廃棄区画を駆け抜けるクイントの姿は、既にデバイスを展開しておりバリアジャケットを纏っていた。数年前にソルに制作してもらったローラーブーツ型のデバイス『エンガルファー』とリボルバーナックルの後継機『ファイアーホイール』。クイント本人は知らないがこの二つのデバイスは、クイーンやレイジングハートなどといった”背徳の炎”連中が持つデバイスと同じ『神器の機能』を有している。その代わり、近年のデバイスではよく見られるカートリッジシステムが無い。圧縮した魔力を込めたカートリッジをロードすることで瞬時に爆発的な魔力を得るカートリッジシステムは、魔力を補填もしくは魔力総量を底上げすることが可能な反面、急激に増えた魔力を上手い具合にコントロールする必要がある。また、現在では技術進歩のおかげで術者やデバイスへの負荷はそれなりに減ったが、やはり少なからず負荷は存在し、扱い難いという意見は未だにあり、過剰なカートリッジロードは負荷を増大させる危険行為なので、このシステムを使用する上での注意事項はかなり多い。誰でも使える、という訳では無いが術者に要求される適性のようなものはそこまで高くないので、ミッド式や近代・古代ベルカ式問わず割と多くの者に広がっている。それとは違い、『神器の機能』は発動した魔法を増幅させる、という至ってシンプルなものであり、扱いとしてはカートリッジシステムより遥かに簡単だ。おまけに、デバイスや術者に掛かる負荷というのは無いに等しく、使い勝手も抜群。ローリスク、否、ノーリスクでありながらハイリターンを望める、そして更に省エネ仕様という素晴らしい機能だ。しかし、この神器の機能を搭載したデバイスはどういう訳か使い手を選ぶ。使い手に求められる適性、つまり魔導師としての純然たる実力がデバイスに相応しいか否かを。実力を持たぬ者がいくら頑張ってもうんともすんとも言わない、かなり捻くれたデバイスになってしまう。元々この機能のオリジナル、法力を増幅する『神器』を完璧に使いこなせる者がかなり限定されていたのが、神器の機能を持つデバイスが使い手を選ぶ一因であった。神器の使い手になる際、術者に要求される実力は管理局で言う魔導師ランクAAA以上が最低ラインで、更に付け加えれば神器と術者、双方の属性による相性問題をクリアする必要があった。そもそも神器はソルが聖戦初期に対ギア兵器として制作した”アウトレイジ”のポテンシャルを八つに分割することによって初めてどうにかこうにか人間にも扱えるようになった、という代物。むしろ神器を使いこなせる術者の方が人間の中で稀有な存在であり、神器の持ち主は良く言えば『天才』、悪く言えば『化け物』だ。おまけに、神器はそれ自体が世界に八つしか存在せず、複製や量産がされなかった事実はそれが不可能であることを意味し、同時に神器を超える武器が現在でも存在しないことを如実に語っている。で、そんなオリジナルの神器のノウハウを活かして生み出されたデバイスに関して制作者側から言わせれば「普通の人間に使いこなせないのは当たり前」の一言で終わってしまうのはあまりにも馬鹿らしい。それ故に、オリジナルよりも幾分か低いレベルに見積もって制作されたが、如何せん敷居が高過ぎて『普通の魔導師お断り』なのは相変わらず。とは言え、そんな我侭なデバイスを何の支障も無く使っているのは、ひとえに彼女がそれを持つのに相応しい人物であっただけのこと。だが、神器やデバイスに関する難しい話などクイントにはどうでもよかった。そもそも最初から何一つ聞かされぬままソルにもらっただけで、本当に何も知らない。ただ彼女の中ではっきりしていることは、与えられたこの力の使い時が今だということだけ。(……メガーヌ……ゼスト隊長……)胸中を占めるのは亡くしてしまったと思っていた親友と尊敬する上司。今までどうしていたの?なんで、無事だったなら帰ってこないの?どうしてスカリエッティ側に居るの?いくつもの疑問が浮かび上がっては消えていく。とにかく会って話がしたい。事情があるのなら聞かせて欲しい。もし、優秀な管理局員だった二人が管理局を離反しなくてはならない理由があるのなら――(なら、って……もしそうだとしたら、私はどうするの?)