子供のころありきたりな絵本を読んだ。
困ったことがあって、大変なことがあって恐ろしいことがある。
だけどそんな困難は仲間があつまってヒーローがいてすぐに解決。
そして当然、最後の言葉は決まっていた。
「めでたし、めでたし」
つまりこれは、そんなありきたりな物語。
カレイドルビー エピローグ 「魔術師 間桐桜」
私はマキリの修練場で一人ぽつんとたたずんでいた。
時刻は朝方。早朝だった。
寒々しい石の壁。きらびやかなものなど何もなく、生を感じることなど何もない。いや、唯一つ、いやに存在感のあるものが石と木であまれた修練場の床においてあった。
ついこの間プレゼントされたそれは、真っ赤に装飾された目覚まし時計。
それがカチカチと時を刻む音だけが薄暗いこの場に木霊する。
地下にたった一人篭っている。時計の秒針音だけをきき、時間の感覚すらなくなるほどに意識を己の奥に埋めていく。
地下は外の熱気とは完全に切り離され、涼しかったが、私はすでに汗だくだった。最近修練をするときに着るようになったジャージが汗でぐっしょりとぬれていく。
これはマキリの修練だ。
遠坂家のように効率化されたものとは程遠い。ただ怨念と執念を積み重ねるマキリの魔術。
私はそれを愚直に繰り返すしか能はない。
未熟で未熟。血統により代々濃縮されるべき魔術刻印も存在せず。ただ生来の魔術回路のみでマキリ発祥より数百の年月を重ねた技を再現する。
それを子に伝えるために。その子がそれを誇りに思うことができるように。
だからこそ。ここでの鍛錬は私の日課となっている。
「…………」
ふと意識を浮上させる。
ギィと立て付けの悪い地下室の戸が開く音がした。
私は高ぶっていた回路を鎮め、そちらに目を向ける。
「おい、桜」
声をかけてきたのは私の予想通り、兄さんだった。
もうこの扉を開ける人は私か兄さんしかいないから。
「――――はい、兄さん。どうされましたか?」
「……お前バカか? もう時間だ、さっさと仕度しろよ、のろま」
「えっ!?」
その言葉に全てをキャンセルして飛び上がる。
地下室にポツンと置いてあるこの場に似合わぬ赤色の目覚まし時計に視線をやった。
これを送ってくれた人の好みでアナログのベル式。
キチンと一時間とセットしたはずのそれは、私が地下にこもってからいつのまにかすでに二時間がたっていることを示していた。
「なんだよ、壊れたのか? なにも今日壊れることはないだろ。アイツ時計に呪われてでもいるんじゃないのか、まったく……」
「わっ、わ。ご、ごめんなさい、兄さん。すぐ仕度します」
「ああ、玄関で待ってるよ。遅くなったらおいてくからな」
「は、はい。わかりました!」
慌てて地下の階段を駆け上がる。
兄さんはそう言ったら本当に置いていく人だ。
ご飯なんてもってのほか。汗を流して服を着替えて、髪を梳かして……うう、どう頑張っても時間が足りない。
私はどうしようかと考え、その時計の送り主を少しだけ逆恨みしながら、お風呂場に飛び込んだ。
ごめんなさい、兄さん。きっと遅れることを頭の中だけで謝罪する。
でもだって。
ジャージを着たまま、汗臭いままじゃあ、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
◆◆◆
柳洞寺の奥から光の柱が立ち、それで全てが終わったことを認識する。
ジクリとなくなってしまったはずの左腕が痛むような気がした。
横を見れば、遠坂先輩と衛宮先輩も自分の腕を抑えていた。
「おわったのか?」
「おわったんですね?」
兄さんと同時に声を発する。
それに二人は頷いた。
「……たいしたものだわ。フォローの必要もないみたい」
遠坂先輩が先ほどまでは頑なに振り返ろうとはしなかった、柳洞寺のほうを振り返りながらそういった。
「当たり前だ。セイバーとアーチャーとルビーだぞ、あいつらが失敗するはずがない」
衛宮先輩もそういって後ろを向く。
つられて後ろを振り返る私の目には、完全に沈静化した清浄な空気を宿す柳洞寺があった。
泥は洩れず、完全に消えている。
遠坂先輩は私をちらりと見てから口を開く
「まあ、あとは葛木先生と柳洞寺のフォロー。あー、あと綺礼もいなくなっちゃったから聖堂教会も介入してくるでしょうし、あんな大穴あけたら魔術協会だって黙っていない。これからちょっと休めそうにないわねえ」
遠坂先輩が呟く。それは真理だ。なにごとも日常への回帰には後処理が付きまとう。
「……俺にも手伝えることあるか?」
「私もお手伝いします。先輩」
だが遠坂先輩はその言葉に首を振った。
