昨日はあの後、帰り道で桜にばったり出会いそうになって肝を冷やした。 桜は外人らしき見知らぬ金髪の青年に声を掛けられて、困ったような顔をしていた。 いや、あれは困ったようなと言うより、どこか熱っぽく呆けている感じだ。体調でも悪いのだろうか。熱っぽさに苦しむように眉間に皺を寄せた顔が困ったように見えてしまったが、実際、見知らぬ外人に話しかけられて迷惑そうな顔にもみえる。(あの子……!体調悪いなら出歩ちゃダメじゃない!!) 本調子でもない自分がこうして出歩いている事には目をつぶって、彼女の身を案じる。 私の隣で霊体化して、私の護衛に就いていたアリアは何故かあの外人に怪訝な視線を送っていたのが気になるが……。 彼女曰く、確証が攫めないので、今はまだ言及しないで欲しいという。あの時の彼女の表情ときたら……。 いや、霊体化しているから顔も見える筈は無いのだけれど。彼女から感じられた気配からは、只ならぬ『何か』を感じられた。 それは何か、忌み嫌っているモノにでも出くわしたかのように、ビリッと肌を鋸が掠めるような焦燥感を伴った殺気のようだった。 だが、彼女が発した言葉どおり、相手が何者なのかはあの時点では彼女にも断定できなかったのだろう。 彼女が抱いた一抹の『迷い』が、霊脈(レイライン)を通して私に伝わってくる。それが焦燥感となって、彼女の殺気を鈍らせたのは幸運だった。 そうでなければ、あれほどの殺気を放っては気配に鋭い相手なら違和感を感じ、此方に感づかれる恐れすらあっただろう。 幸い、彼女の殺気は霊脈の繋がっている私が過剰にそう感じ取っただけで、周囲には漏れず相手の男、やけにその纏った雰囲気が、何故か悪趣味な黄金色を感じさせる金髪の男には気取られずに済んだようだ。 金ぴかの外人は桜に二、三質問をしているようだ。ここらは異人館街と言っても過言ではない。最近この辺りに越してきて、道にでも迷ったのかな? 桜は結局特に道案内をする感じもなく、碌に口も聞けずオロオロするばかり。そのうち諦めたか、桜と別れ、此方に踵を返してきた青年はちら、と此方に気が付いたように視線を向けてくるも、此方の事など然程気にも留まらなかったのか、するりと只通り過ぎて行くだけだった。 その足取りはしっかりしていて、別段道に迷っている感じもしない。 道案内じゃないのか。……じゃああの青年は、桜に一体何の用があったんだろう? その後は帰ってから言峰、つまり、この聖杯戦争の“監督役”を引き受けている、隣街の高台に位置する教会で神父をしている男に、聖杯戦争への参加表明を電話で告げた。 私の兄弟子でもある、あのエセ神父は電話口から散々煩わしい小言を言おうとしてくるので、用件だけ伝えて直ぐ切ってやった。 明日からは本格的に動き始めなければならないのだ。わざわざ魔力回復のための貴重な時間を、うっとうしい小言で潰されてはたまらない。「今日はもう寝よう。……あちこち回ってもうクタクタだ。明日は早いんだもの……」 頭の中は五月蝿い虫の大合唱が鳴り響き、その雑音に思考を掻き回される。お願いだから寝かせて……。 一体何処から入り込んだのか、鈴虫が音色の音域を間違ったような甲高すぎるメロディを奏で、蝉があたかも狭い室内で出口を求めて逃げ惑うように、頭蓋骨の内側にぶつかっては脳内に五月蝿く羽音を立てて跳ね回っている。 全く不快極まりない。大体虫なんて気味が悪いから想像したくもないのに……。 その実際には聞こえぬ早鐘の音は、まるで体が脳に発してくる警報のようだ。耳鳴りに眉間を歪ませベッドに潜り込む。 二度目の寝返りをうつ頃には耳鳴りの妨げもどこへやら。意識はもう既に、まどろみの沼に沈んでいた。「凛、朝ですよ」「……」 ――誰かが私に呼びかけてくる。誰よ、煩いわね。私はまだこの心地よい草原に寝転がっていたいのよ。 寝転がりながら眺めている遠くの丘に、誰かが佇んでいる。その姿は私が見た事もない異国の蒼い衣を身に纏い、その上に白銀の甲冑を着た小柄な騎士。 