分には好きにさせるが、必要以上の情報を出すつもりは彼女にはなかった。
すげなくされても、気分を害した風もなく、上機嫌にトリホーはもう一度、笑い声を上げる。
「ホッホッホ。それではその才覚に敬意を表して、少しだけお答えいたしましょうかな」
「なにをよ」
「貴女にお渡ししたそれはですな、大帝が存在するためには外せぬ条件なのです。つまり、大帝が現れたとなれば、コレも必ず姿を現す」
「……同時存在が義務付けられてる、って訳?」
「まあ、光と闇の関係のようなものですな。光あらばそこには闇もまた存する、と」
陰陽の関係か。凛はそう解釈した。
磁石のS極とN極などといった、プラスとマイナスの概念はどこにでもあり得る。
一方だけでは存在し得ない。必ず対となる存在と同時に存して初めて意味を成す。
眉間の皺が一層険しくなった凛へ、トリホーはホッホとまた、笑ってみせた。
そうしてそのまま、自然な動作で彼の両足先はくるりと百八十度、方向転換する。
「とりあえず、このトリホーめからはここまで。あとは」
踵を返し、凛に背を向けたまま、トリホーの声が朗々と響く。
警戒心から、老人が動いても彼女は軽挙を慎んだが、続く言葉にその膝がぴくりと、意思に反して震えを見せた。
「――――いずれ来る『使者』にでも、お尋ねになる事ですな」
その言が凛の脳髄に浸透するのに、たっぷり三秒はかかった。
予想の端にもなかった、不意打ちであった。
「……使者?」
「左様。貴女の言う、黒幕からの」
「いつ、どこで」
「それよりも、まずはこの逆境に立ち向かいなされ。乗り越えられなければ、それ以前の問題ですぞ」
「アナタは使者じゃないの?」
「ホーッホッホ、とんでもない。せいぜい、子どものお使いといったところですな」
アンタ、ジジイじゃないの。凛は心の中でツッコミを入れた。
既に、凛の頭は切り替えられている。今はこのジジイよりも、上の修羅場を切り抜ける事が重要だと。
洒落を飛ばしたこの胡散臭い老人に気づかされたのは癪ではあったが、そんな些事で本質を見誤ったりはしない。
足音も静かに、闇の向こう側へ歩いていくトリホーに鋭く視線を突き刺したまま、凛はポケットへと手をやる。
帰還のための道具は、ここにある。
「それではこれで……と、そうそう。もう一点」
「なに」
闇と一体化しようとしていたトリホーが、ふと立ち止まると首のみを動かし、凛に振り返る。
そして。
「ここに落ちて来られた時、対衝撃の魔術と一緒に今しがた握ったそのポケットのものを使っておれば、あるいは脚の痺れに呻く事もなかったでしょうな」
ホーッホッホ。
さざ波のような笑いの余韻を残して、今度こそトリホーは闇の中へと沈み、姿を消した。
しんとした闇の静寂が、再び空間を覆っていく。
「…………」
笑いの残滓も綺麗に消え去り、後に残された凛の表情はというと、険しかったそれから一変、大皿一杯の苦虫を口に流し込まれたような渋いものへと変移していた。
感情で本質を見誤らない一方、肝心なところでポカをやらかし、損をしてしまう。
連綿と続く、遠坂の家系に見られる特徴であった。
「言ってくれるじゃない、クソジジイ」
寸鉄人を刺す。不意の一撃な分、余計に痛烈である。
上下の歯をきりきり鳴らし、今にも地団駄を踏みそうな形相で、凛は地面の石ころを思い切り蹴飛ばした。
からんからんと乾いた音が木霊する中、凛の手には黄色い竹とんぼのようなブツが。
「だいたい、慣れ親しんだ方に意識が行くのが普通じゃないのよ。学校でもこうしたんだし……街の偵察の時だって。腰も性根もひん曲がったのっぺりジジイに言われる筋合はないっての」
