「……騒がしいですね」
「うん――」
フェイトはティアナにそう答えながらも、「ふうん」と何かに気づいたように声を漏らした。
クラウディアの乗船履歴の長さはもう随分となる。フェイトは今この艦がどういう状態に移行したのかを察していた。張り詰めた空気感というべきものを感じ取っていた。ティアナも同様に何か尋常ではないものを察しているようだが、具体的に何が起きているかということについてはまだよく解っていないらしい。無理もないことだった。
(対地上干渉の魔導兵装を使ったんだ)
微細な振動と魔力の波動。
フェイトは目を細める。
(対地攻撃を行うような警戒レベルになったのなら、さすがに解る……となると、地上での作戦支援――封鎖領域でも構築したのかな?)
可能性の高いものを幾つか頭の中で並べていたが、やがて首を振る。
「まあ、私たちにお呼びがかからないということは、まだそんなに深刻な事態ではないんだと思う」
次元航行艦からの対地干渉魔導というのは、普通に考えて深刻でゆゆしき事態なのだが、フェイトはそんな風に言って、書類仕事に戻る。
彼女は義兄の判断力を信頼していた。石頭で融通が効かなさそうに思われることもあるが、クロノがまず第一に考えてるのは民間人の命であり、続いて局員の、部下たちの安全だ。規律にうるさいのはそれを守ることこそが人々のためになると信じているからであり、そしてまた、それを守っていれば人々が安全だと盲信するほど愚かでもなかった。規律違反をせねばどうしても助けられない命があるというのならば、彼は迷わずそれを選択するだろう。
(いずれ私たちの力が必要なら、謹慎中でも呼び出されるはず)
それがないということは、まだ執務官二人にはここで書類仕事にとにかく専念していろ、ということなのだろう。
「そうですね」
ティアナもフェイトの言葉を受けて、自分の書類に戻る。
しかしすぐに顔をあげた。
「それで、さっきの話ですけど」
「さっき?」
「念のため、フェイトさんの性活事情ではないですから」
「……私もそう何度もおなじぼけはしないよ。さっき――というと、ウルスラの本気の話だっけ」
「はい」
ティアナは微かに身を乗り出した。
「彼女の本当の本気の模擬戦について、です」
「うん。あれは確か戦技交流会でだったね。戦技交流会というのは最近はやってないけど、かつては部署を乗り越えて戦闘魔導師たちが集まって半年に一回くらいやってたよ」
どこか遠いところを眺めているかのような顔をして、フェイトは言った。
「最近はやらないんですね」
「だいたい、シグナムが勝つからね」
「…………はあ」
なのはは一度撃墜されてから交流会に参加することはほとんどなくなった。出場はしても一度か二度戦うだけでドクターストップがかかる。シグナムと一度行われた模範試合があまりにも凄惨で壮絶だったというのもある。あれ以来、シャマルはなのはとシグナムが戦うということをなかなか許可したがらない。
それでフェイトはといえば、執務官としての仕事が忙しくて、交流会にもでられないことが多くなった。彼女はシグナムの対抗馬として期待されていたということは自覚していたし、そのために試合の調整をしていたこともあるのだが、どうしても現場担当の執務官というのは激務だ。急な用件がたびたび入り込み、仕方なく試合をキャンセルすることが続き――
……という具合に、シグナムがほぼ必ず勝つという状況が続けば、おのずと盛り下がろうというものである。
「他のヴォルケンリッターの人たちは参加しなかったんですか?」
「ザフィーラははやての護衛ではあるけど、正式な任官はしてないからね。ヴィータは『お前らと違ってバトルマニアじゃねーんですよー』だって」
「ははあ……」
勿論、教導隊にしても他の部署にしても、探せば誰かはいただろう。シグナムとても無敵ではない。どこかには彼女を打倒できる使い手がいてもおかしくはなかった。