もしもの話を考え始めると、分からない。答えが出ない。どうすればいいのだろうか?自分は二人を取り戻したい。けれど、二人の為に全てを投げ出すことは出来ない。大切な家族が自分には居る。ゲンヤが、ギンガが、スバルが居る。自分を含めて全員が管理局員で、管理局の下で働き生活を営んでいる。その根底を覆すことなど、どうして出来ようか。腹の底にもやもやと不快な感じがする、明確に言葉で表すことが出来ない何かを抱えたまま、人っ子一人居ない廃棄区画を進む。辺りは静かだ。音らしい音といえば、エンガルファーが路面を抉るようにして走行する音と、自身が前に進む時にする風切り音のみ。反応らしい反応もまだ無い。ガジェットも現れない。他の場所では既に戦闘が始まっているらしいのだが、まるでクイントだけが知らずの内に誰一人として存在しない世界に放り込まれたかのように。背徳の炎と魔法少女StrikerS Beat23 The Irony Of Chaste PATH A「クイント」「っ!!」それは不意に聞こえた、自身を呼ぶ声。小さな声ではあったが、確かに鼓膜が捉えた空気の振動。忘れる筈もない、親友の声だ。慌てて急停止し、声がした方向に身体を向き直す。そして、彼女はそこに居た。距離にして20メートルあるかないか、ヒビが走る車線の中央に、長い紫の髪を風で遊ばせている妙齢の女性が、昔と何一つ変わらないたおやかな笑みを浮かべて立っていた。「……メガーヌ、なの?」眼を瞠り震えた声で問うクイント。「ええ、幽霊ではないわ。ちゃんと生きてるし、足もある」答えたメガーヌは自分の足を指し示しながらクスクスと笑みを深めた。「あ、あ」涙腺が緩み、溢れ出てくる涙で視界がぼやけてくる。親友が生きていたことが嬉しくて嬉しくて、頬を伝う涙は止まることを知らない。「会い、たかった、もう二度と会えないって、思ってた」今すぐにでも駆け寄って抱き締めたいのに、気持ちに反して身体は上手く動いてくれずフラフラと夢遊病患者のように歩くのが精一杯。あと3メートル、という距離まで近付いて、メガーヌの周囲に四角い魔法陣が彼女を取り囲むように展開され、そこから数機のガジェットが召喚される。「――っ!?」声にならない悲鳴を上げたその時、四肢が紫色のバインドで拘束されてしまう。「メ、メガーヌ!?」どうして彼女がガジェットを召喚し、自分にこんなことをするのか理解出来ない、というより理解したくないクイントの抗議を無視し、メガーヌは嘲笑した。「こんなにあっさり捕まえれるなんて。クイント、あなたってとんだ甘ちゃんね……反吐が出るわ」更に侮蔑の視線を向けられて、クイントはますます困惑する。「でもその表情は良いわ。信じていた者に裏切られたと自覚した、絶望に染まり切った顔。ゾクゾクする」また一つ魔法陣が展開され、今度はガジェットではなく巨大なムカデが召喚された。ギチギチと身体の節々から不快な音を鳴らし、その巨躯をのたくらせてメガーヌの隣に控え、クイントに喰らいつけという命令が下されるのを待つ。「けどね、それじゃ足らないの。私が味わった絶望はその程度じゃないから、あなたにはもっともっと絶望を上げるわ」――例えば眼の前で大切な家族が殺されるとかになったら、どれ程素敵な顔をしてくれるのかしら?そんなことを平気で言うメガーヌの心の声が聞こえた気がして、クイントは大きく眼を見開き、奥歯が砕けんばかりに強く噛み締め、全力でバインドの拘束から逃れようとした。己の迂闊さを呪う。ソルにメガーヌとゼストは洗脳されている可能性があると以前言われたではないか。それを忘れて何も考えず不用意に近付くなど愚の骨頂だ。頭の中で残っていた、もしかしたら、という甘い考えに縋った結果がこれ。もう致命的に遅過ぎるがスイッチを切り替えろ。眼前に居るのはメガーヌであってメガーヌではない。倒すべき敵だ。昔の彼女を取り戻したいのであれば、今の彼女に打ち勝つしかない。「メガーヌ……!!」「無駄よ。いくらあなたの馬鹿力でもガジェットのAMF下でまともな魔力行使が出来る訳無いじゃない。忘れたの? だからこそ私達は『こうなった』んでしょ?」