衛宮士郎の朝は早い。
とにかく、現在朝の5時。
たいていの人間はまだ夢の中の時間に、目覚ましの手助けなしに起き上がってくる。
これはつまり、彼にとってこの時間に起きるのは何の苦もないどころか、当たり前であることを示している。
遅刻という言葉からは、果てしなく縁遠い男である。
そんな早朝に起きて何をしているのかというと、ひとまず身支度を整え、その後は早速掃除と洗濯に入った。
しかも、箒で軽く掃くなどという簡単なものではなく、はたきや雑巾までもちだしてきての充実した掃除だ。
一般の一軒家よりも確実に広いのだが、その家を隅々まで掃除していく。
さすがにプライバシーというものがあるので、同居人の部屋には入っていかないし、先日整備した工房も手をつけない。
後者の方は掃除をしようと思えば、丸1日かかるくらいの覚悟がいる。
広さはそれほどでもないが、とにかく物が多い。
それもかなりヤバい代物もあるので、迂闊に触ることができないせいだ。
ここの掃除には、工房の主でもある師の助けが必要だろう。
掃除にかかった時間は約30分。
これだけの広さを、どうやったらこの短時間でこなせるのか、甚だ疑問である。
また、洗濯に関しては手洗いであるにもかかわらず、洗濯機も顔負けの速度でこなしていき、わずかに20分で片づけてしまった。
いくら洗濯物のいくつかは相方の担当とはいえ、どうやればこのペースでこなせるのか。
一家に一人衛宮士郎、というキャッチコピーが十分に成立する男である。
とにかく掃除に一段落がつくと、今度は庭に出て鍛錬を始める。
そう込み入ったことをしているわけではなく、精々体をほぐすための柔軟と少々の筋力トレーニング。
体が硬くては、そもそも戦いなどできるはずもないので、ほぐすためといってもかなり念入りにやっている。
筋力トレーニングの方は、現在の体が小学生くらいであることを考えれば、あまりやり過ぎるのはよくない。
過度のトレーニングは成長を阻害する可能性があるとも言われている。
昔は背のことでコンプレックスがあった身として、またあのような思いをしたくないのだろう。
人形の体とは言え、限りなく生身のそれに近い以上、あまり無理をするわけにはいかない。
必要最低限と考えるトレーニングで済ませている。
柔軟とトレーニングを終え、そこからは剣の鍛錬に入る。
投影で作り上げるのは、最も手に馴染んだ干将・莫耶。厳密にはその縮小版。
子どもの体になったことに合わせ、その状態でも使いやすいようにやや全体のサイズを縮めてある。
ただし、意外にその変形が面倒だったため、完成するまでに三日かかっていたりもするが。
それはともかく……。
魔力を漏らさない結界が張ってあるので、魔術を使ってもまず外部に気づかれることはない。
はじめのうちは体の動きを確認するように軽く振っていた。
だが、だんだんとその動きは勢いを増し、一心不乱に振っていく。
少し時間が経つと、当初の動きを確認するかのような様子は見受けられず、一瞬の遅滞もない剣舞となっていた。
もう人形の体になり、若返ってから一月以上たつが、まだこの体になれたとは言えない。
身長180㎝台だったのが、かなり縮んでしまったのだ。
間合いの測り方や、そもそもの視点からいっても激変している。
こればかりは慣れるしかないようで、日々鍛錬を積んで感覚を修正するしかないのだろう。
しばらく剣を振っていたのだが、それが突然止まる。
息を整えるように二・三度深呼吸すると、今度は一転して動きを止め、剣を持った手をだらりとさせる。
先ほどまでの激しさはなりをひそめ、かわりに空気には一種の緊張が走る。
まるでそこに敵がいるかのような緊張感が辺りを覆う。仮想敵を相手にしての鍛錬に移行した。
少々の静寂の後、再び動き始める。
だが先ほどまでと違い、攻めるような動きはほとんどなく、受けに回っているような印象が強い。
それは、それだけの相手を想定しているのだろう。
やられっぱなしというわけではないようで、隙を見つけては攻撃に転じている。
時折動きを止め、そのたびに想定する相手を変えているようで、わずかではあるが動きに違いがある。
そのまましばらくの間、区切りと相手を変えてのシャドーを繰り返す。
7時が近くなってきたところで、鍛錬を終え家に戻っていく。
一度軽く汗を(冷水で)流して、今度はキッチンに向かっていく。
同居人である遠坂凛は、起こしに行かなければまずこの時間では起きてこない。
そのため、朝食は彼の担当になる。
凛の場合は、朝は食べない主義などと昔は言っていた。
しかし、今ではすっかり士郎の習慣に染まり、朝食を所望するようになっている。