「あーいいわよ別に。セカンドオーナーは遠坂だし、街への責任は自分で取るわ。イリヤスフィールはどうしましょうね。うちで預かってもいいけど、衛宮君になついていたみたいだし。ああ、いやそもそも森に外工房を構えてるんだっけか……一人ってことはないだろうし、使用人とかか……くっ、なんて贅沢な……ああいやでも金ピカに襲われてるのか……一応見に行ったほうが……」
ブツブツと呟きながら一人でどんどん話を進めていく。
私たちはついて行けない。思考の海に入ってしまった遠坂先輩に苦笑して、衛宮先輩と兄さんと私がその後ろを歩いていく。
その後ろで一緒に歩きながらふと思う。
彼女は決して止まらない。
過去を悔やみながらもその瞳に未来の希望を宿していた彼女のように、彼女もその歩みを止めることはない。
私はずっと貴女を眺めているだけで、自分自身が歩もうとしていなかった。
だけど私はもう大丈夫。
だからほら、私は彼女の背中に思いを飛ばす。
そう、
“これからも、よろしくお願いします”
そんな常套の挨拶を。
◆◆◆
「この愚図っ!」
「ほんっとうにごめんなさい、兄さん」
兄さんと一緒に空港内を駆けていく。
目的は改札手前の大広間。
タクシーが空港前に到着したのは五分ほど前のことで、それから私と兄さんはずっと走りっぱなしだった。
「あれだけ遅れるなって言っただろうが」
兄さんが走りながら怒鳴る。
結局兄さんは私のことを待っていてくれていて、予想通りに時間に遅れた。
「はいっ。ごめんなさい兄さん」
頭を下げる以外にやりようがない。今はもうそれなりに暑い季節。そして兄さんが汗だくなのに、私は魔力で強化した足で、息すら切らせずに兄さんに並んでいる。
「くっそ。何でお前のせいで遅刻して、お前だけ楽してるんだよ……」
「ごめんなさい。あ、そうだ。私が兄さんを抱っこすれば」
もっと早くなりますよ、なんていいそうになって死ぬほどの後悔をした。
兄さんがこちらを向く。
どう考えても口を紡ぐのが遅すぎた。
「――――バカいってないで、さっさといくぞ! このバカ!」
さすがに鈍間という言葉は使わずに、兄さんが不機嫌そうに私に言う。
きっと頭を叩かれなかったのは、ただ兄さんが疲れていたからというだけの理由だろう。
口答えなんてできるわけがない。
ハイ、とだけ答え私は兄さんと一緒に走り続けた。
◆◆◆
その日。
ピンポーンという旧式然としたチャイムの音で、いつものように玄関を開ける。
「ハーイ、桜。ちょっとお邪魔していい?」
「えっ? は、はい」
唐突にそんなことを言われて戸惑ってしまう。だがもちろん私に否応はずがない。
玄関を開けて招き入れる。
「あー、慎二は?」
「兄さんは奥にこもっていますが」
「ああ、そうか。未熟なりに更生したってところね」
そう呟き、次にその手に持った封筒を振ってみせた。
「まあいいわ。桜だけでも。遠坂家当主、冬木のセカンドオーナーとして話があるのよ」
ちょっとこれを見て、とその手に持った封筒から取り出された紙には英語でびっしりと文字が埋まっていた。
「魔術協会からですか? ロードの推薦状…………えっ、時計塔にいかれるんですか!?」
「たぶんね。この間、事後報告って形で向こうに召喚されたじゃない? でさあ、そのとき当たり障りないように報告したら、まあどうもこういうことにね」
「はあー」
話がすごすぎてついていけない。
あのとき処理を全部任せてしまったのはやっぱり申し訳なかったという気持ちが出る。
「いいのよ、桜。で貴女はどうする? 行こうと思えば貴女も向こうにいけるけど」
「えっ?」
「ほら、署名欄。貴女も行こうと思えば時計塔にいけるけど……」
「――――いえ、私は自分の身の程を知ってます。私は未熟な間桐の跡継ぎとしてここを守ることを決めていますから」
「……んっ、そっか。そう言われるんじゃないかなーって気もしてたのよ。ちょっとだけ期待してたんだけど、しょうがないわね」
「はい、ごめんなさい」
頭を下げる。
ついでに、クス、なんて笑い声が上がり、二人して笑いあった。
お互いが笑い合えるのは、幸せのこれ以上ない具現である。
私たちは少しくらいさびしくたって、この先この幸せが崩れないことを信じて笑いあう。
だから当然、間桐邸を後にするときも私たちは笑いあった。
「じゃ、出立の日が決まったら連絡するわ。数年で帰ってこれると思うけど、その間この街のことお願いね」
「はい、イリヤちゃんたちや衛宮先輩、それに兄さんもいますし、大丈夫ですよっ」
安心してください。と大きな声でそういった。
