暗く冷たい雰囲気を醸し出す部屋、いや、部屋というには余りに広く、そして薄暗い。
広間と言ったほうが正しいか。そんな場所から薄い光が漏れだしている。
その広間には、まるで血管のように鋼鉄の管が所狭しと這いまわっており、その威容からここが何かの
研究所かそれに準じた施設だという事が窺い知れる。不潔ではないものの、多くの機材は埃を被り
最近稼働した様子は見受けられない。そんな中、ただ一点だけ、光を放っている区画がある。
そこには透明な円柱の形をしたケースが幾つか並んでおり、中には水とも、水では無いとも言える
そんな透き通るような、少し青みが掛かった液体がコポコポと小さい音を立てながらケースを満たしている。
――その中に、アリスは動物のように丸まりながら、ぷかぷか、ぷかぷかと、その体を浮かべていた。
「(……ん)」
<<目が覚めましたか? マスター>>
声がする。誰の声か、などと今更疑問に思うような事は、ない。いつも彼女の眼前で
小憎たらしい事をぺちゃくちゃ喋るアリスの相棒、そしてデバイス。である。
<<小憎たらしいとは失礼ですね、そもそもマスターが変な事を言うからです>>
「(エスパー?)」
笑い話ではなく、自分の考えていた事を読み取られたからか、アリスはそんな事を心のなかと目で問う。
<<エスパーじゃないですよ。マスターが今入っている機材のせいです>>
「(んー)」
オラクルに指摘され、アリスは自分の身体と、それを取り巻く機械をぐるりと見渡す。
そこには裸で謎の液体に揺蕩う自分の姿と、周りを囲うガラスのようなケース、そして操作パネルのような装置に
接続され、鈍い光を放つオラクルの姿があった。
一通り流し見て、漸く彼女は寝ぼけた頭を徐々に覚醒させていき、なぜこのような状態になっているのかを
ぼんやりとした表情で思い出していく。
「(プレシアに検査装置を貸してもらったんだった)」
<<思い出しましたか? まだ検査は完了していないので暴れないでくださいね>>
忘れていた訳ではない。ただ意識がちょっとだけぼんやりとしていただけだ。そう心の中で言い訳を思い描き
アリスはガラスケースの中を逆さまになりながらくるくると泳ぐ。
どうもこの中は落ち着かない。彼女は身体を覆う嫌悪感を振り払うように、つい身体を動かしてしまう。
<<マスター、水中が嫌いなのは分かりますが大人しくしててください>>
「(……むう)」
そう、アリスはこの検査装置が嫌いだった。身体が訴えるのだ、こんなところには入りたくないと。
それこそ彼女のカナヅチ、海水浴嫌いはここから来ているのではないかと周囲に感じさせる程に。
<<現在までの検査では身体の異常は見つかっていません。リンカーコアに至ってはやはり正常化と言っても
良いデータが出ています。ただし今までとは違うラインから魔力を吸収しているようなので
まだ少し様子見が必要であると考えます>>
「(身体が動かし辛かったけど)」
これは幼体化してからアリスが常に思っていた事だ。
それが最初に分かりやすく現れたのは、アリサの家でベッドから転げ落ちたときだろう。
出来ると思った事が、出来ない。届くと思った場所に、届かない。それらに妙な気持ちの悪さを感じてしまう。
<<それは純粋に記憶と身体が不一致を起こしているのでしょう。残念ですがそれを矯正するのは難しいです。
慣れて頂くしかないかと。あ、それと筋力が同年代の平均値を大分下回っていますのでトレーニングを
お勧めします。こんな数値ではすぐ息が上がってしまいますよ。マラソンでもしたらどうですか?>>
「(DVD全巻購入の事だっけ)」
<<一応突っ込みますけど、マラソン違いです>>
どうにも落ち着かず、軽口――喋ってはいないが。を繰り返すアリス。
だが、そもそもこの身体検査装置、一般にはメディカルポット等と呼ばれるこの装置を借りたのは彼女の意思だ。
結局は、選択も何もない。半ば脅迫されるような形でプレシアに協力する事にしたアリスだが
流石に無条件降伏とは行かず、いくつかの条件を出していた。その一つが、この庭園にある装置を自由に使える。
そんな権利だった。
「(……フンッ)」
<<装置の中で逆さまになりながら正拳突きをするのは止めてください。……まぁその程度では傷一つ入りませんが>>
彼女も自分から申し出た事であるのは分かっている。身体の検査と自分のある意味、ワガママを天秤に掛ける訳にはいかない。