あくまでも所望であって、自分で作ることはまずないことをここに記す。
本日のメニューは、焚きたての白米に、わかめと玉ねぎの味噌汁、昨晩作った肉じゃが、目玉焼き、ふろふき大根、そして漬け物。
実に和風な朝食である。
朝食の準備が一段落ついたところで、今度は相方を起こしに行こうとエプロンに手をかける。
そこへ……
「………うぅ~……。士郎、牛乳ぅ~……」
髪はぼさぼさで、眼はすわり、ふらふらとした足取りで遠坂凛がやってきた。
学校のクラスメートたちがこの光景を見れば、たいそう驚くだろう。
まぁ、凛がこんな無防備な姿を見せるのはここだけのことなので、その心配はいらないのだろうが。
「ほら。まったく、いつまでたっても朝が弱いのは変わらないよな」
半ばあきれ混じりに士郎が言うが、凛は受け取った牛乳の入ったコップを口につけ、気にせずに中身を飲み干す。
いっそ清々しいまでの一気飲みのあとに、凛が返事をする。
「…ぷはぁ。ふん、他のところではこんなみっともない姿、絶対に見せないから問題ないわよ。
ほら、さっさと食べて学校行くわよ」
さっきまで寝続け、一切の家事を押し付けていた人間の発言とは思えない。
そのまま二人は、食卓に出来上がったばかりの料理を並べ、椅子に座って手を合わせる。
「「いただきます」」
こうして、並行世界の魔術師たちの1日がはじまる。
第3話「幕間 新たな日常」
SIDE-士郎
現在、俺たちは学校に登校している真っ最中。
そのメンバーは、俺と凛になのは、すずか、アリサの5人。
凛が3人と初日から友人関係になって、待ち合わせをするようになったので、こうしてみんな揃っての登校となる。
話題になっているのは他愛もない話ばかりで、勉強のことや習い事のことが中心だ。
だが、ここでアリサが唐突に話を変える。
「ところでさ、今日の放課後みんなで翠屋に行かない。
まだ凛たちは行ったことないだろうし、あそこのシュークリームは絶品なんだから」
翠屋というのは、なのはのご両親が経営する喫茶店で、海鳴で大人気のお店らしい。
なんでもなのはのお母さんは昔、パティシエとして働いていたそうで、その腕前は大層なものだとか。
連日翠屋は、ケーキを求めるお客さんで大変混雑する。
だが、経営者の娘であるなのはと一緒ならいろいろ優遇してくれるらしい。
俺も話には聞いていたので、常々行ってみたいとは思っていた。
どうやらそれは凛も同じらしい。
「いいわね。私もなのはのお家のお店には興味があったから、ちょうどいい機会かな。
シュークリームとかだけじゃなくて、紅茶の方でもかなりレベルが高いんだったわよね。楽しみにしてるわ。
ところで士郎。そういうわけだから、アンタ今日は用事入れるんじゃないわよ」
とんとん拍子で話は進んでいき、今日の放課後翠屋に行くのは決定らしい。
俺だけくぎを刺されるのは、転入してからというもの、よく学校の備品の整備や用務員さんの手伝いをしたりして、一緒に帰れないことがあるせいだ。
みんなには悪いとは思うけど、整備や手伝いをするとみんな喜んでくれるので、やりがいはある。
もう二十年近くになる習慣のようなものでもあるので、そう簡単には抜けないだろうし、特に抜く気もない。
今の俺の最優先は凛の幸せではあるけど、これは多分一生なくならないだろう。
別に凛の幸せとぶつかるわけでもないし、可能な範囲でやっていこうと思っている。
やっぱり誰かの助けになれるのは、嬉しい限りだ。
まぁ、さすがにこんな時に用事を入れるほど無粋ではないつもりなので、もちろん承諾する。
「ああ、わかってるって。俺としても、その絶品シュークリームってのには興味があるからな。
まぁクラスが違うから、多少待ってもらうことになるかもしれないけど」
HRの終わり方はクラスごとに違うので、俺だけみんなに待ってもらうことになりかねないが、これぐらいは問題ないだろう。
今日は特に予定も入れていなかったので、よっぽどの事態が起きない限りは大丈夫だ。
ところで、正直言ってさっきから肩身が狭い。
別に、女の子に囲まれているせいというわけではない。
いや、あながち間違ってもいないのだが。
凛たちは気づいていないのか平然としているが、俺としては非常に居心地が悪い。
その原因となっているのは、周りからの視線だ。
奇異の視線から嫉妬を含むものまで様々な視線が向けられ、どうにも落ち着かない。
理由はわかっている。
俺がこの4人と一緒にいるせいだ。
4人ともタイプこそ違えど、幼いながらに将来有望な容姿の持ち主たち。
この4人と仲良く登校しているような男がいれば、それは良くも悪くも興味の対象になるだろう。
俺だって、自分が当事者でなければ一瞥くらいする。
