―――幕間―――
それは、もうそいつのものだった。最初、それが誰のもであっただろうと、失ってしまったりはしない。
当然だ。そいつとそれは、もう誰よりも結びついてしまっていたから。
だがら、あまりに近すぎるから、そいつはそれに気がつかない。
そいつは知らずに走り続ける。どんなに傷つき、裏切られても、その目は前だけを見て。
それは、いつもそばにいるから解っていた。そいつの心が、本当は脆く、砕けやすい硝子のようなものだと。
いくら、体を癒すことが出来ても、心は癒せない。
それでも、それは、そいつとともに。心から結びついたそれは、もうそいつだった。
そいつは■でそれは■。苦しみも、その想いも。たとえ、それが一方通行のものだとしても。
そして、気がつかずにそいつはいつしか、辿り着いた。紅く、枯れはてたそこは――――
そこには――――
二月六日
衛宮家の朝は早い。早いといっても常の住人は衛宮士郎一人なのだから、あいつの起床がとも言うが。六時半にでも起きようものならば、完全に寝坊の烙印を押されてしまうだろう。もっとも、今日ばかりはそうとも言えない…・・・はずだ。
それに、今は住人が衛宮士郎一人、というわけではない。が、大変遺憾なことに、我がマスター、遠坂凛は朝に弱い。あれはもう、壊滅的といってもいい。だから、寝坊したとしても、悪いとは言えないのだが。
「セイバー、そろそろ着替える必要がある。衛宮士郎を起こしてやらないと、朝食を逃してしまうぞ」
霊体化できるセイバーは本当なら、服など着る必要がない。だが、少なくとも、この家の食客だと紹介した以上、それは必要なことだ。
セイバーの表情が、和やかなものから、毅然としたものに。まさに戦闘者、いや、これは捕食者と言った方が正しいのかもしれない。
「それはいけない。朝の食事は重要だ。一日の活力はそこから生まれるといっても言い過ぎではない」
その姿は何かを決意した風でもある。
ではお先にと、セイバーは自室、衛宮士郎の隣の部屋へと走る。
昨夜、桜から、今日から数週間ほど衛宮邸に来れないと宣告がなされた。つまり、今の衛宮家の朝食調理担当者はあいつ一人。セイバーも必
死になる、か。だが、俺から漏れるのは嘆息ではなく、笑み。
クク―――。衛宮士郎め。セイバーに起こされたとあれば、無様にうろたえた姿も見せよう。
だが、それには、その現場に間に合う必要がある。ゆっくりとはしていられない!
セイバーに続いて、与えられた自分の部屋へと急ぐ。僅かではあるが、俺の部屋のほうが、位置的にはセイバーの部屋より近い。アドバンテージは有効に活用しなければ。
――――しかし、凛にもらった服に着替えながら思う。慣れたくはない、と。
自室を見回す。見たくはないが、見えてしまった。クローゼットには凛からもらった山ほどの服を。
これといった持ち物というものがない、サーヴァントたるこの身の部屋に、これでもかというくらい存在感を主張していては・・・・・・。
仮にも、いやいや、間違いなく俺は男だ。それがスカートやストッキング・・・・・・いかん眩暈が。
一刻も早く、セイバーと合流して、衛宮士郎を起こしてやろう。納得はいかんが、俺とセイバーとの二人で、衛宮士郎を起こしてやれば、破壊力も二倍、いや四倍。あいつの無様な姿でも見なければ、このストレスは発散できん。
結果を言えば、俺はセイバーのアクションには間に合わなかった。もっとも、衛宮士郎はまだ眠っていたのだが。
幸運だったのは、セイバーが躊躇している、といえば良いのか。気合を入れていたといえば良いのか。彼女がまだ行動を起こさず、眠っている衛宮士郎を睨みつけているだけだったということだ。
さて、考えてもいなかったが、なるほど。彼女は、どう起こそうか、迷っているというわけだ。
衛宮士郎は、まだ寝坊したというわけではないのだ。時刻はまだ、そこまではまわっていない。
何しろ、起こす理由が、朝食のためなのだ。そのために衛宮士郎を起こしたのだと知られたら、彼女の誇りが許さないだろう。
しかし、上手い言い訳も思いつかない、といった所だろうか。仕方あるまい。
「セイバー、私も一緒に起こそう。君は例の事もこいつと話す必要がある。時間は有限だ。早く起こすに越したことはあるまい。第一、あの程度でここまで寝こけている、こいつがだらしないのだ。かまうことなどないだろう」
そう言ってセイバーの声すら上げる暇もない様、素早く衛宮士郎の枕元に移動する。
それを見たセイバーは、嘆息したものの、彼女からは否定の念は感じられなかった。
「アーチャー、貴女の言は尤もだとは思いますが、くれぐれも酷い起こし方はしないでもらいたい」
俺の胸の内を見透かしたかのようにセイバーが念を押す。安心してくれ。俺は、起こす方法に拘ってはいない。重要なのはその後だよ、セイ
バー。酷く歪んだ。そう言ってもいい感情を隠しもせず、俺はいたって普通に衛宮士郎を起こした。
心なしか顔を近づけて。セイバーも俺に続くように衛宮士郎の顔を覗きこむ。
「起きろ、衛宮士郎」
そう言って、体を揺さぶる。柳洞寺を出る前から、完治していたのだ。そう深い眠りでもないだろう。
そして、こいつは思惑通り、少し気の抜けたような吐息をしてから、ゆっくりとその目蓋を開いた。
「ん、セ、イバー?・・・・・・っ、アーチャー、うわあっっっっっ!」
そう言って布団から飛び起きる。ふむ、見た所特に問題はなさそうだ。眠気も飛んだことだろう。
クっ―――何よりその表情が俺の鬱憤を晴らしてくれる。顔が紅いのがポイントか・・・・・・。
「な、なんでセイバーとアーチャーが! 」
まだ、動揺冷め止まぬのか、手をバタバタさせながら叫ぶ。
「なんだ、そんなことか。起きれないようだから、起こしてやったまでだ」
「え、あれ?」
あれから、いきなり朝なのだから、仕方ないか。それとも、まだ寝ぼけているのか?
