それは、普通とちょっと違った女の子 生まれる前の記憶があって 赤ん坊の頃から、自分がどうしてここにいるのだろうと疑問に思って それでも、他の誰かと同じように、時間は平等に過ぎ去って 女の子が首を傾げる間にも世界は歩みを止めず進んでいく それでも良いかなって、女の子が納得しかけていたそんな時に 世界は唐突に足元からがらがらと音を立てて崩れ去った 信じてきたものは全てまやかし 真実は女の子を認めない リリカルマジカル アイリーン・コッペルのお話、始まります「はぁっ、はぁっ……はぁっ……!」 雨が降っていた。道路には水溜まりが出来て、踏み込んだ足が盛大に泥と水を跳ね上げた。それでも、気にしない。気にする余裕がない。俺は馬鹿みたいに走っていて、短い足を何度も突っかからせながら、時には転んで真っ白のワンピースを黒く汚しながら、それでも起き上がって走り出す。どこかに行きたかった訳じゃない、その場にいたくなかっただけ。だけど、逃げても逃げても、逃げ切れない。 現実からは、逃げられない。 ”俺”が居た。”俺”の住んでいた部屋に、”俺”が居た。 見上げた男は山のように大きく、髭はまだ剃っていなかったのか無精髭の顎に、手にはゴミ袋。寝巻きにもなっていないカットシャツにジーンズは仕事からそのまま寝ていたのだろう。まさしく、”俺”であった。記憶のままの、過去の”俺”が現在のアイリーンである俺の前に姿を表したのだ。 意味が分からない。目を見開き硬直する俺に。”俺”は「ちょっと待ってろ」と声を掛けると、アパートの部屋の中から救急箱を片手に再び姿を表した。救急箱には気まぐれで貼った野球チームのステッカーが記憶通りに貼られており、記憶とは違って擦りきれてチーム名も見えない有様だった。安物のシールが剥がれていないのが不思議なくらい古びていて。それを持つ”俺”も記憶にあるより老けて、黒髪に若干の白髪が混じっているのを見て取れた。そうだ、この”俺”は記憶の”俺”より年を取っている。そう、ちょうど十年分ぐらい。 気付けば、治療の為に伸ばしてきた”俺”の手を振り払って、俺は駆け出していた。意味が分からない。どういうことだ? 何故、俺がもう一人いる? 何故、俺はあそこにいない? アレが”俺”ならば、今ここに居る俺は誰だ? ふと、足を止めた。視界にある建物が目に止まったからだ。3階建ての比較的新しいビルで、俺の記憶にはない建物。しかし、掲げられたビルの看板に書かれていた名には覚えがあった。『株式会社海鳴ITワークス』、有限会社から株式会社に変わってこそいたが、間違いなく俺の勤めていた会社であった。十年前は貸しビルの一フロアを借りて細々とやっている零細企業だった。従業員だって社長含めても10人以下だった。ビル一つ丸々借りて埋まるほどの人材などいなかった筈なのだ。 俺は転移魔法を発動して、ビルの内部に入り込んだ。雨でびしょ濡れになった体から、床に雫が滴り落ちて水溜りを作っている。歩くたびに長い髪や濡れた衣服が体に張り付いて、気持ち悪い。今日は休日なのだろうか、人は見当たらず。受付や応接間ばかりの一階は無視して二階に上がった。 机が立ち並び、デスクトップ型のパソコンやモニター、サーバーが所狭しと置かれているそのフロアは酷く懐かしい光景であった。ただブラウン管のモニターが一つもなく、代わりに当時は高価でとても企業で使う代物でなかった筈の薄型液晶モニターになっている。 俺はフロアを見回すと……その中で、書類やファイルを高々と積み上げている一つのデスクで目を留めた。やはりPCと液晶モニターの置かれたその机。液晶モニターにはベタベタと付箋がいくつも貼られており、走り書きが書かれていた。取引先の名前と連絡番号、いつまでに何の仕事を終わらせなければならないかの日付、エラーの出た箇所の数値、思いついたアイディアなどが無節操に記されている。