「う……ぅう……っ」
彼女は、絶望の只中にいた。
むせ返るほどに濃密な血の臭いが漂う暗黒の部屋で、自分がひとり、床に蹲っている。そんな状況下で、絶望を抱かぬ訳がない。
傍らで、カソックを翻した長身の男が自分を見下ろしている。
その瞳は、なんらの感情をも宿さぬ茫漠のもの。血の海に沈む自分を、男はどうとも思っていない。
無情にして非情な加害者、奪い去った後の伏した自分に、もはやなんらの価値すらも見出していない。
呆れ果てる。彼にではない、彼を信じて裏切られた己自身にだ。
魔道に足を踏み入れた者には、信頼はしても信用はしてはならない。そのスタンスを、自分は忘れ去っていた。
あの男の誘導もあったとはいえ、情けない限りである。
――――ざまぁねえな。
もうひとつ、男の影が視界の片隅に入る。
今度は部屋の角、部屋全体を俯瞰出来る位置に立っている。
年の頃は、十代の中頃から後半、といったところか。
そして、その少年はカソックの男とは対照的な表情を浮かべていた。
嗤っているのだ。
三日月の唇に、緩んだ眦は嘲りを含み、自分の不幸を糧に悦に浸っている。
顔は判然としない。当然だ、灯りは何ひとつとしてないのだから。
しかし、それでも瞳の色や表情を視認出来るとはどういう事だろうか。
矛盾しかないこの状況、彼女の出した答えは。
(……これは、夢か)
それしかなかった。
夢だからこそ、ここまで滅茶滅茶なのだ。整合性の取れなさで言えば、夢ほどに支離滅裂なものもない。
この光景は、既に通った過去の事実で、その中に様々なものが入り乱れている。夢にありがちな、いくつもの脚本を無理矢理継ぎ接ぎしたような不自然さが浮き彫りとなり、これが現実のものではないと浮沈の定まらぬ意識に訴えかけている。
そして、夢だと認識したという事は、すなわち覚醒が近いという事でもある。
この悪夢は、間もなく終焉を迎える。
靄がかかり、白く混濁する自意識が、ランプの明滅のように徐々に浮上していく。
――――ああ、夢だ。んで、箱庭遊びの時間はとうに終わっている。次に待ってんのは、繰り返す四日間じゃなくて、無常極まる現実の世界だ。
ここで、彼女はようやく気づいた。
この、頭の中を掻き乱すように粗雑で、しかし妙に不快さを感じないこの声の主を、自分がよく知っているという事に。
黒に塗りつぶされた片隅に立つ少年が、この声の主だという事に。
――――今更かよ。ったく、乳にムダに栄養行ってる脳筋だけの事はあらぁな。鈍いのなんのって。
その物言いには、イラッとした。
彼女とて、好きでこんな体躯になった訳ではない。セクハラである以上に甚だ心外だ。
しかし、鈍いという評に関しては反論の余地がなかった。
仲間と思っていた輩に秘められた悪意を見抜けなかった。その代償が、片腕をもがれる体たらくである。
――――おいおい、んな自嘲した顔すんなよ。張り合いのねえ……まあいいか。さって、と。
そう言うと、少年の嘲りの表情は消え失せ、常の軽い様相からは想像もつかないほどに真摯な視線が自分を射抜いた。
身体が竦む。この存在は、『いつか』の時、己の相方であったこの少年は、こんな身体の熱を拭うような静かな覇気を発し得ただろうか。
――――よく聞け。今、自分が分岐点に立ってるってのは自覚してるか? してねえんだったら、尚更よく聞いとけ。
言っている意味は解らない。だが、聞き逃す事は大きな損失になる。
まとまりかけのパズルのような自我を総動員して、半ば本能的に悟った彼女は耳を傾けた。
――――聖杯戦争で、あのクソ野郎に奪われたモンすべてを取り返したかったら、目を覚ました時、自分の周りにいるヤツらに……。
そこまで聞き取った次の瞬間、電気のスイッチを入れたように視界が一気に白く染まった。
覚醒。夢から目覚めたのだ。
「――――っう……!?」
意識がぼんやりとしていても、自我のパズルは既に完成している。
そして霞む視界は、意思を強く持って凝視すれば、一瞬のラグはあれどあっさりと開けてしまう。
そうして明瞭になり始めた彼女の視界に映ったのは。
「……おっ。おいドラえもん、目が覚めたみたいだぜ!」
人間の服を着たゴリラの子どもであった。
もっとも、よく見れば違うというのはすぐに解ったであろうが、覚醒直後の彼女にはそう見えてしまったのだ。
「む――――ッ!!」
カッと目が見開かれ、身体が瞬時に反応する。人間凶器とも呼べる、巧みに錬成された彼女の肉体は条件反射で適切な行動を実行に移す。
それは、まさに電光石火の早業であった。
「う、うわ!?」
バネ仕掛けのように、仰向けだった上半身が跳ね上がり、膝立ちの状態になると咽喉輪の要領で目標の首を片手で掴み上げ、視界の正面にあった窓枠の縁に叩き付けるように押さえ込んた。
反抗の機会を与えないよう、相手の腕を封じる事も忘れない。
たとえ唯一自由な足で抵抗を試みたところで、突っ張るように伸ばされた腕のリーチ差は如何ともしがたい。
おまけに、彼女は女性としては長身で男性の平均をも上回っており、その分リーチは並の大人以上のものがあった。
「ぐぇ!? ぎ、がっ、く、苦し……ッ!? は、放せっ!?」
「じゃ、ジャイアン!?」
「ちょっと、何をするんですか!?」
「お、落ち着いてください! 落ち着いて!」
ふと、彼女が周囲に目をやると、ゴリラの仲間と思われる子どもふたりと、二足歩行の青いタヌキが血相を変えて取りすがってきていた。
三人、ゴリラを含めれば四人の表情には、『まさか』という色合いが強く浮かび上がっている。
面妖な青ダヌキはさておき、畏怖と切迫感に駆られた少年と少女の必死な形相に彼女の毒気は抜かれ、代わりに幾分かの冷静さを齎した。
(……子ども?)