「セイバー、今のうちに話すといい。今なら頷かせるのは容易だぞ」
「しかし、それでは朝食の支度が・・・・・・」
セイバーは衛宮士郎からこちらに向きを変える。僅かに不機嫌さを滲ませている。やれやれ。
「代わりに私が用意しよう。卵は半熟でよいのか?」
立ち上がりながら、セイバーに提案する。自然、こちらを見ているセイバーの顔がゆっくりと放物線を描く。確か彼女は、朝はパンの方が好みだったか。凛も、そうだったか? まあ、今はとりあえず
「それは素晴らしい。アーチャー、よろしくお願いします」
セイバーのご機嫌を伺っておくとしよう。そして二人に背を向けながら言う。
「まかされた。ああ、それとセイバー」
「なんでしょう?」
「そこのニブイ男に昨夜の続きでも話してやってくれ」
俺が話すと、あの苛立ちが抑えきれなくなるかもしれない。それが、セイバーにも感じられたのだろうか。セイバーは少し躊躇ったものの、神妙そうに頷いた。
「―――分かりました」
そして俺の言葉に、遅れて反応した衛宮士郎が何か言う前に先手を打つ。
「そうだ、衛宮士郎。忘れていることがあったな」
そういって、衛宮士郎に振り返った。
「おはよう、衛宮士郎――――ふむ、まだまだ修行が足りんな。挨拶も出来ん様では先が思いやられる」
こちらに何か言いかけて固まってしまった、衛宮士郎に再度背を向けて部屋を出た。
朝食は、洋食にした。勿論邪魔する輩はいないから、随分と気持ちのいい時間だった。トーストとハムエッグ。凛にはそれでいいかもしれんが、とりあえず、サラダもある。まあ、和食じゃなくて衛宮士郎は気に食わんかもしれんが、どうしようもあるまい。おまえはこの家の家主にしてヒエラルキーの底辺だからな。
最早過去とはいえ、過ぎてしまえばいい思い出ではある。他人事とも言うが。
「へぇ~。美綴が、痴漢から逃走か。あいつにも苦手なものがあったか。まあ、そんなことでもないとあいつに女らしさってのを教えるのは
無理だろう」
「あら、衛宮君。楽しそうなところ悪いんだけど。私、綾子とは休みの日に一緒に遊びに行くぐらい仲が良いのだけど。知ってました?」
そして、迂闊な事を言ってしまうのも、今では遠い過去のこと。
「ああ、わかったよ。黙ってもらう代わりに、朝食は洋食にすればいいんだろう」
「そうそう、わかっているじゃない。あ、マーマレイドだけじゃなくてイチゴのジャムもよろしく」
衛宮士郎が何を言って、凛達に何を要求されようが――――
「アーチャー、もう食べないのですか?」
静観していた俺に、唐突にセイバーが訊いてくる。
「昨日に比べれば、随分食欲がないようですが」
「ああ、そういえば」
確かに昨日に比べれば、俺の食べた量は明らかに少なくなっている。セイバーと比較すればそれは一目瞭然だ。
「たぶん、料理している間に、かなり満足してしまったのだろう」
「それならよいのですが」
成る程。セイバーは俺の昨夜負った傷を心配していたのか。だが、俺から無理している気配は感じられなかったのだろう。
セイバーは自分の食事を再開する。彼女ほど熱心に食してくれると、調理した方としても自然と笑みを浮かべそうだ。
騒がしい大河や情けない衛宮士郎と会話している凛が一瞬、俺を見たような気がした。
大河をお送り出しても、まだ時間に余裕がある。
朝食の片付けを終えた衛宮士郎に、凛が声をかけた。
「士郎、ちょっと話が」
「悪い、遠坂。セイバーと約束があるんだ」
「ふーん。まあいいわ。それじゃ、今日の昼休み、屋上で話しましょう」
さほど重要なことでもないのだろう。
「解った。それじゃ、また後で」
ふむ、どうやら、稽古をするようだな。すでにセイバーが待っているのだろう。幾分早歩きになっている。凛が簡単に引き下がったのも、セイバーがらみだからか。そして、未だ茶を飲みながらくつろいでいる俺に、凛が声をかけた。
「――――アーチャー。それ飲んでからでいいから、私の部屋に来てくれない?」
