不安は氷解していた筈だった。
私のママは苦痛を受け止めながらも、迷う事なく真っすぐ私を助けに来てくれた。
ヴィヴィオは兵器ではなく人間で、ママの大切な娘だよ、と言ってくれて、とても嬉しかった。
自分の足で立てた事も、それをママが褒めてくれた事も、希望が広がっていくようだった。
けれど消え去った筈の不安は、またもぶり返してきた。
ママが微笑む。
大丈夫だよ、と励ましてくれる。
悩む間もなく、あっという間に『そこ』へ着く。
私がついてる、とママがまた言ってくれた。
でも、怖い。
私は、ママの足にしがみ付いて。
そぉっと、覗き込んで。
がばっ! と抱き寄せられた。
――あったかい。
びっくりして、顔を上げる。
ヒビの入った眼鏡の向こうに、包み込まれるような優しい笑顔があった。
「ヴィヴィオ、お帰り。ママもパパも心配したんだよ」
パパ、と呟いてみる。
なんだい、と返事が返ってきた。
胸が暖かい何かに満たされ。
私の中に残っていた不安は、今度こそ消し飛んだ。
「――っぐす、パパ……パパァッ……!!」
堰を切ったように涙が溢れ出てきて。
泣きじゃくりながら、思い切り抱きつく。
パパはそんな私の頭を、ずっと、優しく撫で続けてくれていた。
私の、大切な記憶だ。
番外編「続・充実していた日々」
私――高町ヴィヴィオの家には、結構な数の写真がある。
どれくらいかというと、リビングでうだーっとだれている時さえ視界に入ってくる位の数だ。
例えば、ママとその旧友達との集合写真。
パパが無限書庫前で司書さん達と並んでいる写真。
パパとママが寄り添う写真。
幼い私が二人に抱きついている写真。
私の各種記念日写真。
色々あるけれど、そのどれもが『ほとんど』笑顔で一杯だ。
ほとんど。
そう、ほとんど。
私の視線の先。
リビングの戸棚の中央にたった一枚、その例外は存在する。
そこに写っているのは、穏やかな微笑みを浮かべているパパ。
いや、それはまだ問題ない。
見惚れてしまうその微笑みは、百点満点モノだ。
問題は、その隣。
無表情の、男の人。
この家の笑顔満載写真の群れにそぐわない、無表情。
よーく目を凝らしてみるとムスッとしているようにも見えるけど、とにかく愛想の欠片も感じられない。
おまけに、カメラ目線ですらないのだ。
その視線を辿ると、パパの手に握り締められたタバコの箱。
これは、パパが取り上げたタバコを奪い返さんとチャンスを伺う蛇の目。
つまり、ニコチン中毒の中年男性って訳だ。
一見、呆れる位の駄目人間。
ニコチン中毒なんて私にとって、酒癖悪い・ギャンブル中毒と同じ位駄目な部分だもの。
その致命的な悪癖にはアウトー! と宣言してやりたい。
まぁ、もしそこを矯正したらちょっとは考えるけども。
パパには遠く及ばないが、雑誌に載るような、アクセをじゃらじゃらさせてそうな男達とは一線を画する格好良さがあるし。
ともかく、人間性というものはそう簡単に表現したりはできるものではない。
なんとこの人、伝説の英雄なのです。
ソリッド・スネーク。
地球の裏社会の住人。
パパの十年来の親友。
手榴弾を片手に戦車と一対一で戦って何故か勝ってしまう変人。
パパとママをくっつけたきっかけの人。
『XXねん、ちきゅうはかくのほのおにつつまれた!』という危機から三度地球を救った英雄。
段ボールを被ってみたりする可哀相な人で、パパに段ボール好きの特性を刷り込んだ大罪人。
こうやって彼のプロフィールを振り返ってみると、突っ込みどころ満載だ。
不可能を可能にする男なんて呼び名は、あの写真からは想像も出来ない。
っていうか段ボールって酷過ぎでしょ。
ちなみにあの写真はパパやママには大好評だったりする。
何でも、スネークさんらしさが凝縮された一枚だかららしい。
タバコが大好きで少し不器用な、彼らしい写真。
話によればスネークさんがこの世界にいたのは一年にも満たないし、
彼と共に旅をしていたパパ以外の人は、スネークさんとは数ヶ月の面識しか無いとの事。