そういえば、高校時代にも似たようなことがあった。
俺が凛と桜の二人と一緒に登校した時も、似たような感じだった。
まぁあの時は、嫉妬の割合はこの数倍の上、中には殺気さえ混じっているものもあった。
それに比べれば、幾分ましだとは思う。
だがこの先、中学・高校と上がっていくにつれ、この視線はかつてのそれに近づいて行くのは想像に難くない。
俺と凛が付き合っていることがばれて以降は、凛のファンたちの襲撃をうけたこともあった。
またあんな目に会うのかと考えると、どうしても鬱な気分になる。
幸いなのは、まだその時までだいぶ時間があることか。
しかし、時間があるからといって、特に対策があるわけでもない。
回避方法が思いつかないせいで、ある意味確定した未来のようなものなので、より気落ちしてしまう。
凛に相談しても、特に対策を講じてくれるとは思えない。
あの時も、俺に直接的に攻撃をしてこない限りは傍観に徹し、ニヤニヤしながら見物していたものな。
本当にやばくならない限り、助けてくれないだろう。
そんな嫌な思考をしていると、いつの間にか校門をくぐり、靴をはきかえ、教室の前に来ていた。
ここで凛たちとは別れ、俺は自分のクラスに入る。
「おはよう」
開口一番挨拶をするが、返事はない。
別にイジメにあっているというわけではなく、単に俺がクラスに馴染めていないせいだ。
理由としては、登校時の視線と同じようなもの。
他クラスの凛たちと仲良くしているせいで、どうにも自分のクラスの人たちとの交流は薄い。それも、特に男子。
女子の方は、俺のこの容姿が近寄り難い雰囲気を出しているのだろう。
褐色の肌に白髪というのは、外人の多い海鳴でもまずいないせいだ。
こればかりは慣れてくれるまで待つしかない。
まぁしょうがないとも思うので、そのまま自分の席に着く。
そこへ、聞き間違うことのない珍妙な口調で声をかけられる。
「相変わらずのようでござるな、衛宮殿。
いや、同じ男として羨ましい限りでござるよ」
かっかっかっ……と、やはり小学生らしくない口調で話しかけてくる後藤君。
そりゃあね、外野から見ている分にはうらやましいことだろうが、当事者としては勘弁してほしい。
今はまだいいが、この先のことを考えるといつまで笑いごとで済ませられるか、非常に心配なのだ。
「そんなに羨ましいなら、代わってくれないか……。
喜んでみんなに紹介するぞ」
「いや、結構。拙者とてまだ命は惜しい。
ここは謹んで辞退させていただこう」
迷いなしか。まぁそうだろう。
役得もあるが、それ以上に不利益を被るのだから、誰だって勘弁してほしいはずだ。
一時の感情で、取り返しのつかないことになるのは誰だって避けたい。
道連れにされるとわかっていて受ける奴なんて、よっぽどの馬鹿か、度の超えた女好きだ。
「薄情者」
恨みがましく言ってやるが、こんなものは負け犬の遠吠えと変わらない。
そうこうしているうちに予鈴が鳴り、後藤君は席に戻っていく。
* * * * *
現在は3時間目の体育の時間。
隣のクラスということで、凛たちのクラスとドッジボールで試合の最中。合同授業というやつらしい。
チームわけはわかりやすくクラスごとに、男女混合で2チームに分けての総当たり戦だ。
だが、向こうの戦力の集中具合には本当に作為はないのだろうか。
いや戦力よりも、そのメンバーに作為をヒシヒシと感じる。
向こうのメンバーは、凛になのは、すずか、アリサと他多数。
さすがに交流があるとはいえ、他の人たちの名前なんてわからないので、ここは割愛する。
どう見ても、俺に対する何らかの作為があるように思えてならない。
試合が始まってわかったことだが、凛とアリサのコンビはなかなかに相性がいい。
どっちもどんどんリードしていくタイプなだけに、衝突になるかもしれないと思っていてのだが、甘かった。
この二人、性格以上に考え方が似通っているようだ。
意見がぶつかるどころか阿吽の呼吸を発揮して、主語を抜かした会話を成立させている。
最低限のやり取りだけで意志の疎通をなしているのは、相当に長い付き合いを感じさせる。
その実、まだ付き合いは半月に満たないのだから驚きだ。
意外というのでは、すずかもそうだ。
普段おっとりしている方なので、あまり運動とかは得意ではない印象が強かったのだが、違ったらしい。
むしろ積極的にボールを取りに行き、味方をフォローしている。
凛とアリサが指示を出し、すずかが二人と一緒に果敢に攻めるという図式が成立している。
というかだ、何で小学生が飛んでくるボールを「キャッチ」という動作を抜きにして、ダイレクトに投げ返すなんて離れ業ができるんだ?