全体的に少々右斜めになった癖字、その筆跡には覚えがあった。「”俺”の、字だ」 眩暈を覚えた。しかし、反射的に俺はPCの電源ボタンに手を伸ばして押し込んでいた。起動には数分と掛からず、ログイン画面が立ち上がる。IDには「yae」、パスワードには……学生時代に付き合っていた彼女の名前と誕生日を入れる。一年足らずで別れた彼女、だけどこのパスだけはすっかり慣れてしまって変えられなかった。社会人になっても、世界を変えても、扱う対象が魔法になってからすら、そのパスを変えたことなどなかった。 ログインが、成功する。デスクトップが立ち上がる。見覚えのないインターフェイス、OSも聞いたことすらない代物だった。企業用、仕事用に使われる飾り気のないデスクトップ画面だというのに、モニターの写す画面の綺麗さに目を奪われる。さらに先に進めようとして、手が止まる。分からない。デスクトップに置かれたショートカットが、何のソフトか分からない。プログラム一覧から辛うじて覚えのあるソフトを起動させるが、バージョンの違いにどう扱えば良いのか分からなくなり、すぐ手が止まる。いちいち、いちいちいちいちPCの扱い方に手間取る、違和感を覚える、キーボードに置く手が小さすぎてキータイプすら上手くできない。反射的に掴んだのは胸元、ソーセキがいつもある場所だった。馬鹿な、いくら技術が進んだからといって、命令するだけで入力機器の調整なんてしてくれる筈がない。「アアああぁぁぁぁぁっッッ!!」 頭をばりばりと掻き毟り、狂ったように叫んだ。理解出来ない、現実が何も分からない。足元が全て崩れ去り、奈落の底に落ちていくような感覚。耐えられない。いっそ消えてしまいたい。モニターを腕で薙ぎ倒し、俺は逃げ出すように会社から飛び出した。 雨脚が強くなり、視界もままならないほど強く降り注ぐ中をただがむしゃらに走る。サンダルがすっぽ抜けて素足になってしまったが、それでも止まらない。どこをどれくらい走っただろうか。いつかは体力が切れて倒れ込む羽目になっただろう。けれどそれよりも前に、視界がぶれた。踏みこんだ素足が地面の上をずるりと滑る。反射的に踏み留まろうとする足も、追い付かずそのまま体が横に転倒する。視界が回転する。体が、止まらない。「え、あっ……あぐぅっ……うあ!」 そこは平坦な道路の上ではなかった。いつの間にか走っていた土手の上から足を踏み外し、何度も身体を打ちつけながら坂道を転がり落ちる。何回転しただろうか、止まった時には痛みと衝撃で動けず、口の中に血の味がした。掌を石でざっくり切ってしい、熱い痛みと共に水溜まりに血の赤が滲み広がっていくのが見えて。「……ぇ、き……そー……せき……」 痛い、なのに体が動かない。手足の感覚はほとんどなく、そのくせ痛みだけが鮮明に身体を支配している。震える唇から漏れるのは、自分のデバイスの名前だった。痛みを消す魔法、と痛みに動揺する頭で考えるが、少しも構成を思い描けない。だから、頼るしかない。助けてくれと、泣きながら、自分が置いて行った道具の名前を呼ぶしかない。 泥塗れの地面に転がりながら、俺は自問自答していた。目に入るのは小さな手と、そこから広がる真っ赤な血。そして、泥に汚れて水を吸い、色を濃くしていく青色の髪。マリエルが綺麗綺麗と、毎日のように梳かしていた髪だ。この姿を見て、誰が”俺”だと気付く? 誰が、海鳴で暮らしていた男だったと思う? いる訳がない、証明出来る筈も無い。この世界では十年もの月日が経過していて。しかも、”俺”は行方不明になっていた訳でも何でも無く、この世界で十年を、当たり前のように過ごしていたのだ。「……はは、ははは、あはあははははっ、なんだ、それっ……ありなのか? 反則だろ……こんな現実(オチ)、ありえんのかよっ……ひはっ、あはははは……!」 笑えてくる。