ぶちぶち呪詛じみた言葉を呟きながら、ポケットから出したそれを頭へと取り付け、地面から直立したままの贈り物を引っ掴み、次いで力任せに引っこ抜いた。
手つきが丁重でなくやや乱暴なのは、抉られた内心をリカバーしきれていないせいか。
「……ふーっ、はあっ」
内に篭った負の念を、その深い一息にまとめて全部吐き出して、凛は気合を身体中に漲らせる。
先にも言ったが、いかに機械オンチの凛でも、我が家の電灯と同じスイッチ一つの操作であれば、持て余す事もない。
起動後の体勢維持や重心移動も、練習ですぐに順応した士郎に出来て、凛に出来ない訳もない。
士郎よりも、その辺りは格段に恵まれている。
「待ってなさいよ」
凛の膝が畳まれたかと思うと、次の瞬間には勢いよく伸ばされた。同時にローターが唸りを上げて回転を始める。
跳躍し、そのまま宙に浮いた凛は、そのまま天井の空洞を目指す。
切り札を手に、再びリングに舞い戻るために。
「……はっ、はっ、はあっ、はっ、はぁーっ」
静謐だった柳洞寺境内は、荒れ寺のそれと変わらなかった。
整然と敷かれた石畳はひび割れ、飛び散り、鋭利な玉砂利と化している。
据え置かれた石灯籠も瓦礫へと姿を変え、周りを囲む植え込みに至っては軒並み引き毟られたような有り様で。
「はーっ……ふん。手間を、かけさせてくれた」
爆撃機が去った後のよう。
冷たい風に粉塵が舞い散り、大小問わずクレーターがそこかしこに築かれた只中に、赤い影があった。
靡く真紅の外套は裾がささらのように千切れ飛び、右側と左側で長さが異なっている。
かき上げていた白髪はほどけ、ばらりとざんばらに広がって、戦士の容貌から青年の様相へと、男の印象を変えている。
膝を折り、荒げた息を整えながら、男は険しい目つきで一点を睨みつけていた。
『ぐ……ごっ、かはっ。ふぅ、ふぅ……ふふ、よくっ、やる』
そこには、人型の標本があった。
否、標本と呼ぶに相応しい有り様のモノがあった、というべきか。
『ここは、ゴルゴダの……丘では、ないぞ。が、かふっ』
「キリストを気取るな、ミュータント……殊更意図した訳ではないが、貴様にはもったいなかったな」
地面に大の字に転がされた人影。
掌と足首を四つの剣によって貫かれ、大地に縫い留められていた。
虫ピン代わりの剣は、あの螺旋に捩れた剣である。
磔にされたイエスのように両手両足が拘束され、さらについでとばかりに、鳩尾にも螺旋の剣が深々と突き刺さっていた。
都合五つの大きな傷口から、止め処なく赤黒い液体が滴り落ち、人影の周囲は赤い泉と化していた。
『か、ひゅううっ……ごぼっ、ぐ、しかし、だっクク……この身をここまで追い込んだ代償は、存外大きかったようだな』
「……どうかな」
『クク、表情を消したところで、満身創痍は隠せんな』
腹に大穴を開けられているにも拘らず、赤銅の髪をした人影の唇が不気味に吊り上がる。
少年の面差しでありながら、雰囲気はひたすらに陰惨かつ粘質で、顔全体に幾筋も走る血管のようなラインが怖気を醸し出す。
男の吐き捨てた『ミュータント』という蔑称が、的確にその人影の印象を表している。
ぐじゅぐじゅと、人影の身体の各所から薄気味悪い音が立つ傍らで、赤い男の唇の端から、一筋の真っ赤な液体が滴り落ちた。
「この程度……英霊には、軽微な損害でしかない」
『強がるな。腹に剣を突き通されて、ただで済む者などまずいない』
「…………」
『詰めを誤ったな、ふふふふ』
ぎり、と男……アーチャーの口から、歯の擦れ合う硬質な音が漏れた。
弓兵の苛烈な攻勢によって四肢と腹に凶悪な楔を打ち込まれながらも、ミュータントことアンゴルモアは一矢報いていた。