一体どこのプロの技術だよ。しかも結構余裕だし。
混血か異能者の一族の可能性もあると思っていたけど、ここまであからさまに並外れたことをされると、逆に違うような気がしてくる。
だって本当にそうなら、こんなわかりやすい形でそれをさらすなんておかしいだろ。
なのはの方はノーコメント。
開始早々に外野に移動し、その後ほとんどボールに触ることがなかったことをここに記す。
いや、運動音痴っているんだな。
他のメンバーも善戦しており、確実にこちらの戦力は減らされている。
要の3人のうち、誰か一人でいいから討ちとって、流れを変えないと勝ち目はない。
幸いここで俺の手にボールが渡る。狙いはアリサ。
起死回生の一投で、流れをこちらに引き寄せる。
「いくぞ!」
あまり強く投げるわけにもいかないし、ここはコントロールで討ちとろうと、太ももの辺りを狙う。
首から上は論外だし、腕や足と言った末端部分は避けやすい。
胴体部分なんて、取ってくださいと言っているようなものだ。
だけど、ここなら結構取りずらいし、よけようにもかなり大きく動く必要があるので、そう簡単にはいかない。
何よりアリサの性格上、逃げるなんて選択肢はないだろう。
「来なさい!!」
案の定アリサは取る気満々のようで、若干腰を落としてボールに備える。
振りかぶって投げる。
それなりに勢いはついているが、威力はそれほどではない。そのかわり狙いは完璧。
これならば、と思っていた矢先に、その考えが甘かったことを思い知る。
バシッ!
思いのほか威力を弱くし過ぎたのか、それとも俺がアリサの身体能力を見誤ったのか。
とにかくボールはねらいに反し、危なげなくキャッチされる。
反撃される前に体勢を立て直そうとするが、そこでとんでもない光景を目にする。
アリサはホールドしたボールを、突然後ろに向かってほうる。
全員が呆気に取られている中、アリサはそのままその場で屈み込む。
すると、アリサの体で死角になっていたところから、ボールを振りかぶった凛が姿を現した。
そしてそのまま、勢いよく振りかぶっていたボールを、思い切り投げる。
呆気に取られていた俺は、そのまま飛んでくるボールに対する反応が遅れ、逆に討ちとられてしまった。
あまりのことに、全員がそのまま唖然とする。
すずかの個人プレーもとんでもないが、この二人が今見せた連携は何なんだ。
いつの間にか凛がアリサの後ろに回り、その凛に向かってアリサはキャッチしたボールをパスしたのだ。
その上で、狙い澄ましたかのようなタイミングでアリサが屈み、凛が攻撃する。
まさか、こんな連携を用意しているとは思わなかった。完全に裏をかかれてしまった。
「く!? してやられた。
だけど、どうやってこんな手を申し合わせたんだ。
これは、少しでもタイミングがずれたら成立しない連携だぞ。
よっぽど念入りに打ち合わせしないとできないはずだ」
どうしても釈然としないので聞いてみる。
打ち合わせをしている暇などなかったのに、いつの間にこんなことを申し合わせたんだ、この二人は。
「打ち合わせなんてしてないわよ。
凛のことだから、きっと後ろにいるだろうと思ったから投げただけだもの」
「はい?」
それはつまり、当てずっぽうということか。
打ち合わせなしで、きっとそこにいるという一種勘のようなもので、これだけのトンデモプレーを成功させたというのか。
いくらなんでも、そんなデタラメな。
「アリサを狙っているのはわかっていました。でも、衛宮君はそう簡単には討ちとれないでしょう。
だからこうして、奇襲をかけようとアリサの後ろに回ったんですよ」
凛は相変わらず猫を被ったままで解説する。
メガネこそないが、その右手は人さし指を立てて、すっかり解説モードに入っている。
つまり、凛の方はアリサなら必ず自分の意図に気づくと確信して、後ろに回ったということか。
息が合っているにもほどがあるぞ。
十年の付き合いがある、俺より息が合っているのだけは間違いない。
お前ら、実は双子とかじゃないのか。
こんなとんでもないコンビに、やたらとクオリティの高い技術を持つすずかのいるチームに勝てるはずもない。
4チーム総当たり戦は、凛チームの優勝で幕を閉じた。
いやもう、あれは反則だろう。
この3人は絶対に別のチームにしなければならない。
これが今回の体育で、2クラスの全員に共通した認識だ。
その後、各自で今日の感想を書くことになった。