いかないのだが――それでも彼女は、この閉鎖され液体で満たされた狭い円柱のケースに入っている事に
嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
<<そういえば、良かったんですか? 元執務官が協力なんかして。立派な犯罪幇助ですよ?>>
「(構わない)」
元執務官とは思えない程、はっきりと迷いなく答えるアリス。それは如何なる心境の変化か。
装置の中から外を見上げる彼女の瞳からは、何も読み取る事が出来なかった。
「(今の私ではプレシアを抑える事はできない。衝突するよりも協力して穏便に"向こう側"へ渡ったもらった方が良い)」
<<残念ですが昔のマスターでも、です。まぁ確かにその方が周囲に与える危険を防げる可能性がありますが
それだけではないのでしょう?>>
「(……)」
押し黙るアリスに、オラクルは静かに問いかけ続ける。その口調には、子供に諭すような、そんな柔らかい響きがあった。
<<マスター、私はマスターがプレシア女史と過去なにがあったか、それを知る術はありません。
ですが私は胸を張ってマスターの相棒だと、そう言えると、自認しています。いや胸なんか無いですが。
あ、マスターのではないですよ?>>
「(……フンッ!)」
<<冗談です、暴れないでください。――冗談ですが、前者に関しては冗談ではありません>>
おちゃらけた雰囲気を出しつつも、オラクルは最後に、真剣に、そう付け加える。
「(わかってる)」
<<ありがとうございます。それならば私からもう言う事はございません。検査を続けますのでマスターも
今しばらく辛抱して、お休みください。……暴れないでくださいよ>>
オラクルはそう語り、それきり口を噤む。どうやら本格的に検査に集中するつもりのようだ。
その様子を横目で確認し、アリスもゆっくりと瞳を閉じて心を落ち着けていく。
見えているから自分が囚われていると感じるのだ、自分は広い海の中を自由に泳いでいるのだ。
そう心の中でアリスは繰り返す。繰り返すのだが、結局広い海だろうがなんだろがそもそも泳げない事を思い出して
足でガラスのような装置を内側から蹴っ飛ばすが、もちろんビクともしない。残るのは足にジーンと響く痛みだけだ。
だがその痛みが、多少なりとも彼女に理性を取り戻させる。
「(プレシア、フェイト、アリシア……か。)」
アリスは心のなかで噛み締めるようにして、ここには居ないその三人に思いを馳せる。
あまりにも不幸で、あまりにも救いが無い。彼女たちが三人、手をとって笑い合う、そんな"最善の選択肢"は
すでに有り得ない。いや、最初からそんなものは無かった。
そしてその救いの無い道にプレシアを誘ってしまったのは――間違いなくアルテッサだ。
選択をしたのはプレシア・テスタロッサだ。だが、選択肢を用意してしまったのは、アルテッサ・グレアムで間違いない。
「(止められない。止められるはずがない。私は見届けなければいけない)」
今、ここでこうしている時間すら惜しい。そう思い、彼女は心を乱す。フェイトはすでに第97管理外世界へ戻っていった。
母親の為にジュエルシードを一刻も早く見つけたいのだろう。休息を勧めるアリスとアルフの言葉を振りきってしまったのだ。
なんとか去り際に、探索が終わったら一度庭園に戻ってくる事を約束させたが、同時に"話"をする事も約束させられてしまった。
"話"をする約束――フェイトの、多分に期待が篭められた瞳を見て、アリスは困惑していた。
「(私は彼女に何を求められている?)」
彼女の境遇は知っている。プレシアから、簡単だが説明は受けた。フェイトと、アリシア、その関連性も。
だからこそ、迷う。自分はフェイトに対してどんな選択をするのか、そしてどんな選択肢を示してあげられるのか。
自分が彼女の行末を決める訳ではない。そんな烏滸がましい事を考えては、いない。
「(でも、何もしない訳にはいかない)」
全てを知り、だがしかし、一人蚊帳の外で。浮いている、それが今のアリスだ。
「(似てる)」
似ている。そう、どうしようもなく似ている。アリスが初めて選択した、そして他人に選択肢を示した状況に。
――26年前の状況に。
アリスは静かに嘆息する。口から零れた空気がコポと音を立て、水泡となり、そして消えていく。
それを見ながらアリスは、また悪い夢を見そうだな。そう思いながらゆっくりと意識を落としていった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