彼の者の姿は遠く、ここからその顔までは良く見えない。ただ、その金砂の髪と、前に突き出し組んだ両の手を支える長い鋼。それが剣である事は見てとれた。 その立ち姿は尊く凛々しく、つい、呆けるように見惚れてしまっていると突然、強い風が吹き、私は思わず視界をふさいでしまう。 風が過ぎ、私が再び目を開けた先に、剣を携えた騎士は居なかった。 否、確かに其処に剣士だった『誰か』は居なかった。それどころか周りはいつの間にか森になっていた。 だが、徐に立ち上がりきょろきょろと辺りに視線を巡らせて、見つけた。木陰の下に、深い歳月を刻んだ太い樹木の根元に、蒼き衣と銀の鎧を纏ったその姿は在った。 その横顔が、誰かに似ている気がするも……良く思い出せない。また今度も、騎士までの距離は遠く、その表情は見えずらいが穏やかに見えた。 ただ少し長い髪と、その小さく細い体躯はまるで、幼い少女のようだ。 もう少し近寄って確かめたいと私の気持ちは逸るも、足はまるで、その場に根でも張ったのかと思うほど動かない。 否、動く事がこの光景を霧に返してしまいそうな恐怖感に囚われて、動けない。 身動きもとれず、もどかしさに胸を焦がされる私の目の前を再び風が舞う。 ――あ、まって! まだ確かめたいことが……! 目の前から瞬く間に、森の景色がかき消えてゆく。あまりの風の強さに、顔を手で覆っても目を開けることは適わない。 風が収まるのを感じて直ぐに目を見開き、あたりに彼の騎士を探す。 だが何処にもその姿は無い。辺りは、私が最初に寝転がっていたあの草原のように見えたが、良く見ると全然違った。何の変哲も無いのに、酷く幻想的な場所……。 あの草原も見たことなど無い場所だったが、此処もまた私には覚えの無い草原だ。 草原の緑と蒼い天空だけが延々と地平線の彼方まで続くような景色。いや、朧げながら地平線の彼方には、陽炎のような山々の峰が、揺らめくように稜線を描く。 私の記憶の中に、こんな景色など見た事も無い。何かの映画か、テレビの映像で見たとしても、これは余りにも鮮明で、現実味のある幻想だ。 三百六十度、全天球見渡す限り全て同じ光景ではなく、複雑に変化に富む平原の景色が、たかだか目の前の何分の一程度しか映し表せない映像の記憶だけでこんなに見事に作り出せるものだろうか。だが、そんな私の疑問も直ぐに中断された。 私が後ろを振り返ったその草原の向こうに、一人の少女が佇んでいる。 空は高く、淡い澄んだ海色に薄く流れる筋雲が、風に流され幾筋も天空を泳ぐ。 その空の下、風に蒼いドレスを靡かせ佇む一人の少女。 何処かで見たことが有る様な、その可憐な顔立ち。西洋人にしては小柄で華奢な体躯。 さらりと降ろした金砂の髪を風に遊ばせながら、彼女は遠い空の彼方を眺めている。 その両手には一振りの鞘が、まるで愛しき者を慈しむように抱き締められていた。 その鞘に剣は収められていない。ただ鞘だけをその胸に抱き、遙か遠き地に旅立った想い人に、その想いを馳せるような……。 愁いとも、慈しみともとれぬ切なげな表情を双眸に込めて、彼女はずっと空の彼方を見つめ続けている。 そのまま、どの位見入っていただろう。唐突に、彼女が遠くなる。いや、私の体が猛烈な力で引っ張られているような感覚に襲われる。私の周りに一切の世界を感じない。 まるで世界から外に、突然弾き飛ばされたような疎外感。 ――まって、彼女は何者なの? 気になるのよ。だからまってってば、まだ……もう少しここに居たいのよ! 見ず知らずの他人の筈なのに、何故かあの少女の事が気になって仕方が無い。 必死に戻ろうと引き摺りこまれる四肢を暴れさせ、もがこうとするも手足が言うことを聞いてくれない。段々と意識がぼやけて来る。 その中で一瞬、彼女が此方に振り向いたような気がした。 その顔を確かめたい。私は必死にその顔を覚えようと目を凝らす……だが遠くから、誰かの声がその意識を遮る。 