舞い降りるシグナムの纏う装束は、昼とは趣を変えていた。勇壮かつ華美な、紅花染めの戦衣。右手には片刃の剣――アームド(武器型)デバイス。
白磁のようなシグナムの肌は、天の月が陽光を反射して輝くように、月光を反射して白く輝く地上の月と化していた。その姿はどこか絵画めいていて現実感がない。自分はすでに息絶えていて、その魂を天宮へと導くために降臨した戦乙女がたまたまシグナムそっくりだったのだと――そんな馬鹿げた、子供じみた想像をしてしまう。
わかっている、それは単なる現実逃避だ。現状が何を意味しているのか深く考えたくないだけだ。
三日月が雲に覆われて隠れ、シグナムもまた月から人へと戻る。空想は消え現実が目に映る。地に足をつけたシグナムは、ウィルとその後ろで倒れているザフィーラに目をやった。
一文字に閉じられていた、形の良い桜色の唇が開く。
「ザフィーラを倒すか。どうやら、貴方を甘く見ていたようだ」
――そうか、この男の名前はザフィーラと言うのか。シグナムはなぜここにいる。ザフィーラ、聞いたことのある名だ。シグナムはなぜこの男の名を知っている。全身が痛い。その手に持っている剣はデバイスか。早く管理局に連絡しなければ。ザフィーラという名は聞き覚えがある。結界を新しく張ったのはシグナムなのか。留守番をしているザフィーラはお腹をすかせていないだろうか。体が熱い。はやてはどうしたんだ。白髪の男のことをシグナムは知っている。なのはちゃんは大丈夫だろうか。ヴォルケンリッターのザフィーラ。早く首を切らないと。白髪の男と同じ古代ベルカ式の結界。ヴォルケンリッターのマスターは誰だ。
心の水面に投じられた巨大な一石。思考は飛沫のように無数にとびはね、水面が揺れて自らの心という水底がはっきり見えなくなる。それでも人間の脳とは優秀なもので、論理だった筋道を辿らなくとも無意識のうちに答えを出していた。
「あなたも、ヴォルケンリッターなんですね。なら、はやてが闇の書の主ですか」
「なぜ、ヴォルケンリッターのことを? ザフィーラが言ったのか?」
「いいえ、魔力の蒐集がどうとか言っていましたけど、はっきりそうだと言ったわけではありませんよ。今のはちょっとしたかまかけです。……というか、隠すつもりならザフィーラって呼んじゃ駄目ですよ」
「……その通りだな。私は昔から、言葉の駆け引きが不得手でな」シグナムは自嘲。だが、それもすぐさま消え、戦士の顔を露わにする。 「ならば、もはや隠すこともないな。
我が名はシグナム。ヴォルケンリッターが将、剣の騎士。貴方に恨みはないが、主はやてのため、ここで命を貰い受ける」
明確な死の宣告。シグナムの剣は魔力光の輝きを帯び、薄紫の光は時折赤の炎に変わる。ウィルの口からは渇いた笑いがこぼれた。
「おれがはやてを連れて行ったら、闇の書の主だってことがばれちゃいますもんね。で、邪魔者をただ殺すだけではもったいないから、ついで魔力もいただいておこう――と。……なるほど、合理的ですね。欲を言うなら、おれの都合というか、主に生命のこともちょっとは考えてほしかったなぁ――でも、そうか、シグナムさん、ヴォルケンリッターなんだぁ」
こんな時だというのに、相変わらずウィルの口は回る。だがそれはうわべだけ。
頭の中はごちゃごちゃで、何を考えているかどころか、何を感じているのかさえわからない。キャンパスに原色の絵の具をぶちまけたように、脳の中は極彩色のマーブル模様。
その中でただ一つ。鮮烈な光、鮮明な感覚があった。
“熱い”
体が痛かった。心が痛かった。でもそんなものがどうでもよくなるほど熱かった。
あらゆる光さえ見えなくなるほど鮮烈で、口中の血の味さえ忘れるほど甘美、全身の肉が蕩け出すほど淫蕩な、これまでのどんな経験さえも色あせてしまいそうな熱。
この感覚はなんと呼べば良いのか。憎悪だろうか、悲嘆だろうか、歓喜だろうか、絶望だろうか、怨嗟だろうか、それとも、もっと純粋で無色な狂気なのか。
言葉をたぐってもわからない。既知の単語では表現できない。人間の思考は不自由だ。言葉という道具を得た代わりに、言葉を通さなければ自分の気持ちさえ認識できない。
わからない。何もわからない。でも、わからない時はどうすれば良いのか――それはもう教えられている。頭に浮かぶのは、先生の言葉。
『迷った時は、欲望に身を任せれば良い』
だからウィルは、敵を目の前にして瞳を閉じた。時間にすればほんの刹那だが、その瞬間、己の心がはっきりと見えた。
心の内には扉がある。扉の向こうで何かが光っている。何かはわからないが、扉越しにもその圧力を感じる。隙間から光と熱気が漏れている。
扉はひとりでに開かれ、中が見える。
それは炎だった/それは氷だった
ムスペルヘイムと呼ばれる王国であり、無間と呼ばれる地獄だった/ニブルヘイムと呼ばれる王国であり、大紅蓮と呼ばれる地獄だった
それは流動し変化するエネルギー(熱)だった/それは状態を維持しようとする停滞だった
矛盾ではなく、微視的な視点ではありとあらゆる変化が起きているがゆえに、巨視的な視点では停滞していた。物理法則の鎖の届かぬ精神世界であるがゆえに、エントロピーの増大から外れた在り方だ。
永遠に燃える炎、凍てついた炎。永劫へと拡大した刹那、永劫に変質しない刹那。膿まない傷口、時が癒さない傷痕――全ての形容が正しいが、ただ一言で表すならばそれは呪いの塊だった。
これがウィルの本質。余分なものを持たないがゆえに、きっと最も幼く最も強い。だから、その原始的な自分に、自分を開け渡す。
この時、現実ではウィルの肉体は勝手に動いていた。
全身に魔力を通わせ、バリアジャケットを再構成。そしてF4Wを展開する。現れた片刃剣は常ならば右手におさまるはずだが、その右手は壊れている。肘から先は微塵も動かず、これでは剣を握れない。握られぬ剣はそのまま重力にしたがって落下する。