◆◆◆
待合所のようにベンチや売店などが設置してある空港の改札前に、藤村先生が、遅れてくる私たちを探すようにして立っていた。
私たちの姿を捉え、その顔が笑みに変わる。
「おー、桜ちゃん。良かったあ、間に合ったのねえ」
「す、すいません、藤村先生」
「…………はぁ、はぁはぁ……は。ぐぅ――――気持ちわりい……」
「あー間桐くん、大丈夫? だめよー、朝ごはん抜いちゃあ」
「わわ、いえ、ご飯は食べたんですけど、私がちょっと……ああ、ごめんなさい兄さん。ジュース買ってきますか?」
「…………べつにいい。それよりもさっさと行こうぜ」
「そうね。士郎たちは騒がしいからすぐ見つかると思うけど」
藤村先生が真顔でそういう。衛宮先輩たちの意見も聞いてみたかったが、その言葉は正しくもあったので私と兄さんは反論しない。
頷き、藤村先生についていく。
予想通り、いくらもせずに目的の人たちが見つかった。
なんというかたった数人でこれ以上ないくらい目立っている。
そう、つまり。
「…………遅いよなあ、桜たち」
と衛宮先輩が呟いて、
「慎二がなんかバカやったに違いないわね。そうだ、衛宮君。携帯電話だっけ? つかえないの?」
「ああ、俺持ってないんだよ。番号も知らないし。イリヤは持ってたっけ?」
「んー、セラ?」
「はい、僭越ながらお嬢様のためこの国のものを備えておりますが、間桐の人間とはそれほど親しい交流がありませんので」
「つまりなによ。どういう意味?」
「……セラもシンジの番号なんてわからないって意味でしょ。リン、貴女そんなこともわからないの?」
「ま、まあイリヤ。遠坂は携帯使わないらしいし」
フフン、と鼻で笑うイリヤちゃんを先輩が慌ててフォローする。
「――――うっ、うるさいわね。私は主義だかなんだかで持ってない衛宮君と違って携帯電話くらい家に帰れば置いてあるんだからね!」
「――――いや、それ言い訳になってないぞ、遠坂」
「それでは携帯電話の意味がないかと……」
「……逆効果だと、思う」
「セラとリズのいうとおりね。使い魔と念話に頼ればいいなんて前時代的なこと思ってるんじゃないの? いやねー、質量から平然とエネルギーを取り出しているこの時代で、いまだに魔術信仰で凝り固まった魔術師だなんて。――――あーそうだ、シロウも持とうよ。番号教えてあげるね」
「おいおい、イリヤ。同じ家に住んでるだろ?」
「聞きなさいよ! 使えるに決まってるっていってるの!」
憤った叫び声。非常に目立っている。
「…………へえ、そうなのか」
「正直に言えばいいのにシロウ。リンが使ってるところ見たことないわねって」
全部わかってて笑うイリヤちゃん。
「ふっ」
「――――?」
そのやり取りを、鼻で笑うセラさんと首をかしげるリーゼリットさん。
ああなるほど。
こんな集団ならば先ほどの先生の言葉も頷ける。
「おーいみんなー。桜ちゃんと間桐君がきたわよー」
平然とその混沌としたやり取りに割り込む藤村先生。
「あっ、桜。よかった、間に合ったのか」
「はい、遅れてしまって申し訳ありませんでした」
そういって私はそこにいるみんなに頭を下げた。
「遅いわよ、桜」
ごめんなさいと頭を下げる。
ロンドンへ出立するその日。こんな日に遅刻してしまうとは不覚にもほどがあった。
兄さんと一緒にみんなから責められて、それに笑いながらごめんなさいと謝った。
そうして、みんなで笑いあい、少しだけ話をする。
別れを惜しみ、握手を一回。
毎日あっている間柄、話すことはいくらでもあったが、言うべきことはなくなった。
ちょうどよく空港内にアナウンスが流れてくる。
「おっと、そろそろね。行かなくちゃ」
「ええ、そうみたいですね」
だってこれは見送りで。
決してあのときのような別れではないのだから。
だから私に悲しみは存在しない。
「じゃあ、遠坂。達者でな」
「ええ、衛宮君も。それじゃ、みんな、ちょっと行ってくるね」
ニコニコと笑いながらそういって、
衛宮先輩も兄さんも先生もイリヤちゃんたちもそれに答える。
そしてもちろんこの私、間桐桜も大きな声で返事をする。
「はいっ、いってらっしゃい。――――姉さんっ!」
ずっと言いたかったことを、当たり前のように口に出せる幸せをかみ締めながら。
―――――――――――――――――――――
終わりです。
もう何ヶ月ぶりなのかもわからないほどさぼってしまいました。
最初のほうのあとがきで完結させるといった手前、投稿させていただきました。
待っていてくださった方々、本当にもうしわけありませんでした。