そこで、はたと彼女は気づいた。
今、押さえ込んでいるのはゴリラの子どもなどではなく、ただの体格のいい人間の子どもであるという事に。
思い返せば、彼は人語を介していたし、なによりゴリラは服など着ない。
そもそも、人家にゴリラがいる訳がないではないか。たとえどれほど違和感がなくても、である。
(むぅ……)
気づいた以上、子どもをいたずらに傷つける真似は出来ない。
夢で脳筋と評された彼女とて、正道魔術師の中に偶に見られる外道ではないし、人としての最低限の良識はきちんと持っているのだ。
「失礼しま……ッ!?」
咽喉を締める手を離そうとしたところで、彼女はそれに気づき、そして今度は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
あり得ないものを見てしまった、そんな底の見えない驚愕が顔に貼り付いている。
(う……腕が……ある!?)
あろう事か、裏切りの果てに引き千切られ、なくなったはずの片腕で子どもを押さえこんでいたのだ。
あの全身の神経を根こそぎ引き抜かれるような、想像を絶する激痛はいまだ心底にヘドロのようにへばりついている。
それを根本からひっくり返すようなあまりにも埒外な現実が、疑いようもなく眼前に映し出されている。これで驚きを覚えない方がおかしい。
万力じみた怪力を発揮していた両の腕から完全に力が抜け、だらりと畳の床へ向かって落ちる。
結果として、標的とされたゴリラは戒めからようやっと解放された。
「げほっ、げっほ……けほっ。こ、こんにゃろー! 人がせっかく助けてやったってのになんて事すんだよ!?」
「ちょ、ちょっとちょっとジャイアン、押さえて! たぶん、混乱してるんだよ!」
「下のママが来るかもしれないから、静かに! ジャイアン!」
涙交じりに咳き込みながらも轟く怒号も、羽交い絞めに抵抗する物音も気にならない。謝罪の意すら心の中から吹き飛んだ。
義手などではない、まぎれもない己自身の腕が再び生えてきたかのように存在している。
しかも、一緒に引き裂かれたはずの服すら元通りになっている。血でどす黒く染まってもいない。クリーニング直後のように、さっぱりと綺麗なものだ。
いったい何がどうなってこうなったのか。彼女の思考は迷走し、袋小路に嵌まっていく。
しかも、周囲をよく見渡してみると、自分がいるのがどことも知れぬ現代的な日本家屋の一室ときている。
窓から見える景色から察するに、どうやらここは二階らしい。
(……どこ? いや、違う。ここからどう動けばいい? あの夢を信じるなら……自分の周囲にいる者達に……)
下手なお告げよりも信憑性の低い夢での戯言を易々と信じるほど、彼女は抜けてはいない。
だが、不思議な事にあの夢には、なぜか信用してもいいという気持ちが湧き上がっていた。
見知った者の忠言だったからだろうか。それとも、単なる己の第六感なのか。はたまた……箱庭の中で時折垣間見た、あの相棒の得体の知れない底の深さに無意識が刺激されたのか。
真実は解らないが、他にこれといった方針も思いつかない以上、従ってみるのもいいだろう。
状況からして可能性は低いが、万一、己の意に沿わない事態に陥ったとしても、相手は子どもばかりなので食い破るのにさしたる労苦もいらないはずだ。
数回の瞬きの間にそこまで思考をまとめて、彼女は身体から余分な力を抜き、自然体に戻した。
「あの、大丈夫ですか?」
「……ええ。大変失礼をいたしました。よろしければ、状況の説明を願いたいのですが」
「えっと、はい。それは……あっ」
「なにか?」
「あの、お名前は? わたしは、源しずかです」
「ああ……」
名乗られたのなら、こちらも名乗り返すのが礼儀である。
彼女は改めて居住まいを正すと、二房に髪を結んだ利発さの滲む少女に己が名を告げた。
「――――バゼット。バゼット・フラガ・マクレミッツと申します」
眼鏡の少年と入れ替わるようにパラレルワールドに漂着した、かつて隻腕となった魔術師、バゼット・フラガ・マクレミッツ。
異なる世界を繋ぐ因子が邂逅を果たしたこの瞬間、世界の壁を穿ち広げる狼煙が確かな軌跡を以て上がったのであった。
「ところで、なぜタヌキが二足歩行で人語を発しているのでしょうか。しかも青いとは……もしや、着ぐるみかなにかですか? 中に人が?」
