「――金ぴか!?」
22/王聖。
「主はやて!?」
シグナムは即座に異変に気づいた。
完全に掌握した魔術師の体を使って話していた八神はやてが、彼女らヴォルケンリッターの主である彼女が――制御を奪い返されている。
それは瞬間的なものであったかもしれない。だが、決してあり得ないはずのことだった。
どれほどに精神力が強大な存在であろうと、絶対幸福空間に囚われた魂はいずれ『堕ち』る。
人は痛みにも耐えられる、苦しみも乗り越えられる。だが、幸福には抗し得ない。例えそれが罠であると知っていても、破滅が待つと解っていても、至福ともいえる気持ちよさの中に包まれては、選択するという意志もなくそれに埋没してしまうのが必然。それを奪われるくらいならば、そこに伸ばされた助けの手を拒否してしまうことすらあり得た。
幸福とは、そのようなものなのだ。
もしもそこから這いでることができるのだとしたら、その者の魂は人間の規格外にあるということの証明であろう。
かつてフェイト・テスタロッサはリインフォースの作り出したそこから脱出することができたが、はやてが今しているそれは、より強く深く綿密に作り出したものなのだ。
夜天の王たる彼女が念入りに構築しただろう架空霊子世界は、それこそはまりこんだ者にとっては決して抜け出そうなどと考えることもない理想郷であったに違いない。
それなのに。
今、その魔法に抵抗されようとしている。
(あり得ない)
シグナムは思う。
いや。
(――だからこそ、あり得る!)
彼女は数多の世界を経巡り、闘争を重ね続けてきた騎士の中の騎士だ。
絶対の敗北を覆したこともあれば、必然の勝利を逃したこともある。
あり得ない、なんてことはあり得ない。
そのことを骨身に染みて理解していた。
彼女らの主の魔法に抵抗するという、絶対の不可能を可能にする者がいても、なんら驚くべきことではないのだろう。
しかしそれは、彼女の主の危機をも意味する。
反射的にシュベートフォルムにデバイスを展開させてしまったが。
「落ち着け、シグナム!」
鉄槌の騎士が呼び止める。
「てめえにできることなんか何もねえぞ!」
「だが――」
シグナムは、言いかけて剣を下げた。
「お前のいう通りだ。すまぬ」
「いいさ。だけど、てめえはあたしらの将だ。いわばヴォルケンリッターの要だ。その要が慌ててどうする。シグナムはどんな窮地でも狼狽えたりたりしちゃ駄目なんだ」
「ああ……」
頷きながら、彼女らは叫んでから膝をついて胸を押さえる遠坂凛――の姿のはやてを見る。
苦しむでもなく笑うでもなく、表情の欠けた顔で何か呪文のように呟きだしていた。
「マルチタスクもできなくなっているのか……となると、霊子世界の時間も圧縮は解けていると考えるべきか」
それは相対する時間に差がなくなったということであり、これからはやてが事態を解決するまでに長らくこちらも待たなくてはならないということだった。
「その程度の負荷もかけられないとか、どういう抵抗されているんだ?」
「解らん」
「理論上は、仮になのはが相手だろうと問題なく取り込めるはずなのに……」
そう。
この術は相手の精神をベースに、理想郷とも思える架空世界を作り出して魂を虜にするものだ。
術者であるはやて自らが入り込み、施したそれを被術者が抵抗することは原理的に不可能である。
何故ならば、精神――記憶から作られた理想郷とは、その魂の持ち主が心底から望んでいる世界であり、重ねていうが、いかなる屈強な魂の持ち主であろうとも、幸福から抜け出そうなどという発想は持ち得ないからだ。
シグナムはふむと思案顔をした。
「この娘が、精神構造が全く異なる生物だったということは?」
「それだと術そのものが成立しないだろ」
ヴィータは凛の顔をのぞき込む。
「そうか。一度は掌握したと主はやては言われたのだったな。だとすると」
「……外部から何かの要因が入り込んだということか」
褐色の肌の盾の守護獣が呟く。
それを聞き咎めたかのように、シャマルが答える。
「それこそあり得ないわ」
「そうか?」
「霊子虚構世界の位置関係は単純ではないけども、三次元上ではこの子の体内にあるという事実は変わらない。誰かが干渉をしたというのならば、それは私たちの監視の目を逃れたということ」
「なるほど。――三次元でなければ?」
「解らないわ」
癒しの風の担い手は、ゆっくりと首を振った。