校庭で書くわけにもいかないし、紙が汚れてもいけないので、いったんクラスに戻ってから書くことになる。
そこで、代表者が職員室から用紙を取りに行くことになった。
で、俺は今職員室から感想記入用の用紙を持って、自分のクラスに向かっている最中。
そこで、見知った後ろ姿を見かける。
あの長い黒髪は、すずかだな。
どうも、感想用のプリント以外にも配布物があるらしく、かなりの量を抱えている。
すずかの運動神経は今日のことで思い知ったが、あれだけの量は重いだろうと思い声をかける。
「すずか。俺も手伝うから、こっちに乗せろよ」
そう言うと、すずかは一瞬驚いたような顔をする。
そのまま少し考えこみ、遠慮がちに返事をする。
「えっと、大丈夫だよ、これくらい。ほら私、体動かすの得意だし」
出会った当初は黙り込んでしまっていたが、最近では段々気兼ねなく話してくれるようになってきた。
監視カメラの一件もあるので、警戒していたようだが少しはそれが解けてきているのだろう。
まぁ、このあたりの遠慮してしまうところは、性格のせいなのかもしれない。
「それでもだよ。女の子に重いものを持たせたままっていうのも、やっぱり問題だろ。
二人でやれば少しは軽くなるんだし、その方がいいさ」
たぶんこれ以上言ってもきっと遠慮し続けるだろうし、ここは少し無理矢理にでも手伝わせてもらう。
空いている片手で、すずかの抱えているプリントの束のうち半分くらいを、こっちの持っている分と向きを変えて乗せる。
これならごっちゃになることもないだろう。
「あ!? もう、強引なんだから。
先生や用務員さんはよく士郎君のこと褒めてるけど、用務員さんのお手伝いとかもそうやって、無理矢理やってるの?」
むぅ、無理矢理やっているつもりはないが、もしかしたらそうなのかもしれない。
気づいたものには、とりあえず手を出してしまうこともあるしな。
「でも、ありがとう。少し軽くなったからね。ちょっと嬉しかったかな」
「そうか、なら無理にでも手伝ってよかったな」
まぁ、こうして一応喜んでもらえているわけだし、別にいいんじゃないかな。
すずかも少し笑ってくれているようなので、特に迷惑でもなさそうだしやっぱりやってよかった。
そういえば、すずかの笑顔を見るというのは初めてのことだな。
いつもどこか強張ったような感じがしたから、こうして笑ってくれるのは違った意味でもうれしい。
そうして、俺たちは自分たちのクラスに向かっていく。
先にすずかたちの教室の前に着いたので、預かっていたプリントを返し、自分のクラスに向かうことにする。
「ねぇ、士郎君。士郎君、本当は……」
去り際に、すずかがためらいがちに、何かを聞いてくる。
「うん? どうかしたのか」
小声だったこともあり、よく聞こえなかったので振り返って聞き返す。
そこで見たのは、先ほどまでの小さな笑みではなく、どこか悲しそうな表情をしたすずかだった。
「ううん。やっぱり……何でもない」
そう言って、そのまますずかは教室に入っていく。
結局何が聞きたかったのかはわからなかったが、さっきのすずかの表情はどこか心に引っかかっかった。
まるで、今にも不安に押しつぶされそうなあの表情はいったい何だったんだろう。
相談しようとしたのか、それとも何かを伝えようとしたのか、それすらも判然としない。
改めて聞き返すというのも手ではあるが、あの様子だと聞いても答えてはくれまい。
ただでさえ俺たちは付き合いが短い。そう込み入ったことを話してはくれないだろう。
無力な自分に歯噛みしつつ、俺も教室に戻ることにする。
* * * * *
場所は変わって屋上。時刻は昼食時の正午。
俺たち五人は、ここで弁当を広げての昼食をとっている。
はじめは凛たちのクラスで食べたのだが、その際に俺の弁当のおかずをわけたのがきっかけで、お弁当争奪戦に移行してしまった。
またあんなトラブルは御免なので、こうして場所を変えることになった。
そういえば、穂群原時代にも似たようなことがあり、よく一成と生徒会室で食べたものだった。
今の状況は場所が違うだけで、あの当時に近い。
そう、あの当時にそっくりなのだ。
こうして弁当の中身を略奪されるところなんて、もうそっくり過ぎて既視感どころではないくらいに。
「なあ、なんで俺の弁当からおかずを持って行くんだ」
別に量が足りないというわけでもないだろうに。
さっきからかわるがわる、四膳の箸が俺の弁当箱に飛び込んでは、おかずを持っていく。