笑うしかなかった。泥まみれで、血だらけで、人形のように手足を地面に投げ出したまま俺は思わぬ現実の酷いネタバラシに身を捩ってケタケタ笑い出した。おかしさのあまり、腹が痛くなり、涙が滲んでくる。だって、そうだろう? まさか、自分が偽物だったなんて、思う訳がない。どこの誰が自分の記憶を疑うのだろうか? 数十年生きてきた自分の人生を疑うなんて、正気の沙汰ではありえない。しかし、疑わなかった俺の頭が狂っているという事実だったのだ。「あ、はははは、く、ひひっ、うるせぇよ、黙れ……黙れ黙れ黙れっ! 違う、俺の姿は、本当の姿はこんなんじゃないっ! ”俺”に戻れ!! 戻りやがれッ!!」 目の前の手を拳にして握り、何度も水溜まりに漂う青色の髪に拳を叩きつける。けれど、戻らない。戻るはずがない。夢から覚めたいと願っても、アイリーンが目を覚まさなかったように。アイリーンが”俺”に戻ることはありえない。 打ちつけた腕が激痛を発しても、執拗に殴る。諦めたら、ここでやめたら、もう二度と俺は”俺”に戻れない。そんな気がして。もう腕なんて折れてもいい、戻れるなら、帰れるなら、俺は「……リーンさんっ……アイリーンさんっ!!」 何かが地面を滑る音。そして、誰かが近付いてくる足音。何度も地面を叩きつけていた俺の腕を、掴む感触があった。誰かの足が見える。掴まれた腕が激しく痛む。折れてもいい、ではなく、とっくのとうに折れていたのかもしれない。うつ伏せに倒れていた俺の身体は、引っ張られた腕に合わせて仰向けにひっくり返る。暗い空、上から俺を覗き込む人影。それは、見覚えのある顔であった。「……エリ、オ?」「なんで、なんでこんな所に、こんな酷い怪我をして……待ってて下さいっ、すぐに隊長達に連絡を!」 赤い髪をした少年。真っ赤に燃えるような、これもまた地球人にはありえない色鮮やかな毛髪。何故か彼は血の気の引いた顔で俺を見下ろしていて。恐怖すら感じる必死な表情で、俺に呼びかけてきた。エリオは腕時計、待機フォルムのストラーダを通して念話で他の人間を呼ぼうとしているようだった。 考える前に、俺はその腕を無事な方の手で掴み、止めていた。「……ぃ、やだ」「え? ……何がですか、アイリーンさん。早く、治療出来る人を呼ばないとっ」「いやだ……戻りたく、ないっ……」「何を言って……と、とにかく本当に危ないんですっ! しっかりして下さい!」「いやだっ!!」 半死半生の俺のどこにそんな力があったのか。手を外そうとするエリオの腕を、潰さんばかりに握り絞める。今、アイリーンとして扱われれば、俺は戻れなくなる、そんな気がして。連絡を取ろうとするエリオを必死に押し留めた。雨がより一層強くなり、顔を打たれた俺は呼吸もままなくなってきている。それでも、エリオの腕に縋る。呼んでほしくない、今は、誰とも、会話をしたくない。「……っ、すみませんっ!」「ぎっ!?」 バチン、と首筋に当てられたエリオの手から電流が迸った。全身から力が抜ける。目の前が暗くなり、意識が遠のく。ストラーダを掴んでいた手から力が抜けて、エリオの腕がするりと俺の手の中から抜けた。 嫌だ、俺はアイリーンでいたくない。俺は、”俺”のままでいたい。諦めたくない。「どうしてこんなっ……」「……」「アイリーン、さんッ!」 呼ばないで。お願いだから、誰も、呼ばないで。 口を動かしたが、声にはならなかった。もう、意識が保てない。引きずり込まれるように、俺は意識を手放す。散々に掻き乱れる感情も、絶望に染まった心も、諸共一緒に奈落の底に落ちていく。 赤ん坊は退屈だ。ハイハイどころか、寝返りも満足に打てない環境では特に。 マリエルという女性は全然泣かない俺を心配して、頻繁にベビーベッドの中を覗き込んでくる。でも、定期的にオムツを剥いで、股間を覗き込むのは恥ずかしいのでやめてください。 