五月蝿いな、もう少しで彼女の顔が見えそうだっていうのに!!(凛。いい加減起きて下さい。もう朝ですよ) ああっ、もう見えなくなってしまった! 必死に足掻いていたツケがまわってきたのだろうか、唐突に意識に気だるさが襲い掛かってくる。 もう、起こさないで……誰よぉ。……今私は、もう動く気にもなれないのよ……。「ぅ……ん~、あと30分……」「はぁ。まったく、もう……」 あれ? この声は……「貴女を起こすには、仕方有りませんね……総員ッ、起床ー!!」「うひゃあああ!?!?」 寝室に、部屋全体が揺れるかと思うほどの大声量が響き渡った。第四話「小隊は学舎で開戦する」 うー、耳がまだぼわ~っとボケたままだ。廊下に響く自分の足音が酷く遠い。まったくもう……朝からなんていう大声を張り上げてくれるんだか、ウチのサーヴァントは……。 朝、何か凄く気になる夢を見ていたような気がするのだけれど、彼女の特大『目覚まし』のお陰で、頭の中から内容が綺麗さっぱり吹っ飛んでしまった。 なんとか思い出そうとしても脳裏には薄暗い靄が立ち込め、全くその先へは進めない。 無理に記憶の扉をこじ開けようとすると、眼球の裏に錐で突かれるような痛みが走って意志が挫かれてしまう。 夢の内容はもはや殆ど擦り切れてしまって、今となっては判らない。 あの夢は何だったのかな……? 彼女の大声に無理矢理叩き起こされた私は既に顔を洗って身支度を終え、朝食が用意されたテーブルに着く。 今日は私一人分しか用意しなかったらしい。彼女の食への執着は結構強そうに見えたのだけれども……?「おはよ、アリア。今日は私の分だけ?」 キッチンで調理器具の片付けを終えた彼女が此方へ振り返り挨拶を返してくる。「おはようございます。ええ。サーヴァントが何かと食い扶持を増やしては、貴女に負担をかけてしまうでしょう?」 そうしおらしく言ってくるが、その目はやっぱり目の前の朝食に注がれている。「ん、別にいいわよ。貴女一人分くらいは何とでもなるわ。だからあんまり、そう朝食に羨望の眼差しを向けないで」「あ。ええっと……その、すみません」 酷く申し訳なさそうに肩を落とし、小さくなる彼女。ちょっと恥ずかしかったのか、顔まで赤くして俯いてしまう。「はあ、まったく。本当に貴女って英霊っぽさが全然ないわねー」「ふふ、確かに。それは自分でもそうだろうと思います」 うわ、苦笑交じりにさらっと全肯定してきやがりましたよ彼女……。 ふむ、今日はモーニングコーヒーがついている。あれ? ウチには紅茶はあるけれど、珈琲豆なんてあったか?「あ。それは昨日買ったやつですよ、凛」 私の表情に気がついたか、アリアがそう教えてくれた。 そういえば昨日、新都まで行ったときに彼女から、朝が弱い私用にと半ば強引に買わされたんだった。ご丁寧にコーヒーミルまで……高かったんだぞアレ。 私は普段からコーヒーは余り飲まないし、あまり好みでもないのだが。「ふむ。(コクッ)あ、オイシイ」「でしょう? 別にそれほど高い銘柄でなくとも、豆を挽いた直後に煎れた物は美味しいんですよ。コーヒーは煎れ立てが一番です」 確かに、このコクとさわやかな苦味、嫌味の無い香りは良い。眠気で少しボウッとしかけてた頭が冴えるようだ。 目覚ましにはこっちの方が多少効きが強いかも知れない。当然、彼女の特大目覚まし声よりはこっちのほうが断然有り難いわよね……。「失礼して私も相伴に。さて、出来はどうでしょうか……? ふむ。これなら中々上出来でしょうか」 彼女はキッチン側の壁に背を預け、カップとソーサーを手に、自分が煎れたコーヒーの味見をしている。 うん。彼女は、見た目は何処から如何見ても、現代の外人さんといった感じで……それでいて、泣く子も泣き止み見とれそうな程の美人なのよね。 朝食の用意をしていた彼女は、今はあの重そうな蒼いコートもベストも脱いで、上からエプロンなど掛けている。 普段は上着やらベストやらであまり目立たないが、エプロンの前が、桜ほどではないにしろ、そこそこな膨らみを地味に主張している辺りから察するに……ま、負けた。 