「けどまあ、結局、そういう人たちだって予定とかあるしね。仕事も大変だし。シグナムも仕事はあるんだけど、あの人、わざわざそれに合わせてスケジュール調整してくるから……」
「バトルマニアなんですねえ……」
「仕事は忙しかったんだけど、シグナムを満足させる相手となるとね」
ウルスラが参加を表明した時は、そういう状況に飽きてた局員たちを大いに盛り上げたものである。
ウルスラ・ドラッケンリッター。
聖王家よりも古くから続く剣王の末裔にして、正統なるクイーンブレイドの継承者。
現場担当の執務官として名の知れた彼女は、シグナムに対抗できる数少ない局員として期待されていたのだった。
「結果はどうなりました?」
「引き分け」
フェイトは首を振った。
「ウルスラは武装形態をとると空戦スキルがまるで発揮できないからね。彼女の対魔力は自分のそれすらも無効化
してしまう。となると、空戦のできるシグナムに対しての決定打が限られてしまうから」
「なるほど……」
そう相槌を打ちながらも、ティアナは違和感を覚えていた。
確かに、空戦を得意としたシグナムと陸戦しかできないウルスラとではそのような結果となっても仕方はない。想定の範囲内である。だが、そんな結果ならばフェイトはわざわざウルスラの本気などと称して意味ありげにいうのもおかしな話だ。そして、もっというのならば、彼女の知るシグナムというベルカの騎士は、陸戦しかできない相手だからといって塩漬けにするような、そんな消極的な戦い方をするような人ではない。
ティアナの表情から何を察したのか、フェイトはいたずらっぽく笑った。
「ウルスラの手段は限られる――といったでしょ。つまり、無いわけじゃないの。彼女には対空戦の戦技があるんだ」
「それは、」
「あのシグナムをして、なんとかぎりぎりの回避しかできず、安全圏に避難してから対抗手段を考えることすらできなかった、制限時間いっぱいまで睨み合うことしかできなかった秘剣がね」
「………………っ」
想像できない。
あのシグナム隊長が攻めあぐねるというだけならまだしも、間合いを詰めることすらできない、対抗策の一つも見いだせないような技が、使い手がいるだなんて。
勇猛にして冷静、灼熱の闘志と機械の如き精緻な技を併せ持ち、使いこなすあの騎士が、何もできないということは、共に戦い、鍛えられたティアナには信じ難い事実だった。
「シグナムは勇猛を第一とする騎士だけど、特攻隊じゃないからね。勝機のない突貫はしないよ。逆にいえば、どんなに低確率だろうと、勝機があれば無謀にも見える突撃をしてくるけど」
ウルスラのあの技の前では、シグナムでさえも勝機を見いだせなかったということだ。
「その技は」
「クイーンブレイドの奥伝――光牙裂閃・弐式」
20/閃刃。
「え、えええ――!?」
さつきは思わず叫んでいた。
自分へと向けられた巨人の拳が迎撃された、というのはわかる。
それは見えた。
見えていた。
ウルスラの手が握る剣も見ていた。
吸血鬼である彼女の目は、拳銃の弾丸ですらも容易に見切る。
その彼女をしてすら、その時にウルスラがやってのけたことには理解が追いつかなかった。
難解な術理があったということではない。
ただ――
一瞬で数十の光の刃が乱舞した。
最初の一閃から生じた光が拳に喰いこんだ、と見えた時には華が咲いたかのように何十もの光が打ち出されていた。
恐るべき速さ――そして力だった。
(あんな技打ち込まれたら……)
さつきの背筋が震えた。
鋭く強烈な剣撃を一点に集中して何十も打ち込む――というのはあまりにも単純であり、それゆえにどう防御していいものか彼女にも思いつかなかった。
速いだけの打撃は威力がない。
威力のある攻撃は速度がない。
勿論、例外はある。あるのだが、だいたいの場合において、威力と速度をかねあわせるというのは難しいのだ。
その難事を、ウルスラは、剣王と呼ばれた者たちの末裔は可能にしたのだ。
(どうしよう……遠坂さん……この人、私の力ではどうにもできないよ)