クロエという男は、家に帰宅する度に俺を抱え上げて、天井近くまで持ち上げたり、抱き締めて頬ずりしてくる。まだ肌の弱い俺にはその頬ずりが痛くて、泣いてやめろと主張した。案の定、真っ赤に腫れた俺の頬を見て、マリエルがクロエに激怒して説教している。見た目10代半ばのマリエルに、説教されて正座する褐色肌の大男は情けないことこの上ない。指を差して笑ってやろうとすると、何故かまだ泣いていると思われて、病院に連れていかれた。 ハイハイを覚え、そのまま壁際に突進。壁を支えに一気に二本足で立とうとした俺は、見事後ろにひっくり返って後頭部を強打する。赤ん坊の頭蓋骨は柔らかいらしいので、戦々恐々しながら頭を抑えて転がり回っていると。頭を打ちつけたシーンを見ていなかったのか、マリエルが「ころころしてるー、かわいいー」と何やら手に持った機械で俺を映し始めた。今こそ病院に連れていくべきじゃないのか。ばんばん床を手で叩いて抗議すると、床を叩く赤子の仕草に手を叩いて余計喜んだ。俺じゃなかったら泣いてグレるぞ、その所業。 自分の体より大きな杖のソーセキを家の庭で振り回している光景を思い出す。スバルちゃんに期待の目で見られて、魔法行使をするのだが。明かりを灯す魔法に地味だと言われて結構本気で凹む。仕方ないので、実はこれは人魂で、触れると魂を吸われて地獄に連れて行かれるんだ、という旨を怪談混じりに聞かせる。しかし、泣いて逃げ出したのは一緒に聞いていたギンガの方で、あっという間に小さくなっていく背中をスバルちゃんと一緒に目を丸くして見送ったことを覚えている。というか、映像に残してある。忘れろ? 消せ? ははは、ギンガの結婚式で流してやるまで断るぜ。 構成の勉強に詰まり、うがーっと卓袱台返しした所を、たまたま尋ねてきたティアナさんの脛に思いきりぶつけて逆さ吊りの刑に処された。スカートが捲れてパンツ丸出しにされてしまったので、セクハラ女王めと罵ってやると、スバルちゃんが腹を捩れさせるほど大受けして、隣に吊るされた。なんでも、スバルちゃんにだけは言われたくなかったらしい。何貴女達、そんな年齢で百合百合しい関係?と聞くと首を傾げられた。年齢的に早かったのか、その例えがミッドチルダにないのか、微妙な所である。 自分で稼げるようになってからは生活が一変した。体が子供のせいか、巨人のように見える大人達に混じって、論議・論争に意見交換の毎日。今まで手の出せなかった専門書を制限なく購入出来るのは非常にありがたく、実に楽しい日々だった。まあ、たまにレジアスのおっさんが正式に局員にならないかと聞いて来たり、直接・ギンガ経由問わずマリエルにぶつくさ文句を言われるようになったりだとか。身体に気を付けて、でも、あんまりレジアス中将に無茶を言わないように、と親と局員の狭間でクロエが胃を痛そうにしながら顔色伺って来たりとか。別方面の悩みも出来てしまった。学校にはきちんと行ってるんだし、問題ないと思うけどなぁ。まだ7歳なのが問題か。はやく大人になりたーい。 いつの間にか、前職と似たような仕事をしていることに、タカマチ隊長の書類を片付けながら魔法構成の効率化を練っていた俺は唐突に気が付いた。魔法でも科学でも、結局自分の適性というか性分は変わらないらしい。ふと振り返ると、ベッドに縛り付けていたバインドを自力で解除して、そろそろ抜け出そうとしているタカマチ隊長と目が合う。えへへー、と可愛く笑う彼女を許してやりたくもなるが、却下である。そんなに仕事したいなら明日書類仕事でデスクから動けなくしてやると宣言すると、平謝りされた。知ってるか、この人一応上司なんだぜ。 ヴィータ副隊長から、本日の書類仕事を引き受ける代わりに苺味とオレンジ味の飴を2袋譲って貰う。とても甘い飴をころころ口の中で転がして、ご機嫌で鼻歌を歌いながら仕事を進めているとそれをたまたま入ってきたエリオに見られた。