「さっきもいったけど、霊子虚構世界の位置関係は単純ではないの。可能性だけを言えば時間も空間も関係なしに……まったく別の世界から干渉することはできるかもしれないけど、そんなことができるのならば、最初から三次元の、ここにいる私たちを倒してしまう方が手っとり早いわ」
「つまりは、それほどの能力が必要な行為であるということか」
自分らを軽くどうにかできるほどの、文字通りの次元が違う存在がいるのなら――
「そうでないとしたら、ただの偶然かしらね」
「偶然!?」
ヴィータが目を剥いた。聞き捨てならないことを聞いた、そんな顔をしていた。
「そう。偶然。たまたま、隣接した世界からなんらかの事情で干渉した何者かがいた――とか」
「……その、たまたま干渉した人間がいたとしてだ。百歩譲ってそういうのがいたとして――そいつがなんではやての邪魔をするんだ?」
そうだ。
もしも推察通りにたまたま入り込んだ者がいたとして、その誰かが本当にたまたま入り込んだただの部外者だとしたら、その相手がわざわざはやてに敵対するという、その理由が解らない。
シャマルは首を振った。
「その誰かがいるのかすら推論にすぎないんだから、今ここでどういう風に論じようとも推論に推察を重ねた……それこそ机上の空論もいいところよ。はやてちゃんの身に起きていることは今のこの私たちにはなにも解らないわ」
もしかしたら、この魔術師の精神と魂にはこの術をどうにか破る術があらかじめ仕掛けてあったのかもしれない。
もしかしたら、はやての集中が何かの些細なミスで破れただけかもしれない。
もしかしたら。
もしかしたら。
もしかしたら……。
「どのみち、ここからでは我らにはなにもできぬということか」
腕を組んだままでそう言うザフィーラに、全員が暗澹たる顔をして頷く。
しかし。
シグナムは顔をあげた。
「あり得るとしたら、我らの前に立ちはだかるのは“運命の敵”であるのやもしれぬ」
「運命――!?」
それは。
「時として、我らの前に――いや、全てのあらがえる者たちの道に立ちはだかるモノ――」
あるいはそれは敵として。
あるいはそれは偶然として。
彼女らの前に現れる、それらは。
「それは、古魔法の関連で聞いたことがあるが……それか?」
ザフィーラの言葉に、彼女は無言だった。
それは肯定を意味している。
「前ベルカの古魔法に仮想された概念ね。だけどそれは」
「それは、滅ぼす者の前に現れるんだぞ!?」
ヴィータの声は悲鳴に似ていた。
もしもシグナムの想定が正しかったとしたのならば。
今、“世界の敵”は、彼女らのことなのだから。
◆ ◆ ◆
「金ぴか――!?」
凛は叫び、首を振る。
いや、こいつとはついさっき会ったばかりで、その時はこいつは子供の姿で……いやいや、それはいつのことだ? 自分は、いつからここにいる?
どうしてここにいる?
そもそも――
「ふむ。心配するな。月の裏側の時と同じだ。少し頭をいじられているだけにすぎん。魂領域にまで食い込んで改竄されつつあるようだが、相手側はそう悪質でもないようだ。形質記憶は残されている。あの娘自身の魔術での抵抗も続いているようだ。切り離せばすぐに問題なく以前の状況に復元するだろうよ」
ギルガメッシュは腕を組み、どこか愉快げに彼女たちをみている。
その姿は黄金の鎧をまとった――武装形態だ。
この英雄の中の英雄王といえる存在がこのような姿をとるということは、そう滅多にあることではない。
人間が相手では欠片も本気を出さないだろうこの男が、何故にこのような――
「とはいえ、やはり手元においておかねばな。先手はとったが、二手目も譲る気はない」
ギルガメッシュの言葉に、そちらを一瞥することなく白野が頷く。
双眸は、凛に向けられたままだ。
それを受けて、
(ああ、なんか相変わらずだ)
と凛は思った。
そんなに交流があったわけではないが、生徒会の書記だった白野のことはよく覚えている。
どこにでもいそうな、しかし誰とも何かが違う心のあり方は、彼女の恋人である衛宮士郎とは似て非なるものだった。
士郎が人間のようで人間のそれとはズレていたのに対して。
白野は人間で、あまりにも人間で、あまりにも人間すぎて、それゆえに人間の領域から逸脱していた。
どこまでもまっすぐに進む意志と眼差しは、見る者を引き寄せてなおあまりある。
(って、士郎――!?)