くそう、なんで外人さんってやつはあんなにもスタイルがいーんだ!? 私こと、“遠坂凛”にはどんな些細な事だろうと、何事にも負けられない意地がある。 だけど、流石にコレばっかりはね……。 あの様子だと、綾子と同じくらいはあるかも……? 背丈も近いしなあ。 だから、コーヒーなんか手に持って、軽い姿勢でたしなまれるとそれはもう。……何か凄く“絵”になっている。「ふむ、美味しい。コロンビア産の安めのブレンド豆でしたが、悪くない」 彼女が一口飲むたびに、何かに満面の笑みでコクコクと頷き、前髪から一房だけ跳ねたクセのある金糸の房が、首の動きに合わせてふわふわと揺れている。 その仕草が何故かひどく似合っていて、まるで小動物のような愛らしさがある。 ……面白いクセを持ってるのね彼女。 朝食はそのまま、昨日に続き今日も穏やかに終わっていった。 朝食後、私は今後の方針を端的だが明確に彼女に話す。「さて、それじゃあ学校に行かなきゃね」「凛」 登校する仕度をしようと席を立つ私を呼び止める声。「何? 何か問題あるかしら?」 多分、この非常時にどういう心算かなんて非難されるだろうと思っていたのだが……。「いいえ。別に問題は有りません」 ………………………………はい? 今、彼女はなんと言った?「え、ちょっと待って貴女。何も異論は無いの!?」「えっ、何故ですか?」 まるでそちらの方が意外だとばかりにキョトンと目を丸くする彼女……なんでよ!?「だって、これから私達はマスター同士で殺し合おうってのよ!? 普通おかしいと思わない? 学校なんかに行けば、他のマスターから狙われる事だって十分ありえるし万が一、不測の事態に陥ったりしたらどうする心算かとか!!」 彼女の反応が余りに意外だった為、感情も抑えきれずに一気に捲し立てる。「ええ、それはもっともな判断です。ですが、貴女は私が止めたところで、素直に登校を辞める気などさらさら無いでしょう?」 散々捲し立てた為、ぜぇはぁと肩で息をしている此方に向かって、彼女は飄々とそんなことを言って来た。 なんて事なの、彼女には私の性格が完全に見抜かれている。昨日今日で簡単にそこまで見抜けるものだろうか? もしそうなら、相当な洞察力の持ち主になるわね彼女は……。「それに、私が霊体化して護衛に就くことは許可してくれるのでしょう?」 狼狽える此方に対し、彼女は平然とマイペースである。朗らかな微笑みを浮かべながら護衛手段を確認してくる。「それは当然よ。貴女には学校に限らず、私が出かける時は必ず傍に居てもらうからね」「なら、特に問題は無いでしょう。危機管理の観点から申し上げますが、ある日突然にご自身の行動を大きく変えてしまうと、不自然さから、反って周囲に要らぬ関心を持たれてしまいます」 そう流暢に肯定と説明を言葉に変えてくる彼女。「それは親しい者からは心配であったり、無関係の他人ならば奇異の目や怪訝の念といった興味であったり。敵にその情報が漏れれば警戒対象としてマークされ、発見されて先手を打たれる危険もあります」 意外にも彼女は策士であるらしい。彼女は自身の事を『兵士』だと言っていたが、少なくとも唯の一兵卒などではないだろう。恐らくは士官、将校クラスの軍人。 まあ仮にも、英霊化出来る程の功績を残した人物だろうから。そのくらい高い階級だとしても何の不思議も無いとは思うけど。 それにしても、まさか自分が前もって非難された時の論破用にと用意していた『論理』を、自分がぶつける心算だった相手である彼女の口から聞かされるとは。「つまり、無闇に自分の行動パターンを変えないほうが自然で発見され難いってことね」 確認するまでも無い事だったがとりあえず確認しておく。「はい。簡単に言えばそういう事ですね。諜報戦ではまず真っ先に『不自然』な“モノ”から索敵するのは基本です。