「よいな桜」
とお爺様は私に言って、
「はい、わかりました。お爺様」
と私は答えた。
カレイドルビー プロローグ 「魔術師 間桐桜」
私は、暗い地下室でぽつんとたたずんでいた。
寒々しい石の壁に、腐った蟲と獣の臭い。きらびやかなものなど何もなく、生を感じることなど何もなく、ここはただ人の怨念だけが渦巻いている。
床にはいくつかのサークルと、それを埋め尽くす無数の蟲。醜悪な形状をしたその蟲が地下の石版に刻まれる魔法陣を覆っている。
ごそごそと蟲のはいずる音が隙間なく聞こえてくる。ただの蟲ではない。人をむさぼるために作られ、それしか能のない魔虫である。
蟲の名は刻印虫という。
刻印虫はごそごそと私の体にまとわりつこうとする。
私はそれを拒まない。悲鳴を上げるのなんて意味がない。こいつらには耳も目も意思もない。
身体をよじって彼ら落とすなんて無駄に体力を使うだけ。そんなことをしてもこいつらは無限に湧いてくる。
だから私は諦観する。
ぼう、と眺めていると、彼らは抵抗しない生贄の体を這い上がる。
足首からふくらはぎへ。太股からさらに上へと、彼らは彼らのただひとつの本能に従って私の体を蹂躙しようと這い上がる。
滑稽だった。
こいつらはただの蟲だ。
知能も、意思もなく、ただ己の存在意義だけを果たそうと行動する。
知恵も、意識もないくせに、ただ自分の本能を満たすために人を喰う。
そして、彼らのただひとつの拠り所である女を襲うという本能とは、彼らがただそう作られているだけなのだ。
蟲の形を模した出来損ない。
ムシ、ムシ、虫、蟲。虫けら。
忌まわしき刻印虫。
そして、それ以上に滑稽なのは、そいつらのために飼われている自分自身。
ただ蟲に餌として犯されて、ただマキリの修練として贄となり、ただ魔術基盤の形成のためにクズのような虫けらにたかられる。
殺すのなんて簡単だ。
ただ魔術師たる技を見せればいい。この程度の対魔力、シングルカウントであまりある。
だが、それはできないのだ。
こいつらにたかられる。犯される。襲われる。
それが私。
それが日課。
それが修練。
それが魔術師。
それがマキリ。
だから私は逃げられない。私はマキリの魔術師だから。
だから、私はいつものように頭の中に逃げ道を求めるのだった。
思い浮かぶは一人の先輩。
衛宮士郎。
出会うきっかけは兄さんだった。
彼との会合を続けることになるきっかけはお爺様だった。
彼の名前は衛宮士郎。そして、彼も魔術師だった。
蟲に這われる身体を眺め、考える。
ねえ、先輩? 私も実は先輩のように日課をこなしているんですよ。すこしは褒めてくれますか?
先日、私の料理を褒めてくれたように、初めて私の弓を見てくれたときのように。
ええ、わかっているんです。
きっとそれは無理でしょう。あなたはきっと自分の信念以外の考えは許容できない人だから。
それはあまりに不器用で、あまりに間違ったあり方だけど、
とてもとても尊いものだと思います。
だから先輩。あなたはこんな私を知らないままでいてください。
私の兄さん。
間桐慎二。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ゆるしてください、ゆるしてください、ゆるしてください。
頭に浮かぶ、それは私の兄の顔。
私が魔術師だと知られる前はやさしかった。
でもある日、兄さんはそれを知ってしまった。
兄さんは私を怒った。殴った、罵倒した。
でもそれは当たり前のことなんだと納得した。私は兄さんが魔術にあこがれていることを知っていた。マキリの名を持つことを名誉なことだと思っていることを知っていた。
それなのに、私は、兄さんには何も語らず、ひとりでマキリの修練を受け続けていた。
だから裏切り者とののしられても、卑怯者とののしられても当たり前。
だけど、
だけど、兄さん、信じてください。
きっとあなたは信じてはくれないでしょうけど、私はこの汚れた身体をうぬぼれても、兄さんを蔑んでも、魔術師を誇れるものだとも、少しも少しも思ってはいないんです。
この修練に優越感など感じません。この身を尊いものだなんて思い上がりはいいません。
ああ、兄さん、ごめんなさい。
最後、頭に浮かぶは一人の女性。
長い黒髪。澄んだ瞳。活発とした身体と颯爽としたその仕草。
それはほんの“すこしだけ”面識のある先輩の顔である。
魔術師、魔術師魔術師。
ただその目的のために行き続け、ただ根源を目指す異形たち。
それは救いがたい人種だけれど、救いのない生き物だけど、あなたのことだけは信じます。
冬木の魔術師。遠坂の後継者。
きっとそんなあなたは知らないけれど、
間桐桜は、私は魔術師としてここにいます。
穢れた魔術師として生きています。
私は結局こんな道を進んでいるんです。
貴女と同じ道を歩んでいるんです。
そう思い描いて息を吐く。
ピクリと、体が意図せずに震え、終わりを告げる。
時間切れ。
気がつくと蟲が私を覆っていた。
これから先は人間の思考は許されない。
ああ、今日も修練の始まりだ――――