というかだ、何で凛までもっていくんだ。基本的に俺たちの弁当の中身は同じだぞ。
「にゃははは。ほら、士郎君のお弁当って美味しいし」
「そう言ってくれるのはうれしいがな。昨日少しつまんだ限りだと、なのはの弁当だってかなりうまいぞ。
別に物足りないということはないはずだ。それは……すずかやアリサにも言えることだけどな」
実家が飲食店のなのはや、そもそもお金持ちで食材から言って厳選されているすずかやアリサのお弁当は、俺から見たって相当なものだ。というか、売り物になるくらいのできと言える。
これだけのものなら、俺の弁当からおかずを持っていく理由はないはずだ。
そこへ、他の三人と違って相変わらずおかずを持って行こうとする、凛の声がかかる。
「そりゃあ、レベル的にはそう大差はないけどね。
やっぱり他人のお弁当から持ってくるおかずほど、おいしいものなんてないってことよ」
なるほど、それがお前が今なお俺のおかずを略奪する理由か。
他の連中も同意なのか、俺が睨みつけると目をそらす。
まったく、女の子がこんな意地汚くていいのだろうか。
他の男連中がこれを見たら、泣くんじゃないかな。
うん、夢はきれいなままの方がいいから、このことは俺だけの秘密にしておこう。
「はぁ、この分じゃ、俺の弁当はもっと多めに作っておかないと駄目だな。
それと、多少つまむくらいならかまわないから、あまり意地汚いことは慎む様に」
『はーい』
元気良く返事をしているが、さてどこまで信用できるやら。
どうせ止めろと言ったって、聞くような連中ではないだろう。特に、凛やアリサなんてその典型だ。
なのはやすずかだって、あれこれ言いつつも結局つまんでいる。
これからは、低カロリーのヘルシー路線で言った方がいいかもな。
俺の弁当のせいで太ったなんて言われたくないし。
* * * * *
俺たちは下校中にもかかわらず、喫茶店に寄っている。いわゆる道草だ。
場所は今朝決めたとおり、なのはの両親が経営する「翠屋」という喫茶店。
店内の雰囲気は心地よく、満員御礼状態にもかかわらず、決して騒々しいという印象は受けない。
この包み込むような温かな感覚は、ここで働いている人だけでなく、来客も含めた上で出来上がるモノなのだろう。
それだけここが良い店だという証明だ。
そう良い店のはずなのだ。
なのに俺はいま、大変居心地が悪い。今度は凛もそれに気づいている。
これは今朝のようなくだらない理由からではなく、かなり切羽詰まった理由からだ。
どういうわけかは知らないが、さっきから何本かの警戒の視線を感じる。
それも只者ではない。警戒されているのはわかるのだが、その視線の出所が判然としない。
おそらくは店内にいるのだろうが、それ以上のことがわからない。
生半可ではない相手に警戒されている。今わかるのはそれだけだ。
そこへトレイを持った、なのはと同じ栗毛の、ただし髪型はロングの美人さんがやってくる。
どこかなのはと顔立ちが似ているところを見るに、おそらくは近親者なのだろう。
ここはなのはの家の店らしいから、親戚か家族が働いていても不思議はない。
この人はいたって普通のようなので、警戒しているのは別の人間か。
もしも擬態だったら、という想像は怖いのでしたくない。
まあ、さすがにそれはないだろうけど。
トレイを持ってきたお姉さんは、なのはたちと二・三話をすると、こちらに向かって話しかけてくる。
「いらっしゃい。あなたたちがなのはの言っていた、新しいお友達ね。
はじめまして、なのはの母の桃子です」
近親者だとは思ったが、母親だったのか。似ているのも当然か。
俺自身は母親のことは全く覚えていないので、どんな様子だったかはわからない。
だが、この人から零れる雰囲気は、まさしく母親のイメージそのものだ。
慈愛・包容力、そういった言葉を象徴するかのような雰囲気を、自然と身にまとっている。
俺の母親もそうだったのだろうか。
まぁ、驚くほどではないかな。確かに若いけど、なのはの年齢を考えれば別にあり得ないというわけではないし。
……だが、次は本当に驚いた。
次にやってきたのは長い黒髪を三つ編みにし、メガネをかけたこれまた美人のお姉さん。
だが今度は、立ち振る舞いが並みではない。足運び一つとっても、相当なものだ。
正中線に揺らぎはほとんどなく、隙を見つけるのも手間だ。
よく見ると、暗器を持っているのがわかる。服の何箇所かが不自然に重そうだ。