「あ、あの……その……えと、バゼットさん。後半はともかく、前半はちょっと……」
「ど、ドラえもん!? 落ち着け、落ち着けって! 静かにしろって言ったの、ドラえもんだろ!」
「なんてもの出してるのさ、ドラえもん!? その核爆弾の模型みたいなのしまってよ!」
「放して、放せぇ! 誰がタヌキだ!! やろう、ぶっころしてやる!!」
「せっかく助けたのに、殺してどうするのさ!」
「よし、押さえた! スネ夫、早くその物騒なモン取り上げろ!」
キレた青ダヌキがようやく沈静化したのは、それからおよそ五分後の事であった。
「……シロウが?」
「なんでさ。いや、俺じゃないからなイリヤ。というか、イリヤの最初の襲撃を受けた晩の話だろ。あの後は早々に直帰したし、まず物理的に無理だ」
「あの、だから先輩じゃなくて。先輩によく似た人……というか、瓜二つだった人が……」
桜の話が終わったその時、居間にいる人間の視線は、士郎へと向けられていた。
槍衾の矢面に立たされたような気分の士郎だったが、気持ちは一応理解出来るので文句は言わない。
士郎のドッペルゲンガーのようなヤツに間桐の当主がやられたとあっては、聴衆が士郎に視線を突き刺すのも、ごく自然な反応であろう。
「士郎と瓜二つねえ……」
「髪の色とか、全身のタトゥーとか雰囲気、言葉遣いは違ってましたけど、顔は」
「断言出来るの?」
「薄暗かったし、視界も霞みがちだったから……はっきりとは。けど、先輩の顔を見間違えるなんて事はありません!」
姉の確認に、桜はきっぱり断言する。
後半部分にやたらと力が入っているその意味を、姉はしっかりと認識していた。
生暖かい視線が、桜に注がれる。姉の様子に気づいた桜の頬が、りんごのように赤く染まった。
「あう……」
「はいはい、ゴチソウサマ。で、話を戻すけど、その士郎のバッタもんが間桐の当主を消したのね。手に持ってた何かの道具で」
「あ、その、はい。その前に、お爺様と刀みたいな武器で戦ってて。物凄いスピードで、む……お爺様の攻撃を全部捌いてました」
「カタナ? 魔剣の類かしら?」
「いえ、そんな感じは全然……むしろ、模造刀とかに近い感じでした」
「つまり、霊剣とかの魔術的なシロモノじゃなかったって事ね。ふぅむ……?」
ますます増える謎。イリヤスフィールと凛は、揃って首を捻っていた。
桜を疑う訳ではないが、正直に感想を述べれば、『胡散臭い』の一言である。
そんなにあっさりとやられてしまうほど、間桐家当主の底は浅くない。
普通なら、とうの昔にぽっくり逝っているはずの年月を乗り越えて存在してきた、死徒まがいの生粋の魔術師なのである。
詳細こそ知らないものの、聖杯戦争の原形作りに携わってきた事から、相応の実力もあったであろう。
それを神秘や魔力の皆無な、ただの武器で渡り合ったとなれば、その使い手は明らかに尋常のモノではない。
「とりあえず、現時点で確実に言える事がふたつ」
「なんだよ、遠坂」
「ひとつは、確実に士郎じゃないわね、ソイツ。アリバイもさる事ながら、へっぽこ士郎がまさかそんな事出来るとも思えないし」
「……いや、そーだけどさ」
身も蓋もない凛の確信の仕方に、士郎は唇を尖らせた。
もう少し言い方というものがあるだろう、と言いたかったが、口達者な凛の場合、言うだけ無駄なのは解りきっている。
せめてもの意趣返しにと、凛に非難がましい視線を向けるが、凛はするりとそれを受け流した。
「もうひとつは、マキリは完全に魔術師の大家としての幕を下ろしたって事ね。慎二に魔術回路はないし、桜も跡を継ぐ気はないんでしょ」
「……はい」
「まあ、だからなんだって気もするけど。ふふ、御三家の一角が滅んじゃったんじゃ、聖杯戦争もこれっきりかもしれないわね」
「お嬢様」
イリヤスフィールを、セラが横から窘めた。
滅多な事を言うものではないという視線に、彼女は小悪魔めいた微苦笑を浮かべてちろりと舌を出した。
セラの口からなんとも言えない溜息が漏れるも、それを余所にイリヤスフィールは話の切り口を変えた。
「サクラ、他に何かなかった? 違和感とか特徴とか、ほんの些細な事でもいいわ。言ったら悪いけど、今の時点じゃちょっと判断のしようがないの」
「他に……」
白い小悪魔の要請に、桜は眉間に皺が寄るほどに思案深げな所作を取る。
朦朧とした意識の中、自分でもよくそこまで覚えていたものだと思っていたのだが、まだまだ思い出せとのお達しである。