弓塚さつきという吸血鬼の持つ能力では、ウルスラの剣はどうにもできない。
彼女が本当の本気を出せばまた違うのかもしれないが、アレを出すときは必殺を決意した時だけだと決めている。少なくともウルスラを相手にその場から離脱するというだけのことで使うものでもない。ないはずだったが。
(けど、そういうの拘っていられないかも……)
幾多の異形相手の戦いを経験してきたさつきは、相手の実力を見誤ることはない。
卓絶した直感もある。
(なんとか、この巨人をどうにかしたら――)
その時は、アレを使い、ウルスラを動けなくなる程度に痛めつけて、そしてこの結界だかを破って逃走しよう。
そう覚悟を決めた。
そこまでにかけた思考は二秒となかった。
吸血鬼ならではの高速の思考能力がなせる技だ。
だから、続いての巨人が繰り出したもう片方の手による攻撃に対処できたのは当然のことだった。
空中で腕を交差させてとばした衝撃刃は、ウルスラのように鮮やかにとはいかなかったが、見事に掴みかかる手をまっぷたつにした。
「見事」
賛辞の声をあげながらもウルスラは油断なくゴーレムを見ていた。そして、その向こう側で立ち尽くす術者を眺めている。
着地して、改めて剣を巨人に向けて構えなおしたのは、切り崩されたはずの両手があっさりと元通りに復元しているのをみたからだった。
同じく着地していたさつきが「ええー」と声をあげた。
「あんなにあっさりと再生するなんて…………!?」
「珍しいものではありません。ゴーレムは魔力の供給が続く限りは形態を保ち続けることが可能――とはいえ、この規模であの速度、やはり尋常ではありませんね」
さすがに復元に使った分、動きは鈍ったようだったが、改めて巨人は腕を振りあげた。
二人は同時に跳躍し、その場から離脱する。
「珍しくないって、攻略法とかあるんですか!?」
「教科書通りにやるのならば術者を直接叩くのですが、この巨体でこの速度では、術者に接敵する前にまた攻撃を食らうのが落ちでしょう」
ウルスラは冷静だった。
彼女もまた経験豊富な戦闘者であり、同様の状況に対しても突破してきた実績がある。さすがにこれほどの巨体ではなかったが、ゴーレム殺しには慣れているのだった。とはいえ、やはりこれはそれまでの経験と比較しても異常というに足りた。
「となると、魔力切れまで延々削り続けるか――しかし、見た限りでもこの魔力はとんでもない規模だ。生命力の根元、魂を絞り尽くしているかのような」
その魔力がなくなるまでどれほどの時間がかかるか解らないし、そもそもあんな状態で魔力を出し尽くすとどうなるかも解らない。
「…………そっか」
「さつき?」
ウルスラは足を止め、さつきの顔を見た。
自分の推論を聞いて取り乱すでもなく、むしろ落ち着いてた声で答えた彼女に対し、ウルスラは違和感を覚えた。さつきのことをそんなに知っているわけではないが、こんなところでこんな風な声をだすような娘ではないというとはなんとなく解っていた。
それなのに。
「だったら、一方が巨人を足止めして、その間に術者であねあの子をもう一方が取り押さえる……しかないよね」
「そう――なりますか」
しかし、と続けようとした。
それを単騎でやり遂げるような者となると、低く見積もってAAA級以上の魔導師か騎士かでないと無理だ。
そう言おうとした。
できなかった。
さつきの目が赤く輝いている。
ピリピリと――騎士甲冑越しにも伝わってくる緊張感、殺意ともとれる何かは、ウルスラをしてその場から離れたいと思わせるほどのものだった。
「あなたは、一体……」
目の前にいる存在は、昨晩に見せられた幻惑の中の、ウルスラの舌と指に翻弄されていた少女とはまったく違うモノであると、ウルスラはその直感で、あるいは魂の底から理解した。巨人を操る少年と似ていて、それ以上の脅威になりえるモノだと、はっきりと認識した。
「……私がこの巨人をどうにかするから、ウルスラさんが、あの子を取り押さえて」
