「はっ、はっ、はあっ………!!」
走る、走る。
ただ必死に、ただひたすらに夜の街並を走り抜ける。
その顔には色濃い恐怖がありありと描かれ、息せき切って全力疾走するその姿はある種の焦燥感すら漂っていた。
それも仕方ない。
およそ平和な世界で生きてきた平凡な人間であればアレを見た瞬間、一つの猛烈な予感に苛まれるのはむしろ自然な事だ。
――――すなわち『死』……その死神の鎌の凄烈な輝きが。
アレならば誰もがそれを感じ、そして衝動のまま後退りする。
人間に限らず、生物ならば自らの生命に危険を感じたならば、すぐさま逃走を図る。
それは生存本能の為せる業……一つしかない自らの生命を守るという、ごく当たり前の行動。
夜の街を駆けるその少年は、ただそれに忠実に従っているにすぎない。
誰も責めはしない、誰も非難はしない。
当たり前の衝動を、当たり前の行動を本能の赴くまま、素直に実行に移しただけであるからして。
「――――っ、うっ……くっ!」
だが、少年は己自身を、誰よりも責めていた。
表情が歪んでいるのは恐怖の感情だけではない。
情けなかったのだ、恐怖に負けた自分自身が。
許せなかったのだ、あの場から逃げ出した自分自身を。
それでも両の脚は勝手に動き続ける。
自身の生命を守るために、たった一つしかない何よりも大事な物を護るために。
だからこそ……少年は己自身を責め続ける。
眼鏡の奥のその瞳には、じんわりと透明な雫が浮かんでいた。
「はっ、はっ……う、うわ!?」
息が上がろうとも構わず、なお疾駆する少年であったが、突如アスファルトに猛烈な勢いでキスをする。
そしてその一瞬後に、からんからんと乾いた金属音が鳴り響いた。落ちていた空き缶を踏みつけたのだ。
固いアスファルトに四肢を強か打ちつけ、少年は無様に転げ回る。
ようやく少年の全力疾走にピリオドが打たれた。
「う……うぅ……ぐすっ」
後には静かにすすり泣く声。
ぺたとその場に座り込み、両の膝から僅かに赤い液体を滲ませて。
力なく頭を垂れたその姿は、まるで生きる気力を失った癌の末期患者を思い起こさせる。
「ドラえもん……」
蹲る少年――――のび太は呟く。
自分の傍らにいない、親友の名を。
ただそれだけしか彼に出来る事はなく、それ以外になにもする気がなかった。
ほんの束の間、微かな嗚咽のみが夜の闇を支配する。
――――はっ、随分辛気臭ぇツラしてんなぁ、クソガキ。
暗闇の中から、唐突に響き渡った、その声。
彼の涙が、そこで途切れた。
「え!? だっ、誰!?」
はっ、と顔を上げ、のび太は慌ただしく周囲を見回す。
だが、どこもかしこも闇、闇、闇。街灯の光源もなく、住宅の明かりも塀で遮られて彼を照らす事はない。
月が雲間に隠れた闇夜、人並み程度にしか暗闇で物を見通せないのび太の目では、声の主を見つける事は出来なかった。
『――――ったく、いいキッカケが落っこちてきたと思ったらどうしてどうして、このザマかよ。期待外れ、とは言わねぇが……ちっと情けなさすぎやしねぇか? ま、オレが言えた義理じゃねえし、ある意味正しい判断だけどよ。ケケケ!』
再び木霊する、その声。
まるで人を小馬鹿にしたような、ひどく粗雑な物言いであった。
真っ白になったボクサーのように燃えカスになっていたのび太も、流石にこれにはむっときた。
「うるさい、クソガキって言うな! 姿を見せないで話しかけてくるヤツよりマシだろ! こそこそしてないで、ここに出てきてから話せよ!」
『あーあー、うっせえのはどっちだっつうの。声を荒げんじゃねえよ、近所迷惑だぜ。今、何時だと思ってやがんだ。草木も眠る丑三つ時、子どもはもうオネンネの時間……ってそりゃ無理か! 今寝たら、絶対あのバケモンが夢に出てくるだろうしなぁ。朝になったら布団の中で大洪水は確実かぁ! ヒイッヒヒヒ!』
「うっ!?」
下品に嗤う声の主とは対照的に、のび太の顔はさあっと蒼白に染まる。
あの身も凍るような恐怖がリピートされ、彼の臓腑を締め上げた。
再び元の燃えカスへ。瞳に涙を再度滲ませ、悄然とのび太は項垂れる。
だが、声の主は一切の容赦なく、再び悪口を並べ始めた。
『しっかしよぉクソガキ、テメェもたいしたヤツだよなぁ。『仲間を見捨てて逃げる』……はっ、滑稽すぎて涙モンだぜ! くっくく……おっと、そう怖いカオすんじゃねぇよ。アレじゃ無理ねぇって。オレでもケツ捲って逃げるね、ゼッテー。テメェの判断は間違ってねぇよ。褒めてやる、よく逃げたなクソガキ!』
ぱちぱちぱち。乾いた音が夜の闇に木霊する。
両の手を打ち鳴らす、拍手の音だ。
しかも、それは明らかにのび太を賞賛するもので。
「――――むぐぅううっ!」
そのあまりの無神経さに、ついにのび太の堪忍袋の緒が切れた。
血を流す手足もなんのその、足を踏み鳴らして勢いよく立ち上がったのび太は、虚空に向かって咆え猛った。
「黙れよっ! 姿を見せろ卑怯者! 一発ぶん殴ってやる!! ぼくの気も知らないでさっきから好き勝手……!」
怒気で顔を真っ赤に染め、爪が食い込まんばかりに握られた拳がぶるぶる震えている。