漆黒の軽鎧を貫いて、抜き身の剣が一振り、弓兵の臍の辺りに鍔をめり込ませ、そのまま背中へ一直線に伸びていた。
『残心が甘い。剣を打ち込めて、気が緩んだか? お互いの手の内がそっくり解っているからこそ』
「『気を抜くべきではなかったな。だから最後の最後で噛み付かれるのだ』……そう言いたいのか」
『クック、的確な代弁だ』
白刃が冴え冴えと冷たく輝き、男の血潮に塗れながらも存在を誇示する。
ここまでやられれば、普通の人間なら死に体である。
人霊から昇華した英霊だからこそ、大怪我で済んでいるのだ。霊的急所である霊核を破壊されない限り、英霊は外傷で易々とは死なない。
「……ち」
だが、その点に関してはアーチャーの関心事とはならなかった。
たしかにここまで強烈なダメージを負ったのは痛い。修復が追いつかない損傷は、後々に大きく響いてくるがそれはそれ。
彼の最大の懸念は、別にあった。
『――――さて、どうする弓兵。奮戦し、目標こそ達成したが勝敗はつかず。ある意味振り出しに戻ったぞ』
「…………」
『いや、膠着状態に陥った、というべきかな』
アーチャーの唇が、ぎっと強く真一文字に引き結ばれる。
皮肉の色の交じったアンゴルモアの言葉は、的確であった。
アーチャーが猛攻を仕掛けた目的は、アンゴルモアの完璧なる拘束。再三言うが、士郎の身体を乗っ取った以上、肉体を滅するのは厳禁となる。
ならば、多少手荒でも完膚なきまでに自由を奪うしかない。幸い、敵には問答無用の自己再生能力があるので、強引に行ってもある程度の融通は利く。
秘奥を除けば、切れる手札をほぼ使い切るような怒涛の攻めを、アーチャーは敢行した。
しかし、アンゴルモアの応戦も凄まじく、お互いが切り結ぶ鉄の嵐が吹き荒れた結果、境内は崩落の憂き目を見た。
その犠牲を踏み越え、最終的にアーチャーは拘束に成功した。
螺旋剣で釘打ちし、動きを完全に封じた。そして、アーチャーはこれまでの戦闘で、幾度も螺旋剣を破裂させている。
鎖で雁字搦めにお縄にし、さらにダイナマイトを何重にも巻きつけたにも等しい。
妙なマネをすればドカン。ブラフに近い手だが、お互いに手の内を知っているからこそ効く保険だった。
そう、『だった』のだ。アンゴルモアのカウンターが、彼の計画に誤算を齎した。
『この体たらく。これでは両者がダイナマイトを身体に巻いて、お互いが相手の起爆スイッチを握り合っているようなものだ。不毛も不毛』
「……ふん」
窮鼠の一撃が、彼の計画に誤算を齎した。
アーチャーの腹を突き抜けて刺し込まれた長剣。それが、すべてを狂わせた。
アーチャーと、士郎に憑り付いたアンゴルモアの力は“同質”。アンゴルモアの言葉の通り、不毛な状況を作り出してしまった。
これ以上の干渉は不可能。両者とも剣を身体に貼り付けたまま、座するしかなかった。
『せめて、その剣が呪われた業物ではない事に感謝するといい。ククク』
「爆弾に……感謝もくそもあるか、ミュータント」
余裕が含まれた声のアンゴルモアに対し、アーチャーの声には張りがない。
サーヴァントにも魔力によるごり押しの自己再生能力があるが、アンゴルモアほど強力なものではない。
戦闘不能にこそなっていないものの、腹に喰らった長剣のダメージは、思う以上に深刻であった。
延々と続く、敵の含み笑いが次第に耳障りとなっていく。
彼の中で、焦燥が露わになり始めていた。
『さて、このままおしゃべりも悪くはないが、無駄に時間を食い潰す訳にもいかんというのもまた事実』
「…………」
『地下では、さぞや大騒動が巻き起こっているだろうしな』