「――それは逆だ」
自分が巨人を抑え、さつきが少年を捕縛するべきだった。
それは議論にも値しない。ウルスラ以外の騎士や魔導師で、あの巨人をどうにかできるはずがなかった。さつもかなりの使い手であるということはこの数分で解ったが、それでも安全性、確実性を考えるのならば、巨人の相手はウルスラがするべきなのだった。
だけど。
さつきは首を振る。
「私だと、あの子を殺しちゃう」
非殺傷設定なんかできないし。
それに。
「私なら、確実にこの魔法を壊せる」
「――――――」
ウルスラはその言葉をどう受け取ったものか。
微かに目を細めてから。
「解りました」と頷いた。
「ですが、一太刀なりとも」
そう言った次の瞬間に、ウルスラの剣が光の塊となった。
「光牙――烈閃」
参式。
巨大な光の剣が、巨人を頭上から真っ二つに切り裂いた。
◆ ◆ ◆
「凄いな」
ウルスラとさつきから二キロほど離れた場所に立っているその男は、偽りない賛嘆の声をあげた。
「セイバーのエクスカリバーより威力は格段に落ちるけど、収束の速度と打ち込みの速さは段違いだ。ほとんど抜き打ちにやってるぞ。それに魔力にまだ余裕がある。とんでもない怪物だな。二人がやりあえばセイバーが勝つと思っていたけど、あれがあるのならば解らないな」
「……この距離から魔法を使わずに状況がはっきり解る衛宮くんも、違う意味で凄いと思うけど」
男の隣にたちながら、目の前にモニターを開示している女がそう呟く。
巨人は真っ二つになった直後にすぐさま復元し、足下を潜り抜けようとしたウルスラへと拳を振りおろす。
それをさつきが衝撃刃を飛ばして弾きとばした。
「感謝します」
ウルスラがいった直後にまた、今度は掌が――
「……あれが、衛宮くんの言ってた能力だね」
女が目を細めながら呟く。
男も「そうだ」と頷いた。
モニターの中で、さつきの振り回した腕が巨人の掌に当たり――
その掌から肩まで、粉々に砕けたのである。
しかし、その砕け方は異常であった。
剛性の強い物体が砕けるのは、靭度以上の圧力がかかればあり得ることである。程度の差はあれど、それはどんな物質にでもあり得ることだ。だが、モニターの中での巨人のそれは、違っていた。文字通りに粉々に――砂粒になるほどの微細さの崩れ方をしたのだ。
こんな砕け方は、単純に圧力がかかって生じるものではあり得ない。
「…………どうなってるのかな? ゴーレムとして構築された魔導の物質は、魔力が行きわたっているから、そう簡単に壊せないはずなんだけど」
しかもあんな感じに粉々になるだなんて、と女は言ってから、「逆かな」と言い継ぐ。
「逆?」
「魔力が満ちた状態ではああならないってことは、魔力をどうにかして無効化しているって考えるべきだと思う」
「道理だな」
「アンチマギリングフィールドで魔導構築を打ち消されたら、ゴーレムは砕けるけど、ああはならない……ということは、もっとそれの強力にしたのを使って――いや、それでもあんな感じにはならないかな。それとも私が知らないだけかも……」
「高町にわからないのならば、俺にはさっぱりだ。向こうの世界の魔術に詳しい凛でも、あの弓塚さつきの使う技は、はっきりとはしなかったんだからな」
ただ、ある程度の推測はできていたようだが。
彼の相棒であり師でもある魔術師は、「あんたと同じかもね」と言ったのだった。
その意味は彼自身にはよく解らなかったが。
なんとなく、見当がつかなくもない。
「どちらにせよ、あの二人ならばどうにかするだろう。援護もあるみたいだし――ただ、弓塚さつきにはなんとか単独で接触したかったんだが、この状況では無理だろうな」
「彼女を通じてならば、遠坂さんにも会えたかもしれないのにね」
残念だね、とは高町と言われた女は言わなかった。
まだチャンスはあるとでも思っているのかもしれない。
「最悪、管理局の方で弓塚さつきと凛を捕捉、拘束してしまうかもしれない。それは短期的には彼女たちを保護することになる……」