気がついた。
なんで忘れていたのか。
それは、彼女の本当の、
何処からともなく伸びた鎖が、凛の身体に巻き付く。
「な――――!」
これは、ただの鎖ではない。
かつて何度となく見た、この英雄王が使う切り札のひとつ。
足下がなくなり、横向きの重力を感じた……のも、たった一瞬。気がつけば、凛は鎖をほどかれて白野の真横に立たされていた。膝の力が抜けるが、それはあまりの環境の変化に心はともかく身体がついていかなかったからである。
肩を掴んで支えられていた。
白野だ。
「あ、りが、とう……」
白野は笑って頷き、しかしすぐに前に向き直る。
前――即ち、彼女らの「敵」がいる方向にである。
八神はやてが、そこにいた。
「…………なんか、ようわからんことになっとるなあ」
さすがに笑顔ではなく、訝るようにそう言ったはやては、凛と白野と、そして最後にギルガメッシュの顔に視線を向けた。
「ほう……?」
それだけで何を感じたのか、ギルガメッシュは愉快げに唇の端を歪めた。
「その声と眼差し、呼吸で解るぞ。――貴様、我のことを知っているか」
「そこまで解るの!?」
凛の戦慄をよそに、はやては「うーん?」と首を傾げる。どう答えていいものか解らない、そのような顔をしていた。
「今のここに、なんでその人がいるのかよう解らんけど……まあ、ええわ。そういうこともあるんやろうな」
そういうこと――とはどういうことなのか。
はやてはしかしそれ以上説明をすることはなかった。
おもむろに車椅子から立ち上がると、左手を前に突き出した。その手の中に光と共に剣十字の杖が現れると同時に、彼女の姿もまた変わっていた。
白と黒を基調とした、それは。
「バリアジャケット……?」
凛はぽろりと口にだし、自らの口を手で覆った。
「違うよ。同じものやけど、違う。バリアジャケットはミッド式。これはベルカ式で、騎士甲冑言うんよ」
はやての言葉に、凛は「そう……」と目を細めた。
「思い出してきた……ベルカ式、ミッド式……ここは私の今いるべき時間じゃない。私がいたのは」
あの、魔導と科学が同居している奇妙な世界たち。
次元世界と言われる、遠い平行世界群だ。
遠坂凛は、大師父より命じられた試練を達成しかけたというところで、不完全な第二魔法の実験の暴走によってこちらに跳ばされてきたのだ。
そして目の前にいるこの少女は、勿論彼女の幼なじみでもなければ、恋人でも当然ない。
確か、八神はやて。
聞いたことがある。
あの次元世界では高名な大魔導師。
おそらく彼女と同じく地球からやってきたと思われる、超絶の大魔法の使い手。
「…………そう。そうだわ。確か私は、あの時に女剣士に追われて……」
「だいぶん、術の拘束が弱まってきたみたいやなあ」
はやてはそう呟くと、凛の表情が固まって――溶けた。
「――ほう?」
英雄王がそう呟いたのは、はやてが何をして、どうして凛がこんな――目を潤ませてだらしなく顔を弛め、紅潮させてしまったのかを察したからであろう。魔道に生き、幾多の試練を乗り越えた歴戦の女丈夫がしていいような、そんな表情ではなかった。
――――ギルガメッシュ!?
