「名前はスイユ、ファミリーネームは無し。ただし戸籍上は"白"を意味するパイって名字を使っています。このスイユって名前も、自分であとから付けたみたいですね。名無しのスイユで、パイ・スイユ。聞き慣れない響きの名前です」
端末のディスプレイを眺めながら、ティアナ・ランスターは言った。
フェイト・T・ハラオウンはパイ・スイユと口の中で復唱し「中国の人かな」と呟いた。
「年齢は29歳。三十路手前なオジサンの癖に、綺麗な顔ですよね」
ディスプレイに映し出される、粒子の荒い画像。監視カメラの映像だった。細身で三つボタンのダークスーツとフィッシュテールコート、そして鳥撃帽。ハードボイルドの探偵みたいな格好で、彼の人形めいた顔には酷く似合っていなかった。
「14歳で入局。入局前の出身世界で猟師、つまりは銃を扱っていた経験から、特殊火器猟兵集団に配属。魔法文明のない管理外世界での、荒事で大活躍。でも、二年前に管理局を希望退職。以降は行方知れず。ちなみに特殊火器猟兵集団では狙撃手のポジションだったそうです。それにしても、噂だと思ってましたよ。管理局に質量兵器を扱う部門があっただなんて」
「魔法は管理外世界だと表立って使えないからね。それに局員にはデバイスの代わりに拳銃を持ち歩く人もいるし。勿論、登録はいるけれど」
「さらば、非殺傷魔法至上主義。こんにちは銃社会」
「そうならないためにも、私たち魔導士が頑張らないとね。それで、スイユの入局前の情報については?ネゴシエーターとプロファイラーが情報を待ってるって」
「それが、」と急に言いどもるティアナ。
「パイ・スイユ、彼には十二歳より前の過去がないんです」
そしてディスプレイに映し出される、スイユの管理局時代のプロフィール。ティアナはそれの、出身世界の欄を指差した。
「第47観測外世界。現在で言うところの虚数空間航路AM175。つまり次元震に沈んで滅びた世界の出身です」
†
テレーゼは雲の上で、幼い声で言った。
〈すいゆは、かえるばしょってあるの?〉
スイユは公園のベンチで、テレーゼが飛んでいるであろう雲に向かって言った。
〈どうだろうな。僕の産まれた世界は滅びてしまったし、二番目のホームだった管理局も今では敵だし〉
〈すいゆのせかい、なくなっちゃったの?〉
〈ああ。空が落ちてきたんだ。それでみんな死んでしまった〉
空に向かって念話を飛ばす男と、地上に向かって念話を飛ばす鳥。高低差5000メートルオーバーの歪な会話であったが、しかしテレーゼとスイユにとってはそれが普通だった。
〈みんなしんだの?とりも?〉
〈空が落ちたんだ。鳥は一番最初に死んだ。人間は一番最後さ〉
〈こわい〉
心底怯えた様子のテレーゼに「ここの空はまだ落ちない。怖くないよ」慰めるようにスイユは言った。二人は同い年であったが、まるで父と娘みたいだった。
テレーゼの脳は退行していた。
航空64部隊実験小隊の墜落事故。その時、脊髄と融合していた飛行制御デバイスは墜落時に損傷した脳の欠損部分を補おうとして、脳の一部までに食い込んでいた。そして、失われたテレーゼの脳の一部の機能を代行していた。しかし、本来の飛行制御とかけ離れた感情や情緒機能の代行は、デバイスに負担をかけ、劣化させていく。その劣化と共に、テレーゼの精神年齢は下がっていった。
そして、それは最近になって特に顕著だった。
スイユが架空の組織を語って"人間工場"の海上プラントに潜り込んだとき、まだテレーゼの心は彼と同い年だった。しかし、時がたつにつれて彼女の精神年齢は下がっていき、二人が管理局の急襲に紛れて"人間工場"を逃げ出したときには、テレーゼはスイユの妹になっていた。そして、今では父と娘。時間は巻き戻り、刻限は近づいていた。