それに、魔術師同士の戦いは“人目に付かない事”が最優先でしょう? それなら昼間、人目に付きやすい学校なら、無闇に事を仕掛けられる危険は幾らか減少するでしょうし」 彼女は兵士だそうだが、これじゃまるで諜報員みたい。何処ぞのスパイ映画宜しく情報戦でも経験してきたのだろうか。「判ったわ、それじゃ就いてきて。しっかり護衛頼むわよ?」「Yes ma'am! 了解しました、我が上官」 私の命令に張りのある声で了解の意を表し、少し大仰に、彼女は軍隊式に敬礼のポーズを取ったりしてくる。「では誓いを此処に……。 私は貴女の“剣”であり“銃”となり、この身は貴女の“盾”として御身を守る。そして敵を打倒し、必ずや勝利に導きましょう! 我が身は“兵士”。貴女に仕えし戦場の担い手です」 だがその後に続いた言葉は、とても誠意の篭った『誓い』だと思えた。「それはそうと、凛。これはもしもの話ですが、学校だからといって、敵が居ないとは限りません。もしそのような事態に出くわした場合は如何されるお心算ですか?」 突然何を聞いてくるのか、この地の正統な管理者である私が『その手』の情報を見逃す筈は無い。「え? それままず無いわよ。だってこの街に存在する魔術の系統はウチと後一つだけで、其処はもう魔術の血統は枯れているから、現当主もマスターには成れない筈よ」 この土地に住むもう一つの魔術の家系、間桐の現当主の顔を思い出す。その嫌に高い自尊心たっぷりの薄ら笑いを浮かべた表情に呆れと、何故か哀れみを感じる。 彼は魔術回路も持たぬ唯の一般人。それだけは間違いない。「それは確かですか、凛?」 だというのに、彼女はしつこく食い下がる。「ええ確かよ。だって私は此処の管理者よ。その手の情報は全て把握してるわ」 私の言葉に満足した……ようには見えないが、一応納得はしてくれたらしい。「そうですか、判りました。ですが凛、何事にも例外は有ります。もしそのような事態になった場合は、即座に気持ちを切り替えて事態の善処に当たってくださいね?」 納得してくれたかと思ったら、やにわに上半身をずいっと私の前に突き出して、そんな言葉を掛けてくる。 ご丁寧に顔の横に人差し指を立てながら、さも背伸びをする我が子を諭す母親のように緩やかな笑みを彼女は浮かべていた。「……………………………。 驚いた、もしもの話って本当にあるのね」 早朝の学校を目の前に、二人して校門の前で立ち尽くす。もっとも、彼女は霊体化しているので、傍目には私が一人で突っ立っている様にしか見えないが。 幸い、朝早いこともあって、登校する人影はごくまばらなのが救いかしら。(ですね。とりあえずは認識を改めた方が良いでしょう。それより凛。これは些か拙い。敵はこの学校を丸ごと食い物にしようとしている) 私の横に立つアリアにも、この結界がどんな物なのかは判るのだろう。多少魔術の知識は持っているのか、存在自体が神懸り的な魔術の所業であるサーヴァントだから、本質的に魔術の構成には敏感なのかは知らないが。恐らくは、両方だろう。「そうね、辺りの空気が澱んでるどころの話じゃない。この結界、下手すればもう完成してたりしない?」 それは聞くまでも無い事だが、アリアにあまり聞きたくない現実を確認の為に聞く。(まだ完全ではないようですが、いつでも起動はできる段階でしょう。何れにしても、余り猶予はなさそうですよ。ただ、此処まで大胆だと相手はよほどの大物か……)「とんでもないド素人ね。こんな他人に異常を感じさせるような結界は三流だもの。やるんなら起動するときまで、誰にも感知されないのが一流ってものよ」 まったく、よりによってこんなところに仕掛けてくれるなんて……!(それで、貴女の見解ではどちらだと思いますか、凛?)「さあね。一流だろうが三流だろうが知った事じゃ無いわ。私の管理地でこんな下衆な代 物を仕掛けてくれた奴なんかに容赦はしない。問答無用でぶっ倒すだけよ!」 私はふんっと鼻を鳴らして、この結界を仕掛けた奴をいぶりだす作戦を練りながら校舎の中へと入っていった。 