間欠泉のように込み上げてくる怒りの感情にどっぷり身を浸らせて、のび太は完全に冷静さを欠いていた。
だが、そんなのび太に対して返されたのは、呆れ混じりの深々とした溜息であった。
『……やれやれ、殴られるのが解ってて誰が出ていくかよ、バカ。そもそもだ、クソガキ。テメェが俺の姿を拝むなんざぁ、まだまだ早ぇんだよ』
「な、な、なんだとぅ!?」
「いちいちキレんなや、クソガキ。まあ、なんだ。こっちにも事情ってモンがあるんでな。どうしてもオレを殴りたいってんなら……」
――――このイカれた戦争のただ中で、誰よりも生き延びてみな。
その言葉で、煮え滾っていたのび太の理性が急速に冷やされた。
「……え?」
怒りで歪んでいた顔が一転、ぽかんと間の抜けた表情となり、拳が力を失って垂れ下がる。
のび太の感性は、その軽薄かつ粗野な物言いの中に、一筋の真剣味を感じ取っていた。
『ほれ、落としモンだ。テメェのだろ』
すると、いつの間にか彼の足下に白い“ナニカ”が落ちていた。
言葉に突き動かされ、のろくさとした挙動でのび太はそれを拾い上げる。
その途端、彼の目があっと大きく見開かれた。
「こ、これっ、僕の“スペアポケット”!? 走ってた時にポケットから……落としてたんだ」
『まあぶっちゃけ、そこのドブに捨ててもよかったんだけどなぁ。それを“ワザワザ”拾って届けてやったんだ。オレってば親切だろ?』
それ、絶対違うでしょ。
のび太はそう心の中でツッコミを入れた。
だが、真実はどうあれ、拾ってくれたのは事実。
物凄く嫌そうな表情をしながらも、のび太はその場で頭を下げる。
「あ、ありがとう……」
『そんなに嫌なら、礼なんざ言うなっつうの。渋々言われたって嬉しかねえよ……まあ、とりあえず受け取っといてやるけど――――戻るんだろ、オマエ。あのバケモンのところに』
「…………」
ぴく、とのび太の動きが一瞬止まる。
身体の揺らぎも、表情も、呼吸すらも。
それを知ってか知らずか、声の主の言葉は続く。
『せっかくだ、戻るんだったら一つだけ予言をしておくぜ。これから先、テメェは強大で、しかも懐かしい『悪』達に出会う。そしてその『悪』をすべて乗り越えたその果てに、『この世すべての悪』と対峙する事になる。途中でおっ死んだりしねえよう、せいぜい気をつけな。ケケケケケケ……!!』
最後まで人の心を不快にさせるような言動のまま、嗤い声が遠ざかってゆく。
闇から生まれ、そして闇に溶けるようにそれは夜の帳に飲まれ、消えた。
後に残されたのは、のび太ただ一人のみ。
「い、いったい……なんだったんだろう、あいつ?」
最後の予言とやらもさることながら、最初から最後まで全てが唐突すぎた邂逅。
姿も見せず、顔も解らず、なし崩しに行われた語らい。
滝に差し出されたコップよろしく、のび太の頭は、すべてを呑み込むまでには至らなかった。
一人、ぼうっとその場に立ち尽くす姿は、処理落ちしたロボットを思わせる。
しかし、たった一つ。
その身を苛んでいたものはいつの間にか鳴りを潜めていた。
「……よし」
徐に、のび太の身体がくるり、と反転する。
右手に持った“スペアポケット”をぐっと強く握りしめながら、決然と視線を上げる。
まだあの恐怖は色濃く残り、身体は小刻みに震えて素直に言う事を聞いてくれない。
だが、それ以上の“ナニカ”が双眸に宿り、絶対なる恐怖の感情を越えてその身を突き動かしていた。
「――――いっ、行くぞっ!」
そして駆け出す。
身体を突き動かす衝動のままに、のび太は元来た道へと足を踏み出していた。
そのあまりにも頼りない、小さな背には恐怖も不安も、鉛のように重くのしかかっている。
……しかしそれでも、心中に巣食っていた迷いだけは、綺麗さっぱり消え失せていた。
『――――ふん』
のそり、と。
そんな擬音を伴って、黒いナニカが民家の塀の陰から飛び出す。
それはゆっくりと道の真ん中へと脚を進め、やがてある地点でぴた、とその歩みを止めた。
そこは、つい今までのび太が立っていた場所。
血のように赤い襤褸のようなバンダナと、膝元まで届く同様の腰巻のみを身に纏い、タトゥーのような紋様が全身に刻み込まれた、黒髪黒目のその男。
常人には理解しがたい不気味な佇まい。気の弱い人間ならば、すぐさま卒倒する事間違いなしであろう。
しかし。もし、のび太がその男を見たならば、驚きのあまりその場に尻餅をついていたはずである。
男……否、いっそ少年とも呼べるその“モノ”は、のび太の記憶に新しいその“ダレカ”に瓜二つというほど、似ていた。
『…………』
男は視線をのび太の去っていった方へと向ける。
その途端、にぃいっ、と口の両端が斜め上へ鋭角に吊り上がった。
それは見る者に恐怖と怖気を呼び起こさせる、ある種凄絶なまでの狂気を帯びた笑みだった。
『せいぜい気張るこった……“野比のび太”。オレの『目的』のためによ。これ以上、クサレ神父や蟲ジジイ達の思惑の“ダシ”にされんのもゴメンなんでなぁ――――ヒャアッハハハハハハハハ……!!』
狂ったように高笑いする。
その悪魔じみた哄笑は、不可思議なまでに淀みなく、そして“どす黒く”澄んでいた。
―――――月は、いまだ雲の中。