「地下……?」
『この地には様々な物がある。魔術師の英霊が築いた神殿やら、聖杯戦争の根幹に係わる物やら。もう一方のパーティー会場は』
「前者、か」
アンゴルモアが、クククと不気味に笑った。
アーチャーの中の焦燥が増す。精力を込めた鉄面皮だけはそのままに。
「意外、だな」
『それは、なぜそんな事を知っているのか、か? それとも、そんな事を明かしていいのか、か?』
「両方だ」
『だろうな。しかし、その質問にたいした意味はない』
「ふん……そうか」
そこで、アーチャーは気づいた。
彼らは共闘関係にはなく、独立した別個の勢力という事に。
変異させた大元の『オヤ』は同じでも、互いの意思疎通や連携はない。だからこそ、ここまであけすけなのだ。
自分に悪影響がない限りは、多少饒舌になっても気にしない。アンゴルモアにとって、地下のモノは敵の敵で第三勢力、程度の認識なのだろう。
敵が協同でカサに掛かって攻め立ててくる、という最悪の想定が崩れたのは儲けものだが、意識的か無意識か、それを匂わせたという事は、つまりアンゴルモアの余裕の裏返しとも言えた。
綱渡りの均衡状態にあって、なお余裕を保てる。アーチャーの中で、疑念と警戒心が膨れ上がると同時、薄ら寒い予感が頭から離れない。
すなわち……アンゴルモアが士郎の肉体への執着をなくしているのでは、という予感が。
士郎の肉体は、元々拾い物。多少の執着心こそあれ、劣勢下ならそれも捨ててしまえる程度のものだろうと彼は推測していた。
「…………」
この消耗著しい身体でいけるのかどうか。逡巡しかけるも、猶予は既にない。
魔力を回し、最低限の自己治癒を急かしながら、アーチャーは最後の手段を使うべきかを、刹那で思考していた。
最後の手段は己の秘奥でこそないが、それ以上にある程度の準備時間と多大な集中力、そして体力・魔力の大幅な消耗を強いる。
魔力枯渇による自己の消滅すら、視野を掠めるほどに。
また、目的を成すにはアンゴルモアにもう一度、接近する必要がある。これだけでも支払うリスクは高い。
『惜しいな』
「……なに?」
アンゴルモアの口調に、ちりちりときな臭いものが混じる。
僅かでも時間を稼ぐべく、アーチャーは大仰に眉を跳ね上げた。
「なにが惜しいというのだ、ミュータント」
『ああ、言葉が足らなかったようだな。この愉悦の止まらない戦場が、ご破算になってしまうのがな』
疑念が、確信に染まっていく。
アーチャーの体内で回される魔力がスピードを増し、彼の内奥でカードが切られる。
魔術回路が焼き切れそうなほどに唸りを上げ、切り札を形にしようと魔力が収束していく。
火花を盛大に噴き上げ、身の内をじりじり焼き焦がしながら、札の雛形が作り上げられる。
無論、貼り付けた鉄面皮がそれを欠片も表に出す事はない。
余勢を駆って身体から立ち上るはずの魔力の気配も、その身に押し込んでは漏らさない。
『なかなかに、この肉体も悪くなかった。すぐにそちらがボロ雑巾にしてくれたが』
「……ボロ雑巾になった端から復元するミュータントが笑わせる」
この言葉でほぼ確定と断じ、アーチャーの路線が完全に切り替えられた。
向こうが行動を起こして切り捨て終わる前に、最終手段を叩き込まねばならない。
『フフ、さて』
オーバーヒート寸前の魔力回路をさらに叱咤し、札を雛形から具体的なモノへと成形していく。
同時進行で状況計算、仮に相手が先んじて腹の爆弾を炸裂させても、即座に死ぬ事はないと、アーチャーは見ていた。
爆弾も結局は“魔力暴走による力業”でしかない以上、彼にある『対魔力』のクラススキルが、ダメージを軽減してくれる。