〈かえるばしょもないのに、たたかって。つかれないの?〉
〈疲れるさ〉
〈なら、なんでたたかうの?〉
〈地面だよ。君が地面で休めるようにするためだ〉
〈じめん?〉
〈地面で寝ないと、鳥は疲れて墜ちてしまうらしい。友達の教導官、エース・オブ・エースが言っていたんだ〉
管理局でできた数少ない友人のことを思い出し、スイユは言った。彼がまだ局に勤めていた頃、エース・オブ・エースはスイユに言った。「小さな赤い騎士が言ったの。お前は地面を知らない鳥だった。だから、墜ちたんだってね」。全くその通りだった。昔のテレーゼは地面を知らないが故に墜ちた。そして今のテレーゼも、敵だらけの地面に降りることが出来ずに力尽きようとしていた。
スイユは、テレーゼに安全な地面を与えるために戦っていた。管理局を去り、銃を手に取り、テレーゼの着陸を邪魔する敵を撃って回った。そして、テレーゼの着陸を助けてくれる味方を探して回った。
敵の名前は、ゲオルグ・テレマン提督と実験小隊の亡霊達。
味方の名前は、エース・オブ・エースが誇らしげに語った友の名前、八神はやてとフェイト・テスタロッサ・ハラオウン。
着陸を邪魔する敵は、もう居ない。あとは味方にテレーゼを引き渡し保護してもらえばタッチダウンは完了。テレーゼは被害者であり証人だ。航空12部隊と執務官二人、彼女たちなら安心して任せられる。スイユはそう感じていた。
「あとは取り引きまでに"間に合うか"か」
雲の上のテレーゼには聞こえないであろう、地声の呟き。"間に合うか"。テレーゼは退行していっている。それは彼女の脳機能を代行するデバイスが壊れつつあるということだった。完全に壊れる前に管理局がテレーゼを受け入れ、治療をすること。そうしなければ、どうなるかわからない。テレーゼはテレーゼでなくなって、完全な"タカ"に生まれ変わってしまうのかもしれない。あるいは死。スイユには、どちらも受け入れられそうになかった。
苦悩と悲しみ。その表情を、テレーゼは雲の切れ目から確認する。元観測部隊の優秀な目だった。
〈すいゆ。かなしまないで。わたしはいっぱいころした。しんでとうぜんなの〉
〈当然なもんか。殺させたのは"タカ"の、デバイスの防衛プログラムだろ。君自身は誰も殺しちゃいない〉
〈それでも、わたしが"たか"にかってたら、かもめたちも、まほうつかいさんたちも、うたごえのきれいな"あのこ"もおちてなかった〉
"タカ"、デバイスの防衛プログラム。それはテレーゼにとって恐ろしい怪物だった。生きることと、飛ぶことと、それだけしか持っていない疑似人格プログラム。デバイスがテレーゼの感情を代行しているうちに手に入れた、デバイス自身の人格だった。
〈君は今まで"タカ"を押さえ込んできたんだ。十分偉いよ〉
〈わたし、えらいの?〉
〈偉いさ。だから、死んで当然だなんて言うな。テレーゼは生きるんだ。救われるんだ。これから楽しいことがたくさん待ってるんだ〉
〈てれーぜ、たのしいことはすき。みんなといっしょにとぶんだ。かもめさんや、まほうつかいさんや、うたのきれいな"あのこ"と〉
未来を楽しみにする、子供のようなテレーゼの声。スイユが空を見上げると、雲の切れ目にV字を描いて飛ぶ群鳥の姿が見えた。
守るべき者。スイユはテレーゼの未来を抱えていた。
唐突に、スイユのスーツのポケットで携帯端末の着信を告げるバイブレーション。彼は携帯端末を手に取ると、通話ボタンを押した。
「スイユだ」
「フェイト・テスタロッサ・ハラオウンです。司法取引の準備が整いました」