これ以上は、己の暗部も含んだ情報になる。黒い部分まで開陳する訳にはいかない。
桜の頭の中では、その強迫観念にも近い衝動と、細切れの映写フィルム同然の地下室での記憶がぶつかり合い、火花を散らしてせめぎ合っていた。
そうして必死に掘り返した結果、桜の脳裏によぎったのはひとつの珍妙な道具の残影であった。
「あ……そういえば」
「なに?」
「その……掌に収まるくらいの、黒い袋、かな。そんなのを腰巻から取り出して、その中から指を立てた手がくっついた帽子を出して被ってました」
「なんですって!?」
「指を立てた手?」
「はい。こんな感じで」
そう言って、桜は士郎の前に人差し指をぴっと立てた右手を差し出した。
そして、それを頭に持っていってぷらんと指を下に向ける。
正面から見て、頭から手が垂れ下がっているような構図であった。
「帽子にしては変なデザインだな」
「それは、まあ……ただ、なにかしらの力があったみたいで」
「力?」
「えっと、偶然聞き取れたのが……ク、クレヤボヤンス、に、テレポーテーション、だったと思います」
「は?」
士郎の目が点となった。
クレヤボヤンスとは、透視能力。テレポーテーションとは、瞬間移動能力の事だ。
話を繋げると、その指付き帽子を被れば以上のふたつの能力が得られるのだろう。
それが本当であれば、はっきり言って反則である。
しかも、形状からしてどうも、魔術的なシロモノでもなさそうだ。
どうとも形容しがたい不気味さがある。
「……士郎」
「え? 遠坂、どうした?」
「ちょっと、まずいかもしれない」
「まずいって……帽子が?」
「そっちじゃない」
硬い表情でじっと見据えてくる凛に、士郎はやや気圧された。
イリヤスフィールも桜もセラも、ただならぬ様子の凛を注視している。
「士郎、“スペアポケット”持ってるでしょ。出して」
「え、あ、ああ……」
言われるがまま、士郎は己のポケットから“スペアポケット”を取り出すと、凛へ差し出した。
イリヤスフィールは、その一言ですべてを察したようだ。
のび太と同年代の、幼い見た目からは想像もつかないほどに、彼女は聡い。
はっとした表情をしたかと思うと、徐々に難問にぶつかったような難しい顔つきへと変化していく。
凛は士郎の手の中のそれをひったくるようにして受け取ると、桜の目の前へぐいと突き出した。
「桜が見たのって、ひょっとしてこれ?」
「あっ……!」
はっと眼を見開いた桜。口元に手を当て、二の句が告げない有様となっている。
目は口ほどに物を言う。それだけで凛は回答を察し、苦々しげな表情となった。
「……やっぱり」
「って事は、つまりそいつは“スペアポケット”を持ってるって事か!」
「ええ。たぶん、のび太が持ってるヤツよりも多く道具が入ってる物をね。なんで黒いのかは知らないけど」
「コピーかなにか、だからかしら。それとも、ノビタの方のがコピー?」
確認こそしていないが、“指付き帽子”はのび太のものには入っていない。
入っていれば、あの鏡面世界の鉄火場で躊躇いなく使用していたはずである。
透視能力(クレヤボヤンス)に瞬間移動能力(テレポーテーション)。どれも強力で、使いどころによっては一発逆転を狙える能力だ。
その“指付き帽子”さえあれば、あんな常軌を逸した惑星破壊兵器を引っ張り出す必要もなかっただろう。
それが向こうの物に入っていたという事は、黒幕はポケットを中身ごとコピーし、なんらかの手を加えた後に、のび太側のものから道具を失敬したという事だ。おそらく、のび太に悟られる事なく。
イリヤスフィールの疑問に、凛は手をひらひらとさせて答えた。
「さあ、どうかしら。いずれにしろ、この戦争の黒幕がどんなヤツかってのは、おぼろげながら見えてきたわね。ポケットについては、一度のび太に確認しておくべきかしら」
「けど、のび太君は前に何も知らないって言ってなかったか? 黒幕についてとか」
「念には念を、よ。士郎だって、テストで見直しくらいするでしょ。確認というのは、何回やっておいても損はしないものなの」
「……それも、そうか」
頬を掻きながら、士郎は一応の理解を示す。
願わくば、なるべく穏便にやってくれよと言いたかったが、言わずもがなであろうし言ったら自分に飛び火しそうなので、それ以上は追及しなかった。