「騒ぐな。一度天の鎖で呪縛から解いたのが、改めて仕掛けられたというだけのこと。どうやらここでいる限りは、距離に関係なくあの女の領域であることには変わりなく、どこにいようとも術を自在にかけることができるのであろうよ」
常時、天の鎖で縛り付けておけばそれは防げるものであったが、それをする気には彼はなれないようだった。
代わりに、何かを見定めようにはやてを睨みつける。
「にしても、惨いことをする。場の状況を設定せずに直接的に強引に魂を支配下に置くとなると、記憶野も復元できないほどに形質を壊すことにもなりかねんぞ」
英雄王の言葉を受けて、はやては一度だけ瞼を伏せた。
だが。
見開いた眼差しには決意があった。
「貴方に勝つためには、手段を選べない」
何かを切り裂くような、そんな声だった。
あるいはそれは、八神はやてという魔導師自身の魂であったのかもしれない。
手段を選んで勝てるような生易しい存在ではない――そう目の前の英雄王を断定した大魔導師は、だが顔に汗の珠を浮かばせた。
それは苦悩と後悔のためか。
それとも。
白野の腕の中で、遠坂凛が大きく跳ねた。もしくは痙攣した。喘ぐ声と顔を見れば、それは閨の中で快絶に悶える娼婦のようだ。それがこの魔術師の魂の、最後の足掻きとも呼べる抵抗のためであるということは、抱きかかえる白野には解っていた。
「……………」
凛を抱きしめていた白野であるが、やがてその顔が変わった。
はやてが強張ったのは、白野のその時の表情を、目を、直視したがためだ。
「あなたは……、」
何を言おうとしたのか、はやて自身にも解らない。
存在規模からいえば、英雄王にも、はやてにも、凛にも及ばぬ平均レベルの魔術師でしかない白野の双眸に、この次元世界でも屈指の、管理局でも有数の大魔導師が怖気を感じていた。
ギルガメッシュの口元が歪んだ。
彼は知っていたのだ。
「――やれ。万色悠滞、今の貴様ならば十全と使いこなせるであろうよ。なに、マスター直々の術式の行使だ。邪魔などこの我がさせん」
白野はやはり無言で頷き、それから戸惑ったように自らのサーヴァントを見上げた。
ギルガメッシュは先程までと違う、あからさまな軽蔑をみせた。
「なんだ? やり方が解らんのか? ここはお前の見せ場というのに、しまらぬ女よな」
そして。
蛇のように。
笑った。
「――――――!」
はやての背筋に戦慄が走る。
何かをしようとした。
何をしようとしたのか。
何かを言おうとした。
何を言おうとしたのか。
――――白野は気にしなかった。
英雄王は、こう告げたのだ。
お前がされたように、インストールしろ。
そのようにした。
◆ ◆ ◆
「きまし……」
「!」
「!」
「!」
「!」
彼らの主が唐突に呟いたのを、騎士たちは聞き逃さなかった。
「――今、主はやてはなんと言われた?」
烈火の将の言葉に、しかし残りの騎士たちは何も答えない。聞こえなかったわけではない。ただ、どういう意味かは解らなかったのだ。それは問うた彼女とて同様であったろう。
「はやてちゃんが、かなり強烈に考えたことが口に出たんだと思うんだけど……」
それは言われずとも解ることではあったが、騎士たちは一様に戸惑っているようだった。
「…………なんか、心配するのがバカバカしくなったような、そんな気分が一瞬したな」
ヴィータは、だがそう言いながらも遠坂凛の、はやての顔を心配そうに見ている。
真剣に見つめている。
だからこそ、その一瞬だけの変化に気づいてたのかもしれない。
「……何が起きているのか、さっぱり解らん」
腕を組んだままにザフィーラは言った。
それは、騎士たち全員がそうだった。
◆ ◆ ◆
「×△◎◆□×○――!?」
凛は目を開き、その状況を認識して混乱した。
口付けられている。
唇をあわせられている。
(な、なななななななな、なにコレ! なんなのコレ!?)