異様に恥ずかしく、ソーセキを片手に追い回しているとキャロちゃんが間に入ってくる。女の子の背に隠れるとは情けない奴め。そう言ってやったら、マジ凹みしてその日一日俺とキャロちゃんに近寄らなかった。メンタル弱っ。 ある日、仕事から帰ってくるとマリエルに怒られた。とてもとても、怒られた。自分のことが嫌いなのか、母親として信頼してくれていないのかと泣かれてしまった。そんなことないよと俺は言う。かーさんのこと好きだよと俺は囁く。だが、それは本当なのだろうか? 俺は本当に、彼女を、彼女達を愛しているのだろうか? ゆっくりと、俺は瞼を開いた。随分と長い夢を見ていた気がする。色んな人物が出てきたののは覚えているが、具体的にどんな夢を見ていたのかは少しも思い出せない。耳鳴りがする。頭痛がする。視界がぼやけている。体の感覚が曖昧で、未だ夢の中にいるかのようだ。「あぐっ……!?」 そんな夢見心地を一気に現実に引き戻したのは鋭い腕の痛みだ。半ば無意識に身体を起こそうとして、地面に付いた手に激痛が走ったのだ。起こしかけていた上体は逆戻りし、転がったまま呻く。右手が死ぬほど痛い。しばし唸りながら鈍痛と戦う。そうやって身悶えしていたのだが、ふと、自分の頭が何かに乗っているのに気付いた。枕にしては大き過ぎて、少し硬い。横に向いていた顔を天井へと向けると、思いもよらぬものが目に入った。「……エリオ?」「すー……すー……」 俺の頭上にあったのはエリオの顔、目を瞑って寝ているのか、項垂れた頭を下から覗き込んだ形になっていた。どうやら座ったまま寝ているエリオの膝を枕にして、俺は眠っていたらしい。俯くエリオの赤い髪が目の前に垂れていた。いつもはツンツン頭で天に伸びていた髪が湿って全て垂れているので、常より長く感じる。 こうして、間近で観察する機会などなかった。痛みと痺れで動かない右手ではなく、どうにか動く左手でその顔に触れる。その顔付きはまだまだ幼く、こうして改めてみてもやはり子供だ。頬を撫で、顎先に到達する。当然ながら、髭などまだ生えていない。滑らかな感触が指先から伝わってきて。 その時、エリオの瞼が小さく震えて、俺は慌てて手を引いた。触れていた理由も、隠すように慌てて手を下ろした理由も、特にはない。ただ、触れたかった。今は何かに、触れていたかったんだ。「……んっ、んんっ。ふあ、ぁぁ……」 目を瞬かせ、欠伸を噛み殺す。そんな仕草のエリオを見上げて、俺は唾を飲み込み見守った。まだ、思考がまとまらない、どう対応したらいいか分からない。だから、俺はエリオが起きるのを、じっと観察し続けていた。 瞼が開いて青い瞳が見える。ぼやけていた焦点が結ばれ、見上げていた俺と視線がぶつかる。数秒、視線が合ったまま見つめ合い、そして。「アイリーンさんっ!?」「いがっ……!? お、大きな声出すな、頭割れる……」 エリオの大声に、二日酔いのような激しい頭痛を感じた俺は、ぼやきながらエリオを睨んだ。普段から叱られているからだろう、反射的に言葉を飲み込んだエリオだが、すぐに我に返ったように話しかけてくる。音量を抑えて、それでも多大な感情を押しこめた声で話し掛けてくる。「目が覚めたんですね、良かった……一時はどうなることかと……」「……どういう、意味?」「どういう意味も何もありませんよっ。どうして急に別荘からいなくなったんですか? しかも、あんな場所で大怪我して倒れてたんですから心配するのは当たり前ですっ。一体全体、どうしちゃったんですか……!」 叫ばないように声量こそ抑えているが、詰問するような強い語調で問いかけてくる。 大怪我? エリオの台詞に、俺は何が起こったのか記憶を掘り返して「……」 すぐ、思い出せた。 何故、忘れていられたのだろう。”俺”がもう一人いた。違う、本物の”俺”が別にいた。 