普通、店の中で武装はしないだろうに。常時臨戦態勢を旨としているのかもしれない。
あまり戦いたくない手合いだな。技量以上に、その心構えが厄介だ。
血の匂いを感じさせないところから、実戦経験はほとんどないだろう。
それにもかかわらず、実戦を視野に入れた心構えを叩きこまれている様子から、この人を仕込んだ人は、相当な熟練の使い手であることが想像できる。
自分の持つ技術・経験・知恵を余すことなく伝えているのだろう。
この人の師とは、特に戦いたくないな。
少なくとも警戒している様子はないので、おそらく警戒しているのはこの人でもない。
もしかしたらこの人の師か、それに準ずる人なのかもしれない。
そんなことを考えていると、この人も自己紹介をしてきた。
そして明かされる衝撃の事実。
「はじめまして、なのはの姉の美由紀です」
え、姉? ということは、桃子さんの娘ということか。
いや、あり得ないだろう。
どう見たって桃子さんは、二十代後半以上には見えない。
ところがこの美由紀さんは、すでに高校生。
一体いくつの時の子供で、現在あの人は何歳なんだ。
あまりのことに放心していると、正面に座るアリサから声をかけられる。
「いや、気持ちはわかるけど事実よ。
ちなみに、さらに上にお兄さんもいるわ」
さらに明かされる、天変地異モノの事実。
考えるのはやめよう。
きっと俺の預かり知らない、壮大な何かがあるんだ。たぶん遺伝子あたりに。
ある意味、あらゆる女性のあこがれの的だな、この人。
人間、生病老死からは逃れられないものなのだが、この人は老いを克服したのだろうか。
忙しい時間帯らしくちょっと挨拶をしたら、二人はそのまま仕事に戻っていった。
かわいい末娘のために、忙しい時間を割いてまで挨拶に来るなんて、なのはは良い家族を持ったらしい。
一応なのはから、お父さんの士郎さんと、お兄さんの恭也さんを遠目に紹介された。
そこで確信する。さっきから俺たちを警戒しているのはこの人たちだ。
さっきの美由紀さんも相当だったが、この二人はさらに上だ。
美由紀さんにあった、動きの甘さが全くない。
何で警戒しているのか気になったが、その疑問はすぐに溶けた。
なんでもすずかのお姉さんと、その恭也さんは恋人関係らしい。
警戒されている理由はわかったが、このレベルの高さはいったい何なんだ。
ただ監視カメラを見つけてしまっただけにしては、ちょっとどころじゃないくらいに異常だ。
一つの迂闊な行為から、どんどん事態が悪くなっていっているような気がしてきた。
とりあえず、害意のないことを証明するためにも、すずかと接する時と同様に誠意ある行動を取るしかないか。
その後は、噂どおりのおいしい紅茶とシュークリームを堪能させてもらった。
いや、噂どおりというのはむしろ失礼か。ここは噂以上と言うべきだ。
あの味は、今の俺では到底出せる代物ではない。
忙しいということは分かっていたのだが、思わず桃子さんにレシピを聞いてしまった。
この十年でさらに腕を上げたつもりだったが、まだまだ甘かった。
その後少し人が減ってきたところで、改めて話をすることができた。
いや、実に充実した時間だった。
あそこまで料理について熱く語ったのは、いつ以来だっただろうか。
お近づきのしるしにいくらか茶葉を分けてもらい、俺たちはそこでなのはたちと別れ帰路についた。
さすがにレシピはそう簡単に漏らせないらしく、今回は断られてしまった。
こうなったら何度でもアタックしつつ、あのシュークリームを独自に研究するしかない。
ふふふっ、腕が鳴る。
* * * * *
夕飯は当番制なので、今日の晩飯は凛特製の中華だった。
いや、相変わらずいい腕をしている。和食なら勝てるが、中華はまだまだ及ばない。
この点でも精進するしかないな。
しばらくの間団欒を過ごした俺たちは、9時近くなったところで互いに部屋に引き払った。
どうも体が子どもになったせいで、夜更かしができなくなってきている。
俺が朝のうちに家事を一通り済ませてしまうのは、どうも夜に起きていられないからだ。
自室に戻ってすぐに寝るというわけではなく、少しやることがある。
それは、魔術の鍛錬とガラクタの修理だ。
魔術の鍛錬はそれほどかからないので、主にガラクタの修理に時間を割く。
たかがガラクタと思うなかれ。我が家にとってはそのガラクタが、今後を左右しかねない。
俺が今修理しているのは、テレビ。近くで粗大ゴミとして出されていたのを、三台ばかり貰い受けてきたのだ。