直前、赤い縄(バインド)が蛇のように剣をからめ捕る。添え木のようにして動かぬ右腕と剣を縛りつけ、腕そのものを剣と化す。精密な動きは期待できないが、上腕は動くのだから叩きつけることくらいは可能。
ウィルの動きに合わせて、シグナムもレヴァンティンを構えた。
本当に自らの意志で構えたのか、もしかしたら構えさせられたではないか、歴戦の兵たるシグナムがそんな疑問が浮かべるほどに、ウィルの狂相は常軌を逸していた。
前髪で目が隠れた顔は、宵闇に塗りつぶされた無貌と化していた。空の三日月をかたどったような薄い笑みだけがかろうじて見えるが、それも無貌に穿たれたひび割れのよう。その奥には白い歯、牙。
手は重力に従ってだらりと地へと下ろされている。白い骨が突き出した右腕には、どす黒い赤血と輝く赤い縄(バインド)が蛇のように纏わりつく。くくりつけられた刃は、もとより彼の体の一部であったとしか思えないほど、彼の纏う邪気によく馴染んでいた。
ウィルは地上からほんの少しだけ浮く。その時、彼の前髪がなびき、隠れていた目が見えた。
その目には、うぶで奥手な少年が意を決して初恋の人に告白するような、自分の気持ちを相手に理解してもらうためになれない愛の言葉を連ねるような、自らの思いを万の言葉に変えて伝えようとするような、そんな真摯さがあった――そんな真摯な殺意が込められ、悪意が刻まれていた。
「これからの人生をあなたに捧げます」と愛を誓うように、「殺すために捧げます」と殺意を誓っていた。
炎のごとき激情を抱えた瞳ならば、幾度となく戦場を経験したシグナムも覚えがある。でも、これはもっと異質でおぞましい。脅えさせるでもなく、怯ませるでもなく、目が合った者の心の底をがりがりとヤスリで削りとる瞳。
常軌を逸した敵と戦うため、シグナムもまた、かつてのように己の心を消した。
ここに存在するのはヴォルケンリッター――主を守護する騎士である。そしてシグナムは、主の敵を切る剣の騎士である。
たとえ心がなくとも、存在に刻まれた大義が彼女の体を突き動かしてくれる。
ウィルの周囲に十を超える魔力弾が現れ、シグナム目がけて殺到する。直射弾といえども、ウィルが一度に構築できる弾数限界を超えている。そのため群れの半分は途中で構成を維持できず霧散したが、残り半分はシグナムに向かう。
「軟弱な弓撃など、ベルカの騎士には届かない」
シグナムの前方に障壁が発生。すべての魔力弾が衝突し消滅する。
直後に障壁を砕いてウィルが現れる。魔力弾は目くらまし。矢弾などより我が身の方がなお速く、なお強い。
ウィルが腕ごと叩きつけるようにして剣を振るい、シグナムは剣を前に出して防ぐ。両者の剣が衝突し、金属が絶叫と火花をあげる。
鍔迫り合いになれば、速度を得ているウィルの方が遥かに有利、そのまま剣ごと圧し切ろうとする――が、突然ウィルの胸部に強い衝撃。胸骨が割れ、肺の呼気を全て吐き出しながら吹き飛ばされる。
シグナムはウィルの剣を正面から受けた直後、ウィルの胸部に前蹴りを放った。ただそれだけの――しかし高い魔力操作能力、身体能力、身体操作能力を必要とする妙技。
十分な魔力が通っていなければ剣は敵の攻撃に耐える盾とはならない。腕の力が抜けていれば押し切られてしまう。そして強い衝撃を受けながらも、次に蹴りを放つために体幹をぶらさない精妙な姿勢制御。
ただの蹴り一つで、シグナムは己が近接に必要な才全てを持つ超級の戦士であることを示していた。
ウィルは吹き飛ばされる最中、瞬時に飛行魔法で姿勢を制御した――が、その時にはすでに、刃を振りかざしたシグナムが目の前にいた。吹き飛ぶウィルへの追い打ち。
「断ち切れ、レヴァンティン」
『Jawohl!!(了解)』
刃の装飾が動き、薬莢が排出される。膨れ上がる魔力が刀身を覆い、燃え上がる炎の剣と化す。ウィルは迷わず回避を選択して刃から逃れようとするが、わずかに遅い。
この時、シグナムの脳裏に一つの光景がフラッシュバックした。暗い通路、戦う己、目の前には赤い髪の男。記憶にないが、たしかにあったことだと感じる奇妙な光景。
わずかに剣速が鈍った。時間にすればコンマ一秒に満たない遅れだが、そのおかげでウィルは紙一重でシグナムの剣の範囲から逃れる。わずかに炎がかすめた胸元を中心に、バリアジャケットがはじけとんだ。
そのまま遠くへと離れる。ウィルの力では、結界を破壊して逃げることはできない。それでもなお遠くへ。結界の果てまで移動したウィルは、すぐさま反転。シグナムの姿を確認すると、月まで届けとばかりに、言葉にならぬ咆哮をあげる。
「ギイイィイイイィイイイアアァア!!」
割れた胸骨が肺を傷つけたか、燃える炎が喉を焼いたか、声はかすれていた。
獣じみた呻き声をあげながら、駆ける。バリアジャケットの衝撃緩和効果でさえも十分に消しきれないほどの速度で駆ける。やることは変わらない。突撃からの斬撃のみ。先ほどの全力で駄目ならば、限界の先へ踏み込むだけ。
対するシグナムはフラッシュバックする光景への疑問を放置し、ウィルを向かい討つ。
『Schlange form!!』
レヴァンティンの刀身が、砕け散ったかのように見える。散った刀身は、全てが細い糸で繋がれていた。蛇のごとく伸びた剣――鞭状連結刃はシグナムの思うがままに空間を駆け巡り、その剣先は向かい来るウィルを串刺しにせんと迫る。
ウィルはほんの少し、片足のハイロゥの出力を緩める。バランスが崩れて体の軸がねじれ、素早く横転する。わずかに飛行軸がずれ、剣先はウィルの肩口をかすめ、後方に消えて行った。
紙一重の回避。神業に等しい動きも今のウィルにとっては奇跡ではない。狂気の意志は速度だけでなく、知覚の面でも限界を越えさせていた。
一秒が十倍に引き延ばされた空間を行動する。肉体が粘性の高い液体に包まれているようで、その動きは遅々としている。その代わりに、間違った行動をとることもない。引き延ばされた時の中、最善手を思考し、考えた通りに動く。焦りによる失敗など存在しない。