一同の口が閉ざされ、一瞬の間が空いたその時。
「――――あっ!」
会話の蚊帳の外で沈黙を保っていた桜が、突如として弾かれたように顔を上げた。
「うわっ、びっくりした!?」
「き、急にどうしたの、桜?」
「ご、ごめんなさい。あの、その、もうひとつ、思い出した事が」
卓をひっくり返すような勢いだったために、すわ何事かと身構えてしまった一同に桜は謝罪の言葉を挟む。
会話の合間にほぼ食べ終わっているとはいえ、今は朝食の席なのだ。勢い余って卓上の食器がひっくり返りでもしたら、人数の分だけ目も当てられない惨状が現れる事となったろう。
ちなみに、この場にライダーの姿はない。
いまだ目覚めていない者達の様子を、見に行ってもらっているのだ。
はじめにライダーが向かったのは、ミニドラ三兄弟が轟沈している監視装置が満載の客間の一室。
もし、今誰かが監視部屋の扉を開けたとしたら、溢れんばかりの慈愛に満ちた女神の微笑みを目にする事になるだろう。
あどけないミニドラの寝姿は、彼女の感性に間違いなくストライクである。
「なに?」
「えっと、気を失う最後の瞬間に、その人がこんな事を言っていたんです。『オレは、悪のカミサマだ』って」
その瞬間、聴衆の反応はふたつに分かれ、そしてそれらはまさに対照的なものであった。
「「悪のカミサマ?」」
疑問符混じりの怪訝な表情となったのは、凛と士郎の魔術師弟。
なんだそりゃ、とでも言いたげの顔を互いに見合わせ、次いで桜の顔を穴が開くほど凝視してしまう。
気圧されたか、びくっと桜は身を竦ませた。
「え……っ!?」
「――――ッ!?」
一方で、イリヤスフィールとセラの主従は、その両目を大きく見開いていた。
定まらぬ視線を宙に彷徨わせ、見えない泥で全身を固められたように身じろぎひとつしない。
呼吸すら止まっているかのようだ。
「い、意味は解りません……でも、それだけはっきり告げた後に、忽然と消えて……」
「『カミサマ』とはまた大きく出たわね。ハッタリ?」
「さあな。けど、大口叩くだけの力があるのは間違いないと思う」
「そうね。のび太のひみつ道具もあるし、御三家の一角を実質的にツブした実績も。けど、言うに事欠いて『悪のカミサマ』? 悪神って事かしら……」
凛はそのまま腕を組み、考え込むように両目を閉じた。
眉間に寄った皺を見るに、相当事態を深刻に受け止めているようだ。
「……まさか、ね」
「ん? イリヤ、どうした」
「え? あ、ああ、うん。なんでもないわ、シロウ」
ぱたぱたと手を振り、イリヤスフィールは愛想笑いを浮かべる。
隣のセラも、既にいつもの貼り付けたようなポーカーフェイスに戻っている。
「ん、そっか」
ほんの微か、引っ掛かるものを感じたものの、士郎はそれ以上追及する事なく、卓の上の湯呑を手に取り渇いた咽喉を潤した。
白の妖精の仮面の下にある真意に気づいた者は、忠実なる従者を置いて他になかったのであった。
「……おや、入れ違いでしたか」
のび太の部屋の戸を開けたライダーの、第一声がそれであった。
畳の床に敷かれた布団はもぬけの殻で、開け放たれた障子から注ぐ暁の陽光が部屋を一直線に貫いてライダーの目を晦ませる。
眩しそうにきゅっと目を細め、次いで緩く、柔らかな微笑を浮かべる。
常の眼帯ではなく、魔眼封じの眼鏡を着用中のライダーには、なんとも新鮮な刺激であった。
「ふむ……?」
微かに鼻につく、独特の気配の残滓に彼女は気づいた。
それは、昨夜からよく知っている者の気配であった。
常人とは違う、ヒトという軛から外れた者特有の。
「アーチャー、ですか。彼を起こしたのは。さて、なんとも奇妙な組み合わせですね」
鷹を思わせる精悍な偉丈夫と、眼鏡をかけた凡庸な小学生。
傍から見れば、紛争地帯の兵士と民間人の子どものような取り合わせである。
そして、その兵士がわざわざ自ら出向いてモーニングコールを行う。百人に聞けば九十五人が、『変だ』と声を揃えて言うだろう。
ちなみに残りの五人は、センスが突き抜けているか、ズレているかのどちらかである。
「いったいなにを考えているのか……まあ、いいでしょう」
取り留めのない思考を打ち切り、ライダーは部屋の戸を静かに閉じた。
ミニドラ、リーゼリット、のび太とフー子ときて、残るはあとひとり。彼女は、そのまま士郎の居室へと足を向ける。
目当ての人物は、士郎の部屋の襖を隔てた隣の部屋にいるからだ。