勿論当時幼かった私なんかは、六課の皆の明るい笑顔が記憶を占めていて、彼の事はうろ覚え。
覚えている事といえば、六課の中で最も背の高い男らしい人で、じょりじょりと独特の手触りだった顎髭。
そしてパパと二人で段ボールを愛でる可哀相な後ろ姿と、私が彼を蛇のおじさんと呼んでいた事位かな。
正直に言おう。
そんなスネークさんは私にとって、水のような存在だ。
物みたいに言うのは悪いかもしれないが、的を射た表現だとは思っている。
我が家では彼を話題に出すと、文字通り会話に花が咲くのだ。
我が家では、彼の話題は尽きる事はない。
良い事も悪い事も、パパはありのままを話し伝えてくれた。
そんな訳ではっきりした記憶は無くとも、彼の性格だったり所業だったり悪癖だったり、そして――
――私と少し似た境遇の人だという事についても、私はよく知っている。
会った事はほとんどなくとも、彼は私ととても近い位置にいる人なのは間違いなかった。
だからこそ。
最近の我が家の暗さというのは、私にとって由々しき事態だった。
原因は、スネークさん側。
パパは六年程前から、スネークさんの所属する地球のNGO団体と連絡をちょくちょく取り合っていた。
それがしばらく前の事、突然途絶えたのだ。
スネークさんは所謂アウトローと言われる存在で、彼等が意図的に連絡を絶てば当然、こちらからはどうしようもない。
何があったのか?
彼等は無事なのか?
連絡を絶たねばならない理由でもあるのか?
何故?
何故?
何故?
――何も、分からなかった。
それからスネークさんの名前は、我が家では禁句となった。
名前が出る度、文字通りずずーんと場の空気が沈むし、パパはそれでも手掛かりを掴もうと必死に藻掻くし、
ママは気丈に微笑んで、それでも辛そうなのはバレバレだし、そんな二人に私も自然と暗くなって、二人はそんな私を見て無理して平気そうに振る舞って、と。
家族皆で負のスパイラルにはまっていたのだ。
――が。
つい四日前、事態が急転した。
スネークさん側から、連絡が入ったのだ。
パパは仕事をばばっと切り上げると地球へ飛んだ。
私もママも、興奮やら安心やら怒りやら様々な感情が混ざった表情のパパを見送りながら安堵の息を漏らしたのは記憶に新しい。
無事なようで何よりだ、と。
命さえあればいくらでも立て直せる、と。
パパも心の底からそう思っていたのは間違いなかっただろう。
なのに、地球から帰ってきたパパの顔に浮かぶのは「絶望」だけだった。
私が事情を聞いても何も話してくれないし、良い事ではないのは確かだし、ママには話したみたいだし。
私はこの四日間、ずぅーっと、どぎまぎしているのだった。
さて、現在リビングには私とパパ二人だけだ。
ママは、管理局に助っ人としてお呼ばれ。
ママから頼まれていた家事を先程終えた私は、ぐにゃりと頬杖を付きながらダラダラしている。
そして最重要人物のパパはというと。
スネークさんの写真から視線を外すと小さく溜め息を吐いて、ちらり、とソファーに座るパパの様子を伺う。
――落ち着いている素振りで、さりげなく時計の方を気にしていた。
パパがそうやって時計を確認するのも、数えただけでもう30回は優に越している。
スネークさん絡みで何かあるのだろう。
そしてこの数十分でその頻度が跳ね上がっている所を見ると、それはもうすぐのようだった。
ぴんぽん、ぴんぽん。
チャイムの音。
私とパパが立ち上がるのは全く同時だった。
「あぁヴィヴィオ、僕が行くよ」
「ん、私行きますー」
「大丈夫。僕が出る」
「やっ、お出迎え位させてよ」
「だーめ」
「むぅぅ……」
やはり、ガードが堅い。
パパは私の頭をボフボフと撫で付けると、半ば強権的に私を押し退けて玄関へと向かっていった。
亭主関白とは基本的に縁がない家庭だけど、いざという時はやはり父親が一番強いなぁ。
間もなくドアが開く音と、男性の声。
――クロノさんの声だ。
どういう事だろう。
スネークさんとクロノさんて接点あったっけ?