連結刃が縦横無尽に空間を駆け巡り、刃の迷路を描く。伸ばされた蛇腹剣は剣先による刺突のみが武器ではない。伸びた蛇腹はもちろんのこと、それを繋げる線さえも魔力を纏い、触れた物全てを両断する鋭さを持っている。
ウィルはその隙間を薄皮一枚かすめながらシグナム目がけて進む。光は目的地へと到達するために最短の経路をとると言う。今のウィルはシグナムの体に剣を突き立てるために、一条の光となって駆けていた。
後少し、一秒もかからない。もうすぐこの刃が怨敵の胸を貫く。その直前、シグナムの描く刃の絵が完成し、両者の間に姿を現す。
刃で出来た蜘蛛の巣。線を重ね、面とするシグナムの絶技。
遅々とした時を進むウィルには、それがはっきりと見えていて、だからこそ理解できた。この蜘蛛の巣は、絶対不可避であると。
とっさに右腕の剣を盾とする。金属が金属によって削りとられていく音。デバイスの断末魔が響く。刃はデバイスだけではなく、縛りつけられた右腕さえも削っていく。それでも体は止まらず、全身が蜘蛛の巣に突っ込んで行った。
灼熱が爆ぜ、血の花弁が咲いた。
血を周囲に撒き散らしながら、体は勢いよく道路を転がる。車道のガードレールにぶつかってようやく停止。車道には深紅の車線が新たに引かれ、二車線を三車線へと変えていた。
転がる途中で頭を何度か打ったため、視界が揺れ、意識が定まらない。全身の創傷から赤い筋が流れ、血潮の滴がこぼれる。浅深の度合いに差はあれども、体中の筋肉が切り裂かれ、腱が断裂していた。
足を覆っていたハイロゥは砕け、右手に握っていたF4Wは粉々になって離れたところに落ちていた。双方ともコアが割れ、何も反応しない。
左腕はもとより折れて動かない。そして右腕は肘から先がすっかりなくなっていた。消えた右腕は、きっとどこかに転がっているのだろう。
彼我の力の差は圧倒的。限界を越えても、何一つ為せぬまま倒された。
だが、ウィルは死んでいない。精神論だが、“それでも”と願うのであれば、“まだ”戦うと決めたのであれば、負けてはいない。
シグナムが倒れ伏したウィルに近付いた時、血だまりがわずかにはねた。血が自ら跳びあがったのだ。
血だまりがはじけ、血がシグナムに襲い掛かる。魔力を運動エネルギーに変える力を持って、自らの体から流出する血に指向性を持たせて発射させた。肉体から離れれば著しく減衰するこの力も、自らの血はまだ効果範囲内。
血の指向性散弾(クレイモア)は、シグナムの体を傷つけることはできなかったが、その騎士甲冑の一部を破壊する。そしてこれは、目くらましでもある。
直後、ばね仕掛けの人形のようにウィルは跳び起き、シグナムに飛びかかっていた。
血でおこなったのと同じように、全身に巡らせた魔力を運動エネルギーに変えて、体そのものを強制的に動かす。筋肉ではなく、方向性を持ったエネルギーそのものが、操り人形を紐で動かすように肉体を駆動させる。あまりに人体構造を無視した動きに、腱が断裂する音が体内に響く。
体そのものを一個の弾丸と化して、怨敵を貫かんとする。
だがそんな末期のあがきなど所詮は悪あがきと断じるように――否、そもそも最期の一撃などというものはすべからく悪あがきにすぎない。
「遅い」
先ほどまでの音の空裂く一合に比すれば鈍重亀もいいところ。唯一の利点は、まさかこのような死にぞこないが動くまいという、心の間断をつくことができる程度。それも数多の戦場を戦い抜いた歴戦の戦士の危機感知能力に通用するはずもなく――シグナムは向かい来るウィルの頭を掴んで、地面に叩きつけた。
どれだけ意志が強くとも、脳を揺らされれば意識を保てるわけもなく、ウィルのあがきはあっけなく終わった。
意思の力は時に限界を超えることがあるが、それでも歴然たる力の差は往々にして埋まらない。
ウィルは弱かった。限界を越えたとしても、狂気に満たされた心を持っていても、それでもシグナムよりはるかに弱かった。
*
気を失ったウィルを、静かにシグナムの双眸が見下ろす。切断された右腕から流れ出る血が、夜のアスファルトをより黒く染め上げていた。出血は激しく、このままではじきに死ぬ。
シグナムの右手が――右手が持つレヴァンティンがゆっくりと動かされ、右腕の切断面に当てられる。デバイスから噴き出した赤い炎の蛇は、ちろちろと右腕の切断面の桃色の肉を舐めて黒く炭化させる。魔力を蒐集するまで死んでもらうわけにはいかない。だからこその、強引な止血。
止血を施すシグナムのもとに、ザフィーラとシャマルがやって来た。
「すまない。不覚をとった」
ザフィーラはシグナムに謝罪し、倒れるウィルの姿を一瞥する。無残な姿に変わり果てたそれを見て、瞳がかすかに揺らぐ。自分がしっかりと倒していれば、ここまで無残な姿にならなったのに、という悔恨。彼はそれを気取れられぬように、すぐにシグナムに視線を戻した。
「気にするな。お前こそ大事ないか?」
「この程度の傷なら、シャマルの手を借りるまでもない。再構成すれば良いだけだ。」
ザフィーラの体には傷一つなく、左腕は元通りに存在していた。
肉体の再構成――プログラムという数式を媒介に受肉した存在である彼らは、魔力さえあれば、再度肉体を構成し直すことができる。存在に刻み付けられた業(わざ)
消失した人体を再構成するには多くの魔力を必要とするが、それを差し置いても、肉体の損壊による戦闘不能がなくなるのは、戦いにおいて圧倒的なアドバンテージだ。
続けて、シグナムはシャマルを見る。浅緑と濃緑、そして白の三色で構成された神官服――それが彼女の騎士甲冑。帽子が神官というよりナースキャップに近いのは、主のはやてが看護師を見かけることが多かったからだろう。
彼女は倒れているウィルの姿を見ていた。その顔には惻隠の情があったが、それを抑えながらシグナムに告げる。
「それじゃあ、始めるわね」
「……ああ、彼の命が尽きる前に蒐集を」
シグナムはウィルから離れ、代わりにシャマルが近づく。手には一冊の本。中央の玉と四方を向く剣が構成する剣十字の装丁。これこそが闇の書。魔導を喰らう書物。