「ああ。取引の場所は"人間工場"、海上プラントだ。僕はそこにいる。時間はそちらの都合に任せる。一秒でも早く、取り引きを始めたい。"時間がないんだ"」
「わかりました。では、後程伺います」
着られる着信。簡潔で短い応答。お互いに逆探知を恐れての、短い通話だった。
スイユは立ち上がった。そして地面に置いていたバリトン・サックスのトラッドケースを肩に担ぐ。小柄な女性なら軽く収まってしまいそうな巨大な楽器ケース、それが彼のスナイパー・ウェポン・システム。そこに納められた黒塗りのライフル銃と百発余りの純銀弾、それが彼の唯一の牙だった。
歩き出すスイユ。彼に向かってテレーゼは言う。
〈どこへいくの?〉
〈君を救う人達に会いに行ってくるんだ〉
そう言って空を仰いだ。雲は低く千切れ飛び、遠くから灰色の雲が迫っていた。
嵐が来る。
希望と不安を抱きつつ、スイユは約束の場所へと足を進めたのだった。
†
あらしがくる。テレーゼは夜闇を飛びながら、そう思った。
彼女は白い翼で群青の雲の上を滑空し、白塗りの人造の鳥、カモメ達を引き連れて空を飛んでいた。テレーゼとカモメ達は長い羽で風を切り更なる揚力をえると、航空力学の神秘を糧に更なる"限界高度"へと目指していった。
"限界高度"への挑戦、それはテレーゼとカモメ達に共通する本能だった。飛ぶために作られた。飛ぶために自らを作った。そして今も作り続けている。互いの脳を念話でリンクさせ、お互いの飛行制御プログラムを交換しあい、少しでも高く飛ぼうとした。
飛ぶごとに大気は冷たさを増した。空気は薄くなり、揚力の加護が受けられなくなった。尾羽で魔力を燃やし、それをもって体を温める熱と羽を押し上げる推進力とした。そして到来する"限界高度"、地上10000メートルオーバー、対流圏界面と呼ばれる対流圏の執着だった。テレーゼが冷たく吹き荒ぶ風に身を震わせ天を仰ぐと、"限界高度"のさらに向こう、成層圏の静かな空が広がっていた。空に向かって落下してしまいそうな恐怖、それほどまでに成層圏は澄んでいた。
不意に吹いた強い風に翼がギシギシと軋んだ。頭蓋骨の裏側で〈おい、俺に代われよ〉と"タカ"が言った。〈嵐が来るんだ。感情なんて背負ってたら飛べねえぞ。"軽くあれ"だ〉そう、何度も脅してきた。
〈いやだ。あなたはだれもせおわない。かもめたちや、いとしいあのひとをおいていく〉
雲の上を飛びながら、テレーゼはそう念じた。
"タカ"は言う。
〈でもお前、もう限界だろ?言ってたじゃないか。「さびしくて、さびしくて、こころがからっぽなのに。"まだ、からだがおもたいんだ"」。つまり、お前はこれ以上軽くなれないんだ。俺に代われ。そうしたらもっと軽くなってやる。仲間だって沢山呼んでやる。お前は軽い軽い、鳥の王様になるんだ。寂しくなんてなくなるんだ〉
〈すいゆは?あのひとは、じめんをくれるっていっていた。とりは、じめんでやすまないといけないんだって〉
〈地面なんていらないくらいに軽くなるんだ。素敵だろ。〉
"限界高度"の過酷さにで軋む翼。"軽くあれ"、何度も何度も"タカ"はテレーゼに囁いた。
〈今は待とう〉
頭蓋骨の中で"タカ"がニヤリと笑った。そして。
〈でもだ、きっとお前は俺を呼ぶ。予言だ。お前は俺の軽い体を欲する。そして俺に全てを委ねる〉
それだけ言うと、途端に静かに黙り込んでしまった。
テレーゼは怖くなってしまった。そして無性にスイユに会いたいと願ってしまった。
カモメ達にテレーゼは命じる。〈おりるよ〉。厚い雲の海の上で、一斉に羽を畳む鳥達の軍団。群鳥は偉大なる万有引力に引かれて、降下を開始した。そしてスイユがいるであろう"人間工場"、海上プラントに向かって帰巣本能を頼りに飛んでいったのだった。