防疫08部隊の出向任務から帰ってきたヴィータが一番にしたことといえば、シャワーを浴びて、熱いバスタブに身を沈めることだった。
これから、先にクラナガンへ帰ったソラと待ち合わせて、その後には『海上プラントでの一件』を労う会食がある。だというのに、体に染み着いた戦場の臭いが嫌だったのだ。
頭の後ろで纏めていた腰にまで届きそうな赤毛を解き、息を止めて湯船に頭を沈めた。髪に臭いが移っていそうな気がしたからだ。そして息の続く限りキラキラと揺らめくバスタブの水面と揺れる自らの髪を眺めた後で息が続かなくなり、乱暴に立ち上がった。
赤い髪が張り付いた体は、幼く小さいネバーランドの体で、ヴィータはため息をついてしまった。
千年くらい前に、あのゲヘナみたいな場所で戦ったときも小さな体だった。五百年前も、百年前も、二十二年前も、十一年前も、この小さな体であのゲヘナ(地獄)を戦っていた。違うのは心。私の中に心があり、私の外にも心が溢れているということ。
ヴィータは思う。心のおかげで強くなった。しかし疲れやすくもなったと。ヴィータは心を抱えていた。
「あたしって、大きくなってたんだな」
大人になるということ。力が強くなり、しかし子供のように延々と遊ぶことが疲れるということ。強くなり、疲れやすくなる。それを大人の定義とするならば、ヴィータは確実に大人だった。
バスルームに張り付けられた、大きな鏡。その中でひねくれた笑みを浮かべた自分を見る。
「おとなみたいな、こどもめ」
どうせなら両方の良い所取りになってやると意気込み、怒りにも似た空元気でカーテンを引いた。そして身支度を整え、防疫08部隊からあてがわれた部屋から出て、一直線にクラナガン行きの転送ポートへと向かったのだった。
†
航空12部隊の部隊長室、市蔵ソラは車椅子に座って、上司である八神はやて部隊長と話していた。辺境世界での防疫08部隊の浄化任務についての話だった。
疫病で街が一つ死んでいたこと。それをリコリスと名乗った、白いカラスのような魔女が焼き払ったこと。ベルカ史以前の魔術言語を使った、見事な広域空間魔法だったこと。炎が消えた後、何も残らなかったこと。シャマルとザフィーラは、もうしばらく08部隊でデーターを纏めるということなど、訥々と語った。それは事前に提出していた書類と全く同じ内容だった。
「で、大体のことはわかったんけれども」とはやてが言う。そして書類をたたみ、『防疫08部隊の内偵調査』と走り書かれたノートを鍵付きの引き出しから取り出して「本命のほうはどうだったん?」
「それはもう、真っ黒です」とソラ。脊髄と融合しているイカルス・デバイスの補助で、灰色の脳細胞の海馬から記憶を引っ張り出しながら説明を始める。
「『海上プラント』での証拠隠滅は防疫08部隊の仕業です。純銀弾狙撃で死んだゲオルグ・テレマンからの極秘任務として、海上プラントの人間工場で作られていたものを跡形もなく消すように命令されています」
「消されたのはテレーゼを"タカ"にした技術か?」
「ええ。あとはそれらが管理局から流出した、ジェイル・スカリエッティ系の技術であるということ。あとは特定の病原体に対して共生関係のある"素体"の処理です」
「素体?」
「一種の細菌兵器です。人間そっくりの自動人形に、細菌を仕込んでおくんです。これを焼却処理したのも、例の『リコリスの魔女』みたいですね」
はやては「うわぁ、真っ黒」と頭を抱える。
「ちなみにリコリスの魔女や、その他の前線部隊の正体は極秘扱い。多分、弔わずに遺体を焼き払うことに対する倫理上の問題や遺族の復讐を恐れてでしょう」
至極、淡々と。ソラは語っていく。『海上プラント』で負った怪我が治りきらない内の出向任務。表向きは直接戦力を持たない防疫08部隊を護衛するために。裏の理由は、ガードの固い防疫08部隊の正体を暴くための内偵。実は彼女自身が志願したものでもある。
「にしても、まさか市蔵がたった一週間でこれだけの情報を集めるとは」
「私は目が良いんです。それでもって読唇術も使えます」冗談っぽく肩を竦めてみる。無骨なフレームの車椅子と相まって、小さな体が余計に小さく見えた。
「読唇術なんて、どこで覚えたん」
「歌ですよ。オペラ歌手は鏡を見ながら姿勢や口の形を確認するんです。いまでは偵察任務か飛行任務なんてしていますけど、管理局には音楽隊志望での入局でしたから」
本当か嘘かはわからない。まさか読唇術と観測手の目をつかった盗聴だけで内偵が出来る訳もなく、つまりソラは地上でさえ優秀な観測兵だった。