そして、今私は校舎内に仕掛けられた結界の基点となる魔方陣を見つけ出し、潰そうと屋上までやってきたわけだが…… 「……参ったな。コレ、私の手には負えない」 それはまともな魔術師が仕掛けたものとは到底思えなかった。コレを張った者は何も考えてはいない。 何も考えていないが、この結界は桁違いの技術で組まれている。私の技術では一時的にこの結界から魔力を奪うことは出来ても、その魔力を通す回路そのものを消すことが出来ない。 此処から私が幾ら魔力を奪い完成を遅らせても、結界は術者が再び魔力を流せば、たちどころに復元されてしまうだろう。 この結界は中に居る人間の魂を、肉体ごと『溶解』して吸収してしまうという、強引で残虐極まる凶悪な代物だった。「ねえ、一つ聞いて良い? 貴女達ってそういうモノ?」(察しの通りです、凛。我々サーヴァントは本質的に霊体。当然、その動力源は魔力。詰まり我々にとっての食事とは魂、及び精神……。魔術師が言うところの第二、第三要素といった非物理的要素です。幾ら魔力量を増やしたところで、サーヴァントは元の性能が上がる訳では有りませんが、魔力を蓄えれば耐久力や強力な手数を得られるでしょう) 淡々と告げる彼女の顔は霊体化している為見えないが、その雰囲気からは微かに怒りのようなものが感じられる。「それって、マスターからの魔力供給だけじゃ足りないって事?」(いいえ、そうでは有りません。ですがサーヴァント、つまり、『兵器』の性能が敵より劣っている場合、その性能差を物量でカバーするのはどんな戦争でも常識でしょう。周囲の人間から生命力を奪い己の武器にするのは、マスターとしては基本的な戦略です。そういった意味ではコレは、善悪の如何を別にすれば、非常に効率的ではある……) 沈痛な、低く重い口調で語る彼女。人の良い彼女のことだ、多分彼女もこのような馬鹿げた非道は赦せない性質(たち)なのだろう。「なんにしても、癪に障るわそれ。二度と口にしないでね?」「同感です、凛。勿論私もそんな真似をする気は毛頭有りません!」 そう力強く、隣にいる彼女ははっきりと、念話ではなく肉声で断言した。「それじゃあ、邪魔する程度にしかならないでしょうけど、消していきますかね」 気を取り直し、腕をまくり基点の魔力を消し飛ばそうという時に――。「なんだよ消しちまうのかよ、勿体無え」 夜の屋上に、男の声が響き渡った。「―――――――!」 咄嗟に立ち上がり、声の方へ振り返る。アリアは既に感知していたのだろう。私を後ろに守るように、男と私の間に割って入るよう移動している。 声は、後方10mにある大きな給水塔の上から私達を見下ろしていた。「これ、貴方の仕業?」 私はダメもとで給水塔の上に立つ、体にぴったりと張り付く明るい群青の鎧を着た男に尋ねてみた。「いいや、小細工を弄するのはあんたら魔術師の役割だ。オレ達はただ、命じられたままに戦うのみ。そうだろう、そこのもう一人の嬢ちゃんよ?」「――――――!」 やばい、アイツにはアリアが見えている。霊体化している彼女を感知できる存在……!「やっぱりサーヴァント!!」「そうとも。ソレが判る嬢ちゃんはオレの敵って事でいいのかな?」 涼しげに、さも普通の会話のような自然な声色で……さらりと『お前は敵か』と聞いてくる男。 ヤバイ、アイツの間合いが判らない以上むやみやたらに動けない。でもこの場で戦うのは酷く危険な気がしてならない!!「アリア、此処は場所を代えたほうが良さそうね。跳ぶわよ、いい?」 私はヤツに聞かれぬよう小さな声で呟く。「了解」 彼女もまた、小さく相手に気取られぬよう答えてくる。 私達が場を移す算段をつける間、迂闊には動かぬよう身構えていると、やにわに男が口を開きだす。「ちっ大したもんだ、何も判らねえようで要点は押えてやがる。あーあ、失敗したなぁこりゃ。面白がって声掛けるんじゃなかったぜ」 言い終わるが早いか、その手には全長二メートルもの赤い槍が握られていた。 