なぜ三台かというと、壊れた部品があれば無事な部品もあるので、それを相互にやり取りするためだ。これなら、かなり直る可能性が出てくる。
家は収入源がないので、節約できる所は節約しないと。
ただでさえ私立校なんて通っているせいで、出費がでかい。これ以上の出費は抑えないと。
まだライフラインさえ復旧していないが、何時か復旧させたいとは考えている。
その時に利用するためにこうして直しているわけだ。
情報社会の現在、テレビに新聞、インターネットもなしというのはさすがに問題だ。
現在は直したラジオに電池を入れて、それが情報源と言えなくもない。
「さすがにこのままというのはなぁ。
学校でテレビの話題なんて出た日には、まったくついていけないし。せめてニュースぐらいは見たいしなぁ」
そういうわけで、こうしてテレビの修理に勤しんでいるわけだ。
今後の予定としては、冷蔵庫に電子レンジ、夏の前にエアコンか扇風機も直して使えるようにしておきたいな。
その前に電気を通さないとそもそも使えないのだが、こっちも何とかしないとな。
さすがに住人のいないことになっている家に、電気やガスを通してくれるはずもない。
「つまりは資金を稼いで、この家をちゃんと購入するしかないということか。
調べてみたけど、やっぱり結構高いんだよな、この家」
立地もいいし、これだけのお屋敷と土地の広さだ。当然値が張る。
どうにも不気味な雰囲気があるせいで、買い手がつかなかったらしいく、少しは安くなっている。
だが、それでもそれなりの金額だ。
まだ、手が出せるレベルじゃない。
「資金が何とかなる前に取り壊し、なんてことにだけはならないでほしいものだけど」
買い手がつく可能性は低いが、こちらはかなりありうる。
厄介な不動産なんて、何をされるかわからない。
雰囲気が悪いというのなら、いっそ取り壊して新しくしようと考えるかもしれない。
「本当に、前途多難だよ」
まぁ、それでも何とかやっていくしかないのだから仕方がない。
適当なところで修理を打ち切り、眠ることにする。
いろいろと不安なことも多いが、この穏やかな日常がこの先も続くように祈りながら、眠りについた。
あとがき
幕間シリーズは、基本本編とはそれほど関係のない、日常に関する一幕をやっていくつもりです。
無印の間に、もう一回くらいやる予定です。
今回は士郎の学校生活を中心に据えてみました。士郎の朝の行動を第三者視点で見てみたり、クラスに馴染めなくてちょっと困っていたり、凛とアリサが妙に息が合っていたりと、とりあえず思いついたものを一通りやってみました。
翠屋の方にも今回顔を出して、なんだかよくわからないうちに、とんでもない人たちに目を付けられてしまっています。些細な出来事から、どんどんぬかるみに嵌まって行っていますね。
桃子さんのお菓子作りの腕にはまだまだ及ばないのは、士郎の天職はあくまでも執事であって、料理人ではないからと考えています。レパートリーは多いんですけどね、和食以外は質の上では超一流には敵いません。
感想の方で、凛のうっかりを希望された方もいらっしゃいましたが、凛は学校では非の打ちどころのない優等生を演じるので、今回は見合わせました。うっかりが発動するとしたら、本編中の重要な場面か、あるいは家庭生活の中を予定しています。
士郎の魔力量に関して、ランクの設定が低すぎるのではないかという意見がございました。現在の士郎の魔力量は、並みの魔術師と互角かそれ以上ではあります。ですが、魔術回路とリンカーコアの性質の違いで、魔術回路の方が貯蔵の上では劣る設定にしています。よって、魔導師の平均をCと仮定した上で、それよりは若干劣るDの上位くらいに設定しています。
ただし、これはあくまでも貯蔵のみのランクなので、瞬間放出量などの要素を加えれば、ほぼCと見て問題ないでしょう。
次回はついに荒事になります。正直言って、書いていて描写の上手い下手どころではなくて、そもそも内容が貧弱な気がすごくします。がんばって工夫を凝らすつもりですが、やはり期待はしないでもらいたいです。
当作品は、基本シリアスとほのぼの中心で、バトルはおまけ、ギャグ?それあるの?ぐらいの気持ちで読んでくださるのが適切かと思います。
できれば早めの更新を目指していますが、あまり自信がありません。
少しでも早い更新ができるよう、頑張らせていただきます。では、これにて。