プレシア・テスタロッサは玉座に座り、ほう。と、息をつく。別にこの椅子に思い入れがあるわけではない。
この薄暗い玉座――というよりこの庭園自体に、彼女はさしたる興味を抱いてはいなかった。
そもそもこの庭園は出来合いのものを買い取っただけであり、プレシアは殆ど手を加えてはいない。
やったことと言えば研究資材を運び込んだ事と、この玉座の間に庭園監視用の映像端末を仕込んだこと位だ。
まぁその玉座の間も先程アルテッサが天井をぶち抜いたせいで酷い有り様になっているのだが。
「アルテッサ……やっぱりね」
プレシアは目の前にうずたかく降り積もった瓦礫を気にする様子もなく、呟く。
彼女が目にしているのは大きな穴の空いた天井でも目の前の瓦礫の山でもなく、掌の上に写し出されている映像だ。
映像と言えば聞こえは良いが、実際は流れる文字の羅列であり、一般人が見たところでその意味を読み取ることなど出来ないだろう。
その文字列を、プレシアは魔女としての瞳では無く、研究者としての瞳で見ていた。
「そう……可怪しいと思っていたのよ。彼女は可怪しい、と」
そう、独りごちて、だがニヤリともせずプレシアは冷静にその高速で流れる文字を読み取っていく。
「ずっと違和感があったわ。なぜ彼女はあれ程までに歪なのか」
プレシアは誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。
物音一つしない部屋に小さな呟きが響くが、それ聞くものは、ここには何人たりとも存在しない。
――最初会ったときはただ背伸びをしている子供だと思っていた。こんな小さな子供が管理局員。しかも自分の事件担当だと知ると
本当に、怒りでどうにかなってしまいそうだった。――だが、彼女と話してすぐに、その印象は消え去った。
まず最初に感じたのは違和感だ。それは一人の子供を産み、育てた母としての勘。そう言っても良いものだった。
当初は、どうでも良い事だと、捨て置いていたが彼女と会話を重ねる度にその違和感は大きくなり、ついには決定的な綻びを見せた。
彼女は背伸びをしているのでも、達観しているのでもない。まして諦観し、冷静な瞳で世間を見渡している訳でも、ない。
ごく自然なのだ。自然に、大人のように精神や思考が完成していたのだ。それは、見た目と相まって強烈な違和感を残す。
さらにその違和感に拍車を掛けたのが時折現れる彼女の、歳相応の子供らしい行動だ。数十年生きた、老成した思考を披露したかと思えば
悪戯を楽しむ子供のような行動を取る……初めは多重人格かと思った。しかしそれにしては自然なのだ。精神に乱調を起こしている様子もない。
どちらの行動も"不自然"でいて、"自然すぎる"……そしてその立ち振る舞いが、違和感を呼ぶのだ。
プレシアは恐怖した、あれはなんなのかと。その答えが――今、彼女の手の中にあった。
「あの子は"コレ"を知っているのかしら。知っていても不思議じゃない、けれど知らなくても……不思議では無いわね」
プレシアは手に踊る文字の羅列を弄びながら、嘆息する。
普通の人では気がつくことがない。だが、プレシアには分かった。分かってしまった。
文字列――検査装置から送られてくるアルテッサのデータにはなんら不自然な箇所はない。
では何故プレシアはそれを答えだと、そう思ったのか。それは、そのデータに見覚えがあったから、ただそれだけだ。
プレシアはアルテッサの身体データなどもちろん見た事がない。なのになぜ彼女の記憶にアルテッサのデータがあったのか?
――それがまさに答え。と言う事なのだろう。
「……どちらにせよ、もう私に関係のある事では無いのだけど、嫌なものね」
希望の箱舟――或いは地獄への片道切符か。
それを自分にもたらした少女が、そもそもそういった"モノ"だったと言うのは、皮肉なものだ。
自分は直接関与していないが、人の業を見せつけられるようで酷く気分が悪い。そのような権利、自分には無いと言うのに。
そう、苦虫を噛み潰したような表情でプレシアは毒づく。
「もし知らなくて、それに気がついたとしたらなんて言うかしら」
言いながらも、彼女なら別に何も感じないのではないか。などと思ってしまう。そんなはずは無いだろうが……。
彼女を、アルテッサを先ほど見た時は本当に驚いた。まさか精神だけではなく外面も変わらないとは、本当にバケモノか?