「では、これから私用があるので失礼します」
車椅子を器用に回転させて、回れ右。扉を出ていこうとしたとき。
「ちょいまち。最後に個人的な質問があるから」
クルリとソラがはやてに向き合うと、いつになく真剣な瞳が二つ。
「あの地獄の上を飛んで、どんな気持ちになった?」
「怪我人の上を飛ぶよりは楽でした。死体は助けを求めませんから。私は鳥で、空の上から眺めることしか出来ないんです」
平然と、淡々と。
しかしはやては見ていた。ソラの手が義足の付け根をひっ掻くのを。どこかの世界の知らない海に落としてきてしまった両足。両足を凍傷で失い、仲間を失った。穏やかな、無意識の激情。過去からやってくる、凍傷の痒みだった。
「失礼します」とソラは扉からでる。そしてカラカラと車椅子の車輪を回転させた。
廊下の途中、鏡に映った自分の顔を見てソラは呟く。「辛気くさい顔」。
確かに今回の仕事はハードだった。幾千の死体を見つめて、スパイの真似事までして。人間の汚い場所を見つめる仕事だった。それでも。
「笑えよ。私」
鏡に向かって無理やり笑った。多少ひきつってはいたが、次第点ということにしておいた。
これからテレーゼやヴィータ先輩に会わなければいけない。悲しい顔なんて見せられるか。そんな無理矢理の笑みだった。
†
結果から言ってしまえば、病室の、ベッドの上のテレーゼを一目見た途端に、ソラの無理矢理の笑みは簡単に剥がれ去ってしまった。ヴィータが言うには「涙を流さずに、泣いてたよ」ということらしい。
テレーゼはソラにとって大切な上司で、姉みたいな人だった。飛び方を教えてくれた。命を助けてくれた。そんな大切で愛しい人だった。
そのテレーゼが羽をもがれ、記憶を失い、病院のベッドで「飛べないの」と泣いている。仮面はボロボロと剥がれ落ち、それはどうしようもない悲しみだった。
テレーゼとの面会が終わり病室から出ると、出向任務を終えたヴィータが待っていた。そして「涙を流さずに、泣いてたよ」と言った。
ヴィータはソラを強く、強く、抱きしめてくれた。その軽く柔らかな重さが心地よくて、ソラは嬉しくて死んでしまいそうだった。重たいということを、生まれて初めてポジティブに感じ取れた一瞬である。
「"軽くあれ"だ。あたしが背負ってやるよ」とヴィータが言う。
「私が背負います。これは私の悲しみです」とソラが言う。
ソラは自分が何を背負ったのか、よく分かっていなかった。それでも、ヴィータが笑っていたので、それは良いものなんだと直感的に理解した。
"軽くあれ"。小さな体で、色んな物を捨て続けたソラ。
"背負わなくちゃいけない"。小さな体で、色んな物を背負い続けたヴィータ。
二人はよく似ていて、しかし逆さまだった。まるで鏡の中の『私』だった。
†
「今度、この航空12部隊に教導に来るエース・オブ・エース。高町なのは教導官でしたっけ。どんな方なんですか?」
そう問うたのは市蔵ソラだった。八神はやての『ギガうまギガ盛り日本式中辛カレー(命名ヴィータ)』を二皿目を平らげたときの質問だった。
「誰もが認める無敵のエース、だな」
そう答えたのはヴィータ。八神はやての『故郷の、地球の味がするよ、このカレー(市蔵ソラ談)』を三回ほど平らげたあとの回答だった。盛大なゲップ。はしたないと、ソラが笑う。
ヴィータの手には本日数本目の缶ビール。「なんだか軽い味がするな。どこの世界製だ?」
ソラの手にはバードランド分隊の同僚からくすねてきたウィスキー。「バニラみたいにいい匂いのくせに、味と酔いは凶悪です」
二人の顔はほんのりと赤く、つまりは酔っぱらっているということ。ここは深夜の航空12部隊の食堂、八神部隊長主催による『お疲れさま会』が開かれている最中だった。
ヴィータはビールを飲み干し、空き缶をパキパキと凹ませ弄び、高町なのはのことをソラに聞かせる。
「はじめに出会った頃は、敵だった。あたしが悪役で、あいつが正義の味方でな。でも、最後は一緒に協力し会ってな。あいつがまだ、あたしの背とあんまし変わらなかった頃の話だ。まったく、懐かしい話だよ」
「悪役な先輩ですか。なんで最初から今みたいに正義の味方じゃなかったんですか」興味津々といった様子のソラ。
「ばーか。悪役にも色々あるんだよ」ニヤリと笑ってビールで口を潤す。
「色々って?」
「例えばだな。あたしが悪役になることで、あたしの大切な人の命を助けることができるんなら。喜んで悪役の名前を背負ってやる」
「"私たちは背負わなくてはいけない"。先輩らしい考えですね」