鈍い痛みが頭の奥で変わらず疼いていたが、それ以上の寒気と怖気が全身を襲った。つまり、ここにこうしている俺は、”俺”ではないのだ。電波で他人を自分だと思い込んでいるか、はたまた何らかの理由でアイリーンが”俺”の記憶を所持しているだけか、どちらにしても、本物ではありえない。アイリーンの身体を持ち、”俺”の記憶と人格を持っているだけの……真っ赤な偽物だ。呼吸が早くなる。心臓が痛いぐらいに早くなり始める。カチカチと歯の根が合わなくなり、震え出す。 そんな俺の手を、エリオの手が包み込むようにして握り締めた。振り払いたい。だけど、そんな気力さえ俺には残されていなくて。「何か、あったんですか? アイリーンさん」「違うッ! 俺はアイリーンじゃないッ!!」 エリオの戸惑った質問に、俺は思わず否定の言葉を叫んでいた。痛みも、苦しみも、その瞬間だけは吹き飛んでいた。少し前まで出来たアイリーンの”演技”をする気にもなれない。 子供に何を言ってるんだ、弱音など聞かせるべきではない。大体説明に、答えにすらなってない。”俺”がそう言うが、もう、自分の事さえ信用出来なくなった今の俺には子供に気を使うことさえ億劫だ。もう、放っておいてほしい。こんな頭のおかしい、人間のことなど。 ……けれども、エリオはいつもの調子で話し掛けてくる。「何言ってるんですかっ。貴女はアイリーンさんですっ」「……知らない間に、なり変わっているかもしれない」「それだったら気付きますよ。もう付き合いも……長くは、ないですけど。短くだってないんですから。分からない訳ありません。同じ部隊の仲間じゃないですかっ」「……臭い上にウザい」「そ、そういう地味に傷付くことを言うのはアイリーンさんしかいません!」 エリオには一度素で接してしまっていてから、演技の皮はほとんど被っていない。エリオの目は、少しの疑心もなく俺がアイリーンだと確信している瞳だ。忌々しい、俺を……アイリーンだと認めるその目が、とても苛立たしかった。 左腕に力を込めて、身を起こす。慌ててエリオが押し留めようとしたが、それを一瞥だけで追い払った。理不尽な怒りが胸を焦がす。エリオが悪い訳ではないのに、そのいつもと変わらない間抜け面に腹が立つ。どうにか身を起こしきり、座り込むと腹に力を込めて、怨嗟の声を目の前の少年に叩きつけた。「お前に、俺の、何が分かる……」「……」 エリオが目を丸くする。そんなこと言われても困るだろう、”俺”が俺を馬鹿にするように笑う。苛立たしい、世界の全てが腹立たしい。俺は誰だ、俺はなんだ、”俺”でないなら、俺は一体何者だ。そんな苦悩が怒りとなって、エリオにぶつけてしまう。馬鹿か俺は。でも、止められない。「俺が居た……俺は本物じゃなかった。ここにいるのは、アイリーンなんて名前を付けられた頭のおかしいガキだ。はっ、エリオ、お前俺が頭良いとか天才だとか言ってたよな? ちげえよ、俺は頭の中じゃ、別の人間のつもりだったんだよ。三十路も過ぎた、大人のつもりだったんだ。――それが、ちょっと真実を突き付けられただけでこの有様だ」「……」「もう良い、俺の事は放っておいてくれ。お前みたいな脳天気でヘタレたガキを見てると苛々するんだよ。もう、子守はたくさんだ。さっさと、消えろっ」「……」 一言も、エリオは言い返してこなかった。胃の中に溜まったドス黒い物を、目の前の何も知らない子供に叩き付ける。言葉は色々足りない、八つ当たりでしかない。今まで大事に守ってきた物を、大人としてのプライドを、自らズタズタに引き裂いて、これ以上ないぐらいに見っとも無く憎悪を撒き散らした。 言ってやった、ただ爽快感は全くのゼロ。喉が渇き、引き攣るのが分かる。油断すれば、また涙が零れ落ちそうだった。情けない、本当に情けない。目を瞑る。ぽかんと口を開けたエリオの顔を見るのも限界だった。放っておいて欲しい、それは限りなく本音で。