皮肉が胸を貫く。「そうね、そうかもしれない……でも」侮蔑から呆れに変わった眼差しを受け、当時の戦闘機人事件を思い出し、表情を歪めるクイントであったが、「でもねメガーヌ……あなた、一つ思い違いしてるわ」強い意志を灯した瞳で真正面から見つめ返す。「私が、私があの時のままだと思ったら大間違いよっ! ファイアーホイール、エンガルファー!!!」<Right away!>咆哮に応えたファイアーホイールがナックルスピナーを高速回転させ、<ASAP>エンガルファーのローラー部分が唸りを上げた。魔法が増幅されていく。増幅は増幅を呼び、増幅されればされる程魔法は高まり、重なり、積み上げられ、留まることを知らず、更なる増幅を加え、連鎖となって渦巻いていく。そして、クイントは力ずくでバインドを引き千切る。驚いたメガーヌが後方に跳躍し、距離を取りながら巨大ムカデにクイントを攻撃するように命を下す。キシャァァァァァッ、と歓喜の雄叫びにも似た鳴き声と共にムカデがクイントを丸呑みしようとして、「フンッ!!」強烈な右フックをもらって吹っ飛び、その巨体でガードレールや街灯を粉砕してから漸く動きを止め、ピクピクと痙攣した。<<GO GO GO!!!>>真正面から突撃をかます。一番近くに居たガジェットを蹴り飛ばし一撃で粉砕し、そのまま流れる動作で拳を突き出し、振り抜く。「リボルバーシュートッ!!」拳から発生した衝撃波が竜巻となって前方に位置するガジェット全てを紙切れのようにバラバラにし、ただの金属片へと変える。ゆっくりと構え直すクイントをメガーヌが忌々しそうに睨む。「メガーヌ、私はあなたを取り戻すわ」それに対して、クイントは拳を向けて宣言した。「あなただけじゃない。ゼスト隊長も、ルーテシアちゃんも、皆纏めて取り戻してみせる」メガーヌだけに向けられた宣言ではなかった。ゼストとルーテシア、そして何より自分自身に対して向けられた誓いである。「私はあなたが憎いわ、クイント」憎悪が滲み出る声に、クイントは若干視線を下げた。「あなたはあの時、自分一人だけ助かった。私もゼスト隊長も見捨てて、自分だけソル=バッドガイに助けてもらった」「……」「それだけならまだ許せた。でもあなたは、ルーテシアすら助けてくれなかった!! 信じてたのに!! せめてあの娘は助けてくれるって信じてたのに!!」血を吐くようなメガーヌの非難の声は、悲痛な訴えがあるからこそクイントの心に突き刺さる。「……言い訳はしないわ。確かに私はあの時自分だけソルに助けてもらった。ソルも、私一人を助けるだけで精一杯だったみたいだし、結局ルーテシアちゃんも助けることが出来なかった」「だったら――」膨大な魔力が吹き荒れ、大量の四角い魔法陣が展開され、そこからガジェットや召喚虫が姿を現す。レリックウェポンとしての本領を発揮し始めたようだ。「だったら死んで私に詫びて、クイント」「ごめんなさい、それは出来ないわ」下げていた視線を戻し、小さく首を振ると、困ったように笑って言う。「だって、私が死んだら取り戻したことにならないじゃない」「……」互いが互いに睨み合っていると、少し離れた場所から高速でこちらに飛来してくる二つの大きな魔力反応があった。ますます眼つきを厳しくさせるメガーヌとは対照的に、クイントは小さく「来たわね」と呟く。そして、二つの魔力反応それぞれが紫と白の魔力光を従えて、クイントの両隣に降り立ち、名乗る。「”背徳の炎”、烈火の将シグナム、助勢します」「同じく”背徳の炎”、盾の守護獣ザフィーラ、此処に推参」ソルからクイントのフォローを頼まれたシグナムと人間形態のザフィーラ。シグナムは剣を正眼に、ザフィーラは拳を構えて。「私、皆を取り戻す為なら出し惜しみしないわよ」言いながらクイントが浮かべた笑顔は、決意と覚悟を固めたものだった。真下に広がる廃棄区画の街並みは、なんだか見ていて物悲しい気持ちになってくる。かつてはたくさんの人々で賑わった建築群。現在では人々に見捨てられ、本格的に取り壊しが決定されるまで朽ちるのを待つのみ。人が居ない街など、街として死んでいる。眼下に映る光景は人間が繁栄の過程で作り出し、使うだけ使ってそのまま放置した死骸も同然だった。