言葉にするのなら、接吻でキスでくちづけでベーゼでキスだった。
あと、舌も入れられていた。
自分もそれに応じて舌を動かしてしまっている。高校時代に何度か話しただけの、一緒に屋上から黄昏を見たことがあるだけの、そんな少女のくちづけに、舌を絡めて吸い付き、貪ってしまっている。
どうして、自分がこんな風にしてしまっているのか、凛には解らない。解らないのだが、そうした。混乱していたが、こうするべきだと思った。それは先程までのはやての創りだした時と似ていたが、少し違う。あの時は魂領域からの警告があった。本能が警鐘を鳴らしていた。
その時とは、逆だ。
今はこの娘を求め無くてはならない、自然にそう思っていた。
脳裏を愛しい馬鹿野郎の姿が掠めた。
すぐに忘れた。
この瞬間は、この時間だけは、今だけは、この娘とのこの行為だけが全てだと思った。
自然に、両腕を白の身体に巻きつけて締め付けていた。
この娘とひとつになりたいと、心底から思う。
いや。
(…………これ、溶かされて、混じって、作りなおされていく……)
もしも凛が魔術師でなければ、そんなことも感じられずにただ溶かされていく自分を感じただけであったかもしれない。
しかし魔術師としての知覚力を持つ彼女は、自身に起きていることをそれなりに具体的に把握していた。
何処とも知れぬ世界の魔法で魂を改竄されつつあったのを、恐らく東洋由来の魔術論理で組み上げられた術式が切り離し、欠けた部分、歪められた部分を再構築しながら、その術式そのものを魂に刻印していく。
遠坂家に伝わる西洋魔術の魔術刻印は血族のみに伝達されていく魔導書のようなものであったが、これは普遍化された技術として誰にでも使用できるもののようだった。いわばベルカ式だのミッド式だのというこの世界の魔法に近い。プログラム、といっていいようなモノだ。
魂を情報化しているこのような世界でなければ使用は難しいと思われたが――
(…………彼女、どうやってこんなのを……)
そう思った時、脳裏に不可思議な光景が浮かんだ。
月。
近未来。
聖杯――、
――桜。
(これ、は――)
すぐに消えた。
それは、彼女が、この世界の遠坂凛が知るべきではない、遠い世界の物語だ。
「――終わったか」
ギルガメッシュのその言葉は、白野の唇が凛のそれから離される一秒前に発せられた。
世界の全てを見通す眼を持つこの最古の英雄王は、凛の魂を快癒させて抗体の如く万色悠滞を刻印するのをあっさりと見ぬくことができるらしい。
「………あ……」
白野の身体に抱きついていた凛であるが、離れる時に名残惜しげに声を漏らした。
白野は微かに笑うと、そのままはやてを改めて見た。
夜天の王、管理局の大魔導師・八神はやては、白野の眼を今度はまっすぐに受け止めて。
「……ありがとうございました」
と両手を合わせて頭を下げた。
「な、ななななななななななななななな、何がありがとうなのよ!?」
さすがに恥ずかしくなった凛は、すぐに右手を向けた。
ガント打ちの構えだ。
「いやあ、なんと言うか……ええもんみせてもらったっていうか……」
「ふむ。術式の最中、何事か仕掛けてくるかと思っていたが、何もせぬとは意外であった――しかし、なるほど」
英雄王は得心した、という風に頷く。
はやては「は?」と訝る。
「何よりも自らの欲望を優先させたその余裕、態度、なかなかの王器、王聖の持ち主であると見た。いずれの外界の者かは知らぬが、貴様の領土の者はさぞや堅く篤い忠義忠誠を捧げているのだろうな」
「いや、まあ……さっき凛ちゃんを壊してしまおうとしといてアレやけど、その、今のはほんまにこー……尊い、思ってしまうたんよ」
思わず手を合わせてしまうほどに。
凛は真っ赤になってガントを発したが、はやてに届く寸前に三角を基礎とした魔法陣が浮かび、消滅する。
「対魔法防御……私のガントでも、B級の魔導師程度のそれならなんとか撃ちぬくことくらい可能なんだけど……」
いい加減に羞恥心もおさまったのか、歯噛みしつつも冷静に凛は呟く。
「大魔導師・八神はやて――SS級となると、ひとつの世界の命運を左右できるレベルって話よね……私たちの世界でいうと『王冠』クラスは軽くある、か……私じゃ、勝てない」
どんな状況であろうと現実を受け入れる理解力が、彼女の長所にして欠点であった。
どうあがいてもひっくり返らない、そういうことも受け入れるのは潔さではあるが、奇跡を手に入れるには足りない。机上の空論を承知でなお手を伸ばす者に、世界は運命を覆す権利を与えるのである。
だが、この時の彼女は知らなかった。
この世界で元の世界に戻ることを諦めずに、使命を果たすために一年も異世界の街に潜伏し続けた執念は、世界の後押しという報酬を得るのに充分であったと。
まだ、知らない。
◆ ◆ ◆
そもそも、何故岸波白野が凛の精神世界を元にしたこの霊子虚構世界にやってきたのか――
ひとことで言えば、偶然である。
彼女がどういう理由で英雄王と共に旅をしていたのか、どういう冒険をしていたのか、それは今ここで語られる物語ではない。
ただ、それは波乱万丈という言葉に相応しいものであった。
これまでの人類史を紐解いても、彼ら二人のように宇宙の星々の果てまで広がる霊子ネットワークに足を踏み入れた者はいまい。地球の上にて無双を誇り、無上無敵の大英雄であったギルガメッシュをして苦難と歓喜を味合わせたそれらの旅の行き着く先が、異なる世界にある霊子虚構世界であったとして何ら不思議ではなかったろう。
そして凛との再会――
白野にとって、凛は忘れられない少女だった。
誇り高く、何度も自分を助けてくれた。
そして、自分がこの手で――
勿論、白野にはこの遠坂凛が自分の知っている遠坂凛ではないということも解っていた。
この凛は自分の知っている凛とは違う凛で、限りなく同じく遠坂凛だと。
「――え? あなた……」
知らず、白野は凛の手を握っていた。
この手は、いつまでも繋いでいられない。
それは解っている。
自分はここでいるべきでもない。
それも解っている。
だが。
だからこそ。
――――ギルガメッシュ!