凛の背後を取った時のように、アサシンも顔負けの音を立てない歩法で、するするとライダーは士郎の部屋の前へ辿り着いた。
「…………」
これまた音もなく、部屋の戸を開ける。
立てつけが悪いという事もない引き戸は、常人の耳に届かない程度のほんの微かな摩擦音のみを残した。
士郎の部屋は、殺風景と評するに足るほどに物が少なかった。
彼女の知る現代人の男の部屋など、仮初の主であった間桐慎二のものくらいしかないが、それでもここまで殺風景ではなかった。
脇の押入れには、そこそこ物が仕舞われているのだろう。何年も寝起きしていて、部屋に物が少ないというのは、裏を返すとそういう事だ。
部屋には、主の性格や心情が顕れるという。
余計なものを一切置かず、本棚一台と文机のみの、がらんとしたその光景は士郎の心を映し出しているようでもあった。
「おっと」
とはいえ、ここに来た目的はそれではない。
部屋の光景に目を留めたのは一瞬で、ライダーはすぐさま視線を正面から別の方へと移す。
目的の人物がいるであろう、隣の部屋へと続く襖へと。
「…………」
やはり音もなく移動し、ゆっくりと引き戸を横に開くと、果たして彼女はそこにいた。
目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返して、暖かい布団の中で仰向けになって。
「起きなさい、セイバー」
そう一言、大声でもなく、だが小声でもない声で、ライダーは目覚めを促した。
二秒が経ち、三秒経ち、しかし彼女……セイバーはなんの反応も示さない。
「起きなさい」
もう一度、今度は先程よりもやや大きめの声で告げる。
結果は、三秒前の焼き直しであった。
規則的な寝息はそのままに、身じろぎのひとつもしない。
「…………」
普通であれば、昏々と深い眠りの中にいると思うであろう。
世の中には、一度寝入ったら何をされても起きないという猛者もいる。セイバーもその例に漏れないと、そう思うかもしれない。
だが、セイバーに限ってそれは当てはまらない。ライダーにはそれが解る。
今こそ違うとはいえ、以前はセイバーと同じ、サーヴァントという存在であったからだ。
「意識があるのは解っています。サーヴァントは、基本的に睡眠を必要としない。目覚めようと思えばいつでも目覚められる。それに、侵入者に気づかぬまま眠り過ごすほど、貴女の底は浅くない」
そこまで言っても、セイバーはぴくりともせず、瞼を閉ざしたまま。
ふう、とライダーは溜息をひとつ吐いた。
「やれやれ……それでは私からひとつ、心地よい夢でも提供させて頂きましょう」
まるで独り言でも呟くように、ライダーは言う。
彼女の宝具の『自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)』は、応用を利かせれば対象に己の意図する夢を見せる事が出来る。
相手の望む夢を見せ、抵抗をなくす事で、魔力を吸い上げる事を容易とするのである。
彼女は女神だが、吸血種の側面もあるのでその手の力も持ち合わせている。
「内容は、そうですね」
顎に指を当て、思案顔となる。
ティーンエイジ前半の容姿となっている彼女のそれは、青い果実にも似た未成熟な色香が漂っていた。
かつて海神ポセイドンの寵愛を得ていた彼女である。本質的に男の本能をくすぐるものを持っているようだ。
やがて考えが纏まったのか、ライダーはうん、とひとつ頷いて。
「士郎とアーチャーが熱く濃厚な口づけを交わし、互いが互いを求めて貪るようにその肉体を」
「それだけはやめてください」
哀願すら含んだ固い声と共に、セイバーは布団から跳ね起きた。それも当然かもしれない。
ヒトとして真っ当な嗜好である彼女には、そんな非生産的な真冬の朝の淫夢など悪夢以外の何物でもない。
そんなものを見せられるくらいなら、起きる方を選ぶだろう。
「私にそんな趣味はない。それ以前に、サーヴァントは夢など見ない上、仮に貴女が私の夢に干渉しようとしても、私の対魔力で弾かれてしまう。それぐらいは解っているでしょう」
「ならば、そこまで焦らずともいいではないですか」
「気分の問題です。なにが悲しくて、そんな誰も得をしない夢を見せられなければならないのか」
「サクラ辺りには大好評だと思いますが」
「……ノーコメントです」
僅かの間を置き、セイバーは言葉を濁してしまう。