感傷的かつ皮肉なことを考えながら、なのはは疲れたように溜息を吐く。「レイジングハート」抑揚の乏しい口調で愛機の名を呼ぶ。構えたレイジングハートの穂先から発射される桜色の閃光がガジェットの群れを貫き、爆散させる。「次」やはり感情が篭らない低い声で魔槍を操りながら、数えるのも億劫になる程の魔弾を生成し、発射。群がってくるガジェットを一掃した。そんな風にして与えられた仕事を淡々とこなす機械と化していたなのはは、次の掃除の為に此処から一番近い群れを始末しようと前に進もうとして――「あ、れ?」突然、世界が真紅に染め上げられていることに気付き、呆然としてしまう。視界の中は全てが赤だった。上も下も、右も左も、前も後ろも全てが赤。先程まで存在していた筈の朽ちた建築物やガジェットの群れはおろか、空や大地というものすら存在しない。そこには何も無かった。ただひたすらに真紅。まるで血の池に放り込まれ、その中で眼を開けているかのように全てが赤い。いきなり現状が把握出来ない事態に陥って、パニックになりかける頭を鍛え上げた鉄の精神で必死に宥め、深呼吸を一つしてから改めて周囲を見渡す。今の今まで廃棄区画の上空でガジェットの掃除をしていた筈なのに、気が付けばこの真紅の世界に居た。意味が分からないし訳も分からない。「……レイジングハート?」どういうことなのか聞こうと愛機に声を掛け、愕然とする。両手で握っていた筈の槍型デバイスが、そこには無かった。流石にこれには慌てた。何故なら、なのはが戦闘中にレイジングハートを手放すことなどあり得ないし、レイジングハートが自らなのはの傍を離れることなどあり得ないからだ。「どうして!? ど、何処に行っちゃったの!!」慌てて愛機を探そうとして、この時点になって初めて気付く。自身の姿だ。バリアジャケットを纏っていないどころか、いつもの仕事着である黒いスーツですらない。それどころからシャツや下着すら身につけていない。生まれたままの姿、つまり全裸、スッポンポンだった。やけに解放的な感じがすると思ったら……ついでに言えば髪留めのリボンすら無いので、髪も下ろした状態だ。「何これ!!!」現状に対して半ばキレながら叫び、大事な所とかを隠し身を縮めるように屈み込む。一体どうしてこんなことになっているのか分からない。何がどういう経緯でこのような結果が導き出されたのか知りたかった。知らない内に敵の罠に嵌った? 幻術の類か? 考えられる可能性としてはそうだろうが、何か違う気がする。敵の罠にしては違和感があった。この違和感が何なのか理解は出来ないが、なのはは本能的にこれが人為的なものではないと判断する。それは本能的な勘という根拠の無いものであるが、今は勘を信じてみることに決める。混乱する頭を抱えて現状を打破する為に思考に耽っていると、不意に背後で何かの気配が。ゆっくりと振り向いて、再びなのはは驚愕した。視線の先にあるのは、『物』と呼んでいいのか『建築物』と呼んでいいのか判別に困る、二階建ての一軒家に匹敵する、否、それよりも大きい巨大なオブジェ。つい先程、周囲を見渡した時には何も無かったのに、音も無く唐突に現れたそれは威風堂々たる佇まいで、まるでなのはを見下ろしているかのような貫禄さえある。まず目に付くのが一本の柱。それは柱というよりも幅が広くて大きな剣に見える。地面――空も大地も無い此処で地面という表現は間違っているかもしれないが――から天に向かって真っ直ぐ生えた赤い刀身の剣。切っ先が四角くなっており尖っておらず、根元から切っ先まで刃の部分だけが白く鋼の光を鈍く反射していた。柱とも剣ともつかないそれの両脇には、大小様々な歯車が支えるようにそれぞれある。大人の背丈よりも大きな直径を持つ歯車と、人の半分くらいの中くらいの歯車、子どもくらいの小さい歯車、それらが綺麗に左右対称に並びつつ噛み合ってゆっくり回っている。歯車を挟むようにして、ジッポライターのチムニー(インサイドユニットの上部にある防風ガードのこと。片側8個の全部で16の通気口があるやつ)のようなものが二つ備え付けられており、先端が外側、斜め上に向いている。