シャマルが手をかざすと、倒れ伏したウィルの胸に光球が浮きあがる。魔導師が魔力素を魔力に変換し、蓄積するための器官、リンカーコア。
「リンカーコア、捕獲完了」闇の書が開かれる。全ての頁は白紙。今は、まだ。 「蒐集……開始」
獲物を喰らわんと上顎と下顎を開くように、闇の書がさらに大きく開かれた。羽虫のように乱舞する文字と数式が白紙の頁に定着し、魔力をインクとして術式を刻んでいく。そのたびにウィルのリンカーコアの光は弱くなり、大きさも小さくなる。
三頁ほどが埋められたところで、シャマルはシグナムに問いかける。
「これ以上は命の危険があるけど……最後までやるのよね?」
「当然だ。今さら引くことなどできない。それに、彼は我々がヴォルケンリッターだと知っている」
「蒐集が終わるまで、どこかに捕えておくっていうのは――」
「それが無理なことくらい、私でもわかる。蒐集には短くても二月はかかるだろう。その間、設備をもたない私たちが、どうやって彼を閉じ込めておくつもりだ。……迷うな、全ての責は将たる私が負う」
一般人ならまだしも、ウィルは魔導師だ。たとえ両手両足がなくても空を飛んで移動することはできる。特に転移魔法は厄介で、これを防ぐには専用の処置が施された設備がなければ封じられない。魔導師を隔離するのは容易ではない。
シャマルもそれはわかっていたはずなのに、あえて質問をしたのは、殺すことに躊躇があったから。だが、シグナムの言葉に思いなおす。殺すのが嫌なのはシグナムも同じ。それでもシャマルの気を楽にするために、自らが責任を負うと宣言した。
だから、シャマルも覚悟を決めて続けようとした時、上空から声が降り注いだ。
「何やってんだよ、お前ら!!」
そこにいたのは赤い少女。深紅を基調とした少女服に、黒のレースを施した騎士甲冑を纏う少女――ヴィータは顔さえも赤く、憤怒を顕わにして吠える。
突撃する彼女の左指には鉄球、五指に挟んだ計四つ。全てを宙に放つと、右手に持つ巨大なスレッジハンマー――彼女のアームドデバイス、グラーフアイゼンで叩きつけた。
『Schwalbe fliegen』
四つの鉄の流星は、内二つがシグナムに、残り二つが蒐集中のシャマルに向かう。
シグナムは自らの左右から襲い来る鉄球を、一つを展開した障壁で、残りをレヴァンティンでさばく。だが、そのせいで動きは止められる。
そして蒐集をおこなっていたシャマルは、防御魔法の展開が間に合わないので、鉄球を防ぐことができない。したがって、唯一鉄球の標的になっておらず、シャマルのそばにいたザフィーラが、シャマルの腰を掴み引き寄せ、自らの体を盾として守る。
三人の動きが止まったその隙に、ヴィータはウィルのそばに降り立っていた。ヴィータの干渉によって、闇の書の蒐集が止まる。
「ヴィータ、いきなり何のつもりだ」
いきなり攻撃を仕掛けてきたヴィータに、シグナムが問う。問われたヴィータの顔には変わらず怒り。
「それはこっちの台詞だ! お前らこそ何のつもりで、こんなことしてんだよ!」
弾劾の言葉がヴィータの口から放たれる。家族が暴漢に襲われているのではと心配してやって来たのに、家族が暴漢だったという状況に、怒り心頭
弾劾を真正面から受け止め、シグナムは答える。
「理由は帰ってから、いくらでも説明しよう」シグナムはヴィータに――その後ろのウィルに剣を向ける。 「だが、その前にそこをどいてくれ。まずは、彼にとどめをささなくてはならない」
「ふ、ふざけんな!! 蒐集はもうやったんだろ! どうしてわざわざ殺すんだよ!」
蒐集は一度おこなった対象からはできない。だからこそヴィータは、蒐集を一旦止めるために、仲間に攻撃してまで強引に割りこんだ。そして実際に蒐集は中断され、ウィルからこれ以上蒐集することは不可能になっている。
「お前は勘違いしている。我らは蒐集のためだけに彼を襲ったわけではない。彼の殺害。魔力の蒐集。どちらも主のためだ」
「蒐集はしないって、はやてと約束しただろ! それをはやてに相談もせずに破って、その上はやての大切な奴を傷つけて、それのどこがはやてのためだよ!」
「そうしなければ、主は死ぬ」
予想だにしない告知に、ヴィータは絶句する。
「嘘……だろ?」
「嘘ではない。ヴィータ、お前は主のことは主に決めさせるべきだと言ったな。それは正しい。だが、所詮は理想論だ。事実を話し、他人と自分の命を選ばせればどうなるかなど、考えずともわかるだろう。主は優しいからこそ、その選択に苦しみながらも、最後には苦しみさえ隠して自分の命を捨てる。
もう一度言おう。主には相談できない。事情は帰ってから説明する。彼はここで殺す。わかったか? ……わかったなら、将として命ずる――そこをどけ、ヴィータ」
「駄目だ」ヴィータはシグナムの命令をはねのける。 「シグナムがそこまで言うなら、本当にこいつを殺す必要があるのかもしれない……ううん、必要なんだろう。でも、駄目だ。ここで誰かを殺したら、また戦ってばかりいたあの頃に戻る気がするんだ。……あたしは嫌だ。もうあの頃には戻りたくない。シグナムだってそう思っていたから、使命に背くことになるのに蒐集しないって約束をしたんだろう?」
ヴィータは、グラーフアイゼンを構えた。
「あたしはヴォルケンリッターの鉄槌の騎士だ。でも今は、はやての家族のヴィータなんだ。だから、シグナムがこいつを殺そうとするなら止める」
「私もできることなら殺したくない。それに、主はやての家族でありたいとも思っている。それでも私は、ヴォルケンリッターの剣の騎士だ。主の害になる者は殺さなければならない」
レヴァンティンを構えるシグナムから薄紫の魔力光が、グラーフアイゼンを構えるヴィータから赤の魔力光が発せられる。
ウィルという異物を排除する戦いは、いつの間にかシグナムとヴィータの二者の戦いに形を変えた――いや、それも正しくはない。
「二人とも、やめて」