「なに、待つこともない。これはほとんど空だ。一緒に行くとしよう」
言葉と裏腹に少し待たせてしまったが、凛は少し眉を吊り上げただけで何も言わなかった。
凛の部屋は、散らかっている、というわけではないのだろう。ただ、物が多すぎるだけか。それがこの部屋にゴチャゴチャとした印象を与えている。
「それで、用件はなんだ、凛」
「そうね、用はあるのだけど、その前に一言良いかしら?」
凛がもったいぶるとは、中々珍しい。
「ああ」
「アーチャー、貴女、今朝から少し変よ。落ち着きなさい」
「ふむ、まあそんなところだろうな」
凛の言葉は予想できたことだった。あれだけ、意味ありげな視線を送っていたのだから。もっとも、凛の方はそうでもなかったようで、憮然とした表情をしている。
「ふーん。アーチャー、あんた気づいてたわけ?」
「気づいていたかと問われれば、そうなるな」
「それで、どうして、士郎・・・・・・、衛宮君を意識しているわけ? まさか惚れたとかじゃないんでしょう?」
「それこそまさかだ。そんな事態は絶対に来ない。まあ、意識しているというのは正しいがな」
からかうような気配を見せていた瞳が、顔が真剣なものに変わる。
「それは、敵として、かしら・・・・・・」
「君が、あいつを敵と認識するはかまわんが。あのお人よしは凛の敵にはなるまい」
その言葉で、あっさりと気の抜けた顔に戻った。
「じゃあ、どういうこと?」
「そうだな、一言で言えば、あいつに苛立っているというのが、本音だ」
「そりゃあ、貴女じゃなくても、苛立つことはあるんじゃない? 彼、めちゃくちゃだもの」
「ああ、だが、問題なのはその苛立ちを、いまいち御しきれてないというわけだ」
「なるほど。でも、昨日までそんなことなかったわよね。どうして急にそうなったのかしら」
明確にはなってはいないのだが、おそらく引き金はこれだったはずだ。
「君には衛宮士郎の傷の理由は話してなかったか――――。俺を庇ったのだよ、あいつは」
凛は、俺の顔をまじまじと見てから、がくりと肩を落とす。
「まったく、衛宮君ときたら・・・・・・。そんなんじゃ、苛つかないほうがどうかしてるわ。マスターがサーヴァント。それも他人のサーヴァントを庇うなんて。はぁ」
心底、呆れたという感じだ。だが、その顔を、勢いよく上げる。
「だけど、アーチャー。貴女、衛宮君が庇ったことに苛立っているんじゃないでしょう?」
瞬間、体が固まったのが解った。凛に悟られないよう取り繕う。
ゆっくりと、息を吐き出すように、言葉を紡いだ。
「よく、わかったな」
「まあね。貴女は衛宮君が庇ったことじゃなくて、傷を負ってしまったことに苛立っているんだわ」
こうもたやすく見破られるとは。苦笑いするように答える。
「そうなる、だろうな」
「だけど、それじゃやっぱり――――――――」
そして、凛は何かを呟いたが、聞き取ることは出来なかった。
「ふう、仕方ないわね。そう簡単にどうにかなるようなものじゃなさそうね。自分でとっくに気がついてるんだし。だけど、アーチャー」
「皆まで言うな、解っている。戦いとなれば、我が身は君の刃だ。何も変わりはしない」
気負うでもなく、ただ当然のように応える。凛は俺の言葉に満足したのか。
「なら問題ないわね。期待してるわ。あーもう。そろそろやばいわね。良いわ。用件は、衛宮君と同じだし。昼休みに訊くことにする」
その言葉に首肯する。
「あ、そうそう、アーチャー」
その言葉に、何だと視線で問いかける。凛は、本当に愉快気な笑みを浮かべて。
「もう、俺なんて言っちゃだめよ。ただでさえ、強がって見えるんだから。そんなんじゃまた、からかわれるわよ」
顔が赤くなるのが、自分でも解った。前言を撤回しよう。凛だからといって、対処できるとは限らないらしい。
まったく、かなわんな。
ギクシャクと部屋を出ながら、そう思っていた。