そして、巨大な歯車に挟まれるようにして赤い台座が置かれ、その台座の上に人の形を模した彫刻のようなものが『居た』。爪先から頭まで全身が黒い、ヒトガタ。人の形に似せてあるが、あくまで人の形を模した物だ。しかし、なのははそのヒトガタを見て、何故か胸が締め付けられるような切なさを味わう。ヒトガタは台座の上で両膝をつき、跪いている。両手首は左右の噛み合っている歯車の中心に囚われていて、ヒトガタが腕を動かせないように、逃げ出せないように拘束していた。まるで懺悔するように、許しを乞うかのように項垂れている頭。その格好は、中世ヨーロッパにおけるギロチンが開発される前の、斬首の刑に処される罪人みたいだ。このオブジェが一体何なのか分からない。ただ、危険が無いことだけは容易に察することが出来た。これも本能的にそう理解しただけなので、根拠なんて何一つ無い。だが確信は出来る。危険は絶対に無い、と。「……」緊張しながらゴクリと生唾を飲み込んで、恐る恐る歩み寄る。何だろう、この感覚は?眼の前のヒトガタに無性に惹きつけられる。相変わらずこれが何なのか、何の為に、どうしてこんな場所に存在しているのか分からないが、さながら闇の中の誘蛾灯の如き吸引力を以ってなのはを魅了した。次第に胸の奥が、否、全身が熱くなってくる。ドクンと一際大きく心臓が跳ねた。これに触れたい、という湧き上がってきた衝動は本能的なもので、それは理性を失いかねない程の強さがあり、だからこそ彼女は足を動かす。あっ、となのははそこで気付く。自分はこの感覚を知っている、覚えがある、と。普段の生活の中で何度か体験したことがあった筈だ。いつ、何の時だっただろうか? 熱に浮かされた頭は上手く記憶を引っ張り出してくれない。既に思考が妙な感覚の所為で鈍磨していたので、思い出せないなぁとぼんやりしながら更にヒトガタに近付いた。台座の前に到着し、ヒトガタの頭に触れようとゆっくり手を伸ばし――「っ!?」視界が一瞬にして元の世界へと戻った。青い空の中に佇むように浮かぶ自分。眼下に広がる廃棄区画、上空の白い雲、視界の奥の方からこちらに向かってくるガジェットの群れ。手にはレイジングハート。身体は白を基調としたバリアジャケットを纏っていた。自身の周囲には桜色のスフィアがいくつも浮かび、術者の命令を今か今かと待ちわびている。あの真紅の世界も、謎のヒトガタとオブジェも無い。まるで初めからそんなものなど存在しなかったとでも言うように。今眼にした光景は、幻覚だったのか?白昼夢のように朧気でありながら、なのはには先程のアレが幻の類だとは到底思えなかった。「レイジングハート」<はい?>「私、今、意識飛んでた」<突然何を言い出すんですか?>魔弾を操りながら事情を説明すると、レイジングハートがあからさまに呆れたような口調で返す。<寝言は寝てからにしてください。今は仕事中なんですよ>「酷いよレイジングハート!! こっちは真面目に話してるのに!!」<真面目と言われても……気が付けば真っ赤な世界でスッポンポン、変てこりんな謎のオブジェを見て興奮する幻覚など、それは最早立派な病気です。シャマルに診てもらいますよ?>「……くっ」愛機の言うことはもっともで、これ以上無い正論だった。反論出来ない。なのはだって、例えばの話フェイトとかがこんなことを急に言い始めたらシャマルに頭を診てもらうように勧めるだろう。<マスター、悪いことは言いません、今日のこれが片付いたら暫くの間は仕事も訓練も休んでゆっくりしましょう。その間に健康診断なり精密検査なり受けて、異常が見当たらなければソル様とお二人だけで旅行にでも行ってください。そうすればきっと疲れなど次元の彼方へと吹っ飛んで、今のような妄言などしなくなります>すっかり病人扱いだ。少し腹が立ったので無言のままデバイスコアに拳骨を振り下ろした。<いつの頃からでしょう……マスターの私に対する扱いがソル様と同じになってきたのは……>何やら悲しげに感慨に耽るレイジングハートの言葉を聞き流し、溜息を吐いてからもう一度確認するように首を巡らして、今自分が『居る』世界を見渡す。やはり異常は無い。