スネークさんはパパとの旅の後はずっと六課に寄生していたらしいけど。
大した会話もなかったのか、間も置かずに足音が客室へ遠ざかっていく。
いけない。
私は慌ててリビングを飛び出した。
「クロノさん、お久しぶりです! あの、今日は――」
「あぁヴィヴィオ久しぶり聞くまでもなく元気そうだな結構結構、そういえばそろそろボーイフレンドの一人もいてもおかしくないだろうがどうだい?
まぁ君の容姿と性格を考えたら心配する必要もなさそうだなはっはっはっじゃあ僕はユーノと話があるからまた」
どたどたどたどた、ばたん。
硬直する私。
マシンガントークなんて形容で良いのか迷うくらい高速の会話――いや、会話ですらない。
クロノさんは一方的に吐き捨てて、そのまま客室へと消えていってしまった。
「……くうぅっ何よ、今の! っていうかクロノさん滑舌良すぎでしょー!?」
「ヴィヴィオ」
歯噛みすると同時、名前を呼ばれる。
パパだ。
「大事な話をするから、ちょっと部屋に戻っててね」
「……何の話?」
「大事な話」
「スネークさんの話でしょ?」
「……凄く大事な話なんだ。部屋に戻ってなさい」
「私だけ仲間外れとか酷い、私にも教えてよぅ!」
どうしてどうしてと喰らい付く私に、ヴィヴィオ、とパパの語調が強まる。
うぐぅ、本気の目だ。
私が怯んだ一瞬を見逃さなかったパパは、そのまま客室へ。
一人、ぽつんと立ちすくむ。
「……なによ、それ」
「なによぉ、それー!!」
ぐおおお、と不満と怒りとやるせなさを吐き出す。
ずだだん、ずだん、と地団駄を踏んで。
ぜえぜえ、と荒れた呼吸を整えて、思考。
このまま傍観を決め込むか? ――否。
では、今すべき事は? ――行動なりっ!!
きっと、スネークさんに何かあった事は間違いないのだ。
私だってスネークさんの事は心配だもの。
私はまだ子供だけど、何かしら役に立てるかもしれない。
困っている人がいて、その人の役に立てる力があるのなら迷ってはいけない。
そう言ってくれたのはママだ。
それなのに私だけ仲間外れにされて、我慢できる訳が無い。
だから、我慢しない。
私はなのはママと血の繋がりは無くとも、親娘として共に暮らしてきたのだ。
ママの不屈の心は私の心にある。
確かに感じる事が出来る。
拳を握り、勢い良くガッツポーズ!
「だから、私は決して屈しないっ!」
『――まぁヴィヴィオの「不屈の心」は、言うならむしろ「頑固」寄りだと思うけどねぇ』
「うぐっ……」
いつかのパパの突っ込みを思い出して、閉口。
ごほん、ごほん。
とにかく、ここで引き下がる訳にはいかない。
いざ、出陣!