頬を染めながらも興味津々と見入ってしまう光景が容易に想像出来てしまうのは、果たしていかがなものかと思わないでもない。
一途に慕うのはいいが、歪んだ方向へは行かないでほしいと切に願うのであった。
「キャスティングに問題があるのであれば、そうですね。貴女と凛が月明かりの射す廃屋で唇を重ね」
「まずその的の外れた発想から離れなさい!」
「まったく我侭ですね。でしたら普通に……ふむ。若いツバメなどいかがでしょうか。今なら眼鏡付ですよ?」
「……っだ、だから止めろと言っているでしょう! だいたい、私はこの通り、もう完全に目覚めています! ノビタの夢を見る余地などない!」
「おや、のび太だとは一言も言っていないのですが」
「ぐ!?」
怒鳴りながら、もそもそと部屋の隅へ布団を片付けるセイバーを、ライダーは壁に寄りかかりながら見つめている。
その唇が、うっすらと笑みを湛えているのはご愛嬌。耳まで赤くしたセイバーを肴に、新鮮な面白みを感じていた。
「つまり、貴女はのび太の事を考えて布団の中で悶々としていた訳ですか。その結果が寝坊、と」
「く、まだそれを言いますか」
ライダーの揶揄に、頬を朱に染めたままむすっとしていたが、畳んだ布団の上に枕を乗せた時、その表情は一変して固く引き締められた。
「……そうですね。半分ほどは、当たっていますか」
「ほう、意外ですね。認めるのですか」
「貴女の意図するようなものとはまた違っていますが、ノビタの事を考えていたというのは、当たらずとも遠からずといったところです」
「成る程。それで、答えは出ましたか?」
「…………」
セイバーの口は、そこで固く閉ざされた。
葛藤があるのか、語りたくないのか、無言のまま服の皺をぴっと伸ばすと徐に立ち上がり、部屋から出ようと足を踏み出す。
そこに淀みは見られなかった。
「まあ、起きたのならば結構。皆、既に朝食の卓に着いています。残るは、貴女くらいのものです」
「そうですか」
振り返りもせずに、セイバーは相槌を打つ。
愛想もそっけもない態度ではあったが、ライダーは気にした様子もない。
なにせ、一度は刃を交えた間柄である。少々態度がつれなくとも、それはそれで納得の余地はある。
そうして彼女も壁から背を離した、ちょうどその時であった。
「ライダー」
「はい?」
部屋の戸の前でふと足を止めたセイバーは、背を向けたまま唐突に彼女に問いを投げかけてきた。
「貴女は……彼女の記憶を持っているのですか」
「彼女とは」
「リルルという少女の」
この質問は、ライダーにとっては意外であった。
姿が幼くなったとはいえ、まさか自分にそこまで興味を示すとは、ちょっと想像の埒外であったからだ。
しかし、さしたる支障もないので、ライダーは正直に答えた。
「ええ。少なくとも、彼女が知っている事柄や記憶などは。深層心理はともかくとして、ですが」
彼女はロボットなので、とりわけ記憶はすべてメモリという形で劣化や抜け、改竄もなく鮮明に記録されている。
そのため、ライダーは彼女の記憶や知識は完璧といっていいほどに継承していたのだが、そこは言わないでおいた。
特に言う必要もないからだ。
「そうですか」
「それがなにか?」
「いえ……彼女は、歴史を変えたと言っていましたが」
「ああ、それですか」
“タイムマシン”で三万年前のメカトピアへ赴き、リルル達メカトピア製ロボットの祖先である原初のロボットを調整して鉄人兵団の地球侵略をなかった事にした件である。
ライダーの記憶では、本来、リルル自身が光に包まれて消えるところまでしか記録がなかったはずなのだが、予備知識としてなのか、のび太主観の記憶の一部もリルルのメモリに収められていた。
ゆえに、その件のあらましはおおよそ知っているし、理解もある程度及んでいる。
記憶内容の多少の違いこそあるが、その点では、フー子や今際の際のバーサーカーとほぼ同じである。
しかし、それが“誰”の手によるものなのかは、ライダーにも、リルルにも解らなかった。それについては、まるでペンキで塗りつぶしたかのように、綺麗さっぱりと抹消されてしまっている。
「そもそもメカトピア……正確にはロボット達ですが……その歴史の出発点を完全に切り替えましたから。ロボットの祖先が本来とは違う道筋を辿った結果、地球侵略の必要性が消え失せ、鉄人兵団誕生の要素が抹消された。そして彼女ともども歴史の修正を受け、消え失せました」