「だけど、私たちの選択肢の中では、それは敗北と同義」
「そうなると、介入のタイミングは勝敗の決着の直後か」
そうして二人は無言で頷きあった。
つきあいはこの一年ほどだが、すでに何度も修羅場はくぐり抜けた仲だ。
全部が全部ではないが、言わずともかなりの意志疎通はできる。
「ウルスラが決めたら、でるよ」
確認するような高町の言葉に、だが彼は首を振った。
「あんたに万が一があったら、――リスクが高すぎる」
「じゃあ、衛宮くんが……どうするの?」
彼はそれには答えず、黒い弓を投影した。
「アイアムボーンオブマイソード」
転章
「凛ちゃん」
――そう声をかけられて、遠坂凛は「誰!?」と振り向いた。
今まで聞いたことがない人間の、今の彼女の知り合いが決して使わない呼び方で彼女に声がかけられたからだ。
「誰って、なにいうてるん?」
「――――あんた、確か」
車椅子に座る少女が、こちらを見ている。
ショートカットの髪をした、その少女に凛には見覚えがあった。
「…………、そう――」
「忘れてたん? ひどいなあ。八神はやて。ずっと前からの幼なじみやのに」
「え」
凛はあまりの予想外の言葉に、混乱した。
そして反射的に自分の記憶を遡る。
彼女だってこの町に長く住んでいる。友人は昔からいっはいいたし、小学生からの連続してつきあいがある人間だって何人もいる。そのほとんどとはさすがに最近は疎遠ではあるが、会えば挨拶くらいするし、時間があれば近況報告のひとつやふたつもする。凛は記憶力にはそれなりの自信があった。向こうが忘れていたって、彼女の方はほとんどの知己の顔を覚えていた。覚えていたはずだった。
なのに。
「いや、待って、この町って」
そもそも、ここは何処だ?
自分がいたのは、
「おかしなこというなあ」
八神はやてと名乗るその少女は、首を傾げた。
「ここは、凛ちゃんが通ってた学校なんよ?」
「穂群原学園――」
「そう。そしてこの学校があるのは?」
「冬木市の……」
「そうそう」
ようできました、と八神はやては苦笑しつつ頷いた。
「ここはそのフユキで、ホムラハラ学園なんよ?」
「ここは冬木で、穂群原学園……」
そう言われれば、そうだ。
どういうわけかさっきまでの記憶がはっきりしないが、自分がいるのは確かに穂群原学園で、その校舎の屋上で、ここでこうして話しているのは、昔からの幼なじみの女の子の八神はやて。
何もおかしいことはない。
何も、おかしくはない。
しばらくしたら、彼女の恋人である衛宮士郎が弁当を携えてやってくるだろう。
もしかしたら、彼女の妹である間桐桜もつれているかもしれない。
あの男はつきあいだした恋人同士、なかんずく彼女にとって、二人きりでいられる時間というものがどれだけの価値があるというのか解っていない節がある。いや、絶対に解っていない。なんの気負うでもなく桜に声をかけ、あらかじめ三人分はあるだろう弁当を作ってきて、桜も一緒に食べようなどと言うのだ。もしかしたら慎二あたりにも誘いをかけるかもしれない。まあ、あの男も空気を最低限読める。「お前らみたいなバカップルと一緒に飯を食うとか、そんなのありえないんですけど」とか言って桜もやめるように無言で指示するくらいのことはしそうだ。
(けど、そうね――)
たまには桜と慎二も交えてご飯を食べるというのも、それはそれで悪くないかなと思う。
あの聖杯戦争を生き延びられた者たちであるという、か細くも確かな繋がりがあの二人とはある。
奇跡的にほとんど犠牲がなく終結した、もっとも小規模でもっとも苛烈な、あの戦いを――
「って」
そこまで考えて、凛の中の違和感が膨らんだ。
何かおかしい。
何かが変だ。
「どうしたん?」
「え。いいえ、なんでもない――わ」
はやてに問われ、凛は首を振った。
(そうよ。何もおかしいことはない。私には愛するバカがいて、愛しい妹がいて、憎みきれないバカな友人がいて、そして……)