決意と共に客室へ殴り込もうとして、パパの豹変と言っても過言ではない怒った顔を想像して。
「……とりあえず、まずは情報収集しよっかな」
偵察任務は大事だもんね。
私は膝をついて、客室のドアへと耳をぴったり付けるのだった。
◆
「結論から言おう。……手遅れだ」
極力感情を押さえ付けたような声色。
唇を噛み締めると同時、どさりと机の上に資料の山が乗せられる。
僕は一瞬だけそれに視線をやって、再び対面するように座るクロノの目を見て、彼の言葉を待った。
「染色体の中、テロメアという部位を知っているか?」
一番聞きたくなかった単語だ。
ゆっくりと頷く僕に反して、一応確認しておくか、とクロノは必要の無い筈の説明を始めた。
「細胞分裂の回数に関わる部位だ、これをすり減らすようにしながら細胞分裂が起こる」
「……知ってるよ」
「三十年。四十年。五十年と細胞分裂を繰り返す。……テロメアがすり減ることによって、人間は老いるんだ」
クロノ、と長年親しんできたその名を呼ぶ。
話し辛い内容であっても、話してもらわなくては困るのだ。
クロノが決意したのか、すぅっと息を吸い込む。
「…………ソリッド・スネークの急激な老化の原因は恐らくそれだ。彼のテロメアは磨耗しきっている。テロメアが意図的に短く設定されて彼は生まれたんだろう」
「愛国者達め。……ねぇ。フェイト達にも、話した?」
「……いや」
「……そっか、ごめん」
言える訳もないか、と質問を後悔。
ともかく、スネークを襲った早老症の原因自体は半ば予想していた事。
周知されているクローン技術の問題点よりも気になる事は他にある。
「FOXDIEの影響は?」
この九年間僕がずっと恐れていた、「FOXDIEの発動によるスネークの死亡」は起こる事はなかった。
標的プログラムのバグか、突然変異か――ともかく安心は出来ない。
「さっぱり。FOXDIEのデータを設計者と一部の人間しか所持していない現状、スネークの老化への関連性、今後の彼の体調への影響、どちらも何とも言えない」
「……そっか」
殺人ウイルスのデータを所持していると思われる人間が誰なのか位は分かる。
米政府。
FOXDIE設計者であるナオミ・ハンター。
シャドーモセス事件時、それを受け取ったと主張するナスターシャ・ロマネンコ。
米政府はともかくその二人と接触出来れば、と僕も出来る範囲内で探してみたけど、結果はこの通り。
勿論思い過ごしだろうけど、言外に「それを見付けられなかった僕の過失」を責められているように聞こえてしまって、僕は思わず俯きそうになった。
それをなんとか我慢して、縋る気持ちでクロノを見る。
「本当に、もうどうしようもないの?」
もはや意味の無い質問に、クロノの顔が苦渋に歪んだ。
けれど、申し訳ない気持ちよりも、諦めきれない思いがそれを上回ってしまったのだ。
「……テロメラーゼ療法によるアンチエイジングにしても、癌細胞の活性化だとか、色々と副作用は大きい。僕等の世界が出来る事は無い。……すまない」
絶望的な宣言に、拳を握り締める。
血が滲む程、強く、強く。
そして瞬間、僕はもっと残酷な疑問がまだ残っている事に気付いてしまった。
スネークの体が、後どれだけ持つのか。
クロノが手を組んで、僕から視線を外した。
「……老化の経緯から判断するに。彼の寿命は、持って後――」
「――半年だ」
瞬間。
えっ、と間の抜けた声が口から漏れ出る。
……今、クロノはなんて言った?
はん、とし?