ソラは思う。あんな軽くて小さいヴィータの体のいったいどこに、すべてを背負い飛んでいける動力源があるのか。
「そう言うお前ならどうするんだ?」
突然の質問。ソラは考え込む。思い出されるのは、今までこなしてきた様々な偵察任務や観測任務。誰かの命の関わる任務は、羽が重たく軋んだこと。誰かが死んでいく上を飛んだときなんか、「助けてあげたい!」という想いが重力のように体を地面へと引っ張ったこと。重力なんだと思った。だから軽くなった。身も心も。
「助けたいと思えるような人をつくらないことです。大切な命は重たいんですから。大切な人がいなければ、いつまでも軽くて飛んでいられます。"軽くあれ"、ですよ」
それがソラの出した結論だった。私は空を飛び続ける。そして地面の様子を見つめ続ける。空と地面は、けして触れ合うことのない鏡の中みたいな世界なんだと割り切ることにした。
もしかしたら、空の上で私にそっくりな誰かを見るかもしれない。でもそれは鏡(シュピーゲル)の中の幻なんだ。重力も、憐れみも、可哀想だという感情移入も。すべては幻なんだと。
「あたしは大切な人じゃないのか?」とヴィータ。少しだけ機嫌が悪そうに、青い瞳の目を細めた。
ソラはカラリと手にしたグラスを傾けて、いい匂いがして綺麗な癖に、とてつもなく頭がぼうっとするようなウィスキーを口に含んだ。そして、これから喋ることを「未成年の馬鹿が飲んだ酒のせい」で、ごまかせれるようにしておいた。
「大切に決まっているじゃないですか。先輩たちには、人生感狂わされっぱなしです。まったく。でも、」
「でも?」
「一番の問題は、"私たちは背負わなくてはいけない"と思い始めている私自身なんでしょうね」
"軽くあれ"と願う私が空にいて、"私たちは背負わなくてはいけない"と思う私が地上にいて。二人の私が鏡合わせに向かい合っているのをソラは感じた。頭蓋骨の中の空想、上空から見下ろした地上のソラの瞳は青い空が映り込んだ青い瞳で、ヴィータの姿によく似ていた。
ねえ、先輩。私たちって似ていると思いません?そう言いかけて、しかし口を噤むソラ。勝手にヴィータのことを理解している気になって自己投影をし始めた、自らの思考回路を忌々しく思ったからだった。
オナニーだ。
私はヴィータのことを知っているのかもしれない。でもきっと、殆どなにも知ってはいないのだろう。『良い情報は、大概の場合役に立たない物である。本当に必要なのは悪い情報だ』。偵察兵の悲観論。ソラは生まれもっての偵察兵で、悲観論主義者でもあった。
「話がそれてしまいました。エース・オブ・エースの話に戻りましょう」全ては酔っぱらっていたせいですと、そんなニュアンスを込めた苦笑いで。
「そうだな」とヴィータは言った。そして。
「あいつはな、お前に似ているよ」二枚目の鏡(シュピーゲル)の出現。
「エース・オブ・エースと私、が?」と、ソラは思わず聞き返してしまう。
「そうさ。いちど飛んでいってしまうと、地面のことなんて忘れてしまうところや、妙に大人びてる考え方や。その癖、地面に大切なものを置きっぱなしのところや、大人っぽいんじゃなくて、実はただの言い訳、理論武装なんだってことや。うん。そっくり」
こくこくと、頭を上下させて頷くヴィータ。相当酔いが回っているらしく、ぼんやりとした表情や目にかかった前髪が幼く見えた。
「十年前のなのはの奴が、もう少し年相応の子供だったら。それか、根っからの大人だったなら。あたしも子供のままで満足だったのにな」
爪先立ちの背伸びでフラフラと星を捕まえようとする、危なっかしい高町なのは。彼女を支えるために、子供の体のままで大人になることを決めたヴィータ。
「なあ、ソラ。あたしは死ぬまでずっと、子供の体のままなんだ。なのはも、お前も、あたしを置いて大きくなっちまう。これって良いことなのか?それとも悪いこと?」
ソラは考えて、考えて、でもなにも思いつかなくて。
「きっと良いことです。死ぬまで飛んでいられるじゃないですか」
口に出たのは、自らの「ずっと飛んでいたい」という願望だった。やっぱり私は、彼女のことを知らない。
「そうだな。良いことだよな」とヴィータが笑う。
「ええ、きっと。あと百年たったら、百年後の空のことを私に教えにきてください」
「どこに教えにいけばいいんだ?」
「成層圏あたり?天国はきっと、そこにあります」
「成層圏も空だろう。教える意味なんてないじゃんか」
二人は笑った。そしてお互いの酒をぶつけ、百年後の自分たちと百年後の空に乾杯をした。
長い夜は、まだ続いていた。