「アイリーンさん」「……ぁ?」 だというのに。今まで築いてきた信頼を、土足で徹底的に踏み躙ってやったのに。 俺はエリオの腕の中にいた。「苦しい、ですよね。自分が自分じゃなかったってことは。自分が信じていた事が、本物じゃなくて。足元ががらがら崩れていくみたいに、立っていられなくなりますよね」 何を、言っているのだろうか? こいつは。 エリオの胸の中に頭を抱え込まれた俺は、純粋に疑問だった。あんな狂人のような支離滅裂な発言を、どうしてまともに聞くことが出来るのだろうか。引いて当然だ。嫌悪して当たり前だ。例え事情を細かく説明したとしても、こんな狂った事実にどれだけの人間が理解を示すのだろう? それだというのに、俺の身体を包むようにして抱き締めたエリオは、言葉を紡ぎ続ける。「でも、ここにいる僕達は僕達なんです。今こうやって僕が触れているのは、どのアイリーンさんでもない。貴女です。今こうして感じていることだけは、誰にだって否定はさせない……僕達の物なんです!」「なん、で……」 なんで、分かるんだ。エスパーなのか、こいつは。 あんな言葉足らずで、ヤケッパチで、説明にも何もなっていなかったというのに。なんで、それなのにこいつは俺の事を……こんなにも、理解、しているんだ。「苦しいのは分かってます。自分が世界に一人きりになったみたいに、寂しいのも分かります。だけど、大丈夫です。世界は……平等でもないし、残酷だけど。思ったよりも優しいんです。だって、フェイトさんも、なのは隊長達も、スバルさん、ティアナさん、キャロ、それに僕だって着いてます。……みんな、アイリーンさんのことが大好きですから」「っ……あ……ぅ……」 無事な左手、無事ではない右手。どちらも使って、エリオの背中に腕を回す。掻き抱くように服を掴む。力を込めたら、エリオはそれ以上の力で抱き締め返してきた。そんなやりとりが、たったそれだけの行為が、どうしようもなく嬉しい。「います。僕達は、ここにいます。僕の知ってるアイリーンさんは……ここにいます」「あ、あ、あっ、うぅぅぅぅぅ……!」 腕の痛みも、気にならない。エリオの胸板に顔を押し付けて、嗚咽を漏らす。俺は”俺”ではなかった。けれども、エリオは俺を認識している。持て余した感情が涙と声になって溢れ出してしまって、ただひたすらしがみ付くことしか出来なかった。 あちこちぶつけて、胴体の方にも怪我しているのだろう。エリオが強く抱き寄せると、それだけ痛みも感じたが。それさえも、今の俺にとっては大事な物だった。自分の地盤が全て消えうせる感覚、自分が自分でなくなってしまうような途方もない絶望。しかし、この痛みは、他でもない俺が感じている物で。 鼻水を啜りながら、俺は涙を零す。自分の失った物の大きさを、今更実感して。そして、まだ自分には残されている物があるのだと知って。子供のように、声を上げて泣いた。「忘れろ」「え、えー……?」「忘れなきゃ殺す」「だ、だって、あんな意味深なこと言われて、それ全部説明なしですか!? アイリーンさんが誰も呼ぶなって言ったから、間違いなく怒られるの覚悟で通信も全部カットしたのに!」「そんなのお前が勝手にやったことだ、怒られろ。タカマチ隊長に扱かれて死んでしまえ」「う、うわーんっ、この人やっぱり酷いっ! ナチュラルに酷いっ!!」 右腕はおそらく骨折。足首も重度の捻挫。エリオに背負われて駐屯場所のコテージに向かっている俺は、恥ずかしさのあまりその背中から顔を上げられなかった。死にたい。さっきとは別の意味で死にたい。 いくら衝撃の事実で、頭トチ狂っていたのだとしても、あれはない。自分より年下の子供相手に、助けられて、それなのに八つ当たりして、慰められて、泣き喚いたとか。あれはない。頭を打ちつけて全て忘れたい。どうして記憶操作系の魔法は違法なんだ。