「それは、ノビタ達の目の前でですか」
「ええ。“タイムマシン”で彼女が三万年前のメカトピアへ渡った瞬間、陽炎のように。そもそもメカトピアと地球の接点は、鉄人兵団による地球侵略の一点だけ。ならば、メカトピアだけの歴史改ざんで事は収まります。接点のない地続きの歴史なら、片側だけが改ざんされても特に問題はありません。あくまで、メカトピアと地球の関係に限れば、ですが」
「地続きの……歴史」
なにかを噛み締めるような、静かな表情で呟くセイバー。
彼女の背中しか見えないライダーには、彼女の表情は窺い知れない。
「まるで古いビデオテープに重ね取りをするような、歴史の改ざん。上書きと言い換えてもいいでしょう。ビデオテープは知っていますね」
「……聖杯からの知識には、一応」
「まあ、こちらで同じような事を行ったとしても、向こうと同じ結果となるかは未知数ですが。“人生やりなおし機”でも使えば解るのでしょうけれど」
「人生……やりなおし機?」
「ええ。効果は文字通りです。過去の自分に戻って歴史を修正するというひみつ道具で、もしかすれば彼のポケットに……」
「――――ッ!?」
その瞬間、セイバーは自らの臓腑を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
どくん、と一際大きく跳ね上がる心臓と、頭に血が昇るような精神の昂揚が、津波のように内側からせり出してくる。
しかし、彼女は鉄の自制心でそれらを制御し、ライダーに内心の一切を悟らせなかった。
彼女に背を向けていた事が、ここで大きく働いた。
「とはいえ、あれは……おっと、お喋りがすぎましたね」
そう言って、ライダーは饒舌になっていた己の口に蓋をした。
以前までのクールな面はそのままに、その内側から女性らしい洒脱(しゃだつ)さも出てきている。
これも、好ましい変化と言うべきであろう。
「時間も時間です。行きましょう」
「解っています……ああ、もうひとつだけ」
「なにか」
「貴女は……」
そこで、セイバーはやや間を置いて、こう切り出した。
やはり、身体を背けたままで。
「貴女は、やり直したいと思った事はないのですか?」
「人生を、という事でしょうか」
「ええ」
セイバーがこう聞いた理由は、ライダーの人生が相応に悲惨なものであったからだ。
女神の嫉妬によりゴルゴンの怪物に堕とされ、ふたりの姉を食い殺した挙句、英雄ペルセウスに討伐され、その首を弄ばれた。
“人生やりなおし機”という物の存在を聞けば、いささかなりとも心動かされるものがあるのではないか。
そんな、どこか懇願めいたものが含まれたセイバーの問いは、しかし。
「――――バカバカしい」
ライダーの、そのたった一言を以て一蹴された。
「……え?」
ざわり、とセイバーの心が蠢き、なにひとつ伺い知れなかった鉄仮面の背中から微かな感情がゆらめく。
紫水晶の瞳は、それをしっかりと拾い上げていた。
「正直に言えば、あります。私の生は、慚愧と後悔に塗れたものです。かつて、なかった事に出来たらと、何度思ったか知れない」
「…………」
「しかしそれ以上に、私は姉達の最期の言葉を嘘にしてしまいたくない。ですから、そんな望みは願い下げです」
本当は自分に憧れていたと、自ら口を滑らせて親愛の遺言としたステンノとエウリュアレ。
その曇りなき決意と、影のない純粋な想いを自ら塗りつぶしてしまう。そんな行為を望む事を、彼女は認めなかった。
姉達を、心の底から愛しているからこそ。道程の上書きなど望まない、望みたくない。
たとえ、どれほど狂おしい慚愧の念に苛まれようとも。
戸を眼前にしたまま、彫像のように微動だにしないセイバーを尻目に、ライダーの怜悧な眼光がその鋭さを増した。
彼女は聡く、またなかなかに切れる。このひとつの問いをきっかけに、その心底のおおよそを見抜いていた。
「貴女が何を考えているかは、敢えて問いませんし干渉もしません。ですが」
先程よりも低い、深海を流れる流水のような声が響く。
一拍の間を置いて、ライダーは、その小さな背中に向けてはっきりと告げた。
「せいぜい、一片たりとも後悔をしない選択をする事ですね。騎士王」
金言よりも重く、深々と突き刺さる、その言葉。
騎士王の口の奥から、ぎり、と何かが軋む異音が鳴った。