静かに、しかしたしなめるようにシャマルが言い、ザフィーラもうなずく。体は浅緑と白の魔力光が覆っている。この二人もシグナムとヴィータが戦い始めれば、それを止めるために動く。
場は混沌とした空気に包まれ、戦いは三つ巴の様相を呈していた。かくして、再び戦いが始まる――はずだった。
「戦場で内輪もめとは、名にし負うヴォルケンリッターも地に堕ちたものだな」
戦いを止めたのは、前触れなく結界内に響いた声。
声の主は月を背に空に立っていた。顔に月光よりもなお寒々とした、生気を感じさせぬ仮面を身につけた人物。痩身だが体格は男のもの。片手には何か白い何か――人? を抱えている。
突然の乱入者に対する騎士たちの反応は、当然ながら敵意と警戒心。仮面をつけたその人物は四人の騎士に敵意を向けられながらも、動揺はない。それでいて余裕ぶっているわけでもなく、立ち姿には微塵の隙もない。間違いなく一流の戦士。
だが、仲間割れの最中とはいえ、こちらは四人。仮面の戦士は一人。相手がヴォルケンリッターと知ってなお一人で現れるとは、よほど己の実力に自信がある愚者か、考えなしの馬鹿か、それとも――
「お前たちと事を構えるつもりはない。そのつもりならば、お前たちが益体のない言い争いをしている内に、“一体”は殺していた」
「なら、何をしに来た」
「仲裁だ。私はお前たちが蒐集することを望んでいる。そのためには、このようなところで仲間割れをされては困る」仮面の戦士はシグナムの方を向き、続ける。 「お前はその男から自分たちの情報が漏れては困るから、その男を殺そうとしている」今度はヴィータを見る。 「そしてお前は殺したくはないから、それに反対している。ならば、私がその男の身柄を預かり隔離しよう。それでこの場はひとまず収まるだろう?」
「断る」シグナムは即断。 「申し出はありがたいが、突然現れたお前を信用できない」
「その通りです。それに顔を見せない――いいえ」シャマルは仮面の戦士を睨む。 「姿さえ偽るような人の言葉なら、なおさらです」
「偽る?」
ヴィータの疑問に、シャマルがうなずく。
「この人、声も姿も偽物よ。多分、変身魔法。それに、このタイミングで出て来たことがもうおかしいわ。今夜のことは誰にとっても想定外のはずよ。偶然じゃなければ、この人はずっと前から私たちを――はやてちゃんを監視していたのよ」
「変身魔法を一目で見抜くか。先ほどの軽口は訂正しよう。そして、その推測も概ね正しい」
あっさりと認めた仮面の戦士に、シャマルは続ける。
「なら、はやてちゃんが苦しみ出したのも……もしかしたら病気自体が、あなたたちが仕組んだのではありませんか」
その言葉に他の三人も殺気立つ。
ヴォルケンリッターの参謀役たるシャマルの推測。だが、それはただ論理のみをもってなされた推測ではない。もしも目の前の人物が元凶ならば、蒐集をしなくてもはやての体はもとに戻るのではないか。そんな期待から生じた推測だった。
それを見抜いたのか、仮面の戦士は初めて声に感情をのせる。嘲笑だった。
「なるほど、お前たちがそう考えるのも無理もない。だが、その推測は外れだ。八神はやてに訪れた異変は全て、闇の書とお前たちが原因だ」
「……どういうことです?」
「私が答えるより、自分たちで調べた方が良い。そうすればお前たちも否が応でも受け入れるだろう。それに、今はあまり悠長に話している暇もない。お前たちは自らがおかれた状況に気が付いてないようだが、制限時間が迫っている」
戦士は片手で抱えていた白い塊を空中に投げてよこした。それが人間の体――騎士たちもよく知る人物の体だと気付いた時、真っ先に動いたのはヴィータだった。
「高町っ!!」ヴィータは空中でなのはの体を掴む。 「てめぇッ! 高町に何しやがった!」
「この結界に入ろうとしていたので、気を失ってもらっただけだ。どうやら、お前たちが張った結界を調査しようとしていたようだな」
守護騎士たちの背筋が凍り付く。もしも顔を見られていれば、ウィルだけでなくなのはをも殺さなければならなかった、という事実に。
「そして、連絡がなくなったことで少女の関係者が動きだしている」仮面の戦士は続ける。 「魔導師でない現地人が来るだけなら良いが、おそらく管理局にも連絡は入っているだろう。時間がないと言った意味はわかるな?」
その事実で、シグナムたちに選択の自由はなくなった。今、管理局に発見されれば、蒐集は始まる前に終わる。
「わかった。お前に任せる」
「賢い選択だ。それではこの男はもらっていく。その少女は好きにしろ。その辺りに置いておけば、後で駆けつけた管理局が見つけるだろう」
仮面の戦士はウィルの体を抱えて、再び空に浮く。そして立ち去る直前、振り返る。
「お前たちが蒐集を続けるつもりであれば、極力顔は隠せ。この男と親交があったお前たちの顔は、管理局に覚えられることになるだろう。顔が割れようものなら、次の日にはあの家まで突き止められるぞ」
言い残して、仮面の戦士は結界から出て行った。後には騎士たちと、気を失ったなのはが残される。
「あたしたちも、ひとまず帰ろう……はやてが心配してる」
まだ不満は残っているが、仮面の戦士の乱入で気勢を削がれたか、ヴィータが力なく言う。
が、シグナムは首を振る。首をかしげたヴィータの体が、バインドに捕えられる。薄紫と、浅緑と、白の三重バインド。
「まだだ。高町ほどの魔力を放っておくわけにはいかない」
「シグナム! てめえッ!!」
「すまないな。だが、これも必要なことだ。……シャマル、殺すほどは奪うな」
結界の中に、ヴィータの怒号が響き渡った。
結界から出ると、仮面の男はあからさまに舌打ちをした。先ほどの無機質な雰囲気は消え、苛立ちがはっきりと表れていた。
道路は砕け、木々は切り倒され、そして血が広範囲に飛び散っていた現場を思い返す。あれではウィルが何者かと戦ったことが丸わかりだ。証拠を消すほどの時間もない。ウィル一人が行方不明というだけならばどうとでもできたが、あれでは捜査介入は防げない。