いいだろ、忘れたい記憶は全て忘れたって。 顔全体が熱くなり、耳まで赤くなっているのを自覚する。頭の上からは湯気が出ているかもしれないほど、顔が熱い。あまり揺らされると傷に響くので、エリオはゆったりとしたペースで歩いている。実際鈍痛は未だに骨の芯から響くようだが、痛みが過ぎてもう痺れに変わってしまい苦悶するほどではない。だから、ではないのだけど。一切合財動く気にはなれないのに、エリオを罵倒する口のペースだけは衰えなかった。「うぅぅ、アイリーンさん酷い……どうしてこうなった……」「それはこっちの台詞だ!」「こっちの台詞ですよっ!? こんなことなら助けなきゃ良かったですってば!」「……えっ?」「……あ、いやっ、冗談ですよ? 本気でそんなこと思ってないですよ?」「ち、違う! 動揺してない! くの、物理的に消去してやる! 忘れろっ、忘れ、あ、い゛っだぁぁぁ!!」「うわぁ、右手で叩いちゃダメですっ!」 立ち直れては、まだいない。衝撃の事実に今でも頭の中がぐるぐるともう一人の”俺”のことで渦巻いている。でも、散々喚き散らして、泣くだけ泣いて。一時の激情を全て吐き出して、我を取り戻していた。混乱が収まってくれば、後から沸いてくるのは後悔と羞恥である。 よりにもよって、なんでエリオなのか。毎回毎回、こいつの前で醜態を晒している気がする。今回ばかりは責める気はない。だが、よくよく考えれば、六課に来てからの失敗全てこの赤毛小僧絡みだ。よっぽど相性か星の巡りあわせでも悪いのだろうか? キャロちゃんやスバルちゃんにあの時の自分を発見されるよりはマシだったけれど、隊長陣やティアナさんだって良かっただろうに。 はぁ、この後の事を考えると頭が痛い。切羽詰っていたとはいえ、いくつ規則を破ったか考えたくもない。どうも、俺が居なくなったのはものの数十分ですぐに知れ渡ったらしい。隊長達を始めとしたフォワード陣に現地協力の友人達、ヤガミ部隊長やリィンフォース空曹長まで。文字通り総出で俺の探索を行い、その途中でエリオが土手の下に倒れている俺を見つけたという訳だ。だがまあ、エリオは俺が引きとめたのをそのまま実行してしまい、橋の下で雨宿りしながら連絡もせず通信を遮断し、応急処置だけ施して俺が起きるまで看病していたとのことだ。俺が言うのもどうかと思うが、それは連絡する所だろう。俺が言うのもなんであるが。大事な事なので二回言った。反省はしている。 先ほどエリオが通信ラインを復帰させた際には、頭が痛くなるぐらいの量の念話が一気に飛び込んできた。まず真っ先にエリオを心配するフェイト隊長の金切り声。次にスバルちゃんの「アイリーンちゃん」「大丈夫?」連呼の絶叫念話。そこにティアナさんとキャロちゃんの念話も加わり、危うく気絶しかけた所にヴィータ副隊長の横槍が入って沈静化した。 もっとも、最後の「今から迎えに行くね」と一言告げて念話を切ったタカマチ隊長の声が一番印象に残っているのは何故だろうか。なんだか寒気がする。服はエリオが魔法で乾かしてくれたらしいが、雨に散々打たれたので風邪を引いたかもしれない。 痛みのない左腕の方で、ぎゅっとエリオの首にしがみ付く。寒いから仕方ない。それに今はちょっと人肌が恋しいのだから、そう、仕方ないのだ。「あの、アイリーンさん」「……何?」「アイリーンさんがどういう事情を抱えていても、僕にとってのアイリーンさんは貴女だけですから」「……生意気な事言うな、馬鹿」 タカマチ隊長に頭を冷やされる前の、恥ずかしいやり取りだった。■■後書き■■この作品はTS要素を含んだ女の子が主役の話です。オリジナル設定&オリジナル解釈が多々含まれます。そういう物に拒否感を覚える方はブラウザの戻るボタンを押して下さい。チョロイン言うなし。恋愛話にはなりません。次回以降からはシリアスモード解除でまったりに戻ると思います。謎は残りますが。