「さあ、くるぞ! マスターよ、赤い女よ! 術を破ってなおここは奴の領域だ! 心せよ!」
そんなこと、百も承知だ。
白野は頷く。
自分は今まで、色んな者と戦った。
伝説に残る英雄、戦士、騎士たち――月の裏側では女神の複合体などというものさえいた。
宇宙にあってはそれらにも比肩、匹敵、あるいは凌駕さえしている者とも遭遇した。
そして、それらの悉くを打ち破ってきたのだ。
今度は勝てないかもしれない。
今度も勝てるかもしれない
だが、それは今考えるべきことではない。
やるからには全力だ。
全力で、打ち破る!
「は――――」
白野の眼を受けたはやては、絞りだすように、しかし笑った。
友人たちの前では決して見せない、騎士たちの前でも滅多に見せぬ、王たる者の笑みだ。王にしか許されない、そんな類の、傲慢で、何よりも鮮やかな、そんな笑みだった。
「夜よ――」
剣十字の杖を掲げた。
その瞬間、世界は夜になった。
冬木という街が消えた。
「――海?」
凛は呟く。
確かにそこは、夜で、海だ。
見渡すと遠くに街が見えた。
冬木ではない、と直感で解る。だが、日本の何処かの海だと言うことは理解できた。空気がそう感じさせた。きっと、ここは、あのはやての故郷なのだと理由もなく思った。
この世界の主導権がまだはやてにあるのだ、と痛感した。凛の精神の中に作られた世界であるが、この支配者ははやてだ。凛は取り込まれない権限を得たにすぎない。
「――海鳴」
はやてが言った。
それは、何かの魔法の言葉のようであり、宣言のようでもあり――
「ここが私にとっての始まりの場所、始まりの夜。
運命の、
人生の、
――王命の。
最初の夜」
はやては三角を基調としたベルカ式魔法陣のテンプレートの上に立っていた。
あの時と同じように。
あの夜と同じように。
「おいで、私の騎士たち」
叢雲の騎士。
そこに現れたのは、
烈火の将であり。
鉄槌の騎士であり。
癒しの風の担い手であり。
盾の守護獣であった。
――そして、夜空いっぱいに広がる、無数の魔法陣。
雷があった。
炎があった。
光があった。
剣があった。
闇が、あった。
遠坂凛の顔が青ざめた。
英雄王の顔に笑みが浮かんだ。
岸波白野は、――変わらなかった。
目の前にある、世界そのものといえる規模の脅威を前にしてすら、その覚悟は揺るぐことなく、夜空を支配する王を見つめていた。
はやては。
やがて。
覚悟を決めたように。
杖を掲げた。
「――征け」
戦争が始まる。
転章
「I am the bone of my sword」
衛宮士郎がそう呪文を唱えた時。
その後ろに立っていた高町なのは急に振り向いた。
「…………!」
「どうした?」
そちらを振り返ることもなく、数キロ離れたところに立つ巨人を鷹の目で凝視したままで士郎が聞いた。
彼は高町なのはという魔導師を信頼している。少々のことでは動じない歴戦の戦闘者であり、目的のためならば感情を飲み込んだまま、あるいは感情の昂ぶりすらも道具のように使って目標達成の糧とできる――
英雄の如き魂の持ち主であると。
その彼女が、このような急激な反応を示したということは、それは到底無視しえない何かを感知したということだ。
なのはと士郎の問いに答えなかった。
ただ、眉根を寄せて静かに呟いた。
「はやてちゃん……それに、ギル、さん……?」
つづく。