仮面の戦士は飛びながら、通信装置を起動させる。小型だが次元転送ポートを利用することで、次元世界間の通信さえ可能な機器。そして、そのために使う転送ポートは月村の敷地にある物ではない。PT事件が始まる前からこの世界を訪れていた仮面の戦士は、この街に管理局の知らない転送ポートを設置している。
「管理局の様子はどう?」仮面の戦士が尋ねる。
「すでに動き始めているよ。軽く妨害しておいたけど、後十五分もすれば地球に到着するでしょうね」
通信機から聞こえるのは、冷めた少女の声。そして仮面の戦士も姿はそのままだが、声と口調は活発な少女のものに変わっている。
「うわ、結構やばかったんだね。でも、それだけあればあいつらも逃げられる……か。
そうそう、怪我人がいるから治療の用意をしておいて」
「わかった。手配しておく。それで、彼らと直に接触した感触はどう?」
「強かったよ。あたしも一対一だと勝てそうにない。でも、それだけ。今のままだと蒐集の途中で管理局に見つかって捕まるよ」
この目で見たヴォルケンリッターの強さは、たしかに恐るべきものだったが、個人の域を越えていない。個は数で圧殺し、業は技で封じれば良い。治安維持組織たる管理局には、そのノウハウは山ほどある。それに、現代は技術の進歩にともなって、一般的な武装隊員の力も十年前よりさらに上昇している。
デバイスの性能の上昇、魔法の体系化にともなって、個々の実力差が占める割合は減り、一騎当千は次第に幻想となっている。そして仮面の戦士は、お父様と共に半世紀を戦い抜いてきたからこそ、それを実感として知っている。
だからこそ、ヴォルケンリッターは管理局に見つからないように、そして管理局が介入できないよう戦わなければならなかったのに、初手でいきなりつまずいている。
「それはよくないわね。当分は表にでないつもりだったけど、こっちも状況に合わせて動きを変える必要がある……か。ところで、怪我人はやっぱりあの子?」
仮面の戦士は肩に抱えたウィルに視線をやる。それから、思わずため息をついた。
「うん、例の子。必要な行為だったと思うけど、ちょっと私情が入ったかもしれない。でも、ねぇ……」
この子が死ねば教え子が悲しんだかもしれないから、という言葉が浮かび、思わず自嘲する。
「やっぱり甘いよねぇ」
**
夜、空には月が出ている。戦いの夜には剣のように細かった三日月は、少しばかり肥えていた。
あの夜から一日。はやては次の日の再検査で特に異常が見られなかった――麻痺という異常はあるが、現状痛みを訴えていないので異常なし――ので、昼前に退院し、迎えに来たシャマルたちと外食してから家に戻った。今は用心のためと、早めに寝ている。
八神家のリビングには疲労困憊の騎士たちが、ソファに座って話をしている。
昨夜は全員が事情を共有し、それからずっと今後の方針について話し合いを続け、気がつけば朝。昼にははやてを病院に迎えに行き、夕方にはウィルのことで彼の知人と名乗る者――おそらく管理局の局員だろう――から電話があり、シャマルが応対した。すでに管理局は動き始めているようだ。
もちろんプログラム体の守護騎士がこの程度で疲れるはずがない。そも、体の疲れなら肉体を構成し直せば良いだけであり、魔力もシャマルに回復してもらえば良い。だからこれは精神的な疲れ。
「それで、主の病気については何かわかったか?」
「仮面の人が言っていたことは本当。はやてちゃんの足が動かないのは、闇の書の存在が、はやてちゃんの未成熟なリンカーコアに大きな負担をかけているから。……多分、私たちの実体化に魔力を消費していることも、無関係じゃないと思う」
最後のあたりは泣きそうになりながら、シャマルは語った。それは他の三人も同じ。
騎士たちは肉体的な痛みにはなれていても、精神的な痛みにまで強くはない。自意識はあっても、はやてが主になるまで、人と交流した経験がほとんどなかったのだからそれも仕方のないこと。自分たちが全ての元凶だという事実は、そんな騎士たちの心を深くえぐる。
「治す方法はないのか?」
「……確実とは言えないけれど、ないわけじゃないわ」シャマルはわずかにためらいを見せる。 「蒐集によって闇の書を完成させれば、はやてちゃんは正式な闇の書の主になれる。闇の書がはやてちゃんにかけている負担も、主の権限で制御できるようになる……と思うの」
「結局、蒐集か」ザフィーラがつぶやく。
「ザフィーラ、あの仮面の者はあれから現れていないか」
「昨日今日と周囲の気配を探っているが、監視するような気配は感じられない」
「信用できる人たちではなかったけど、あの人たちは私たちも知らない病気の原因を知っていた。もし出会うことあれば、協力してくれるようにお願いした方が良いかもしれないわね。それで、これからのことだけど……」
シャマルはそこまで言うと、ヴィータの方を向いた。
「わかってる、蒐集するんだろ」
「良いのか?」シグナムは問う。 「昨夜はあれだけ嫌だと言っていただろう」
「はやてが死ぬよりは良い」腹の底から絞りだすような声で、ヴィータは言う。 「でも、殺しはしない。殺さなくても蒐集はできる。だから、それが条件だ。戦うような生き方は、これで終わりにするんだ」
「わかった、二人もそれで良いな」
シグナムはザフィーラとシャマルを向く。二人も静かに首肯した。
「それでは――これより蒐集を始める」
シグナムは宣言した。
これが最善だと、最初で最後の主への裏切りだと、この先に幸せな生活が戻るのだと、この夜がすぎれば再び陽の当たる場所で生活ができるのだと――そう、信じて、騎士たちは蒐集を開始した。
残念ながらそうはならないことを、騎士たちはすぐに思い知る。
シグナムの蒐集。
一度目の蒐集対象は若者たちだった。おそらく、近くの遺跡の発掘隊だったのだろう。顔を隠すために仮面をつけたシグナムの姿は、さぞ怖かっただろう。なぜ、どうして、俺たちが何をしたんだ、悲鳴をあげて逃げ出した。そんな彼らを一人残らず捕まえ、リンカーコアを持つ者全てから蒐集した。彼らに非はない。ただ、魔力を奪うために襲った。