はんとし、はんとし、はんとし――。
「半、年?」
六ヶ月。
約180日。
約4400時間。
それでスネークは、死ぬ。
「嘘だろ」
今度こそ僕は完全に打ちのめされた。
全身を震えと寒気が襲う。
「嘘だろっ……」
脳がその事実を理解すると同時に、視界が滲み始めた。
僕は思い切り唇を噛んで、嗚咽を堪える。
「事実だ。……すまない」
「ぐっ……、君、が……謝る事じゃ、ないよ」
落ち着け、まだ泣き崩れる時ではない。
眼鏡を外して、涙を拭う。
深呼吸。
もう一度ゴシゴシと目元を拭って眼鏡を掛け直すと、クロノは話はここからだと言わんばかりに身を乗り出した。
「辛い話だが、僕等の世界が彼に出来る事は無い。……それでもユーノ、君なら出来る事がある」
「……」
「ユーノ、スネークを助けにいってやれ。他の誰でもなく、君が行くんだ」
クロノが正式なものとして言っているのかどうか、僕は一瞬判断出来なかった。
地球は管理外世界。
僕等のような魔法使いは、魔法使いとして彼等の世界に関わってはいけない筈なのだが。
「八年前のJS事件への関与が濃厚だったリボルバー・オセロットが、表立った行動を起こし始めた……地球の経済主軸を握るPMCのトップとしてな」
頷く。
この数年で地球は激動した。
技術革新によって広がるID認証。
無人兵器の爆発的な増加と共に軍事請負企業が台頭。
石油経済に取って代わり戦争経済が浸透。
その動乱の中心に、リキッド・オセロットはいたのだ。
クロノは未だ「移植した腕に意識を乗っ取られるなんて胡散臭すぎる」と、リボルバーの名前で呼んでいる。
対して僕なんかはそういうのもあっておかしくないと思っているし、スネーク曰く「間違いなく奴の雰囲気だった」と話しているので律儀にリキッド・オセロットと呼んでいるのだが。
「これまでは、あくまで関与しているかもしれないというレベル――しかも消息不明の男というだけあって、こちら側からは手を出せなかった」
……成る程。
クロノの言わんとしている事が分かってきた。
「だが四年前のプラントでの、『オセロットが魔法世界について知っていた』というスネークの情報によって容疑が固まった訳だ」
「……その発言の証拠がある訳じゃない。あくまで証言だよ」
「貴重な証言さ。それに……スネークの現状を考えれば、その証言をこれ以上吟味する時間的余裕もない」
彼はオセロットの有力な手がかりでもあるからな、とクロノがニヤリと笑う。
溜め息を一つ。
「それにもう一つある。地球は管理外世界だ。万が一にも魔法で辺り一帯吹き飛ばしました、なんて事態は避けなければならない」
「……それで僕か」
「ああ。証言者と親交の深い、防御・支援魔法に特化している事で著名な無限書庫司書長ならば安心、という訳さ」
要するに、地球へ行く大義名分が出来た、という事だ。
僕は頭を振って、喰い下がった。
「スネークは指名手配されてるけど、その辺りはどうするの?」
「問題ない、いや、問題なくしてみせる。接触対象である情報提供者は指名手配犯ではなく、あくまでNGOの一団員だ」
用意周到な事だ。
顔を顰め、うぅんと唸る。
何故、僕がこうして地球行きを渋るかというと単純な理由がある。
そう、スネークを助ける為に地球へ飛ぶ事についてが、この数日間の最大の悩みだったからだ。
「実は……助けに行こうか、迷ってる」
僕がそう思いを口にした瞬間、クロノが固まった。
予想通りの反応だ。
そして、廊下からゴトッと物音が聞こえた。
これも予想通りで――はない。
(……物音?)