Dランクという、セイバーやライダーに比べれば非力なものだが、それでもバリアがあるとないとでは大違いだ。
消耗こそあれ、腹の他には目立った外傷がないというのも大きい。炸裂による二次被害によって、四肢が千切れ飛ぶリスクが小さいからだ。
懸念は、魔力リソースを札に大幅に割いている中、残りの魔力を腹に回してどこまで爆発の威力を抑え込めるか。それにかかっている。
なにも対応しなければ、もれなく上半身下半身は泣き別れ。かといって、過剰にそちらに魔力を回したりすれば、札の精度ががくりと落ちてしまう。
タイミングを外すのも駄目。残り少ない魔力を、炸裂の一瞬を読み切ってピンポイントで運用しなければ、その後の接敵行動が覚束なくなる。
予想の斜め上を行く事態だったとはいえ、とことんまで不利な条件下に晒されたこの戦局は、アーチャーの戦術に重い縛りを掛けた。
それでも、足掻くしかないのだ。たとえ捨て身の博打を張る事になったとしても。
その行動が敵の言葉の通り、どれほど皮肉に塗れていようとも。
『――――消えろ』
唐突に冷たく吐かれた、敵の声。
「はッ!」
その言葉が届くか届かないかのうちに、アーチャーは駆け出していた。
次いで。
「――――う、っぐぶ!?」
彼の口から血塊が爆ぜる。
腹に突き立っていた剣が破裂し、炸裂弾のような閃光を撒き散らした。
ボディアーマーが千々に砕け、彼の身体の中央に向こう側が拝めるほどの穴が開いている。だが、それでも身体は泣き別れにはなっておらず、五体は保たれていた。
剣の一瞬の震えを察知し、間一髪で魔力を回して抑え込んだのだ。
幾多の戦闘経験に裏打ちされた、彼の『心眼』が命を拾わせた。
夥しい血潮を盛大に飛び散らせ、たたらを踏みながらも、踏み込み苛烈にアーチャーはアンゴルモアへと迫る。
速度は落ちず、あっという間に彼我の差は数メートルもなくなった。
有効射程距離に敵を捉え、歯を食い縛ったままアーチャーの右手が突き出される。
その、刹那であった。
『甘いぞぉ!』
ぐりん、と唯一縫い付けられていないアンゴルモアの首が動いた。
空を見上げる格好だったそれが、百八十度どころか三百六十度捩れて、迫ったアーチャーに正対する。
人間の可動域をはるかに上回る挙動を果たしたそれには、見る者に怖気を齎す三日月に歪んだ唇が貼り付いていた。
「ぐぅ!?」
『頂くぞ、その肉体をぉおオ!』
途端、その口ががっぱりと大きく開かれ、奥から緑色の粘体が噴水のように吐き出される。
それがアンゴルモアの本体だと悟った時には、アーチャーの眼前に緑の壁が出来上がっていた。
多大なダメージで体力的にも魔術的にも耐久力が下がっている今、憑かれるに壁はないに等しい。
「――――っちぃ!」
刹那、彼の心眼が訴える。ここから数瞬の間になにも出来なければ、衛宮士郎の命は尽きると。
アンゴルモアが飛び出したという事は、肉体の超速再生がなくなるという事。
復元されていたとしても、身体の五箇所を串刺しにされているのに変わりはないので、ショック死は免れない。
しかし、これは彼にとって、ある意味ハイリスク・ハイリターンの好機とも取れた。
あとは間に合うか、間に合わないか。決断と出足の速さがすべてを決める。
「勝負ッ!!」
鈍色の瞳が気勢を放つ。
あらゆる衝動をこの一言に込め、アーチャーは切り札を解き放たんとして。
「――――ん!?」
突如として、縫い付けたようにその動きが止まる。
そして。
『ん、ダどぉオおあぁアあアア゛ッ!?』
ヘドロのような断末魔と共に、士郎の肉体から剣がすべて弾け飛び、黄金色の光が爆ぜた。