男が槍を手に今にも飛び込まんと体勢を低く構えてくる。「Es ist gros, Es ist klein(軽量,重圧)……!! 飛ぶわよ、着地任せたっ!!」 アリアが無駄の無い動きで私を抱き上げ、人間にはまず不可能なスピードと跳躍力で一気に校舎のフェンスを飛び越える。 魔術で私の自重を軽減させる事で、とにかくスピードを上げたかった。その位しなければ、今頃は男の槍の餌食になっていた所だ。 このまま慣性に従って宙に浮き続けているのは、一瞬前まで自分が居た屋上の一角を薙ぎ払った男の素早い槍の前では良い的に成るだけ。私は即座に魔術を発動させる。「vox Gott Es Alas(戒律引用,重葬は地に還る)―――!」 我が身にその自重を取り戻す事で、急激に増えた重量を星の重力に掴み取られる。 そのまま重力の腕に絡め取られた四肢は容赦なく地面に引き落とされ、放物線を描き飛んでいた私達の身体を鋭角に急降下させる。 地上に激突する寸前、先にアリアが一瞬実体化し、地面に向けての魔力放出で慣性を殺し、二人分の重量を受け止めることで着地の衝撃を緩和させる。 地上に無事降りても安心などしていられないと、即座に校庭へと飛び出す私達。私は全身に“軽量”と“脚力強化”の魔術を掛けて走る。 私の魔術でのサポートは力が強すぎて屋上を破壊しかねない。何よりあのサーヴァントは槍使いだ。 接近戦であれに太刀打ちできるサーヴァントなんてセイバーくらいなもの。ソルジャーにはヤツとの接近戦なんて荷が重過ぎる。そう私は思っていたのだが……「別にあそこで対峙しても問題は無かったのですが」「へ? そ、そうなの?」 どうやら、その考えは余計な心配だったらしい。これでもかと全力で走っていた私は、彼女からの予想外の一言で思わず立ち止まりそうになった。 否。立ち止まらざるを得なかった。「いや、本気でいい足してるぜアンタ。此処で仕留めるのは些か勿体なさすぎるか」 我々より早く、一気に校庭まで跳躍してきた蒼い槍使いに、不意に行く手をさえぎられてしまったのだ。「アリア――!」 予想を上回るスピードで回り込まれた為、防衛戦にならざるを得ない。ソルジャーに前に出るよう呼びかけようとして、咄嗟に名前を呼んでしまう。 クラス名で呼ぶ方が理に適っている気もするが、彼女はそもそもが、正規のクラスには該当しなかった異分子。 まだこの戦争に挑む者の誰一人として、彼女がどんなサーヴァントか知る者は居ない。 その上“アリア”という名前自体が本名じゃない。むしろこの場合は『ソルジャー』という、未知のクラスの情報さえ隠せる妙案だったのは怪我の巧妙と言う他無い。 私が一歩引くと同時に、私の前に出たアリアが実体化する。それはまるで私の輪郭から、急に蒼い外套の女性が浮き出てきたようにみえただろう。 月を隠す曇天の下、アリアの手には“まだ何も”握られていなかった。「ほう。いいねえ、そうこなくっちゃな。獲物を出しな、そのくらいは待ってやるぜ」「ランサーのサーヴァントですね」 アリアが口を開く。「いかにも。そういうアンタは……何モンだ、アリアさんとやら?」 怪訝そうに疑問を口にしてくるこれもまた蒼い槍兵。「アリアなんて名前の英霊なんざ、俺は知らんし、そもそもこんな状況でも一向に構わず口に出すくらいだ。真名かどうかも怪しいな。見たとこセイバーじゃねえ。アーチャーって訳でもなさそうだ。とすると、アサシンか?」 謎解きをするのが楽しいのか、軽い口調で、ランサーはアリアのクラスを言い当てようと思っているような素振りで、此方に探りをいれてくる。「う~ん、惜しいですね。だが残念、違いますよ」 アリアはからかうように涼しい笑みを浮かべ、ランサーを煙に巻く。「っちぃ、真っ当な一騎打ちをするタイプじゃあねえな……。いいぜ、好みじゃねえが出会ったからにはやるだけだ。そっちがこないなら……こっちから行くぜ!」 槍の騎士は間合いを一気に詰めんと跳躍し、校庭の土を踏み込んだ……。