……まさか。
「ユーノ、お前――!」
「ごめん、ちょっと待って」
立ち上がり、ドアノブに手を掛ける。
そして、バッと開くと同時に。
「ヴィヴィオ! ……って、あれ」
観葉植物。
僕の骨董品コレクション。
写真の数々。
いくつかのぬいぐるみ。
スネークとの思い出の品である強化段ボール。
見慣れた空間。
何処にも異常は無かった。
愛娘の悪癖が発動して、盗み聞きでもしていたと思ったのだが。
「……気のせいかな」
ごめん、と再び部屋に戻り、クロノの鋭い眼差しに迎えられながら椅子に座る。
何とも言えない居心地の悪さを感じて、僕はもう一度溜め息を吐いた。
「どういう事だ、ユーノ」
「迷ってる。僕は……行かない方が良いのかもしれない」
同時に、クロノがいきり立って猛然と詰め寄ってきた。
「何時まで腑抜けているつもりだ! ……半年、たったの半年だ! スネークはその弱り切った体で戦おうとしているんだぞ!」
「っ……」
「僕は彼と話した機会も少ない。だが、彼がこの世界でしてきた事は知っている。僕にとっても彼は恩人だ……無為に見ているつもりはないっ!」
だからこそ、迷っているんだ。
そう吐き捨てた僕の意図が掴めないのか、クロノは初めて困惑の色を露にした。
「ジュエルシード事件で初めてなのはと出会って、なのはの暖かさに触れて、僕は本当に幸せに思った」
「……のろけか?」
「まぁ、聞いてよ。……あの時、やるせなくも感じていたんだ。僕の不始末を君達にも背負わせた事実と、それに安堵する僕自身に」
今でも鮮明に思い出せる。
なのはの快活な笑顔と、彼女の力を目の当りにした時の無力感。
そして、なのは達に頼る事で安堵を感じていた自分の情けなさを。
今でこそ「僕だから出来た事もあるんだ」と言えるけれど、スネークに諭されるまでは地獄のように思っていたものだ。
「多分スネークは今、僕が感じたよりもずっと辛い思いをしてる。僕が行って、余計に彼を傷つけるなら本末転倒だ」
『これは僕達の戦いだ。僕達の責任だ』
『君が背負う必要は無い』
ハルが言った言葉は、僕に背負わせたくはない、という風にも聞こえる。
ハルも、スネークと同じように重い責任を感じているのは間違い無いだろう。
僕だって彼等の苦しみの大きさは知らなくても、それが地獄のような苦痛である事位はは理解出来る。
それなのに、その僕が単純な善意だけでしゃしゃり出て良いのだろうか?
クロノが押し黙る中、脳内には嫌な想像ばかりが溢れ出てくる。
老いたスネークの写真を思い出すと同時に酷い寒気を感じて、僕は身震いした。
「怖いんだ。いざ行ってスネークに拒絶されるのが、これ以上彼を傷付けるのが」
クロノが心底困ったように息を吐いた。
「じゃあ、どうするというんだ。……見捨てるとでも言うのか」
「そうじゃない。そうじゃないんだ。……でも、僕は――」
「――ああもう、まどろっこしい!!」
その怒号に、僕は息を呑んだ。
勿論、クロノではない。
その声の正体は、どたんばたんと殴り込んできた、ヴィヴィオのものだ。
――このお転婆娘。
「ヴィヴィオ、部屋に戻ってなさいってあれ程――!」
「――パパはっっ!! ……パパは、私がゆりかごから帰ってきた時の事、覚えてる?」
ドアを開けたままに、突撃してきた愛娘。
彼女に強い口調で遮られると同時に八年前の事を尋ねられて、僕の頭は一瞬で冷静さを取り戻した。
ゆっくりと眼鏡を押し上げる。
「……勿論、覚えているよ」
「私に一言目、何て言ったかも覚えてる?」
当時については、昨日の事のように思い出せる。
母親の足元からおずおずとこちらを覗いてくる少女の姿。
あの時僕は直ぐ様屈みこんで、その少女を抱き寄せたのだ。
「『お帰り、ヴィヴィオ。パパもママも凄く心配したんだよ』」
口にして、少しだけ気恥ずかしくなる。
それはヴィヴィオも同じだったのか、彼女の頬がほんのり赤く染まった。
ごほん、と咳払いの後、ヴィヴィオは空いているソファーに腰を掛ける。
「私も……不安だった。私の生まれについて知ったパパに、もし嫌な顔をされたらどうしようって」