昼間でも肉眼で近くの惑星を確認することが可能なミッドチルダの空だ。青い空は何処までも続き、その中を白い雲と輝く太陽がアクセントを加えている。本当に何だったのだろうか、あの真紅の世界と、謎のオブジェと黒いヒトガタは?幻覚にしては妙に気になる。夢だ幻だ疲れてるんだと切って捨て置けないが、一応レイジングハートが言うように精密検査を受けてから休暇でも取ろうか。そんな風に考えていると、身を刺すような殺気と敵意を感じたので反射的に身構えた。高速でこちらに向かってくるそれを、なのはは知っている。この時点で彼女は頭の中から先程の白昼夢を思考の片隅に追いやった。「私を覚えているか、高町なのは?」真正面に位置取る形で急停止したそいつは、開口一番にそう言って明確な殺意を飛ばしてきた。「……戦闘機人のNO,3、トーレ」面倒臭い奴が出てきた、と言わんばかりになのはは舌打ちをし、槍の穂先を彼女へと向ける。「今度は負けん。貴様に勝つ」「鬱陶しい」リベンジを誓う眼差しを受け、付き合いきれないと思いながら吐き捨てるなのはは、そこで初めてトーレの右腕に気付く。以前のアグスタでの戦闘で、スターライトブレイカーを回避する為に自ら切断した筈の右腕が存在していた。黒い包帯で指先から肘まで覆い尽くすように。相手は戦闘機人だ。肉体の一部を機械部品と同じ感覚で交換出来るのだろう。大方、新しい腕でも作ってくっ付けたに違いない。そう思っていた。この瞬間までは。「私は力を手に入れた。貴様ら”背徳の炎”を倒す為に」言って、トーレは右腕を覆っている黒い包帯を引き千切るようにして外す。そこに存在していたのは、青く着色した蝋のような右腕だった。いや、それは最早蝋で構成された腕というか、腕の形をした蝋を無理やりくっ付けたかのようなもので、見ていて眉を顰めざるを得ない代物である。「何、それ?」てっきりマシンアームのようなものが出てくると予想していただけに、若干戸惑いながら訝しげに問う破目に。「貴様がよく知っている筈のものだ」ククク、と喉を鳴らすトーレが力を解放したのか、右腕が青色に淡く輝き始めた。そしてトーレが言う通り、確かにその力の波動はなのはが知っているものだった。だが、同時に外れて欲しいものであったのは事実だ。「この感覚……まさか!?」<ジェエルシード!? まさかソル様が仰っていたように、本当にジュエルシードを身体に移植する輩が存在していただなんて!!>眼を剥くなのはに、なんて愚かなと咎めるようなレイジングハート。「さあ、起動しろジュエルシード!! 私の『願い』を叶えてみせろ!! 高町なのはを倒す為の力を私に寄越せ!!!」振りかざした拳、否、右腕全体が輝き美しい光を周囲に放つ。それに合わせて空間それ自体が振動する、青い石の力が世界に自身の存在を主張するように大きく膨れ上がっていく。……どうやらある程度のレベルまでジュエルシードを己の制御下に置いているらしい。頭の冷静な部分で厄介だと考えながらも、なのはは心の別の部分では全く別のことを考えている。ジュエルシードを我が物顔で見せびらかすように高笑いしているトーレを、どうやって粉微塵にしてやろうか、と。なのはにとって、あの青い石は全ての始まりであり、切欠だった。ユーノと出会い、レイジングハートを手にし、ソルが法力使いであると知り、フェイトとぶつかり合った、今の自分を構成している原初に当たるであろう存在だ。それを、眼の前の戦闘機人が、新しいオモチャを与えられてはしゃぐ子どものような態度で自慢げに振るっている。大切な思い出を酷く穢されたような気分を味わう。不快だ、胸糞悪い、腸が煮えくり返ってくる、今すぐにでも眼の前で勘違いしている馬鹿を消し炭に変えてしまいたい。その青い石は誰かが手にしていい物じゃない。眼の前のこいつがジュエルシードを持っているのは間違っている。所有権の有無など関係無く、あの青い石は『誰のものでもない』のだから。故に、トーレのことが許せない。許せないからこそ、全力で、「潰す……!!」トーレを倒し、ジュエルシードを回収する。いや、しなければならない。深く静かにキレながら、なのははトーレを破壊することに思考を費やす。必ず再起不能にしてやると心に決めて。