目の前の車椅子に座る、幼なじみがいる。
「遠坂」
屋上への扉があき、桜と慎二を連れた彼女の恋人が、いつもどおりに弁当箱を携えてやってきた。
「遅いわよ、士郎」
そう言って、遠坂凛は微笑んだ。
そうだ。
何もおかしなことはない。
恋人と肉親と友人たちがいる。
これほどに幸せなことがあるだろうか。
きっとさっきの違和感は、あまりにも幸せすぎたからだろう――
◆ ◆ ◆
「…………なんとか、掌握ができた」
縛を解かれて床にひざまずいた遠坂凛だったが、やがて目を開けて立ち上がり、そう告げた。
いや。
彼女は遠坂凛だ。
間違いなく遠坂凛という名の、魔術師だ。
だが、今彼女の体を動かすのは。
「主はやて」
と烈火の将が言った。
「その娘、やはり尋常な者ではありませんでしたか」
「うん。かなりのもんやね。正直、失敗するぎりぎりやったよ」
そう応えたのは、遠坂凛――ではない。
彼女の口を使って、八神はやてが言ったのである。
「……正直、はやてにはそれ使ってほしくなかったんだけどな」
鉄槌の騎士の声には、どこか諦観にも似たものが感じられた。
はやては遠坂凛の顔で困ったように笑う。
「仕方ないんよ。拷問にかけるわけにもいかんし、薬を使うても効かない……となったら、精神系スキルを使うしかない。それが、私自身の魂を蝕む魔性の術であってもや」
「…………解ってる、だけど」
「ごめんなあ」
はやてはそう言ってから、手をのばしかけてやめた。
覚悟はしていようとも、自分ではなく他人の、その魂を奪おうとした相手の手でこの愛しい騎士の頭を撫で回すことは、とてもとても許されない行為に思われたのだ。
彼女が使った魔法は、ベルカ式ともミッド式とも違う。
どこかの世界に存在した魔法ではあるが、厳密には魔法ではないかもしれない魔法だ。
仮想された霊子世界を作りだし、そこに相手の魂を飲み込み、夢を見せる――
かつて闇の書の管理人格であったリインフォースが、主であるはやてとフェイトに用いた魔法でもある。
本来は自らの内側に作り出した世界に作成するのだが、はやてが相手を支配する時、相手と同化した上で、相手の中に作り出すのが違いといえば違いだった。
はやてではリインフォースより相手の記憶を材料にして世界を構築するのに処理能力が足りない……というのがその理由であるし、より深く作り込むには、相手の精神世界に入り込む方がよいということもあった。
フェイトが自らの力でかつて抜け出せたのは、リインフォースの中に作り出された世界であるからだった。
もしもフェイトが自らの内側にあの世界を構築されたのならば、違和感はより少なかったに違いない。夢のような夢だとして、脱出するなど考えずに浸り込んでしまったもしれない。
はやては目を伏せる。
「とりあえず、今の段階で解ったことは、この人の名前は遠坂凛。地球出身の魔術師――まさか、私らの住むあそこにもそういうモノがいるってのは驚きやったな」
「いえ。かつての地球に立ち寄った時の記憶は我らにもあります。数百年はぶりですが、凄まじい使い手に遭遇したことは何度なりとも。今の地球では感知できなかったので、その伝は絶えたものかと思われてましたが……よほどに隠蔽の技術に長けているのでしょう」
烈火の将の言葉に、はやては頷く。
「システムの問題があるみたいやね。神秘は隠されているがゆえに神秘……使い手が増えるほどにその術の切れが失われる……衰えていく。それがこの凛さんの使う魔術体系やね。私らの魔導とはまた違う。不便やけど、より深い領域に辿りつけるみたいな、そんな感触がある……」
「主、疑似霊子の架空虚構世界とはいえ、あまり没頭はされぬように……」
あまりに深く潜ると、飲まれる。
そのことを心配しての言葉であったが。
「そうやね。だけど、まだ……」
言いかけた言葉を、はやては止めた。
その表情には戸惑いが見える。
やがて、言葉が漏れた。
「金ぴか――!?」
それは、しかし、八神はやての声ではなかった。
つづく。