二度目の蒐集対象は一人だった。戦慣れしている戦士だったが、恐れるほどの相手ではなかった。ただ、彼が召喚した赤竜を切った時、切られた赤竜が最後に戦士の方を向いて倒れたのが、印象的だった。召喚師と召喚獣の間には強い関係があるという。主従か、友好かはわからないが、きっと彼らの間には大切な関係があったのだろう。
三度目の蒐集対象は悪党だった。魔導師は半分程度だったが、二十人以上はいただろう。魔法だけではなく、小銃なども使って反撃してきたため、少し手こずった。仲間が蒐集される様子を見て殺されると思ったのか、命までは取らないというシグナムの声も届かず、ひたすら命乞いをした男がいた。病気の母親がいるからと、頭を地にこすりつけて。その言葉が真実なら、男が死ねば彼の母は悲しむだろう。
四度目の蒐集対象は家族だった。夫は妻と子を守ろうとしたが、力尽き家族全員捕まった。夫は気を失い直前まで、妻と子には手を出さないでくれと言っていたが、彼ら全員から魔力を奪った。主を――家族を――守ろうとする己が、家族を襲った。
四度目の蒐集を終えたシグナムは肩で息をしながら、空を仰いだ。叢雲が月を隠し、星々さえも見えはしない。
主のための行動、何も間違ってなどいないはず。だというのに、纏わりつくような悪寒が消えない。先ほどから肉体を再構成しているのに、悪寒は消えない。
シグナムは一人、その場に立ち尽くした。
別の場所で、ヴィータとザフィーラも蒐集のために戦っていた。顔には、正体を隠すために仮面をつけている。
ヴィータは、敵を殴る直前に思わず手を止めてしまった。その隙に敵はヴィータに反撃。そしてヴィータがひるんだ隙に逃げようとするも、ザフィーラの一撃で沈んだ。
「敵を逃がしてどうする」
そう、敵に容赦しては駄目だ。敵――違う、それは人だ。主と同じく、人だ。彼にも人生があり、守るべきものがいて、やりたいことがあるのだろう。そんな人を傷つけた。その事実に、ヴィータは吐き気を覚える。
それを無理やり呑み込む。ここでやらなければ、はやてが死ぬ。だから続けなくては。
「大丈夫だよ。もうこんなへまはしねーって」
「……ならば良い」
そういうザフィーラも、じっと倒れた男を見た後で、殴った自分の手を見た。格闘は昔からのザフィーラの戦い方だ。なのになぜか、手には嫌な感触が残っていた。
シャマルは広域探査をおこない、蒐集対象を探していた。魔導師というだけではなく、人家から離れていて通報されず、できる限り魔力量が多い者。その他にも様々な要素から蒐集対象を決定し、仲間に連絡する。
今もまた、新しい蒐集対象を見つけ出した。そして近場にいる仲間に連絡する。その時、その蒐集対象がこれからどうなるのかを想像してしまい、彼女の端正な顔がかすかに歪んだ。
程度の差こそあれ、ヴォルケンリッターの全員が、他人を傷つけることに嫌悪を抱き始めていた。
はじまりは他者の認識。世界が主と敵しかいないという認識をやめること。
それがヴォルケンリッターを変え、今は彼らに『罪』という意識を芽生えさせる。
彼らは気付いてしまった。自分とは関わりのない他人も、自分たちと同じように生きて、自分たちが主を守ろうとするように、守りたい者がいる。
その認識はきっと、とても素晴らしいことだ。他人を思いやることができること、他人の痛みがわかること、人として最高の美徳。
そんな美徳を持つ者が、“それでも”人を傷つけなければならないとすれば――その時、美徳は持つ者を苦しめる最悪の毒に変わる。
道場に通うシグナム、老人たちとゲートボールを楽しむヴィータは、四人の中でも特に他人と触れ合うことが多かった。同時に、戦闘では直接他人を傷つける役割を持っていた。だから、最も早く、強い不快感を覚え始めたのが彼女たち二人なのは、当然のことだった。
だがそれは、遅いか早いかの違いでしかない。ヴォルケンリッターは全員が善良であるからこそ、ザフィーラとシャマルもいずれ辿りついてしまう。辿りついて苦しむ。苦しんでなお、続けなければならない。
全てははやてを生かすため。
騎士たちと主の関係は井戸の釣瓶のようなもの。はやてを上昇させるために、騎士たちはどんどん下がっていかなければならない。
はやてが一番上の陽の当たる場所に辿りついた時、騎士たちがいるのは井戸の底。
平和な日常と善良なはやてを見て、自分たちがどれだけ汚れているのかを自覚してしまえば、もう一緒にはいられない。
幸福な過去は戻ってこない。これは罪の意識という、生ある限り永劫に続く地獄の始まり。
***
(過去)
召喚されてしばらくたった日の夜、みんなで裏庭に出た。裏庭にはウッドデッキがあり、そこには小さな机と椅子。空は満天の星々と満月が輝く穏やかな夜天。
「本当に良いのですか? 主の命あらば、我らはすぐにでも頁を蒐集し、主は大いなる力を手に入れることができます。その足も、きっと治るはずです」
「自分の身勝手で他人に迷惑はかけられへんよ。それに、そんなおっきな力があったって、使う場所があらへんしなぁ」
「しかし、使命も果たさない我らが、ここにいるというのは……」
はやては愚直な騎士に困ったように笑いかけた後で、わざと怒ったかのように顔をふくらませる。
「もぅ、そんなこと気にせんでええのに。でも、そこまで言うんやったら、一つお願いごとをしてもええかな?」
「なんなりと!」
「みんなが現れる前も、私は幸せやった。誰にも迷惑をかけんように暮らしていられたらそれでええと思ってたのに、なのはちゃんたちが遊びに来てくれて、石田先生や士郎さんや近所のおばさんたちも親切で、ウィルさんは来れんでも、時々手紙をくれる。十分やと思ってた。でも……でもな、夜に家で一人でいると、時々すごくさみしくなってしまうんよ。欲張りやとわかってるんやけど、誰か一緒の家にいてほしいって思ってしまう。
だから、みんなにするお願いは――私の家族になって、一緒にいてください、ってことなんやけど……どうやろ?」