と、思ったと同時に、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに声を上げて笑ったのは記憶に久しいところだ。
そして、この馬鹿馬鹿しい状況こそが、アルテッサにとって転機になるのかもしれない。
彼女が、真に自分の為に、自分の"最善の選択"をする。その転機が。
「フフ……あぁ、本当に、本当に馬鹿馬鹿しいわ」
選択にはそれに至る過程が必要だ。彼女の選択にどれほどの猶予があるかは解らない。
そもそもそんな機会があるのかどうかすら解らない。だが、ここに彼女が居るのは偶然ではない。
ジュエルシードに胸を突かれたのが"偶然"と言うのであれば、彼女がここに来たのは"必然"と言える。
そして必然は過程となり、過程は選択への礎となる。
プレシアは手元に浮かんでいたデータを消去しながら、大きく穿たれた天井を、若干の憂いを含んだ瞳で見上げる。
「過程……ね。でも、これはナンセンスだわ」
最後にそう呟き――プレシア・テスタロッサは、天井に空いた大きな穴の修理を始めたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
薄暗い通路の先、行き止まりに設置してある扉が、空気でも吸い込むかのような滑らかな駆動音を立てて、開く。
長く放置状態だったのだろう、彼女が目指す一点以外に光は無く、起動している様子もない。
彼女――フェイト・テスタロッサは、唯一光を放ち駆動音を規則的に奏でる機材に、まるで光に誘われる虫の
如く若干の警戒を孕みながら、ゆっくりと近づき、そしてやや早口で、せっつくように語りかける。
「――ただいま……アリス。私、やっぱり貴女の事知っている、と思う。よくは思い出せないけど
それでも、知ってる。ねぇアリス、私はーー」
<<申し訳ありませんマスターは睡眠中で、起こしますか……?>>
「えっ!? あ、ううん。いいよ」
返事があるとは思わなかったのだろう、フェイトは二房の金髪をぶわっと振り乱し、慌てて否定して声の発信源を探す。
<<そうですか、ありがとうございます。実のところ先程寝たばかりで、起こすと私が文句を言われそうなんです>>
「アリスのデバイス、だよね? よく喋る」
<<はい、オラクルと申します。以後お見知りおきを」
「……うん、分かったよ。オラクル」
フェイトは答えながらも、あまり興味はないのか視線をオラクルから外し、透明な装置の中で膝を抱えるようにして丸まりながら
その身体を液体に浮かべているアリスにその視線を移す。ガラスケースに収められた美しい宝石に見とれる、そんな表情とでも
言えば分かりやすいだろうか。装置の表面を指でなぞり、ときどき顔の近くでトントン、と突いている。
<<ミス・フェイト。マスターは水槽の魚ではありませんよ?>>
「後でって言ったのに、寝ちゃってるのが悪いよ」
ぷくっと可愛く頬を膨らませながら、少しだけ拗ねたように呟く。
自分だけが約束を楽しみにしていたようで、フェイトはちょっぴり心がささくれ立ってしまう。
<<申し訳ありません>>
「別にいいけど……」
そうは言いながらも不満顔で、アリスの入っている透明なケースに顔をくっつけ寝息や鼓動でも聞こえや
しないかと耳を立てる。もちろんそのような音を外に漏らすような、チャチな装置ではないので
フェイトの耳に入ってくるのは機械から出る静かな駆動音だけである。
「聞こえない……」
<<……それは、まぁ……。おや? ミス・フェイト。戦闘行為を行ったのですか?>>
オラクルはふと、僅かに乱れているフェイトの魔力に気が付きいつものように抑揚のない機械音声で尋ねる。
通常であれば読み取れない程の微弱な揺らぎだが、オラクルは現在精密な身体検査装置と接続されている。
その為、そういった微かな相違でも読み取る事ができていた。まぁ今だけ、ではあるが。
「うん、ちょっと」
<<もしかして相手の魔導師は白いバリアジャケットを着ていました?>>
「知ってるの?」
オラクルの言葉に、先ほどよりは興味を持ったのか、フェイトは視線をふたたびオラクルに移す。
その瞳には驚きと、探るような疑念が浮かんでいる。
<<はい。と言っても先日遭遇しただけで、結託しているなどと言う事はありませんので
ご安心ください>>
「……向こうもジュエルシードを探してた」
<<存じています。その事についてはマスターが起きてからお話しましょうか>>
「うん、そうだね」
つい、と会話が止まる。
装置の駆動音がふたたび部屋の全ての音源となり、無音であるよりもさらに静けさを演出する。
<<――あの白い魔導師は強力ですよ>>
「関係無い」
部屋の広がった静けさを、まるで空気の刃で切り裂くようにして、フェイトの凛とした声が響く。
「私が勝つ」
その返答は誰に向けたものなのか、アリスを見ながら放った短い言葉にはフェイトの、確かな意思が宿っていた。