ヴィヴィオが懐かしむように笑う。
けれど、それは彼女の杞憂だった。
確かにゆりかご関連の情報を集めたのは僕だ。
だけど、あの時はそんな『気に掛ける必要もない事』よりも、ヴィヴィオやスネークの安否自体が気になっていたのだ。
「パパって呼んで良いのか迷って、怖くて、不安で。それでもパパがいつも通りにそう言ってくれて、本当に嬉しかったな」
あの頃は何よりも充実していた。
僕の生きる理由が見付かって、皆の笑顔があって、スネークもいて。
時代は変わり、地球も変わり。
僕もハルも、そして……スネークも、変わってしまったのだろうか。
「ね、パパ。巻き込ませちゃった責任っていうか、その辛さみたいなのは私にも分かるよ。……八年前の事件は、私にだって責任はあるもの」
「……ヴィヴィオ、」
「でもね、それでもママは大丈夫だって、私がついてるって励ましてくれた」
今度は、パパの番じゃないかな、と。
まだまだ幼いと思っていた少女の言葉が、僕の全身に響き渡った。
「全部の責任を一人で背負い込んで、一人で戦い続けて、これからもそうするつもりで、苦しくない訳ないよ。
不安に決まってる。……一番の友達のパパが励ましてあげなきゃ。スネークさんは一人じゃないよって」
「っ……」
「もしそれでもこっちへ帰れって言われたら、私が怒鳴り込みます! パパ、怖がる必要なんてないよ、何事もまずは信じてやってみなきゃ!」
苦笑する。
何一つ言い返せなかった。
今まで悩んでいた自分を情けなく思うと同時に、娘の成長を目の当りにして嬉しく思う。
ヴィヴィオはきっと気付いていないだろう。
人にそれを諭してやる事が出来るだけの高みに、彼女が既に到達している事を。
やはりなのはと……僕の娘だ。
「ヴィヴィオ、ありがとう。――確かにクロノの言う通り……僕は腑抜けてたのかもしれないね」
「『確かに僕の知っているユーノなら』、こんな所でいつまでも悩んでいないだろうな」
微笑むクロノの言葉に、そうだ、と頷く。
地球は変わった。
僕もハルもスネークも、年月の流れに合わせて変化の波に呑まれてしまったかもしれない。
けれど、そんな事を深く考えるまでも無い確固たる事実に、八年前気付いたじゃないか。
僕は、スネークの友達だ。
だから、もう一度伝えに行かなければならない。
君は少なくとも孤独ではないんだ、と。
「行くよ。……僕は、行く。スネークを助けるんだ」
拳を握る僕に、クロノは大きく頷いた。
「よく言った、ユーノ。……よし、僕は行動に移ろう。君もすぐに動けるよう準備しておけよ」
「……あぁ、分かった」
ハルはこう言った。
僕には守るべき人がいる筈だ、と。
なのは。
ヴィヴィオ。
大切な家族は、勿論守る。
だけど、彼らだって、僕にとっては大切な人なんだ。
だからもう、迷わない。
もう、へこたれない。
約束を、果たしに行くんだ。
待っててくれ、スネーク。
「今度は……僕が助ける!」
おまけ
「よし、じゃあ私も準備――」
「「ヴィヴィオは駄目だよ(ぞ)!!」」
「っ……で、でも私も行きたいっ!」
「駄目に決まってる!」
「行きたい、行きたいー! パパはこんな可愛い娘を連れて行きたくないの!?」
「――……」
「悩むな、親馬鹿」
「ご、ごめんクロノ。……とにかく駄目だよ、このお転婆娘め」
「な、何よぅ、反抗期らしさも見せない可愛い娘の私にお転婆って! ……この、けちんぼオタライア」
「な、ヴィヴィオ、親に向かってその言い草! ならあれだけ言ったのに盗み聞きしてた事にも言及しなきゃね!!」
「え、ええぇ、そこ責める!? 私あんな良い事言ったのに! 私すっごくいい事言ったのに!」
「それとこれとは別! ……なのはが帰ってきたら叱ってもらわなきゃ、ヴィヴィオ、なのはの怒りを想像しなが
ら反省しなさいっ」
「ママの、いかり? …………いぐにっしょん・ふぁいあー?」
「そう――憤怒の、炎だああぁぁっ!!」
「きゃあああぁっ!! ごめんなさい、ごめんなさいママ、許してえぇっ!!」
「……相変わらずの恐妻家だな」