そして、はやてはシグナムの顔を見て、それからシャマルの、ヴィータの、ザフィーラの顔を見る。みんな、買ってもらったばかりの服を着ている。余所行きのような服を、昔の主は与えてもくれなかった服を、何着も何着も。
その顔には、いまだどう反応していいのかわからないという不器用さがあった。でも、その顔にはある種の期待が込められていた。そして、将であるシグナムを見ていた。
シグナムは彼らを代表して答える。
「わかりました、主はやて。あなたが望む限り、我々は貴方と共に在ります」
はやてが嬉しそうに微笑む。振り向けば、シャマルが微笑んでいた。ヴィータも恥ずかしそうにもぞもぞしながらも、口角が上がっていた。ザフィーラは表情こそ変わらぬものの、耳がピンと立っていた。
そこには、みんながいた。
(未来)
空は曇天。痛みを感じるほどに周囲の気温は低く、灰色の厚い雲が陽光を遮るので、日中だというのに辺りは薄暗い。灰色の世界に、氷のような白雪が降り注ぐ。
「このあたりで良いだろう」
「そうですね。このあたりで」
シグナムの前にはウィルがいる。その右手に握られた刃は深紅に濡れていた。シグナムが奪ったはずの右腕には、新しい腕が――銀色の義手(デバイス)がある。
「ありがとうございます。わざわざ付き合ってくれて」
弱ったシグナムに、ウィルがにこやかに笑いかける。今のシグナムは体に力が入らない。魔力はもうすぐ尽きてしまう。悟られないように隠してはいるが、きっと気付かれている。
「戦う前に、一つ聞かせてほしい」シグナムは問う。 「なぜだ?」
「理由は知っているでしょう」
「原因ではない。笑顔の裏に隠す、貴方の本心が知りたい。勝手ではあるが、笑顔のまま、感情を隠したままの相手とは……嫌だ」
わずかな空白の後、ウィルは困ったような笑みを浮かべ、訥々と語りだす。
「復讐なんて無意味だってことはわかっています。それにあなたたちのことも好きですから、抑えられるものなら抑えたいんですけど……どうやらそう簡単にはいかないみたいです。
どうしても許せないんですよ、あなたたちが生きているのが。……許せるものかよ、奪ったお前たちが生きているなんて。はやてと一緒に生きる、なんて」
ひび割れるように、ウィルの表情は崩れて歪む。先ほどまでの穏やかな笑みも感情も偽物ではない。ただ隠していた――これから見せる――顔の方が、笑みを塗りつぶすほどの圧倒的質量を持っていた。
「許せるか!! 奪ったお前たちに、幸福な人生なんて与えるものか! 贖罪なんて綺麗な言葉にくるんだ、安穏とした生活なんて認められるか! 奪われた者はもう帰ってこれないんだよ! もう、二度と! 何をしたって! 父さんはおれのところに帰って来てくれないんだ! なのに、なのに、……畜生ぉぉぉお!!
奪ったお前たちが奪われずにすむだと!? ふ、ふざけるな! そんな理不尽を認められるかよ! 世界の誰が許したって、おれはお前たちを許さない! お前たちにはどんな人生だって与えない! そうだ! 死以外、何か一つでも与えてやるものか!!」
子供が泣き叫ぶように声をあげる。奪われたから奪い返すという正しい論理――正しく発狂した論理。
叫びながらウィルは不可視の翼を生みだして向かってきた。シグナムの体には、もはや戦うほどの力は残っていない。それでも、彼女は自らの体に鞭打って戦う。それが彼女にとっての義務であり、彼女が得た答えだから。
脳裏に浮かぶのはあの日の記憶。赤い髪の男――目の前の彼の父親で、シグナムがその手で殺した人。全てを思い出した今、逃げることは許されない。
周りには誰もいない。二人の他には誰もいらない。ここは咎人と断罪者、二人だけの血戦場。
「ずっと一緒に」 彼女が願う
「殺すッ!!」 彼が吼える
(今)
空を見上げるシグナムに、水滴が落ちる。
雨。
初めは少しずつ、次第に勢いを増して雨が降る。足元の土は水を得て泥に変わっていく。
シグナムは騎士甲冑を解いた。雨にうたれる体は急速に温度を失う。寒さが悪寒を上書きしてくれて、少し楽になる。
心には一つの疑問。
――我々はどうすればいい
今のシグナムは、答えを持っていない。
代わりに持っている物と言えば、右手の剣。そう、剣――数多の人を切ってきたもの、数多の人を焼いてきたもの。それがとても忌まわしい物に思えて、彼女は思わず手を離した。
足元で水と泥がはねる。自分の手放したレヴァンティンが、泥に塗れ、汚れていた。心が後悔で埋め尽くされる。これまで一緒に戦ってきた相棒に、自分は何をしているのか。剣に罪はない。それを振るって来た自分たちにこそ罪はある。
では、主に命令されて戦ってきた自分たちも罪はないのか? それはおかしい。何かに強いられていたという理由で納得するのなら、この世の殺人者のほぼ全てに罪はなくなる。
では、罪とはなんだ?
明朗としない思考を抱えたまま、シグナムは泥の中に膝をつき、すぐにレヴァンティンを拾い上げる。
「すまないな、レヴァンティン……すまない、本当にすまない」
『Meister?(主?)』
シグナムは汚れたレヴァンティンを胸にかき抱いたまま動かなかった。ただ、すまない、と、何度も繰り返す。誰に謝っているのか、なぜ謝っているのかもわからず、何度も繰り返す。
誰か、誰でも良い。どうか教えてくれ。何が正しくて、何が間違っているのか。我々はどこで間違ってしまったのか。
我々は―――私は、いったいどうすればいい。
問いかけに答えるのは、雨音だけ。
「シグナム? ねえ、返事がないけど、どうしたの?」
心配したシャマルからの連絡で、ようやくシグナムは我に返った。
「あ、ああ。……大丈夫だ。なんでもない」
「そう。それなら良いけど。新しい魔力反応があったの。座標を伝えるから、すぐに向かって」
新たな蒐集対象を告げる言葉に、雨にうたれて青ざめた唇が歪み、剣を握る手が痙攣する。
涙の雨降る闇の夜は、まだ始まったばかり。
―――復讐編、開幕―――